暦が3月から4月に変わって、背負っていたランドセルが、学生カバンになった。
今までは、どれだけ目つきが悪くて態度が横柄だったとしても、ランドセルを背負っていた男鹿に、無茶なケンカを売ってくる中高生はいなかった。
けれど、趣味の悪いTシャツ姿から学生服に変わっただけで、”中高生”というのは、目をつけたり因縁をつけてくるわけで。
おかげで入学一週間にして、男鹿は硬田中学一の問題児として妙に有名になっていた。
小学校の頃と、中味も外見も一ヶ月やそこらで変わるわけはない。──そりゃ、中学にあがった時に、劇的に変身しちゃったりする【中学デビュー】もいたけれど、男鹿はあくまでもマイペースというか、そういうことに興味がないというか。
だから、厳密に言えば、男鹿は「不良」ではないのだと思う。──思うけれど、ケンカばっかりしてるから、やっぱり「不良」というカテゴリの中には入るのだろう。
とは言うものの、男鹿は、基本的に自分からケンカを売ることはない。
ムカつく相手を問答無用で殴りつけることはあるけれど、それは「不良」と一くくりされる輩たちの言うところの「むかつく」とは、違う理由でだ。
カツアゲしてたり、オヤジ狩りをしてたり──偶然その現場に居合わせたとき、誰もが見て見ぬフリするような現場に颯爽と現れて、そんな輩を吹き飛ばすのだ。
と言えば、まるで正義の味方だと思う者もあるだろう。
だが、実際はそんな爽やかな存在とは全く違う。
実際は口や行動よりも先に手と足が出てる上に、目つきが凶悪なため、どう見ても不良同士の小競り合いの結果だとか、自分の獲物を横取りされた不良がケンカを売ったようにしか見えない。
そのため、男鹿が不良をぶっ飛ばしている間に、助けた相手にも逃げられ──更に不良たちは、やりすぎな性格の男鹿をますます敵視する。
必然、復讐だの仇討ちだの生意気だの──そんな理由でケンカを吹っかけられることが多くなり……ほぼ毎日、ケンカを売られては買う日々に突入してしまった。
だから、中学にあがって一ヶ月──ゴールデンウィーク明けには、立派なケンカ三昧の日々が成立していた。
別に、そこで終わっていれば、古市は別にかまいはしなかったのだ。
男鹿が勝とうが負けようが、古市には関係ない。
大抵彼と一緒にいるので、自分が居る時にケンカになることは、多い。
だから、ケンカが始まると同時に、巻き込まれない場所でこっそりと覗き込むだけ。
必要以上に関わらない位置にいる。それがいつもの古市だった。
──なのに。
なぁんで今、こんなボロ廃墟ビルで、後ろ手を縛られて、軟禁されてたりするんだろう?
「っていうか、ケンカ売られても買うなっつぅの。あのバカ。」
思わずポロリとこぼした瞬間、ピリ、と唇の端に走った痛みに、古市は顔を軽く歪める。
いてぇ、と呻くように呟いた言葉は、苦い鉄の味と共に口の中に広がり──そうして、薄汚れた床の上にしみこんでいく。
硬いコンクリートの床に、直接当る肩や腰の骨が痛い。
こてん、と頭を床にこすり付ければ、ひんやりと冷たい感触と、カビの不快なにおいがした。
思わず鼻の頭に皺を寄せて、絶対、カビ生えてるんだぜ、このビル。と古市は心の中で吐き捨てる。
何せ、自分たちが生まれる前から廃ビルだった場所だ。
カビどころか変な虫が一杯涌いていても、何も驚きはしない。
殴られたせいでジクジクと痛みを感じる目であたりを見回せば、窓から差し込む明かりに照らされた床に、硝子の破片や黒ずみかけたジュースのパック、乾燥したお菓子か何かのパッケージが転がっているのが見えた。
ここが、溜まり場になっているのは、容易に想像できた。
だからこそ、自分はココに連れ込まれたのだろう。
──人質と、して。
