途中ですヨ 2





 一流ホテルの上階にある、日本懐石レストランの一室。
 一介の高校生では決して踏み入れないような──否、普通の生活をしている限り、決して縁のないような店である。
 父に言われて着慣れないスーツに身を包んだ神崎は、襟元を苦しめているネクタイに指先を突っ込んで緩めながら、呆れた顔で品のいい室内を見回す。
 小さな玄関のような場所を潜り抜けた奥──ふすまに隔てられた奥にある部屋は、畳が敷き詰められた一室だった。
 チラリと振り返ったふすまには品の良い花鳥風月の模様が描かれている。
 入って右手に作られた床の間には、高そうな壷に花が飾られ、その上には掛け軸。──見慣れないソレを見た瞬間、神崎の後ろから部屋にあがった夏目が、ピュゥ、と小さく口笛を吹く。
 なんだ、と肩越しに振り返れば、夏目がサラリと髪を揺らして傾げるように神崎の耳元に口を寄せる。
「すごいよ、神崎君。この部屋、この料亭で一番いい部屋だよ。」
「そ、そうなのか?」
 驚いたように目を見張った城山に、夏目はニッコリ笑いながら頷く。──が、その顔の端のほうが、かすかに強張っている。
 さすがの夏目も、この部屋の高級さに緊張しているらしい。
「うん、来る前にネットで調べたから、確かだよ。」
 こういう料亭では、個室を取ると「部屋料」というのが別にかかる。その金額は、部屋の広さやグレードによって異なるのだが──まさに今、神崎達が居る部屋は、この料亭の「スイートルーム」とも言える場所だった。
「神崎君のお父さん、今回は張り切ってるねー。さすがは大事な跡取り息子の見合い、と言ったところか。」
 挙動不審に辺りに目を見やる城山が、夏目が口の中で囁いた言葉に、ハッとしたように神崎を見やる。
 神崎はその言葉に、イヤッそうに顔を歪めた。
「わざわざネットで調べたのか、お前?」
「うん、まーね。──情報収集はしとくにこしたことはないでしょ? ……相手の娘さんがどんな子なのか、全然、情報が集らなかったし、ね。」
 せめて、舞台がどんなものなのか、下調べはしておく必要はあるでしょ? と夏目は笑う。
 地の利を生かすためには、その地の利を知る必要があるからだ。──それは、ケンカにしても謀略にしても同じこと。
「……あー、相手のガキ、なぁ。」
 ガリガリ、と神崎が頭を掻いてぼやけば、先に部屋に入って上座に腰を下ろしていた父親が、ジロリと突っ立ったままの息子たちを見上げる。
「てめぇら、何してやがる。とっとと座れ。」
 くい、と己の横に並んだ三つの座布団を顎でしゃくる父に、神崎は、はっ、と吐き捨てるように息を吐く。
「わぁってるよ。つーか、てめぇ、はしゃぎすぎだろ。」
 しぶしぶ父の隣に腰を落とせば、夏目がお邪魔しまーす、と軽い口調でその隣に座り、更に城山がガチガチに緊張した体で下座に腰を落とす。
「あぁ? 一、てめぇ、親に向かってなんてぇ口の聞き方だ、オラ? 雪帆さんの前でんな口聞いてみろ、明日には口が耳まで割けると思えよ。」
 スーツ姿をビシリと着こなした姿は、どこぞのIT企業の社長さん、に見えなくもないのに、眉間に皺を寄せて顔をゆがめながら神崎に顔を近づける姿は、ガラの悪いヤクザそのものだった。
 ──まぁ、ヤクザの組長さんなのだが。
 それに、あぁぁんっ!? と神崎が額を突きつけてメンチを切る横手で、営業スマイルを浮かべた店員さんが、ペコリと丁寧にお辞儀をする。
 どんな客にも動揺しない、立派な店員さんである。
「それでは、ごゆるりとお過ごしくださいませ。」
 丁寧に三つ指をついてから去っていく店員に、あ、は、はい、と城山が仄かに顔を赤らめて返事をする。
 そのまま去っていく店員を見送った後、城山は落ち着かない様子で、目の前の机に置かれたお絞りを手に取った。
 暖かなソレを手に取り、ゆっくりと手を拭きながら、やっぱり落ち着かない様子で右に左にと目をやる。
 ソワソワする城山の横で、夏目はゆったりとした手つきで同じようにお絞りを手にして、
「そう言えば、おじさん。相手の人たちって、まだ来てないんですか?」
 神崎経由で聞いた話だと、見合い相手の人は神崎の父が副業でいくつか持っている建設会社の取引先の人間なのだという。
 つまり、神崎父のほうが「上」の立場と言うことだ。
 見合いの席のノウハウとかは分からないけれど、普通は下の立場のあちら側が先に来るのではないのだろうか?
