かぽーん。
白い湯気が立ち上る狭い密室。
流しっぱなしのシャワーのお湯が、ざあざあと排水溝に流れていく。
まだ夕方だと言うのに、風呂桶にはたっぷりの湯が張られ(いつも喧嘩して帰ってくる長男のため、風呂は彼の帰宅時間にあわされて沸かされるためである)、中に落とした入浴剤がミルク色に染め上げている。
そんな、よそ様のお宅の風呂桶に腰まで浸かりながら、なんで俺がこんなこと、と古市は溜め息をこぼす。
湯の中で膝立ちになりながら、両手にシャンプーを取る。軽くこすりあわせれば、甘いバナナの香りの泡が立った。
洗い場に座った「父親」の膝に座り込んだ子供が、自分の目の前で泡立てられたソレに、キャー、と嬉しそうに笑い声をあげる。
基本、おぞましいものや怖いものにしか笑い声をあげない子供ではあるが、食べ物関係や親子の触れ合いは別のようだ。
わくわくした目で、古市の白い手を濡らす泡を、じ、と見つめている。
「ベル坊、じっとしてろよ。目に入ったら痛いからな。」
「だっ!」
こくこくとうなずいて、ベル坊はおとなしく伸びてきた古市の手を、頭で受け止める。
ベル坊の額に泡がかからないように気をつけながら、上半身を洗い場に乗り出しながら、小さな頭に手を滑らせる。
わしゃわしゃと、力が入りすぎないように泡を立ててやると、ぎゅっとベル坊は目を閉じる。
そんな仕草がかわいくて、思わずほほえみをこぼしつつも、
「つーか、なんで俺、おまえらと一緒に入ってんの?」
物凄く今更なことを呟きながら、古市はベル坊を左ひざの上に乗せている男を見上げた。
確か古市は、自宅から妹のお下がりであるバナナシャンプーとコンディショナーを、ヒルダに渡すつもりだったのだ。
ベル坊が気に入ってるので、コレを使わせてあげてもいいかどうか、確認を取るつもりだったのだ。──下手なものをベル坊に渡して、ヒルダの怒りを買うのは恐ろしいので。
なのに、当のヒルダからは、「ちょうど今、フロを沸かしたところだ。ぼっちゃまを入れてやれ、奴隷。」と言われ、バスタオルまで渡されてしまったのだ。
「あぁ? んなの決まってんだろ。ベル坊を洗うためだ。
ヒルダにも言われただろーが。」
ごく当たり前のように返してくる男鹿も、ベル坊に使っているシャンプーと同じバナナの香の泡に包まれている。
わしゃわしゃと乱暴に自分の髪の毛を洗いながら、もう忘れたのか、とバカにしたように見てくる視線に、古市はムッと眉を寄せる。
確かに、ヒルダには言われた。
その上、「なんで俺が……っ!?」とバスタオルを握り締めた古市に、立ち去ろうとしていたヒルダが、振り向き様、「ぼっちゃまを泣かせたら……分かっておるだろうな?」と片目を光らせながら念押しまでされた。
思わず、はい、と頷いてしまったのは古市だ。それに間違いはない。
いや、それでも、だ。
──古市がベル坊をフロに入れたら済むだけの話なのに、そこに、どーして素っ裸の幼馴染がついてきたのか、それが問題なのである。
「いやいや、お前が洗えばいいだろーが。」
確かにヒルダには洗うように指示されたが、親である男鹿が一緒に入るんだったら、もう、男鹿が洗ったらいいんじゃね? っていうか俺が一緒に入る必要性ってなくね?
