それは、いつもの朝──週末の金曜日を迎えた日のことだった。
駅のホームで待ち合わせをしている古市と、偶然改札の前で会った。遠目にも良く目立つ銀色の髪を見つけて、おー、古市、と声をかけようと男鹿が片手を上げるよりも早く。
「アーダーウィィー!!」
背中にしがみついていたベル坊が、突然、改札を潜り抜けようとした古市に向かって叫ぶ。
お、と、定期を持った手を止めて、古市が改札に向かう流れから横に退くのを見て止めて、更にベル坊が男鹿の背中から頭の上、更にそこを越えて前へ飛び出そうとするから
「お、こら、ベル坊っ! あぶねーだろっ! なんだよ、突然っ!?」
慌てて両手でベル坊の脇を抱えて支える。
大好きな男鹿の両手で抱きしめられる形になったと言うのに、それでもベル坊はジタバタと足掻いて、男鹿の腕から逃れようとする。
離せ、と言わんばかりの仕草に、なんなんだ、と男鹿は眉を顰める。
「よー、男鹿、ベル坊。どしたんだ? なんか朝っぱらからテンション高いじゃねーか。」
そこへ古市が、いつもの能天気な笑顔でやってきて──ベル坊はソレを見て、更に甲高く雄たけびを上げる。
「ダブダウィー! アブダブアダー!!!」
ジバタバジタバタ。ますます激しく手足を動かして、男鹿のホッペやら顎やらを小さな足で蹴飛ばすベル坊に、男鹿は顔をゆがめながら必死に取り落とすまいと掴み続ける。
「こら、ベル坊! おとなしくしろって! 落ちるぞ!!」
「なんかあったのか?」
万が一取り落としでもしたら、大惨事だ。
魔王の子供は大泣きに泣いて、もれなく男鹿も古市も電撃に倒れてしまうことは間違いない。
古市はさりげなく男鹿とベル坊から距離をとりつつ、ベル坊の様子を伺う。
ベル坊の足が男鹿の口の端を引っかけ、グイグイとほっぺたをひっぱる。
「いてぇっ、いへぇふーのっ!! ふりゅいひ、なんひょかしりょっ!」
ベル坊を抱え直そうとしても、益々暴れた来る始末だ。
小さい手を必死に前へと──古市のほうに伸ばして、飛び出したがる子供に、んなこと言っても、と古市は顔を顰める。
「なんかベル坊の興味を引きそうなもんなんて、あったか?」
キョロキョロと見回しても何も見当たらない。いつもの駅の改札前だ。
学生服の高校生が二人、赤ん坊相手に四苦八苦しているのを、遠目に見ている人たちが通っていくだけで、別段物珍しいものなんて何もない。せいぜいが、紅葉狩りの案内のポスターだとか、石矢魔ランドのクリスマス限定チケットのご案内だとかである。
けど、ベル坊は必死になって前へと飛び出そうとして両手を伸ばしている。その顔が、自分の思い通りにならないことに焦れてきたのか、段々と涙で潤み始めるのを正面から認めて──うわっ、と古市は小さく悲鳴をあげた。
「マズイ、男鹿、ベル坊泣きそうだっ!」
「だから、何とかしろっつってんだろ、古市っ!」
「いや、なんとかしろも何も──ベル坊、ベル坊くーん? 一体、何がしたいのかなぁー?」
そうこう言っている間にも、ベル坊の両目には見る見るうちに涙が溜まり始めて、慌てて古市はベル坊に視点を合わせて笑顔を浮かべる。
見てわからないなら、ベル坊の視点に立ってみてみたら分かるだろうかと、そのままベル坊と同じ目線まで頭を下げて、自分が立っていた方角を見ようとしたのだ。
しかし、そこまでする必要はなかった。
ペタ。
「ん?」
「ダブ!」
ベル坊の小さな両手は、自分のすぐ目の前にしゃがんだ古市の頬を掴んで、動きを止めたのである。
「ベル坊?」
パチパチ、と古市が目を瞬くその顔を捉えて、ベル坊は満足そうに笑う。
「ダブダブ。アイアー!」
そして、古市の顔を掌で掴んだまま、男鹿の顔やら腕やらを蹴飛ばし、グイグイと前進してくる。
「おい、古市っ! どうなってんだっ!?」
ベル坊が落ちないように、必死に掴もうとしながら、男鹿が叫ぶ。
けれど、古市はソレに答えられない。
だって、何が起きているのかわからないのは、古市だって同じだからだ。
「……や、良くわかんねーけど。」
言いながら、とりあえず自分の顔面に向かって満面の笑顔で突進してくるベル坊の脇に両手を入れる。
古市の意図を察した男鹿が、ベル坊を抱える手を緩めて、そのまま古市の腕の中へ託すために小さな足を掌で支えてやった。
男鹿の腕から、古市の腕の中へ。
無事に移動を終えたベル坊は、途端に、ピタリ、と暴れるのをやめた。
古市に抱きかかえられて、両手で古市の滑らかなホッペを包み込んだまま、ニコニコと上機嫌に微笑む。
「? あれ、ベル坊、もういいのか?」
てっきり、なにか見たいものか行きたいところがあって暴れてるのだと思った古市は、軽く首を傾げる。
「ダ!」
ベル坊はそんな古市のホッペを軽く叩いてから、両手でシッカと古市のシャツをギューと掴み、首筋に顔をうずめて満足そうにスリスリと頬を摺り寄せる。
いつもは男鹿やヒルダに甘えるときに見せる仕草に、古市と男鹿は困惑の表情を隠せなかった。
「ベル坊?」
ベル坊は基本、男鹿とヒルダ以外の人間に預けられるのを良しとはしない。特に夏休み前などは、男鹿から少しでも離そうものなら、大騒動が起きるのは必須だったくらいなのだ。
それらは結局のところ、男鹿から離れている間、ベル坊は普通の子供よりも弱くなってしまうので、それをベル坊自身が毛嫌いしているため、だったらしいのだが──そのため、自分を無条件で愛し守ってくれるヒルダや、自分に決して危害を加えず、かつ他から守ってくれる相手……美咲や男鹿母などにしか、抱かれようとはしなかったのである。
ただ、例外として男鹿が預けた相手には、しぶしぶ──物凄くしぶしぶではあったが、その身を預けることはあったけれど、それだって、ものの数分くらいしかおとなしくしてくれていなかったのだ。
まぁ、月日が経つに連れて、人間界は魔界ほど恐ろしい物が闊歩しているのではないと認識してくれたのか、東条戦を経て男鹿との繋がりが強くなったためなのか、夏休み明けくらいからは、普通の子供と変わりないくらいにはなってきていたが。
それでも、だ。
「んだ、ベル坊。お前もしかして、古市のところに行きたかったのか?」
「ダブ!」
古市の腕の中で満足そうな顔になるベル坊に、男鹿がそれで古市の顔見た途端暴れてたのか、と納得したように頷く。
ベル坊は、赤ん坊を抱っこしなれていない古市の、妙に力の入った腕の中で、居心地がいい位置を探るように身じろぎしながら、満面の笑みを浮かべて頷く。
その、小さく小刻みに動くベル坊に、四苦八苦しながら自分にとっても重みを感じにくい抱き位置を探りつつ、古市は、イヤイヤ、と納得したらしい男鹿に向かって突っ込む。
「おかしいだろ、それ。」
「なにがだ?」
男鹿は分かってないのか、不思議そうに首を傾げる。
それどころか、ベル坊がいなくなって肩がちょっと楽になった、と喜ぶ始末だ。
そんなこと言ったら、ベル坊がイヤがるんじゃないのかと、ちょっとひやひやしながら──何せ今、ベル坊に泣かれたらまともに電撃を喰らうのは古市なのだ──、チラリ、と腕の中のベル坊を見下ろす。……が、男鹿の言葉なんてまるで耳に入ってないような顔で、ベル坊は古市の鎖骨辺りにグリグリと額を押し付ける。
地味に骨に当たって痛いソレに、古市はベル坊の体を抱え直しながら痛くない場所へと位置調整してやる。
「何がじゃねーよ。ベル坊がお前とヒルダさん以外に抱っこをせがむのなんて、初めてじゃねーか。
なんかあったんじゃないのか?」
「あん? そうだったか?
けど、邦枝とか抱っこしてたじゃねーか。」
顎に手を当てて首を捻る男鹿は、とことん、ベル坊が「抱っこ」をさせる相手に興味がないように思えた。
そういやはじめの頃は、ベル坊が男鹿から離れるのをイヤがるということを忘れて、しょっちゅうミルクを作るときとかに、古市の膝の上に勝手に乗せては、ベル坊を泣かせかけていたものだった。
危機を察した古市が、そのたびに慌てて男鹿の背中に戻してやって、難を逃れ続けていたが。
「いや、それは抱っこされてたってだけだろ。抱っこはせがんだことはねーだろーが。」
「そうなのか?」
そういいながら、古市は初めて六騎聖と屋上で対決したときのことを思い出す。──あの時、邦枝はベル坊を抱っこしていた。
抱かれ心地が中々良かったのか、それともベル坊も小さいながらに男の子だからなのか、邦枝に抱っこされることには全く抵抗はないみたいだった。──とは言っても、あの当時はすでにもう、ベル坊は男鹿やヒルダ以外の人間にも平気で抱っこされるようになっていたので、その心理はベル坊じゃないとわからない。
ただ、それでも古市が分かるのは一つだけだ。
ベル坊は、男鹿とヒルダ以外には、一度だって自分から「抱っこしろ」とせがんだことはないのだ。
なのに、だ。
「今日、突然俺に抱っこをせがむのって……おかしくね?」
「そーか? ……お、あれじゃね? しばらく会ってなかったから、古市の顔見た途端に愛が芽生える、みたいな。」
「いやいや、そんなヒルダさんに刺されるようなことは冗談でも言うなよ。つーか、別に俺ら昨日も会ってるしね?」
愛が突然芽生えるようなことは、何もない。
そういいながら、古市は自分の腕の中で、何が楽しいのか嬉しそうに笑っているベル坊を見下ろした。
──しかし、抱き始めてまだ5分も経っていないのだが、……だがしかし。
「……ベル坊くーん、そろそろ男鹿の方に戻らないかーい? 腕が疲れてきたんですけど。」
「マジでか、お前ヨワヨワすぎだろ。」
赤ん坊と舐めてかかってはいけない。ベル坊はこう見えて、他所様の赤ん坊よりもすこーしだけ大きいのである。
頭とか、チンコとかの比率的に。
そんなベル坊を、服の分だけ軽いとは言えど、それでも総重量は軽く見積もっても5キロ以上はある体を、抱え続けているのは結構大変なのである。
良くこんなものをオブって、男鹿はあんなに飛んだりけったりできるよなぁ、と、シミジミと古市は感心する。
「ベル坊? ホラ、男鹿のところに戻りたいだろ?」
「ダ!」
ふわふわと顎先で揺れる柔らかな緑色の髪に顎をうずめて、ベル坊の顔を覗きこむのだけれど、ベル坊はプイと顔を背けて、古市の胸元に頬を摺り寄せる。
ココがいい、というように、甘えるように鼻先を押し付けられて、あー、と、古市はガックリと肩を落とした。
「しょーがねーな、古市、しばらくベル坊を頼むぜっ!」
そんな古市の肩を、ぽむぽむと嬉しそうに叩いて、やー、今日は肩が楽チンだ、と男鹿は上機嫌に軽やかに改札に向けて歩き出した。
「うーっす。」
「おはようございます。」
ガラッ、と教室のドアを開けた瞬間、え、と誰もが固まった。
男鹿の背中に、赤ん坊がいない。
それはいい、時々そういうことはあるからだ。
だが、その場合、──いつも赤ん坊が居る場所は、金髪美女の腕の中だった。
授業中でもお構いなしに、赤ん坊をそれはそれはいとしそうに見つめてお世話する美女……オガヨメことヒルダの。
しかし、今日は違った。
「え、ベルちゃん、今日はどうしたのっ!?」
思わずガタガタと椅子を鳴らして立ち上がり、邦枝は古市の腕の中でウットリと目を閉じているベル坊を凝視する。
男鹿に自分の分のカバンも持たせて、ベル坊を両手でしっかりと支えるようにして抱きかかえた古市は、あー、と苦笑を滲ませる。
「なんか良くわかんないんすけど、朝会った時から、ずっと俺から離れないんすよ……。」
「離そうとすると、すっげーグズるんだよ。」
持っていたカバンを、自分の机の上と古市の机の上に放り投げて、ドッカリと椅子に座りながら、男鹿は古市とベル坊を見上げる。
ベル坊は、古市の体に、これでもかというくらい、ギュー、としがみついている。そして時々、胸元……いや、首筋に顔を押し付けて、くんくん、と匂いをかぐような仕草をしてから、それはそれは嬉しそうに笑うのだ。
──もしかして、古市の匂いか何かに反応してるのかもしれない。
ふとそう思って、男鹿は、「赤ん坊って結構重いんすよねー。」と邦枝に離している古市の背中を見上げる。
「古市君、もしかしてずっと抱っこしてるの? それだったら、もう少し腕の位置を変えたほうがいいんじゃないかしら……。」
「え、腕の位置っすか?」
「そう、あのね、良くヒルダさんもしてると思うんだけど……。」
こういう風に、と、邦枝が古市の腕を手に取り、ベル坊の体を支えやすいように教えようとする。
そのタイミングで、男鹿は、グイ、と古市のシャツを自分の方に引っ張った。
「おわっ!?」
思いっきり引っ張ったせいで、グラリと傾いだ古市の体が落ちて来る。
男鹿は素早く古市の腰に腕を回し、膝で古市の足を支えると、座り込んだまま彼の体を抱きこむ。
勢い良く落ちてきた古市の肩が、ガツンと男鹿の肩先にぶつかり、薄い尻が男鹿の脚の上に落ちる。
「ちょ──っ、古市君、大丈夫っ!?」
すとん、と男鹿の膝の上に座る形になった古市の首筋に──グ、と鼻先を押し付ける。ベル坊がそうしていたように。
すんすん、と鼻を啜り、古市の匂いをかぐ。
古市を支えようと伸ばした腕をそのままに──邦枝が、小さく喉の奥で悲鳴をあげる。
まるで、男鹿が古市を後ろから抱きかかえ、首筋に口付けをしようとしているように見えたのだ。
「……ひっ! おい、男鹿っ! くすぐってぇっ! なんなんだよ、一体っ!?」
古市はベル坊を取り落とさないように自分の膝の上に乗せてから、体を捻って男鹿の額を掌で押しのける。
真横で揺れる男鹿の髪がくすぐったいやら、首筋に吹きかけられる息がくすぐったいやらで、眦を吊り上げて叫べば、
「シャンプーの匂いが違うくらいだな。」
「──……はぁっ?」
ふーん、と、男鹿は顔をあげて、今度は古市の肩口に自分の顎を乗せる。
何を言い出すんだと眉を寄せる古市に、男鹿はチラリとキラキラ光る古市の髪に手を伸ばそうとしているベル坊を見下ろした。
「匂い嗅いでるように見えたんだよ。」
誰が、も、何が、も説明はなかった。
それでも十分理解できて、ああ、と古市は一つ頷いた。
「そういや、時々頬刷りしながらにおい嗅いでたな。──ってことは、シャンプーの匂い、か?」
この匂いがベル坊が凄く好きだということなのだろうかと、古市は首を傾げる。
確かに、昨日までの自分と今日の自分で違うところといえば、ソレだ。
「変えたのか?」
「ん、昨日、新しいシャンプーが下ろされてたから、使ったけど……。」
でも、別段目新しい匂いではなかった。
先日まで使っていたほのかが大絶賛していた香よりも少し甘くて、でも、入浴剤の香に負けてしまうくらい、弱い香だったはずだ。
風呂上りに髪から匂いがしていなくて、これはほのかがすぐに使わなくなるだろうな、と思ったくらい。
「でも、朝には全然においしてなかったぜ?」
「ちょっとしてる。なんか……、甘い? ケーキみたいな匂いだな。」
「あー、確かに、花の香っつーよりバニラっぽかったかも。」
もしかして俺、匂い麻痺してる? ──と古市が自分の髪をつまみあげると、ベル坊がソレを寄越せといわんばかりに手を伸ばしてくる。
膝の上に立ち上がって、両手で古市の胸を押して、あー、と手を伸ばしてくるベル坊に、痛い痛いと、古市は慌ててベル坊の体を抱っこする。
あまり肉がついていない古市は、ベル坊に脚で立たれると膝が痛くてしょうがないのである。
そのまま抱き上げれば、ベル坊は近づいた古市の髪に、嬉しそうに手を伸ばす。
わしっ、と一掴み掴んで、至極ご満悦に笑顔を浮かべる。
「わっ、ちょ、ベル坊痛い、痛いってっ!」
「あーだー!」
手に入れた銀色の束に、勝ち誇ったようにベル坊が喜び、そのまま古市の腕を踏み台にして肩をよじ登ろうとしていく。
髪を引っ張られ、更に痛いと眉を顰める古市に、邦枝は手を出していいのかどうなのか、迷いながら指を折りたたみする。
そうこうするうちに、ベル坊は古市の体を登り終え、頭の上にペタンとのしかかると、ふー、と満足そうな笑顔を浮かべる。
そして、いい香のする頭の上に顎をうずめて、スリスリと頬を摺り寄せた。
「……よほど、その匂いが気に入ったみたいね……。」
「はぁ、ミルクみたいな感じがするんすかね?」
邦枝が感心したように呟くのに、古市はまさかココまで赤ん坊受けがいいって──と、苦笑を滲ませる。
その古市の右頬に、ぐりぐり、と黒い髪が押し付けられる。
「……おい、男鹿。」
頭の上には、ずっしりとベル坊の重みが。
そして右肩からは、くんくん、と再び匂いを嗅いでくる男鹿の重み。──ナニコレ、なんか物凄いしょっぱい感じがする。
生ぬるい視線を左右から感じて、古市は、だから擽ったいっつーの、と男鹿の体に肘をグリグリ押し付ける。
いい加減離せ、と言う古市に、けれど男鹿は古市の腰に回した腕をギューと強めると、もうちょっと、と古市の肩先で顎をグリグリしながら、鼻を耳元に寄せてくる。
「なんか癖になりそーな匂いなんだよな。」
「はぁっ? なんだよそれ? つーか、俺は別になんとも思わなかったけどな……。」
そんなにいい匂いなのか? ──と、古市がコキリと首を傾げる。
「男鹿が、そんな腑抜けになる匂いって……。」
「新製品のシャンプーかなにか? 古市君、それ、どんなヤツかなー?」
ざわざわ、と周囲がざわめき、ドラッグストアでバイト中の夏目が興味津々に近づいてくる。
最近新製品なんて出てなかったと思うんだけど……あ、もしかして化粧品店でしか売ってないような類のかな? なんて笑顔で聞かれても、古市には答えられるものはなかった。
「いや、わかんないんすよ。なんか、コレくらいのピンク色のボトルに入ってて、シャンプーって書いてあっただけで、商品名とかなくって……。」
これくらい、と指で大きさを作る古市に、そんな大きさでピンクって──、と、夏目が視線を天井に彷徨わせたときだった。
ゴト……っ!