「まだだろう。」
「あぁっ!? 舐めてんじゃねーのか、あっち側っ!」
 当たり前のようにシレっといわれて、神崎が眉を跳ね上げる。
 常日頃から、相手に舐められたら負けだ、とかなんとか言ってるオヤジの態度に、苛立ちを覚える。
 がしっ、と手を出して父親の襟首を引っつかむと、ぐい、と顔を寄せる。
「こんな話、とっとと断れっ! つーか断っちまえっ! 舐められすぎだろーがっ!」
 神崎組の名が廃るっ! ──と。
 叫ぶ神崎の後ろ頭を引っつかみ、父は問答無用でその額に、ガツンッ、と頭突きをかました。
「……がはっ!」
「うっせぇっ! 相手は俺を舐めてなんかいねぇっ! それくらいわからんのかっ!」
「わかるかよっ!!」
 思わずのけぞった神崎の背中をさりげに支えながら、夏目はヒョイと肩を竦める。
 舐めてなんかいない、も何も──約束の時間の5分前かその前に来ない相手が、舐めている、以外の何と形容できようか。
「ってか、もう時間だって11時過ぎてんだろーがよっ!」
 噛み付くように怒鳴る神崎に、こくこく、と城山が頷く。
 今日、11時にはこの料亭に入るぞ、と言ったのは神崎の父だ。だから城山も夏目も、10時前には神崎家に集ったのだ。
 ──この見合いに同席して、神崎の望みどおり、見合いをブチ壊すために。
 ところがどうだろう? 蓋を開けてみれば、ホテルに到着したのが11時を少し過ぎたくらいだというのに、まだ相手方は来ていないときた。
 約束の時間が11時にしても11時半だったにしても、いくらなんでも、もう現れていないといけないだろう。最低でも15分前に現れるのが礼儀ではないのか、というのがこちら側の見解だった。
 この事実からしても、相手の──雪帆さんとかいう神崎父の初恋の女性、というのも、どうかと思う。
 あっちも乗り気じゃないのだろうな。というのだけは伺い知れた。
 まぁ、普通の中学生の女の子は、ヤクザの跡取り息子と結婚したいなんて思わないと思うけど。それでも、父の仕事の接待先の社長子息相手なのだから、もう少し気を使うべきだろう。
 この時点で、夏目の会ってもいない相手への心証は最悪だった。どれだけ「雪帆さん似」の美人でも、なんでも、絶対に神崎君と親密になることなど許さないぞー、という気持ちである。
 ──が、しかし。
「バカもんっ! 見合いの開始時間は、12時だっ!!!」
 神崎父がすぐに放ったセリフにより、神崎、夏目、城山の頭の中は真っ白になった。
「…………じゅ、じゅうに、じ?」
「おう!」
「え、で、でも、おじさんは、11時くらいにはココに、と……。」
 呆然と問いかけた息子に、父は当然だと言うように頷く。
 はっ、と我に返った夏目が、そうでしたよね? と尋ねると、それにも神崎父は頷いてくれた。
「雪帆さんは昔から時間にはきっちりしていたからな。きっと11時半にはこちらに到着するだろうから、それよりも早く到着したかったんだ。」
「なんでだよっ!!! それ、マジで意味わかんねーしなっ!?」
「バカか、てめぇは。んなの考えたら分かるだろーがよ。
 20年以上ぶりに再会する初恋の君に、一刻も早く会いたかったからだろーがっ!!」
 当たり前だろーがっ! そんなこともわからんのかっ! ──と、逆切れされて、神崎も夏目も呆然とするしかなかった。
 なんだソレ? っていうか、ほんと、何ですか、その純愛っぷりは!
「同窓会とかにも、こういう身上で参加できなかったかんなぁ。──はぁ、雪帆さん、そりゃもう綺麗になってんだろうなぁぁ。」
 顎に手を当ててフルフルと期待に身を震わせるバカ父を、神崎は顔を歪めて見るしかなかった。
 無言で肩越しに夏目を振り返り、コレ、どうするよ? と指で父を指し示す。
 普段なら、父親になんて無作法なことしやがるっ、と殴ってくること間違いなしの父であるが、もう後十数分で初恋の人と会えるということに頭が一杯のようだった。
 うっとりと、自分の前の席を見つめている始末で、神崎達にはチラリとも注意を払わない。
「──神崎君のお父さん、本当に初恋の人のことが好きなんだねぇ。」
 今はもう、それしか口にできなかった。
 そんな夏目に、バカ言え、と神崎はブルリと身を震わせる。
「おまっ、能天気なこと言ってんなよ、夏目ッ! これがもしお袋に知れたら……っ!」
「うん、凄い修羅場になりそうだよねー。」
 あはは、とやっぱり能天気に笑う夏目に、笑い事じゃねぇ、と神崎は頭を抱えたくなった。
 と同時に、ことの真相を夏目は悟る。
──あぁ、つまり、神崎父は、「この見合いの真相」を、あくまでも神崎母に隠しとおしたかったのだ。
 ヤクザの息子でありながら、ケンカ上等ばっかりで女ッ気がまるでない一に、婚約者までは行かずとも婚約者候補を作るくらいはしてもいいだろうだとかなんだとか、口先では色々言っていたが、何のことはない。
 とどのつまり、神崎父は、初恋の人に会いたかっただけなのだ。
 息子をダシにしてでも。
「……けど、通りで、相手方の情報が全然つかめないはずだよね。」
 神崎父は、妻が妙な勘繰りを持たないように(別に妙ではなく真実だと思うのだが)情報規制を行ったのだろう。
 それでは、あくまでも一介の高校生に過ぎない夏目には情報収集が無理だ。
「──ま、でも、それなら最後の手段を使って正解、ってことかな。」