はあ、と溜息を零して、古市は後ろ手に結ばれた指先を微かに動かす。
冷たく感じる指先は、感覚も遠く感じたけれど、きちんと古市の思ったとおりに動いてくれる。
それに、よし、と思うけれど──、そこで古市は、途方にくれたように思った。
これで漫画とかドラマとかだと、近くに落ちてる硝子の破片やそんなので、縛っているロープとかを切るよう、努力をするものだろうけれど。
チラリ、と見上げた先……すぐさま自分を監視していた男が、ギロリとこちらを睨みつけてきた。
思わず首をすくめて、古市ははれぼったい目を伏せて、心から強く思った。
──脱出とか、無理。
「てめぇ、変なこと考えんじゃねーぞ?」
どこかクダを巻いたような、舌足らずにも聞こえる声で、男は低い声で呻くように古市に声をかける。
右腕に包帯を巻き、頬や顎に大きな絆創膏を張り付け、額には刃物のような鋭い傷跡がある。──とてもじゃないが、普通ならお目にかかりたくない類の人種だ。
本来なら、ごくごく普通の一般人であるところの古市貴之、この11月に13歳になる中学にあがったばかりのホヤホヤの少年には、普通なら接点などない相手だ。
「…………。」
古市は声をかけた男には答えず、視線を落として床を睨みつける。
そんなつむじを無言で見下ろしていた男は、自分よりも何周りも小さい相手が怯えて声も出ないのだろうと判断して、はっ、と吐き捨てるように息をついて、視線を外へと飛ばす。
窓ガラスという窓ガラスが割られた窓からは、そろそろ沈みかけようとしていた夕日が見えるだけだった。
「おい、サブのやつ、帰ってこねーじゃねぇか。」
茜色の空を見ながら呟いた男に、窓際に座っていた男が振り返る。
脱色して白に近い髪をした男は、髪を朱色に染めて、にぃ、と唇を歪めて笑った。
「男鹿のやろうにぶっ飛ばされたんじゃねーの?」
ひひっ、と楽しそうに笑う男に、古市は軽く湧き出た嫌悪に眉をひそめる。
自分の仲間だろうに──いや、もしかしたらパシリかもしれないけれど──、それの安否を気遣うどころか、楽しそうに笑うって、どういう神経をしているのだろう?
週刊マンガ雑誌で連載している不良マンガ物でも、もう少し──仲間意識って言うのは、高いんじゃなかったっけ?
「つーか、日が暮れちまうぜ。どーするよ?」
こいつ、と、少し離れたところで、べっこべこに凹んだ金属バットを手にしていた男が、やさぐれた表情で古市を見下ろす。
その眼差しに危険な光りが見えた気がして、さっ、と古市は視線をそらす。
あのバット……なんであんなに凹んでるんだ? っていうか、答えなんて分かりきってるよな? アレだ、アレ。きっと癇癪起こして壁とか机とか打ったんだよ。または人とかをな。
バットはボールを打つためのものですよー、なんて親切めかした突込みを入れたくなった自分の体質に、溜息めいた物を思いながら、古市は室内に差し込む窓の形をしたオレンジ色の光を、じ、と見つめた。
だんだんと薄くなっていく光とともに、ジャリ、と汚れた床を踏みしめる足音がいくつか立った。
誰か来たのか、と顔をあげてみれば、窓際に居た男たちが古市のいる方へと歩いてくるのが見えた。
逆光で見えない──見づらい男たちの表情に、気配に、なぜかイヤな予感を覚える。
じり、と縛られたままかすかに後ず去れば、男たちは愉悦の笑みを口元に浮かべる。
抵抗できない……まともに抵抗できない弱者という獲物を、いたぶる目だ。
「しょーがねぇよなぁ? 男鹿が来ねぇんだからよ?」
「そーそー。お前、このままじゃ、役立たずになっちゃうだろ?」
にやにや、と崩すことのない笑みを浮かべる男たちに、古市の背中がおぞましさに震える。
それを見下ろして、あーあ、震えてるじゃん、と誰かが笑いながら言った。
