平和になった世界の、ようやく平穏な日々が戻ってきたトロデーン城。
その中の一室から、華麗なピアノの音が鳴り響く。
つい数ヶ月前までは、もの悲しい曲が多かったピアノの音は、とある日を境に一転し、かろやかで明るい曲が多くなった。
世界が平和になったという話を聞いてから数日の間、明るくはじけるような微笑みを見せていたこのトロデーンのお姫様に、また再び昔のような──いや、昔よりももっと綺麗で美しく、優しい笑顔が戻ったからだった。
そんな彼女は、今日もピアノを奏でながら、唇で曲を口ずさむ。
それは、長い旅の間で、彼女が各地で聞いたらしい戯曲や、時々一緒になった旅芸人が夜の焚き火を囲みながら歌ってくれた歌ばかりで──旅を共にした者たちは、こんな形で当時のことを思い出すとはと、それぞれに目を閉じて、思い思いにあの時へと心を馳せる。
彼女のリズミカルなピアノと、柔らかな声は、当時聞いたものよりも美しく甘く心にとどまる。
やがて彼女の指先が、ゆったりと最後の音を奏で──甘い色を乗せた優しい声もまた、最後の音を余韻たっぷりに残して、スゥ……と空気の中に消えていった。
一瞬の沈黙。
ふぅ、と上気させた白い頬をほの赤く染めて、彼女は長い睫を伏せるようにして目を閉じた。
途端、パチパチパチ、と、ピアノの回りに立っていた面々から拍手が起きる。
ゆっくりと瞳を開ければ、満面の笑顔で迎えてくれる「仲間」たち。
「ミーティア姫、すごいわ! 全部覚えてるなんて!」
「はぁ〜、教えてもないのに、良く弾けるでがすなぁ。」
感心するヤンガスの言葉に、ミーティアは小さく微笑みかけると、今度は逆方向から、
「まさか、一度聞いたら、なんでも弾ける……なんて言わないですよね?」
こちらもヤンガスと同じく、感心した口調でククールがミーティアの顔を覗きこむ。
ゼシカは「お嬢様」の基本として、ピアノを少しかじっていたと言っていたし、ククールは寺院で小さい頃に「必須項目」としてパイプオルガンを教え込まされたと言っていたから、ヤンガス以上にどれほど「それ」が大変なのか、分かっているのだろう。
そんな彼に、まさか、とミーティアはかぶりを振る。
「さすがにそれはありません。
ただ──時々、ゼシカさんやククールさんやイニスが、気に入った曲を……口ずさんで歌っていたでしょう? ……それで。」
言いながら彼女は、再び曲を軽やかにかなで始める。
言われて見れば、先ほどから彼女が奏でる曲は、自分たちが旅の中で聞いた歌を、気が向いたときに歌っていたりしたものばかりだった。
そうだ──ミーティアは、いつも父親であるトロデ王と一緒に、町の中に入ることはなかった。
だから、イニス達が聞いた歌でも、ミーティアは知らない歌がある。
なのに、こうして奏でることが出来るということは……、
「……ぅわ──わたし、音痴じゃなくって、良かった……。」
思わず豊満な胸に手を当てて、シミジミ呟いたゼシカに、ぽろん、と鍵盤を叩いたミーティアが、クスリ、と笑みを零す。
「でも、私も耳で聞いたのを音符に直しただけですから、間違っているところも多いとは思いますよ?」
だから、本当を言うと、少し──あの時の曲とは、違うかもしれない。
そう、ほんのりと頬を赤らめて俯くミーティアに、いやいや、とククールは首を振る。
「俺が聞いた限り、ほとんど原曲と同じだよ。
大したもんだ。」
「そうですか? ──それは良かった。」
ふんわりと笑うミーティアに、回りに居た面々も笑って──それからゼシカは、ピアノに向けて身を乗り出すようにしながら、
「ねぇ、ミーティア姫? 覚えてる?
