綺麗な空が、どこまでも続いているような──そんな良い天気の日であった。
見あげた空には雲一つなく、青いだけの空間がずっと広がっている。
こうして手触りのいい砂浜に横になっているだけで、すぅっと、眠りに吸い込まれていくような感覚を覚える。
すぐ近くで聞こえているはずの、波の音すらも、遠く聞こえて、空に吸い込まれていくようであった。
いつもの場所で、いつものように待ち合わせて……いつものように遊び、冒険するはずの日。いつものように約束の時間に遅刻してきている彼を待って、少年はぼんやりと空を眺めていた。
少年は、元々ぼーっとしていることが多いと言われる事が多く、事実ぼんやりとしているのが好きであった。
今日もぼんやりと風を感じ、海の音を聞き、大地の温もりを分け与えてもらっていた。
空を渡っていく風に乗って、海鳥が飛んでいく。
何の変哲もない、いつもの怠惰な午後。
浜辺に面した小さなこの村は、船乗り達による漁で成り立っている。勇敢な海の男達は、今日も朝早くから漁に出掛けていった。彼らが帰るのは、最低でも三日は後だろうと思われる。その航海の長さは、この村きっての名漁師である、少年の父親の判断に任せられているから、待っている彼らにはわからない。
きっと父は、いつものように元気に帰ってくるのだろう。たくさんの魚を持って、たくさんの土産話を抱えて。
口下手で不器用な──でも強くたくましい自分の父の顔を思い出して、少年は軽く瞳を細めた。
太陽が眩しいくらい照り輝く空は、まるであの父のようであった。この村全てから尊敬を集め、船乗り達からは憧れの眼差しで見られる。
事実父はそれだけの実力を有していたし、彼さえいれば、大丈夫だと、皆口を揃えて言う。
この小さな島の──この一個の小さな国の、英雄めいた存在なのだ、少年の父親は。
すぐ近くにある城でも、城下町でも、彼の父のことを知らぬ者はいない。限られたこの小さな──でも全ての世界で、彼の父は有名であった。
フィッシュベルのボルカノさん、と言ったら、知らないのは生まれたばかりの赤ん坊くらいのものだ、とまで言われている。
その息子である自分は、ボルカノの息子ですらなかったら、きっと誰からも歯牙にもかけられなかったに違いない。
城でも、城下町でも、自分を見かけたら、親しげに皆話し掛けてくれる。でもそれは、自分の父が有名だからだ。自分が彼の息子だからだ。そして、この島が、本当に小さくて──この島そのものが、世界の全てでしかないからだ。
それに不満がないわけではなかったけれど、確かに──物足りないのも、本当。
「僕も……いつか、船に乗れるのかなぁ……。」
未だに自分に与えられる仕事と言ったら、父の元へお弁当を届ける事とか、網元のお嬢さん──幼馴染のマリベルの相手をすることとか、城下町に魚を届けに行く手伝いをするとか……そういうことばかりなのである。
今年で16にもなるというのに、これしかしていないというのは、正直言って──見所がないと言われているのと同じである。
尊敬する父と同じ仕事をしたいと思っている以上、望むのは船の仕事である。
けれど、16にもなって、船乗りの仕事はまだまともにやらせてもらっていない。
船の上では、男達は何もかもを自分でやらねばならない。だからこそ、少年は小さい頃から、いろんなことを母や父に仕込まれてきた。それこそ料理から洗濯、繕い物に何かあったときの応急処置まで、あらゆることを。
だけど。
だけど、本当は、知ってる。
「頼りない……かぁ……。」
今日も朝早くから、母特製アンチョビサンドを父の元に届けに行った時、少年は幼馴染の少女が言っているのを聞いてしまっていた。
「アルスは、頼りないから、駄目よ。」
確かに、自分は頼りないと皆に思われているし、事実そうなのは知っている。