「貴之殿……っ! まさか……っ、まさか、あのシャンプーを使われてしまったのですか──……っ!?」
いつの間にか入り口に立っていた、聖石矢魔の制服を着た、大きなヒゲ面のおっさんが、驚愕の表情を浮かべてそう叫んだのは。
足元には、おっさんが取り落とした弁当箱が無惨にも口開き、白い御飯とピンクの桜デンプが散り、タコさんウィンナーがコロリと転がって行った。
「アランドロンのおっさんじゃねーか。」
古市の首に顔を近づけたまま、チラリ、と男鹿が目線を飛ばす。
アランドロンは、ああ、と顔を覆ってから、自分が足元に撒き散らした弁当箱を見て、ますます嘆きの声をあげる。
「あぁっ、せっかく、貴之のために朝早くから魔界で食材を集めて作ってきた、特製愛妻弁当誕生日verが……っ!」
その場に膝をついて、慌てて弁当箱に中身を戻そうとするアランドロンに、クラスの中がざわめく。
「愛妻弁当っ?」
「あのおっさんが、奥さんって……おいおい、古市のヤツ、ああ見えて立ちかっ!?」
「朝早くから旦那のために食材まで集めてくるって、すげぇいい奥さんじゃねーか……っ!」
なんか物凄く違う方向に感動していく石矢魔生(不良)たちに、いやいやいやいや! と古市はすかさず突っ込む。
「違うだろっ!? それ受け入れていいとこじゃねーからっ! 突っ込めよ! 誰かおかしいって言えよっ!! つーか、魔界で取ってきた食材とか作って弁当作んなよ! それ確実に俺死ぬからっ!」
「食材集めとか、モンハン……。」
「いやいや谷村さんっ! そっち方面で興味示すのも違うからっ!!」
後ろから入ったかすかな突込みにすら突っ込んで──古市は、もういいから誰か突っ込んで、と、現実逃避するために必死に突込みに励んだ。
もう弁当箱とか、愛妻弁当とか、さりげに今日が誕生日だってことを暴露されたのに誰もそこに関心払ってくれないのとか、そこのところで頭一杯一杯に、……なり、たかった。
が。
「古市君が昨日使ったシャンプーに、何か問題が……?」
マジメを地で行く邦枝だけは、古市の空気を読んではくれなかった。
彼女は真剣な表情で、弁当箱の中身を拾いおえ、そ、と蓋をするアランドロンと、男鹿とベル坊に愛されまくっている古市とを見比べる。
アランドロンは、邦枝の問いかけに、はい、と一つ頷くと、両手で大事そうに弁当箱を持ったまま、
「あのシャンプーは、魔界特製の『愛される貴方になるシャンプー☆これで貴方もモテモテです』という悪魔を一撃で落とすフェロモン入りの物なのです。」
淡々といつものように無表情に説明してくれた。
「……………………え、と……、つまり、それって……?」
邦枝は古市を横目でチラリと見る。
正しくは、その頭の上に乗っかったベル坊を。
悪魔って、……悪魔野学園の連中っていう意味じゃなくって、そのまま、「悪魔」よ、ね?
ツゥ、と邦枝の米神から汗が滴り落ちる。
古市の髪にじゃれているベル坊、その首筋に顔をうずめてクンクン匂いをかいでいる男鹿、──そして、教室中の誰も気付いていないが、その古市の右ふくらはぎにしがみついて、ハァハァ言っているコマ犬が一匹……。
「ゆきちゃん、ゆきちゃん、ゆきちゃぁぁあーんっ! 今日もごっつ美人やでぇっ! でもって、なんか今日は、えらいいい匂いすんでぇぇっ! もう、ゆきちゃん、この脚で儂を踏みつけて、グリグリしてぇぇぇっ!!」
目をギューッと閉じて、ぐりぐりぐりぐり、と脚に額をぶつけてすがるコマちゃんに、古市は不思議そうに脚を見下ろして、左の踵でコマちゃんがすがっているあたりを摩る。
その足裏にコマちゃんの頭が軽く蹴られて、コテン、と転がったコマちゃんは、そのまま床の上でおねえすわりになると、
「あぁ、イケズなゆきちゃん……っ! でも、そんなユキちゃんも、すっきやねんーっ!!!」
ガバッ、と起き上がって、古市の脚に再びしがみつく。
邦枝は自分にしか見えていないらしいその光景に、物凄く生ぬるい目を向けた。──クラスメイトの目さえなかったら、引っつかんですぐさま投げ飛ばしてやるものを。
「悪魔……っつぅと、悪魔野学園のやろうどもか?」
「そうですね、このあたりではそうかと。」
神崎が目つきも鋭く問いかければ、アランドロンはおおらかな仕草で頷く。
確かに、このあたりでは「悪魔」はココに居る者たちと悪魔野学園の連中だけだからだ。
「──ふーん、うちの連中を催眠にかけたとか言うあの技、もしかしてそのシャンプーの力、なのかな?」
ス、と夏目が目を細めてアランドロンを見やる。
アランドロンは直接床に正座して座り込みながら、いえいえ、と軽く手を振った。
「そういう類のシャンプーは、また別の商品なのですよ。
今回私が購入したのは、あくまでも悪魔にしか効かないものなのです。」
「──……って、アレかっ!? あのピンク色のボトルシャンプーがソレなのかっ!? つーか、購入つったよなっ!?」
すかさず古市は、思い切り良く突っ込むが、首が痛いほどのベル坊の重みと男鹿の拘束のおかげで、綺麗には突っ込めなかった。
「マカオ特製ってことは、いわゆるガラナチョコみたいなもんか?」
姫川は、アランドロンの言葉を聴いて、早速ipadでなにやら操作し始める。
そういや昔、女性をイチコロにする香水とか言うのがあったな、と思いつつ──、しかし、悪魔野学園の連中のみを落とすとか、そんな的を絞った香なんて作れるのか? と顔を顰める。
いや、それとも、あの学園内にあらかじめ「元となる香」を蒔いておいて、そこに「それと足したら惚れ薬」になる香を付け足すという商品ならどうだ?
頭の中で素早く、姫川は商品戦略を考える。指先で素早く検索するが、それらしい商品なんてクチコミですら流れることはなかった。
「まさか古市殿が使われてしまうとは……。」
言いながら、アランドロンは古市を見て──ポッ、と頬を赤らめる。
それはいつものような仕草に見えるけれど……でも、その目や仕草に篭っている「熱」が、いつもに比べて随分と上がっているように見えた。
「あぁ、さすがは後宮御用達のシャンプーです。こうして距離をとっていても、なんとかぐわしいかほり……っ。」
はぁ、と、吐息を零して、アランドロンは弁当箱をギュゥと抱きしめる。
そのあまりのキモさに、古市はゲンナリした顔を崩せない。
「コレ以上1歩でも近づけば、すぐにでも古市殿の体をもみくちゃにして抱きしめて、押し倒したくなるほどですぞぉっ! さすがは古市殿、適正は完璧ですな。」
はぁぁ、と、クネクネと体をねじるアランドロンに、ゾッ、と古市は背筋を凍らせる。
両手で自分の体を抱きしめると、
「アホかぁぁぁっ!!!!! つーか、なんでお前、あんなの風呂場に置いておくんだよっ!」
使ってしまったのですか、もクソもねーだろーがっ! と、ダンッ! と古市は強く拳を机に叩きつける。
自分が使うために持ってきたのであれ、それはちゃんと使い終わった後閉まっておくべきだろうっ!
そう叫んで──出来れば立ち上がって怒鳴りつけたい気は満々だが、男鹿とベル坊がそれを許してくれない。
っていうか、悪魔にモテるためのシャンプーって、一体何を考えて……、といいかけた古市は、ハタ、とそこで気付いた。
昨日、古市が風呂に入ったとき、すでにもうソコにはあのシャンプーがあった。──と、いうことは。
「──……って、ちょっと待てっ! じゃ、あのシャンプー、ほのかも使ってんじゃ──……っ!?」
自分より先に風呂に入った妹のことが頭をよぎって、古市は慌てて椅子から立ち上がろうとする。
──が、腰を上げかけたところで、男鹿の腕に邪魔をされ、再びストンと男鹿の脚の上に抱きしめられた。
「男鹿っ、邪魔すんなよ!」
今、大事な所! ──と、古市は肘で男鹿の体をグイグイ押しのけようとするが、男鹿は古市の肩に顎を乗せたまま、動こうとしない。
「んー、もうちょっと。」
「いや、今、もうちょっととか言ってる場合じゃないかんなっ!?」
お前ちゃんと分かってるっ!? と叫ぶ古市を前に、邦枝はサッと顔色を変える。
ほのか、というのが誰のことなのかは分からなかったが、話の流れ上、古市の家族であることは分かった。おそらくは妹の名前なのだろう。
その妹が悪魔について知っているかどうかはわからないが、兄である古市が「ヨワヨワ」なのに、妹が悪魔に抵抗できるほど強いとは、到底思えなかった。
他の誰に分からなくても、邦枝にだけはその危険性は分かった。
今、この町に──「悪魔」がどれほど居るのか。
その悪魔の中に、何も知らない娘が一人、悪魔を虜にする香を持って歩いていたら、一体、どうなることか……っ!
想像しただけでもブルリと体が震えて、邦枝は咄嗟に古市を睨み据えた。
「古市君、妹さんはドコに……っ!?」
「学校っす。硬田中学の……。」
とにかく、今すぐソコに行きましょう、と、宣言する邦枝に、寧々や谷村達が、何をそこまでといぶかしげな視線を向ける。
「男鹿、行くぞっ!」
ほら、と、ぽんぽんと腰に巻きついた男鹿の腕をたたけば、男鹿はチラリと目をあげて、しょーがねーな、と眉を寄せた。
そして、古市の腰に回していた手を解き──古市が立ち上がろうとする、その刹那を狙って、男鹿はすかさず古市の足首に脚払いをしかけた。
おわっ、と間抜けな声をあげて倒れ掛かってくる古市の背中に左手を沿え、脚で腰を跳ね上げさせ、膝裏へすかさず右手を差し込む。
古市の頭の上に乗ったベル坊が、キャーッ、と楽しげな声をあげて銀色の髪をしっかりと掴みながら振り回される。──あれ、地味にいてーんだよな、と視界の片隅でソレを見た時には、すでにもう準備万端。
「よし、行くぞ、古市!」
「……って、まてまてまてまてっ! なんだこの体勢はっ!?」
しっかりと古市を抱えて、顎先でフワリと揺れる銀色の髪から漂う甘い香に満足感を覚えながら、男鹿はスックと凛々しく立ち上がる。
ベル坊も古市の頭にしがみついたまま、いつもよりも近い位置に見える男鹿の顔に、ますます喜んで古市の髪を掴んで雄たけびをあげる。
それに、痛いっ、と古市が悲鳴をあげれば、空気が読めるいい子な魔王は、慌てて小さいもみじのお手手を離してやる。そして、自分が引っ張ったあたりの頭を、なでなで、とつたない手で撫でてもやった。
「なんだって、……おひめさまだっこ?」
「なんで棒読み! いや、問題ソコじゃなかった! なんでお前、俺を横抱きにすんのっ!? 歩けるからな、俺っ!?」
下ろせっ! とジタバタ暴れる古市を、落とすじゃねーか、と嫌そうな顔で男鹿が押さえつけようとするが、上手くいかない。
そんな男鹿の足元では、男鹿が古市を抱きかかえようとしたときに蹴り飛ばした時、偶然一緒に蹴飛ばされて転がされたコマちゃんが、自分の頭上に見える古市の薄い尻を見上げて、ハァハァと荒い息をついていた。
「ゆ、ゆきちゃんのプリティヒップや……、これがスカートやったら、パンツ見放題やな……っ!」
「もう、消えればいいのに。」
鼻血まで流しそうな勢いで、揺れる古市の尻をガン見するコマちゃんを、邦枝が冷ややかな目で見下す。
その視線を感じた古市が、男鹿の胸元をドンッと叩いて。
「ほらっ! 邦枝先輩に、ものすっごい冷たい目で見られてるだろーっ! 下ろせっ! 俺は別に病人じゃねぇっ!」
「だってお前、この匂いのせいで狙われンだろ? だったら一緒に居たほうがいいじゃねーか。」
「ダブ。」
「いや、お前ら単に匂い嗅いでたいだけだよなっ!? むしろ自分の為だよなっ!?」
あんまり古市が暴れるので、チッ、と男鹿は舌打ちをして、古市の背中を支えていた手に力を込めると、そのままグイと自分の体の方に引き寄せる。
おわっ、と可愛くない悲鳴をあげる古市を、正面から抱き寄せると──まるで子供にするような仕草で、軽々と迎え合わせに古市の体を抱き上げる。
米俵のような持ち方になれば、古市から文句が飛んできた。
「ちょっ! てめっ、俺は荷物かっ!」
「うっせぇ、とにかく行くぞ。中学でいーのか?」
慌てて男鹿の首にしがみつく古市の尻の下に右腕を置いて、左手は古市の背中に当てる。
小さい子供と対面抱っこするような体勢で古市を支えてやれば、周りからなんとも言えない微妙な視線を貰った。
古市は男鹿の頭に抱きつくような体勢のまま、うっわ、たっけぇ、と顔を歪める。──その頭の上でベル坊は、アランドロンよりも高い位置にある自分の顔に、至極ご満悦で両手を挙げて勝ち誇る。
そのまま歩き出そうとする男鹿に、いや、だからちょっと待てってっ! と古市が男鹿の髪の毛を掴んで、引っ張ろうとしたときであった。
「いやいや、心配にはおよびませんぞ、男鹿殿、古市殿。」
教室の出入り口の前を陣取って正座していたアランドロン@ことの元凶が、すちゃ、と片手をあげて自分の存在をアピール。
なんだ? と見下ろす二人に、アランドロンはコックリと頷くと、
「よーく思い返してみてください。古市殿が使ったとき、シャンプーのボトルは、未開封だったのではありませんかな?」
したり顔で、そう言った。
その言葉に、──ん、と古市は顎に手を当てて思い返す。
いつもよりも近く見える天井を見上げて、男鹿と邦枝の見上げる視線を受けながら、そーいえば、と古市は呟く。
シャンプーしようと思ってみたら、ポンプが下に下がっていたので、捻ってポンプ部分を押し出したような気がする。
「未開封、だった、かも。」
開封した後も、ポンプ部分を収納することは出来るけど、それならばワンプッシュで液体が出てくるはずだ。一度も使っていないのを示すように、あのシャンプーは、3回目のプッシュでようやく中身が出てきた。
「そうでしょうとも。」
だからアレは、未開封、か?
と、それならほのかは大丈夫か、とホッと胸を撫で下ろした古市は、しかしすぐに、「それなら父さんと母さんがピンチっ!?」と、自分の後から風呂に入った二人に気付いて、ざぁぁぁ、と真っ青になる。
男鹿はそんな古市を見上げて、とりあえず神妙な顔で、こう言っておいてやった。
「大丈夫だ、古市。お前に(悪魔の)弟か妹が出来たら、ちゃんとベル坊が友達になってやっから。」
「ダブ!」
「ホラ、ベル坊もそう言ってんぞ。」
「全然慰めになってねぇよ、お前らっ!!!」
ベシッ、と容赦なく平手で男鹿の頭を叩く古市に、アランドロンは仲がよろしい二人に、いやいや、と手を振って先を続ける。
「誤解なされませんように、男鹿殿。ちゃんと私が、古市殿がお風呂に入る直前にシャンプーを取替え、そして出た後に戻しておきましたから、何の心配もありませんぞっ!!」
胸を張って朗らかに笑いながら、アランドロンは種明かしをする。
そんな彼に、「おー、古市、良かったな。」と男鹿は能天気に言い、「アゥ。」とベル坊は少し残念そうに古市の髪に顔をうずめ。
そして、
「……って、結局てめぇが主犯なんじゃねーかぁぁっ!!!!!!」
古市は、ようやく今、アランドロンに自分が嵌められたことを悟るのであった。
思いっきり叫ぶ古市の熱い目を受けて、アランドロンはポッと頬を赤らめて視線をそらす。
「そんな熱い目で見つめられたら、わたくし……ポッ。」
「きしょい顔すんなーっ! ってかお前なんなのっ!? 俺が使っちゃったのですかとか事故みたいなこと言って、結局てめーが俺をはめてんじゃねーかっ!」
「いやいや、わたくしは古市どのには、むしろはめてほしいというか……ポポッ!」
「いにゃぁぁぁぁっ!!!」
きしょい、ものすごくキショイ!