気付いたら、小さく身を強張らせる古市を、5人ほどの男が囲んでいた。
ズボンのポケットに手を突っ込みながらガムを食う男、黒ずんだ染みをつけたバットを手に見下ろす男、両手を組み合わせポキリと間接を鳴らす男……彼らが何を考えているかなんて、拉致られた経験がない古市にだって想像はつく。
男鹿が来ないから──ウサ晴らしをするのだ。……自分で。
「……ちょっ、じょ、冗談だろっ!? 俺、マジでケンカ弱いんで、そういうことされちゃうと、ほんとしゃれにならないっていうか……。」
病院に連れ込まれたりしたら、あんたらだってヤバイだろっ!? と、慌てて考え直せと、口早に言うが、男たちの笑みは消えない。
酷薄な眼差しで見下ろされ──じりり、と距離を更に詰められる。
あぁ、このバカどもの頭に、「俺に顔を見られてる」だとか、「警察に駆け込まれる」とか、いう知識は頭にないのかもしれない。
古市の拉致計画が、突発的なものであるからこそ、余計に。
「てめーにも役目をやろうってんだよ。感謝しな?」
踵を踏んだ靴先で、がんっ、と足元のビンを蹴飛ばして、男は笑う。
窓の外から差し込む光は、すっかり薄くなり──表は、紫色になりかけていた。
太陽が沈んだのだ……男鹿が来るはずの時間が、すでに過ぎてしまっていることを示していた。
つまり、「サブ」とかいうパシリの少年は、男鹿の誘致に失敗したのだ。
男鹿が見つからなかったのか、それとも用件を言う前に殴られたのか。どっちもありえそうだ。
そうだとすれば、古市にはもう希望はない。
誰も、ここへ助けに来る人は、居ないのだ。
──やっぱ、中学入学と同時に、携帯を買ってもらうんだった、と、後悔してもすでに遅い。
目の前にある「役目」とやらは、今すぐにでも行使されそうだ。
「……ちなみに伺いますけど、その役目、って、なんすか?」
イヤーな予感しかしないんだけど、と、少し目を細めながら引きつった笑みで答えれば、彼らは異句同音、こう答えてくれた。
「そりゃ、うさばらしに決まってんだろーがよっ。」
「あぁ……やっぱり。」
がっくり、と肩を落として、古市はすぐに訪れるだろう、めくるめく痛みと苦痛と悶絶の時間を思った。
イヤだ。物凄くイヤだ。
「てめぇをやったら、男鹿のバカも、ほーふくとかに来るんじゃね?」
「おー、そしたら、俺らの思うツボじゃねーかっ! 自分から来てくれるんだったら、こいつ、存分にやっちゃおーぜ。それこそ、今来なかったのを、あいつが後悔するくらいになっ!」
げはははっ! と下卑た笑いをあげる男たちに、報復、くらい漢字使えよ、高校生。と古市は喉の奥で突っ込む。
けれど、そんな挑発はしない。
挑発なんかしなくても、彼らは自分をボコる気満々なのだ。──古市にとって不幸なことに、目の前には男たちが持っている武器や、武器になりそうな物がゴロゴロしている。
ラチったくらいで男鹿が呼び出せないなら、男鹿の親しい人間をボコって仕返しに来させる、もしくはソレを宣戦布告代わりにする。──うん、かつてないほどセオリーな不良マンガの展開だ。
間違ってない、間違ってない、んだ、けど……っ。
やられる側としては、たまったものじゃない。
とっとと助けに来いっ。──つぅか、だから、不良の言い分もちゃんと最後まで聞けって、いつも言ってるだろーがっ!
──と。
泣きそうな気持ちで古市は眉をきつく寄せる。
そんな彼を覗き込みながら、男の一人が日が落ちて暗くなった薄闇の中、かすかな光りを弾く「獲物」を取り出した。
その光りに……銀色に耀く刃物の存在に、ゾッ、と古市は震えあがった。
「へっへっ、あの世であのバカとつるんでたことを後悔するんだなー?」
──っていうか、殺す気かよっ!? それ、殺人、殺人っ!
