イチャイチャ失敗



 心地よい春風が窓から吹き込んでいる。
 柔らかな日差しが零れ落ちる男鹿のベッドの上には、小さな赤ん坊が眠っている。
 ここ数日、毎日のように見ている光景ではあるけれど、幼なじみのガサツで乱暴で残虐非道な男のベッドに、子供が寝ているというのは、なんだか妙な気持ちになる。
 古市はクルリとベッドに顔を向けて、腹にタオルを乗せて夢の中のベル坊を覗き込む。
 短い緑色の髪が、かすかに風で揺れている。
 ぷっくらと膨れた頬に、コロコロと丸い手指。
 ぐっすり眠りこけている小さな指が折り込まれているのを見ていると、なんだか口元に笑みが浮かんでくる。
「こうして見てると、人類を滅ぼしにきた魔王には、とても見えねぇよなぁ。」
 ベッドに肘を付いて、頬杖をしながら、こうしてると可愛いよな、と男鹿に言えば、チラリともこちらを見ないまま、男鹿はゲームのコントローラーを握りながら忌々しげにはき捨てる。
「ふざけんな。てめぇはあの電撃喰らってねーから、んなこと言えるんだよっ。」
 だいたい、今寝てんのだって、昨日の夜鳴きが酷かったからなんだぞっ!
 声を荒げながら、男鹿はゲーム内の仲間たちに1ターン分の命令を下すと、古市に自分の顔をつきつける。
 と、ほら見ろ、と寝不足をアリアリと示す目元のクマを示す男鹿に、古市は呆れたように溜息を漏らす。
「そんなに眠いなら、寝たらいーじゃねーか、ベル坊と一緒に。」
 それで、昼間寝て、夜起きてたらいーんじゃないか?
 そしたら、夜鳴き対策にもなるじゃん?
 お気楽に提案してくれる古市に、男鹿は舐めんなよ、とジロリと睨みつけてゲーム画面に目を戻したところで、
「あぁぁっ、スラリンがーっ!!」
 何だっ!? 今のターンで何があったぁぁぁっ!? とゲーム画面に向かって叫びだす。
 やべぇ、と言いながら必死で仲間たちに命令を下す男鹿に、そんな叫んでるとベル坊起きるぞー、と言いながら古市は、小さな小さなベル坊の指を、つんつん、と突付いてみた。
 ベル坊は、むずがるようにちょっとだけ眉を寄せて、指先を少し緩めて、掌を露にする。
 その手が、またぷっくりと柔らかそうで、古市は今度はその玩具の人形のような掌を、つん、と突付いた。
 するとベル坊は、古市の手を止めようとしたのか、キュ、と掴んでくる。
「おお。」
 反射のような物だと分かっていたが、小さい暖かな手に握られて、ちょっと心がポッコリした。
 小さい手で、必死に握ってくるのを見ると、なんだか幸せな気持ちになるのよね、と言っていたのは誰だっただろうか?
 子供を生んだ従姉のお姉ちゃんだったかもしれないし、近所のお姉さんだったかもしれない。
 やっぱ可愛いよなー? おばさん、男鹿の小さい頃に似てるって言ってたけど、男鹿はこんなじゃなかったと思うよ。
 そんなことを思いながら、古市は自分の指を握り締めたベル坊の手を、小さく上下に振ってみた。
 そうやってニコニコ笑いながら遊んでると、
「……あっ、あ、あああぁぁぁぁーーーー。」
 ばたん、と、男鹿の後頭部がベッドに倒れこみ、軽くマットレスがバウンドする。
 ゲーム画面から、全滅音が流れてくるのを聞くまでもない。男鹿のパーティが負けたのである。
「くそー、……古市がちゃんと応援しねーからだぞ。」
 ぶす、と唇を軽く尖らせて、拗ねたように見上げてくる男鹿に、アホか、と古市は笑いながら男鹿の額をペシリと叩く。
「お前が下手なんだろ。回復だけじゃなくって、相手によっては補助呪文も使えって言ってんじゃねーか。」
「ならその相手にあったら言えって言ってんだろ。
 よし、もう一回だ。」
 よいしょ、と起き上がりかけた男鹿は、改めてコントローラーを握り直して──ん? と古市を見上げた。
 その指先をベル坊に握られているのを見て、男鹿は呆れたような目を向ける。
