明日、俺は人生生まれて初めての「結婚式」とやらに参列する。
お天気は快晴。今年一番の猛暑日になると言われているほどのお天気で、お天道様も新しく夫婦になる二人を祝福している──らしい。
まだ学生な俺は、学生服で参列してもいいんだけど、でも、「友人代表」みたいなスピーチもしなくちゃいけないのに、学生服じゃ締まらないってんで、親が新しいスーツをつくってくれた。
妹のほのかにも、可愛らしいドレスを一揃い。
親戚の結婚式とか、親の知り合いの結婚式とかなら、こんなことはしない。
でも、他の誰でもない、あいつの結婚式だから。
ちゃんと、いい服着て、みんながちょっと笑えて感動できて盛り上がるスピーチしてやって、いっぱい写真撮ってやって、それから、披露宴が終わったら二次会の幹事なんかもやっちゃって。
ほんとに明日は、大忙しなのだ。
いくら親戚だけを呼ぶくらいの小さい結婚式だとは言えど、親友の晴れ舞台。一生に一度の記念になる、いい結婚式にしてやりたい。
心から、そう思う。
──……そう、思っている。
古市、貴之、17歳と9か月。
高校最後の夏休みの最終日である明日は、腐れ縁の幼馴染で、親友で、──それでもって、数か月前までは、たった一人の恋人だった男の、結婚式に参列する予定。
その日は、男鹿の最後の独身の夜だから、男ども──って言っても、俺と男鹿の父さんと男鹿の三人だけだけど──で、リビングで小さな宴会をしていた。
明日は朝早いんだから、と言うおばさんに、片づけはちゃんとしときますから、と言って寝室に送り出したのが午後10時。
それから2時間も経過した頃には、おじさんはグデングデンに酔っぱらって、床の上で一升瓶を抱いて夢の中でスピーチをしているみたいだった。
俺は、男鹿と一緒になって、なんでかソファの上でDVDを見ていた。
明日、結婚式で流す男鹿とヒルダさんのなれ初め? 的なDVDだ。
とは言っても、ヒルダさんが男鹿家にやってきてからまだ2年しか経過しておらず、流れるDVDの主役は、ほぼベル坊だったけれど。
「あ、これ、このとき大変だったよなー。」
画面の中がくるくる変わるたび、俺はわざとらしく声をあげて、そのときのことを息もつかせぬくらいに話してみせた。
なんでこんなDVDなんか見ようと言い出したのだろうか、と、俺は見始めて20分目にして、すでにもう後悔していた。
おじさんが酔いつぶれてしまって──おじさんが意識がまだあった時には、俺はひっきりなしにおじさんに話しかけていて、なんとか場を保っていられたんだけど。
こうして酔いつぶれてしまったおじさんに、タオルケットをかぶせてしまったら、やることがなくなってしまったのだ。
そうしたら、なんだか、無言でちびちびコーラを飲んでいた男鹿との間に、妙な沈黙が流れて──男鹿が、ちらり、と俺を見るのを感じた瞬間、妙に焦って、目に飛び込んできたDVDを掲げて、「コレ見ようぜ!」と言ってしまったのだ。
──後悔、している。
あの時、さっさと片付けて、俺らも寝ようぜ、っていえばよかったんだ。
なのに、なんでよりにもよって、ソファに並んで座ってDVDなんか見てるんだろう。
何で今この瞬間に、俺は、テレビ画面の中で男鹿とヒルダさんが仲良く笑っているのを、見ていないといけないのだろう。
男鹿は何も言わず、コーラを時々飲みながら、俺の横顔を見ている。
視線はピリピリ感じていて、でも俺はそれを気にしないでテレビに向かって笑う。
テレビの中の男鹿とヒルダさんは、ベル坊を挟んで立っていると、まさに夫婦そのものだった。──これから新しい夫婦になるだなんて、思えないくらい、昔から夫婦だった。
この時の男鹿は、まだ、俺と付き合ってたのに。
まだ俺と男鹿は、恋人同士だったのに。
なのに、テレビ画面は残酷だ。
明日──もう日付的には今日か。今日、夫婦になる二人が、まるでこのころから付き合っていたかのように見える。
拷問のように感じるDVDを見ながら──あぁ、くそ、コレ明日も結婚式の最中に見るのかよ、俺、って思った。
なんて拷問だ。っていうか、こんなの流れてる結婚式場で、友人代表としてスピーチして、二人にお幸せに、なんて言って笑って──あぁ、本当にそんなこと、俺にできるのだろうか。
いや、できる。できることは知っている。できないはずがない。
でも──、でも。
……ちゃんと笑顔で、ちゃんと嬉しそうにできるかどうかは、正直、自信がなかった。
『辰巳、あんた、18になったら、ちゃんとヒルダちゃんと籍入れなさいよ。』
ヒルダさんのことを男鹿の嫁だと思ってて、ベル坊のことを男鹿の子供だと思っている以上、いつかは来ると思っていた「命令」。
それを聞いたのは、いつの日だっただろうか。
ごく最近のような気もするし、ずっとずっと昔のような気もした。
それを聞いた時、俺は、男鹿が望むなら、男鹿家の面々に説明するつもりでいた。──いざとなれば、実の家族のように慕う彼らから蔑みの視線を受けてても、自分と男鹿の関係を包み隠さず話すことすら、覚悟して。
その時の俺の中には、「ああ、いつか言われると思ってた」という気持ちはあっても、男鹿とヒルダさんがそれを実行するなんてことは、頭になかった。
だって男鹿は、自分と付き合っていて、ヒルダさんも男鹿もお互いにそんな感情は抱いていないはずだったのだから。
──でも。
知らないでいたのは、俺だけだった。
知らないうちに、男鹿とヒルダさんは、距離を縮めていたのだ。
いや、距離が縮まっていたのは知っていた。ただ、その縮まった距離の間にあった感情を、俺は知らなかったのだ。
二人は、愛し合っていたのだ。
その事実を知った時。
ヒルダさんから、「男鹿と結婚することにした」と言われた時。
男鹿から、「ヒルダと結婚することになった」と言われた時。
俺にはもう、何も、選択肢は残されていなかった。
相談すらされなかった。別れたいとも言われなかった。
ただ、二人から、純然たる事実だけを、告げられた。
それが、ショックで、ショックで、俺は当然二人をなじった。どうして教えてくれなかったのだと。どうして俺を除け者にしてっ、と。
でも二人は、聞いてくれなかった。
古市に言っていたら反対するだろ、と、だから古市には内緒で話を進めていたのだ、と。
──……その時のことは、正直、古市はあまり良く覚えていない。
泣き叫んだのかもしれないし、男鹿を裏切り者と詰ったのかもしれないし、何も言えなくて逃げ出したのかもしれない。
気付いたら布団の中にもぐりこんで、泣いていた。
男鹿は、ヒルダ以外とは結婚しないと言った。ヒルダだから結婚するのだ、と。
その意味を、俺ははき違えたりなんかしない。そのままの意味だ。
じゃ、俺とのことはなんだったんだよ、とは聞けなかった。
思い返してみれば、俺はそういや、男鹿に好きだとか愛してるだとか、言われたことがなかった。
一緒に居て、キスして、セックスして、なんとなく漠然とこのまま一生傍に居るのだと思っていただけで。
その事実を思い返した時、もしかして恋人だと思っていたのは俺だけだったんじゃないかと、愕然とした。
そんなことはない、とあわてて否定しても、──男鹿が自分を見ていた目は、確かに恋情だったと、自信を持っていられたのは、ほんの数週間にも満たなかった。
男鹿がヒルダさんと結婚することを決めてから、キスもしなくなったから。
──……あぁ、なんだ、言葉一つなく、俺たちの関係は、「トモダチ」に戻ったんだと、──そう、理解せざるを得なかった。
どうしたらいいのかわからないまま、それでも周りが祝福ムードになる中、二人に一番近い位置にいる俺が、男鹿に失恋したんだと暗い気持ちでいるわけにはいかなかった。
笑って、道化のように大騒ぎして、否応なく友人代表スピーチをさせられることになり(何せ男鹿にもヒルダさんにも、友達、と堂々と言えそうな相手が俺以外に居ないのだ)、あわただしく毎日が過ぎて……泣いてる暇も、落ち込んでる暇も、失恋したと防ぎこむ暇もなかった。
そうして、気付いたら、もう男鹿とヒルダさんの結婚式は明日に迫っていた。
思い返せば、男鹿とこうして二人の時間を持つのも、あの結婚すると決まった日、以来、と言ったところか。
「──……あ、と。もうビデオも終わりだな。
そろそろ片づけて寝るか?」
リモコンを取り上げて、停止ボタンを押してDVDを取り出す。
そのまま、明日忘れないようにとケースに入れて、鞄の中に放り込もうとしたら、ソファを立ち上がったところで、クン、と男鹿に腕を取られた。
「──……古市。」
低く、落ち着いた声で、名を呼ばれる。
共に夜を過ごした時のような、静かな夜の気配の中、呼ばれたその響きに、むしょうに泣きそうになった。
ここには、俺を思う色は、もう一つもないのだ。──いや、たぶん、最初から、何もなかったのかもしれない。
「なんだよ、男鹿。」
「ちょっとここに座れ。」
「ダメだ。片づけしないと、明日おばさんに怒られるだろ。」
それに、本当にもう寝ないと、明日、目の下にクマができるぞ、新郎。
そうからかうように言って、男鹿の手を軽く振り払おうとする。
けれど男鹿は、グ、と俺の手首をつかんで、ここ、と、もう片手で自分の隣を──先ほどまで俺が座っていた場所を叩く。
困って、どうしようと思ったけれど、俺を射抜く男鹿の目があまりにも真剣で、断っても意味がないことを悟った俺は、小さくため息をこぼして男鹿の言うとおり、その隣に座った。
結婚式の前日の、夜。
こんなドタン場で、何の話があるというのだろう。
まさか、今更、俺との別れ話、──とか言うんじゃないだろうな?