私達が、時々、歌いながら踊っていた曲。」
「あ、はい……コレですよね?」
言いながら、ミーティアが即興で引き始める曲に、そうそう、とゼシカは嬉しそうに笑った。
「ピアノはいいわ。──踊りましょ。」
笑いながら座るミーティアの手を取り、曲の続きを口ずさみながら後ろにステップを踏む。
驚いたように目を見開いて足を進めたミーティアは、すぐにゼシカの意図に気づいて、破顔して笑った。
踊ると言っても、会食や夜会で踊るような、優雅で静かなダンスではない。
靴のかかとを軽やかに鳴らして、ゼシカの右手を取ってクルリとターンをすれば、その腕を緩く引かれてククールに腰を掴まれたかと思うと、ひょいと持ち上げられてクルンと回る。
思わず笑い声が零れて、舞い落ちたその手を、今度はヤンガスが掴んでくれた。
目を閉じれば思い浮かぶのは、小さな森の中で、焚き火を囲んだ野営地で、誰かの誕生日を迎えた夜に、手拍子と歌で調子を取って踊っていた仲間たちの光景。
自分はその時、白馬の姿で、尻尾を振って頭を軽く振って拍子をとったり、その場で足踏みをすることしか出来なかった。
でも今は、彼らの手を取り、一緒に回って──笑いあえる。
それでも、次を求めるように手を伸ばした先にあるのは、三人以外の誰も居なくて。
父王は、仕方がないとしても……、少しだけ、残念に思ったその顔が表情に出たのだろうか、ゼシカとククールが、小さく笑ったのが見えた。
「ふふ……ちょっと休憩しましょ、ミーティア姫。」
トン、と床に足をつけて、ゼシカがフルリとかぶりを振って、額に張り付いた前髪を跳ね上げれた、息を軽くあげたミーティアを、ククールが促すようにして長椅子に腰掛けさせる。
はぁ、と赤い唇から満足したような吐息を零して、ミーティアは頬に朱色を散しながら、ニッコリとあでやかに笑った。
「はい、ちょっと……疲れましたね。」
言いながら、ぺろりと唇の間から小さな舌を出して、首を竦めるように笑うミーティアに、ククールはとろけるように笑って、
「喉、渇いただろ? 何か厨房で貰ってくるよ。」
ヒラリと手を翻してフェミニストぶりを発揮しながら告げて踵を返そうとする。
そうしながら、頭の片隅で、ついでにイニスも拾ってくるかと呟いたククールの声が聞こえたのか、
「あぁ、いいわよ。それならそろそろ……。」
ゼシカが、米神ににじみ出た汗を拭きながらそう口にしたところで。
コンコン。
「……来たわね。」
あやまたず聞こえたノックの音に、クスリと笑ってミーティアを見下ろす。
ミーティアは緩く首を傾げて──けれど、ククールが扉を開けるときには、そのたおやかな美貌に満面の笑みを浮かべていた。
「失礼します。」
「イニス!」
近衛兵の服を着たイニスが、両手に大きめの銀トレイを持って、扉の向こうに立っていたのだ。
彼は、長椅子に座る姫を見て小さく頭を下げた後、扉を開いて立っているククールと、ね? とウィンクしてミーティアを見下ろしているゼシカ。それから、なぜか疲れたように床に座って荒い息を繰り返しているヤンガスを一通り見て取ると、
「……何やってたんだ?」
不思議そうに首をかしげる。
そのまま部屋の中に入って、ミーティアが腰掛けている長椅子の前に銀のトレイを置く。
その上にはティーコジーが被せられたポットが一つと、大きめの湯差しが一つ。伏せられたティーカップとソーサラーに、ガラス容器の中に入った角砂糖。甘い匂いを発するのは、バスケットに入ったクッキーのバターの香。
「イニス、お前、客が来てるのに茶を持ってくるのが遅いんじゃないのか?」
ククールがその傍に膝を付きながら、イニスが淹れようとするのをさえぎって、ミーティアの分とゼシカの分、そして自分の分をさっさと入れて、ほら、と空になったティーポットを返す。
イニスは呆れたようにそれを受け取りながら、それでも湯差しの中に入れてきた紅茶を、ポットの中に再び注いで、自分の分とヤンガスの分を入れる。
「いや──ミーティアさまがピアノを弾いてらしたから、お茶を持っていったら、ピアノを中断するか、ミーティアさまだけ飲めないんじゃないかと思って。」