表に立って走るよりも、誰かを引っ張っていくよりも、誰かの後ろに立っている方が好きだし、誰かに言われた事をしている方が、ずっと楽しい。
そんなことを言うアルスを、マリベルが弱虫だとか、頼りないだとか言っているのは、良く分かるのだ。
アルスが「頼りない」のは、マリベルだけの意見だけではない。
船乗り達だって、アルスは優しすぎると口を揃えて言う。
中には、船乗りだけが船に乗るための職業じゃないとまで言う人もいた。
アルスは、自分が優しいのかどうかはわかっていなかったが、回りから、荒っぽい漁師にはまるで向かないと見えてしまっていることは、良く分かっていた。
父のボルカノは、息子の自分に跡を継いでもらいたい気持ちがあるから、何も言わないけれど──心の中では、まだまだだ、と思われているのも分かっていた。
──もっとも、こうやって人の気持ちを読み取って、それを思い庇って行動することこそが、「頼りない」とみなされているのだろうけど。
空はこんなに青くて、海はこんなに広くて、この世界でただ一つ、この島だけしかないというのが嘘のように、世界は広くて。
そこへ乗り出していくには、頼りなくては駄目なのだと、誰もが言う。
ボルカノさんの息子さんは、優しくていい子だけど……ちょっと頼りないわね。
それが、誰もが言う言葉。誰もが思っている言葉。
自分には、冒険は向いていないのだと、皆言う。
「誰でも最初は頼りないもんだ。」
父も母もそう言って笑うけど──でも、アルスよりも少し年上の幼馴染の少年は、もう船に乗って魚を取ってきている。
皆優しいから、アルスに何も言わないけれど、自分がまだ船に乗らないのは、きっと……頼りないからなのだ。
青い空を眺めながら、憂うつに溜め息を吐いた刹那、
「昼間っから、元気ないな、アルス?」
不意に上から声が降ってきた。
驚いて見あげると、太陽にキラキラ光る金の髪を反射させた青年が、笑顔を見せて立っている。
いつものいたずらめいた笑顔は、少し頬が紅潮していた。ここまで走ってきたのだろう──いつもどおりに。
「…………キーファ…………。」
小さく呟くと、彼は片眉だけをあげるという器用な真似をした後、上半身を起こすアルスの隣に座った。そして、少年が頭からかぶっているフードだの、身体だのについている細かな砂を払ってやりながら、
「遅くなって悪かったな。俺はちゃんと来たから、元気だせよ。」
ぽんぽん、と仕上げに頭を叩いてやる。
いつまでたっても自分が来ないから、不安になったのだろうと思ったらしい。
アルスはそれに答えず、曖昧に笑った後、こくん、と頷いた。
そして、幼馴染の二つだけ年上の青年を見あげる。
「今日は、何するの?」
そんな風に尋ねる自分の瞳が、キラキラ輝いている事を、アルスは知らない。
楽しい事や、興味を持った事には、積極的になる一面を持つ事を知っているのは、この幼馴染と、両親くらいの物だ。
こうしていると、優しいいい子のアルスというよりも、やんちゃないたずらさかりの子供に見える。
眩しいばかりの眼の輝きに、キーファの眼もいたずらめいて光る。
「今日は、遺跡の方に行ってみないか? こんなに天気がいいんだからさ、きっとすっげぇ綺麗だぜ?」
「行くっ!」
即答して、アルスは立ち上る。
ぱらぱら、と白い砂が零れたが、それも気にせず、キーファの腕を引っ張っる。
キーファはそれに笑いながら、立ち上る。
どれくらい寝転んでいたのか知らないが、アルスの身体中に白い粒がついている。自分の身体には、微かについているくらいだ。
大分待たせてしまったのだと思いながら、彼は再びアルスの身体から砂を払ってやる。
アルスも慌てて自分の身体を払いながら、キーファにありがとう、と呟いて彼を見上げる。そして、キーファが見慣れないものをつけているのに気付いた。
「キーファ……それって、剣? ──だよね?」
確か、昨日は付けていなかったはずだけど?