突っ込み体質そのものに突っ込みそうになった古市は、それをグ、と奥歯で噛み締めた。
震える体が、止まらなかった。
止めたくても、目の前でチラつかされたナイフが、目に飛び込んできて、視線すら離せない。
そんな古市を見下ろして、男たちは笑った。
「恐怖で叫ぶことも出来ネェってか? 俺らとしちゃ……泣いて叫んでもらったほうが、ずっと、面白れぇんだけどよっ!」
ははは、と、楽しそうに笑う男のナイフが、古市の顎先に突きつけられる。
ひやり、と当る感触に、震えがピタリとおさまった。
怖くないわけじゃない。むしろ逆だ。
怖くて怖くて──震えることすら出来なくなったのだ。
脳裏に閃くのは、この小汚い廃ビルで、血だまりの中倒れ付す自分の姿。
誰にも見つけられず、誰にも気付かれず──ただ、静かに、倒れ続ける、自分の…………っ。
「──……っ。」
たまらなくなって、古市はグと眉を寄せた。
そうしないと、堪えきれずに涙がこぼれそうになったのだ。
そんな古市を間近で見上げて、はは、と男はますます楽しそうに笑う。
「いいねぇ。その顔。」
つぅ、とナイフが顎先を伝って、喉元に降りる。
まだ声変わりを迎えていない細い滑らかな喉を──気管を伝うように下ろされたソレに、息が詰るような感覚を覚えた。
鎖骨を掠めて、まだ新品に近いカッターシャツの襟元にナイフの切っ先が突きつけられた。
そこから左手に下ろされれば──ちょうど心臓の位置だ。
まさか、本当に……俺を、殺すつもり、なのか?
恐怖に息を潜め、古市は光るナイフを見下ろした、ちょうど、その時。
がんっ、──ドッ!
聞きなれた、音が、した。
ハッ、と顔をあげる男たちの数メートル先──ちょうど窓の真下辺りに、なにかが転がっている。
なんだ、と誰かが呟くよりも早く、その塊が、
「うう……つ、つえぇ……っ。」
低く呻いた声をあげた。
その声に、暗くて塊の正体を見極められなかった男たちが、驚愕の声をあげる。
「ムカデっ!」
ムカデ? と古市が顔をあげて、あの気持ちの悪い虫の存在を思い浮かべたところで、闇に沈みかけた建物の中を動く「ひと」に気付いた。
顔はよく見えない。姿だって、暗くてよく分からない。
けど、その人影が動くたびに、古市の目の前に立っていた男たちが──「ムカデ」と呼ばれた倒れた人影に駆け寄ろうとしていたヤツらが、床にドサドサと倒れていくから、何が起きているのかは、すぐに分かった。
「あがっ!?」
「な、なんだっ!? なにが……っ! ……うごぅっ!」
混乱する男たちが、何が起きているのかと右と左を見ている間に、次々に人影が消えていく。……否、人影が、倒れていくのだ。
何が起きたのか分からないままに倒れていくから、消えていくように見えるだけで。
相手の息遣いすらわからないほどの、圧倒的な「実力差」。
見覚えのあるそれに、古市は、はぁ、と安堵の吐息を零す。
脅威にしか見えない光景──暗闇に沈んでいく男たち。
なのに、それは古市にとっては恐怖の対象ではない。むしろ、見慣れた光景だった。
カラン、と音がして、古市に突きつけられていたナイフが落とされる。
それを見下ろして、──バーカ、と古市は心の中だけで呟く。
そんな、バットとかナイフとか、そんなもんで、勝てるわけねーだろ。
「うぁぁぁっ! いてぇっ、いてぇぇ…………っ。」
床に突っ伏し、動けない様子で腹を押さえる男の声が、日の落ちた廃ビルの中に響く。
低く呻く声が、幾重にも重なる中、ただ一人立っていた男は、つまらなそうに背中をかすかに丸めると、男たちを一瞬で倒した拳をポケットに突込み、
「ちっ、……暗ぇ。」
あたりを見回しながら、そう一人ごちる。