勘弁してくれ。そんなこと言われたら、俺は泣いて泣いて泣いて──明日、誰の前にも顔を見せないくらい、ひどい面になっちまう。
今だって、けっこう切羽詰まっていて、顔が歪みそうになるのを必死にポーカーフェイスで隠してるってのに。
そんな俺の、複雑な気持ちを全く分からないのか、男鹿は妙に緊張した面持ちで、テーブルの上に置いてあった封筒を取り上げた。
その封筒を見た瞬間、うわ、と俺は思った。
その中に何が入っているか、知っているからだ。
……婚姻届。
すでにもう、男鹿とヒルダさんの名前が入ったソレは、明日、結婚式が終わった後、2人で市役所に届け出に行くという物だ。
そのためだけに、ヒルダさんは人間界で戸籍を作ったと言っていて──男鹿が俺の前でソレに名前を書くところを見ていたから、知っている。
正直言うと、二人がそれを揃って、進んで書いていくのを見るまでは、まだどこかで、ドッキリカメラか何かなんじゃないかと疑っていたから、……よく、覚えてる。
「お、が──…………。」
声が、震えた。
ダメだ、見せるな。
そんなもの、出してくるな。
なんでだよ、男鹿。──なんでそんなの、今、俺に見せるんだ?
もういい、わかってる。──お前がヒルダさんと結婚するってこと、ちゃんと俺はわかってる。
だって、そのための手伝いだってしただろ? ヒルダさんのドレス選ぶの手伝ったし、ブーケの花言葉だって調べてやった。男鹿が着る服だって選んでやったし、ベル坊に晴れの日の服を着せることを説得させる手伝いだってした。
結婚式のイベントだって考えてやったし、二次会の手配をしたのも俺だ。
失恋した相手の結婚式だけど、たった一人の親友の結婚式でもあるから、想いで深いものにしようと、力の限りは尽くした、──尽くしたさ!
その中で、何度も何度も、思い知ってきてる。
男鹿は、ヒルダさんの物になるんだって。
もう、俺の物じゃないんだって。
──……だからっ!
「──男鹿、それは、ちゃんと明日まで、しまっておけ。なくすと困るだろ……っ。」
そんな、絶望的な物を、俺に、見せないで。
──そう、願って、無理矢理笑って告げた俺の願いを、男鹿はあっさり却下する。
「今出さないと意味ねーんだよ。ヒルダからも、今日中に古市に見せとけって言われてんだ。」
「──……っ。」
男鹿は封筒の中から、書類を取り出す。
それは、遠目に見ても見覚えのある物だった。
婚姻届、と書かれている。
夫の名前には、男鹿辰巳。妻の名前には、ヒルデガルダ。──何一つ、脳裏に刻まれた記憶と相違ない。
これを、「今日中」に俺に見せる意味。
そんなの、答えは一つしか浮かばなかった。
──俺が、いまだに、男鹿に執着しているのを、あの人は看破しているのだ。
それを知って、俺に、男鹿を忘れろ、と。──男鹿は自分の物なのだと、そう、宣言しているのだ。
さすがはヒルダさん。ドエスで悪魔で、完膚なきまでに、…………男鹿争奪戦の勝者だけ、ある。
「──……………………。」
見たくない。
これ以上、見たくない。
でも、そういうのは、俺がまだ男鹿に未練があると言っているのと同義語だ。
今この場で、言うわけにはいかない。
二人の幸せに、俺はこのドタンバで水を差したくない。させるはずがない。
誰もが祝福する結婚式を、一番近い位置に居る俺が、一番祝福していないのだと、だれかに知られたくなんて、なかった。
────……特に、男鹿にだけは。
なのに、その努力を無にするものを、男鹿はずるずると封筒から取り出し、婚姻届をペラリとめくって、
「お、コレだ、ほら、古市、コレ見ろ。」
にやり、と笑って、手にした紙を俺の前に突き出してきた。
嬉しそうな、弾むような声音に、俺は堪えきれなくなって、その手を叩き落とそうとした。
「……──お──……っ。」
が、と。
そう、怒鳴りつけそうになった俺は、言葉をそこでとぎらせて、男鹿が嬉しそうに……でも、どことなく緊張した風に突き出してきた紙に、目を止めた。
婚姻届と同じ大きさの紙。でも色が違う。形式が違う。
男鹿とヒルダの名前は入っている。ただし、用紙の右側だ。
婚姻届は左側だった。男鹿が出してきたのには、双方の名前が右側に入っていて、左側に同じような空欄があり、そこにはなぜか、俺の名前が記載されていた。
とっさに俺は、その用紙を男鹿からふんだくっていた。
そしてまじまじと見る──までもない。
用紙の上にドンと書かれた文字は、くっきりはっきりと俺の目に飛び込んできた。
「…………養子、……縁組……っ!!?」
なんだコレ! ナニコレ!? え、どういうことっ!?
頭の中が真っ白になる。
智将と言われ、適応力抜群とまで謳われたこの俺の脳みそが、全然はたらかない。いや、ってか働くわけないだろっ!?
穴が開くほど紙を見つめる。
間違いない、確かにこの紙は、養子縁組だ。
そして右側の養父となる欄には男鹿の名前が。養母となる欄にはヒルダさんの名前が書かれている。
そして養子となる人、には俺の名前。
え、なにこれ、どういうこと??? ベル坊の名前ならまだしも、なんで俺の名前があるの?
お前らもしかして、なんかいろいろ間違ってないか? ここは俺の名前を書くところじゃなくって、養子になる人を書くところですよーっ???
頭の中がハテナマークでいっぱいになる俺に、男鹿はなんでか、照れたようにほっぺやら首筋やらを赤く染めて、もじもじと体を揺らす。
「あー……うー、ごほん。
古市、あのな、お、……俺と、入籍してくださいでげすっ!!」
「──…………はぁぁぁっ!?」
紙を凝視していた顔を跳ね上げれば、目の前で正座して、ものすごい怖い顔でこっちを睨みつけている男鹿の顔。
顔が真っ赤だから、単に緊張してるだけだってわかるけど。恥ずかしがってるってわかるけど。
って、いやいやいやいや。
「入籍って、なんだよっ? お前、ヒルダさんと結婚すんだろっ?
