朝日が昇るすこし前──目覚めて最初の日課は、身にありあまると思うほどの幸福を噛み締めること。
初めて「ここ」で目覚めた朝の、あの感動は、今もこの胸の内にある──どこかくすぐったいような、ジンワリとにじみでる幸せを噛み締めて……言葉にできないほどの、この幸福を感じた朝。
今日もそのときと寸分たがわないほどの幸福感を胸に抱きながら、彼は視線を落とす。
その先では、自分と愛する人の温もりで温められたシーツに頬を埋めながら、スヤスヤと寝息を立てる彼女の顔──知らず、頬と口元が緩み、微笑みが浮かんだ。
この胸の内から湧き立つような幸福を、言葉にすることが出来るなら、マローニよりもずっとすばらしい詩人になれるだろう。
窓にかけられたカーテンからは、まだ朝日が差し込まない。
朝日が地平線から顔を出し、この部屋を照らし出すまでの少しの時間──こうして、眠る彼女の顔を、誰にも邪魔されずに見つめることが、彼の一日の始まりだった。
微かなベッドのきしむ音にすら、彼女はすぐに反応して目が覚めてしまうから──だから、身じろぎ一つしないように気をつけながら、息を潜めるようにして間近に見下ろせる彼女の寝顔を、飽きることなく見つめる。
白い頬、乱れた前髪が落ちる額。
いつもキラキラと輝く紅玉のような双眸は、残念ながら見る事は適わないが、穏かに閉じられた瞼の奥で、彼女は素敵な夢を見ていることだろう。
──あの頃とは違う、ただ安らいだ寝顔。
彼女のこんな寝顔を見ていると、あの頃のことがウソのように感じてくる。
……いや、違う。
あの頃のことを思い出すと、今自分がこうして、彼女と同じベッドに入り、他ならない自分が、彼女の寝顔を見ていることが、夢のようだと思うのだ。
目が覚めると自分は、血なまぐさい洞窟の中に居て、目の前には翠の髪の少年が居て──キィンッ、と、耳に痛い剣が交錯する音が響いていて。
そして、その彼の肩越しに、亜麻色の髪の娘が飛び出すのが見えるのだ。
目覚めた瞬間、目の前で繰り広げられている戦闘に、自分が敵に眠らされていたのだと瞬時に悟り、そして己もまた参戦する。
……姫様が大事なときに、どうして私は、あのような幸せな夢など見ていたのだろうか、と──悔しさを噛み締めながら。
「……………………──────。」
あの頃のことを思い出すと、今でも時々、むしょうに怖くなることがある。
傷つかない日なんて、なかった。
城にいたころは、なんだかんで細かな傷をしょっちゅう作っていた姫であったが、旅のさなかにあっては、「細かな傷」ですむことのほうが少なかった。
千切れた袖、ボロボロになったブーツ、マントは引き裂かれ、秀麗な頬には真っ赤な線が一本。
擦り切れたグローブで乱暴に頬をぬぐえば、その赤い色が白い頬を半分以上汚していた。
傷ついていたのは、彼女だけじゃない。
大切な仲間達だって、毎日どこか傷だらけになっていた。
美貌と肉体が売りのはずの踊り子までもが、もしかしたら生涯残るかもしれないような深い傷を投げ出して、両手の平の間に燃える球を生み出しながら、癒す暇があったら、フォローに回れと叫んでいた。
──そういう、戦場だった。
心がすさんだわけじゃない──もちろん、そういうこともあったけれど、そうなるたびに仲間達の心遣いや、笑顔や、たわいのない日常の会話で癒されていった。
その中で、どれほど彼女の笑顔に助けられただろうか?