その低い──不機嫌そうな声に、あぁ、と古市は胸を撫で下ろす。
「男鹿。」
辺りが暗いから、自分の姿が見えないのだろう。
そう思って声をかければ、男鹿が目を眇めて──ますます凶悪な顔になりながら、古市の声がした方角を見やる。
「──んぉ? 古市か? どこだ?」
今さきほど、悪魔的な強さを見せて男どもをたたき伏せたとは思えないほど、気楽そうな口調。
けど、男たちには、その声すら恐ろしい声に消こえたのだろう。
ひぃぃぃ、と悲鳴をあげて、床をのたうち回りながら、男鹿から必死で逃げようとする靴先や手の平がかすかに見えた。
「こっちだ、こっち。──手足縛れてっから、動けねぇんだ。」
声を頼りに近づいて来た男鹿が、目を何度かしばたかせ──すぐに壁際に居た古市の姿に気付いた。
色素の薄い古市は、暗闇の中でも比較的見つけやすい。
衣替えをしたばかりで、カッターシャツ姿だったのもよかったのだろう。
「おー、待たせたな。」
まるで、遊びに行く約束に遅れたかのような口調に、古市は血の滲む唇を歪ませて微笑む。
「マジで遅いっつーの。お前、あと1歩遅かったら、やばかったんだぞ。俺の命が、風前の灯火だったんだぞ。」
ひょい、と自分の前にしゃがみこむ男鹿を、蹴り飛ばしたい衝撃にかられるが、自分の足はしっかりとガムテープで縛られている。
「ふーせんのともりび?」
「ちがう。」
とりあえずコレを取れ、と目線で指し示せば、男鹿は素直にそれに手をかける。
ベリベリ、と音がして、皮膚が強く引っ張られるような痛みとともに、ガムテープが剥がれていく。
圧迫した感覚がなくなり──かすかな痺れを残して自由になった手足に、はぁ、と古市は息をついた。
「っていうかお前、なんで遅くなったんだよ。」
ジロリ、と睨み揚げれば、男鹿は面倒そうに顔を歪める。
「つーか、なんで古市、捕まってんだ? どんくせ。」
「うっさいわっ! 俺はお前と違ってケンカ弱いんだよっ! 大勢で囲まれて、逃げられるかっつーのっ!」
とは言うものの、ちゃんと最初は逃げとおしていたのだ。
ただ──逃げた先という先に、全て回りこまれて、気付いたら八方ふさがりだっただけで。
中学生相手にソコまでするか、と古市は苦々しく吐き捨てながら、ゆっくりと立ち上がる。
少し足元がふらついたが、特に不自由なく動ける。
立った拍子に、ラチられた時に殴られた腹の辺りがシクリと傷んで、手で撫でさする。
「で、お前が遅くなったのは、なんでだよ?」
「んぁ? あー……、まさか古市が捕まってるとは思わんかった。」
「……はぁ?」
どういう意味だ? と眉を大仰に顰めれば、男鹿はなんとも言えない顔で、
「公園でケンカ売ってきたヤツがよ、なんか変なこと言ってきやがって──俺の彼女をラチったとかどーとか。」
「…………かのじょ?」
公園で、ということは、男鹿は暇つぶしに近所の公園でブラブラしていたのだろう。
それはよくあることだから分かる。
あの公園は緑が多くてちょうど良い木陰があるのだ。
今のシーズン、とても過ごしやすい場所だから、古市もあそこでボンヤリとすることも多いから、分かる。男鹿がソコに居たのも分かる。
──が、しかし。
聞き捨てならなかった単語が今、あった気がする。
「で、覚えねーから、人違いだろうと、善良な俺はそいつを無視ったんだが、あんまりにもしつこかったんで、ちょっとベンチに眠らせてやってだな。」
「いやいや、お前、その顔で何善良とか言ってんの。」
ドヤ顔で、いいことした、と言いきる男鹿に、すかさず古市は突っ込む。
眠らせてやったって、どーせ殴っておいて、子守唄だとかなんだとか強引に表現しただけだろうに!
