夢、を──見た朝は。
いつも頬が、濡れていた。
「アールス!? 起きてるか!?」
勝手知ったる他人の家とばかりに、礼儀正しく階下に居るアルスの両親に挨拶した後、いつものように縄ハシゴの上にあるアルスの部屋に登る。
一人息子の部屋としては、上等の広い二階の部屋──なんだかんだ言って、溺愛されている、とはマリベルの台詞であるが、それが納得できるほどの広さだ。
とは言っても、あがりきった二階に物はさほどなく、カラン、とした寒々しい印象を与える、天井の高い薄暗い部屋は、広いばかりだという印象を与えるが。
その中──小さなベッドがポツンと置かれていて、もっこりと膨らむ布団が見えた。
認めたとたん、にやり、とキーファは笑った。
「やっぱり寝てたか。」
零した台詞は、独り言のようであり、下に居る彼の父親と母親に聞かせる台詞のようにも聞こえた。
ツイ先ほど、アルスの母であるマーレから、多分まだ寝ていると思うよ、と教えられたとおりだったと、そういうかのように。
今頃、キーファの呟きを聞きとがめただろう──何せ狭い家の中、キーファが普段暮らす王城とは違い、少しの独り言ですら良く響く──マーレが、ヤレヤレと肩を竦めているに違いない。
そう思えば、漏れ出てくる笑みをかみ殺すことが出来ず、小さく笑いながらキーファはベッドに歩み寄った。
窓から差し込む明るい日差しが、部屋の中を照らし出していて、歩くのには不自由しない。
屋根の梁が良く見えるこの部屋は、高さが高い分だけ、日中でも少し薄暗い印象がある。
城の広く高い天井の部屋は、充分太陽が取り入れられるように、窓がたくさん設置されている。夜にもなれば、壁に蝋燭がたくさん立てられるのだ。
けれど、この部屋はそういうわけにも行かない。
だから、昼も前だというのに、部屋の隅のほうは薄暗く、ベッドの上もまだ夜のような気配が濃厚に漂っていた。
「寝坊しすぎだぜ、漁師の息子だろーが。」
軽口を叩きながら、キーファはベッドの中の少年を覗き込む。
自分の影が落ちた先で、毛布の端から見えるのは、漆黒の髪だけ。
サラサラと白いシーツに零れるその髪だけが、空気に触れていた。
「──アルス?」
珍しいな、と小さく零して、キーファは手を伸ばし──一瞬逡巡した。
アルスは丸まって寝ることが多い。それは、マリベルが幾ら直せといっても直らない癖だった。
丸くなって眠るのは、何かに不安を抱いている証拠なのだと、誰だったか──城の教師が言っていたような気がするけれど、キーファはそれを信用したことはなかった。
だって、アルスと「不安」なんて、まるで結びつかないものだと信じていたからだ。
将来に不安がないかといえばウソになる。
その危惧を抱いているのはキーファだってそうだし、何もかも先を見通しているような顔をしているマリベルだってそうだ。
いつまでもこんなときが続けばいいと願っているのは、キーファやマリベルだけではない──はず。
多分、三人の中で一番、将来をしっかりと見定めているはずのアルスですら、近い未来ではなく、遠い未来の話をするときは……瞳が揺れるのを、キーファもマリベルも知っていたから。
「………………アルス、開けるぞ?」
腰を折り曲げて、毛布の中で丸まったままピクリとも動かない塊に向けて、小さく囁く。
いつも、布団の中で丸くなって眠っているアルスではあったけど、それでも頭ごと布団の中に消えるということはなかった。
布団に頬を埋もれるようにして眠っているのが常。
なのに今日は、その全てを覆い隠すように顔も体もすっぽり治めている。
────何かから、逃げるように?