そういえば姫様はきっと、「あなたの笑顔で私はずっと、助けられてきた」そう言って……笑ってくれるのだろう。
今も昔も、いとしくてならない、明るい笑顔で。
──確かに、いとしい笑顔だと言う意味ならば、今も昔も、意味は違いはしないだろう。
けれど確実に、姫様が浮かべる微笑みは、旅に出る前と出た後では、意味が違えた。
姫様は、無邪気に笑うことが無くなった。
ただ純粋に笑いながらも、それでもその笑顔は、昔のようなまっさらな輝きは無くなったのだと思う。
その笑顔はいつも純真で、明るくて、太陽のようにまぶしいものであることには変わりないけれども。
彼女はそれでも、人の汚い部分を知っている。
彼女はそれでも、戦いで血を流すことを知った。
彼女はそれでも──誰かを失うことの意味を、そして失ったが故に憎む心を。
何よりも、「ころしてくれ」と願うほどの醜悪を、知った。
こうして寝顔を見下ろせば、年よりもずっとあどけなく、無邪気で純真そのものに見える。
そう、昔、まだ自分が身分も何も知らなかった頃──姫様と一緒に出かけたピクニックで、揃って眠り込んでしまったときの、彼女のあどけなく幼い寝顔と、何も変わらないように見える。
でも、見えるだけ。
彼女は、数多くの人と出会い、悲しみを知り、喜びを知り、人の悪意を知り、人の愛情を知り、親の愛を知り、力及ばないむなしさを知り。
諦めない強さと、前を見据える強さと、自分の中の弱さを受け入れることと、誰かに頼ること、甘えること、信頼することを知り。
そうして。
人を愛することとを、知った。
「…………………………。」
カーテン越しに薄く入り込みはじめる朝日に、ほんのりと照らし出される白い頬。
誰もが口を揃えて言う、「愛らしくて」「可愛くて」「綺麗」な顔。
けれど、それは、彼女の内側からにじみ出る、綺麗な光を補助する役割りにすぎないと思う。
彼女の全てが、自分を捕らえて離さないのであって、彼女の外見だけが綺麗なわけじゃない。
そ、と指先を伸ばして、彼女の頬に触れる。
その滑らかな頬の温もりに、なんだか微笑みが零れた。
それと同時、ふいにあの最後の戦いが、脳裏に──前進によみがえってくる。
灼熱の戦い。
体を蝕む痛みと疲労感。
苦しみと湧き上がってくる闘志。
負けたくないと、そう思いながら見上げた先──同じように立ち上がろうとして、ただまっすぐに前を見詰める仲間達。
貫く達成感。
苦しい思いを吐き捨てて、それでも立ち上がるのは、ただ未来を信じたいからなのだと──叱咤にも似た声で、そう叫んだ少年。
サントハイム城から始まった旅は、色々なことがあった。
一言ではとてもではないが表現しきれないくらい、本当に、色々なことが。
姫様が自分を信頼してくれなかったこともあったし、ひたすら背中に打ち寄せる孤独に身を震わせたこともあった。
それでも結局最後には、いつも自分ひとりではないのだと、そう思うことばかりだった。
みんながみんなの背を支え、みんなで前を見つめていた。
その中、誰よりもその背を支えたと自負している相手は──今、腕の中に居る。
たったひとりの、姫君。
「わたしはやっぱり……幸せ者なんでしょうね……。」
小さく囁いて、クリフトは目元を緩めて、姫の寝顔を見つめた。
その呟きに、フ、と彼女の瞼が揺れるのを感じた。
声になど出したら、彼女が目覚めるのは分かっていたというのに……苦いような、嬉しいような、そんな笑みを浮かべながら、クリフトは彼女の頬にあてた掌で微かに上向かせて、
「すみません……起こしてしまいましたか?」
甘い声で、そう囁く。
口元と目元に隠しきれない喜びと幸せの色を滲ませたクリフトの、優しくて甘い色の宿った声に、小さなうめきにも似た声が返って来た。
「…………ん…………。」
キュ、と形良い眉が寄せられ、それから彼女は、ゆっくりと瞳を開いた。
震える睫の奥から覗く、寝起きでボンヤリとした赤い瞳。
焦点の定まらない瞳が、一瞬にして覚醒の色を宿した。
かと思うや否や、彼女はそのままパッチリと目を瞬かせて、自分の顔を覗きこんでいるクリフトを見上げると、軽く目を見開いた後、
「…………おはよう、クリフト。」
ふわり、と目元を緩ませて、笑った。