全身に鳥肌を立てて、古市は思わず目の前にあった男鹿の顔にしがみついた。
「男鹿! 男鹿、あれなんとかして! ものすごい気持ち悪いっ!!」
古市の周囲では、「古市の奴、やっぱタチ……」だとか、「お前、あのおっさんと……」だとかいうつぶやきがボソボソ交わされている。
それに古市はもう半泣き顔で、男鹿の頭を抱きしめながら揺さぶる。
「あー、つーか、おっさん。てめー、結局古市にシャンプー使わせてどーしたいんだ?」
古市の体をしっかりと抱きしめなおしながら、男鹿はとりあえず、至極当然な疑問をぶつけてみた。
その疑問に、あっ! と、古市と邦枝が今更気付いたような顔になる。
「それだっ! そうだよ、んな、悪魔に狙われるようなヤバいシャンプー、なんで俺に使わせようとしてるわけっ!?」
するとアランドロンはイエイエ、と手を振ると、
「危険なんてとんでもありませんぞ、古市殿。今日は古市殿の誕生日でしょう? 命を狙われたまま誕生日をのんびりなんて過ごせますまい。」
「……え、古市君、誕生日なの?」
「おー、そりゃ、おめっとさん。」
当然のように常識めいたことを言うアランドロンの言葉に、周囲からおめでとうの言葉が飛んでくる。
それに、やっぱり男鹿にしがみついたまま下を見下ろし、はぁ、ありがとうございます──と、苦笑をにじませながら答える古市。
「のんびり過ごせないっつーか、そりゃ今日は週末だから、のんびりなんて寝てられねーよな、古市?」
何言ってんだ、おっさん。──と男鹿が、古市を見上げながら答える。
その「意味」を的確に理解した古市は、とりあえず肘鉄を男鹿の頭頂部に叩き落としておいてやった。
「危険なんてないって──だってこのシャンプー使ったら、狙われるんだろ?」
「いえいえ、それは狙うの意味が違いますでしょう? 古市殿に近づいた悪魔はすべて、あなたにメロメロリーンになってしまうわけですから、むしろ危険なのは、古市殿のそのキュートなおしりですなっ!」
グッ! ──と、まるで自分よくやった! というかのようなドヤ顔で、アランドロンが親指を立てる。
その言葉に、古市はザァァァァ、と音を立てて血をひかせ、男鹿は逆に眉を跳ね上げてハァッ!? と叫ぶ。
「あ……あほかぁぁぁぁぁっ!!!!」
のんびり過ごせるかっ! 過ごせるわけがねーだろぉがっ!!
もう涙までにじませて、古市は叫ぶ。
そんな古市に、そうだ、もっと言ってやれ、と男鹿もこぶしを握って後押しする。
ベル坊もよくわからないままに、ダッ! とこぶしを突き上げた。──その男鹿の足元で、コマちゃんもこぶしを突き上げ、
「ゆきちゃんサイコーッ! 白濁液にまみれてハァハァされるとエロくてええでぇぇっ!!」
そんなことを叫んで、思いっきり邦枝に蹴り飛ばされていた。
──そんな、カオスな部屋のドアが、ガラリ、と開いたのはその時であった。
「古市、朝っぱらからうるさいぞ。」
教室のドアを開いて、遅まきながら登校してきたヒルダは、室内に入るなり飛び込んできた異様な光景に、軽く眉を寄せた。
目の前には、弁当箱を抱きかかえたアランドロンが正座してすわり。
その斜め前には、古市を抱っこした男鹿──はまぁ、家では大体こんな感じだからどうでもいい。
周囲の人々は、そんな男鹿と古市を遠巻きにして眺めていて──何よりも、異様なのは。
「──……ぼ、ぼっちゃまっ!? な、なぜ古市なんぞの頭の上になど……っ!!?」
ヒルダが敬愛して止まない主が、古市の見た目も手触りも綺麗なのに、中身が非常に残念きわまりない頭に、ガッシリとしがみついているのであるっ!
これを、残念に思わずして、一体何を残念に思えというのだろうっ!?
愕然と目を見張り、動揺のあまり、うっかりアランドロンを蹴飛ばしたヒルダは、そのままベル坊の方へとフラフラと近づいた。
「なんぞって、ヒルダさん……。」
「ダブ!」
相変わらずのベル坊至上主義、ベル坊以外は蛆虫かゴミ男かドブ男、と言い張るヒルダの主張に、古市は乾いた笑いを浮かべる。
その頭の上で、ベル坊は上機嫌で古市の髪を掴む。
そうして鼻先を寄せれば、ふわふわと甘く優しい香がベル坊を包むのだ。──とてもいい匂い。
とろん、と目を緩ませるベル坊に、ヒルダはいぶかしむ表情を浮かべ……そして、ハッ、と目を見開いた。
古市の、白い面を見上げ、その貌を覆う艶やかな銀色の髪に魅入る。
──この、学校に近づくほどに、甘い花のような香がするとは、思っていた。
鼻先を擽り、かすかにまとわりつくよな、甘い甘い花の香。とてもいい香で、それを鼻先で追えば、フイ、と逃げてしまい、追いかけたくなるような……そんな心地になるもの。
これほどいい匂いの花ならば、少し摘んでいき、ぜひ坊ちゃまにも嗅いでいただこうと思って探してみたが、匂いの元は探せなかった。
その花の匂いが、──いや、花だと思っていたものが、目の前から香ってきている。
「古市、貴様……。」
ふわり、と香る甘い香。……それを嗅ぎながら古市を見ると、胸が忙しなく動き、ギュ、と奥で甘酸っぱい感情が蠢く。
ベル坊を見ている時とも違う、好物を見る時とも違う。──それらを全部ない交ぜにして、凝縮したかのような感覚。
「──……っっ。」
その感情を、侍女悪魔たる自分が、ベル坊以外に覚えることに怒りを覚えて、ヒルダは懐からハンカチを取り出すと、それを鼻先に押し当てた。──それで匂いが楽になるわけではなかったが、古市を見て思わず紅潮しそうになる頬を隠すことには、役立った。
「ヒルダさん?」
苛立ちまぎれにアランドロンの名を呼び……ことの経過を報告しろと言外に告げるヒルダに、古市が不思議そうな顔で呼びかける。
その呼びかけにすら! 胸が思わずトキメキを覚える自分に吐き気がする。
「ベル坊っ、ホラ、降りろっ、ヒルダさんがベル坊を呼んでるぞっ!」
ジロリ、とにらみつけたことに、慌てて古市は自分の頭の上からベル坊を下ろそうとするが、ベル坊はイヤがってしっかりと古市の髪の毛にしがみつくばかりだ。
そんな姿に、「ぼっちゃま! そこまで古市を……っ!」とショックを受けることは、なぜかなく……逆に、それも仕方ない、とすら思えた。
「こらっ、ベル坊ッ! いたたたっ! 痛いってばっ!」
なんとしても離れまいとするかのように、ベル坊は益々古市にしがみつく。
「おー、古市、んな引っ張ったら、ただでさえでも薄い毛が益々剥げるぞ。」
「薄くねーからなっ! 色素薄いだけで、毛はボーボーだよっ!!」
ベル坊の手から逃れるように、身をよじった古市の背中を男鹿がさりげなく抱え直してやりながら、すん、と自分の目の前にさらけ出された古市の首筋に鼻先を近づける。
古市が身をよじるほどに、髪が乱されるほどに、あたりに広がる甘い芳香。
それがまるでキラキラと光を伴うかのように、古市の周りで弾けて、彼の白い面差しや銀色の髪を、より一層際立てて見せた。
「ゆきちゃんっ!」
古市の足元で、コマちゃんが感極まったかのようにピョンピョンと飛ぶ。まるでコンサート会場で熱気に包まれたファンのような姿。
アランドロンは、あぁ……っ、とキショクの悪い声をあげて、くねくねと身をよじる。──まるで、マタタビを与えられた猫のよう。
──ふむ、そうか、なるほど。
自分の胸のうちにこみ上げ来る感情の正体がわかって、にやり、とヒルダは口元に笑みを刻んだ。
古市ごときに心を奪われるなんて、屈辱そのもの。
けれど、自分が抱くこの思いが何から来ているのか分かれば──どうということはなかった。
これは、一時の感情を呼び覚ます「魅了」の魔法の一種だ。
悪魔の──正しくは魔力を持つ者にのみ通用する、魔界の「小悪魔シリーズ」の一つ。
シャンプーを使った「対象者」に対して、自分が常日ごろからかすかにでも感じていた「いい意味で持っていた感情」を、最大限に引き出す魔法。
そうと分かれば、ジクジクと感じるこの疼きがなんなのか、答えはポンと出た。ヒルダが常日頃から古市に対して持っていた感情で「良い意味の好意」を示す類のものなんて、たった一つしかないからだ。
「古市。」
ベル坊は、おそらく──主君であるベル坊が古市相手にそう思っていたと思うと、憎憎しくすら思うけれど──、古市がいい匂いをさせている時(シャンプーや抑汗スプレー、ボディシートの匂いかと思われる)、実はこっそりと抱きつきたいだとか、もっとひっついて匂いを嗅いでいたい、と思っていたということだ。
それが、こういう形になって現れている。
古市の足元で、ゆきちゃーんっ! と叫んでいる駄犬やタタビに酔ったネコのような状態のアランドロンはさておき。
ヒルダが古市に抱く感情は──、
「ヒルダさん?」
呼びかけられて、男鹿にしがみつくような形になっていた古市が振り返る。
そんな、きょとん、とした無防備な顔に──くつり、とヒルダはタチの悪い笑みを浮かべて見せた。
す、と近づけば、甘い甘い香。
そう、これは……極上の獲物の匂いだ。
「少し黙っていろ、古市。」
指先をス、と古市の唇に押し当てれば、ひくり、と古市の肩が震える。
目を丸くさせて、頬に朱を散らせて──唇に当てた指先に、かすかな温かな吐息を漏らして……グ、と息を詰める古市の顔に、ゾクゾクする。
ヒルダは唇の端を歪めて艶美に笑うと、
「貴様は、そうやって黙っていれば、確かに観賞にはもってこいだ。」
ツ、と指で形良い唇をなぞり、そのまま顎のラインを撫でて、頬を滑らせる。
女でも滅多に居ないような極上の白い肌に、スベスベの感触。朱色に散った目元が、ほんのりと潤んでいて、とても美味しそう。
ヒルダはそれを艶やかな微笑みで見上げると、くい、と古市の顎を掴んで固定させ、
「本当に……、その白い肌にムチをくれてやって、赤く腫らしてやりたくなる。」
うっとりと──官能的な声音で、そう、囁いた。
「──……っ!!!!!!」
途端、びくぅぅっ! と、古市の体が飛び跳ねる。
ヒルダの甘い蠱惑的な声音に、陶然としかかっていた古市は、一気に青ざめ、ガタガタと震え始める。
そのおびえを見て──あぁ、と、ヒルダは甘い震える声を漏らす。
「貴様の肌に散る赤い蛇のような痕──、滲む血、つめ先で抉れば、貴様はどれほどいい声で啼き、いい顔で泣き叫ぶのだろうな?
ふふ……考えただけで、ゾクゾクしてきた。」
「いいぃぃぃやぁぁぁっ!! ヒルダさんっ! ちょ、ヒルダさん、顔が怖いっす! 綺麗だけどこわいっす! なんか目がマジですよぉぉぉーっ!!!?」
キャラ違ってますぅぅーっ! と叫ぶ古市に、ヒルダはスゥと目を細める。
「その顔だ。貴様の、屈辱と怒りと羞恥に身悶えた顔……あぁ、やはり最高だな──。」
どんな甘露よりも、今はより一層すばらしく見える。
なんて甘い香、甘い悲鳴、甘い甘い──クツクツと笑みを零すヒルダの、毒々しくも美しい笑みに、古市は必死に頭を振って、男鹿にしがみつく。
そうすればするほど、甘い香があたりに充満するなどと、古市はまるで思ってもいないのだろう。
「ちょ、ちょっと、ヒルダさん……?」
なんだか異様な雰囲気に飲まれてきた──教室内の一部男子は、なんか百合っぽい、とハァハァ身もだえ始めるし──、空気に、邦枝が恐る恐る問いかける。
しかしヒルダはまるで気にせず、ぷるぷると震える古市の涙目を覗き込むと、
「ふふ、前々から貴様をいたぶって啼かせれば、どれほど心地よいかと思っておったが──古市、最初はムチと蝋燭と拘束に目隠し、どれから始めたい? あぁ、もちろん、ちゃんとその姿は鏡に写してやろうとも。」
「みゃーっ!!!! ヒルダさんのドS−!!!」
「うむ、なんと甘美な言葉か。」
ペロリ、と舌なめずりをするヒルダに、ほんとドS! ドSったらドエスーっ!! と古市は叫ぶ。
同じエスならまだ男鹿のがマシだと、古市はしっかりと男鹿に抱きつく。
男鹿は益々強くなる甘い芳香に、くんくん、と古市の耳元に鼻を寄せる。
古市が叫び、頭を振るたびに頭の中がクラクラしそうなほど甘い香が出てくる。
悪魔を魅了する香──悪魔をも、虜にするにおい。
ただでさえでも、いつもの古市だって、いい匂いがして、白くて、細くて、柔らかくて、──噛み付きたいほどなのに。
学校じゃダメだって怒るから、いつも我慢しているのに──なのに、今日は、どうしても堪えが効かない。
──あぁ、でも。
ベル坊だって、古市にしがみついてる。嬉しそうに、雄たけびあげながら。
ヒルダだって、古市を虐めたいって宣言してる──コイツを虐めるのは、俺だけだっつーのに、我慢なんてすることなく、そう言ってる。
なら。
俺だって、我慢なんて、しなくていいんじゃねーのか?
「古市。」
そ、と囁いて、男鹿は、恐怖のあまり血の気が引いた古市の、白い──白すぎる首筋を、ペロリ、と、舐め上げた。
「っ! ひゃっ!!」
ぴくんっ、と震えた古市の薄い皮膚が、少ししょっぱくて、でも、口の中で芳香と共に甘く甘く広がる。
「ちょっ、お、男鹿っ!? なにやって……っ!?」
「美味い。なんか古市、甘くて旨い。」
慌てて首をそらそうとする古市の首筋を追いかけて、もう一度舐める。
今度は下から上へと、ねっとりと舌を這わせてやれば、古市の体がビクビクと震えた。
「──んやっっ、……っ!」
ひくり、と喉が震えて、甘い声が零れる。
でも、まだだ。
まだ、甘さが足りない。
だから──男鹿は、自分の唾液でしっとりと濡れた肌に、柔らかく歯を噛み立てて……ジュルリ、と、思い切り良く吸い込んだ。
「──……っ!!!」
男鹿の腕の中で、古市の背が撓る。
声を出すまいと掌で口を覆い、古市がギュと強く眉を寄せる。
そんな苦悶の表情を──快楽と苦悶と羞恥に歪む古市の顔を、ヒルダがウットリと見上げる。
「あぁ、やはり古市。貴様はそのような顔をして居る時が、一番美しいな。」
ヒルダの──決して普段は向けられない手放しの賛辞に。
けれど、哀しいかな、古市は決して、喜ぶことなど出来なかったのである。
暖かな古市の体温に唇を寄せて、強く吸い上げる。
「──んっ……ぁっ。」
頭上で古市が男鹿の髪を強く握り締め、空いた片手で必死に口を覆う。
甘美な疼きが背中から頭の上まで駆けぬけ、古市は必死でソレを堪える。
このまま、男鹿にしがみついて、彼が与えてくれる感覚だけを感じていたい。──でも、それはダメだ。絶対に、ダメだ。
だって、ここ、学校! しかも教室の中! 空き教室とかじゃなくって、正真正銘、目の前にはヒルダや邦枝、姫川や神崎、他もろもろのクラスメイトたちが居るのだ。
そんなことろで、嬌態など見せられるわけが、ない。
「……お、が──……っ、それ、やめ──……っ。」
声が上ずるのを堪えて、古市はフルリと緩く頭を振った。
ギュ、と男鹿の髪を握る手に力を込めれば、男鹿が首筋を食んだまま、にたりと笑う。
古市が声を震わせるたびに、甘い香が辺りに充満する。
その香に、アランドロンは身もだえ、ベル坊は益々嬉しそうに古市にしがみつき、ヒルダはうっとりと目を細める。
古市は決死の思いで、男鹿の頭を引き剥がそうと掴んだ髪を引っ張る。
男鹿はそれにかすかな苛立ちを覚えて、口の中に食んだままの古市の細く薄い皮膚に、がぶ、と歯を食い込ませた。
甘く、柔らかく、──けれど、歯型が残るほどには激しく。
「──……っみゃぁぁぁぁぁ!!! 噛み付くなーっ!!」
途端、全身に走った衝撃に、古市は悲鳴をあげた。
痛い。──でも、その中に感じる甘い疼きに、声がひっくり返るのを止められない。
口から飛び出た悲鳴が、妙に上ずっていたのに気付いて、古市はギュ、と強く眉を顰めた。
「……うめぇ。」
「うまくない! 俺の肉は美味くねーからなっ!?」
だから食うなよ! と、両手で男鹿の頭を掴んで、引っぺがそうとする古市に、男鹿は何言ってんだ、とチラリと目線をあげて顔を赤らめる彼を見上げた。
「お前が美味いのは、俺が一番良く知ってるっつーの。」
「──……っ!!!!」
カッ、と、目に見えて分かるほど、古市は顔を赤く染め、羞恥と悦びを隠すかのように眉を寄せる。
パクパクと口を開け閉めする古市に、あぁ、と、ヒルダがゾクゾクと背筋を震わせる。
白い肌を赤く染め、羞恥に双眸を潤ませて、キュ、と噛み締める唇は綺麗な桃色に色づき──色艶を宿すその表情に、体中に歓喜が迸る。
「その顔だ、古市。貴様の今の顔、まさに最高だぞ……。
そのまま、凍らせて飾りたいくらい、最高の恥辱顔ではないか。」
うっとり、と双眸を緩ませ、ヒルダは古市の恥ずかしそうに睫を震わせるその顔を、食い入るように見つめた。
おが、と細く吐息を零して囁く声にも、甘さが滲み出ている。紅潮させた頬に、滴る薄い汗。
古市が男鹿に翻弄されるほどに、彼が纏った香が一層濃くなっていく。
それがまた心地よくて、ヒルダは熱い吐息を零す。
いつもなら、男鹿と古市がイチャイチャしているのを見ても、暑苦しいだとか、坊ちゃまに悪影響だとかしか思わなかったものだけれど──今のヒルダは、そうは思わなかった。
男鹿が古市を乱すほどに、古市は恥ずかしがり、顔を背けようとする。頬も耳も何もかもを赤く染めて、辛そうに眉を寄せて──あぁ、と、古市は甘い吐息を零す。……恥辱にまみれた、つらそうな色を。
それが、ひどく甘美な物に見えた。──もっと、と、望みたくなるほどに。
「──だが、どうせ氷像にするならば、その白い肌を覆う服を切り刻み、合間から見える肌には全て裂傷がいるな……。」
赤い血筋を幾筋も垂らさせて、苦悶と恥辱に入り交えた表情のまま固めてしまえば──あぁ、それは、なんてすばらしい芸術なのだろうか。
うっとり、とベル坊以外には決して向けない甘い表情を向けるヒルダに、ちょ、ちょっと、と、邦枝が背後から声をかける。
「ヒルダ、さん……?」
「なんだ、今いいところなのだが。」
「えっ、い、いい、……っ!? じゃなくって、あの、あれ……なんかマズイんじゃないのかしら? 大丈夫なの?」
恐る恐る声をかける彼女に、ヒルダは数秒も惜しいといわんばかりの目つきでジロリと睨みつけてくる。
その激しすぎる視線に、思わず邦枝はビクリと体を震わせるが、それをグと堪えてチラリと男鹿を見やる。
それだけで話は通じると思っていたのだが、それは間違いだったらしい。
ヒルダは怪訝そうに眉をひそめると、古市に向けていた熱いまなざしとは全く異なる、冷えた目で問いかけてくる。
「なにがだ?」
「なにが、って、だから男鹿のことよ!」
どうしてわからないのかと、かすかな苛立ちすら覚えながら、邦枝はキッと彼女をにらみつけた。
だって、どう考えてもおかしいじゃないか。
男鹿が古市を抱き上げて首筋に噛み付いてるのとか、男鹿が古市に甘いとか美味いとか言っているとか、だってあの二人、ちょっとでも顔を寄せたらキスしちゃいそうなくらい近いって言うのに──……っ!