「──アールス、起きろよ。」
ソ、と布団を捲る。
果たして、そこにあったのは、いつものようにうずくまって眠るアルスの姿だった。
ただ。
「──……あ、るす……?」
その頬に──涙が流れた跡が、鮮明に残っていた以外は。
一瞬息を詰めて、何か見てはいけないものを見てしまったような気になった。
小さい頃、その優しくて内気な性格から、良く苛められていることが多かったというアルスは、泣き虫だったらしい──いつもマリベルがそのいじめっ子を勇敢に追い払っていたというのだから、今の二人の関係が納得できるものである。
キーファと初めて会ったときにはもう、目に涙をためることはあっても、おいそれと流すことはなかった。
マリベルは、それをどこか不満に感じているようだったが──女心というのは理解できない。
「めずらしいな……。」
最近になってからは、アルスが泣き出しそうな顔になることすら、見たことがなかった。
キーファはベッドの端に腰掛けながら、指先をソ、とアルスの頬に這わせた。
まだ渇ききっていない頬は、しっとりと指先に弾力を返した。
爪先に、そ、と触れる雫の気配に、キーファは軽く眉を寄せる。
「……何の夢をみたんだか。」
小さく呟いて──その呟きにも気付かないほど、グッスリ寝ているだろう少年の顔をマジマジと見つめる。
ふっくらとした頬は、まだ少年の面差しを濃く残し、青年らしく精悍な顔立ちになってきた自分に比べると、幼いとすら言えた。
いつも被っているフードを脱いだその髪は、今はフワフワと湿気を孕んで膨らんでいた。
頬に影落とすまつげは、しっとりと濡れ、いまだ涙の跡を強く残し──キーファは、そんな彼の頭に掌を乗せた。
妹にするように撫でてやると、華奢だ華奢だと思っていた体が、思っていたよりもたくましくなっているのに気付く。
もっとも、リーサと比べているから余計に、そう感じてしまうのかもしれないけれども。
「…………そーだよなー……俺がもう17なんだから、コイツはもう……15、なんだよなー。」
しんみりと呟き、あと1年かと、少し苦い感情を抱く。
あと1年もすれば、自分も彼も今ほど自由になる時は少なくなるだろう──もしかしたら、まったく会えなくなる日が長く続くかもしれない。
いくら平穏な島とは言え、一つの王国である以上──唯一の王太子が、今まで自由に見過ごしてもらっていたほうがおかしいのだ。
「……まだ、ガキなのにな。」
くしゃり、と髪をかき乱して、キーファはアルスの顔を覗き込んだ。
間近に見下ろせば、まだ濡れる雫が目元に残っているのが見えた。
髪を撫でていた手を下ろし、その目元に指の背を当てる。
ス、と横に撫でると、手の甲に温もりの残る雫が一滴乗った。
すぐに指に滲むそれを見つめて……、
「寝ながら泣いてるような、ガキ、だよな。」
自分に言い聞かせるように、そう呟いた。
その呟きが、余韻も残さずに消えたすぐ直後、
「ん…………。」
小さく、うめく声が聞こえた。
はっ、と見下ろした先──額に落ちた彼の前髪がかすかに揺れていた。
「アルス? 起きたのか?」
不意に、見てはいけないものを見てしまったような感覚を覚えて、キーファは濡れた指先を握りこんだ。
そうしながら見下ろした先で、アルスがゆっくりと瞳を開くところだった。
どこかボンヤリとした──熱を孕んだような瞳が、焦点を合わせられるに空中を行き来する。
その黒い瞳が、ピタリとキーファに当てられ──、
「んー…………きぃふぁぁ?」
寝ぼけた声で、アルスはモゴモゴと口を動かした。
その、どこかのんきな声色に、ぷっ、と、キーファは小さく噴出す。
「これだけ寝ておいて、まだ寝ぼけてるのかよ、お前は!」
アルスの涙をぬぐった指で、きゅむっ、とアルスの鼻先をつまみこむ。
「むぐ……っ…………き、キーファっ!!」
慌てて起き上がり、キーファの手を乱暴に振り払うアルスの顔が、真っ赤に染まっているのを見て、またキーファは笑った。
