「灯台を元に戻すためには、七色の水が必要なんです。
それは、この世界のどこかにあるという、虹の入り江の水のことで……。」
封印された最後の大地──淀んだ空気が覆うコスタールの城に、煌々と炎が灯されている。それは、城の一角にある台座に、聖なる種火であった。
ついこの間までクモの巣が張っていた台に、今は明々と種火が灯っている。大きく炎を掲げるそれが、冷たい風が吹くフロアを温めていた。──そこに足を踏み入れて、少年は吐息を漏らした。
いつもは誰かがいるこの場所も、時が時のためか、まるで人気がない。
あと少しで、この封印された大地が元に戻るのであるから、仕方ないのかもしれないけれども。
誰も居ないフロアを照らす炎の台に、彼は向きあった。
赤々と燃える炎が、少年の瞳に映る。つい先ごろ、エンゴウから持って来た炎は、フロアを明るく照らし出している。それを無言で見詰めてから、彼はフイ、と背中を向けた。そして、台に背を預けるようにしてその場にしゃがみこむ。
ひんやりとした床が、嫌に冷たく感じた。
そのまま彼は、横掛けにしていた鞄を探ると、中から小さなコビンを取り出した。
ちゃぷん……と、コビンに入っていた水が揺れる。
聖なる種火の光を受けて、コビンに入った水が七色に輝く。
少年は、──ジッと、そのコビンを見つめる。
まるで宝石のように輝くコビンは、きらきら光り、まるで夢のようであった。
けれど、それを見つめる彼の瞳には、感嘆の色も見えない。ただ、静かに見つめるだけで。
「……………………。」
無言で、彼はそれを傾ける。
青みが強かった水は、一転して赤みが強いそれに変った。でも、どの色も調和が取れた、綺麗な七色であった。
コビンの口をつまんで、目線よりも高く掲げる。そうすると、背後に掲げた炎を良く受けて、更に光を増した。
太陽の光の届かないこの地でも、エンゴウの炎に掲げるだけで、水を掬って来た時と同じ様な輝きを見せる。
それを、懐かしげに瞳を細めて見つめる。
不思議な虹色の輝き──光を複雑に屈折させた、七色の輝き。
あれをはじめて見た時の興奮と喜び──一晩中寝れないくらいのそれが、全ての始まりだったのだと、ぼんやりと思い出す。
虹色に輝く水の入ったビンの向うに、暗く淀んだ空が見える。
この水をビンに汲んで来た場所は、晴れ渡っていた。七色の水は、キラキラ輝く太陽の下で、いつも輝いていた。温かな日の光。当たり前のように存在すると思っていた潮の匂いとお日様の香り──今はまるで感じ取れない。
でも、この封印された地には、腐ったような潮の香りと、淀んだ空気しか存在しない。特にここは、今まで来た場所よりも酷かった──まさに、最後の封印の地にふさわしく。
……なのに、どこか懐かしいと思ったのは、どうしてだろう?
ここが、この場所が愛しいと、そう思ったのは、何故だろう?
「…………………………。」
懐かしむように、水を掲げる。
これを見たのは、そんなに前じゃない。ここへ来る前にも、一度寄って来たはずだ。
あそこは、初めて自分で見つけた場所。
親友と二人で、探検していた時に、見つけた地下への道。惹かれるように入ったそこで、見つけた場所。
美しさに、息を呑んだ親友を隣に、なぜか懐かしさと愛しさに、涙が溢れた。泣き出した自分を見て、そんなに嬉しかったのかと、笑った彼。
不思議な水の秘密を探ろうと、何度も二人で足を運んだ。いつしか、秘密を探るのではなくて、ただ過ごすだけの場所になっていたけれど。
思い出すのも辛かったのは、ついこの間までだったのに、今ではそれすらも愛しい思い出で──……。
ちゃぷん、と、再びコビンが音を立てる。
少年は無言でそれを見詰めた。きらきら輝く虹色の水が、光を反射して彼の顔に七色の光を落す。
「なないろの……水…………。」
やっぱり、これのことなのだろうと、彼は呟く。
小さなコビン。元々は叔父が聖なる水だと言い張っていた水が、入っていたコビン。それをエンゴウで──まだ彼がいた頃の冒険で使った。その後の、空のコビンだったものだ。
それは、ずっと忘れたまま袋の中に入れっぱなしだった。彼が、自分の道を見つけるまでは。
ここに残る、と。自分の道を見つけたのだと、そう言った彼と別れ──その足で向かった入り江。もう彼がいないことを噛み締めるように、立ち尽くしていた。後から来たもう一人の幼馴染の少女が、黙って立って待っていたあの場所。
懐かしい、愛しい乱反射する入り江で、空のコビンに水を入れた。不思議なことに、入り江から掬った水は、コビンの中に汲まれてもまだ、虹色に光っていた。
変わらないそれに、涙が零れた。
そして、それから、お守りのようにずっと、持ち歩いていたのだ。どの冒険にも連れていった。