剣なんて、この平和なフィッシュベルでは、滅多に見かける事のないものである。
武器などと呼べるものがあるとすれば、それは狩りに使う弓だとか、銛だとか、その程度のものだ。自分たちでも扱える物ともなると、こんぼうくらいのもので──正真正銘刃がついている剣なんてものは、城の兵士くらいしか持っていなかった。
まさかキーファがそんなものを持っているとは思わなかったアルスは、肩から背負われた剣の鞘を、不安げに見つめる。
「ああ……剣の講義を抜け出してきたからさ。その辺に放っておくわけにもいかないだろ?」
キーファはなんでもないように、剣を支えているベルトを叩くと、行くぞ、とアルスの手をつかんだ。
なすがままにひきずれるようにして、キーファの後をついていく。
この光景はいつものことなので、村の皆は、またどこかへ遊びに行くのだな、くらいにしか思ってくれていないようであった。
村を出る時に、
「アルスっ! 王子をあんまり遅くまでひっぱるんじゃないよっ!」
という、母の声が遠くから聞こえた。
アルスは精いっぱいそれに答えてみたものの──きっと今日も無理なのではないのかと、すでに分かっていた。
何よりも、引っ張っているのはキーファその人であり、自分ではないのだ。
アルスは、揚々とした態度で先を行くキーファを見上げる。
彼の背中には、見慣れない大きな剣が吊るされている。
キーファはそれが、剣の講義をさぼってきたものだ、と言っている。
キーファもこうして遊んではいるものの、城に帰れば王子様である。いろいろな危険だってあるからこそ、平和なこの国でも剣技を倣う必要があった。
他にだって、アルスには言っていないものの、いろいろな帝王術を学んでいるはずなのだ。
きっと、あと二三年もしたら、キーファはこうして遊んでいるどころか、城にこもって、たまにしか会えなくなるのだ──いや、たまにも会えないのかもしれない。
それでも自分は……漁師の修行を受けてなくて、キーファはどんどん王様になるために頑張っていくのに、自分はいつまでたっても見習いにすらなれなくて──────。
そう考えていくと、また重い溜め息が唇から零れてしまう。
キーファと遊んでいる時間は少ないのだから、もっと遊びに集中したいのに、どうしても脳裏から離れない。
マリベルですら、家でいろいろな勉強をしていると聞いた。いつかは漁師の中からお婿さんを貰い、網元の妻として、遜色ないくらいにならなくてはならないのだと言っていた。
だから、あんたと遊んでいる暇なんてないのよ。──いいわね、暇人で。
朝、そう言われた事を思い出して、アルスはほんと、暇人だよね……と、口の中だけで呟く。 ふとその呟きを聞きとがめたらしいキーファが、脚を止めて振り返った。
「アルス? どうしたんだよ、さっきから? 元気ないぞ?」
「……ごめん、なんでもないんだ。」
キーファと一緒にいるときは、キーファのことしか考えない。彼との冒険のことしか考えない。
いつもそうして来た事なのに、今日ばかりはそうはならない。
さすがに今朝の出来事が心につっかえているようであった。
それが分からないキーファではない。だてに物心ついた時から親友などとやっていないのである。
「なんでもないって顔じゃないだろ……その辺でちょっと休もうぜ。」
辺りを見回して、座り心地のよさそうな岩を見つけると、ぐい、とアルスの腕を引っ張って歩いていく。
慌ててそれについていきながら、自分にもキーファくらいの行動力があったら、今ごろ船に乗っているのかもしれない、と思った。そして同時に、そんなことを思ってしまう自分に、嫌悪感すら抱く。
僕は僕であって、キーファじゃないのに……。
「で? 一体何があったんだよ?」
とん、とアルスを岩の上に座らせて、キーファは正面からアルスを覗き込む。
いつの頃からだったか、目深にフードをかぶるようになったアルスの顔は、いつものように隣に立っていると、まるで見えない。
だから、わざと自分は草原に直接座って彼の顔を見上げる。
ほんのりと日に焼けた顔が、困ったような表情でキーファを見つめている。