寝癖がピンと跳ねた髪も、怒ったように吊り上げる目も、何もかもが──いつものアルスと同じだ。
目を覚ましたとたんに、自分が良く知るアルスになった気がして、ホッとした。
「あははは! もう外は日も高いぜ、アルス! さっさと起きて、遊びに行こうぜ!」
ぺたん、とベッドの上に座り込んで、眠そうに目を擦っているアルスの目元は──良く見れば赤く染まっていて、寝不足なのか泣いていたせいなのか、一瞥しただけでは分からない。
覗き込めば、目もかすかに赤く充血していた。
「まだ眠いのかよ? こんなに寝ておいて。」
──泣いていた、なんてことは口に出さず、しきりに目を擦るアルスに呆れたようにたずねる。
するとアルスは、軽く首を傾げて、キーファに不思議そうな目を向けた。
「んー……なんか、長い夢を、見てたような気がして…………寝足りない。」
最後の一言とともに、パタン、とアルスは再び布団の中に倒れこむ。
そのままスヤスヤと眠ってしまいそうな雰囲気に、だぁっ、とキーファは癇癪を起こしたように彼の頭の下から枕を抜き取った。
「起きろよっ、いい加減っ!」
「だってー……最近、なんだか、寝ても寝ても、寝足りないんだもんー……。」
甘えるようにそう零して、アルスは枕を見捨てて布団を抱え込む。
そんな彼の額に、ぴしっ、とデコピンを一発お見舞いした。
「いたっ──キーファっ、ひどいっ!」
「酷いのはドッチだよ? 俺はなー、アルスと遊ぼうと思って、今日も頑張って城を抜け出してきたんだぞっ!? そしたらお前は寝てるし。」
あまりに痛かったのか、少し涙を滲ませて睨みあげてくるアルスに、一瞬息が詰まったけれど──それを見てみぬフリをして、キーファは目を据わらせて彼を睨みつけた。
そうだ──昨日、帰り際も約束したばかりじゃないか。
今日も一緒に秘密基地で昨日の続きをするのだ、と。
それなのに、待てどやってこない彼を向かえに、こうしてわざわざ二階まで上がってきたというのに。
そう──暗に込めて睨みつけてやれば、スリスリと額をさすっていたアルスの目が泳ぎ……やがて、彼の口から、あ、という小さな呟きが零れた。
「ご、ごめん…………。」
しゅん、とうなだれるアルスに、
「よしっ。なら、行くぞ、アルス!」
がばっ、とベッドから跳ね上がり、床に足をつける。
アルスは、軽やかに前に降り立ったキーファをきょとんと見つめて──それから、うん、と一度頷いた。
「着替えて顔洗うから、下で待っててよ、キーファ。
すぐに行く。」
「……とか言って、寝てるなよ?」
からかうように片目を瞑って笑ってやると、むっとしたように唇を尖らせる。
「キーファじゃないから、大丈夫だってば!」
言いながら、さっそく寝巻き代わりのシャツを脱ぎ始めたアルスに向けて、勝手知ったる人のたんすの中──さっさとアルスの服を取り出して、それをベッドに向けて投げてやった。
それと同時、まるでそのタイミングを計っていたかのように、
「キーファ王子! 昼食が出来ましたよー!」
下から、香ばしい匂いとともに、マーレの朗らかな声が聞こえてきた。
おそらく、下に全ての声は丸聞こえで、アルスが起きたタイミングを見計らって声をかけてくれたに違いない。
「はーいっ、今いきまーっす♪」
今日の昼食は、マーレさんの小魚の佃煮♪
嬉しそうに顔をほころばせるキーファと正反対に、ベッドの上でモソモソと着替えていたアルスは、驚いたようにシャツの頭から顔を出した。
「えっ、昼食!? もうそんな時間なのっ!!?」
「先に食ってるぜ、アルス。」
そんなアルスに、ヒラヒラと手を振ってやりながら、キーファは縄ハシゴを慣れた調子で降りていく。
すると、湯気を立てた昼食たちが、キーファを出迎えてくれる。
「まったくあの子ときたら、ボケボケだねぇっ!」