「まぁ、俺ほど格好いい顔は、そうそうそこらに居ないだろーが──けど、んな間違うほど似てんのかな、って思ってよ。」
「どこから突っ込めばいいのか、わからんボケをすんな。」
基本的に男鹿と深く付き合わない面々は気付かないが、男鹿は、天然なのだ。
お前くらい凶悪な顔にソックリな人が居たら、それこそビックリするわっ! と──ちょっと見えてきた現実から逃避しながらの古市の言葉をスルーして、男鹿は話を続ける。
「んで、家に帰ってから、姉貴に、俺によく似た男がいるらしい、って言う話をしたらだな。
ラチられてる人が居るなら、助けてこいっていうからよー。」
「……あぁ、もういい。なんかオチ分かったから、もう何も言うな。」
男鹿姉こと美咲は、男鹿にそっくりな男がいるかどうかはともなく、他人に「男鹿の彼女」だと思われている人物を、不良たちがラチったのだろうと気付いたのだろう。
いや、もしかしたら人間違い相手の彼女を助けて来い、って言うつもりだったのかもしれない。
うん、きっとそうだ。そうに違いない。
──決して、美咲さんが、「男鹿の彼女」と評された相手が誰であるのか、気付いたなんてことは、ない。絶対にない、と、思いたい……っ!
「なんか来たら、古市が縛られてたってーわけだ。
──な? 意味わからんだろ?」
「言うなって言っただろーっ!!!!???」
ナイフを突きつけられたとき以上に泣きたい気持ちで、古市は絶叫した。
叫んだ。──もう叫ばずにはいられなかった。
「何、怒ってんだ、古市?」
「怒りたくもなるわーっ!!!」
ここにちゃぶ台があったら絶対にひっくり返していた。古市にはその自信があった。
そんな古市の顔を見下ろして、男鹿は不思議そうに首をかしげた後──あ、と、何かに気付いたように呟いた。
そして、にやー、と悪魔のような笑みを広げると、
「古市、お前、俺の彼女に間違われ……。」
「言うなって言ってんだろっ!!!」
ばんっ、と、古市に頭を叩かれた。
「いってーなっ、何すんだ、古市。」
「うっさいわっ! もう、ありえねぇぇぇっ!!!」
ぐしゃぐしゃっ、と頭をかき乱し、古市は喉の奥で呻く。
そりゃ、確かに古市は、男らしい顔つきとは言えない。立派なガタイとは言えない。何せまだ中学一年生だ。発展途上なのだ。
小学校の低学年の頃には、女の子に間違われたことだってある──更に言えば、給食の白衣を身につけていたら、担任の先生にまで女の子と間違われた切ない思い出もある。
けど、だからって……いくらなんでも、このバカの彼女に間違われるとか、ありえねーしっ!
「こいつら、俺が制服着てんの目にはいんねーのかよっ!?」
ありえねーっ、と、何度目になるか分からない声をあげて、激昂のままに男どもをジロリとにらみつけた古市は、ふ、と視線の片隅に放り出されたナイフがあるのを認めた。
自分の顎先に突きつけられ、そして心臓に刺さるはずだった、ナイフ。
──けど、よくよく、冷静になって考えてみれば。
男鹿のセリフとあわせてから、考え直してみれば。
「──……っ。」
ゾ、と。
男として考えたくない事態が脳裏を横切り、慌てて古市はかぶりを振った。
「おい、古市、帰んぞ。」
いつまでもソコから動く様子のない古市に、すっかり暗くなってしまった窓の外を一瞥しながら、男鹿が声をかける。
古市は、そんな彼に手を伸ばし、ぐ、と腕を掴むと、
「おいっ、男鹿っ!」
「……んだよ?」
かったるそうに首だけ振り返る男鹿を、古市は大きな目でキッとにらみつけた。
「お前、こいつらにちゃんと言っとけよっ!」
「はぁ? 何をだよ?」
「俺は、お前の彼女なんかじゃねぇってっ! ってか、女じゃないって!」
「んなの、ほっときゃいーだろーが。」
言わせたいヤツには言わせておけ。
どうせ、次に会うことなんてないんだろうから。
そう、あっさりと──その日殴った人間の顔なんて、一つも覚える気のない男鹿が言い捨てるのに、古市は唇を一文字に結んで彼の腕を掴み取る。
「ほうっとけるか! いつもなら、お前が殴ってソレで終わりでいいけど! そのあと、報復があろうが何があろうが、お前の勝手だし、俺、関係ないからいいけどさ!