彼が元々自分の気持ちをストレートに口に出す性格をしているとは思っていなかったが──自分の前でもそうなのは、どうかと思う。
今まで一番長い時間を共に過ごしたからこそ、もっと気を許してくれてもいいものなのだ。アルスからしてみたら、相当許されている分類に入るようであったが、それでもアルスには、アルス自身にしかない領域を持っていた。
それは、例え彼が尊敬するボルカノであっても、入れない領域なのだ。
そんな領域を持っているのは、悪い事じゃない。でも、それを抱える事ばかりを考えて……隠すことばかりを考えて、殻にこもられても困る。何よりも、キーファはそんなことを望んでいはしない。
「………………………………………………。」
アルスは何も答えない。あくまでも何もないと言い切るつもりのようである。
キッと、自分を見ている瞳が、意固地で──この強情な瞳をどうやって崩したらいいものかと、キーファは軽く目を眇めた。
アルスは頼りなさそうに見えるし、優しくて脆そうに見える。しかしその実、彼が結構な頑固者であることを、キーファは良く知っていた。何せ、あのマリベルに秘密を問い詰められても、黙り続けていることが出来るくらいなのである。
これは奥の手しかないな、と溜め息をついて、キーファは彼の顔を両手で掴んで、ぐい、と固定した。そして、自分の顔をぐっ、と近付ける。
思いもよらず、久しぶりに間近で見たキーファの顔に、アルスが大きく目を見開くのが分かった。
綺麗な黒曜石の瞳に、キーファの顔が映っている。
その顔は、我ながら意地悪げであった。
「いつまでも黙ってると、ちゅーするぞ。」
「…………………………………………。」
あまりの馬鹿さ加減にか、アルスが目眩を覚えるのが分かった。それでも引く気などない。あったら最初からそんな使い古された手など使いはしないのである。
冗談だろ? と言いたげに顔を歪めるアルスに危機感を与えるために、キーファは更に顔を近付けた。
別に、キスの一つや二つ、アルスにしたって構いはしないのである──自分は。そこまで初心ではないつもりだし、妹にしている挨拶代わりのキスが、エスカレートしているのだと思えば、精神的にも苦痛なんて存在しない。
しかし、アルスはそうはいかないのであろう。慌てたようにキーファの胸に手を当てて、ぐいぐいと彼を押しはなそうとする。
「……きー……ふぁ……っ。冗談……は……っ。」
一生懸命離れさせようとしているのは、分かる。
分かるのだが、所詮は剣の修行を受けているキーファの馬鹿力にはかなわない。
まるでびくともしないキーファに、アルスは瞳を歪める。
今までの経験上、こうなったキーファが、冗談だよ、冗談、と言って退く可能性は少ないのが判っていた。だから、自分の身の危険を感じながら、必死でキーファに訴える。
「………………キーファ……お願いだから…………。」
すがり付くような眼で、キーファを見つめる。
力を入れすぎたせいか、頬が紅潮し、瞳が潤んでいる。泣きそうにも見えるその表情に、キーファは内心感心する。
これが計算されていないのだから、なんとも凄いものだ。まるで自分がいじめて泣かせているようである──いや、事実そうなのであるが。
こんな表情をされてしまうと、良心が痛んで、謝って解放したくなるではないか。
もしもアルスが女だったら、抱きしめて、もうしない、と甘く囁いてやってもいいような愛らしい仕草である。
いや、もったいない──自分の回りにいる女達だって、こんな可愛らしい仕草も表情もしないというのに。
そう思うと同時、キーファの脳裏に、一番身近な他人である、小生意気なマリベルの顔が浮かんだ。
アルスは彼女すらも、上手く相手する。密かにあのフィッシュベルでは、マリベルの婿になり、彼女に尻に敷かれずに相手できるのはアルスくらいのものではないのか、と噂されているくらいである。
もっとも──アルスでは、網元には頼りないというのが、一様に思われているらしかったが。
ふとそこまで思って……キーファはまじまじとアルスを見やった。
彼は、未知への恐怖故か、きゅ、と目を閉じていた。どうやら諦めたようである。諦めるのも早い……と、キーファは内心描いた呆れを隠してアルスを見つめた。