「起こすなよ。ぐずると、マジめんどいんだからな。」
「ぐずったら、任せたぞ、男鹿。俺は逃げるから。」
「ふざけんな、てめぇも道連れに決まってんだろーが。」
「なんで俺まで。関係ねーだろー?」
「何を言うやら、古市君。俺とお前はいちれんたくじょーじゃねーか。」
「あー、惜しい。一連托生な? ってか、別に俺とお前は一蓮托生とかじゃねーから。」
 ベル坊の指で遊びながら、古市は男鹿のつむじを見下ろす。
「つーかさー、一蓮托生って言うなら、お前とベル坊じゃん? 15メートル以上離れられないわけだし。」
 右手をベル坊につかまれているので、古市は何気ない仕草で左指を男鹿のつむじに突き刺す。
「うぉっ! てめっ、俺が便秘になったらどーしてくれるっ!?」
 ばっ、と振り返りながら古市の指先を払いのける男鹿に、彼は笑いながら返す。
「そしたら俺が手ずから浣腸してやるよ。」
「いや、てめ、それ何てプレイっ!? つっかそれ、俺がお前にやることじゃねっ!?」
「うるさい、赤ん坊の前でなんてこと言うんだ、お前はっ!?」
 バカっ、と、払いのけられた左手で、ペシン、と男鹿の頭を叩き返してやる。
 ほんのりと赤く染まった目元で、ジロリ、と男鹿を睨みつけながら、、
「ってか、つむじって下痢になるんじゃなかったっけ? あれ? でもあれ、都市伝説?」
 ちょっと気になったので、男鹿の髪の毛に埋もれたつむじをグリグリと指先で弄ってみる。
 そんな古市に、やめろってのっ、と頭をブンブンと振ってから、男鹿は尻をずらして古市から少し遠のいた。手を伸ばしても、男鹿の頭には届かない絶妙な位置だ。
「ったく、てめぇ、ゲーム終わったら後で覚えてろよ。
 泣いて土下座させてやる。」
「なんで俺が土下座しなくちゃなんねーんだよ。ほんとお前、土下座好きだよな──……。」
 男鹿の頭が遠ざかったので、仕方なく左手で赤ん坊特有の柔らかな髪を撫でる。
 ちょっとだけ汗ばんだその湿気を逃すように、サラサラと指先で撫で付けてやると、ベル坊は気持いいのか、目元を少し緩ませたようだった。
「お、この顔、いいんじゃね?」
 古市は放り出していた携帯を取り上げる。
 開いた待ち受け画面には、着信を告げるマークは一つも浮かんでいない。
 先日ベル坊来襲のときに一緒に映画を見に行く約束をしていた中学の同級生の女子は、あれ以来連絡が来ない。ちゃんとヒルダに紅茶を入れている間に連絡も入れて、ごめんって謝ったのに……、きっと、男鹿が、と言い訳したのがいけなかったのだろう。
 アレ以来、「古市君、高校に入ったら男鹿と離れるから、デートの邪魔とかもされないし! とか言ってたけど、やっぱり男鹿君と一緒だったよ」とかいう類の噂が、蔓延してしまったに違いない。
 それくらい、誘われない。
 ちょっとイケメンの古市は、映画や買い物などに行く時に、気軽に誘える存在だとして、それなりに声をかけられていたのに。(デート、と口では言うものの、友人同士のお付き合いを越えない類のデートである)
 ちょっと着信とメールのなさにめげつつも、古市は左手だけでつたなくもカメラを立ち上げる。
 そしてスチャ、とソレを構えて、画面にベル坊を映すのだ、が。
 左手だと、どうも写真が撮りにくい。
 ベル坊が古市の左側に居るのに、右手を握られているせいだろう。
 それでも一枚試しに撮って見たのだが、やっぱりちょっとズレたし、光り加減が微妙だ。
 古市は左手で撮るのは諦めて、携帯の先でポカンと男鹿の頭を叩いた。
 手は届かなくても、携帯を持ったら届くのである。
「いたっ、何すんだよ、古市っ!」
「男鹿、ちょっと代わりに写真撮ってくれよ。」
「はぁっ!? なんで俺がっ!? 今、ゲームしてんだけど。」