と訴える古市に、男鹿は、はっ、と鼻で笑う。
「何を言ってるのかね、古市君。見ての通り俺は、自分の頭を洗っているではないか。」
ほら見ろ、と頭の白い泡を示す。
古市はベル坊の耳の裏を指先で擽るように洗いながら、はぁ、と溜息を零す。
「ベル坊を洗うつもりないんなら、なんでお前、一緒に入ってきてるんだよ?」
いくら家族風呂とは言えど、さすがに洗い場に高校男子が二人も座っていられるようなスペースはない。
そのおかげで、古市は風呂の中から身を乗り出すようにしてベル坊を洗わなくてはいけないのだ。はっきり言って面倒臭い。
「何言ってんだ、古市。俺とベル坊は、15m8センチ以上離れられねぇんだぞっ!?」
「お前んちのリビングと風呂場は15m以内だろーが。」
古市の手の動きに合わせて、ゆるく右に左に揺れるベル坊に苦笑しながら、古市は泡まみれになったベル坊の頭から手を離す。
タイルに転がされたままのシャワーヘッドを手に取り、軽く自分の手を洗い流すと、それをベル坊の背中に当てる。
「ベル坊、泡流すから、耳押さえてろよ。」
「ダッ!」
元気よく返事をした良い子は、そのまま小さな両手で自分の耳を押さえる。
ぎゅ、と抑えたつもりなのだろうが、ちょっと耳がはみ出ているのは愛嬌である。
ぎゅー、と目を閉じるベル坊に気遣いながら、まずは後ろ首の辺りにお湯を当ててやる。
そうしながら、
「男鹿、ちょっとベル坊の位置変えろ。」
「へいへい。」
頭を泡まみれにさせたままの男鹿が、ベル坊の背中を支えるようにして、古市が流しやすいように位置を変えてやる。
古市は自分の掌でお湯を掬うように、ベル坊の耳や顔にかからないように注意しながら、泡を流していく。
耳の辺りは、自分の濡れた掌で泡を取り除くように流し、細心の注意を払う。──もし万が一、何かあったら、確実に自分も感電するから、これでもかと言うくらい気を使った。
だいたい洗い流し終えて、最後に泡が残っていないか目で見てから、よし、と古市は頷いた。
ベル坊の背中を支える男鹿の手や、ベル坊の体に零れ落ちた泡を洗い流してやりながら、クシャクシャと小さな子供の頭を撫でてやる。
「よく我慢したな、ベル坊。もういいぞ。」
ぽんぽん、と男鹿がよくやっているように叩いてやると、ベル坊が、ぷはー、と大きく息をついて目を瞬く。
どうやら、息も一緒に止めていたようだった。──いかにふだんの男鹿の洗い方が雑なのかが、よく分かった。
「だうー。」
小さな手で、顔をコシコシ擦るベル坊に、ほんと、こうしてると魔王って忘れるくらい可愛いのに、と古市が頬をほころばせていると、
「古市、俺も。」
シャワーを持ったままの古市に、男鹿が催促してくる。
無言で顔をあげれば、泡まみれの男鹿が、これこれ、と自分の頭を指差す。
要約すれば、シャワーを貸せ、ではなく、洗い流してくれ、という意味だというのはすぐにわかった。
ので、古市は無言でシャワーを持ち上げると、男鹿の顔めがけて、思い切りぶっかけてやった。
「ぐぼぉっ! てっ、てめっ、ふる……ぶひゅっ!」
「わはははっ! ぶひゅ、だってっ! あーっはっはっはっ!!!」
シャワーの水圧で形が変わるほっぺや言葉に、大爆笑しながら、古市は男鹿の顔を綺麗に洗い流してやる。
風呂場内に綺麗にエコーした笑い声に、このやろう……っ、という男鹿の低い声と、きゃっきゃっ、と楽しげなベル坊の声が響き渡る。
──と、がしっ、とのびてきた男鹿の手に、悪乗りした手首をつかまれ、やべ、と古市は目を見開く。
ぐい、と手首をひねるようにしてシャワーの先を床に変更させられ──泡半分のお湯をダラダラ流した男鹿が、ギロ、と古市を睨み揚げる。
「てっめぇ、古市……っ。」
剣呑な双眸は、いつも以上に凶悪で、まるで地獄絵図に出てくる鬼のような形相だ。
キャーッ、と、ますますベル坊が楽しげな声をあげる中、