アルスの驚いた声を聞きとがめたらしいマーレが、呆れたように皿を並べているのに、キーファは小さく笑った。
「しょうがないっすよ。アレがアルスのいいところなんですから。」
そう、したり顔で答えるキーファを──無言で新聞を広げていたボルカノが、困ったような顔で、チラリ、と一瞥した。
夢を、見ていた。
長い、長い、夢。
「………………………………思い出すと…………なんて悲しい………………。」
着替える手を止めて、小さく呟く。
窓から入り込む光りは、穏かに室内を照らし出す。
それでも、部屋の隅の滞ったような闇は消えずに残り──夢を見た後、その闇を見るのが怖くて……いつも、目覚めは遅い。
目を擦りながら、怠惰な体の疲れを感じる。
夢を見ると、人は疲れるのだと言う。
夢を見ている間、脳が働いているから、体には疲れが残るのだという。
どれだけ寝ても、どれほど休んでも──それでも夢を見ている間、脳が働き続けているから、疲れは取れない。
「──最近、多いなぁ……。」
なのに、目覚めたら何の夢だったのか、忘れてしまう。
濃く残るのは、焦りと、恐怖と──悲しみ。
何に焦り、何に恐怖し、何に悲しんでいたのか。
その何もかもが分からないというのに──心に残る重みだけは、目覚めても取れることはなかった。
もう一度目を擦って、アルスはふと気付いた。
今日は、指先が濡れることがない。
「──あれ?」
長い夢を見た翌日は、いつも自分は泣いている。
誰かを失くした悲しみに。
誰かと引き剥がされた悲しみに。
誰かに怯える恐怖に。
どんなものからも守ってくれる優しい愛情から引き剥がされ、誰とも知れぬ手の中で、暗い闇夜をさまよった。
夜は、怖い。
闇は、怖い。
よどんだ闇に住まうのは…………。
「………………………………なんだろう……………………?」
ぽつり、と小さく呟いて、アルスはブルリと身震いをした。
体の奥底から冷えわたるような、ズキリと痛む何かに、怖さを覚えた。
自分の知らない何かが、自分の中に巣食っているような気がして──アルスは、知らず右腕を左手で強く抑える。
長い、長い……夢。
はかなく消え行く夢の中。
僕は。
──誰かの内で、たゆたいながら全てを見ていたような、気がする。
伸びてくる闇の手から逃れるためだけに──ただ必死に、伸ばされた手を掴んだ気がする。
その手の主が誰なのか分からぬままに、ここまで来たような。
「悪夢……かな?」
最近、この夢を見る頻度が高いような気がした。
小さい頃──本当に物心つく前の幼い頃は、アルスは夜中によく癇癪を起こすかのように泣いたのだと、両親は言っていた。
そのたびに、マーレは夜の海に連れ出し、ワンワン泣く子を抱えて、子守唄を歌ったのだと──まったく、手間がかかる子だったよと、そう笑って教えてくれた。
夜の海は、怖い。
でも、海に連れ出せば──ほら、あんたも漁師の子供。すぐにその波の音に身をゆだねる。
海は──誰よりもあんたの近くにあるから。
────────────海が……この島を守る海が、誰よりもお前を守ってくれるから……………………………………。
「…………………………ツッ…………。」
つきん、と──痛みを覚えて、アルスは眉を寄せた。
思い出せない夢を掴み取ろうとしても、ただその夢は流れていくばかり。
代わりに心に残るのは、闇夜を恐れる心。
その闇に潜む何かに、心がざわめき掻き立てられた。
思えば僕は、幼い頃から暗闇が嫌いな子供だった。
苛められて、真っ暗な部屋に閉じ込められて、ワンワン泣いていたこともあった。──気が狂うほど、泣いていた。
あそこには……何かが潜んでいるから。
「今は、そうでもなくなったと、思ったんだけどなぁ……?」
首を傾げて、あふ、とあくびをかみ殺した。
夢の中に、全身を襲うような恐怖は、もう遠くけだるげに残っているだけ。
ヒタリヒタリと押し寄せてきたような恐怖と悲しみの感情はもう、小波のように緩やかになっている。