今回は話が別だろっ! こいつら、俺のこと、お前の彼女だって思ってるんだぞっ!? もし、お前に報復しようとして、俺を攫ったり盾にしようとしたりしたら、どーしてくれんだっ! 俺を巻き込むなってのっ!」
ギッ、とそのまま睨みつければ、男鹿は根負けしたように溜息を零した。
そして、無言で目線を辺りに散らし、適当に、近くに居た男の腹に蹴りを入れると、
「おい、お前。」
底冷えするような低い声で──男鹿に殴られた箇所に走った焼け付くような痛みに耐えているらしい男に、悪魔のような表情で告げる。
「ひぃぃっ、こ、殺さないでくれっ──っ、命だけは……っ、命だけはっ!!!」
頭を両腕で覆って、びくびく震える不良どもは、先ほど古市に見せていた余裕はカケラもなかった。
男鹿はそれを見下ろすと、
「よく覚えとけよ。──古市は俺の女なんかじゃねぇ。男だ。」
面倒そうに、かったるそうにそう告げた。
うんうん、と古市はその背後で頷く。
何で俺が、という表情が見え見えだったが、恐怖に駆られた男たちには、その表情すら悪魔の宣告に見えたことだろう。
ひいぃぃっ、と震え上がって、頼んでもいないのにその場に土下座すると、
「わっ、わかりましたっ! ちゃんと覚えておきますぅぅぅっ!!!」
登場時とは全く違った下手に出た態度で、何度も何度も頭を下げて、そう叫んでくれた。
──この数日後。
「男鹿ぁぁっ!!!!!」
バンッ、と、古市が男鹿の部屋のドアを壊さんばかりに開いて飛び込んできた。
今週のジャンプを呼んでいた男鹿は、んぁ? と、緊張感のカケラもない顔で古市を見上げる。
「なんだ、どーした、ふる……。」
がしっ、と、言いかけた言葉を中断されて、古市により襟首をつかまれる。
額と額がぶつかりそうなほどの勢いで顔を近づけられたかと思うと、
「どーゆーことだっ! なんで、──……っ、なんで俺が、お前の情夫ってことになってんだよーっ!!!!???」
がっくんがっくん、と激しく上下に揺さぶってきた。
その手から、涙の滲んだ目から、古市の魂の悲鳴が聞こえてくるようだ。
「おまえっ、今すぐそこらの不良ども全員に、訂正してこいーっ!!!!」
無茶難題を言う古市の叫びに揺らされながら、
「……古市が俺のトーフって、どーゆー意味だ……?」
「豆腐じゃねぇっっ!! そりゃ、お前の頭の中身だろーがっ!」
男鹿のイマイチよくわかっていない顔に、古市は本気で泣きたくなった。
──果たして、彼女と誤解された方がよかったのか、情夫だと思われているほうがいいのか。
中学一年生には、あまりにも難しすぎる二択なのであった。
「なんで普通にダチって選択肢がねぇんだよっ!!!!」
*******余談*******
「あれ、たかちん、いらっしゃい。」
「あ、ども、お邪魔してます。」
近所の不良校の制服に身を包んだ美咲が、リビングで弟と戯れている古市に気付いて笑顔になる。
そして、笑顔のまま首を傾げると、
「そーいや、こないだ、ラチられたんだよね? 大丈夫だった? 辰巳、ちゃんと間に合ったの?」
こいつ、と言いながら男鹿を指差し、美咲は笑いながら続ける。
「たかちんがラチられてるって気付いてなくて、いくのが遅れたっしょ? ちょっと心配だったんだよねー。」
あの日、帰ってきてから、私には何も言ってこなかったから、無事なのは知ってたんだけどねー、と。
お気楽な口調で言う美咲に、そうですか、と古市は笑い返して、
「心配ありがとうございます。ちょっとココは切れちゃいましたけど、すぐに治りますよ。」
見て分かる程度に腫れてしまった唇の端を指差したところで。
「あ、そーなの? それはよかった。
たかちんも気をつけないとダメよ?」
あははは、と去っていく美咲の後ろ姿を、古市は呆然と見守った。
ぱくぱく、と口を開け閉めする古市に、男鹿がどうした、と問いかけてくるが、彼はとてもではないが答えられなかった。
──だって、だって、だって……っ!!!