「…………よ、よっ、水も滴るいい男ー……なんつって?」
古市は、とりあえず使い古された言葉を使ってみた。
「…………ほーぉ…………。んじゃ、てめぇも水も滴るいい男になってみろっ、おらっ!!」
「ぎゃーっ! アホ男鹿っ、がぼっ!!」
一瞬で取り上げられたシャワーのお湯が、古市の顔面に痛いほど降り注ぐ。
慌てて両手で塞ぎながら、クルリと背中を向けて直撃を避けつつ、
「つーか、お前、んなアホやってる前に、その泡、流せよっ!」
「流せっつったのに流さなかったのは、お前だろーがっ。」
いつものように──所構わずやっているじゃれあいと同じように、ギャンギャンと叫びあう。
──が、流石に高校生ともなれば、母からの制止が入る前に、ころあいを見計らって風呂場での言い争いを止めることも出来る。
というか、風呂場でお互い裸の状態で怒鳴りあい、はしゃぎあうことの気持ち悪さに、二人が同時に気付いてしまったとも言う。
「…………あー、もういい。お前、とりあえず泡流しとけ。
ほら、ベル坊、先に風呂に浸かってような。」
「おう。溺れさせんなよ。」
膝の上で、キラキラと言い争いを眺めていたベル坊は、突然ソレを止めた二人に、不思議そうに首を傾げる。
そんなベル坊を、ひょい、と抱えあげると、髪に残った泡を洗い流す男鹿に呆れた目を向ける。
「させるかよ。お前じゃあるまいし。」
「あー。」
ミルク色のお湯に、ゆっくりとベル坊をつけてやりながら、古市も肩先までお湯に浸かった。
ベル坊を洗っている間に、思ったよりも冷え込んでしまっていたらしい。背中から肩にかけて、じんわりと湯がしみこんでくるようだった。
「はぁ〜。」
思わず幸せの吐息を零すと、ベル坊も真似るように、
「あうー。」
と呟く。
腕に抱え込んだベル坊に顎をうずめるようにすると、鼻先にバナナの甘い香がしてきた。
「お、ベル坊。甘い匂いがするぞ。」
くんくん、と嗅ぎながら、今朝の男鹿とベル坊もこんな気持ちだったのかな、と思う。
思わず髪の毛を噛みたくなる気持ちも、分からないでもない──まぁ、本当に噛むやつは、男鹿と子供くらいだろうけど。
「あう?」
古市を見上げたベル坊も、彼を真似するようにクンクンと鼻を動かす。
「なんか、バナナ食いたくなるよな。
男鹿、おまえんちにバナナあったか?」
「知らね。後でお袋に聞け。」
いい匂いだなー、と思いながらベル坊の濡れた髪に顔を寄せていると、
「おっしゃ。古市、ちょっと詰めろ。」
髪を洗い流した後、手早く体も洗い流したらしい男鹿が、しっしっ、と手を振ってきた。
立ち上がって風呂の縁に片足をかける男鹿は、前を隠すということもしない。
おかげで、振り返った早々に見てしまったものに、古市はなんとも言えない気持ちで、はぁ、と溜息を零したくなった。
親しき仲にも礼儀ありって言うんだから、せめて、隠すとかしろ。それができなくても、さらすな、と思うのだが、今更と言えば今更なので、古市は湯の中で伸ばした脚を縮める。
「ちょっと待て。俺も洗うから。」
ベル坊を抱えあげながら立ち上がると、男鹿が空いたスペースに脚を突っ込んで入ってくる。
代わりに古市は洗い場に移りながら、抱えていたベル坊を手渡す。
「ほら、ベル坊。」
「おー。」
「だ。」
ベル坊は両手を伸ばして、嬉しそうに男鹿にぴったりと抱きつくと、スリスリと頬を寄せる。
その様子に、やっぱ懐いてるなぁ、と古市は小さく笑みを浮かべた。
壁に立てかけられていたシャワーを手に取り、自宅並に慣れたシャンプーラックを見る。
そこには、男鹿家が使っているシャンプーとリングがおいてあり、横にチョコンと、古市が持ってきたばかりのバナナシャンプーとリンスが並んでいた。
………………ここはやっぱ、美咲さんやヒルダさんが使ってるのと同じ、男鹿家のシャンプーを使うのが定番だよなっ!?