ってか、コレなんだよ、なんで俺の名前が……っ。」
「おう、だって、男同士が結婚すんのは、そうやって養子にするしかねーんだろ?」
「──……。」
ぽかーん、と。
開いた口がふさがらない、とはまさにこのことだった。
え、何? 今男鹿、なんつった?
男同士で、結婚、とか言ってなかった?
「……え、いや、ちょっと待て、男鹿。
お前、明日、ヒルダさんと結婚すんだよな?」
そうだ、お前は明日、ヒルダさんと結婚する。
ヒルダさん以外とは結婚しないと言った。ヒルダさんだから結婚するって。
それはつまり、お前がヒルダさんのことを愛してるってことだろ? お前たちは愛し合ってて、だから付き合っていた俺のこと捨てて、結婚すんだろ?
頭の中が混乱して、ぐるぐるぐるぐるした。
そんな俺の肩を、がしっ、と男鹿はつかむと、
「ヒルダはお前の母親ってことになるけど、気にすんな。あいつは今まで通り、空気みたいなもんだ。
養子迎えるには、両親いないと無理だってヒルダが言うから、しょうがないから結婚するだけで、今までと何も変わんねぇ。」
だから、と、ごほんごほんと男鹿は咳払いを繰り返し、
「お前のことは、俺が一生幸せにしてやる──っ、だから、俺んところに、嫁に来い……! あ、じゃなかった、養子に来い、古市……っ!!!」
数分前の失恋に浸っていた俺には、とてもじゃないけれど、想像もできなかったプロポーズを、してくださいました。
ちなみに言っておこう。
確かに養子縁組の紙には、養母になる欄と養父になる欄がある。
けど、その両方がいないと、養子をもらえないわけではない。
片親でも、ちゃんと経済的な理由などを満たしていたら、養い親になれるのだ。
つーか、同性結婚するのに養子縁組、というのは、まぁ、あってる。あってるけど──どうして同性同士で結婚するのに、まず女と結婚しないといけない、っていう前提は、おかしいと思わないのだ、このアホは?
ヒルダさんは、まだ悪魔だからわかるけど──と、思ったところで。
いやでも待てよ? ヒルダさんは、ちゃんと知ってたんじゃないだろうか?
養子縁組をするのに、片親だけでいいってこと。
なのに、その事実に蓋をして、男鹿に「古市と結婚したいなら、まずは私と結婚するべきだ」と言ったのだと、したら。
それってつまり、ヒルダさんは、やっぱり男鹿のことを──……っ!?
「キモいことを想像するな、古市。」
ゲシッ、と、俺の後頭部に見事な蹴りが入ったのは、その瞬間だった。
さらに、おぞましいことこの上ない、と言った響きの声が降ってきて、俺はその蹴りの主が誰なのか悟る。
ぐらり、と傾いだ俺の身体を、すかさず男鹿がギュと抱き留め──本当に久しぶりの男鹿の胸板の感触に、悔しいかな、俺はいっしゅん、胸がキュゥと締め付けられて、息ができなくなりそうになった。
「てっめ、ヒルダ! 邪魔すんじゃねーよ、いいとこだったのに!」
「何がだ。貴様の説明が疎いから、古市が勘違いをしているではないか。
この状態から、どうやっていいことに持って行くつもりだ、バカ者が。」
ちゃんと話せているか気になってきてみたら……と、ぶつぶつ言いながら、ヒルダさんは俺の後頭部から足をどけてくれた。
それで俺は、慌てて──花嫁の前で花婿に抱き留められているわけにはいかないと、身体を起こそうとするのだけれど、男鹿のバカ力が、ギュウギュウ俺を抱きしめてくるので、それが果たせない。
おい、男鹿! と、ドンと背中に手を回して叩けば、何を勘違いしたのか、男鹿はますます俺をギュウギュウ抱きしめてくる。
「古市……っ。あぁ、くそ、久しぶりの古市だ──……っ。」
そのうえ、まるで恋人だったときのように、甘い、切ない声で、そんなことを俺の耳元でささやいてくるから、俺は思わず、ゾクゾクと背筋が震え上がった。
な、なんだよ、このバカっ! 俺は、もう、お前の恋人なんかじゃないのに……っ、なんで、こんなっ。
「古市、古市──古市。」
もぞもぞと動いてると、男鹿が俺の髪や米神にキスを落としてくる。
これだって、全部全部、数か月ぶりの感触だ。
うわぁ、と頭の中が真っ赤になって、震え上がる。
「ちょ、男鹿っ、おが、待てって、ヒルダさん、見てる……っ!」
バカ、お前、ほんと何考えて……っ、と、グイグイ押そうとした俺の腰に、がしっ、と男鹿の脚が回る。
へ? と思っていると、あっという間に俺は男鹿に体ごと抱き着かれて──あろうことか、あいつの、股間の物が、ギュ、と腹に押し付けられるではないか!
「──……っ!!」
久しぶりに感じる、男鹿の股間の高ぶりに、カッ、と頭が真っ白になった。
「ウザいぞ、男鹿。勝手に一人で興奮するな。
話は一つも済んでおらんだろう?」
「うっせぇ、もう後でいいだろ。俺は古市とこの後イチャイチャすんだ。
お前は明日、結婚式が終わったら、ベル坊とどこへなりとも好きにうろついてろよ。」
「ふん、それで貴様は、古市と新婚初夜ということか? バカを言うな…っ。」
ヒルダさんの言葉に、男鹿が応える。
これはいつものことだ。
互いの言葉にいら立ちが混じっているのも、けっこういつものこと。
けれど、その会話の中心に俺がいるのは、今までにはなかった。
しかも内容が、俺とのイチャイチャとか、新婚初夜とか!
何言ってんの、この二人っ? え、だって、結婚するのは男鹿とヒルダさんであって、俺と男鹿じゃないよね? 新婚初夜だって、二人であって、俺は関係ない。明日の俺は、一人さみしくホテルで一人酒して酔いつぶれて、二人が今ごろウフフでキャッキャなイチャイチャしてるのを考えないようにして、朝を迎えてる、はず、……なのに。
「よいか、まず、新婚初夜を迎えるのは……っ。」
ヒルダさんは、豊かな胸を誇って男鹿にいい放つ。
そうだ、新婚初夜を迎えるのは、男鹿とヒルダさん──……、
「私と古市に決まっておろうがっ!!!」
「──…………はいぃぃぃっ!!!?」
「あぁっ!? 何バカ言ってやがるっ! てっめー、古市は俺の物だぞっ!」
「ふふん、バカを言うな。その古市との婚姻届を良く見てみろ。
古市と結婚しているのは、貴様だけではあるまい? 私の名前も書いてあるだろうがっ!」
誇らしげに、ヒルダさんは言い放つ。
その彼女に、いやいやいや、と俺は必死に手を振ってアピール。
婚姻届ではありません、これ、養子縁組ですから! 結婚する届じゃないですからねっ!!?
なのに、俺の心の突っ込みは二人には届かない。
「何っ! ──はっ! さてはヒルダてめぇ、最初っからそのつもりだったなっ!?
古市と結婚したくはないか? って聞いてきた時から……っ!」
「当然だろうが。なぜ、わざわざ私が、坊ちゃまの人間界の親だという以外、取り柄も何もないドブ男である貴様と、婚姻などすると思っておったのだ。
貴様など、ぼっちゃまと古市の付属品にすぎんわっ!」
「っざけんなっ! 古市は小さい頃から、俺のもんだっ! 俺だけの! もんなんだよっ!! なんでお前と分けっこしなくちゃいけねーんだ、ざけんなっ!」
「そうはいってもな? 私も古市の母親、となるわけだし?」
ふふふん、とヒルダさんは鼻で笑って男鹿を見下ろす。
いやいや、あの、俺別に、二人の養子になるとか、一言も言ってませんから。
なんで二人そろって、勝手に人の人生進めてるんですか?