目を閉じれば、耳に届くのは聞きなれたフィッシュベルの波音。
夢の中、聞こえた波の音とは違う──穏かで優しい、包み込むようなソレ。
────今はまだ、眠りなさい……そう、囁くような、優しい声。
「…………ふぁぁ…………。」
大きくあくびを零して、アルスはコロンとベッドの上に横になった。
そのまま仰向けになって、うとうとと目を閉じ始める。
夢を見た後は、いつも体全身が苦痛を訴える。
その夢を見る事自体が正しくないのだと言うように、体が疲れを訴える。
ここは安全だから──そう、このまま眠ってしまえばいい。
そうして…………。
「アールス! まだ着替え終わってないのかいっ!? 早く降りといてっ!!」
せかすようなマーレの声に、まどろみ始めていた意識が一気に覚醒した。
はっ、と起き上がり、アルスは慌てて着替えの途中だった上着を羽織りなおす。
「い、今降りてくっ!」
「早く来ないと、俺が全部食っちまうぞーっ!」
笑い、からかうようなキーファの声が、アルスに答えた。
これはきっと、自分が再びまどろみ掛けていた事実に気づいているに違いなかった。
「今、行くってばっ!」
苦虫を噛み潰したような顔になってから、アルスはベッド際においてあったベルトを手にした。
立ち上がり、ベルトを閉めると、フードを掴み取る。
慌てて縄ハシゴを降りると、すでにテーブルの上に盛られた皿の幾つかは、空になっていた。
当然のように、マーレやボルカノと同じ食卓についていたキーファが、慌てて降りてきたアルスを振り返り、にやりと笑う。
「遅いぞ、アルス。」
「ゴメン……っ、ちょっと、ボーッとしてた。」
「まったく、寝なおしてるんじゃないかと思ったよ。」
呆れたように、アルスの分のパンにバターを塗ってくれる母に、あははは、と乾いた笑いを返して、アルスはいそいそとキーファの隣の自分の席についた。
そして見上げた先──父が、アンチョビサンドを食べ、母がのんびりとサラダをつつき、キーファが小魚の佃煮を抱え込んでかっくらい……いつもの、何の変哲もないような、そんな光景が広がっていた。
「いただきます。」
マーレからパンを受け取り、そう呟いてからパンにかじりつく。
香ばしく焼けたパンが、サクリ、と口の中で割れて、ふっくらとした感触が口内に広がった。
バターの香と、舌先で解ける感触とともに、アルスは甘酸っぱいような、幸せをかみ締めて、小さく笑った。
そんなアルスに、マーレが怪訝そうな目を向ける。
「アルス──あんた、何かあったのかい?」
「ううん、なんでもない──ただ、よかったなぁ、って思っただけ。」
にこ、と笑うアルスに、ますますマーレはいぶかしげな顔をしたが、パクパクとパンを食べ進めていく息子に、それ以上何も言わず、自分も昼食を片付け始めた。
キーファだけが、そんなアルスを一瞥したが──特に何も言わず、彼もまた自分の分に取り分けた佃煮を片付けることにした。
──夢は、はかなく消えていくものだから。
「これ、食べ終わったら、今日もいつものトコな、アルス。」
遠慮なく豪快に食べ進めていくキーファに、マーレが喜んで何度目かのお代わりをよそう最中、キーファはそう当たり前のように告げた。
その当たり前の台詞に、アルスも笑って頷く。
「うん、いつものトコだね。」
夢は、夢。
悪夢も幸せな夢も望む夢も、何もかも、夜ごとに訪れる……それでもただの夢に過ぎない。
そう──ただの、夢にすぎない。
「マリベルに見つかるなよ、お前。」
「それはキーファだって同じじゃないか。」
コッソリと、声を潜めてボソボソと囁いてくるキーファを、ジロリと睨み揚げてアルスも囁き返す。
そんな二人の声が聞こえているのか聞こえていないのか、ボルカノは一度目を上げただけで、特に何も言わずに視線を食事に戻した。
「ほーら、キーファ王子! まだあるから、たんとお食べ!