「んなの、ターンの間とかに撮ったらいいだけだろ。」
 画面を見ると、ちょうどお互いのターンが終わり、男鹿が仲間に命令する画面になったところだった。
 この状態なら、放置しておいても大丈夫なのだ。
 ほら早く、と携帯でペシペシ叩くと、男鹿は面倒そうに、ぷい、と横を向く。
「ヤだ。」
 言いながら、ピコピコと仲間に命令を下していく。
 画面の中で男鹿の仲間が踊り出し、敵にエフェクトがかかった呪文が炸裂する。
「おお、やったっ! よし、そこだ!」
 うっしゃー、と喜びの声をあげる男鹿に、なんだよ、と古市は口を尖らせる。
「いーじゃねーか、別に。お前の子供だろーっ。」
「いや待てこら、古市! 誰が俺の子供だ、誰がっ!」
 そこんとこはゆずれねぇっ、と、ようやく顔をあげた男鹿を他所に、「ダメなお父さんだよなー、ベル坊」と古市は寝ているベル坊に話しかける。
 それから古市は、ニヤニヤとした笑みを口元に貼り付けながら、男鹿を横目で見ると、
「ベル坊だろ? だってほら、おばさんも美咲さんも、お前にソックリだって言ってんじゃん?」
「うっせ。似てねーよ。」
「似てんじゃん、目つきとか──って、今は寝てるからわかんねーか。」
 お前の子供の頃に似てるなら、お前もこんなあどけない顔だったのかな、と。
 古市はアリエネーッ、と笑いながらベル坊を覗き込む。
 その顔をチラリと見たら、古市は優しい目つきでベル坊を見ていた。
 男鹿はソレを見て、なんか、母親みてぇ、と思った。
 男鹿の母も、父も、美咲も、ヒルダも、みんなそんな目でベル坊を見る。この家でそういう目をベル坊に向けないのは男鹿くらいのものだ。
 若い父親ってそういうの多いのよねー、と言いながら、美咲がこないだゲシゲシと背中を蹴ってきたのを思い出しながら、でも、と、思った。
 ベル坊は、本当の本当に俺の子供じゃねーから、そんな目にならないだけで。
 もし、ベル坊が本当に俺の子供なのだとしたら、俺もそんな目でこの赤ん坊を見ていたのだろうか?
 と思ったところで、あ、と気付いたので、男鹿はその思いついたままに口にしていた。
「……あー、つーか、アレだろ、アレ?」
「アレじゃわかんねーよ。」
「いつもは分かるじゃん、お前。」
「それは会話の流れのせい。──で、アレって何だよ?」
 首を傾げて見下ろしてくる古市に、おう、と男鹿は頷いて、アレだ、と続けてから。
「もし、ベル坊が本当に俺の子供だってーならさ。」
「ん?」
「ベル坊生んだのって、お前以外いねーよな、って話にならね?」
 普通? ──と。
 こて、と頭をベッドに凭れさせて、古市を見上げれば。

「──……っ!!!?? なっ、ななっ、何言ってんの、お前……っ!!???」

 今度は男鹿が言いたい意味をしっかり把握したらしい古市が、白い顔を真っ赤に染めて肩を震わせた。
「んなわけあるかっ! ってか、俺、男っ! 男ですからっ! 子供生めないしっ!!」
 なんでそんな話になんのっ! と、頭を殴ろうとするが、少し離れた男鹿には手が届かない。
 ならば、と左足でゲシッと男鹿の脚を蹴りつけてやると、いてーだろー、と、大して痛くもない様子で男鹿が文句を言う。
「なんでだよ? だって俺、お前以外とエッチしてねーんだぞ? 子供ってエッチしねーと出来ねぇんだろ? だったらベル坊がホントに俺の子供だってんなら……。」
 そりゃ、お前が生んだってこと以外、ありえないわけで。
 そうごく当たり前の顔で告げてくれる男鹿に、
「ありえないのはお前の頭だっ! アホかっ! あぁ、ごめん、アホだったよな、お前。うん、知ってた。小っさい頃から知ってた。お前がアホだって。」
「このヤロ、三回もアホって言いやがったな。アホって言ったほうがアホなんだぞ、アホ市め。」
「お前も三回アホって言ってるじゃねーか。」