つーか俺、働いてない無職の同学年の親とかいらないっすよ、マジで。
「まぁ、母と息子ならば、一緒にお風呂に入ったり、同じベッドで眠ったり、旅行に行ったりするのは、ごくごく普通にあるだろうしな? どうだ、古市?」
「はい! ぜひご一緒にお願いします、ヒルダお母様っ!!!」
とっさに俺は、即答していた。
ちょっと鼻のあたりが熱くなって、血が漏れてしまったかもしれないが、ノープロブレム!
豊かな胸を張って妖艶に微笑むヒルダさんのお誘いを蹴る男など、この世にはおりませんとも!
「あっ、てめ、古市! 何裏切ってやがる!
てめぇ、俺とヒルダと、どっちのが大事なんだよ! こういう時は親父だろっ!? 母親よりも親父だよな、な、古市っ!!?」
──と思ってたら、ヒルダさんの誘惑を鼻にもかけない男が、ここに居た。
ヒルダさんの笑顔に見とれるどころか、ますます俺の拘束をキツクして──あぁ、くそ、腹にあたる男鹿の高ぶりや、耳にあたる荒れた息に、なんか体の中がむずむずしてくる。
素直にそれを吐露するのも恥ずかしいんだけど、でも、なんていうか。
……男鹿が、ヒルダさんの、バカみたいな申し出を、あっさり受けちゃった理由とか、そういうのが、急速に理解できてくると。
「──……や、つーかな、男鹿。」
男鹿の背中を引っ張ったり叩いたりしていた手を、俺はつい、そ、と伸ばして背筋に添えてしまった。
抱き、返してしまった。
「俺は、親父とか母親よりも、────恋人でいい。」
とたん、ピタリ、と男鹿は口をつぐんで。
あ、と思った時には、俺の後頭部に手が辺り、ぐい、と髪を引っ張られて顎が上がり。
目の前に男鹿の顔が見えた、と思った次の瞬間には──……ずっと長いこと待ち焦がれていた男鹿の唇が、舞い降りてきた。
熱烈なキスを受け入れながら、男鹿の手が俺の肌に触れるのを許して。
「ちっ、しょうがない、今日は貴様に譲ってやろう、男鹿。
おい、古市。後でちゃんとソレにハンコ押しておけよ。」
早く寝なくては、明日に差し支えるからな。──と、ヒルダさんがほくそ笑むように(何をたくらんでいるのかわからないような響きを宿して)言い残して、立ち去って行った足音を聞きながら。
とりあえず俺は、朝起きたらこの二人に、「俺の苦悩の数か月返してください!!」と叫ぶ権利は、ある、──と思った。
Q:ってか、この二人、結局、明日マジで結婚すんのか?
A:マジでします。そして二人そろって、自らの伴侶として古市を迎える気満々です。
ということで、私が考える三角関係でした。
古→おがひる に見せかけた。
おがふる←ヒルダ ですw
この後はもちろん、(男鹿vsヒルダ)×古市です。
古市は貞操観念はあるんだけど、女に襲われるという意味の危機感はさっぱりなので(あ、男相手にもか)、しょっちゅうヒルダに襲われそうになってアワアワしてます。
ヒルダはヒルダで、あわよくば古市の子種を搾取しようと虎視眈々と狙ってるんですが、基本、男鹿が好きな古市が好きなので、古市がイヤがったらちゃんと逃がしてあげます。ので、本懐を遂げることは今のところない。男鹿が許してくれでもしないかぎり、きっと無理。
本当は3○とかも考えたんですけど、私が書く男鹿と古市は、貞操観念と独占欲が強すぎて無理でした……。
それを前提にした続き↓
! おがひるが結婚してます。 !
古市がすでに二人の養子になってます。強引に籍を入れられました。
ヒルダさんがちょっとヤンデレ。
あとちょっと、アニメ古市の設定もあります。
*ヒル古表現がちょっと含まれます。
でも男鹿古固定。
【春の頃 〜男鹿辰巳】
高校三年生になったある日、唐突に姉やら母やら父やらに呼び出されたリビングで、神妙な顔でこう言われた日の夜。
「辰巳、お前も今年で18だ。誕生日を迎えたら、ヒルダさんと結婚しなさい。」
もちろん、当然、思いっきり反対した。
反対して反対して、ストライク(ストライキのこと)を起こして、そのまま男鹿は脱兎のごとく古市家にまで逃げ込んだ。
当たり前のように飛び込んだ古市の家で、ヒルダと結婚させられるから匿え、と叫んだら、古市は古市で、ビックリした顔になった後、「あー、いつかそういう日が来ると思った」と、眉を寄せて言っていた。
そんな古市に、呑気なこと言ってんじゃねぇ、俺とお前の危機なんだぞっ! と叫ぶ男鹿の背中で、ベル坊が「ふるいち、けっこんするー?」と、分かってるんだか分かってないんだか、そんなプロポーズを口にしたので、男鹿はとりあえずベル坊を背中から引っぺがし、「それは俺に喧嘩売ってんのか、ベル坊君?」と、ベル坊がうれしがる険しい目つきでギリギリ睨みつけて、幼児にケンカ売るな、と古市に叩かれた。
──それはとにかく、その日は古市の家に泊まり……その、翌日。
んで、どーすんだよ、と古市に聞かれ、結婚なんてできるわけねーだろ。と男鹿があきれ気味に古市に返した、その後のことだ。
唐突にヒルダが古市の部屋の窓からやってきて、
「男鹿、家に戻れ。姉上がカンカンだ。」
「ヤだよ。俺はお前と結婚するくらいなら、古市と一緒にむりしんじゅーするかんな!」
「しねーよ! なんでお前、勝手に俺と無理心中する予定まで立ててんのっ? 俺同意しないよ!?」
「うるさい。何も言わずに逃げ出しておいて、それで丸く収まるはずもなかろう?