いや、そうじゃなくって!
「悪魔に効く惚れ薬なんでしょうっ? だったら、なんで男鹿まであんなことになってるのっ!?」
あれ、と、男鹿を人差し指で指し示し、ブンブンと振り回す邦枝に、ヒルダは腕を組んで──その上に豊かな胸を乗せてから、ああ、そのことか、と一つ頷く。
そして邦枝が指差す先……人前でイチャイチャしているようにしか見えない男鹿と古市を見やる。
「……ゃっ……、ちょ……っ、おが──……っ。だから、……んぁっ。」
男鹿が自分がつけた噛み痕を舌先で舐めてたどる。
先をすぼめて、ちろちろと一つ一つの歯形をねっとりと舐めるその感覚に、古市が首をのけぞらせて自分の口を必死で塞いだ。
辛そうに眉をひそめ、頬を紅潮させ──かすかに潤んだ目で男鹿を睨みつける。必死に両手で口を抑えて、男鹿の頭に身をかがめるようにして、喉を震わせる。時折漏れる声は甘さを含み、聞いている方が恥ずかしくなるくらい……。
まるで、情事を覗き見ているような気持ちになって、邦枝はパッと視線をそらした。
顔から指先まで真っ赤に染まり、恥ずかしさのあまりフルフルと震える邦枝の耳に、古市の細くて熱い吐息が零れる音が聞こえてくる。
「〜っ!!」
耳を塞いで、顔を背けたい。──のに。
「男鹿は常に坊ちゃまの魔力を注がれておるからな。」
ヒルダが、淡々とした口調で説明を始めるから、耳に当てようとしていた手をその場で止めるしかなかった。
しかも、その上。
「その魔力に反応したのであろう。これは悪魔に効く魔法というより、魔力に反応する物だからな。
──ふむ、ということは邦枝、貴様とて例外ではないということになるな。」
そんなとんでもないことを、淡々と語られて──えっ、と邦枝は顔を跳ね上げた。
「私っ? ──え、けど、私はなんとも……。」
ないわよ、と、彼女はそこでチラリと古市に視線をやって──男鹿が白い首筋に、赤い舌先を這わせているのをまともに見てしまい、ガッ! と肩を大きく揺らす。
「──っ!!」
色っぽかった。なんて言って良いのかのかわからないけれど、古市の首筋をいとしそうに見つめて目を細める男鹿の視線も、必死に体の内側から湧き上がる感覚を押し殺して悶える古市の表情も。
その、なにもかもが。
──艶に、満ちていた。
「──……っ。」
胸がドキドキして、ギュ、と締め付けられるような感覚があった。
まさか……、まさか私も、古市君のことを……っ!?
思わず邦枝は、男鹿を振り仰いだ。
だって、──まさか、そんなこと、ない。
動揺が心を覆い、まともな思考が出来なくなる。
視界から入ってくる痴態に、アタマがクラクラして、心臓が口から飛び出してしまいそうだ。
男鹿と古市がそうやっている姿を見ていると、胸が忙しなく鼓動を打つ。──痛い、くらいに。
胸に手を当てて、まさか、と何度も胸の内で繰り返す邦枝を、ヒルダはチラリと見下ろすと、
「貴様とて、あの駄犬を使うときに魔力をまとうだろう? そうなれば、この影響を受ける。そういうことだ。」
「──……ぇっ、あ、そ、そうなのっ?」
それじゃ、このドキドキは、純粋に男鹿と古市がなんだかヤばそうな感じがしてドキドキしてるだけで、他に深い意味はないんだ!
ちょっとホッと胸を撫で下ろす邦枝に、ヒルダは、うむ、と頷いた。
「それに、あの魅了の魔法──シャンプーは、惚れ薬ではないぞ。」
「はっ!? え、でも、ベルちゃんだって、男鹿だって、……。」
あのヒゲのおっさんは元からのような気がするが、けど、どう考えても惚れ薬よね? と指でおずおずと指差して問う邦枝に、いや、とヒルダは首を振って簡単な説明をしてやる。
「これは、対象者に対する好ましいと思う感情を最大限に引き出す効果がある魅了の魔法でな。」
「……好ましいと、思う、感情?」
イマイチ分かりかねる、と言ったように眉を寄せる邦枝に、ふむ、とヒルダは視線を天井に彷徨わせる。
「──ふむ、分かりやすく言えば、男鹿のヤツは、普段から古市を嘗め回したいと思っておったのではないか?」
「……な……なめまわした……っ!?」
邦枝はギョッとして、肩を跳ね上げる。
カッ、と顔が赤く染まり、邦枝はチラリと男鹿の方を見やる。
男鹿は舌先で喉を辿り、古市の耳たぶをハムリと食む。
それを認めて、邦枝は小さく喉の奥で悲鳴をあげた。
「んぁ……っ!」
小さく古市が悲鳴をあげる。
男鹿はピチャリとわざとらしく水音を立てて、愛撫するような動きで、古市の耳を舐めていく。
その淫靡な空気に、教室のそこかしこで、ごくり、と生唾を飲む音が聞こえてくる。
震える手で古市が必死に自分の声を抑え込もうとする。頬を赤く染めて、キュ、と目を閉じる──その睫が、フルフルと震えていた。辛そうに、切なそうに眉を搾るその顔が、いつもの古市からは、想像もできないほど艶めいて見えた。
ヒルダはソレを見て、艶やかな表情を浮かべる。
「あの古市の顔……、ふふ、衆前での羞恥プレイに悶えるその姿……あれで痛みに悶える悲鳴を足せば、どれほど映えることか……っ!」
ペロリ、と舌なめずりせんばかりの顔でほくそえんだヒルダに、邦枝はガタガタッ、と後ろに下がった。
「……っ! そ、それって、つまり……っ!」
ヒルダさんは、普段から古市を虐めて虐めて虐めたい! ──って思ってたってことよねぇっ!?
思いっきりドン引きして、さぁぁぁ、と顔を青ざめさせた邦枝の前で、ヒルダは恍惚とした表情を浮かべて男鹿と古市を──否、古市を見つめる。
「や……っ、ちょ、男鹿っ──……、だからもう止めろって……っ!!」
フルフルと頭を振る古市の髪が、しゃらん、と揺れる。
唇が色づき、吐息が零れる。
古市の白い肌が桃色になればなるほど、彼から香る匂いが一層濃くなる。
ベル坊はソレに雄たけびのような声をあげて、古市の髪に顔をうずめ、アランドロンは一人でモジモジしながら悩ましげな声をあげる。
教室中が甘い香に埋め尽くされて、ヒルダはソレに満たされた肺が酷く熱くなるのを感じて、豊かな胸の上から、ギュ、と手を押し付ける。
古市から香る匂いに、思考が全て吹っ飛びそうになる。
何もかもが、どうでもよくなる。
「──……さすがは、魔界屈指のブランドだな。」
この私が、ここまで古市ごときに狂わされそうになるとは。
全く、大したものだ、と──ヒルダは紅色の唇に笑みを刻む。
その妖艶な微笑みに、邦枝はゾクゾクと背筋を震わせ──古市君、逃げてぇぇっ! と叫ぼうとした、…………その時だった。
ガッシャーンっ!!!!!
突如響き渡った轟音に、邦枝はハッと振り返る。
「──……っなに……っ!?」
突風が教室の中を吹き荒れ、窓ガラスが激しい音を立てて砕け散る。
窓際に立っていた生徒が咄嗟に頭と顔を庇って体を丸め──その学生服の背に、パラパラと細かなガラス片が零れ落ちた。
「なんだっ!? 敵襲かっ!?」
神崎が日の光を反射して輝くガラス片を、ガシャリ、と踏みにじり窓を睨みつける。
何が飛び込んできた、と、素早く夏目が視線を走らせるが、教室内には何もない。──割れたガラスに驚いた石矢魔生たちが蹴飛ばした椅子や机が、不恰好に転がっているだけだった。
窓ガラスが割れるのなんざ、石矢魔高校では日常茶飯事だった。
良く見た光景だからこそ、それ以上動転することもなく、石矢魔生たちは揃って身構え、椅子や机を盾にして、窓の外を睨みつける。
「石かっ!?」
「つーか、ここ3階だぞっ? 投げ込むっつっても、限度あんだろっ!?」
何が投げ込まれたんだと、近くに居た男が、椅子を手に持ちながら、ソロリと窓に近づく。
割れた窓ガラスの隣に顔を近づけ、そこから外を──おそらくは、そこから見下ろした地上にいるだろう、「何かの飛び道具」を構えた連中を認めたら、即座に椅子や机を投げてやるつもりだった。
──けれど。
「……──っ、え、……誰も、いねー……っ!?」
見下ろした窓の下には、ただガランとした空間が広がるだけで、何もなかった。
「ああぁっ!? 何言ってやがんだっ? ちゃんと逃げてくやつとか、隠れてるやつとか、探せっ!」
このアホウがっ! と叫びながら、別の男が違う窓を開き、そこから顔を覗かせて真下を覗き込む。──相手が飛び道具を持っているなら、危険な行為ではあるが、見てすぐの場所に姿が見えないのなら、攻撃までは猶予があると判断してのことだ。
そうして見下ろした窓の下には、やはり人っ子一人、影一つ見当たらない。
なんだ、どういうことだ? ──と顔を顰めて、誰かが隠れそうな茂みや、逃げていきそうなルートを見回すが、やはり人が居ない。
キョロキョロとあたりを見回す男達に、なんだなんだと、何人かが物見高に窓に集った──その、横手。
割れた窓の上に、ユラリ、と影が落ちたその刹那。
「──伏せなさいっ!!!」
邦枝が叫ぶのと、全ての窓に、ピシリ、とヒビが入るのとが、ほぼ同時。
あぁ? と振り返った、とぼけた顔の石矢魔生たちの頭の後ろで、窓ガラスが震え──パリンッ、と、軽い音を立てて砕け散る……っ!
「うおぉっ!!?」
「うぎゃぁぁっ!!」
「てめーら、窓から離れろーっ!!!」
咄嗟に神崎が叫ぶが、間に合わない。
外から爆風を受けたかのように、一斉に割れた無数のガラス片は男達の背中に突き刺さり、机や椅子の上に細かな欠片がカラカラと音を立てて落ちていく。
悲鳴をあげて痛みを訴える男が膝を付き、細かなガラスの上に脚を置いて、更に悲鳴をあげる。
そんな光景に、神崎がチッと舌打ちして、
「いいから窓から離れてコッチへ……っ。」
1歩、脚を踏み出そうとした、その手を。
「待て、神崎。」
グイ、と、姫川が強く掴んで引き止める。
なんだ、と睨みつける神崎の目に飛び込んできたのは、姫川の余裕のない──サングラスの奥で歪んだ瞳。
口を引きつらせ、無理矢理笑みの形に歪めて、姫川は真っ直ぐに一箇所を──最初に割れた窓ガラスを睨みつけている。
「ここ、3階なんだけどね。」
夏目がうっすらと虚勢をはるかのような笑みを浮かべて、──ジャリ、と、窓の桟に残ったガラスを踏みつける足を睨みつける。
閉じたままの──けれどガラスがなくなって外の風を招くその窓に、「彼」は、立っていた。
窓枠に片手をかけて、少し身をかがめるようにして中へと入ろうとする男の姿に、邦枝は小さく目を見開く。
入り込む風に乱れる黒い髪。ヒラリと翻るマントのような上着。冷たい切れ長の眼差しに、左頬に刻まれた星座のような文様。
そして、決して見間違えようのない、魚のエラのような奇妙な形の、耳。
「──……っ、悪魔──……っ!」
あの日。……邦枝が悪魔の存在を知ったその日、最後に出会った「悪魔」が、そこに居た。
何故ココに……っ? と、動揺する邦枝の前で、神崎たちがグと拳を握り締める。
「ちっ、また悪魔野学園のヤツラかっ!?」
「今度はフッ飛ばさせねーぜ。」
神崎が近くの机を蹴っ飛ばして身動きできる場を作れば、姫川は懐からスタンバトンを取り出しそれを構える。
おのおの、数日前に完了したばかりの「過酷な修行」の成果を、今こそ見せるときが来たのだと、気合十分に彼の前に立つ。
石矢魔生たちが、男の放つ威圧感にのまれて、ジリ、と後ず去るのに対して、神崎たちは余裕の素振りで男と対峙する。
「おい、てめーっ! この石矢魔に一人で乗り込んでくるとは、いい度胸だな、あぁっ!?」
ビシッ! と指を突きつけて、ここがテメーの墓場になると思いやがれっ! と啖呵を切る神崎に、姫川がバチバチッ、とスタンバトンの──対悪魔野学園用に更にボルトを上げた火花を散らして、薄く笑みを広げる。
「乗り込んできたからには、覚悟決めてきてんだろうなぁ? 命まではとりゃしねーが、それ相応の報いは受けてもらうぜぇ?」
くっくっく、と低く笑う姫川の言葉に、石矢魔生たちはゴクリと喉を上下させる。
東邦神姫の内二人が、その気になっている。
これは、血の雨が降るんじゃねぇかと、彼らは更にジリジリと後退し、窓から襲撃をかけてきた男と、姫川と神崎たちから距離をとっていく。
とにかく、少しでも安全圏に行くことが優先だった。
そんな──一触即発のにらみを利かせ、ピリピリとした空気を発する石矢魔のトップたちを前にして、男……人ならざぬ男は、トン、と身軽な動作で教室の中に脚を踏み入れる。
途端に、ザワッ、と空気が逆立ち、神崎たちがすかさず半円を描くように男を中心に陣形をとる。
戦闘態勢に入る神崎たちの少し後ろで、寧々たちレッドテイルも、邦枝を中心に距離を詰め、おのおのの武器を手に、いつでも攻撃に加われるように身構えた。
そんな、常人ならば息をするのも苦しく感じるような緊迫感の中心で、男──ヘカドスは、まるで気にも留めないような緩慢な仕草で、ゆぅるりと首をめぐらせる。
「ここか……。」
目の前で顔を険しくさせる神崎も、不敵な笑みを浮かべる姫川も、睨みつけてくる夏目も城山も、レッドテイルの面々も──その全ての視線を素通りして、ヘカドスは教室の中に視線を漂わせる。
いや、正しくは……教室の中に充満している、甘い甘い香を求めるように。
「いやに芳しい匂いに誘われて来て見たのだが──そうか、ここは貴様らの学校というやつか。」
なるほど、と薄く笑みを浮かべて頷くヘカドスには、緊張感は欠片もないように感じた。
敵を攻めて来たというよりも、散歩の途中に立ち寄ったといったような風情だ。
警戒をしてヘカドスとの距離と地味に縮めていく神崎たちには目もくれず、ヘカドスは眉を寄せて、匂いの元を探る。
遠く、ここから離れた元石矢魔──現悪魔野学園の方にまで風に追って香ってきた、甘い香。
長く閉じ込められていた牢獄から出て、縛られている間に落ちた体力と筋力を取り戻すために、一人鍛錬に励んでいたその場に、フラリと迷い込んだ──まるではかない花びらのような感覚の、香。
はじめはどこかで花が咲いているのかと思った。──けれど、嗅げば嗅ぐほど、どこか癖になるような、その場に駆けつけたくなるような気持ちになって……とうとう堪えきれずに、匂いを追ってここまで来てしまった。
その匂いの元が、ベルゼ様の配下の者たちが通う学校というのなら──一瞬、罠だったか、と思わないわけでもなかった。
けれど、教室内の人間たちは、ヘカドスの来襲をまるで予測もしていなかったような素振りに見える。
敵意をむき出しにして睨みつけてはくるが、何かを仕掛けてくる様子は全くない。──もっとも、1歩でも脚を踏み出せば、襲い掛かっては来るだろうが、それだけだ。
悪魔の魔力を封じる道具や、魔力が高い者にほど効果がある「魔界の道具」を使ってくる様子もない。
罠、ではないのだろう。むしろ彼らにとって、ヘカドスの来襲は、想像だにしなかったことだと考えてもいいだろう。
「──……なら。」
この匂いは一体──と目線を彷徨わせたヘカドスは、ピタリ、と視線を一箇所で止めた。
扉のすぐ近く。──ベヘモット前団長が焔王様のために作った悪魔野学園とは構造が異なる、小さな教室のその隅の方に、見慣れた集団が居た。
最初にキラリと目に入ったのは金色の髪だった。──ヘカドスが十数日前に手ひどくやられた相手、ベルゼバブ4世の侍女悪魔であるヒルデガルダだ。
ベルゼ様の親を倒すにあたって、もっとも強敵で面倒な相手だと認識していた女性は、しかし──なぜか、無防備にもヘカドスに完全に背を向けていた。
あの女に限って、ヘカドスが入ってきたことに気付いていないということはないだろうに、彼女は肩越しにでもチラリとこちらを見ることもしない。
ただ真っ直ぐに、自分の目の前に居る己の主君とその契約者を見つめている。
──否、そうじゃない。
彼女がウットリと見つめているのは、男鹿辰巳が噛み付いている相手──銀色の髪を持つ少年に、だった。
「──……っ?」
その事実が理解できなくて、ヘカドスは片眉を寄せて銀色の少年を見つめる。
顔を赤く染めて、目に一杯に涙を溜めて、男鹿辰巳の髪を引っ張っている彼の頭の上に、うっとりとした顔のベルゼ様が張り付いている。
コレは一体、どういう状況なのか。
そう思いながら、1歩、脚を踏み出そうとしたそのヘカドスに、
「待ちなさい……っ!」
邦枝が、リン、とした声をかけた。
その右手に握り締めた木刀の切っ先を、ピタリ、とヘカドスに向けて、彼女は素早く唇の動きだけでコマちゃんの名を呼ぶ。
悪魔を相手にするなら、最初から全力でかかったほうがいい。──特にここには一般人だって多くいるのだから、とにかく最初の一撃でヘカドスを窓の外にふっとばし、人が居ないところまで移動しなくては……っ!