 問題はソコじゃない。
 げし、と再び男鹿の脚を蹴りつけて、あー、もうっ、と古市は左腕で自分の頭を抱えた。
 顔が熱い。絶対耳まで赤くなっているに違いない。
 というか、ほんと、コイツ、昼間っから何を言い出すのかと思った。
「ふるいちー?」
「うるさい。……つーか、なんで俺が母親なんだよ。ヒルダさんがベル坊の母親代わりだっつってたじゃん。」
 なんか」顔が熱くてしょうがない、と、古市はパタパタと左手で顔を仰ぎながら、男鹿の視線から顔を反らす。
「あー、アイツはアレだろ? ウバ族とかいうヤツ。」
「乳母、な? お前、もうちょっと日本語勉強しろよ。
 ってか、乳母か……いいな、乳母……。」
 はちきれんばかりのおっぱいに、夢と母乳を積んだグラマラス乳母。最高。
 思わず目元を緩めて、そういう乳母なら俺も喜んで育てられるよ! と、いつものように残念な人になりかけた古市を、男鹿は呆れた目で見る。
「悪魔だぞ。」
「悪魔でもあんだけ美人でグラマーだったら問題ないだろっ!」
 いや、あるだろ、とは思ったが、古市に言っても無駄なことは良く分かっているので、あえて口にはしなかった。
 代わりに、ベル坊に指をつかまれたまま、幸せそうに何かを妄想する古市の顔を見上げる。
 ほんのりと白い頬を上気させ、うっとりと大きな目を潤ませ、桃色の唇に微笑みを乗せている。
 窓から差し込む春の日差しに、キラキラ輝く銀色の髪が綺麗で、男鹿は少し体をかがめる様にして古市に近づくと、その髪を一房取り上げる。
「……ん? なに?」
 軽く首を傾げる古市に、キラキラしてる、と言えば、ああ、と興味なさそうな顔で古市は自分の髪を見上げる。
「ちょっと伸びたかも。」
 そういえば、バレンタイン前にちょっと切ってそれ以来か、と呟く。
 男鹿の指に重ねるように髪に触れる古市の目が、まるでこちらを見ているように見えた。
 なので、とりあえず。
「古市。」
「ん?」
 つつ、と顔を近づけて、触れるだけのキスをした。
 薄く目を開いたまま唇をくっつければ、古市はスと瞼を下ろす。
 だから男鹿は、角度を変えてもう一度口付けて、まだ握っていたコントローラーを放り出して、その手を古市の頭に添えた。
 古市も左手を男鹿の首に回して、口付けはだんだんと濃厚になっていく。
 唇を擦り合わせて、男鹿の舌を招くために口を開ければ、待っていたかのように舌が入ってくる。
 舌を絡めて、夢中でお互いの唇をむさぼった。
 頭に当てた掌から、古市の髪がサラサラと零れる。
 自分の頭と違って小さな形をした古市の頭は、男鹿の掌ですっぽりと覆ってしまえそうだ。
 髪を愛撫するようにしながら歯列をなぞり、指先で耳の裏を擽れば、古市は小さく肩を跳ねさせる。
「ん……。」
 とろ、と絡んだ唾液が互いの唇の間で水音を立てる。
 放り出されたゲームの音と、ベッドの上で眠る幼子の寝息の声。
 それを耳にした瞬間、はた、と古市は我に返った。
 シャツをの隙間から入り込もうとしていた男鹿の手を、ぺし、と軽く叩く。
「男鹿、そこまで……っ。」
 これ以上はダメっ、と、慌てて男鹿の手首を掴む。
「なんでだよ。」
 当たり前だけど、不満そうにコッチを見る男鹿の唇が、互いの唾液でツヤツヤと光っている。
 それが、つい今しがたまでしていたことを思わせて、古市は熱で潤んだ頬を更に赤く染める。
 そのまま流されてしまいそうになる自分を律するために、男鹿の口から強引に目を離す。
「ベル坊がいんだろ。」
「寝てるじゃねーか。」
「ダメだって。もう寝てから結構経ってんし──いつ起きるかわかんねーだろ。」
 シャツの中に更にもぐりこませようとする不埒な手を、小さくひねり上げれば、男鹿は顔を歪めた。
「いてーだろ、古市。抵抗すんなって。」