 神崎君の願いを叶えるためなら、何のその。……神崎君が多少イヤがる手段を使ってでも、と、夏目は楽しそうな──言い換えれば、悪魔のような笑みを浮かべる。
「さ、最後の手段、だと?」
 恐る恐る隣から問いかけてくる城山に、夏目はニッコリ笑って、ポケットに突っ込んだままだった携帯をポンポンと叩く。
「そ、最後の手段。」
 さて、どこで現れるかな〜、なーんて楽しそうに笑う夏目に、城山はゾクゾクした物を覚えて、ブルリと背筋を震わせた。










 石矢魔高校3年、神崎一に見合い話があったのは、今から一ヶ月ほど前に遡る。
 その日、学校から帰ってきた神崎は、帰るなり父に呼び出された。
 取引先に行ってきたところだと言う父は、妙の上機嫌であった。──そして、その上機嫌のまま、父はこう言ったのだ。
「一、来月の第二日曜に、見合いをするぞ。」
「…………誰が?」
 机を挟んで向かい合った神崎は、立派な掛け軸と仁義の文字を背後に背負った父を、ぽかんと見上げた。
 そんな息子に、父は有無を言わせずのたまってくれたのである。
 どういうことだと詰め寄れば、浮かれ気分の父はその気持ちのまま説明してくれた。
 曰く、今日行った取引先で、初恋の人の夫だという人に会ったのだ、と。なんでも、相手の人が名刺を取り出すときに、名刺入れの反対側に入っていた夫婦写真を見て知ったのだと言う。
 初恋の人、とは言っても、最後に会ったのは中学の卒業式のとき。──あれから20数年もの月日が経過しているのだから、彼女が結婚していても、子供が居ても当たり前だ。
 だが、神崎父はそれに運命を感じた。
 彼女には、年頃の娘がいたのだ(年頃って、14歳だろーが、と神崎はツッコンだが、父に無視された)。
 幸いというか、ヤクザ的にはダメダメというか、息子の一には女っ気がない。高校に入った時から、ヤクザの跡取り息子がソレじゃいけねぇと、あっちこっちの夜の街に引き連れてはみたが、どうも神崎は玄人系の女性や不良系の女子は好みではないらしく、一向にソッチに興味を示さない。
 いや、父の知らないところで興味は示しているのだろうが、ある程度女になれておいた方がいい業界である以上、父的には不満だった。
 そこに来て、コレだ。
 昔の神崎父も、ヤクザは硬派だと、女関係はからっきしだったのだが、雪帆に岡惚れして以降は──まぁ、それなりに色々やってきたものだ。彼女自身とは何かあったわけではないのだが、女に興味を持つきっかけになった女性との再会は、神崎父にとっては、天啓のように思えた。
 そこで、ちょっと強引に話を進めてみたのである。
「はぁぁぁっ!? イヤだっ! つーか、なんで俺がんなことしなくちゃなんねーんだよっ! ふっざけんじゃねーぞっ!?」
 俺は今、急がしいんだっ。そんなことに構ってられるかっ!
 神崎は、当然のように座布団を蹴飛ばす勢いで立ち上がり、抗議をした。
 当たり前だ。何が哀しくて、高校3年の男が、親に婚約者の用立てをしてもらわなくてはいけないのだろう。
 恥ずかしいったらありゃしない!
 しかも、同じ組関係の──政略結婚を前提とした見合いなら分かるが、相手はカタギの女性ときた。玉の輿でもなけりゃ、世話になった縁がある断れない相手というわけでもない
 正真正銘、父が無理矢理進めた「カタギ」の、しかも中学生である。
 誰がそんなガキ相手に、見合いなんてするものかっ! 笑いものになるわっ!
 というのが、神崎の言い分だ。
 しかし、父は決してひいてはくれなかった。
「黙れっ!! これは命令だっ!! お前は来月の第二日曜に、雪帆さんの娘さんと見合いすんだよっ!!!」
 がんっ、と片膝を立てて父は叫ぶ。
 神崎もけれど、決して引くことはない。
「ふっざけんな、バカオヤジっ! なんで俺がガクチューなんかと見合いしなくちゃいけねーんだよっ!」
「んなの決まってんだろーがっ! てめぇに女ッ気がなさすぎっからだよっ! オヤジの心配りを素直に受け取りやがれっ!!」
「んな心配りいらねーんだよっ!!!」
 ガンガンと叫びあい、今にも殴りあいそうな勢いで、二人はググッと顔を近づけあう。
「いいから、てめぇはその日にスーツ着て見合いすりゃいーんだっつーのっ!!」
「ふっざけんなぁぁっ!!!」
「もう約束はした。それを断るたぁ、そっちの方が神崎組の名折れだろうがっ!!」
 神崎組の名折れ。
 そう口にされては、ぐっ、と神崎は口を噤むしかなかった。
 その瞬間を父は見逃さない。
「そういうことだ。この話はコレで終わりだ。当日までもう何も聞くんじゃねーぞ。逃げることも許さねぇ。──んじゃ、行け。」
 威厳たっぷりに上から言われて、神崎はそれ以上何もいえなかった。
 くそっ、と短く吐き捨てた後──それでも、必死に何かあらがえはしないかと頭をひねって搾り出した結果。
「──……じゃ、じゃぁ、せめて、オヤジっ!
 けど──見合いじゃねぇっ! お食事会って形なら、行ってやっても、いい。」
 苦し紛れにそう叫んでいた。
 中学生女子と見合いという名目よりも、これのほうがずっとマシだと、そう思ったからである。
 神崎父的にも、初恋の君に会うことが大前提にあるせいか、息子が出るならそれにこしたことはないと、それで納得してくれた。
 かくして、神崎は、自分の取り巻き二人を連れて──見合いぶっ潰し計画を実行すべく、見合い会場にやってきたのであった。








 ──が、しかし。