それには、コマちゃんの魔力で木刀を武装させる必要がある。
そう思っての、邦枝の呼びかけに、しかし、コマちゃんは答えてはくれなかった。
「あぁん、ゆきちゃん、その顔色っぽいでぇっ! もうあかん、儂、もうあかんで、ゆきちゃんにめろめろめろりーんやっ!!」
コマちゃんは、古市の脚にスリスリ体を摺り寄せるのに夢中で、邦枝の呼びかけも耳に入っていないようだった。
コマちゃん! と邦枝が叱咤する。
けれど、コマちゃんは答えなかった。──その、かわりに。
「うるさいぞ、邦枝。気が散るではないか。」
こちらに全く見向きもしなかったヒルダが、ふ、と顔を動かせた。
ツィ、と視線を横に流し、彼女は肩越しにチラリと背後を振り返ると、いつの間にか増えている珍客に気付き、……あぁ、と、無感動に小さく呟いた。
「なんだ、誰の来訪かと思えば、雑魚ドスか。」
そのまま、興味を無くしたように、フイ、と視線を元に戻すヒルダに、ヘカドスが眦を吊り上げて叫ぶ。
「雑魚言うなっ! あと、男鹿辰巳! おまえもこっちをを見んかーっ!!!」
雑魚の相手よりも、今は古市だ、と、何事もなかったかのように背を向けるヒルダに、ヘカドスは足元のガラスを音を立てて踏みつけて怒鳴りつける。
魔力で生成した槍を突きつけて、ふざけるな! と怒号を放つが──ビリビリと空気が揺れるような響きを持ったソレに、石矢魔生たちは震え上がり、神崎たちは奥歯を噛み締めて耐え……、ヒルダはそ知らぬ顔で古市の羞恥にまみれた顔を堪能し。
そして、男鹿に至っては、ガラスが割れようが悪魔が登場しようが、まるで気にもしないで古市の肌を堪能し続けている始末だ。
古市の耳をなぞれば、ビクビクと古市の肩が震え、甘い吐息が零れる。
ここ、教室だぞ……、と、身をかがめた古市が、男鹿の耳元で囁く。目元も頬も火照った唇も、何もかもが色づいていて、とてもおいしそうに映った。
耳から頬へ唇を滑らせて、キスをする。
完全に無視をし続ける男鹿に、貴様……っ! とヘカドスが黒い魔力を湧き出そうとする彼に、
「だから、うるさいぞ、ヘカ雑魚。」
ヒルダが、キン──と鋭い視線を向けて、邪魔は許さん、と肩越しに睨み据える。
その迫力に、思わず息を呑みかけたヘカドスは、すぐに自分が侍女悪魔風情の気迫に押されかけた事実を無理矢理捻じ曲げて、声を荒げて槍を床に叩きつける。
「侍女悪魔、貴様……っ!」
「雑魚だろうと反吐だろうとなんでもよいが、邪魔はせんでもらおうか。
今、いいところなんでな。」
声が入ってしまうだろうが、と、忌々しげに呟くヒルダの、その手には──……、
「なんか携帯構えてるっ!!」
いつの間にか男鹿の携帯が握られていて、動画録画が開始されていた。
小さい液晶画面に映る男鹿と古市の痴態未満の姿に、邦枝は動揺のあまり、ごとん、と木刀を取り落とす。
ヘカドスを強くにらみつけたヒルダは、その視線に、ぐ、とヘカドスが言葉に詰ったのを見て止めて、再び視線を男鹿たちのほうに戻した。
まったく、余計な事を喋らせるな。動画に声が入ってしまうではないか。
古市は公衆の面前ということもあって、先ほどからずっと声を押し殺しているのだ。おかげで、他の声が入ったらその貴重な、ゾクゾクするようないたぶりがいのある声を、撮り逃してしまうではないか。
全く、と眉を寄せるヒルダに、いやいや、それ何か違うわよねっ!? ──と邦枝。
その足元でコマちゃんが、「それできたらコピーさせてやぁぁっ!」と興奮気味に叫んでる。
や! ちょっと待って! どこまでココでイッちゃうのっ!? と邦枝は赤くなったり青くなったりしながら、掌をワキワキと開け閉めする。
「ク……っ、貴様ら、舐めるなよ──……っ!」
ヘカドスはギリリと奥歯を噛み締め、気圧された感情を無理矢理飲み下し、右手のヤリを横になぎ払った。
ビュッ、と鋭く走る空気を裂く音に、神崎たちは総毛立つ。
カチャン、と足元でガラスが音を立て、ヘカドスはそれを粉々に潰すように足裏でにじった。
「邪魔な貴様らを叩き潰してやる……っ!」
そうして、邪魔者を全て排除してから、ゆっくりとこの教室中に充満している「匂い」の素を探ればいい。
花の香か何かはわからないが──この教室の中に、こうして立っていれば立っているほどに、この匂いに体中が侵食されていくような気がしてならなかった。
息をするたびに、心が跳ね上がり、いてもたってもいられなくなる。
早く、──早くこの匂いを抱きしめて、胸いっぱいに抱え込んで、そうして思う存分、己の腕の中で……啼かせたい。
湧き上がる凶暴さを含む感情に、ヘカドスは薄ら寒くなるような笑みを浮かべる。
その悪魔の微笑みを前にして、ぐぐ、と、神崎たちは体中に力を込めて、全力でヘカドスを睨み返す。
「てめぇ……っ、あん時はよくもやってくれたな……っ。」
「実力を増した俺らの力、みせてやるぜっ!」
気圧されるような恐怖を無理矢理振り払うように雄雄しく叫び、姫川と神崎、城山と夏目がヘカドスの前に立つ。
「うちのアタマとは、そう簡単にやらせてはあげないよ。」
「まずは俺達を倒してからだな。」
早乙女に特訓してもらい、磨き上げたこの実力を、今こそ試すときだ、と彼らは不敵な笑みを貼り付ける。
──そう、数日前にあるはずだった「一週間後の決闘」は、男鹿のせいで色々となし崩し的に無くなり、結局なんだかんだでダラダラと決闘の時期をずらして今に至っている。
そのおかげで、折角の特訓も、それの成果も日の目を見れずにそのまま、ダラダラッと来てしまったが、まさかこんなに早く、こんな形で試すときが来ようとは!
しかも一人で教室内に飛び込んでくるとは、飛んで火に入る夏の虫とはまさにこのこと。
さすがに一人に複数で挑むのは可哀想すぎるかと、神崎はニヤリと口元に笑みを浮かべて、ビシリとヘカドスを指差す。
「土下座して謝るなら、特別に! 1対1で闘うことを許してやってもいいぞ。」
堂々と言ってのける神崎に、花澤が、
「ハイエナ先輩、今日はハイエナじゃないっすよっ、マジパネェっす!」
とエールを送る。
「ハイエナ言うなっ!!」
すかさず後ろを振り返り、ビシィッ、と突き刺した指を、今度は花澤に突きつけて神崎が叫ぶ。
その言葉に、ヘカドスを睨みつけていた夏目が、思わずプッ、と噴出して肩を震わせた。
「ハ……ハイエナ先輩──……っ、くくっ。」
「笑ってんじゃねぇ、夏目っ!!」
更にそのままグルリと半回転して、神崎は夏目をもビシリと指差す。
それに夏目は、いや、ごめんごめん、と片目を瞑って笑いを堪えながら、顔の前で手を縦にして謝る。
そんな彼らに、姫川は呆れたように目を眇めて見せた。
「てめーら、もうちょい緊迫感っつーのを持てよ。」
今、一応、目の前に敵が居るんだぞ?
たった一人の敵ではあるが、その相手は少し前に、男鹿と邦枝を任せた相手なのだ。──まぁ、特訓をして力を増した今の俺達なら、一人では無理でも束になってかかれば、倒せないこともない、かもしれない、……そんな余裕が、油断を生んでしまったのかもしれない。
「あんたたち、前……っ!!」
切羽詰ったような声を、邦枝が上げたときには、もう──遅かった。
ハッ、と顔をあげた姫川と神崎の目の前に、音もなく近づいた顔が、ニ、と笑みの形を模る。
「──……っ!?」
「しま……っ!」
慌てて二人が攻撃を繰り出そうとするが、それをヘカドスが許すはずもなかった。
黒い魔力を解き放つ必要すらない。──ヘカドスは常人には目に映らない速さで、目の前の二人の男を、まとめて殴り飛ばす──……っ!
「……ぐあぁっっ!」
「うぐぉっ……っ!」
鈍い音が二人の喉から零れ、一瞬後──、
ドゴォォッ……っ!!!
二人は揃って、勢い良く黒板に叩きつけられた。
ガタガタッ、ゴドンッ!
「……神崎さん!」
「姫ちゃん、神崎君っ!」
激しい音を立てて黒板が傾き、床に落ちる。
ズル……と、黒板に沿うようにして、神崎と姫川の体が床に滑り落ちる。
カクン、と首が揺れて俯き、二人の顔は見えない。──が、ピクリと動く指先で、かろうじて意識があることだけは分かった。
それだけを確認して、素早く夏目は辺りに視線を飛ばす。
とにかく、あの悪魔野学園の男を捕らえないと、と見たその背筋に。
──ゾクリ、と。
悪寒が、走った。
「──……っ! 城ちゃ……っ!」
逃げて、と、叫ぶはずだった言葉は、そこで途切れる。
トン、と首筋に感じたのは、一瞬の小さな衝撃。
けれど、その小さなショックは、一気に首筋から全身に向けて駆け抜ける。
「──……っかはっ!」
脳天が揺すぶられ、脚がガクリと折れる。
そのまま前のめりに傾ぐ夏目の背中を、ヘカドスは思い切り蹴飛ばす。
ガシャガシャガシャンッ……っ!
「夏目っ!」
激しい音を立てて机をなぎ払い、夏目はそのまま床を転がっていく。
ダンッ、と壁に激突して止まった肢体は、そのままクタリと力なく倒れ──く、と眉が辛そうに歪んだ。
「きっ、さまぁっ!」
「止めなさい、城山っ!」
思わず拳を握り締めて、城山が夏目が立っていた場所に悠然と立つ男に襲い掛かる。
拳を振り上げて、上から殴りかかろうとする城山に、ヘカドスはフッと口元に笑みを浮かべる。
そして、自分よりも上背のある「たかが人間」を蔑むような目で見上げて──ツイ、と戯れのように手を前へと差し出した。
「ダメ……っ!」
邦枝は足元に転がった木刀を蹴り上げ、素早くソレを空中で掴む、──けれど。
それよりも、ヘカドスが城山を攻撃する方が早かった。
トン、と、ヘカドスの掌が城山の腹にあたる。……と、同時。
ドゥンッ!
「……が、……はぁっ!」
ゴボッ、と、濁った咳音を立てて、城山の背中の一部がボコリと波打つ。
そして一拍後──ドンッ、と、勢い良く後方に弾き飛ばされ、城山の体は窓の枠に打ち付けられる。
ガシャン!! ──ガシャガシャ……っ!