「いやいや、するでしょ、普通するから。ほら、手ぇ引っ込めろって。」
 ダメ、コレ以上絶対ダメ。
 そう言って聞かない古市に、男鹿は物凄い形相で睨んできたが、そこらの不良をびびらせるソレも、古市には全く効かない。
 逆にキッと睨まれた挙句、
「ベル坊起きたら、お前、また電撃喰らうぞ。」
 そこまで言われてしまえば、しぶしぶ手を抜くしかなかった。
 自分が電撃を食らう分にはいいけど──何せもう慣れてきた。
 けど、古市まで巻き添えを食わせるわけには行かない。
「んじゃ、いつならいーんだよ?」
「いつって……えー…………。」
 ごつ、と痛みを感じさせるほどに額をくっつけられて、古市は顔を顰める。
 キス、みたいに触れてすぐ離れるのならいいけど、エッチともなるとそうも行かない。
 それなりに時間がかかるからだ。──特に男同士で繋がるのなら。
「ベル坊が寝てすぐ、とか……。」
「寝てすぐくらいは、ちょっと音したくらいで起きんぞ。」
 しかもすげーぐずる、といわれては、それは無理だな、と言わざるを得ない。
 男鹿も古市も、好き好んでベル坊の電撃を受けたいわけではないのだ。
「んじゃ、手で、する、とか。──静かに。」
「それなら、お前が声出さないようにしたら、いいだけじゃね?」
 こっちでも、と、言いながら指先が古市の背後に回ってくる。
 いやいや、と、古市は肘で男鹿の胸を押しながら、──いつのまにか自分の上に乗っかる態勢になっている男鹿の腹に膝を入れる。
「無理言うなってっ! ってか、お前、んなところヒルダさんに見つかったら……っ! あ、そうだよ! ヒルダさんだっていつ入ってくるかわかんねーんだしっ。ダメったらダメっ!」
 頬に軽く口付けられて、そのまま圧し掛かってくる男鹿を退けようと、古市はベル坊に緩く握られたままだった右手を手前に引いた。
 スルリと抜けた指先は、ベル坊の熱が移ってしっとりとしたぬくもりを持っていた。
 ちょっと名残惜しい気がしないでもないが、それよりも目の前のバカ父が問題だ。
 男鹿の髪を引っつかみ、こらっ、と引っ張る。
「ってか、そーだよっ! ヒルダさんにベル坊見てもらってたらいいんじゃね? 15メートルくらいだったら、リビングに居てもらったら大丈夫だろ?」
「あー……その手があったか。」
「そう、その手があったっ! でも、今日はベル坊寝てるから、また今度だからなっ。」
「………………おぅ。」
 今度、の約束が出来たことに、一応は満足したのか、男鹿がしぶしぶ古市の上から退こうとする。
 それに、ようやくホッと胸を撫で下ろした古市だったが、すぐに再び男鹿に抱きしめられる形になった。
「……ちょ、男鹿っ?」
「エッチはしねーから、もうちょっとこのまま。」
 グリグリ、と肩口に額を押し付けられて、古市は軽く目を見開いたが、しょーがねーな、と彼の背中に手を回す。
 ベル坊の手も暖かかったけど、男鹿の体も温かい。
 こうしてると、男鹿の体温が子供体温だと良く分かる気がした。
 冬とか、一緒に布団の中に潜ってるとあったかいんだよなー。中学生のときなんて、手袋もしてないのに温かい男鹿の手を、良くカイロ代わりにしたものだ。
 そして何故か突然、どこでそうなるのか分からない男鹿のヤル気スイッチが入ったことも一度や二度じゃなかった。
「ってか、お前、もうゲームいいの?」
「また後でやる。」
「ふーん。──な、携帯取って。」
「携帯弄るくらいなら俺を構え。」
「構ってやってんじゃん。」
 しょうがないな、と言いながら、口元に笑みを浮かべて古市は携帯に伸ばしかけていた手を、男鹿の髪に乗せた。
 そのまま、少し固い髪を指先で梳いてやると、ちょっとだけ男鹿の肩の力が抜けた。
 そのまま、サラサラと髪を梳かれながら、男鹿は古市の首筋に鼻をうずめる。
 ふんわりと香る古市の匂いに、安心した。