そして、風呂上りにちょっぴり、二人と一緒にお泊りした気分を味わうのだっ! ──ってまぁ、いつも泊まってるときは、一つ屋根の下だし、同じシャンプーの匂いさせてるけどね。
よし、と、意気揚々と普通のシャンプーに手を伸ばしたところで、
「ダ!!」
ベル坊から指摘の声が入った。
「おい、古市。お前もバナナ使えって言ってるぞ。」
「えーーーー。」
イヤそうに振り返ると、男鹿とベル坊が、二人トーテムポールさながらにこっちを見ていた。
ベル坊の顎が風呂の縁に乗り、その赤ん坊の頭に男鹿の顎が乗っている。
にー、と笑う二人の笑顔は、もう、まさに悪魔の親子。
「いいよ、俺は。普通の使うから。」
「ダッ!!!」
「ほら、ダメだって言ってるぞ。」
「ダダッ!!」
びしっ、とベル坊に再びバナナのシャンプーを指差されて、古市は無言でソレを手に取る。
するとベル坊は、それでよし、というように、うむと頷いていた。
「なんで俺まで……。」
「多分、ベル坊が飽きるまで、全員これじゃないか?」
がっくり、と肩を落としながら呟けば、よほど気に入ったんだな、と男鹿が特に感慨もなく答える。
男鹿的には、洗えればなんでもいいのだ。
「全員……、ってことは、美咲さんもヒルダさんもこれ使うってことだよなっ!? よし、それならこれで洗おうっ!」
キラリっ、と耀く笑顔でそう決断した古市に、男鹿は無言になったが、いそいそとシャワーを頭からかぶる彼に、特に何も言いはしなかった。
古市が残念なのは、今に始まったことじゃないからである。
何が楽しいのか、鼻歌を歌いながら濡らした古市の髪が、いつもより深い色を宿している。
掌でシャンプーをあわ立てた古市は、そこへ白い泡を撫でるようにつけていく。
しゃかしゃかと手を動かせば、みるみる内に白い泡が立った。──と同時に、鼻先にふわりと香る、優しく甘い香。
「あー。」
ベル坊が手を伸ばしたがるのを止めながら、男鹿はボンヤリと古市が洗っているのを眺める。
襟足が長めの髪が掻きあげられ、いつもは半分ほど隠れている白い項が露になる。
髪から零れた泡が、つぅ、と滴って、背中まで流れていく。
なぜかソレに妙にドキドキして、男鹿は目線を反らす。
パシャパシャ、とベル坊が風呂の水面を叩き、小さな水しぶきを立てて遊び始める。
それを一瞥した後、ちら、と男鹿は古市に目線を戻す。
髪に隠れがちな形良い耳の近くを、古市の指が霞め、その後ろをカシカシと掻いている──ただそれだけのことなのに、なぜか耳から頬のラインが際立って見えた。
10年近く前から、毎日のように見ている顔。
風呂にだって何度も一緒に入ったし、裸なんてそれこそ、飽きるほど見ている──だって幼馴染だし、悪友だし、恋人だし?
でも、考えてみれば、こうして洗っているところをマジマジと見るのは、小学校以来かもしれない。
あの頃よりも柔らかさを無くした体。でも、それがしなやかで見た目よりも柔らかいことを知っている。
肌触りの良い肌を、水滴が流れていく。
自分の体と違う、白い白い肌。細い腕に薄い背中。少し俯けば背筋に背骨の流れが浮かび上がる。
両掌でスッポリとおさまりそうに細い腰。
お湯で温められた頬がうっすらと色づき、薄く開かれた唇から覗く白い歯と赤い舌のコントラストに目を奪われる。
髪を洗うために反らされた顎のラインに、泡がついて流れていく。
その様が、まるで誘っているかのように見えて、思わず喉が上下した。
「そういやさー、ベル坊が風呂で遊ぶ玩具とか、ねーの?」
「あー……、脱衣所にあんじゃねーの?」
突然話しかけられて、一瞬返事が遅れたのは、唇が開いたときに不埒な想像をしてしまったからだ。
やべぇ、と目を再び反らしてみたけれど、再び視線は古市に戻ってしまう。
女よりも白い頬、白い首、白い胸元。
髪が撫で付けられているだけで、いつも以上に細く見える首筋。
古市の腕が動くたびに、見え隠れする胸元が、妙に視界に焼きつく。
お湯で温められたソコは、ふっくらと盛り上がり、綺麗なピンクに色づいている。まるで触れてくれと、そう誘っているかのように。
「──その玩具って、魔界製の?」
「オヤジが買ってきたヤツ。」
古市の腕が動くたびに、見えなくなったりチラリと見えたりするソレに、思わず彼の腕を掴んでこちらに向かせたくなった。
そして、薄い胸板に映えるそこに触れて、唇を寄せて──思う存分古市を啼かせたい。
「んじゃ、持ってくるか?」
「別に、いーんじゃね? 狭いしさ。」
チラリ、と目を寄越されて、その潤んだように見える眼差しに、ドキマギした。
それ以上直視していられなくて視線をそらせば、ふーん、と気のない返事が返ってきた。
そのまま、古市はお湯を自分の掌に当てて泡を落としていく。
排水溝に向かっていくお湯と泡を、なんとなく目で追っていると、バシャバシャと豪快に音が立った。
目線をあげれば、古市が目を閉じながら髪を洗い流しているところだった。
何の変哲もない光景の、はず、なのだけど。
俯いた彼の頬に、銀色の髪が流れていく。水を飲み込まないように開いた唇が、今にも何かを咥えそうな仕草に似ている。