とにかく、私と結婚できないならできないと、きっぱり言え。まずはそれからだろう。」
ヒルダは、ヒルダにしてはごく当然のことを告げ、男鹿の腕を引っ張った。
その顔は、ありありとイヤそうな顔をしていて、さっさと断ってしまえ、と言っているようだった。
確かにそれは一理ある。
一理あるが、あの家族相手に、上手く言いくるめられる自信が、男鹿にはなかった。
なんだかんだと押し切られて──いや、下手をすると、家に帰ると、もうヒルダと結婚式をあげる準備をされているのではないかと、そう思うくらいだ。
なんだかんだ言って、ヒルダは男鹿の家族に従順だ。──今回の結婚のことだって、坊ちゃまのためなら、と言いそうな気がする。
何せヒルダは、自分のことは二の次三の次で、どうかと思うほどにベル坊を中心に回っているから。
こうして迎えに来ているヒルダとて、実は今この瞬間に、男鹿家に言いくるめられているとも限らないのだ。
そんな想いで、ヒルダの腕を引き抜こうとした、──帰らねぇ、と言い張ろうとした、その瞬間だった。
古市に気付かれぬように、ス、と顔を寄せたヒルダが、こっそりと、
「……男鹿、貴様、古市と結婚したくはないか──……?」
そう──悪魔の囁きを、男鹿に向けて放ったのは。
ヒルダの目は、蠱惑的に微笑んでいて、彼女はウソを言っているようには見えなかった。
愕然と目を見張る男鹿を引っ張り、ヒルダは勝手に古市に邪魔をしたと挨拶をしてくれた。
それに、帰るつもりはない、というのは簡単だったけど、ヒルダの囁いた言葉が耳に残っていた。
古市と、結婚。
そんなの、できるものならしたいに決まっている。
男鹿にとって古市は、小さい頃からずっと一緒の、大事な大事な恋人だ。友人が恋人になって、それから夫婦になる。一生の伴侶になる。
そうなるのなら、それこそ、悪魔にも魂を売ってやる、と男鹿は半ば本気で、その「悪魔」の背中を見つめた。
その視線を受けて、男鹿家に帰る道すがら、ヒルダは「この国では」と、口を割った。
「この国では、同性同士は、婚姻届ではなく、別の方法で結婚をするものだと聞いた。」
正しくは、ドラマの受け売りだが。
「別の、方法?」
んなのあったか? と男鹿は首を傾げる。
小さい頃から、古市と結婚したいと──一生一緒に居たいと考えていた男鹿は、当然、小学校の頃に古市にプロポーズしている。俺と結婚して一緒に暮らそう、と。
しかし、古市からは即座に「バーカ、男同士は結婚できないんだぞ」と断られていた。それは、想いを通じ合わせ、特別な関係になった今でも同じだ。
男同士は結婚できない。だから事実婚がせいぜいだ。どこまで行っても同居か同棲だけだ、と。
古市はそれをわかっていて、それでも男鹿の手を取ってくれた。
そのことは、男鹿も分かっている。何度も何度も、男同士は結婚できない、と。──男同士っていうのは、世間からもつまはじきにされるんだと、中学時代に言い聞かされていたからだ。
そう男鹿に言い聞かせながらも、男鹿の手を取ったのは古市だ。男鹿を離さなかったのも、男鹿を抱き寄せたのも古市だ。
──その瞬間に古市が、男鹿のためにいろんな物を捨てる覚悟をしていたのを、男鹿は知っている。
古市の小学校からの夢だった、お嫁さんをもらうこと、結婚していい家庭を築くこと。小さいながらも我が家をつくって、犬を飼うこと。車は大きくて、子どもがたくさん乗れる奴。
そんな夢を、古市が捨てたことも。
誰かに伴侶を紹介することも、全部全部、古市が捨てたことも。
男鹿は、ちゃんと理解している。
男鹿がまるで気にしない、平気で捨てれるものを、古市は捨てられない。──そのはずなのに、古市は平気な顔をして、男鹿の手を取ってそれらを捨てた。
その意味を、男鹿は、一生かけて愛すると誓ったことで、理解していた。
でも。
同性同士でも、結婚できるというなら。
それが許されるというのなら、古市は、何も捨てなくてもいいのではないか、と思った。
小難しい話は男鹿には良くわからなかったけれど、男鹿は古市に、なるべくならいろんな物を捨てて欲しくないと思っていた。それだけは確かだったから、ヒルダの腕をつかんで、彼女を引き寄せて問いただした。
「できんのか? 俺と古市が、結婚──……っ。」
「ああ、できる。
その方法を使えば、貴様は古市と同じ戸籍に入り、古市は男鹿貴之になる。そうして、当然同じ家に住むし、保険や──む、なんだったか? とにかく、遺産分配だのそう言った物にも、古市には優先権が与えられる。
家族となることができるのだ。」
ヒルダは、妖艶な笑みを浮かべて、宣言した。
遺産分配だとか、保険だとかはよくわからなかったが、古市が「男鹿貴之」と名乗ることができ、堂々と自分と同じ家に住める、というのにはひどく魅力を感じた。
家族であることと、事実婚であることは、いろいろ違って難しいのだというのは、姉や母がドラマを見ながら、うんぬんかんぬんと言っていたから、なんとなーくだが理解している。
事実婚だと、ICUにも入らせてもらえないだとかどうとか。(たぶん不倫物でも見ていて、妻と別居していた夫が、内縁の妻扱いしていた愛人がICUには入れず、離婚同然だった妻が入れたという話だった)片方の大事の時に、事実婚だとソレに立ち会うことができないから、日本の法律はどうのうこうの、──後はまるで覚えていないが。
なんとなく、それを見たときに、古市や自分のどちらかが事故して倒れても、すぐに相手のところに連絡がいかないのは、イヤだと思ったのは覚えている。
けれど、家族と、なることができるなら。
「もちろん、同じ墓にも入れる。──貴様ら人間は、死体の後のことも、妙にうるさく悩むな。」
おかしなものだ、と、ふふ、とヒルダは笑って、どうだ? と首を傾げる。
その含みを持った笑みに、ここに古市がいたなら、「ヒルダさん、何か企んでます?」くらい聞いたかもしれないが、ここに居たのは男鹿だけだった。
──男鹿だけになるよう、ヒルダがそう仕向けたのだ。
「──……古市と、結婚するなら、どうしたらいいんだ?」
…………ほら、ひっかかった。
ヒルダが、ほくそ笑む中でそうつぶやいたことなど、男鹿は到底考えもせず。
彼女がひそやかに教えてくれたことを、心に深く留めるのであった。
【春の頃 〜ヒルデガルダ】
──ヒルダは、出会った時からずっと、「古市貴之」のことを、ウザくてキモくてしょうがない人間だと思っていた。
銀色の輝くサラサラの髪は人にしておくにはもったいないほど美しく、特に月明かりの下では幻想的に見える。
白い肌は暗闇に映え、男にしておくのがもったいないくらいに滑らかな肌は、つるりとすべすべしていて、触れるのが怖いくらいに繊細。
大きく開かれたぱっちりとした目は、クルクル表情が変わり、色素の薄い瞳は冷たく見えるはずなのに、黙っていることがないためか、そんな印象を与えない。
平たく言えば、黙っていれば美人顔。
でも、一度口を開くと、残念極まりない。
それはたぶん、悪魔でも人間でも、統一された印象だ。
──けれど、ヒルダたち悪魔は、人には決して言っていない「古市貴之」が、ウザくてキモいと感じる、一つの要因があった。
その要因のために、古市はたいていの悪魔から興味を持たれ、たいていの悪魔に存在を拒否されないのだ。
であると同時、たいていの「女悪魔」からは、ウザくてキモイ、と表現されるハメになる。
人間の言うところの「ウザい」は、古市が良くしゃべり、コロコロ表情が変わり、ツッコミが激しいところに値する。
しかし、悪魔の言うところの「ウザい」は、その外面ではない。
ヒルダが最初に、古市の存在を知った時から、そうだった。
彼は、人には感じえない──悪魔にしかわからない、「芳香」を持っているのだ。
甘い、甘い、あまい──鼻につく、ひどく甘ったるい匂い。
対悪魔用のフェロモンとでもいえばいいのだろうか? 遠い昔、悪魔の生贄として育成されてきた「いけにえ用の人族」の血でも引いているのかもしれない。
それとも、そういう「いけにえ族」を創る大本となった「伝説」──太古の昔から続く、食えば一千年の寿命が延びると言われた数千年に一人現れるかどうかの「黄金律身体」と呼ばれる存在なのかもしれない。
詳細は全く不明だが、とにかく古市貴之からは、悪魔を誘惑するような匂いがした。
食虫植物の持つ甘ったるい匂いに例えられるほど、魅惑的でありながら、かつ、あからさまな誘う匂い。
下等悪魔ならばたまらず襲い掛かる類のそれは(おそらく古市は、首切り島に行っていれば、ひとたまりもなかっただろう)、上級悪魔に位置する者たちにとっては、「ウザい」の一言で尽きる物だった。
なんと言っても、とにかく甘い。甘くて甘くて吐き気がするほど甘いうえに、鼻につく。
悪魔を誘うためだけに存在するとすら言える甘い匂いは、それが故にか、悪魔であるために、どうしても嗅覚で拾い上げてしまうのだ。
古市の持つ匂いは、例えるなら「性欲をそそるというショッキングピンクの部屋に、赤いシーツを敷いたベッドがあり、そのうえで素っ裸で股開いて、媚薬飲んで待ってます」というくらい、あからさまな誘う香りだ。
古市本人にその気がないとわかっていても、下品すぎる誘う香りに、時々頭痛すら覚えてくる。
しかし、そのにおいに左右されるなど、侍女悪魔の誇りが許さない。
さすがにベル坊は、古市から甘い匂いがすることは認識していても、それがどういう類の誘う香りなのか理解してないため、フラリとくることはないようだが──……。
さすがのヒルダでも、時々、くらり、と来てしまうくらいには、古市の匂いは強烈だった。
本当に、いつ、いかなるときでも、どのようなときでも香ってくるから、「ウザい」のだ。
いっそ誘いに乗ってしまえば、ウザいどころか魅惑的に感じるのかもしれないが──人間で形容するなら、仕事中でご飯を食べてはいけないのに、ものすごく腹が減ってきている横で、美味しい匂いを撒き散らしたカレーがある。しかしスプーンもフォークもないから素手で食えという下品な状態になる。さてどうしよう、と言ったところか。
食ってしまえば問題はないのかもしれないが、それまでの葛藤がすごいのだ。
古市というのは、ソレに似ていた。
しかもヒルダは、他の悪魔たちと違って、「古市が実際に美味い」ということを、悔しいかな、現実として把握してしまっていた。
古市を体の内に入れたアランドロンが──次元転送悪魔として、大勢の悪魔やら人やらを体内から出し入れしていた男が、たった一度、古市をその身に通しただけで、彼に身も心も奪われてしまったのだ。
それを知った時の衝撃たるや、言葉には言い尽くせない。
アランドロンを──古市を味見することができた彼を、羨ましい、と一瞬でも思ってしまった自分が、許せないと思ったくらいに、屈辱的だった。
奴は、常に、いついかなる時でも、「ドブ男」の匂いを体中にまとわりつかせて、残念極まりない、「キモい」男だというのに!