 なんて言っていいのかわからないけど、気付かないうちに自分の中で「張っていた」ものが、すとんと落ちた気がした。
 ──あぁ、そっか。
 この家の中に魔王と悪魔が居て、言うなれば、小学校からずっと「知った」人間しか居なかった空間に、「他」のヤツが居る状態で。
 心から安らげるはずが、ないのだ。
 しかも魔王と悪魔。
 今のところは危害を加えそうにないとは言え、絶対とは言い切れない。その危惧感が、ずっと男鹿の中でくすぶっている。
「……なー、古市。」
「なに?」
 柔らかな声で聞いて来る古市に、男鹿は「今日泊まってけ」と言うつもりで、
「お前、うちに嫁に来いよ。」
 するり、と、口が滑った。
「──……オー……、って……はぁっ!?」
 驚いて肩を跳ねさせた古市の声が、耳に痛い。
 アレ? と男鹿は首を傾げて、俺今何言った? と思い返した後、
「……おお、それ、いいな。」
 なんで今まで気付かなかったんだろう、と、男鹿は顔を輝かせる。
 そして、古市から少しだけ体を離すと、ぽん、と古市の肩に手を置いて、パクパクと口を開け閉めしている古市に向かって、イイ笑顔で言い切った。
「よし、古市、結婚しよう。」
「いや、無理だしっ! 男同士で結婚できねーしっ! ってか、嫁って、お前ヒルダさんいるだろっ!?」
「何言ってんだ、古市。お前が嫁に来たら、万事解決だろ?」
「何がどう解決すんのか、全然わかんねぇっ!」
 我ながらいいことを思いついた、という男鹿に、全然良くない、と古市は頭を抱える。
 なんていうか……アレだ。ほんと、コイツの考えてることはわからん。
 頭痛を覚えながら、米神あたりを指先で押さえ込む。
 ほんと、どーなんだろうね、男鹿ってば。
「だってお前、考えてみろよっ!? 朝、ヒルダが俺のみぞおちを踏みながら起こす代わりに、お前がチューとかで起こしてくれんだろっ!?」
「いや、さすがにそんな起こし方はしねーよ? 言っとくけど。」
 っていうかお前、ヒルダさんにそんな起こし方されてんの? と、呆れた口調で聞かれて、男鹿は、おう、と即答する。
「あんな暴力女が家に居るより、俺はお前と一緒に暮らしたい。」
 生真面目な顔でプロポーズめいたことを口にするというのに、古市は即答で真顔で答えてくれる。
「ていうか、俺はどっちかというと、お前と一緒に暮らすより、ヒルダさんと一緒に暮らしたい。」
 思わず本音を零せば、この浮気者ーっ、と言われながら軽く殴られた。
 男鹿のパンチは、軽く、でも結構痛いし、体も吹っ飛ぶ。
 ちょっと床から10センチくらい浮き上がった古市の襟首を、男鹿はガシッと掴むと、
「てっめぇ、俺よりもヒルダがいいとか、何抜かしてやがんだっ。」
「いや、ちょっと待て男鹿っ! こういう時、むしろ浮気者はお前のほうじゃねっ?」
「なんでだよっ! 俺は古市一筋だっつのっ!」
「ヒルダさんが嫁とか言われてるのに、否定もしてねーくせに、良く言うな。」
「いや、お前が俺の嫁になるって言うなら、今すぐ親父とお袋に紹介すんぞ?」
「それはゴメンなさい、遠慮させてください。」
 喧々囂々と額を突き合わせて、そんなことをノロケ(?)あいはじめる。
 どっちがどれほど相手のことを好きなのか叫ぶ大会、のような状態である。──と、ヒルダは思った。

「…………このようなキモカップルの会話は、ぼっちゃまの安眠妨害になるな。」

 ふむ、と、何時の間にやら男鹿の部屋にやってきていたヒルダは、そのままベッドからベル坊を抱き上げると、少しだけムズがる魔王に、母性たっぷりの微笑みを向けると、
「さぁ、ぼっちゃま。静かな場所に参りましょうね。」
 ぱたん、と、後ろ足で男鹿部屋のドアを閉めると、不快な会話を繰り返す男鹿と古市を放って、一階へと降りていくのであった。