 お連れ様がお見えになりました、という店員の声の後に開いたふすまの向こう側に立っていたのは、玲瓏な美少女だった。
 その少女の前に、三人の大人が立っている。
 頭をフカブカと下げて、神崎父に口頭で挨拶を述べていたが、神崎の耳には入ってこなかった。
 それよりも何よりも、彼らの後ろに立つ着物姿の美少女に目を奪われた。
 銀色の髪に華やかな花簪。シャラリと揺れるソレが触れた頬は、まるで雪のように白い。
 細い面に折れそうな華奢な首筋。品の良い着物に包まれたその姿は、とても中学生には見えなかった。
 パッチリとした目を益々丸く見開いて、赤い唇を薄く開きながらこちらを呆然と見ている。
 その驚いた顔も美しい。
 思わず神崎は、呆然とその姿を見上げた。
 隣で夏目も城山も、驚いたように少女の姿を見上げている。
「この子が……、神崎君の?」
 聞こえないようなひそやかな声で夏目が呟く。
 振袖は、未婚の女性が着る晴れ着だ。──この見合いの席で、このような服を着るのは、確かに見合い相手に他ならない。
 夏目の声にも唖然とした色を宿っているのには気付いたが、神崎はそれに答える余裕などまるでなかった。
 ……中学生なんて、ガキだと思っていた。
 事実、聖石矢魔に移ってから同じクラスで机を並べている一年生の谷村だとか花澤は、ガキ臭い雰囲気とこうるさいおしゃべりとで、とても女としては見れない。
 せいぜいが、大人びた雰囲気の梅宮くらいが許容範囲だが──それでもやっぱり、丈の長いスカートや、着崩した制服、引っかけた特攻服には気が萎える。
 とどのつまり、夏目曰く「神崎君って、なんだかんだ言って姐御系が好きなんだけど、見た目は貞淑で清楚で着物美人が好みなんだよね。」ということになる。
 神崎には自覚はないが、それで言うと、目の前の美少女はまさに好みのストライクゾーンだった。
 それを知っている夏目は、ちょっとマズイかな、とチラリと思う。
 目線をあげれば、口元に手を当てた形で、こちらを見下ろす美少女の──おそらくはヤクザの組長である神崎父に怯えているのだろう──、滅多にお目にかかることのないほどに整った顔が見えた。
 けど、見とれて動きが止まるほどではない。神崎たちには、学校で免疫が出来ているからだ。
 同じクラスの女子には、金髪美女だの黒髪の大和撫子だのと言った、上玉の美少女が居る。それを毎日のように見ているおかげで、目の前の着物美人に意識を奪われることはない。
 それでも、その白い肌がまぶしすぎて、一瞬目を細めたところで、──ヒョッコリ、と……、決してココでは会うはずのない顔が、覗き込んだ。
「「「「あ。」」」」
 思わず声が零れてしまったのも、仕方がない。









 本当に思いも寄らなかったからだ。
 四人が四人とも、呆然と顔を見合わせた。
「男鹿っ! お前、なんで……っ!」
 がたっ、と立ち上がったのは神崎だった。
 その声を聞きながら、夏目は、やっぱり男鹿ちゃんか、と目を細める。
 男鹿の肩口からは、ヒョッコリと緑色の赤ん坊が顔を覗かせる。
 そんな珍しい髪色の赤ん坊を連れているのは──しかも素っ裸の──、男鹿以外にはありえないだろう。
 ということは、やっぱり、着物美少女の後ろから顔を覗かせたのは、男鹿だ。
 へーぇ、と夏目はニヤリと口元に笑みを浮かべる。
 これは驚いた。男鹿は、思ったよりも色々なところに出没するらしい。
 流石は男鹿ちゃん、面白いなぁ〜、興味深いや。
 そう思いながら、夏目はなぜココに男鹿が居るのかが知りたいと、ますます楽しそうに目元を緩めた。
「驚いたなぁ〜。神崎君のお嫁さんになるかもしれない子だっていうから、どんな子なのか一目見ておこうと思ったんだけど……。」
 その辺りで、ギロっ、と神崎から鋭い一瞥が飛んだが、夏目は気にせずに続ける。
 神崎的には、これは「見合い」ではなく、父の知り合いの一家との「食事会」なのだろうが、相手はそのつもりではないはずだ。
 だから、あえて、そう口にして開いての出方を伺う。
「まさか、男鹿ちゃんがついてくるなんて、ね。」
 一体、どういう関係かなー? と目を細めて美少女の顔と、男鹿とを交互に見やる。
 その目に何を思ったか、美少女は怯えたように身体を震わせると、かすかに身体を男鹿の方に寄せる。
 男鹿はソレを見下ろすこともしないまま──ごく自然に、腕を前に押し出すようにして少女を半分隠す。
 守りなれている。
 そういえば、男鹿にはきょうだいが居るという話をしていたのを小耳に挟んだことがある。──姫川ならば、その情報も手にしているだろうが、夏目にはソレが妹だったのかどうか、確認しようはなかった。
 そろり、とこわごわと目線をあげる美少女の睫が、遠目に見て分かるくらいに長い。女の子は付け睫やマスカラで睫を長く太く見せるが、彼女の場合もそうなのだろう。
 それでも、それが自然すぎるくらいに似合っている。
 彼女は、キュ、と眉を寄せて男鹿の腕の後ろに、すす、と更に半身隠す。
 男鹿はそれをまるで気にもとめない。これは益々、彼女を守りなれているということだ。
 ──そういえば、相手の苗字を聞いていなかったが(何せ、神崎父は相手のことを雪帆さんの娘さん、としか言わなかったからだ)、もしかしたら「男鹿」なのかもしれない。
 となると……神崎君、この子と結婚したら、男鹿ちゃんと兄弟になっちゃうよ〜、と。