その幼い顔を眺めて──キーファは、不意に思い当たる。
今日はたしか、アルスの親父さんが……漁に出たのだ、と。
「お前……もしかして、漁につれていって貰えない事が、嫌なのか?」
刹那、アルスは瞳を見開く。
大きな目が、驚きを称えてキーファを見つめた。
その眼に、キーファは確信を覚える。
本当に、そうなんだな、と。
「…………ちが……っ、別に……キーファと遊ぶのが嫌なんじゃなくって……その……っ!」
慌てたように弁解しようとするアルスに、キーファは苦笑を覚える。
「分かってる。」
アルスは、自分と一緒に居る時、本当に楽しそうだし、冒険めいたことも嬉しそうに目を輝かせている。
彼が本当に自分と一緒にいることを、冒険していることを楽しんでいるなんて、誰が見てもわかることである。
これを演技で出来るほど、彼は器用ではないし、性格は素直でひねくれていない。
──どこかのお嬢様は、楽しいと思ってることを隠そうとするひねくれた面があったけれども。
「けど、悩みがあったら、楽しくなんてできないだろ、お前?」
「……………………。」
アルスは図星だったのか、沈黙でもって答える。
キーファは仕方ないな、と言いたげに笑って、ぽん、とアルスの肩を叩いた。少し寂しげな笑顔に、アルスは、自分のことを良く知る親友を見あげて、彼には分からぬように吐息を飲み込む。
しかし、それすらもキーファには軽く読まれてしまう。アルスは自分が思っているほど器用ではないし、表情が仮面でもない。
大丈夫、だとか、平気、だとか口にしていても、アルスは決してそうじゃない。そして、割り切れるような性格もしていない。だから、遊びとも割り切れず、ずっと気にし続けて、遊びが終った頃に、キーファに悪い事をしたと、後悔するのだ。
そんなこと、分かりきっていることなのだ。
だからキーファは、とりあえずそこに定位置を決めて座り込んだ。 こうなったら、とことんまでアルスに付合ってやろうと思ったらしい。そんな彼に、アルスは困ったような視線を向けた。自分が、キーファと遊ぶのが嫌だから、早く漁に出たいのだと──そう思われていないのか心配しているらしい。
それだけは絶対にないと、キーファですら言い切れると分かっていないのだろう。彼が自分と遊びに行く時、どれほど幸せそうな笑顔を見せているのか、どれほど楽しそうな笑みを見せているのか──分かっていないのだろうか?
本当に?
「なぁ、アルス? お前が焦る気持ちも分からないでもないぜ?」
ゆっくりと話し掛けると、アルスは困ったような微笑みを浮かべる。それは、キーファにわかるはずないよ、という表情だ。
そう思われても仕方あるまい。何せキーファは、捕まるのが嫌だからと、逃げ回っている張本人なのだから。
アルスは漁師になるのが嫌で遊んでいるのではない。キーファと遊び、目新しい事を探すのは確かに楽しい。けれど、父のように漁をしたいと思っている気持ちだって、本物なのである。
だから、いつまでたっても漁に行けないこの状況は、落ち込むのに十分なのである。
キーファはなんだかんだんと遊んでいたとしても、城に帰れば王になるため、例え無理矢理であろうとも勉強をすることになる。本人はそれが嫌でしょうがないようであったが。
でも、アルスはその逆なのだ。やりたいのに、やらせてくれない。父に、船のことや漁のことを聞いても、「そのうちな」としか応えてくれない。母は苦笑いをして、「もっとしっかりしないとね」と答える。
それを聞くたび、アルスはがっかりしたし、自分の不甲斐無さに苛立ちすら覚えた。
キーファにそのことをいった事はなかったけれど──、彼はきっと感じ取っている。
だから、キーファは慰めるように、アルスの肩を叩いた。
「けどさ、まだまだ時間はあるんだからさ……な?」
「…………………………。」
でも、その慰めの言葉が、奇妙に寂しげな雰囲気を宿している事に気付いて、アルスは無言で顔をあげた。
何かを悟ったような表情になるアルスに、キーファは自分ですら意識してなかった感情を、彼に読み取られたことに気付く。自然と、口元に苦笑いが浮かんだ。
「だから……幼馴染って、きっついよなぁ……。」