辛い時、さみしい時、苦しい時、この変わらない水を見て、癒された。乗り切った。
ちゃぷん、と鳴るたびに、大丈夫だと。
月明かりの下で光のを見つめて、自分は平気だと。
そう、思い続けて来た、お守り。
「………………。」
これを、あの灯台の黒い炎にかければ、炎は戻る。この世界は封印から解き放たれる。
でも、この水は無くなってしまう。今までずっと旅してきたコビン。親友と別れて──冒険の時、いつも一緒にいた彼と別れてから、まるでその代わりに連れて来たようなこの水は、お守りは、無くなってしまう。
新しく汲んでこようかと、思わないでもない。
けれど、と、再び視線をコビンに向けた。
開け放たれた窓から見えるのは、暗い空。まだ封印の解かれていない空。
少年は、溜め息を零してコビンを床に置いた。
新しく汲んで来ることは出来る。少し時間はかかるけど、それは出来ること。だって、あの入り江は自分の故郷にあるもので、変わらなく存在しているはずなのだから。
でも、そうじゃない。それじゃ、意味が無い。
この水だからこそ、意味があるのだ。
この水で、この世界を救うことに、意味があるのだ。これを、使うことが、今の自分に意味があることなのだ。
──正しくは、この水を、今ここで使い、無くすことこそが。
「………………。」
ぼんやりとした瞳で、少年はコビンを見やる。
炎の届かない場所に置かれた水が、暗く沈んだような色を宿している。
長い間一緒につれて歩いた水。親友と別れ、自分一人で自分の道を探すことになってから、お守りのように持ち歩いていた「思い出」。
最後の封印を解くために、この水が必要となったのは、何かの運命のような気がした。
「七色の水……虹の入り江……。」
自分に言い聞かせるように、少年は呟く。
学者がそう告げた瞬間、一も二も無く彼は自分の思い出の場所を思いだした。そして、荷物の中にしまわれていた「コビン」の存在を。
でも、口に出来なかった。ここにあると、そう言えなかった。あまりにも突然すぎて、口に出来なかった。
そして、学者を手伝うように文献を探し始めた仲間を背に、そっと部屋を出て来てしまった。
けれど、彼らはすぐに自分がいないことに気付くだろう。もしかしたら、ガボが気付くかもしれない──虹の入り江の場所は、アルスが知っていると。
あそこには、仲間といったことは無かった。この水を汲んでからは、あそこをわざと避けていたから。行く時は、いつも一人でしか行かなかったから。
「まさか──ここで、あそこが……出て来るなんて、思いもしないじゃないか──……。」
どうして、今更? いや、今だから?
もしかしたら、あの場所を自分が見つけたのも、運命だと言うのか?
それすらも、神様が選んだとでも?
苦笑を刻んで、彼は知らず右腕を握り締める。ジリジリと痛むような感覚があった。それを握り潰すように、左手で腕を掴む。
ここがなつかしいと想う感触と、不思議な感覚と、さまざまな謎と答えと、何もかもが頭の中でグルグルしている。
「……キーファ……マリベル……どうして今…………。」
言い掛けた言葉を飲み込み、彼は緩くかぶりを振る。
今ここにいない人のことを想っても、何にもならない。
前者ならとにかく、後者の幼馴染とは、会おうと思えば今すぐ会いに行く事もできる。
でも、それだけだ。
それだけで、何にもならない。彼女がここに来てくれるわけでもない。
自分のこの妙な懐古心が何なのか説明してくれるわけでもない。
自分の不安を、拭ってくれるわけでもない──いや、拭ってくれるのであろうけれども。
あんたはあんたでしょっ、と、言い切ってくれるのが、どれほど心強いことか。
でも。
「これは、自分で解決しなくちゃ──駄目だから。」
少年は、溜め息を一つ零した後、コビンを手にして立ち上った。
そして、しっかりと虹色の水を握り締めると、エンゴウの種火を見あげる。
エンゴウを救った時が、今ではもう懐かしい思い出でしかないように、この水に助けられたことも、なつかしい思い出になるときもある。
今は、過ぎれば「思い出」になるのだから。
「行こう。」
語り掛けるように、彼は虹色の水を掲げて呟く。
それは、昔のなつかしい思い出に語り掛けるように、エンゴウの光を反射させた。
きらきら輝く七色の光に瞳を細めて──少年は、口元に微笑を刻む。それはまだ、どこかぎこちなかったけれども。
「…………行こう。」
視線をあげて、今度は自分に言い聞かせるように呟く。
僕は僕の道を探す。僕は僕であることを求める。
右手に、しっかりと……コビンを持って。
他の何でもない、この「水」で、自分の故郷である地を、救うために。