「はい、おはようございます、アリーナ。」
同じように微笑みで返すと、アリーナは小さく頷く。
その拍子に、ハラリと零れた亜麻色の髪が、彼女の頬を軽く覆った。
クリフトは頬に当てていた掌で、ソ、と髪を払いのけると、それを耳元にかけてやりながら、
「──ゆっくり眠れました?」
顔を傾けるようにして、自分が触れたばかりのアリーナの耳元に唇を寄せた。
囁きながら、耳タブを軽く食むようにしてキスすると、くすぐったいのか、クスクスとアリーナの唇から吐息じみた笑い声が零れた。
「うん、良く寝たわ。
なんだかこれだけ寝たのは、久し振りって言うくらいよ。」
そのままクリフトの口付けが、頬に滑り落ちるのを甘受しながら、彼女は眠そうに目を閉じる。
アリーナのその仕草に誘われるように、右の瞼にキスを落とす。
「昨日も、そう言ってませんでしたっけ?」
からかうように口にしながら──けれどその声にも、甘い色が宿るのを止められなかった。
──幸せすぎて不安を覚える。
いつも目覚めた瞬間は、そう思いながら彼女の寝顔を見つめているのに、彼女がその双眸を開いた瞬間、今が幸せならそれでいいのだと、そう思ってしまう。
いつまでもこうして2人で、同じベッドの中で、手を握り合い、何十回となくキスを交わしていけたらしい、と。
「昨日もそうだったけど、今日はもっと寝れたのっ。」
んもぅっ、と、目じりをほのかに赤く染めて、軽く唇を尖らせるアリーナに、誘われてるようだと笑いながら、ついばむようなキス。
唇に落ちたキスに、アリーナは小さく笑って、胸の前で合わせていた手を、ゆっくりと伸ばして、クリフトの背中に回した。
ギシ、と小さな音がして、クリフトの体が少しだけ近づく。
「毎日、少しずつ……平和に近づいていく音がする。」
淡く微笑んで、アリーナは頬を彼の胸元に押し付けた。
クリフトは何も言わず、そんな彼女の髪にキスを落として、自分の腕をアリーナの腰に回した。
「ほら……クリフトの音がする。」
小さな笑い声をあげながら、そう告げるアリーナの声が、直接クリフトの胸に響いてくる。
「……アリーナの音も、しますよ。──すごく、大きく聞こえますね。」
ほら、と、掌を彼女の胸に当てて囁けば、アリーナは微かに頬を赤く染める。
「そ、れは──だって……。」
それから彼女は、モゴモゴと口の中で呟いたまま、クリフトの肩先に額を埋める。
吐息のような声が、ボソボソと肌に向かって呟かれるのに、クリフトは困ったように眉を寄せた。
「アリーナ?」
しっかりとしがみつくアリーナの耳に呼びかけるけれど、彼女はフルリと首を振るばかりで、こちらに顔を向けてくれなかった。
「アリーナ──顔をあげてください。」
お願いですから、と囁いて、シーツに広がる亜麻色の髪を指先で梳く。
さらりと心地よい感触を残して、髪はサラサラと指先から零れていった。
その髪を見つめていても、ふと思い出すのは、あの頃のことばかり。
──辛くて、苦しくて、悲しくて……そんなどうしようもないことばかり思い出される「苦難の旅」だったけれども、それでもあの中で、自分たちは生きていた。
互いに心を通わせ、お互いに何が一番大事なのか見つめなおし。
そして、手を取り合うことを、決意できるほどに、互いを求めることができた。
──あの旅がなかったら、私は、全身で彼女を望んでいると思っていたとしても、その思いを貫き通したいなどと、考えることはなかっただろう。
取り合った手を、二度と離したくないと思うほど、強い激情が自分の中に眠っているなどと、気づかなかっただろう──決して。
「…………だって。」
アリーナはクリフトの肩に頬を摺り寄せながら、キュ、と唇を噛み締める。
「アリーナ?」
辛抱強くアリーナの髪を梳きながら──あの当時は、いつもアリーナの髪を梳いて結わえるのは、マーニャとミネアの役だった。
アリーナの髪を見事に結わえる2人の姉妹の腕に、感激を覚えたユーリルが、「僕もやりたい!」と言った瞬間、「王族の髪に触れることが出来る男性は、夫のみですから。」と嘘八百で牽制したこともあった。
──……まぁ、今の状況を思えば、多分それは、間違ってない──そう、アリーナの髪に限って言えば。