思わず零れた一言に、アルスが囁くように答える。
「………………キーファ、僕は、一緒にいるよ?」
苦笑をにじませる幼馴染の顔を見下ろす。微かな風に揺れる金の髪が、どこかさびしげに見えた。
「分かってる。でも、そうじゃないんだ──俺が望んでるのは、そういうことじゃないんだ。」
きっと、アルスには分からないだろう。そんな思いを隠して答えたキーファに、事実アルスは気付かない。
キーファは、自分が呟いた言葉の意味を図りかねるようなかれに、妙なくらい真剣な眼差しをして、続けた。
「俺は、お前みたいに、博愛主義じゃないからさ。」
「……? 僕だって、そんなんじゃないよ?」
一体何を言うのかと、不思議そうな顔から一転して不信げな顔になる。
けれどキーファはそれに答えないで、小さく笑った。
アルスは自分では分かっていない。彼は、奇妙なくらいの博愛主義者なのだ。
動物や子供に良く好かれ、さらに少し離れていたくらいでは絆が切れないと知っている。分かっている。そんな人物ばかりを友人に、知り合いに持っている。こんな小さな島が、世界の全てだから、一度別れてもいつか会えると想っているのかもしれない──なにせ、本当の「別れ」なんていうのは、死出の旅路以外にはないのだから。
それに付け加え、アルスは一日や二日どころか、一年も二年も会わなかった知り合いとだって、時間という距離がなかったかのような接し方が出来るし、それを良く知っている──物事の本質を見つめるから、それができるのだ。
けれど、自分は違う。離れていても友人だなんて、自分は言えない。 一年も二年も会えなくて、まるで変わってしまった知り合いに、「君は変ったんだね」と、笑顔で話し掛けることなどできやしない。
王になったら、こうして自由にできない。アルスのように、岸に残してきた全ての者に、待っていた時間を──へだてられた時間を何もなかったかのように接することなどできやしない。
アルスと離れて、どうして平気でいられるだろうか? アルスのように、離れていても友人だから、大丈夫、なんて言えるだろうか? 一日会わなかっただけで、その人とは2度と会えなくなるかもしれないという、不安……それは、彼にはまだわからない。
「…………ごめん、キーファ。僕には分からない。分からないから……ごめん。」
謝って済む事ではないのだと、自覚しながらも尚、アルスはそう言わずにはいられなかった。キーファが、自分のことで苦々しく思っているのは、嫌なくらい伝わったから、そう口にする。
キーファは分かっていたから、そう答えられるのが嫌になるくらい分かっていたから、苦笑を深くした。
アルスにはきっと分からない。離れている不安。一日離れているだけで、彼の態度が……友人の態度が変るかもしれないと思う不安。
何よりも、離れている間に、その人が二度と会えない世界に行ってしまうという不安を、彼は知らない。いや、知っているかもしれないが、それでも彼は「大丈夫」なのだ。
自分の立場が立場だから──毎日毎日、王子としての自覚を持てと言われているから、いつも不安を抱いている。
大丈夫だと、笑っている内で、明日も同じ事をしていられるだろうかと思ってる。
こうしている間に、アルスやマリベルが不意にいなくなってしまったらどうしようかと、思わずにはいられない時もある。それは、身近な人を失った経験からも来ているのかもしれないけど。
「俺は、いつも疑問に思ってるからさ。──自分がどうして王子なのか、とか、王になるしかないのか、とかさ。」
「キーファは王になれるよ。王に向いてると思う。」
足を放り出して座り込むと、アルスは顔を上げて瞬間に即答する。
それはきっと、彼もキーファが王になるに違いないと常々思っているということだ。
「皆そう言うんだよなぁ……俺はなりたくないのに。」
拗ねたような口調で膝にひじを突いて溜め息を吐くと、アルスが困ったように笑うのが分かった。
「しょうがないよ。本当のことなんだから。……でもね、キーファがどうしてもなりたいものが見つかったら、きっと皆賛成してくれるよ。
皆、キーファのこと大好きなんだから。」