大きく揺れた窓枠から、割れ残っていたガラス片が落ち、床に跳ね返って細かく砕け散る。
ドサ、と床に落ちた城山の体がうな垂れ、ゴホゴホッ、と力なく咳き込んだ口の端から、ツゥ、と血の色が滴った。
「城山先輩っ!」
「……くっ……。」
一瞬の出来事だった。
その全ての動きを──ヘカドスがどんな行動をしたのか、すべてを目に映しきったのは、おそらく邦枝だけだろう。
あの速さを、いくら修行を積んで強くなったとは言えど、神崎や姫川たちが追うことは出来ない。
だから、当然の結果といえば当然の結果なのだが──さらり、と髪を揺らしてゆっくりと振り返ったヘカドスは、息一つ切らしておらず、汚れも何も、ついてはいなかった。
その悠然と佇む様子に、ゴクリ、と花澤と飛鳥、梅宮が喉を鳴らして息を飲み込む。
「し……瞬殺……っ?」
「マジ、パネェんすけど……。」
何が起きたのかわからないままに吹っ飛んだ四人の姿を視界の隅にとどめて、彼女たちはそれでもその場に佇んで男を睨み据える。
武器を構え、腰を低くして──いつでも攻撃に打って出れる体制になる彼女たちを、ヘカドスはチラリと見ることもなく……ス、と細めた目を、その背後へと飛ばす。
レッドテイルの娘たちの後ろに庇われるような形になった、男鹿の方を。
その、まるで女には興味がないという仕草に、カッ、と寧々は怒りに顔を染めた。
「あんたの相手は、私たちだ、よ……っ!!」
叫びながら、寧々はチェーンを手繰り寄せ、それをムチのように撓らせてヘカドス目掛けて投げ飛ばす。
以前よりも鋭く、そして早くなったソレが、佇んだまま避けようともしないヘカドス目掛けて飛び──それを待ち構えていたかのように、千秋が両手で銃を構え、花澤達がチェーンに自由を奪われた男を攻撃するつもりで体を前のめりにさせた。
ヘカドスは、それでも視線を飛ばすことなく、飛んできたチェーンの先を、無造作に指の先で挟み込むと──ブツッ、と、魔力の槍で真っ二つに叩ききった。
「──……なっ!?」
「え、ちょ、今何が……っ!?」
驚く一同の前で、ガチャンッ、と音を立てて割れた鎖が床に落ちる。
動く鎖を指先で挟み込む技量も驚く対象だが、それよりも何よりも、あっさりと鋼鉄を切り落としたその腕に、恐怖が胸に湧き上がった。
咄嗟に残った鎖を手繰り寄せようと、腕を大きく手元に引いた寧々を、ヘカドスは無表情に見返すと──トン、と床を蹴って空中に舞い上がる。
「……っ、コマちゃんっ!」
邦枝が叫び、木刀を構えてそのまま刀に魔力を宿すためにコマちゃんの名を呼ぶ。
ヘカドス相手なら、わざわざ魔力を宿す必要もないかもしれないが、それでも「たかが木刀」は、魔力の槍や刃を受けたらすぐに木っ端味塵に砕け散るだろうことは、目に見えて分かっていた。
だから、武装が必要だ。──悪魔と対峙するために、人間にはもてない魔力という名の武装が。
そう思って叫んだ瞬間……、ふ、とアタマの中にヒルダの言葉が蘇った。
──そうなれば、この影響を受ける。
一瞬のためらい。それが、勝者を分けた。
ヘカドスは邦枝を飛び越え、そのまま真っ直ぐに男鹿の──ベル坊を頭に乗せたままの古市の方へと向かう。
途端に甘い誘惑の香が濃厚に漂うのを感じて、ヘカドスは、ニ、と口元に笑みを刻んだ。
その勝利の確信めいた笑みを認めて、しまった、と邦枝が仰ぎ見るが、時、すでに遅し。
ヘカドスが嬉々として残忍な笑みを浮かべ、甘い香の元へと飛び込もうとした──……、ところで。
「邪魔をするなと言っただろうっ!!!」
ベシッ! ──と。
大きな黒いハエたたきが空中に現れて、思いっきりヘカドスをたたきつけた。
「えええええーーーーっ!!!!」
黒板に叩きつけられたヘカドスに、思わず誰もが声をあげた。
まともに正面から黒板とご対面したヘカドスは、そのまま、ずずず、と下に滑り落ち、床にベシャリと落ちた。
まるで害虫のような扱いに、うわー、と一同の額に冷や汗が滲み出る。
「……なんだ、今の黒いハエ叩きはっ!?」
「オガヨメこえぇ……。」
「まさかの瞬殺かよ……。」
壁に張り付くようにして避難していた石矢魔生たちが、恐ろしい物を見るかのような目で、ヒルダと、そして床に崩れ落ちたヘカドスとを交互に見やる。
ヒルダは、フン、と鼻を鳴らすと、「まったく、うるさいと言ったら無いではないか。」と顔を大きく顰めてから、さて、と再び男鹿と古市のほうに向き直った。
──この騒動の只中にあるというのに、というか悪魔が襲撃してきたというのに、男鹿は全く気にも留めずに、古市の首筋を熱心に舐めている。
時々チュクリと水音を立てて吸い込んでいるらしく、古市の白い首筋には、いつの間にか幾つもの赤いうっ血の痕が浮かび上がっていた。
「──……ん、……お、…………がぁ……。」
抵抗する力も弱弱しくなった古市は、涙で潤む目で男鹿を見下ろす。
ヒルダはその顔をズームで撮りながら、うっとり、と目を緩ませる。
そんな彼女に近づいて、邦枝はヘカドスが再び動き出さないかどうか気をつけながら、素早く囁く。
「ちょ、ちょっとヒルダさんっ! こんなに堂々と魔力を使って、だいじょ……っ。」
「ふふ……いいぞ、古市。その顔、最高だぞ。──あぁ、だがそろそろ、陥落していってもいいかもしれんな……ふふふ。」
ゾクゾクと歓喜に背筋を震わせ、目を爛々と輝かせるヒルダに、ひぃぃっ、と邦枝は数歩後ろに下がった。
「……目がっ……、目がイッちゃってるわよ、ヒルダさぁぁんっ!?」
思わず半泣き顔で突っ込む邦枝を、ヒルダはチラリとも見ない。
ググ、と携帯を持つ手に力を込めて──あぁ、こんなことになると分かっているなら、もっと解像度のいいカメラを持ってきた物を……っ! と悔しそうにうなる。
「──……くっ……、ぁっ、……んぁ……っ、お、が……っ、も──、やめ……、っ。」
ふるふる、と古市は力なく頭を振り、幾度も角度を変えて口付けられ、痕を残されるたびに体を撓らせ、必死に喘ぐ声を掌で塞ぐ。
ここが、どこだと思ってる、と殴りつけても、引き剥がそうとしても──いつもなら、不満そうにしながらも解放してくれるのに、今日の男鹿はまるで言うことを聞かない。
それどころか、古市のシャツのボタンを外しながら、首元から鎖骨へ唇を寄せて、くっきりと浮かび上がった骨の上に、歯を立てて噛み付く。
「おが──……っ! も、むりぃ──……っ!」
唾液で濡れてスースーする首をすくめるようにして、古市は甘くねだるように男鹿の頭の上で囁く。
頼むから、もう──ここでは、コレ以上は……、と、涙を滲ませて、頬の耳も真っ赤に染めて、そう嘆願する古市を、けれど男鹿は目線をあげるだけで答えない。
反らされた白い顎に、幾つも滲むキスマーク。反らされた顎に、しっとりと汗ばんだ頬に張り付く銀色の髪。──甘く囁く濡れた唇も、情欲を宿す綺麗な双眸も見えない。
いつもなら、古市は男鹿を見て──男鹿の目だけを見て、焦らすな──……っ、と、恥ずかしそうに男鹿の頭を引き寄せるというのに。
「……ちっ、おい、古市。こっち向け。」
反り返る体を両手で支えているから、古市の顔を自分の方に引き寄せられなくて、苛立ちと共に声をかけるが、古市はそれにフルフルと頭を振るばかりで、男鹿の要望にはこたえてくれなかった。
男鹿はイラッと眉を跳ね上げると古市のシャツの裾から手を差し込み、汗ばんだ背中に掌を這わせ、ぐい、と抱き寄せる。──おがっ、と、切羽詰った声をあげる古市の体を自分の体に完全にもたれさせ、そのまま数歩後ろに下がった。
かつ、と脚にあたる硬い感覚に、迷うことなく男鹿は腰を落とした。
ガタン、と軽く音を立ててヒルダの席に腰を落とした途端、
「──んっ、?」
かくん、と落ちた体に、男鹿に落とされると思ったのか、古市は男鹿にギュとしがみつく。
頭を抱え込まれて、胸元に顔を押し付けられる形になった男鹿は、その淫靡な甘い香をたっぷりと吸い込んで、ぞくぞくと背筋を震わせる。
男鹿の膝を跨いで乗り上げる形になった古市の腰が、体に押し付けられる形になって──硬くなりかけた物の形がくっきりと分かって、へぇ、と男鹿は唇を真一文字に引いて笑った。
「なんだよ、古市。いやだいやだつってるくせに、しっかり感じてるじゃねーか。」
なぁ、と、すぐ真上に見える古市の顎を指で掴んで、くい、と顎を引かせる。
耳元でいやらしく囁いて、ふ、と息を吹きかけれやれば、古市はかわいそうなくらい、ブルリと体を震わせた。
「──てっ、めぇが、悪いんだろーが……っ!」
アホ、と可愛くないことを吐き捨てる古市の、色づいて上気した頬や唇に、目を奪われる。
椅子に座ることによって比較的自由が利く両手で、男鹿は古市の後頭部にしがみついているベル坊ごと、ぐい、と自分の方に引き寄せた。
「何言ってんだ、おまえがエロイ匂いさせてんのが悪い。」
いつになく、我慢が利かない。
心の中で、色んな感情が波打ってる。匂いを嗅げば嗅ぐほど、コレ以上したら古市が怒る、だとか、困る、だとか、──そんな気持ちが、突き動く情欲に押し流されていく。
いつだって、どこでだって、古市にキスしたい。
その白い首筋に口付けて、俺のものだって証を刻みたい。
とろりと優しく笑う目は、ただ俺だけを見つめていたらしい。細い指先は、俺だけにしがみついていたらいい。
甘い香を胸いっぱいに吸って、その細い腰をかき寄せて、滑らかな肌という肌に口付けて、舐めて、噛んで──思う存分、その細腰に熱を叩き込みたい。
俺だけのものだと──わからせたい。古市に、石矢魔のヤツラに、アランドロンにもベル坊にもヒルダにも、この世界中の全てに。
古市は、俺だけのもの。
「男鹿……っ、離せ、……っ。」
ばか、と、眉を寄せてクシャリと顔を歪める古市に、男鹿は唇を寄せる。
誰かが居たからなんだと言うのだ? お前にそんな顔をさせるのは、俺だけなんだと、教えたい。示したい。──見せびらかしたい。
だから。
「古市。」
低く囁いて、男鹿は間近に近づいた古市の、困ったような恥ずかしそうな……それでも熱に浮かされてうっとりとした眼を見据えながら、その甘そうな唇に、噛み付いた。
「──ん……んむっ……っ!」
突然の強引なキスに、古市は眼を見開き、強引に入ってきた男鹿の舌を必死に追い出そうとする。
けれど、手で押そうとしても、古市程度の力で男鹿を止められるはずもなく──舌で男鹿の舌を押せば、それを待っていたかのように舌を絡められ、更に男鹿が深くまで入り込んできた。
「むぅ──んっ、……んあっ……、おが、ダメだって……っ、みんな、見てるのに……あむぅ……っ!」
ガタガタっ、と椅子の音を鳴らして、必死に男鹿から顔を背けようとするけれど、男鹿は決してソレを許さない。
熱に浮かれたように、頭の中が男鹿で一杯になる。
口付けながら、シャツのボタンを外され、ヒヤリと触れた空気を暖かな男鹿の掌が遮る。
あったかい掌が、胸をさすり、撫で──胸の突起を指先で、ツン、と触れられて、古市は小さく息を呑む。
ダメだ、だってここ、学校なのに。
だってみんな──居るのに──……っ!
「おが……っ、や、だぁ……っ!」
必死にいやだと言っても、ダメだと言っても、男鹿は全然動きを止めてくれなかった。
ならば誰かが止めてくれないかと、キスされながら眼を走らせれば、ヒルダが爛々と眼を輝かせながら携帯を構えているのが映った。
──……ヒルダさぁぁぁーんっ!!!!?
更に頭の上では、ベル坊がキラキラ目を輝かせながら、「アダ!!」とペシペシと古市の頭を叩いて、嬉しそうに古市の髪に頬刷りを始める。
古市が興奮するほどに香が益々強くなり、それが楽しくて嬉しくてしょうがないらしい。
──ダメだ、悪魔に援護は期待できない。むしろ男鹿の援護してやがる。
だったら、誰か、人間……っ! 常識的な人を味方に──……っ!
男鹿の激しい口付けに翻弄されそうになるのを、一生懸命堪えながら、眼を動かせば、チュパッ、と恥ずかしいくらい音を立てて、男鹿がようやく古市をキスから解放した。
はっ、と息をついて、酸素を吸い込む古市の両頬を掌で包み込むと、男鹿は、ぐい、とその目線を自分に固定させた。
「……お、が──……っ、おまえなぁっ。」
息を整えて、ひゅ、と息を呑んだ古市が、真っ直ぐに自分を見つめる男鹿に、ここが学校で、教室で、人が居るって分かってるっ!? ──と叫ぼうとしたところで、
「古市。てめー、俺とキスしてるのに、他のヤツ気にするとか、おかしーだろ。」
「いや、気にするだろ、普通っ!」
何バカ言ってんの、と不良たちですら震え上がるような鋭い視線を受けても、たじろぎすらせずに古市は男鹿を睨みつける。
男鹿はそんな古市に、むすっ、と顔をゆがめると、
「浮気だな、古市。」
「いやいや、意味わかんねー! ってか、マジで意味わかんな……むぐぅぅっ!!」
皆まで言わせず、男鹿は再び古市の唇に噛み付いた。
上唇を食み、下唇をまとめて口の中に閉じ込めて、舌で歯列を割って強引に舌を絡める。
叫びかけた古市の吐息ごと全部飲み込んで、男鹿は古市の理性を吹き飛ばす勢いで、更に深く口付けた。
ガタガタッ、と音を立てて自分の背中の上に乗った机を、軽く蹴りを入れて叩き落す。
途端、ズキリ、と走った痛みに眉を寄せて、夏目は頬に乱れて落ちた髪の毛を掻き揚げる。
「つつ……っ、神崎君、城ちゃん、大丈夫……?」
流石は男鹿ちゃんたちを一度は倒した相手だけあって、ちょっと厳しいね、と呟いて──ジロリ、と鋭い目線を教室の中に走らせる。
自分たちがまともな抵抗もできないまま吹っ飛ばされた後、あの男は一体どうしたのか。
そう思いながら視線を飛ばした夏目の正面に当たる黒板の左端で、姫川と重なるようにして倒れていた神崎が、くそっ、と吐き捨てながらズルリと上半身を起こす。
「──、一体、どうなった?」
「神崎、てめー、重いんだよ、どきやがれ……っ。」
ガリ、と床に爪を立ててうつぶせになった姫川が唸る。その前髪のリーゼントが床に潰され、へにょりと妙な形になっている。──その塊のおかげで、姫川は首を50度そらす形になって、首が痛くてしょうがないのだ。
息をするのも苦しくて、マジで早く退きやがれ──っ、と唸る姫川に、誰に物を言ってやがるっ、と神崎が眉を吊り上げる。
ちょうどいい角度にある姫川の首に腕を回して、背中の上に座り込み、そのままえびぞりを仕掛ける。
「てっめぇ、神崎っ! 卑怯は俺の専売特許だろーがっ!」
首を思いっきりのけぞらせることになった姫川が、バンバンと床を叩いて抗議するが、神崎は聞く耳持たず、知るかっ! とそのまま体を反るようにして体重をかける。
ふざけんなっ! と姫川は一度強く前に体重を載せてから──一気に、反り返る!
グンッ、と跳ねた姫川のリーゼントがゆれ、そのまま90度反った姫川の後頭部が、ごつんっ、と神崎の額にぶつかった。
「ぐわっ!?」
思いもよらない攻撃に、まともにソレを受けた神崎がうめき声をあげ、力を揺るめたその隙に、姫川は神崎を押しのけて立ち上がる。
素早く彼から距離を置いて、ジャリ、と窓際のガラス片を踏みながら、
「てめぇ、神崎! 今はんなことして遊んでる場合じゃねーだろーがっ!」
「うっせぇっ! てめーのリーゼントがおかしすぎるから、やりたくなったんだよ!!」
すぐ近くに落ちていた自分のスタンバトンを取り上げ、姫川はソレを神崎に向けて突き出す。
神崎は目の前にあった椅子を軽く蹴飛ばし、ヒョイと立ち上がると、やる気か、あぁっ!? ──と真下から睨み上げる。
そんな彼らに、やれやれ、と夏目は肩を竦めると、
「神崎君、姫ちゃん。」
今はそれどころじゃないでしょ、と少しだけ硬い声音でそう告げれば、ハッ、と二人は我に返り、素早く視線を交し合う。
そして、どちらともなく頷きあったかと思うと、バッ、と肩で風を切って振り返る。
胸を張り、顎をかすかに上げて、姫川はサラリとリーゼントを揺らして後れ毛を掻き揚げ、神崎は口元に笑みを刻んで下から睨み上げるように教室の中を見回す。
「おう、で、さっき飛び込んできたあの特攻野郎はどこだっ!?」
「さぁ、俺もそれがわからないんだよね……。」
ギン、と鋭い視線を中に向けた神崎は、そこで、教室内に居た不良どもの視線が、一箇所に集中しているのに気付いた。
なぜかみな一様に黙り込み、顔を赤くして──ゴクリ、と喉まで鳴らしている始末だ。
一体何が、と、顔を顰めながら視線を彷徨わせたその視線の先で。
「姐さぁぁーんっ! 正気にっ、正気に戻ってくださいっ!!」
寧々が、涙交じりにガクガクと邦枝の肩を揺らして叫んでいた。
その周りを他のレッドテイルの面々が囲み、
「まだ傷は浅いっすよ!」
「いやもう深いでしょ!? むしろ取り返しつかなくないっ!?」
「というか、一刻も早くここから逃げた方がいいのでは……。」
そんなことを話し合っている。
その囲んだ背中の向こうに何があるのか、良く見えなかったが、とりあえず中心にいる邦枝が、呆然と立ち尽くしていることだけは分かった。
「まさか、邦枝がやられたのか……?」
姫川が、あの女が、と渋面で呟けば、神崎がことの次第を聞きだそうと、脚を1歩踏み出す。
「おい、てめーら、さっきのあの野郎は……っ。」
どこに行った、と、花澤の肩を掴んで問いただそうとした刹那。
ガッシャーンッ!!!!!
「!!!?」
「っ! 隣かっ!?」
再び鳴り響いたガラスの割れる音に、夏目が窓に駆け寄る。
割れたガラスを避けるようにしながら顔を覗かせ、いつの間にかあの男は、隣の部屋に移動して、誰かと──おそらくは男鹿と戦っているのか、と。
誰もが──否、神崎と姫川、夏目と城山はそう思った。
だがしかし。
「──ふむ、この辺りだと思ったのだがな。」
隣の部屋の窓の桟に、身軽な動作で舞い降りた──まさにそう、舞い降りた、というにふさわしい動きで「下から飛び上がった」「人影」が呟いた声は、ヘカドスのものとは違った。
「……新手、か?」
夏目は思わず、窓枠を掴み──そこに残ったガラス片が自分の掌に食い込むことにも気を払わず、体を乗り出して眼をすがめた。
最初に見えたのは、風に緩くたなびく漆黒のマント──否、コート、か?
なびく裾から覗く分厚いブーツで、じゃり、と窓に残った割れたガラスを踏みつける、小柄な少年。
「──。」
あれは、と、夏目は軽く目を見張った。
サラリと揺れる短い金色の髪、涼しげな横顔に漂う気品──けれど全身から、放たれる威圧感は、ハンパなかった。
部屋の中を眺め、無感動に呟いた「少年」は、緩く首を傾げると、
「……だが、近い、か。」
そう唇の動きだけで囁くように告げると、ヒラリ、と部屋の中へと入っていく。
夏目は更に身を乗り出して、隣の部屋を覗き見ようとするが、すでに部屋の中に入った少年の姿は、チラリとも見えなかった。
「おい、夏目! あのエラ野郎かっ!?」
神崎が目の前に転がる椅子を蹴飛ばして来る。
ガッ、と窓の桟を掴んで、神崎は夏目の横から顔を覗かせる。
右に左にと視線を飛ばすが、当然、ヘカドスの姿があるわけでも、金髪少年の姿があるわけでもなかった。
「ううん、今のは、あいつじゃなかったけど──でも。」
確かに、知っている顔だった、と。
そう、険しい顔で続けるよりも早く──バンッ! と音を立てて、隣の部屋の壁が震え上がった。
隣の部屋に行ったヤツが、何かをしでかしたのかと、顔を跳ね上げ、身構えたのは、なぜか神崎達だけだった。
レッドテイルの面々も、彼女たちに囲まれた邦枝も、そして室内の不良どもも、そんなことに構いもせずに、ただ「一箇所」だけを見つめている。──見つめ続けている。
それ以外に気を取られることなど、まるでない、と言うかのように。
「葵姐さぁぁんっ! 正気に戻ってくださいっ!」
ガクガクと揺さぶる寧々の腕の中で、邦枝は、「キス……チュー…………親愛の……いえ、でもだって、それにしては……。」とブツブツと呟き続けている。
一体、何が起きているのかわからないが、邦枝やレッドテイルの面々が役に立たないことは確かだろう。
それに今は、それよりも隣の部屋だ。
姫川は息を潜めて、物音を拾おうと黒板の方に意識を集中する。
──と。
パキ。
小さな音が──何かが砕けるような、そんな音が聞こえてきた、と、思った刹那。
ドゴォ……っ!!!!