目を閉じているだけなのに、妙に長く見える睫に、水の雫がキラキラとかかる。
シャワーを動かしすぎると男鹿たちの方に水がかかるためか、気を使って頭の方を動かしてくれているみたいなのだが、男鹿的にはそのほうがマズイ。
だって、右肩を竦めるように左首筋を反らしたりする仕草が、妙に色っぽいのだ。
これは、アレだ。
首筋に口付けた時に、古市が無意識にする仕草に似ているからだ。
「……くそ、この天然エロ男め……っ。」
「……あぁ? 何か言ったか?」
シャワーの音で聞こえん、と言う古市の言葉に、なんでもねーよ、と乱暴に返す。
泡を洗い流した後、古市は掌で髪を撫で下ろし、今度はリンスに手を伸ばす。
掌に出したとろりとした液体が、古市の手から垂れていく。
おぉ、と思わず声に出せば、
「何? ベル坊がどうかしたのか?」
自分のエロさ加減に全く気付いていない古市が、たっぷりと手に取ったソレを、自分の髪に撫で付けていく。
コンディショナーやリンスなんて髪につける習慣のない男鹿は、その様子がまたエロイ、とベル坊の頭に顎をコツンと当てた。
「なんでもねーよ。」
「あっそ。」
そのままリンスを洗い流すかと思いきや、古市はタオルを手に取り、今度はボディシャンプーをつけて泡立てると、それを肌に擦りつけ始める。
「ダー。」
モコモコと泡立つ泡に、古市の白い肌が見る見るうちに覆われていく。
それが楽しいのか、ベル坊が再び手を伸ばす──当然、古市まで届くはずがないのだが。
首筋や項、二の腕──までは、まだ良かった。
胸元を擦るときに、ぷっくりと先が立ったピンク色の粒が、泡に包まれてうっすらと透けて見えて、本気で押し倒してやろうかと思った。
古市はそんな男鹿の、ちょっとギラつき始めた視線に気付くことなく、腹を擦り、脇を洗い──更に無防備に、片足を立てて、足先からふくらはぎにタオルを滑らせ始める。
「…………時に、古市君。」
なんだか黙っていたら、妙な気持ちになってくる一方なので、ひとまず男鹿は口を開いてみた。
風呂桶の上にある窓の外からは、クルマが走る音だの、遠く聞こえる子供たちの笑い声が聞こえてくる。
健全な夕暮れ時の時間が流れているというのに、この風呂場の、なんと淫靡なことか。──いや、むしろ古市だけがエロイっていうか。
「なんだよ。」
「ボディシャンプーにも、バナナの匂いとかって、あんのか?」
「……あー、あるんじゃね? ほのかは買ってないからわかんないけど。」
さすがに全部揃えるのには、お小遣いが足りなかったのか、ボディシャンプーはなかったな、と答える古市に、ふーん、とベル坊の頭を顎でグリグリしながら答える。
そうこうしている間に、古市の手は太もものきわどいところを洗う。
さっきまで普通に見ていた淡い茂みがたっぷりとした泡に包まれ、そのまま古市は左足を下ろして右足を立てかける。
「──……っ、おまっ、それ、マジでわかっててやってんだろっ!」
思わず、ばしゃんっ、と男鹿が水面を叩けば、おわっ、と古市が体を跳ねさせる。
「な、なんだよっ、突然っ!? つか、何怒ってんだ、お前っ!?」
俺、なんかしたっ!? と聞いてくる古市は、素だ。あまりに素すぎる。
彼はきっと、いつものように一緒に風呂に入っている……という感覚でしかないのだろう。
それは分かっている。情事の後に洗ってやる時は、あれほど恥じらい、そこかしこ隠すくせに、プールの後や普通の風呂に入る時などは、昔のまんま──恥らうどころか、男同士の付き合いそのものでしかないのだ。
「いいから、そこ、ちゃんと隠しなさいっ!」
びしっ、と指先で古市の脚の間を指差せば、はぁっ? と彼はいぶかしげに声をあげ、無言で視線をソコへ落とした後、
「………………っ。」
今更ながらに、自分が男鹿に丸見えの体制になっていたことに気付き、左足を慌てて立てる。
そして、手早く右足を洗い終えると、持っていたタオルで股間を覆い隠し、
「──つーか、おま……それ、今更、じゃね……?」
ほんのりと頬や耳元を赤く染めながら、ちらり、と男鹿を見る。
その、ちょっと口篭る様子に、色気が増す。
「いやいや、っていうか、古市君。」
「なんだよ。」
拗ねたように唇を軽く尖らせながら──照れ隠しだと見て分かるほど、顔が赤くなっている──、シャワーを取り上げ、泡を洗い流し始める。
顎をそらして、頭につけたリンスも流しながら、白い泡がタイルに流れていく。
泡に覆われていた古市の素肌が露になるのを見ながら、男鹿は真顔で向き合うと、
「勃った。」
一言、これ以上ないくらいに簡潔に、そう次げた。
ザアアアアァァァ………………。
シャワーから出るお湯が、床に叩きつけられる音がする。
古市は、肩口から湯をかけたままの体制で固まり──ぎぎ、と、ぎこちなく男鹿を振り返る。
「…………今、なんか、ありえねぇこと聞いた気がするんだが?」
「だから、勃ったっつーの。お前、エロ過ぎ。」
ありえねぇとか、ひでぇな、と答えながら、男鹿はベル坊の右腕を取って、ぴこ、と挙げてみた。
「……あっ、ああああっ、アホかぁぁぁっ!!!