そのまま、サラサラと手に触れる髪の感触が心地よくて、何度も掌で梳いていると、不意に、
「クリフトの意地悪。」
肩口に、そんな可愛らしい文句が零されたかと思うやいなや、アリーナがカップリとクリフトの肩に噛み付いた。
「──……って、姫様っ!?」
驚いて、アリーナの腰に回していた手を振り解き、彼女の肩を掴んで引き離すと、狼狽したクリフトを見上げて、アリーナは、あっ、と眉を吊り上げた。
「クリフトったら、まだ私のことを姫様って言う癖、直ってないわよ?」
「……あ、そ、それはすみません、つい驚いたので──って、そうじゃなくってですねっ。」
慌てて頭を下げて謝り始めるクリフトに、アリーナはニンマリと目元を緩めて微笑む。
その彼女の顔に、してやったり、の色を認めたクリフトは──あぁ、と甘い色の混じった溜息を一つ、零した。
そしてそのまま、両手を顔の横に掲げると、
「参りました、アリーナ。……私の完敗です。」
苦い笑みを顔に貼り付けせた。
そんなクリフトに、それはどういう意味よ、とアリーナは再び軽く口を尖らせる。
子供じみた顔を見せる姫に、クリフトは甘く微笑みながら、一つ、頷いて。
「私はやっぱり、アリーナには敵わないなぁ……ってことです。」
いとしげに、彼女の頬に手の平を当てた。
そのまま、クイ、と顔を自分の方に向けさせて、クリフトは自分を見つめるアリーナの赤い瞳を見下ろす。
大きな瞳いっぱいに、クリフトの顔が映っている。
彼女の目に映る自分は、いつも微笑んでいる──嬉しそうに、幸せそうに。
「クリフト?」
アリーナは不思議そうにそんな彼を見つめていたが──彼があんまりにも幸せそうに笑ってくれるから、つられたようにホロリと口元をほころばせて笑った。
それから、アリーナはクリフトの頬に手を当てると、軽く目を見開く彼の瞳に映る自分の顔を見上げる。
彼の優しい瞳の中で、私がニッコリ笑ってる──とても、幸せそうに。
──あなたの瞳の中に映っている自分が、一番綺麗で幸せそうに見えるといえば、あなたは笑うかしら?
「私はいつも、あなたに負けてばかりだと思うわ。」
手の平を伸ばして、クリフトの頬に手を当てた。
驚いたように自分を見下ろす彼に、アリーナはソ、と首を傾けるようにして、唇に、キス。
チュ、と小さく音を立てて離れる唇を、名残惜しく思いながら、
「おはよう、クリフト。」
「………………おはようございます、アリーナ。」
笑いかけると、すぐに彼からの「おはようのキス」。
唇でそれを受け止めながら、彼の手が、アリーナの手に重なった。
手を握られて、うっすらと開いた瞳の先で、やっぱりクリフトは幸せそうに笑っている。
それが嬉しくて、アリーナは再び彼の体に抱きついた。
胸いっぱいに空気を吸って、毎日思うことを、今日もまた言葉に出して続ける。
「明日も一緒に、朝が来ればいいね。」
「……はい。」
たおやかな体を抱きしめて、クリフトは誓うように彼女の頬に、鼻の頭に、額に──触れるだけの口付けを落として、その優しい香のする髪に、顎をうずめた。
彼女のぬくもり、彼女の香、彼女の感触。
この腕の中にあるすべてが──私の、幸せ。
彼女のいない人生なんて、最初から、考えられないようにさせておいて──もうこれ以上、どうしようもないと思うくらいに追い詰めてくれるのに。
「だいすき、クリフト。」
内緒話をするように、こっそりと耳元にささやく彼女の愛らしさに、クリフトはクシャリと顔をゆがめるようにして笑った。
──あなたは本当に、昔から……私を骨抜きにさせる名人です……アリーナさま。
「はい──愛してますよ……アリーナ。」
大切に、幸せに……噛み締めるように。
この人の名を、つむぐ────。
FIN
年賀状ありがとうございますSSだったブツ。
クリアリ結婚後のラブラブ〜。
とあるサイトさまにつられるように結婚後を書いちゃったというものです。
ふふふ……いちゃいちゃ度では、大敗してマス……。
私の中では、結婚後は常にこんな感じです。二人の間で子供が寝ていても、子供を窒息させる勢いで近づいて抱き合って寝る……みたいな。
クリアリは片思いの期間が切なくて寂しい分だけ、両思いになったらラブラブ〜、が基本ですよね!