ヒルダは、長い間葛藤していた。
古市は、正直に言って、ウザいけれど魅惑的な存在だ。
近くに居ればいるほど、彼はそのにおいだけではなく、存在そのものも男鹿が手放さない理由がわかるほどに、魅力的な人間だった。
しかし、古市は、それはもう初対面時から「キモイ」と思えるくらい、男鹿の匂いをまとわりつかせていた。
悪魔にしか感じない嗅覚で、彼は常に男鹿をその身にまとっていたのだ。──時には、……あえて言うなら3日に1度くらい、時々毎日、臀部から一層そのにおいを濃くさせて。
それがどういうことなのか、ヒルダは知っている。
だからこそ、よけいに、貴様はウザくてキモイ、と、吐き捨てずにはいられないのだ。
私の物にならないと言うのなら、なぜ貴様は、それほどまでに甘く誘う匂いを放つ?
それほどまでに誘っておきながら、この身は他の男の物なのだと、示す?
それが古市の意思ではないのだとわかっていながらも、ジレンマはますます大きくなっていった。
そんな、ある日のことだったのだ。
「辰巳、お前も今年で18だ。誕生日を迎えたら、ヒルダさんと結婚しなさい。」
──これはまさに、チャンス、だと……思う展開が、手のひらに転がり落ちてきたのは。
男鹿と古市は結婚できない。
けれど、男鹿とヒルダは結婚できる。
そうして、「同性同士」で結婚するには、たった一つしか方法はない。
ならば。
「……ふむ、家族、として付け入る隙ならば、いくらでもあるということか…………。」
くす、と、ヒルダは微笑む。
明確に、古市を手に入れる方法を、脳裏に思い浮かべながら──……。
【そして いま】
「うみゃぁぁぁぁぁーーーーー!!!!!」
自宅のドアを開こうとしたとたん、中からけたたましい悲鳴が聞こえてきて、思わず握っていたノブに力を込めすぎて、バギッ、という鈍い音を立ててしまた。
そんなことすら気づかず、壊れて使い物にならなくなったドアを強引に開いて、男鹿が玄関口に飛び込むのと、
「古市っ、どうしたっ!!?」
「あぁぁぁぁぁーっ!!」
悲鳴の語尾を叫んだまま、ころりん、と風呂場から素っ裸の古市が廊下に転がってきたのが、ほぼ同時だった。
古市は、わたわたと廊下を四つん這いになって這い、飛び込んできた男鹿にすぐに気づくと、泣きそうな顔をクシャリとゆがめて、男鹿の方に駆け寄ってくる。
一応、腰にタオルを巻いているとは言えど、今の今まで風呂に入っていた、というような出で立ち──銀色の髪はしっとりと濡れ、ぽたぽた落ちる水滴が白い頬やうなじを伝っていく。
滑らかできめ細かな白皙の肌は、お湯でほんのりと色づき、涙でぬれた目を縋り付くように向けてくるそのさまは、
「誘ってんのか、古市っ!?」
動揺のあまりそう叫んでしまうくらい、衝撃的だった。
っていうか、コレあれだろ?
「おかえりなさい、あ・な・た?」って良くある新婚夫婦のノリだろっ?
裸エプロンじゃなくって、腰タオル一枚で水も滴る色香になってるのが古市クオリティってだけで。
コレはアレだな。今すぐ玄関先でイチャイチャしろってことだよな?
だって、新婚なんだから、玄関プレイなんて当たり前だろっ!?
「おがぁぁぁーっ!!」
古市は風呂場から転がり出てきた勢いのまま、ガッ、と男鹿に抱き着く。
ハイハイした体勢から抱き着いたので、男鹿の腰に顔がうずまる形になって、ますます男鹿のテンションはハイになった。
思わず、ズボンのベルトを一刻も早く抜かねばなるまい、と──男鹿が勢いのまま獣になろうとした、まさにその時であった。
「ヒルダさんがっ、ヒルダさんがぁぁぁっ!!」
「──……あぁ? ヒルダぁぁっ?」
世間一般的には、男鹿の「妻」という座に堂々と収まった女性の名前を、古市が口にしたのは。
なんでここにヒルダの名前が、と顔をイヤそうにしかめる男鹿に、古市は扇情的な姿で、誘うような仕草で顎をあげて見上げてくる。
「ゆ、夕方、雨に降られて、濡れちゃったから、シャワー浴びてたら、ヒルダさんがっ。」
顔を真っ赤に染めて、鼻の頭も赤く染めて、フルフルと震える古市は可愛い。今すぐ押し倒してその白い肌を蹂躙したいくらい可愛い。
特に素っ裸の胸元やうなじに付いた、昨日の情事の痕が可愛さと妖艶さを見事にマッチさせていて、男鹿的にはパーフェクトだ。
腰の辺りで──はっきり言えば股間の目の前で顔をあげて訴えてくる古市の顔に、もうヒルダとかどうでもいいから、一発やらせろ、と、男鹿が古市の濡れた体を引っ掴んでそのまま風呂場でもリビングでも連れ込もうとした時だった。
「古市、まだ入れてもいないぞ──……ん、む、なんだ男鹿、貴様、もう帰ってきたのか。」
あろうことか、その古市が言うところの「ヒルダ」さんが、豊満なムチムチの身体にタオルを巻いただけの姿で、風呂場から出てくるではないか!
古市が、今さっき、素っ裸で転がり出てきた風呂場から!
しかも髪や肩の辺りは濡れていないが、腕や足が濡れている。
一応男鹿の「妻」であるヒルダと、男鹿の「息子」ということになっている古市の、すわ、浮気現場かっ!? ────……と、ふつうなら疑うところなのだが。
男鹿は、そんなしどけない恰好のヒルダの、悪びれない──どころか、不満そうな顔よりも何よりも、彼女の右手に握られている物の方が気になっていた。
「いっ、いい、入れてって! なんつーこというんですか、ヒルダさんっ!!」
顔を真っ赤に染めて、古市はイヤイヤをするように頭を振って男鹿の脚にしがみつく。
そんな古市の、タオルのまかれた腰を無言で見下ろし、ヒルダが握る物を見やり、
「や、つーか、ほぐしてもねーのに、いくら古市でもそれははいらねーだろ。」
「ナニ言ってんの、お前えぇぇぇーっ!!!!」
突っ込むところソコじゃないよねっ!?