 夏目はそれも面白そうだと思いながら、ちら、と神崎に目線を向ける。
 神崎は、なぜか難しい顔をして、美少女と男鹿とを見比べてた。二人がどういう関係なのか、気になるのだろう。
 と、そこへ、
「男鹿君、お知り合いなの?」
 神崎父と挨拶を交わしていた大人三人のうち一人──美少女と同じ髪の色をしたスーツ姿の女性が、口火を切った。
 その言葉に、はっ、と夏目も神崎も目を見開く。
 30代半ばくらいの年に見える女性は、着物の美少女と良く似ていた。彼女が後20年も月日を重ねればその女になるだろう程度には。
 美少女が持つ、この年齢ならではの危うい美しさはなかったが、「雪帆」だと思われる女性もまた、なかなかの美人である。
 彼女が美少女ほどの年齢のときに「恋」をした神崎父が、未だに忘れられない、というのも理解できる美貌である。
 男鹿は、雪帆の言葉に、あー、と頷くと、短く答えた。
「高校の先輩。」
 その言葉は、簡潔で他のことは一切含まない。男鹿らしいと言えば男鹿らしいのだが、そこには相手に対する甘えのような物が見えた気がした。
 きっと、お互いに付き合いが長いのだろう。
「あら、そうなの、偶然ね……。」
 男鹿を振り返っていた雪帆が、そのまま美少女に目線を向ける。
 彼女は、驚いたように顔をあげて、母親であろう女を見上げて、はにかむように微笑んだ。
 その笑顔が、まるで野に咲いた野生の薔薇のように美しい。
 思わず、ハッ、として神崎が目を見張る。
 それに気付いたのか、少女は顔をあげて──ふ、と神崎に目線を当てた。
 まっすぐに視線が絡み、神崎が小さく息を呑んだのが夏目には良く分かった。
 それに、かすかな不安を覚えながら夏目が美少女に目を向けた瞬間。
 彼女は、年に似合わない妙に婀娜めいて見える仕草で、ちら、と、視線を流した。
 瞬間、
「──……っ!」
 息が、止まるかと思った。
 カッ、と頬に熱が集るのが分かる。
 少女は、そんな男3人の様子に驚いたのか、ますます男鹿の腕の後ろに隠れてしまった。
 さすがに半分以上隠れた少女に、男鹿は呆れ半分に肩越しに彼女を見下ろす。
 肩に乗ったベル坊も、だー、と後ろに隠れた少女の髪を掴む。
「ちょ……、ベル坊、ダメだって……っ。」
 小さく、あらがうような小さな声が聞こえて、神崎は男鹿の腕の向こうを見つめる。
 その目は、すでにもう少女から目を離せないと言っているようにしか見えなかった。
 それを横目で確認して、参ったな、と夏目は思う。──思うと同時に、面白くなりそうだとも思った。
 ──と、いうか。
「……で、結局、男鹿ちゃんは、なんでココに居るのかな〜?」
 そこが問題である。
 少女の母は、男鹿のことを苗字で呼んだ。ということは、男鹿と彼女が兄妹だという可能性はないわけだ。
 ならば、一体、どういう関係だと言うのか。
 イヤな見合いの席に、自分の恋人を連れてくるという話は、ドラマや映画で良く聞くが、まさか今回もそういうことなのだろうか?
 だが、男鹿には金髪美女の嫁がいる。しかも背中には子供も背負っている。それで神崎相手に恋人役なんて通じるはずもない。
 一体、どういうつもりでココにいるのか。
 ちょっとした事件になりそうな気がして、心躍らせる夏目の言葉に、あぁ、と神崎父がそこでようやく、初恋の人以外の人間に目をやった。
 この部屋の中に初恋の君が入ってきてからずっと、神崎父は延々と彼女に話かけていたのだ。──曰く、同窓会にはいけなくてだとか、変わらず美しい、いや一層美しくなっただとか。
 浮かれきって、雪帆の手を取ってあれやこれやと話す姿に、隣に立っていた旦那さんが、なんとも言えない顔をしていたが、それにも気付いていない様子だった。
 その神崎父が──もし妻に見つかったら、「ちょん切るわよ」と言われるに違いないデレデレと緩んでいた顔を、キリリと改める。
「雪帆さん、そちらの男性は? 確か息子さんがいらっしゃると聞きましたが……。」
 あくまでも初恋の君以外は目に映さない親父に、神崎は半目になる。
 ほんと、見合い話は二の次で、初恋の人との再会の場なんだな、と思わせる一幕である。
「あ、は、はい……。」
 雪帆は、ちょっと困ったように微笑んで──いつまでも神崎父が手を離してくれないので困りすぎるくらい困っているのだろう、男鹿と美少女を振り返る。
「そちらは、息子の貴之の友人で……。」
「男鹿っす。」
 ぺこ、と頭を下げる男鹿に、つられるように美少女も頭を下げる。
 ついでにベル坊も頭をさげた。
「……あん? 貴之?」
 どこかで聞いた名前だな、と神崎は眉を寄せる。
 名前はうろ覚えだったが、それでも、予測はついた。
 男鹿の友人、と言えば一人しかいないからだ。
 その顔がポンと浮かんだ瞬間、あ、と、答えが出た。
 男鹿の背に隠れるような格好になった美少女と、男鹿の友人は、良く似通っていたからだ。その銀色の髪も、白い肌も、二重のパッチリとした瞳も。
 彼女の母親と同じくらい、良く、似ていた。──血縁であることを疑わないほどに。
「──って、……それじゃ、古市君の?」
 とたん、美少女は神崎と夏目たちの方に目をやり、キュ、と唇を引き締める。
 なにやら覚悟を決めたらしい彼女は、男鹿の腕の横から姿を現し、ピンと背筋を伸ばした。
 ス、と目を細めて両手を前に重ねて、リンとした面差しで神崎たちを見据える。