何言ってんのっ、お前、何……っ、ベル坊もいるのに、何やってんのーっ!!!」
今にもシャワーを放り出しそうな勢いで、古市が顔を真っ赤に染めて叫ぶ。
そんなこと言われても、ベル坊が居ようと居まいと、古市がエロイのがいけないのであって、仕方がないことじゃないか。
「あーっ、もう、信じられねぇっ!」
洗ったばかりの髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜて、古市は一度大きく頭を振ると、じ、と自分を見つめている男鹿を睨みつける。
「俺、先に出てるからなっ!」
「ハァッ!? お前、俺の息子を放置してくつもりかっ!?」
「うっさいわっ! 一人で抜いてから出て来いっ! ほら、ベル坊、おいで。」
武士の情けと、子供の情操面の問題から、古市はさっさとシャワーを止めると、手早くタオルを腰に巻いて──さっきまでそんなこと気にもしてなかったくせい──、ベル坊に手を伸ばす。
両手を広げて、抱っこするぞ、の仕草をする古市を、ベル坊が無言で見上げ──ぷいっ、とそっぽを向くと、男鹿の腕にしがみつく。
「……って、ベル坊っ!」
こらっ、と怒ってみるが、ベル坊には大人の事情はまだ分からない。
せっかく男鹿と一緒にお風呂に入っているのだから、出るのも一緒がいいと、そういうように、男鹿の肩口にグリグリと額をこすりつける始末だ。
「はっはっは! 見ろ、古市。ベル坊は俺の味方だっ! つーわけで、お前も一緒に入れ。」
「いやいや、状況考えて言えよ、男鹿。」
勝利の笑いをあげる男鹿の額い、軽くチョップを入れながら、そーゆー場合じゃないだろうが、と古市は溜息を零す。
「お前、ソレ……、どーすんだよ?」
「………………古市君。」
ソレ、と言いながら、入浴剤に隠れて見えない男鹿のイチモツを指差せば、男鹿は見たくないほどすがすがしい悪魔の微笑みを浮かべて、ぐ、と、古市の手首を握り締めた。
「……なに。」
「おまえ、さっき……バナナ食いたいとか言ってたよな?」
「………………………………。」
「言ってたよな?」
「…………………………………………。」
それがどういう意味なのか、わからないほど子供じゃない。
けど、分かるほど大人になりたいわけでもなかった。
無言でタラタラと汗を流しながら、念押しする男鹿の顔を、ちらり、と見上げる。
男鹿は、凶悪な笑顔を満面に浮かべて古市を見下ろしていた。
「い……いい、言ったけどっ! でも、そういう意味じゃないしっ! つーか、ベル坊もいるんだぞっ!? お前、そこまで外道じゃねぇよなっ!!??」
なっ!? と、手を伸ばして、男鹿の腕を掴み、ガクガクと揺さぶってみるが、男鹿の子供が泣いて叫びそうな笑顔は消えることはなかった。
それどころか、三白眼をギンッと光らせ──あぁ、これはもう、アレだよ、対戦モードに入っちゃってるよ。
「大丈夫だ、古市。風呂の中から、気付かれねぇ。」
「なんか言ってるよ、この人ーっ!!!!!!」
とりあえず、昼日中の風呂場でする会話じゃねーだろっ、と、古市は叫んでみた。
しかし、男鹿は全く気にすることなく、──いやいや、気にしようよっ、というのが古市の言い分なのだが、それが男鹿に通じたことは、哀しいかな、あまりない。
特に、「こういう空気」の下では。
男鹿は、軽く立ち上がると、古市の脇の下に手を差し込んだ。
するりと撫でられる感触に、わっ、と古市が悲鳴をあげる。
くすぐったい、と体を折り曲げると、そこを掬い上げられるように担がれた。
「あんま暴れんなよ、……っと。」