「美咲さん……っ、なんであの時のあの状況で、ラチられてるのが俺だって思ってんだよ……っ!!!」
そんなこと、「あたりまえじゃん」と言う答えが返ってきたら怖いから、とてもじゃないが、聞けないけど。
べるぜ処女作でした。
中学1年の時の古市って、私服姿だったら男鹿の彼女と間違われてたと思うんだー。
↓HP転載時の書き下ろしオマケ。
「おーがーくーん、学校行こーっ!」
門の前から小学校のときからずっと続けているお迎えの声をあげてから、なれた仕草で門を開く。
朝も早くから男鹿母が新聞を取った後は、いつも開けっ放しの門を潜り抜ければ、ちょうど美咲が玄関を開いた。
頭の高い位置で一つに結んだ赤く染めた髪に、近くの石矢魔高校の制服に身を包んだ美咲は、ローファーに足を突っ込みながら顔をあげる。
「おー、たかちん、おはよ。朝からごくろう……さ、んんんーっ!!?」
「おはようございます、美咲さんっ。」
ビックリしたように目を丸くして見上げてくる彼女に、にこにこー、と古市は相好を崩した。
朝から、綺麗なお姉さんに会えたのが嬉しくて(朝っぱらから、男鹿の可愛くない顔を見るよりも百万倍嬉しい!)、古市はいつもより三割り増しの笑顔をキラキラと振りまく。
滅多なことでは動じない石矢魔の最強レディースの初代総長は、驚いたように目をパチパチと瞬き──それから、へー、と古市を上から下まで眺めた。
「……み、美咲、さん?」
あんまりにもジロジロ見られて、古市は、やっぱりちょっとおかしかったかな、と、前髪を一つまみつまんで見せた。
──いつも通っている床屋のおじさんに、思いっきりばっさりやっちゃって、と言ったのだが……でも、別にこれくらい、野球坊主に比べたら長いほうだし。っていうか、普通の男の子と同じくらいだと、思うのだが。
普段の古市の髪が少し長めにしていたからで、そんなにおかしくない、と、……思うんだけどなぁ?
「変、ですか?」
ちょっと心配そうな目で美咲を見上げてみると、彼女は顎に手を当てて、うーん、と小首をかしげた後、
「うん! 男の子っぽくなったじゃん、たかちん! 女の子にモテるかもよーっ!」
バンバンッ、と、楽しげに笑いながら古市の肩を叩く。
そのまま彼女は古市の横を通り過ぎて、門を抜けた。
サラリ、と赤い髪がゆれ、甘い匂いが漂った。
あ、と思わず視線を美咲に向けたときには、もう彼女は数メートル先まで進んでいた。
「じゃ、いってくるね。」
「あ、は、はい、いってらっしゃい!」
ひらり、と手を振られて、それに応えるように手を振り返しながら……古市は、もう一度自分の前髪をつまみ上げた。
そして──「女の子にモテるかも」という美咲の言葉を思い出して、小さく笑みを零すと、
「よっし! これでもう、男鹿の彼女なんて呼ばせないぜっ!!」
グ、と拳を握って、そう叫んで見せた。
古市が、「古市貴之」は、「男鹿」の情夫、だという噂を耳にするのは、この3日後のことである。