 美しい着物姿とあいまって、その姿は酷く魅力的に映った。
「いつも兄がお世話になっております。古市、……ほのかと申します。」
 ペコリ、と丁寧に腰を折る美少女に、ふるいち……、と、夏目が舌先でその名を転がす。
 あぁ、やはりそうだ。
 彼女たちは、古市家の人間なのだ。
 つまり、どういう偶然なのか、神崎父の初恋の相手は古市母であり、見合い相手は古市の妹と言うことだ。
 神崎は、ゆっくりと頭をあげる少女──ほのかと名乗った娘を見て、ほのか、と口の中で名を繰り返す。
 ほのか。
 どこか胸が温かくなるような、優しい色の名前だった。
「それじゃ、古市も居るのか?」
 城山が、おずおずと尋ねるのに、ほのかはチラリと視線を向ける。
 その双眸に、城山はハッと小さく息を呑む。
 やる気なさげに室内をボンヤリと見ている男鹿の後ろには、誰かが続いているような気配はない。
 だが、男鹿がいるなら古市が居なくてはおかしい──と、思うのだが。
「いえ、兄は今日は来ていません。……その、体調を崩しまして、代わりに兄の友人である男鹿、君に来てもらったんです。」
 慣れない着物で不安だったものですから、と。
 そうスラスラと語る少女の言葉に、疑問は覚える。
 それなら普通、親戚のお姉さんとか、そのあたりを連れてくるものではないのか? せめて、男鹿ではなく男鹿嫁とか。
 なのに、その美貌を見つめていたら、まぁ、別にいっか、と思えてしまう。
 とどめのように、にっこり、とあでやかに微笑まれたら──あぁ、哀しいかな。男は心ごとその笑顔に奪われてしまう。
 思わず、ぼー、と見とれてしまった面々に、古市家の両親は小さく──いや、大きく溜息を零した。
「えーっと……神崎さん。立ち話もなんですし、お座りになりませんこと?」
「えっ、ええ、そうですねっ! 雪帆さんっ、ささ、まぁ、こちらへどうぞっ!!」
 ──神崎組の組長である男は、いくら美人でも年若い娘には食指は動かないらしい。
 同じ年である初恋の君の言葉に、コクコクと激しく首を揺さぶり、彼女の手をとったまま、上座に古市母を誘った。
 自分の席の目の前に彼女を座らせると、そのままスキップしそうな浮かれ具合で神崎の隣の席に戻る。
 そうなると、自然、母の隣の席には「ほのか」が座ることになる。
 一応見合い相手の正面に、他の誰かが座るわけには行かないからだ。
 そして、「ほのか」が座ったので、男鹿もその隣に当然のようにあぐらを掻いて座った。
 残された古市父は、なんとも言えない顔で、無言で下座に座った。
 そして、お誕生日席に古市父の上司が座り──、
「えー、では、神崎家、古市家の食事会を、始めさせていただこうと思います。」
 なんとか見合いが始まるのであった。













 着物に皺が入らないように気をつけながら腰を落とし、はぁ、やれやれ、と古市は目の前に座る人たちに気付かれないように溜息を零した。
 ──いや、あまり大きく溜息は零せない。だから、そ、と唇を震わせるようにして吐息を漏らすようにする。
 この部屋に入ってからちょっとしか経ってないのに、もうすでに10日くらい過ごしたかのように疲れた。
 肩なんてバキバキ言いそうだ。
 だからと言って、首をひねったり肩を回したりできるはずもなかった。目の前には、同じクラスで机を並べている先輩たちが居る。
 しかも、こちらを疑っているのか(いや、そりゃ疑いたくもなるだろうけど!)、神崎が古市の一挙手一動を見つめているのだ。
 見つめている、といえば聞こえがいいが、今はどちらかと言うと監視されているようにすら見える。
 うぅ、と、ちょっぴり肩身の狭い思いになった古市に対し、男鹿は緊張感のないままその場に腰を落とそうとする。
 その足が隣の座布団にまで伸びた振袖の裾を踏みそうになっているのを見て、古市は慌ててソレを自分の方に引っ張る。
 すばらしい柄の着物の袖が、男鹿によって台無しにされてはたまらない。
 コレは、数年後にほのかが着ることになる振袖だ。もし今粗相をして破ったり汚したりしたら、どうなるか分かったものではない。下手をしたら弁償しろとか言われかねない。
 どか、と座った男鹿の隣には、所在なさげな父が納まる。
 それを横目で見ながら、さて、どうしようかと古市は首を傾げる。
 全員が席に納まると同時、この席の幹事とも言うべき父の上司が、開始の合図を告げる。
 開始なんてしなくていーです、といいたいのが本音だったが、そういうわけにも行かない。
 さて、どうしたものか、というか──、なんでココに、夏目や城山が居るのだろうか?
 今更ながらその事実に疑問を覚えて、古市はチラリとこちらをうかがっている夏目と城山に目をやる。
 その視線を受けて、夏目はにこりと笑い、城山は何故か慌てて顔を赤らめながら視線をそらす。
「うぅ……。」
 もう、コレはあれだ、と思った。
 絶対バレてる……っ! 俺が古市貴之だって、ばれてるよっ!!!
 だって、あの夏目の目は、アレだっ。「古市君ったら、着物着て、ほのかです、だってー、あははは〜。」とか思っている顔だよっ!
 でもって、城山のあれは、武士の情けというヤツだっ! もう、最低っ! ほんっと最低っ!
 なんでココにこの二人を連れてきてるんすか、神崎さんっ!? せめて、せめてあんた一人なら、まだなんとかなったのにぃぃぃーっ!!!!