と古市がすかさず男鹿のボケに突っ込めば、ヒルダが平然とした顔で、「突っ込むのはソコだろうが?」と、男鹿が見ている古市の腰を、静かな目で見つめる。
そんな彼女に、ひぃぃっ、と悲鳴をあげて古市は、足を縮めてお尻をキュと締めると、ヒルダの視線から隠れるように男鹿の後ろに回った。
「バカにするな、ちゃんとわかっておるわ。
だから、最初にまずローションでほぐそうと思ったのに、古市が逃げたのだ。」
まったく、本当に覚悟が据わっていない「妻」だと、ヒルダは「古市」を見てため息をひとつ。
しょうがない奴め、と言いながらも、彼女の口元には笑みが浮かんでいる──それも恍惚とした類のそれだ。
イヤがり、おびえる古市を、だんだんと快楽と悦楽に染め上げていくのが、楽しみでしょうがないらしい。
男鹿と結婚してからこっち、ヒルダは毎日のように、こうして隙あらば古市をグチャグチャに泣かせてイイ顔にさせたいと狙っているのだ。
古市にとっては、迷惑極まりないことなのだが。
「……つーかお前、だからヒルダには気をつけろっつってたんだろ。
なんで風呂入ってる時に、鍵かけねーんだよ。」
いったい、これで何回目だと思ってんの? と、男鹿があきれた口調で古市を見下ろせば、だって、と古市から反論が返る。
「ヒルダさんが、息子の背中を流すくらい、させてくれって言うんだもん!
思わず、そのおっぱいで流してくれるのかも! って期待して鍵開けちゃうだろ、男の子なんだからっ!!!」
──それも至極残念すぎる反論だ。
「開けんなよ。お前、あいつはガッツリ肉食系だぞ?」
あいつ、と男鹿はヒルダを指さす。
なんだかんだ言って、ヒルダは古市に甘いから、古市が本気泣きをしたときは、「こうして」今のように逃げる隙をつくってくれている。
そのことがわかっているから、男鹿もあえて厳しくは言わないのだが──ほんと学習能力がないというか、ヒルダの甘言に騙されやすいというか。
いい加減、結婚して二か月になるのだから、古市も覚えてほしいものだ。
ヒルダは、本気で古市を狙っているのだということを。
こいつはどうも、結婚前の感覚でヒルダを見すぎている。──結婚する前のヒルダは、古市を本気で確保しようとはしていなかった。まだ、古市を見ているだけで満足していたのだ。
ところが、結婚話が出た時……この方法ならば、男鹿から古市を奪うことは出来ずとも、古市を自分の物にもできるのではないか、と思ってからは──……彼女はもう、自分を抑え込むことをやめてしまった。
とにかく隙あらば、古市を虐めて泣かせて喘がせて、気持ちよさでグッチャグチャになった古市と混じり合いたい、と堂々と公言するくらいに肉食系女子になってしまっているのだ。
「それでも、あのおっぱいには魅力を感じるのが男ってもんだろぉぉ!!」
男鹿の脚につかまって絶叫する古市に、つーかお前な、と男鹿はヒルダのタオル一枚隔てた中に隠されている、魅惑の双丘に、ハッ、と鼻息をふくと、
「どうせ後ろいじられねーと、イケねー体になってんだから、おっぱいもくそもねーだろーが。むしろお前は、自分のおっぱい弄られて気持ちい──……っ、。」
「死ねっ! このバカオーガ!!」
最後まで言わせてくれなかった。
古市はすかさず男鹿の足の甲に拳を叩きつけ、男鹿を悶絶させた。
耳まで真っ赤になった古市を、ヒルダはうっとりと見下ろす。
「羞恥にまみれたその顔──いいぞ、古市。
やはり貴様は、男鹿と一緒に居る時の方が、一層輝きが増すな。」
「──……つっ、いってぇな、古市!
ってか、ヒルダ! お前、何回も言ってるけど、俺がいない間に古市にちょっかいかけるなっつってんだろ! 古市は俺のなんだよ!」
「うるさい。」
ピシャリ、とヒルダは「古市萌え」を邪魔されて、不機嫌そうに「夫」を睨みつける。
「古市が貴様の物なのは重々承知しておる。だから今回とて、職探しで大変な貴様のために、苦労を報いてやろうと(ついでに私の欲も満たそうと)準備をしてやっていたのではないか。」
なのに、古市が素直に身を任せてはくれなかったのだ、と、ヒルダは片手に持っていた「ブツ」で古市を指さす。
彼女の繊細な指につかまれたソレは、ブゥイーン、と鈍い音を立てながら、先端をクルリクルリと回転させながら震えている。
それ、をなんというのか、男鹿は見たことはなかったが、知っていた。
「あぁっ!? なんでソレが、俺のためになんだよっ!?」
「予備校から帰ってきた古市が、貴様のごちそうになるために身を清めていたからな。──ならば私は、貴様の妻として、そして古市の母として、そのごちそうをすぐに食えるように下ごしらえをしてやるべきだと思ったのだ。」
もっともらしく、ヒルダが告げる。
その内容に、ハッ、と男鹿は目を見開いて古市を見た。
「お前、俺に抱かれるために体洗ってたのか……っ!?」
「違うわーっ! 雨に降られたからって、さっき、言ったよな、俺っ!?
ってか、ヒルダさんも、びしょびしょになった俺見て、風呂に入ってこい、ってタオル渡してくれましたよねっ!?」
古市は驚いたように自分を見下ろす男鹿の脚に、──弁慶の泣き所めがけて、ビシッ、と突っ込みを入れたが、男鹿は全く動じず、古市の羞恥に染まった肌を舐めるように見下ろす。
その、視姦するような視線に、古市はブルリと身震いして、男鹿の足の間に隠れるようにして体を隠そうとする。
そうすることによって、黒い制服のズボンの端から、チラチラ見える形になった白い素肌が、どれほど魅力的に映るのか、ちっとも考えずに。
「うむ、確かにそう言ったな。あまりに貴様がビショビショに濡れていて、いやらしかったのでな。
これはすぐさま風呂に入れて2人っきりで蹂躙せねばならんと思ったのだ。」
「うみゃぁぁぁぁっ!!!」
「な? だからこの女は肉食獣だっつったろ。」
悲鳴をあげて──まさか、ヒルダの脳みその中でそんな破廉恥な考えが破裂していたとは思いもよらなかった古市は、雄たけびかと思うよな悲鳴をあげた。
男鹿はそれをさも当然のようにうなずいて、古市に忠告する。
だって、もしも俺が濡れた古市を出迎えた立場だったのなら、同じことを言ってするに違いないのだ。
──だが、だ。
「ヒルダ。けどお前、なんでんな道具まで持って入ってんだよっ!? それはいくらなんでもやりすぎだろっ! 俺だってまだ大人の玩具なんて使ったことないのに!!」
「最後のそれは余分だろー!!!」
「なに、貴様をいたわってやろうと思っていたのも、ウソではないぞ?