ちっとも悪いとは思っていない顔付きで、首を傾げて素朴に答えるイニスに、ククールは思わず口元がネジまがるのを覚えた、
「……相変わらずの姫様主義だな、お前……。」
つまり、客人たちがミーティアの部屋にいたのは知っているが、彼女がピアノを弾いているので、客に茶を出す機会をうかがっていたということだ。
そして、ミーティアがピアノを弾くのを辞めたみたいなので、早速お茶の準備をしたということだろう。
──そうしてたぶん、そろそろイニスが来ることだろ、笑って告げたゼシカは、そのことを良く理解していた……と、いうことだ。
「そういえば姫様、先ほど弾いてらした曲って……。」
自分の分に入れた紅茶を飲みながら、イニスが口を割るのに、ミーティアはふらりと笑って頷く。
「えぇ、みんなで旅をしていたときに、聞いた曲を──ちょっと、練習していたの。」
ふふ、とイタズラっこのように笑う顔が、少しだけ苦い色をはいているのに気づいて、イニスは米神に皺を寄せた。
「ミーティアさま?」
呼びかけると、ミーティアは小さく目を見張って──気づくんだね、と続けて呟いて、それから肩を竦めてみせた。
「──うん、あのね……練習してたのは。」
そこまで呟いて、彼女は自分が両手に包んだ紅茶の表面に、自分の顔が移しこんでいるのを見下ろした。
パッチリとした瞳に写るのは、悲しみではない──穏かな、優しい、喜び。
──旅から帰って来て来て、ようやく自分の両手を己の好きなように躍らせることが出来る喜びの中で、ピアノを前に旅の最中にみんなが歌っていた曲を練習し始めたときは、でも……喜びや嬉しい気持ちで、練習していたわけじゃなかった。
「……この曲を弾いていたら、あの頃のことを思い出して、元気が出ると思ったの。」
旅は、楽しいことばかりじゃなかった。
辛いことも、悲しいことも、やりきれないことも、怖いこともあった。
けれど、皆が居れば──大丈夫だと、そう思えた。
前へ進もうと、そう思った。
迷っても、立ち止まっても、何度も、何度も。
あの頃の気持ちを思い出して、前へ進む勇気を得るために、この曲を覚えようと思った──サザンビークへ嫁入りするまでに。
「ミーティア姫……。」
はんなりと笑ったミーティアの微笑みに、その場に居た誰もが彼女の意図を悟った。
サザンビークへ嫁入りした後、辛いことや苦しいことがあったときに、彼女はこの曲を奏で、歌い、勇気と元気を取り戻すつもりだったのだ。
──たった一人で、あの国で孤独や責務と戦うつもりだったと……そういうことだ。
「……姫さま。」
イニスが、呆然とした声で呼ぶのを聞いて、ミーティアは柔らかな笑みを口元に浮かべて見せた。
「イニス、そんな心配そうな顔をしないでください。」
首を傾げて、紅茶の表面に浮かんだ自分の顔を見下ろしながら、そ、とそれに唇をつける。
「ミーティアは、たくさんの曲を弾けるようになって、本当に嬉しいんですよ、イニス。
だって。」
そこで一度言葉を区切って、彼女は自分を取り囲む仲間達を見上げて、ふわり、と彼らを包み込むように微笑んだ。
くじけそうになったとき、不安になったとき、悲しくて孤独でどうしようもなかったとき。
誰もが言葉に出せないミーティアの背を、頬を、撫でて、抱きしめて、励ましてくれた。
そのことを思い出しながら──その時の光景を思い出しながら、ミーティアは瞳を細めて彼らを見回す。
「今は、一緒に、踊れるんですもの。」
ね? と、首を傾けて微笑みかけるミーティアに、ゼシカとククール、ヤンガスはチラリと顔を見合わせあって──それから、弾けたように笑って、同意した。
ただ一人、その場に居なかったイニスは、踊れる? と、首を傾げるしかなかった。
そんなイニスに、ミーティアは、うん、と一つ頷くと、
「イニスも、お父様も──今度は一緒に、踊りましょうね。」
紅茶のカップを置いて、両手を組み合わせて微笑んだ。
王or姫でしたが、結局、姫を選んでみました。──えへ。
中でうまく説明できなかったんですが、ミーティアは旅の中で彼らと一緒に聞いた曲を覚えて、サザンビークでそれを心の慰みにするつもりだった、と。
──そういうことです、はい。