アルスも、王子に負けずにドシドシ食べるんだよ! あんた、タダでさえでもひよっこいんだから!」
どんっ、と積み上げられた佃煮に、アルスはげんなりした顔を見せ、キーファは喜びに目を輝かせる。
「んもっ、マーレさん、サイコー!」
「あははは、誉めてもコレくらいしか出ないよ。」
笑いながらマーレが席に着くのに、アルスは自分の分の食事を片付けながら、こっそりとため息を零した。
「キーファには、それで充分……。」
どこかうんざりした心地でそう呟いたときにはもう、先ほどまで気にしていた夢の欠片は、どこにもなかった。
──夢は、不確かなものだから……知らず、どこかへ消えていくものだから。
「たくさんあるなー……♪ マーレさん、これオヤツにするから、タッパーにつめてもらってもいい?」
ウキウキした声で聞くキーファに、アルスは顔を引きつらせる。
「それ、全部食べる気なの、キーファっ!?」
「おうっ! 残ったら、そのまま城に持って帰って、夕飯に食うよ。」
明るく笑うキーファに、そりゃうれしいねぇ、と笑うマーレ。
そんな二人を見ながら、アルスはパンにがぶりとかじりついた。
「食べすぎだよ……もぉ。」
3食とも漁師の妻が作った小魚の佃煮を食べる一国の王子というのもどうだろうかと、溜息の一つでもつきたくなる。
そんな溜息をパンを飲み込むことでなんとか堪えて、アルスは日常になった光景をボンヤリと眺めた。
こうしてノンビリとしていると、なんだか心がホッとして──夢の中で見た恐怖心や暗闇が幻のように消えていくのを感じる。
そうだ……今日もこうして、消えていくのだ。
胸の奥にわずかにしこりを残して。
「アルスは、ぜんぜん食べないねぇ……まったく。」
呆れたようなマーレの視線が、自分の手元に降りているのを見て、アルスはキーファの食べている皿と、自分の皿と見比べた。
空になったキーファの皿と、まだこんもりと残っている自分の皿。
「──……食べないわけじゃなくって……。」
少し箸が進まなかっただけなのだと、アルスが眉を顰めた瞬間であった。
「あっ、アルスが食わないなら、俺がっ。」
ささっ、と、キーファが自分の皿とアルスの皿を、入れ替えてしまった。
「──……って、キーファっ! 食べるよーっ、僕だって!!?」
慌てて手を伸ばしてくるアルスから、ひょい、と皿を掲げ持つ。
「いや、だってお前、食が進まないみたいだからさー?」
「食べるってば!」
バッ、とキーファの手から皿を取り戻し、アルスはそれをしっかりと囲い込んだ。
そして、唇を尖らせながら、まったく……と小さく呟く。
そんな彼に、ニッコリとキーファは笑った。
「さっさと食べろよ、アルス。」
言いながら、彼も彼で、空になった皿をマーレ向けて差し出した。
マーレは笑いながら、それを受け取って新しい佃煮を盛り上げる。
「うん、すぐに食べ終わるから、待っててよ。」
──とは言っても、このままでは自分が食べ終わっても、まだキーファは食べていそうな気がしないでもなかったけれども。
「あぁ!」
闇が吹き飛ぶような、太陽の笑顔。
アルスは一瞬まぶしげに眼を細めて……それから、つられたように笑った。
──夢の中、いつも追いかけてくる闇は……現実の世界には、ない。
「だってあれは……夢の世界だから……。」
小さく、呟いた。
「何か言ったか、アルス?」
ぱっくりと、幸せそうに笑みながら佃煮に食いつくキーファが首を傾げて尋ねるのに、ううん、とアルスはかぶりを振った。
そして代わりに、先ほどキーファが見せたのと同じ──明るい笑顔を浮かべてみせた。
「なんでもない! 早く食べ終わるよ。」
「──だな、時間がもったいない。」
笑いあって、2人は眼の前の食事に手をつけ始める。
時々キーファがアルスの皿に手を伸ばそうとしては、それに気づいたアルスにペシリと手の甲を叩かれる以外は、いつもと変わりない──普通の光景だ。
そんな仲の良い二人に、マーレとボルカノは視線を交し合って──それから、2人に分からないように、小さく笑いあった。
──まったく、仲の良い兄弟のような二人だ、と……。
この幸せが、延々と続くことを疑わずに。
ただ──柔らかに微笑んだ。
幸せは、現実の中。
闇は、夢の中。
今はまだ……闇は、遠い。
オチが弱いなー……(涙)。
説明すると、うちのアルスは、闇が怖いのです。
昔──生まれる前の記憶を、体のどこかが覚えているのですね。
そして、時々それを夢に見て、うなされたりとかするのですが、起きたら忘れているのですね。
けれど、刻限が近づくにしたがって、夢の頻度が高くなってきている──っていうことが、書きたかったんですよ、つまりは!
でも、そういうことなんですv