分かっているように微笑むアルスは、確かにキーファ自身よりもキーファの回りの人間について詳しいだろう。
だから、きっとその言葉は真実に違いない。彼はいつも穏やかに、回りの人間の気持ちを思う人だから──彼の見抜いた気持ちは真実なのであろう。
けれど。 その答えは、キーファには楽しくない物であった。だから、なんとなく拗ねた気分で、アルスをいじめるつもりで呟く。
「──アルスは、俺と疎遠になってもいいのかよ?」
「………………は?」
目を据わらせて見あげると、唐突に言われたアルスは、きょとん、としてから、やがていぶかしげな表情を見せた。
「何言ってんの、キーファ? 疎遠って、何の話?」
分かるはずがないのだ、アルスには。
彼は遠く離れていても、友情は変わらないと、絆は変わらないと信じられる少年で、同時にもしそれで疎遠になったとしても、それを許せるような少年で。
まるでその人への感情が薄いような感覚を覚えるけれど、それは彼が相手のことを何よりも思っていることで。
分かっているはずの自分が、アルスにそう言う事は良くないと分かっていたけど、キーファは尋ねずにはいられなかったのだ。
アルスは、自分の唯一の友人で、誰よりも近くに居てくれる人だったからこそ──手放したくないと、思ったからこそ。
自分は、彼にとっての「またいつか会える人」になりたくなかったのだ。
アルスにはきっと分からない感情。近くにいても遠くに居ても、同じくらい大切だと言い切れる彼には、きっと分からない感情。
「…………そりゃ、キーファとこうして遊べなくなったら寂しいよ? でも、別に会えなくなるわけじゃないんだから。」
「俺は毎日でも会いたいわけ。」
「……………………………………キーファ、他にそういう告白する人、いないの?」
慰めるようなアルスの台詞に、キーファが睨むように答えると、また呆れたように聞かれる。
その目は、いい年してるくせに、と語っていた。そういう自分だって人のことを言えないことを、自覚してないあたり、アルスがアルスである由縁なのだろう。
「ばっか。そういう相手がいたら、お前と毎日冒険なんてしてないだろ。」
飽きれたように頬杖をつきながら言い返すと、アルスは軽く目を見開く。
「あ、そっか。」
すぐに納得したアルスに、なんとなく寂しい気持ちと、このやろう、という気持ちを同じに抱きながら、そうそう、と頷く。
きっと彼には分からない。自分の焦る気持ちが──「キーファは王のの跡を継ぐ」のだと信じているアルスの気持ちが、自分には分からないのと同じくらい、アルスにはキーファの気持ちが分からない。
それが、少し寂しくて──キーファは溜め息を飲み込むようにして、空を見上げた。
いつか……アルスは漁に出るだろう。頼りないと言われているアルスではあるけれど、彼が本当に頼りないわけじゃないことは、他の誰でもないボルカノが知っているのだから、それは必然なのだ。
………………──────アルスが自分の隣からいなくなる前に、自分の道を探したいと想っていると言ったら……アルスは、どう答えるだろう?
ちらりと横を向くと、アルスが、納得したようなしていないような顔で、軽く首を捻っていた。
そんな彼の頭を軽く叩いて、キーファは声をかける。
今日は、この話はもう終わりだ。……まだ、今は話さなくてもいい。まだ、今は二人で隣あって歩いて行けるはずだから。
「そろそろ出発しようぜ?」
「うん。」
将来の話なんて、ほんの少しの話だけでは終らない。互いに自分の未来に不安を抱いているのだから、余計である。
この話は又今度にしようと、暗にキーファが言っているのを感じ取って、アルスも小さく頷く。
早くしないと向うで遊んでいる時間がなくなると、キーファが立ち上ると、アルスも同じ様に立ち上った。
そして少しずれたフードを直して、先に立っているキーファに焦ったように走り寄った。
また彼の背中にある剣が見えて、ちょっと不思議な気持ちになる。
キーファにとったら、こうして剣を背負っているのも違和感がないのかもしれない。
けれど、今のアルスにはとても違和感があることだ。それもいつかは、違和感など無くなるようになるのだろうか?