黒板が、吹飛んだ。
「「「「なにぃぃーっ!!!?」」」」
ビュンッ、と砕けた黒板の塊が飛び散り、ガラガラガラッ、と音を立てて割れた窓や転がった机だのの上を、重い音を立てて転がっていく。
咄嗟に顔や頭を庇うので精一杯。──もうもうと上がる土煙の中、ジャリ、と壊れた壁を踏みつけて「侵入」してくる侵入者相手に身構えている余裕なんてなかった。
「──やはり、あまい、な。」
ぽっかりと空いた穴の向こう側に、小柄な姿が見える。 サラリと揺れる金色の髪。窓から吹き込む風に靡く漆黒のマントのような上着──スン、と鼻を鳴らして、冷ややかな印象を与える双眸をあたりに走らせた、その人影は……、数週間前に、「姫川のマンション」で見かけた人物、その人。
焔王と呼ばれていたガキに跪き、許しを請うていた男だ。
そう認識して、神崎達が髪についた埃やコンクリートの粉を、腕で拭い取りながら、ペッ、と口に入った瓦礫を吐き捨てる。
そのまま、ゆっくりと、立ち上がろうとした──その矢先。
ガタッ、ン……っ。
「ナー、ガ……っ、おまえ、な……っ!」
神崎達よりも先に、身を起こした男が居た。
さかさまに転がり落ちた教卓の下で、うめき声をあげてヘカドスが埃にまみれた顔をあげる。
黒板の上に乗っかっていたらしい黒板消しを頭に乗せて、チョークの粉まみれになった黒い髪をボサボサと頬に落としながら、彼はヨロリと立ち上がる。
──あの男、あんなところにっ!
ということは、アイツは、男鹿が倒した、ということか?
一体、何が起きているのか良く理解できなくて、神崎達は説明を求めるように邦枝達のほうを見る、が。
それでもやはり、彼女たちはコッチを全く見もせず、恐慌状態のままだった。
「葵姐さぁぁんっ! しっかり……しっかりしてくださいっ!」
「葵姐さん、まだ傷は浅いっすよ! 大丈夫っす、まだチューだけっすからっ!」
「ちゅー……チュー……。」
「由加っ! それ、ぜんっぜん、慰みになってないからっ!」
チューチューとか、何ネズミの鳴き声を口ずさんでるんだよ、今、それどころじゃねーだろっ! ──と、神崎達は漏れ聞こえてくる声に、苛立ちを覚える。
──が、それを口に出すことも、彼女たちに視線をやることも、出来なかった。
ぽっかり開いた穴から出てきたナーガが、トン、と「こちら側」のテリトリーに足を踏み入れたからだ。
「ここが匂いの元か。」
酷く、濃厚な匂いがする、と、ナーガは目を細める。
あたりを見回すナーガに、気負いは全く見れなかった。
その事実に、神崎達は身を低く構え、彼の次の行動に備えながら舌打ちする。
ふらり、と視線を彷徨わせたナーガは、ヘカドスの上で視線を一度止めた。
ヘカドスは、ガタガタっ、と肩や背中に乗った瓦礫を落としながら、忌々しげに顔を顰める。
「その、扉探す前に、壁壊す癖止めろって、何度も言われてるだろうがっ! 俺まで巻き添えを食っただろう。」
「お前は私が来る前に、すでにそこの侍女悪魔に倒されていたと思ったのだが?」
「──……っ。」
チラリ、と、いつも変わり無い冷静な視線を向けられ、ヘカドスはグッと言葉に詰った。
ナーガはそれを見て、だが、そうだな、と顎に手を当てて一つ頷く。──それもまた、仕方が無いか、と。
「……この甘い匂い。それに惑わされたか。
──だが、それも仕方がない、か。」
それほどに、甘く、甘く──心がゾクリとするほど、甘い甘美な香。
遠く離れた【悪魔野学園】に居ても尚、ついフラリと誘われるほどの、甘い、匂い。
これほど強烈な匂いを前にして、正気を保っていられる人間どもがおかしいのだと思えるくらいに、頭の芯がクラクラするのを覚えた。
「──この匂いを嗅いでいると。」
スン、と鼻を鳴らして、ナーガはウットリとした笑みを広げた。
あまくて、あまくて、──心がすべて、狂気に犯されそうになる。
目を細めて、レッドテイルの人垣の向こうにある「ひと」を認めた瞬間。
ナーガは、未知の間隔が、ゾクリ、と背筋を這い上がったのを感じた。
ぞくぞくっ、と体中が震え上がる。
白い首をのけぞらせて、火照った赤い唇をわななかせて、キュ、と切なげに眉を寄せている──「匂いの主」。
辛そうに瞳を歪めて熱に潤ませて、は、と息を吐いたその目が……、ツィ、とナーガ達を流し見る。
それを認めた瞬間、ナーガもヘカドスも、ついぞ味わったことが無いほどの「衝動」に、体中がわななく。
ハ、と目を見開いた古市の、──焔王が目の仇にしている少年の、驚いたその顔を。
「今すぐ跪かせて床に押さえつけ、その綺麗な顔を苦痛に染め上げ……それが快楽に染まる様を、一部始終写し取りたくなるな。」
赤い舌先で、ペロリ、と唇を舐める。
喉がからからに渇くような感覚。火がついたかのように突き動く衝動。
普段の自分からは信じられないほど、自制心が吹飛びそうな高揚がこみ上げてくる。──それを、止められない。
「ナーガ、お前もか。
前に会った時には、あの人間に何も感じなかったのに──なぜか、今は、こうも……。」
「「虐げたくなる。」」
二人は同時に、いたぶる獲物を見つけた肉食獣のような視線を、銀色の少年に向け──とても少年誌では語れないような妖艶な笑みを口元に刻み付けた。
「──……ひっ、ぃ……っ!」
そんな、新たに現れた悪魔を加えた二人の悪魔からの、熱視線──というには、あまりにS属性の激しい視線を受けた古市は、ゾクゾクと背筋を震わせて目の前にあった男鹿の頭にしがみつく。
かろうじて肩に引っかかっていただけのシャツが、するり、と滑り落ちて、少し骨ばった白い肩が、ふるり、と緩く震える。
男鹿は、自分の目の前に押し付けられた古市の、己の唾液で濡れた桃色の飾りに、──獰猛な獣のように、スゥ、と目を細めた。
まるで、舐めて、触って、と言っているようなしぐさ、だけれど──古市が今あげた声は、先ほどまで上がっていた、堪えるような甘い吐息ではなかった。
色気が感じ取れない悲鳴に、男鹿は不満そうに顔を顰める。
「まだ痛くしてねーぞ。」
なぁ、とプックリと立った隆起を唇で食んで、ちゅく、と吸い込む。
ねっとりと生暖かく舌で、突起を上下にいたぶりながら、あむ、とわざとらしく甘く歯を立てて、引っ張ってやる。
「んんっ──……っ、ちょ、男鹿、それ止め……っ。」
男鹿の頭にしがみつきながら、ぱさり、と緩く頭を振った古市から、ことさら甘い香りがする。
──古市が、感じれば感じるほど、熱があがるほど、においが、ひろがる。
右手で古市の余った胸をぐりぐりと押してやれば、古市の震える吐息が男鹿の髪をくすぐった。
「──……っ、おがっ、ばか、いま、それどころ、じゃ……っ。」
ねーだろ、……っ、と、古市は男鹿の髪をギュッと掴みながら、ばか、と緩く引っ張る。
思いっきり引っ張りたかったが、そのたびに男鹿に乳首を弄られて、ハッ、と甘い吐息が零れて、指先から力が抜ける。
髪の毛を数本、引っこ抜くつもりだったのに、逆に男鹿にしがみつく形になって、古市はフルフルと唇を揺らした。
視線を、ちらり、と横に飛ばせば、涙で滲んだ視界の向こうに、白目をむいて口からエクトプラズムを吐いている邦枝を、レッドテイル女子が全員で囲んで呼びかけている光景が見えた。
その塊の、更に向こう。
崩れた黒板の穴から現れた金髪の少年──耳にエラを貼り付けた小柄な少年が、酷く淫靡な微笑みを貼り付けて、古市を見ていた。
ペロリ、と唇を舐めるその赤い舌に、──食われそうな気がして、ひっ、と古市は短く悲鳴をあげる。
「お、……がっ……っ。」
ほんと、こんなことしてる場合じゃないっ! ──と叫びたいのに、男鹿の手は休むことなく古市の身を蹂躙する。
慣れた仕草で古市の弱いところを的確に弄り、食み、吸い上げる。
そのたびに甘い感覚が引きずり出されて、んぁっ、と古市は喉をのけぞらせる。
「……っ、そこ、にっ──……、あく……、ひっ、んっ。」
気付いてるだろうに、男鹿は古市に先を言わせまいと、ツツ、と指先で背筋を撫で下ろす。
ゾクゾクと走る感覚に、古市は零れそうになった嬌声を必死で噛み殺した。
どこの世界に、悪魔が目の前に──しかも、敵対してる悪魔が居るっていうのに、人の首筋舐めたり、乳首弄ったり、チューしたりするやつがいるって言うんだ……ッ! ……って、目の前にいたっけかっ!
じゃなくってっ!
「俺以外、見てんじゃねーよ、古市。
随分余裕じゃねーか。」
それなら、もっと俺だけにしてやる。
──ニヤリ、とタチの悪い笑みを浮かべえて、男鹿は嬉々として古市の乳首を強く吸い上げる。
「おが……っ、も、……──ぁっ、ば、ばかっ、どこに手ぇ突っ込んでんだっ!」
ちょっと視線を悪魔の方に飛ばしていた隙に、ベルトが外され、チャックが下りたかと思うと、くつろがれたズボンの中に、男鹿の手が侵入して来ていた。
何やってんだ、お前ぇぇっ! と叫ぶ古市の声を頭の上に、男鹿はイソイソと古市の滑らかな腰骨を撫でさすり、指先でパンツのゴムを引っかけ──その隙間に、他の指を入れる。
「って、こらこらっ、おがぁぁっ!」
今、そんなことしてる場合じゃ、なくってっ! ──そう、叫ぶ古市の制止の声なんて、聞いてやるつもりはサラサラない。
掌に吸いつくような古市の肌の感触。しっとりと汗ばんだソレを掌に擦りつけながら、胸の飾りの横にきつく赤い痕を残せば、古市が声を上ずらせて甘い声をあげる。
そのたびに、甘い、甘い香が、部屋中に広がって行った。
芳しい……いや、そんな表現ではたとえようもないくらい、心臓をわしづかみにする芳香に、悪魔たちは誰一人残らず、その匂いに酔った。
普段、古市をキモイと言い続けているヒルダですら、うっとりとした微笑みを見せ、携帯カメラを構えながらも古市の表情から決して目を離さない。
そして進入してきた悪魔たちも、また。
艶めいた表情で、必死に声を押し殺す古市に、目を奪われ続けていた。
サラリと揺れる銀色の髪が、白い素肌にしっとりと張り付く──その、色艶。
透き通る白い肌が、仄かに赤く染まり、かすかに伏せられた銀色の睫が影を落とす琥珀色の瞳が、熱に潤み、情欲を宿し──ハ、と熱い吐息を零す唇が、プックリと赤く火照り、開いた口腔内で赤い舌が蠢く。
ごくり、と知らず喉を上下させたヘカドスとナーガが、レッドテイルの間を掻き分けるようにして、古市の方へと足を踏み出す。
「姐さん、しっかりしてくださいっ!」
「そうっすっ! もうあの二人、チューしてませんからっ!」
「今、まさに、男鹿の手が古市のズボンの中に……。」
「……はぅっ!」
「千秋ぃぃーっ! 実況中継なんてするんじゃないよっ! 姐さんっ、葵姐さん、しっかりぃぃっ!」
悪魔たちが横を通り過ぎているというのに、女性陣はそれどころじゃない。
顔を真っ赤にしたり真っ青になったりして、必死に目の前の光景を否定しようとしている邦枝の介抱で必死だ。
そんな面々に、古市はクシャリと顔を歪めて、男鹿と、ヒルダとを交互に見た後──最後の手段だと言わんばかりに、アランドロンのほうを見やった。
先ほどからずっと、正座して古市の痴態を凝視していたアランドロンは、カチリ、と古市と目線があった途端、ぽっ、と頬を赤らめて、なんて頬に手を当てて、斜め下に視線を飛ばす。
そんな彼に、ウゼェェッ! と叫びそうになったが、今はそんなことを突っ込んでる場合じゃないと、古市は慌てて思い返す。
「アランドロンっ! おい、この──……ひゃぅっ!!」
男鹿の頭の上に少し身を乗り出して、これは一体どういうことだと問い詰めようとした矢先、男鹿の掌が古市の生の臀部をわしづかみにする。
その指先が、あらぬところに触れて、古市は声を潜めることすら出来なかった。
「古市、てめー、さっきから、何他の男ばっか見てんだ。あぁっ!?」
「今、どういう状況なのか早く理解して、男鹿くんっ! ──ん、……ぁっ。」
くり、と少し汗ばんだ蕾を指先で弄られて、古市は小さく息を詰める。
そのまま、硬く閉ざされた蕾に指の腹を擦らせ──中へと侵入しようとするイタズラな指に、ば、か……っ、と古市は息を詰らせるようにして軽く身をよじる。
「お前も早く状況理解しろよ、古市くん。」
にぃ、と悪魔の笑みを浮かべて、男鹿は柔らかな古市の尻を揉みながら、ズボンとパンツをズリ下げる。
すでにもう硬く勃ちあがりかけていた先が、つん、とパンツのゴムを押し上げ──モロだししそうなソコに、古市は小さく悲鳴をあげて、とっさに両手でソコを覆い隠す。
カッ、と頭の中が真っ赤になった。
ここが、男鹿だけしかいない空間だというのなら、話は別だ。
けど、今いる場所は、教室で、──しかも、ギャラリーが両手に余るほどいるのだ。
とてもではないが、さらけ出したくはない。──それが立派であろうと立派でなかろうと、古市には、そんな趣味はないのだ。……決して。
なのに、男鹿ときたらっ!