 今すぐ頭を抱えて悶絶したい気持ちを、ぐ、と堪えて、古市はその憤りを隣に投げ出された男鹿の手を握ることで堪えた。
 ぎゅぅぅ、と強く握り締めているのに、男鹿はチラリとこちらを見下ろすだけで、何も言わない。痛むフリもしない──ほんとムカつくヤツである。
「それでは、改めて紹介をしましょうか。神崎さん。」
 古市の父の上司である狐目の男が、神崎父に向かって古市家の説明を始める。
 自社の人間である古市父、そして上座に座ることになった古市母、次にほのかの名を口にしたところで、古市は頭を下げる。
 その拍子に、しゃらん、と銀色の髪を彩っていた花かんざしが揺れて音を立て、ベル坊がキラキラと目を耀かせる。
 男鹿の肩を横ばいに移動して、古市の髪に手を伸ばそうとするのを見て、男鹿は仕方なくベル坊を引っつかんで自分の膝の上に落とした。
「そして、ほのかさんの横に座っているのが、お兄さんの貴之君の代わりに出席します、男鹿君です。」
「どうも。」
 ペコ、と頭を下げて、男鹿はベル坊を抱きかかえると、ニィー、と満面の笑顔を顔に浮かべる。
「ベル坊、笑顔だ、笑顔っ。」
「ダッ!」
 ひそひそ、と耳打ちした後、男鹿はベル坊と共に、悪魔の降臨にしか見えない笑顔になった。
 その、恐ろしいくらいの顔に、ひっ、と、さしもの神崎たちも喉を引きつらせた。
 平気な顔をしているのは、古市家くらいのものである。──何せ、古市両親も、男鹿とは10年前からの付き合いなので、慣れているのである。
「ベル坊って言います。どうぞよろしく。」
「──……う、ううう、うむっ。」
 ちょっと尻をむずむずさせながら、神崎父が重々しく頷く。
 神崎はソレを見て、なさけねーな、とうそぶく。
 古市は、逆に男鹿を横目で見ながら、「おまえ、その顔怖ぇーよ。」と肘で軽くつつきながら、笑顔を引っ込めるように忠告する。
 そんな古市に、なんでだよ、と男鹿とベル坊はブー垂れる。
 ばーか、と、いつものように肩と肩で小突きあうようにじゃれあう二人を、夏目は意味深な表情で見つめる。
「古市君、こちらが神崎さんのご子息とそのご友人の方々だ。」
「今日は、お忙しい中、ご足労ありがとうございます。」
 丁寧に頭を下げる長身の男の言葉に、はっ、と神崎は呆れの表情を浮かべる。
 そもそも、元々は神崎父のわがままから始まった見合いだ。
 本来、わざわざご足労ありがとうございます、というのは神崎側なのだ。
 なのに、立場が下というだけで、頭を下げて礼を言わなくてはいけない……そんな古市父に、同情めいたものがチラリと浮かんで消えた。
「仲、いいんだね。男鹿ちゃんと古市君の妹さん。」
 顔を寄せ合うようにして、何かをボソボソと呟きあっている二人を前に、夏目はゆったりとした口調で問いかける。
 そんな彼を、はっ、と古市は見やった。
 そして、口元に小さく手を当てる。
──こ、これはあれかっ! 本当は古市君なんだよねー? と言っているに違いないっ!
 あぁぁぁ、どうしよう……っ!!
 かすかに焦りながら、古市は、にこ、と少々引きつった笑みを浮かべる。
「そそ、そーですかぁ?」
 意識して声高にそう言えば、隣で男鹿が、気持ち悪い、という顔を見せる。
 そんな男鹿の足を、ギリギリと指先で抓りながら、古市は夏目に、「後で説明しますからっ!」という想いを込めて、じ、と見つめてみた。
 ドラマやマンガでは、見合いの席というのは、ころあいを見計らって「後は若い者で……」という展開になるに違いないのだ。
 そうなったときに、説明する機会があるに違いない。
 きっと怒鳴られることは間違いないが、それでも、自分が好んで女装して神崎の嫁になりたい、なんて勘違いされるよりもマシだ。
 その一念を込めて見つめてみたら、夏目は困ったような笑みを口元に刻んで、こりこり、と頬を掻く。その目元がかすかに赤く見えるのは、どうしてだろう?
 緩く古市が首を傾げた──そのタイミングで。

「失礼いたします。お食事をお持ちいたしました。」

 ふすまの向こう側から、静かな女の声が聞こえてきた。
 は、と顔をあげた古市の隣で、おお、と男鹿が嬉しそうな声をあげる。
 美味い飯が食えると聞いて、このバカは朝食を抜いてきたのである。──普通、懐石料理というのは順番に出てくる上に1個の量が少ないから、物足りなくなるぞ、と言ったのだが、それなら古市の分を食うと言って聞かなかったので、放ってくことにした。
「先付けでございます。」
 黒いお盆のような物の上に、綺麗な器が三つ、盛られた物が、ことん、ことん、と上座から順番に置かれていく。
 男鹿は、見た事もないソレに首をかしげる。
「古市、なんだこれ?」
「今はほのかと呼べ。──っていうか、俺もわからん。」
 ぼそぼそと話ながら、チラリと母のほうを伺い見る。
 母はソレを見て、小さく古市に向かって囁きかける。
「前菜みたいなものよ。たか……ほのか、あんたは全部食べないようにしなさいね。」
「え、なんで?」
 きょとん、と母を見上げる古市に、母は呆れたように机の下で、ぽんぽん、と己の腹を軽く叩いた。
「着物を着てるから、おなかが苦しいでしょ。最後まで食べれなくなるもの。最初からセーブしときなさい。」
「──……っ。」
 ハッ、と、古市は目を見開く。
 そうか。
 着物を着たときから、おなかが苦しくて──正直、座ってからますます腹部が締め付けられているなぁ、とは思っていたのだ。
 この状況で腹いっぱい飯を食う、のは、確かに無謀だ。
 母に従って、神崎父が手をつけるのを待ってから、古市も男鹿も箸を取り上げる。
 興味津々に料理をつつく古市を、神崎たちはジー、と見守っている。
 その視線に気付いて、古市は顔をあげると、神崎は慌てて視線をずらして、箸を手に取る。
「お、おお、コレ、美味いなっ。」
「そうだね。薄味だけど、しっかりと味がついてて。」
 まるで何も見ていませんでしたよ、というような態度で食べ始める面々に、古市はいぶかしげな視線を向けたが、その態度に疑問を覚えることよりも、食欲のが優先だった。









 朝も早くからおきて、父と母にばれないようにほのかの身代わりの準備をしていたのだ。
 正直、腹は減りまくっていた。
 綺麗な彩りをした季節の物は、見た事がないものだった。
 そろり、と手をつければ、それらは古市でも一口で食べれそうな大きさだ。
 箸でつまみあげて、ぱく、と食いつけば、じんわりと薄く深い味が口内に広がる。
「おお、美味い……。」
 さすが高級ホテルの高級料亭の味……っ!