「………………僕、漁に出れるかな?」
思わず口にしてしまったらしい。キーファは怒った様な、呆れたような表情を返して来る。
「いつかは出れるさ。──俺が生きたい道を見つけた頃には、さ。」
わざとらしく、「王様になること」を避けて口にした。
それに気付いてるのか、気付いていないのか、アルスはそうかなぁ、と自信無さげに呟いた。
「そうそう、……ま、半分は俺のせいだしなぁ……。」
ぼそり、と呟いたキーファの言葉を聞いていないのだろう。アルスは軽く首を傾げたまま、先を進むキーファの後に付いていった。
「アルスは漁師になることが夢なんだよな?」
「うん、そう。」
尋ねるだけ無駄かと思うくらい、即答された。
視線を向けると、アルスのもこもこ動くフードの頭が見えた。どうやら頷いているらしいと判断して、キーファは続ける。
「ま、俺と遊び呆けてると思われてる間は、漁に出れないと思えよ。」
「……………………………………………………。」
おそらくじゃなくても、それがアルスが漁に出れない理由だと、キーファは言う。
アルスはキョトンと瞬きして、それから自分を指差した後、尋ねるようにキーファを指差す。
人を指すものじゃないと、キーファはその指を握り込んで、頷きかえしてやる。
「じゃ、僕とキーファは、運命共同体?」
「ちょっと違う気もするけど、良く似ているな。」
うんうん、と頷いてやると、アルスは何も言わず、溜め息を零した後、
「それじゃ、仕方ないなぁ。」
諦めたように呟いた。
それを聞いて、キーファはどういう意味だと、目線を向けた。
「だって、キーファとこうして遊んでいるのは楽しいし、いろんな事を知れるもん。これは、僕にとっても無駄なことじゃないと思うし。」
「無駄なわけないだろっ! 俺達がやってるのは、新たな世界への旅立ちなんだからさっ!!」
燃える王子様に、そうだね、とアルスは笑った。
そんなアルスの顔を見て、キーファも笑う。
漁師の村であるフィッシュベルでは、アルスは頼りないと言われているのはキーファも知っている。
けれど同時に、アルスが頼りないわけじゃないと言う事も、キーファはよく知っていた。
皆、アルスがまだまだだから、ボルカノは息子を漁に連れて行かないのだと、そう思っているはずだ。
事実はそれとは少し異なるはずだ。
ボルカノは、アルスを自由にさせているのだ。彼が冒険に夢中になっているのをちゃんと分かっていたから。彼がキーファと漁との間で悩まないように、考えてやっているのだ。
キーファにすら分かる事なのに、アルスはそれが分からず、自分が悪いのだとそう信じ込んでいるらしい。
「それに、アルスは十分頼もしいよ。俺の大事な相棒なんだからさ。」
知らず微笑みを零して、キーファはいつもの冒険場所……キラキラ輝く入り江に向かって歩き出す。
アルスはキーファに認められて、少し嬉しそうに笑った後、彼の隣に立った。
同じ場所に向かう相手がいるということが、どれほど頼もしい事か、アルスは知っているだろうか?
それを認められる事がどれほど心暖まるか、キーファは知っているだろうか?
お互いに別人なのがとても悔しいと思う時もある。
「僕もね、キーファが居てくれて、すっごく嬉しいよ。ホントは、王様になったら嫌だな、ってちょっと思ってるくらい。」
「ちょっとだけ?」
「……内緒。」
不満そうに尋ねたキーファに、アルスは意地悪い笑みを見せる。
「内緒ってなんだよ、内緒って……。」
苦笑いするキーファに、
「だってそうなんだもん。」
答えてアルスは先に走り出す。
はたはたとフードがはためくのを片手で押さえながら、いつもの場所に向かって走り出す。
あの場所は、二人じゃないと開けれれないと──分かっていて、先に走り出す。
きっと、後を追ってきてくれると、そう分かっていたから。
今はまだ、二人で歩いて行けるから……。