あわてて隠したつもり、だったが、その古市の足元で興奮のあまり、落ち着きなくうろうろしていたコマちゃんが、ハッ、としたように目を見開いた。
そのまま、仁王立ちして、コマちゃんはフルフルと体を震わしながら、古市を見上げる。
「ゆ……ゆきちゃんの……っ。」
ギュ、と握り締めた小さい拳を震わせて、コマちゃんは食い入るようにして古市の白く細い指先を──そこに覆い隠された部分を、見つめ続けた。
「ピンクの先っちょ、見えたでぇっ!!!」
やっふぉいっ! と、大喜びで片手を突き上げ、コマちゃんは飛び上がる。
まさかでよもやの棚ボタ的展開に、コマちゃんは大喜びでピョーンと飛び上がって、一番古市の艶姿が見える場所──すなわち、すでに先に陣取っているヒルダの、真横にチョコンと正座する。
ヒルダは無言でチラリとコマちゃんを見下ろしたが、特に何か言うことはなく、携帯の向こうで股間を必死にガードしている古市に視線を戻した。
「ちょっ、男鹿、待て、マジで待て。ココ、教室っ! しかもみんな居るし、なんでか悪魔も集って来てるからっ!」
そんな場合じゃないっ! と叫ぶ古市に、んなのわかってんだよ、と男鹿は不満そうな顔になる。
「けど、しょーがねーだろ。とまんねーんだから。」
この匂いが甘くて、まるで理性が言うことを利かない。
早急に古市の肉に食まれたいのに、頑なな蕾は、古市の性格にソックリだ。
素直に指すら飲み込んでくれないのに焦れて、男鹿は赤く色づいた古市のプックリとおいしそうな乳首に軽く歯を立てる。
「──……はっ、ぁ、……っ、……しょっ、が、なくなんか…………っ。んむぅっ。」
言葉を出そうとすると、妙な声になりそうで、古市はキュと唇を噛み締める。
ふる、と頭を振れば、柔らかな髪が頭に乗っかったベル坊の頬や頭を擽る。
それが楽しいのか、くすぐったいのか、ベル坊は甘えたような声を出して、ダァ、と古市の頭に頬刷りをした。
「──アラ、ン、ドロン……っ! ──んあむぅっ。」
古市は必死に顔を背けて、アランドロンにこれはどういう状況なのか確認しようとするのだが、それを許さず、男鹿は古市の口を丸ごと食いつく勢いで塞いだ。
古市の唇ごと口内に含み、舌で思い切りこねくり回して、強引に古市の口を割る。
ねっとりと甘い匂いのする口腔内に舌を突っ込めば、はむぅ、と古市の鼻先から、淫靡な香りがするうめき声がこぼれた。
その声もすべて吸い取りたい、自分のものにしたい。
たとえ、だれが見ていようとも。──否、だれもが見ている前で、古市のすべてが俺のものだと、知らしめたい。
「古市。」
ちゅぱ、とわざとらしく音を立てて、唇を離せば、ハ、と浅い息が古市からこぼれる。
その吐息も甘くて、甘くて、──たまらなくなる。
「他の野郎の名前なんて呼ぶなっつっただろ。」
「──や……っ、だから、人の話、ちゃんとき……んむっ。」
ふるり、と頭を振った古市の顎を取り、その口の中に自分の指を突っ込む。
ぐちゅ、とわざとらしく音を立てて、古市の口の中にたまった唾液をたっぷりと指に絡め取る。
古市は片手で男鹿の顎をグイグイ押しやる。
「ふぁむっ! ふぉむびょっ!!」
「何言ってんのかわかんねー。」
「あひょっ! ふぁがおーふぁっ!!」
乱暴に指を思いっきり突っ込まれて、古市は必至に叫ぶ。──そのたびに、舌先に男鹿の指が張り付いて、少ししょっぱい味が、した。
涙のにじんだ瞳で男鹿を見下ろせば、男鹿はギラギラ欲望のにじみ出た双眸で、古市を……古市だけを射抜く。
その目に、体中が、震えた。ぞくぞく、した。
──欲情、した。
「──……っ。」
わななく唇で、古市はドクリと波打った自身に、ダメだ、と必死で言い聞かせる。
男鹿に求められれば、体は否応なく、条件反射で反応してしまう。応えようとしてしまう。
必死に理性を保とうとしてるけれど──でも。
「これ……っ、どういう、状態、なんだよ……っ!!」
「古市、俺以外見んなっつってんだろ。」
男鹿が古市の背中を掻き抱くようにして強く引き寄せ、男鹿は古市がしゃぶり続けていた指先を、とろ、と唾液ごと引き抜いて、にぃ、と悪魔の笑みを浮かべる。
つ、と指先を伝うとろみのある液体とを見た瞬間、頭の中が真っ赤になって、息が詰まった。
は、とついた息ごと、男鹿が口づけでさらう。
言葉も何もかも奪われて、体中からとろけだしそうになるのを、古市は必至に堪えた。
唇と唇がふれて、お互いの温かさが溶け合って、割り入った舌と舌が絡み合い、キスにおぼれたい反面、チクチクささる視線が気になってしょうがない。
ヒルダとコマちゃんの食い入るような視線、ナーガとヘカドスの舐めるような視線、アランドロンのときめく視線。
そして、
「あ……あいつら、何やってんだぁぁっ!!!?」
神崎の、絶叫と、夏目の口笛と、城山がガタガタッと机ごと倒れ込む音。
──それらを耳に入れて、古市は口づけの合間に、男鹿から顔をそむけて、プハッ、と荒い息を吐く。
「ちょ、神崎先輩、おねがいですから、男鹿を止め……ひゃぁぁうっ!!」
パンツを半分ずりおろされて、古市はあわてて身をよじり、──そのできた一瞬の隙を見逃さず、男鹿は濡れた指先を突っ込む。
一瞬走った違和感と衝撃に、息をつめた古市は、すぐに自分が何をされたのか悟り、カッ、と顔を赤らめる。
「お、が……っ、このバカっ! なっ、なに──……っ!」
左手はしっかりと股間を守り抜かなくてはいけないので、右手だけで男鹿の手を止めようとする、のだが、普段両手でやってもかなわない男鹿に、かなうはずもなかった。
男鹿の指先が、つぷ、と音を立てて指先が埋まるのに、古市は息を止めた。
音など、聞こえるはずもない──わかっているのに、男鹿の指を呑み込んでいく……耳に届くか届かないかの水音が聞こえてきたような気がして、全身が羞恥に赤く染まっていく。
「や──……っ、おが、やめ……っ。」
「うっせぇ、黙ってろ。古市が俺のもんだって、見せてやんだよ。」
「だ……っ、だれにだよっ……、……ひゃぅっ。」
キッ、と羞恥にまみれた睨みを利かせるが、男鹿にはそれは逆効果になるばかりで、男鹿は埋め込んだ指先を、グリ、と弄り回す。
拒んでいた自分自身の秘肉が、男鹿の指先をゆっくりと食み、柔らかに包み込むのが分かった。
男鹿に言わせるところの「体は正直だな」というやつだ。──と思った瞬間、古市はいてもたってもいられなくなって、腰を軽く揺らす。
男鹿の指がさらに奥に埋まり、体がビクリと跳ね、……古市がきつく眉をひそめたその真下で、男鹿がニタリと嬉しそうに笑った。
ひどく、うれしそうに。
その目が、何よりも物語ってる。「ほーら見ろ。体は正直だな。」──と。
思わず、ムカッ、としたが、古市が目じりを釣り上げるよりも早く、男鹿が更に攻めてきた。
両手で臀部をわしづかみ、薄めの肉をかき分けて、ほころんだ部分に、さらに指を追加して突っ込んだ。
古市の体がわななき、喉がのけぞり、声なき声が悲鳴めいて上がる。
思わず喘ぎ声をあげそうになって、古市は片手で自分の口を覆う。
けれど、こらえきれないうめき声が、古市の唇からこぼれる。
「──……あっ……んっ。」
甘い、──今までのこぼれた声とは、くらべものにならない甘い声に、男鹿が愉悦の表情を浮かべ、ヒルダが携帯を握る手に力を籠め、おおっ、とコマちゃんが身を乗り出す。
邦枝が、奇声を発して頭を抱え、寧々たちが顔を真っ赤に染めて動きを止める。
ナーガとヘカドスの二人は、目を輝かせて古市の嬌態に魅入り、知らず、グ、とこぶしを握りしめた。
古市が小さく息をのみ、震える手で自分の股間を握り締める。──その手が、決して人様には見せられないようなしぐさで動きそうになるのを、顔を真っ赤に染めて堪える……その姿が、ひときわ、淫靡すぎて。
フラリ、と誘われるように足を踏み出して、二人は足を前に踏み出す。
とたん、二人を包み込むように濃厚な甘い匂いが、漂い始める。
そのにおいを嗅いだとたん、腰が砕けそうになる──頭の中が、しびれたように動かない。
なんて、強烈な魅惑の力。
ゆらり、と体をかしがせて、ナーガもヘカドスも、まるで何かに誘われるようにして、ヒルダの横に進み出た。
ヒルダはそれをチラリと見上げ、無言で目を細める。
もしも、この撮影会を邪魔するのなら、容赦はしない。──その強い眼差しに気付いて、ナーガが殺気を軽く織り交ぜた一瞥を飛ばしてくるが、その刹那。
「…………っう、くぅ、んん……っ!!」
喉をのけぞらせ、古市が片手を必死に口に押し当て──ポロリと涙をこぼす。
辛そうに、何かをこらえるように眉を寄せて、ギュゥ、と自分の【竿】を握りこむその手に、男鹿が己の手を添える。
「なぁ、これ、離せよ。」
くちゅ、とわざとらしく音を立てて、男鹿が古市の中を指で抉る。
動かす腕に、古市のくつろいだズボンが少し落ちて、腰骨から臀部の上部まであらわになる。
その白い……白い臀部のラインに、目を奪われる。
「ば、か……言うなっ。見える、だろ──……っ。」
やだ、とイヤがる古市に、男鹿は嬉しそうに笑う。
「見せてやりゃいーだろ。お前が、俺でおっ勃ててるとこをさ。」
なぁ? と男鹿は古市の耳元に唇を寄せて、必死になって古市が握り続けるその手を、スルリ、と撫でる。
小さく、白い肩を揺らす古市の媚態に、魅入れたように悪魔たちは彼を凝視した。──息をするのも忘れるほどに、彼から漂う甘い匂いに酔う。
ヒルダが無言で古市の顔をうっとりと見つめ、ナーガとヘカドスはフラリとその隣へ歩み進み、すとん、と彼女の横に足を揃えて座る。
そのまま、食い入るように古市を見つめるその目が、ランランと輝き──ペロリ、と舌を舐めとる。
男鹿が獲物を味わった後は、自分たちの番だと、そういうかのように。
「……ヤ、だ……おがぁ……っ。」
古市は頭を振って、与えられる快楽を必死で散らそうとする。
男鹿の黒髪と古市の髪が混ざり、サラサラ、と軽い音を立てる。
ベッドの上で、古市の白く細い体を蹂躙するときのように、優しく官能的な男鹿の仕草に、古市は足の指先に力がこもるのを感じた。
ほら、と誘うように、男鹿の指が古市の指を伝う。指の付け根を爪先でくすぐり、間接的に古市の物を刺激する。
「ふ、う、……んんっ。」
男鹿が指先で古市を刺激するたび、古市は堪えきれない声をこぼす。
両手で口を覆っても、声が指の隙間からこぼれ出て、自身を握る手からも力が零れ落ちていってしまう。
手を動かしてもいないのに──かすかに男鹿がふれる指先の感覚に翻弄されて、先端からぬめりのある液体がこぼれ始める。
「──……っ。」
「お、古市、まだ触ってねーのに、こんななってんぜ。」
男鹿が楽しそうに、古市の耳を舌先でいじりながら、低い声で囁く。
甘い色を宿した声は、情事のただなかを思い出させて──否、おそらく男鹿は、今も情事中のつもりなのだろう──、古市は、悔しそうに男鹿をにらみつける。
でもその目も、熱と涙で潤み、誘っているようにしか見えなかった。
指先で、ツツ、と古市の指の間を辿れば、透明感のあるねっとりとした液体が男鹿の指を濡らす。
「い、うな──……っ。ばか、おが……っ。」
古市の手ごと握りこんで、緩やかに開きかけた古市の指の間に指を入れて、古市自身のそれに触れる。
──熱くて、脈打つそれに、男鹿もゾクゾクと湧き上がる快感に、ぺろり、と唇を舐めあげた。
指先に触れる古市自身の物に、強弱をつけて刺激を与えてやれば、古市の指からジワジワと力が抜けていくのが分かった。
口ではイヤだのなんだの言いながらも、古市は男鹿から与えられる快楽に弱いのだ。
自身の意思に反して、古市の手は緩くほころび、男鹿の手を許容し始める。
焦らずに、ゆっくりと──古市相手にどうしたらいいのかは、他の誰でもない男鹿がよく知っている。
攻めるときは強引すぎるくらいに攻めて、でも最後の攻防だけは、古市が拒否反応を覚えない程度に、ゆっくりと、じっくりと、陥落させていくのだ。古市自身が、焦れて、扇情的にねだるくらいに。
「──……や──……っ、ダメ、男鹿……っ。
…………これ以上、は…………、ここじゃ──……っ。」
ヤダ、と、古市がせっぱつまった声で囁きながら、額で男鹿の顔に顔を寄せる。
頼むから場所を変えてくれ、と願い出る古市が、とろりと熱情を我慢できない瞳で、じ、と男鹿を見下ろす。
男鹿はそれに、少し考えるように首をかしげた。
場所を変える、のは──別にいい。古市のこんな妖艶で誘うような顔を、他の誰にも見せたくはないからだ。
でも。
早く、と、ねだる古市の顔や、赤く濡れた唇に、腰がズンと重くなり、古市の物を握る手に力がこもった。
もっと、古市を啼かせて、喘がせて、俺だけだとこの唇から言わせたい。
欲しいと、俺を深くまで感じたいと、──そう、全員の前で、言わせたい。お前が俺だけのもので、俺だけの下で淫乱に乱れるのだということを……知らしめたい。
湧き出る支配欲と独占欲に、頭の中がグルグルした。
今すぐ、腕の中の体を抱きしめたい。……抱きつぶしてしまいたい。
床の上に押し倒して、指を食んでいる暖かな肉襞を掻き分けて、かき乱して、その中に吐き出したい。──お前だけを愛しているのだと、その気持ちすべてを、受け止めてほしい。
「──……あー、古市、わりぃ、無理。我慢できねぇ。」
真摯な目で男鹿は古市に囁いて、手の中の物を上下に扱く。
「ん──……ぁっ、やっ、あ……っ。」
こらえきれず、古市は漏れ出る声を必死に堪えるために、両手で口を覆う。
指を組み、開いた口に手を押しつけながら、くぐもった声を上げる。
両手で前と後ろを攻めながら、男鹿は古市ののけぞった首筋に噛みついた。
肉を歯で軽く食み、吸い込んで痕をつけながら、後腔に入れた指を更に数を増やす。
重量感を増した感覚に、古市が歯で指を噛み、ぐ、と喉を鳴らした。
グチュ、と立つ水音に、古市は頭を振る。
いやだ、と言いたいのに、男鹿は許してくれない。
──このままじゃ、こんな場所で……教室の、悪魔や知り合いが見ているという、こんな場所で。
思わぬ痴態をさらけだして、しまう。
「──……は、ぁ、……ッん……っ。」
辛そうに眉を寄せて、古市は必至で快楽をこらえる。もう、それしか、できなかった。
ベル坊が古市の頭の上でそれを見下ろして、それから男鹿を見下ろす。
男鹿はチラリとベル坊を見上げて、くい、と小さく顎でしゃくった。
とたん、ベル坊はそれに答えるように大きくうなずき、「ダ」と答えると、そのままピョンと古市の頭から、後ろの席──いつも座りなれている、男鹿の机だ──に飛び移った。
そして、男鹿と古市に背を向けて、プリティなおしりを向けるようにしてかがみこむと、ダ、と小さなお目目で両目を覆う。
古市は自分の頭の上から、小さな重みが消えたことにも気づいていない様子で、必死に声を押し殺している。
男鹿は素直なベル坊に、よしよし、とうなずく。
そして、改めて強情な古市の攻略に取り掛かった。
──とは言っても、もうすでに古市は、両手で口を押えている状態だ。
ここまでくれば、もう男鹿の手管に落ちたも同然だ。
後ろと前を同時に容赦なく攻め続ければ、5分と経たないうちに古市は陥落する。──自分たちを見ている人間がいることも、悪魔がいることも、何もかもがとろけた頭の向こう側にいやられ、恥じらいながらも素直に体を預けてくるはずだ。
あとは、何かを考える隙もなく、攻めて、攻めて──攻めつくすだけ。
「古市。なぁ、こっち見ろよ。キス、させろ。」
「……ん。」
涙でぬれたまつ毛を揺らして、古市が素直に男鹿を見下ろしてくる。
そのまま、そろり、と両手を口から離して──ほてった唇が、男鹿を誘うように揺れる。
その綺麗な顔いっぱいに広がった情欲に、男鹿は触れるだけの口づけをおくる。
一度、二度──触れては離れるキスに、古市が焦れたように自ら顔を寄せる。
ギュ、と唇を押し付けるように口づけて、それから、そろり、と割り入ってくる古市の舌に──たとえキスだけとは言えど、公衆の面前で古市から仕掛けられたキスに、男鹿はさらにズンと腰が熱くなるのを感じた。
もうだめだ、絶対、逃さない。
我慢、できない。
「ふるいち──……っ!」
男鹿は古市を逃さないように、すかさず自らの舌を絡めながら……性急に中の指をうごめかせ、古市の弱いところを的確についていく。
「んんっ。」
甘い声を鼻からこぼす古市の媚態に、ヒルダは、ほぉ、と興奮した面持ちのため息をこぼし、ナーガとヘカドスも体を前へとのめりださせる。
古市の腕が男鹿の肩に回され、キスが深くなるたびに後ろ髪に指を絡めていく。
角度を変えて、口づけを繰り返しながら──あぁ、くそ、と古市は眉を寄せる。
男鹿は、どうしてか頭に血が上っている。
いつもなら、場所を移動できるくらいには、頭だって冷えてるはずの、男鹿が……今日ばかりは、ここから決して移動したがらないのだ。
独占欲が強くて、古市の「イイ」顔は、たとえベル坊にだって見せたくないと、そう言ってくるバカなのに。
だから自分が理性を保って、なんとかして、男鹿を正気に返らせたいのに。──なのに。
男鹿がうずめた指先や、男鹿が自分にだけ見せる目に、理性がぐずぐずに溶け出すのだ。
「……公開、プレイ、とか……冗談じゃ、ねーぞ……。」
キスの合間に、熱のこもった声で囁けば、男鹿はその言葉ごと奪うように唇を封じる。
そしてまた舌を絡め取って、 ごくん、と喉を鳴らしてすべて古市の唾液ごと呑み込んでしまう。
そうして、とろり、と唇と唇の間に細い糸を伝わせて、濡れた唇で、男鹿が官能的に囁いた。
「なぁ、ふるいち? ──入れて、いーか?」
ここ、で。
熱のこもった双眸で見つめられて、古市は──背徳感にゾワリと背筋が震えるのを感じて、体を震わせる。
──いいよ、と。
そう、うなずいてしまいそうな自分が怖くて……、キュ、と、目を閉じた。
→JC15巻ネタバレの、今更な時期設定。
一応、15巻ネタバレです。
時期設定は、最初、
「男鹿が修行から戻ってきて、ナーガ達を撃退した後、焔王たちは魔界に戻ったと見せかけて、実は人間界でいろいろ遊んでいた」という設定でした。
でも、書いているうちに、どうっしても、他の悪魔も出したくなったので、急きょ、
「男鹿が悪魔野学園に乗り込んで、ヒルダを助け出し、そのあといろいろあって、とりあえず悪魔野学園とは、休戦状態になっている」という設定になりました。
思ったより書いてる時間が長引いたので、その分、ジャンプですごい展開になってしまい; いろいろ矛盾が出てきてしまいましたが、気にしないでください。
ただ、男鹿と古市が人前でいちゃいちゃしてるだけだと思ってくれればいいかと。