ひょい、という音が立つかと思うほど軽く足が床から離れ、わわっ、と叫んでいる間に、あっさりと足先が風呂の縁を越えた。
「ちょ、男鹿っ!」
「暴れんなって。ベル坊に当るだろ。」
「って、あのなぁっ!」
ジタバタと足を揺らしている間にも、湯船に入っていく。
ばしゃんっ、と足先で水面を蹴って、くそっ、と古市は歯噛みした。
男鹿と向かい合うようにして風呂桶に足をつけ──あーあ、と古市はガックリと肩を落とす。
男二人で入るには狭い湯船の中、男鹿と向かい合うようにして腰まで浸かる。
男鹿が両足を広げた間に膝を付いて、縁に片手をつける。
ほんの30センチほどの距離を開けて、古市はニヤニヤ笑う男鹿をブッスリと見下ろす。
膝を少し進めれば、臨戦態勢の男鹿のソレが、膝小僧に触れることは間違いないほど、近い距離。
──白い頬を赤く染めて、濡れた唇を歪めるその顔は、男鹿をますます高ぶらせる。……だってその顔は、古市が羞恥を堪えながら、ねだるときのそれによく似ているから。
「ふーるいーちくーん?」
ニヤニヤ笑いながら古市を見上げれば、男鹿の肩口にしがみついたベル坊も、ニヤニヤ笑う。
「なんだよ。」
目線を彷徨わせて──男鹿の足の間に目を落として、それからベル坊を見て、男鹿の目を見る。
男鹿はそんな彼の方に指先を近づけると、ぴく、と動いた古市の唇に、そ、と指を這わせる。
おが、と声にならない声で、古市の唇が名を呼ぶ。
男鹿はそれに、うっとりとした笑みを浮かべると、
「なぁ、古市? 上の口と下の口……先に、どっちで食うよ?」
低い痺れるような声音に、ブルリっ、と古市は体を震わせる。
ずん、と腰の辺りが重くなる。
体内から痺れるようなムズ痒い感覚に、古市はクシャリと顔を歪める。
男鹿が、エロイ、エロイ、って──何度も繰り返すけど。
お前だって、十分エロイと思うぞ。
あぁ、もー、と、古市は頭を抱えたくなりながら、それでも、これだけはゆずれない、と、じー、と自分と男鹿を見ている純真な魔王さまに手を伸ばす。
「ベル坊、ちょっとゴメンな。」
「ダ?」
その目をしっかりと塞いでから、お、と──ちょっと浮かれた調子になった男鹿の声を耳に、少し首を傾ける。
「折れてやるから、お前も譲歩しろ。」
「あぁっ?」
男鹿の鼻先に、ちゅ、とリップノイズを立てて、
「…………ベッドで愛して。
──じゃないと、どっちもしてやんない。」
甘く掠れた声で、官能的に、ひっそりと囁いてやった。
裏を返せば、ベッドにさえ移動したら、どっちもしてやる、というわけで。
その魅惑的な誘いを前に、男鹿が目を大きくみ開くのを見ながら、あーあ、と、古市は思考のはるか遠くで思った。
なんだかんだ言って、俺、男鹿に甘いなぁ、と。
「…………ちゅーくらい、今からしねぇ?」
「ダメ。お前、止まんないだろ。」
見上げてくる男鹿の額をペシリと叩いて、古市はベル坊を抱えあげる。
そのまま湯船から出る古市の尻を、とりあえず一回撫でてから、腰に手を回す。
がし、と捕まれた格好になった古市は、片足を湯船に入った態勢のまま、彼を振り返る。
「こらっ、男鹿っ!」
「古市、チュー。」
「………………〜〜っ。」
ったく、しょうがねぇなぁっ!
──と、乱暴な口調で忌々しく舌打ちした後、古市はベル坊を自分の胸元に押し付けて赤子の視界を隠すと、
「あーっ、てめ、ベル坊……っんぐ。」
体を傾げて男鹿の唇を軽く塞いだ。
軽く触れ合わせるだけの口付けに、男鹿は目をパチパチと瞬く。
その隙に、古市はもう片足を湯船から抜け出させると、
「ってことで、ソレ、なんとかしてから、出てこいよ?