一応、貴様は私の夫だからな。帰ってきてすぐに美味しく準備された古市としけこませてやろうと思った、こやつの穴をほぐしておいてやろうと思ったのだ。」
「…………っ!!!!」
ドヤ顔で告げるヒルダの言葉に、古市は絶句した。
絶句せずにはいられなかった。
そして、目の前でヒルダが持っている──まがまがしいブツを見つめて、フルフルと頭を震わせて震えた。
脳裏に思い浮かぶのは、シャワーに入ってこい、と言ったヒルダが、古市が風呂場に入って少ししてから、脱衣所にやってきた時のことだった。
てっきりバスタオルと着替えでも持ってきてくれたのかと思ったら、ヒルダは突如、ドアの向こうから開けようとしてきた。
浴室には鍵をかけていたので(浴室に鍵をかけていないと、男鹿家は誰彼かまわず乱入してくるのだ。美咲にしかり、男鹿母にしかり、「あら、古市君(たかちん)入ってたの?」とか言って。あの二人は小さい頃から古市の身体を見慣れてるせいか、あっけらかんとして古市の裸を見下ろした挙句、「大きくなったわねー」と、思わず古市の方が恥ずかしくなるようなことを、しみじみつぶやいて去っていくのだ)、ヒルダは「背中を流してやるから、鍵を開けろ」と言ってきた。
もちろん古市は抵抗した。
脳内に、魅惑的なヒルダさんのボディが目まぐるしく駆け巡ったが、「養子」になってからというもの、ヒルダの行動に悩まされた回数は伊達ではない。
ここで鍵を開けたら、ぱっくり食われてしまうかもしれない、という危機感もあった。
だから、断固として拒否した、のだが。
「母親として、息子の背中を流してやろうと思っただけだぞ? 安心しろ、ちゃんとタオルは身に着けている。」と言いながら、奥の手と言いたげに魔力解放とかしてる気配がしたので、慌てて古市は鍵を開けたのだ。
何にしても、ヒルダが本気を出したら、浴室のドアなど吹っ飛ぶのはわかりきっていたからだ。
かくして、開いた脱衣所には、ヒルダが言った通り、素肌にバスタオル一枚巻きつけた姿で立っていた。
バスタオル、とは言っても、彼女の胸は豊満で、まさにはちきれんばかり。おかげで丈もかなり短く、古市は見ただけで鼻血を噴きそうになったのだ。グラビアアイドル顔負けともいえるスタイルのヒルダが、そんな恰好でいたら、たいていの男は鼻血を噴くだろう。──あ、男鹿除く。
そう思った古市は、その魅惑のボディのヒルダに、あっさりと負けて、彼女を浴室に招き入れてしまった。
そうして、ヒルダに言われるがままに風呂椅子に腰かけ、彼女に背を向け──その手で、背中を洗われた、──までは、よかったのだが。
「や、ややや、やっぱりヒルダさん、最初っから、俺の身体目当てだったんじゃないっすかーっ!!!」
背中流すだけ、って言ったくせに、ウソつきーっ!!!
と叫んでやれば、ヒルダは何をいまさら、と言ったように、はん、と鼻でせせら笑う。
「処女じゃあるまいし、背中流すだけ、なんて言葉に騙されるとは、愚かな男だな。」
だが、早々にこれを出してしまった私も、まだまだと言ったところか……と、ヒルダは悔いるように右手に持っているブツを見下ろす。
気が逸るあまり、古市の臀部を撫でている段階で、この「ブツ」のスイッチを入れてしまったのだ。
当初の予定では、古市をなだめすかせ、「貴様はここを綺麗にしてかねばなるまい?」と言葉巧みにアソコだのソコだの中だのを洗いつくし、指という指で古市の中をたっぷりと味わい、その温もりや締め付け具合を堪能した後、登場させるつもりであったのに。
魔界特製の媚薬配合したローションだってたっぷり塗りまくって、風呂場で程よくエコーの効いた古市の喘ぎ声を聞きながら、あわよくば彼の肉体で唯一の未開の地であるところの「ドーテー」を、いただいてしまおうと、企んでいたというのに……。
ふぅ、と、とんでもないことをつぶやく「養母」に、古市は今度こそ、悲鳴をあげて男鹿に抱き着く。
「ちょ、ちょちょ! ヒルダさんっ! 何度も言ってますけど、俺、こう見えても男鹿にちゃんと貞操誓ってますから! 男鹿以外と、エッチとか、しないっすからねっ!?」
「うむ、安心しろ。
ちゃんとできた子供は、男鹿の子供だということにしておいてやるから。」
「安心できませんよねぇぇぇーっ!!!!?」
思い切りよく叫んだ古市に、まったくだ、と言いたげにげんなりした顔になった、男鹿は、唐突にヒルダに向かって、ん、と手を差し延ばす。
「なんだ、男鹿? 坊ちゃまなら、お前の部屋でお昼寝中だぞ。」
2歳になったベル坊は、最近では家族がいる状態ならば、男鹿から離れていても平気になっている。
ので、今、男鹿はベル坊を連れていない時も、だんだんとではあったが、増えているのだ。
男鹿が夏休みに入った位から、光太に付き合ってもらって、保育園の短期預かりなどに参加させて、徐々に男鹿離れを実行させていっているのだ。
今のところ、最長記録は10時間。それ以上を越えると、ベル坊の男鹿恋しさが爆発して、泣くのを我慢できなくなるのだ。
男鹿はチラリと時計を見て、朝出て行ってから、ベル坊と離れてまだ7時間だと計算すると、
「ベル坊は、もうしばらくお前が見てろ。あと2時間くらいなら平気だろ。」
そう言って、もう一度、ん、と手を揺らす。
ヒルダはそんな彼のしぐさに、怪訝そうな顔をしてみせたが、視線をチラリと男鹿の腰にへばりついていた古市に移して、ん、と気付いた。
いち早く男鹿の意図に気付いた古市が、目を見開いて顔を青ざめさせて、ヒルダの手にする──「凶悪な剣」を凝視したからだ。
魔犬ケルベロスの凶悪なブツを模したと言われている、魔界でも人気ナンバーワンの「大人の玩具」を一瞥した古市は、慌てて男鹿から飛びのいて、そのまま階段めがけてかけて行こうとする、──が、しかし。
「古市、待てっつーの、逃がすか。」
男鹿の動きの方が、ずっと早い。
素早く古市の脚をひっかけた男鹿は、バランスを崩して前から倒れ掛かる古市の身体を抱き留め、そのままヒョイと抱え上げた。
アッという間の出来事を見つめていたヒルダは──自分が抱え上げればよかった、という残念な思考を抱きながら、仕方なく……本当に仕方なくため息をこぼして、男鹿の差し伸べてくる手のひらの上に、ぽむ、と、「ブツ」を置いてやった。
「2時間以上は許さんからな。
ああ、あと、古市の声と姿を、ちゃんと撮っておけよ。」
「ベル坊に泣かれたら困るから、時間はちゃんと守るっつーの。
けど、古市はダメだ。こいつはおれんだからな。チラ見でもさせるか。覗くなよ。」
器用に足と手首で風呂場のドアを開き、男鹿はすれ違いざまヒルダをジロリと睨みつけてくる。
これだから、心のせまい夫は困る、と、憮然とヒルダは腕を組んでその後ろ姿と──男鹿に抱えられて、ジタバタと暴れる可愛い小動物のような「息子」を見送った。
「ちょっ、やめっ、男鹿っ! た、助けて下さいよっ、ヒルダさ……っ!!」
バタン!!
「うっせ、古市、襲われそーになった相手に助け求めんなっ!
てめーは、お仕置きだ。」
泣きそうな顔で、必死に伸ばしてきた手を、あっけなく男鹿につかまれて、そのままドアの向こうに消えて行った息子に、ヒルダは、本当に貴様は……、と、苦笑をにじませる。
危機感がないというのか、なんというのか。
せっかくシャワーを浴びて、男鹿の匂いがなくなったというのに──これでまた、あいつは全身から……ことさら臀部から男鹿の匂いをさせて出てくるのだろう。
より一層、甘い匂いをまとって。
「──……全く、男鹿と一緒に居る時が、一番貴様が甘くなる時だというのだから、本当にウザくてキモイ男だ。」
ふん、とヒルダは鼻を鳴らしてから──風呂場から出てきた古市の、色香と甘さ、そして男鹿の独占欲をまとって出てきた姿を想像して、ぞくぞくと背筋を震わせて、うっとりと頬に手を当てた。
──あぁ、ほんとうに。
悪魔を魅了し続ける、たったひとりの、あなた。
ということで、私が考える古市にデレを見せたヒルダ、でした。
うむ、デレというよりも襲ってるけどね!(笑)
ちなみに古市は、古市家と男鹿家とを交互に行き来してる状態です。
男鹿はその古市にくっついて移動。
ベル坊は本文内にも説明ありますが、2歳児になってるので、そろそろ男鹿離れをし始めてるところ。
普段は家に居て、男鹿が帰ってくるのを待ってます。なのでヒルダは現在、ほとんど学校に行っておらず、自宅待機です。
男鹿の長期休みの時とかに、保育園に入る練習してます。(突然保育園に預けると、さみしがって大泣きしたら致死量の電流が流れる恐れがあるため、じょじょに慣らしてるところ、って設定)