 じーん、と染み入る味に感動していた古市の横手で、男鹿はパクパクと一気に食い終わった後、ペロリと唇を舐めて──物足りないのだろう。そのまま箸を伸ばして、古市の盆の上に乗った先付の残り二つの器に突っ込んだ。
「……あっ。」
 ちょっと待て、と、古市が箸で咄嗟にガードしようとするが、それよりも早く、男鹿は摘んだソレを、ぽい、と自分の口の中に放り込む。
「──男鹿っ! お前、人のもんを勝手に……っ!」
 何すんだっ、と古市が箸を伸ばして男鹿の口をこじ開けようとするが、モグモグと口を動かした男鹿が腕でソレを妨げる。
「返せっ!」
「お前はあんまり食うなって、今、おばさんが言ってたろ。」
 このアホっ、と手の甲に突き刺そうとしてきた古市の箸を避けながら、男鹿は更に箸を残る一つの器に突き刺す。
「ああっっ。」
 声をあげる古市に気遣う様子もなく、男鹿はソレを掴みあげると、ヒョイ、と自分の口に放り込んだ。
 お前ーっ、と、ドンッ、と古市が男鹿の胸を叩く。
 そんな彼に、モグモグと古市の分の碗まで食った男鹿は、口の中の物をペロリとみせて、
「半分いるか?」
「いらねぇよっ!」
 バシッ、と男鹿の頭を軽く叩いて、まったく、と古市は一回しか使わなかった箸をおく。
「てめぇ、次の品んときは、覚えてろよ……っ。」
 憎まれ口を叩く古市に、へー、と男鹿はニヤニヤ笑う。
 その膝元でベル坊も、ニヤニヤ笑った。
 先付を食べ終えると、すぐに器が提げられ、次の品が運ばれてくる。
 今度は渋い色を中心とした煮物碗であった。
 掌よりも少し大きいくらいのその蓋を開ければ、薄い綺麗な色をした汁物の中に、白身魚と彩りのための緑と黄色、そして赤い物が添えられていた。
「……なんだこれ?」
 男鹿が、緑菜を取り上げて首をかしげた後、ほら、と、古市の碗に放り込む。
「お前、ちゃんと野菜も食べなさい。」
 すかさず古市も、放り込まれた菜を取り上げて、男鹿の中に戻してやる。すると男鹿は、いやいや、と首を振りながら、
「お前はあんまり食ったらダメなんだろ? その魚を貰ってやるから、この菜っぱはお前が食いなさい。」
 再び菜っ葉を取り上げて、古市の碗に入れようとする。
 いやいや、と、古市がその手を退けようとしたところで、菜についた汁が、ぽと、と手の甲に落ちた。
「あ……っ。」
 ヤバイ、と、慌てて袖を捲り上げて紙ナプキンかお絞り、と卓上を彷徨わせていると、
「動くな、古市。」
 す、と、男鹿が古市の手首を取り上げて、ごく当たり前のように手の甲に唇を当てた。
 つぅ、と伝った汁を下から舐めるように唇を滑らせる。
 舌先で甲に残る薄い汁の味を確認した後、唇をはがして古市の腕を見下ろす。
 白い素肌には、汁の後は残っていない。
「ん、よし。」
 それを認めた後、男鹿は古市の手首を放す。
 古市は袖を捲り揚げたまま、男鹿に舐められた手を見つめ、しょっぱい顔になる。
「お前の唾液でスースーする……。てか、お絞り取って。」
「あぁ? 舐めてやったから、もう汁はねーだろーが。」
 男鹿は何もなかったかのように、再び古市のお碗に箸を伸ばして、そこから魚を取り上げる。
 ちょっと考えて、魚を半分に割った後、その半分を自分の碗に移し、満足したように頷く。
 古市はそれを憎憎しげに睨みつけた後、はぁ、と諦めたように溜息を零すと、
「汁はねぇけど、男鹿菌がついただろ。ちゃんと綺麗にしとかねーと、病気になる。」
「いや、何言ってやがるっ。病気どころか、お前、エリクサー並の薬になるぜ。」
「ならないならない。」
 パタパタと手を振りながら、古市は無言で隣から差し出された母のお絞りを受け取る。
 それで軽く手を拭いた後、お絞りを母に返して、さて、と箸を改めて取り上げた。
 器を覗き込めば、半分になった魚と、倍に増えた菜っ葉がぷかぷかと浮いていた。
 高級料亭なのに貧相に見えるのは、男鹿のせいである。
 そんな、いつものよーな男鹿と古市の姿に、古市家の両親は、まったく気にしない様子で箸を進めていく。
 その前では、心なし顔を青くした神崎が、無言で俯いていた。
「……なんだ、あれ……。」
 小さくぼやいているのが聞こえて、夏目は、んー、と小さく呟く。
 懐から携帯を取り出し、あーあ、どうしようかなぁ、と呟く。
 こうして見る限り、神崎はどうやら目の前の美少女に一目ぼれをしてしまったようだった。
 確かに、夏目の目から見ても魅力的な美少女ではある。
「相手が男鹿ちゃんじゃなかったら、ほのかちゃんにはラブラブの恋人がいるんだね、ってことになるんだろうけど。」
 何せ男鹿には、子供まで作った嫁が居る。
 それに、男鹿が今、目の前の美少女としていることは、男鹿と古市がいつもやっていることとそう変わらない。
 となると、古市家と男鹿家では、コレがいつものこと、だと言えるということだ。
 ふむ、と夏目は煮物を口に運んで──あ、美味しい、と口の中で蕩ける味に舌鼓を打つ。


──さて、どうしよう?


 元々、この見合い話は断るつもりであった。
 だから、神崎が心からイヤがるだろう手段にも手を貸した。
 まだその手段は、到着してはいないようだけど。
「姫ちゃんと零さんにも連絡入れちゃってるんだけど……。」
 この見合い、本当にぶっ潰しちゃっていいのかなー、と。一応神崎のことを思って、心配してみたのだが。
 それでもやっぱり、面白くなりそうな展開に、にんまりと目元を緩めずにはいられない夏目なのであった。