今日は泊まってってやるからさ。」
ぴし、と男鹿の下半身を指差して告げた後──あー、もう、ほんっと俺、甘すぎだよな、と、ガリガリと頭を掻きながら、はぁ、と溜息を零すのであった。
──今夜は甘い香りに包まれて、夜明けも遠い熱帯夜を過ごすことは、間違いなさそうだった。
おまけ
「ただいま〜。」
大学から帰ってきた美咲は、玄関口に見慣れたスニーカーがあるのに気づいた。
と同時、廊下の奥から聞こえた喧噪にも。
家に入る時に、どこかでバカが騒いでるわ〜、と思っていたが、そのバカは我が家に在住していたらしい。
「……あっの、バカ……っ!」
いくら夜じゃないとは言え、ご近所迷惑でしょうがっ! ――と。
元レディース総長ではあるものの、一家の長女としての最低限の常識を持つ姉は、エコーの利いた笑い声の音源向けて歩き出す。
「あら、美咲、おかえりなさ……って、ちょっと、美咲!」
途中、通り過ぎたリビングから母が焦った声を出すが、素通りする。
まったく、母は甘すぎるのだ。
高校生にもなって、風呂場ではしゃぐバカ弟には、きつ〜くお仕置きをしなくてはいけない。
ばんっ、と勢いよく脱衣所を開ければ、脱ぎ捨てた乱雑な服たち。
着替えらしいスウェットとシャツは、きれいに折り畳まれている。
『うぎゃ〜! このアホ!』
『けけけ! いいぞ、ベル坊。』
『あだ〜!!』
非常に楽しそうな声である。
――が、騒々しすぎる。
美咲はカチンと眉を引き上げると、容赦なく扉に手をかけた。
すぱーんっ!
「こらぁ!! あんたたち、うるさいわよ……!!」
■パターン1
怒鳴り込んできた美咲に、ビクゥッと揺れたのは、真っ白い背中であった。
洗い場に座り、真っ裸の背中をこちらに向けていた少年は、あわてて膝を閉じ、両手で股間を隠す。
背中を向けているから見えないのだが、条件反射なのだろう。
「うみゃあぁぁっ! みみ、みしゃきしゃんっ!?」
あわてまくるあまり、噛みまくった声で呼ばれ、美咲は無言で成長した弟の友達の背中を見下ろした。
「げ、姉貴。」
体を縮めて美咲の視線から一生懸命、裸体を隠そうとする古市の横手で、湯船に浸かった弟が顎を反らすようにしてこちらを見上げていた。
白色の湯船に胸元まで浸かった弟の右腕には、しっかりとベル坊が抱かれており、その手にはこの間美咲の父が買い与えた水鉄砲が握られている。
その水鉄砲を、ぴゅー、と古市の肩口目掛けて飛ばして、キャッキャッと楽しそうな声をあげる。
「てめ、何、弟の風呂覗いてんだよ。痴女か。」
険悪な雰囲気で男鹿が風呂の中から睨みつけるのに、美咲はギッとにらみ返した。
■パターン2
美咲が怒鳴り込んだ瞬間、弟とその親友は、湯船の中に居た。
こちらに背を向けるような状態で湯船に浸かっていたのは弟で、その右腕辺りにベル坊がくっついている。
その手には、父がこの間買い与えたばかりの水鉄砲が握られている。
その水鉄砲が向けられた先には、古市の姿が。
中途半端に腰を浮かしていた古市は、まともに美咲と目があった。
「うみゃぁぁっ!? みっ、みしゃきしゃんっ!!!?」
ばしゃんっ、と焦った声で、古市が湯船の中に膝を落とした。
腰まで浸かっていたから、別に大切な部分が見えるわけではないのだが、慌てて股間を両手で隠して顔を俯ける。
男鹿の足の間で屈みこむ古市を湯の中でガッシリと足でホールドしつつ、
「何、弟の風呂覗いてんだよ、てめぇは痴女か。」
ぎろり、と男鹿は姉を睨みつける。
ベル坊が、手の中の水鉄砲を、ぴゅー、と古市の頬に向けて発射する。
美咲はそんな二人をジロリと睨み下ろした。
結論。
「外に丸聞こえなんだから、もうちょっと静かに入んなさいっ!!」
高校生二人の、あられもない姿に全く動じる気配もなく、美咲は腰に手を当ててそう言い放つと、すぱーんっ、と来た時同様、勢いよく扉を閉めた。
まったく、このバカップルときたら……っ! とブツブツ呟きながら脱衣所を出て行く声が聞こえて、思わず古市はガバッ、と顔をあげると、
「バカップルじゃないっすよ、美咲さんっ!?」
と否定の声をあげてみたが、雨に打たれたわけでもないのに、昼間っから一緒に風呂に入っている身で、通る言い分ではなかったことは、ここに記しておこう。
──美咲の態度は、どっちのパターンでも、同じだったという……。