おさわがせ









 最近、発展してきたことで有名な山奥の小さな村──森の中に開けた村に、その家はあった。
 村の出入り口近くに建つ家は、この村の中で一番古い家ではあったが、建物もまだ真新しく、この村が最近出来たばかりであることを示しているように思えた。
 その家のドアから、一人の娘が出てくる。
 しなやかな足にピッタリとしたパンツスタイル。
 ノースリーブのシャツから覗く健康的な右に、大きめのバスケットを掛けている。
 先ほど焼きあがったばかりのパンと、ハム、ゆでた卵が入ったそれを、しっかりと抱えながら、彼女は家のドアを閉めた。
 この村が出来たばかりの頃──村とさえ呼べないような様相であった頃は、鍵をかけるなんて概念はなかったけれど、最近はそういうわけにも行かない。
 旅人が通りかかることがないのは昔からだが、この数ヶ月ほどは、毎日大きな荷を運んだ荷馬車が往復する光景を見ることが出来た。
 それというのも、この村の北──聳え立つ山脈に、大きな洞窟を掘ろうという計画が出来たからであった。
 エンドールの商人・トルネコと、バトランドの国王と、ブランカの国王とが力を合わせて行っている、一大事業である。
 山の中にトンネルを通すことが出来れば、バトランドへ行くのに船で大回りする必要がなくなる。
 その経過で、この村も開けて発展していくことになるだろうという予測に、少しだけ寂しい思いと、反対する気持ちがないわけではなかったが──旅の最中、各国の情報がまるで行きかっていない事実を知ってしまった身としては、計画に喜んで賛成することが一番だと良く分かっていた。
 今は平和になったけれど、これからもそうだとは──限らないのだ。
 彼女は、鍵をかけながら、小さくため息を零す。
 長い……長い旅を終えて、ようやくこの生活にも慣れてきた。
 幼い頃から続いた鍛錬の日々も、放り出された旅の生活も、何もかもが遠く感じる程度には、「穏かな日常」が、穏かに感じられるようになってきていた。
 はじめの頃は、穏かで落ち着かない日々が続いたけれど、それもまた、村を再建するという目標の元、落ち着かないから、活気良く動く、に意味が変えていくことが出来た。
 村を再建しようと、そう親友と誓い合ってもう2年──まだ村は、おぼつかないままだし、出来たばかりの畑の収穫だって満足が行くようなものには程遠い。
 それでも、この村のために支援をしてくれる人たちが──世界中に居た。
 おかげで彼女は、今日もさんさんと輝く日差しを受け、それを見上げる余裕を持つことができていた。
「ぅわー……すっごく綺麗な空!」あげた視界イッパイに広がるのは、開けた森の隙間から見える青い空。
 思わず立ち止まって、彼女はソレを見上げた。
 それは、生まれたときからずっと見慣れたいる空だった。
 深い森の合間──ぽっかりと開けた広場のような場所に、ひっそりと建つ片手で数えられる程度の建物。その上に見えた、葉の間にうずもれるような限られた空。
 昔、空はそれだけなのだと思っていた。
 世界は、それだけなのだと、そう信じていた。
 けれど、当時と同じように、綺麗な青色の空、と見上げても、彼女の脳裏に描かれるのは、親指と人差し指だけで囲まれてしまうような小さな青空ではない。
 どこまでも──遠く遠く、地面と繋がるほど遠くまで連なる空の光景だ。
「久し振りに──気球に乗りたいかなぁ。」
 顎を逸らして空を見上げながら、彼女はそう小さく呟く。
 最後の旅を終えて、一人この村に戻ってきた後──奇跡が起きて、喜びの再会があって。
 そうして、彼女は仲間達と一緒に、自分達が旅をしてきた気球を仕舞いこんだ。
 それは今でも、彼女の再建された自宅に仕舞いこまれてはいるが──とてもではないが、己の手でもう一度膨らまそうという気は起きなかった。
 友に会いに行きたいのなら、便利な移動呪文がある。
 それに、一人で気球を膨らませるのは、相当の苦労が必要となる。時間や労力を考えると、とてもじゃないが乗り気にはなれなかった。
「ま、このアリーナからの手紙でも見て、また考えてみようかな?」
 グルリ、と見回す──森の村の入り口にほど近い自分の自宅から先……昔、滅びた村の跡を。
 そこには、当時のあの悲惨な光景を残す場所はひとつとしてなかった。
 ただ、昔と同じように、村の入り口の正面に湖が美しい色をたたえて広がり、中央に大きな花畑が自然のままに広がっている──それだけは、昔を思わせる。
「こういう日はやっぱり、外でお昼ご飯を食べるに限るわよね。」
 彼女は、バスケットの中に封がされたままの手紙を押し込んで、村の中へ行く道とは正反対方向へと歩き出した。
 目指すは、最近お気に入りになった場所──村から南へ歩いたところにある、小さな湧き水の岩場だ。
 木漏れ日が心地よく、おいしい湧き水にもありつける、最高の昼食場……と、彼女はそこをそう命名していた。
 村を出ると、木々の影が色濃く地面に落とされた。
 その中を慣れた様子で歩いて、彼女は獣道へと足を踏み出す。
 ガサリ、と音を立てて草を掻き分けると、後はそれほどたいした苦労もなく岩場に到着した。
 持ってきたバスケットを岩場の横において、中からコップを取り出す。
 先日、村の若者が彼女のために作ってくれた、木をくりぬいただけの素朴なコップだ。
 少し形の悪いソレが、彼女は手作りの雰囲気がして、大好きだった。
 コップの中に湧き水を掬い取り、それを手にして湧き水の傍にある、ちょうどよい大きさの岩に腰をかける。
 足を伸ばして、バスケットを真横に引き寄せ、娘はバスケットの中から封されたままの手紙を取り出し、封を外した。
 今朝、北の山に物資を供給しに行く馬車が、届けてくれたばかりの手紙だ。
 封筒の裏には、サントハイムの王家の紋章が刻まれた封蝋が落とされていて、紙は手触りの良い上質紙──開いた手紙には、懐かしい文字で自分の名前が書かれていた。
「だから、気球なんて乗りたくなったのかな?」
 クスクスと小さく笑いながら、その手紙を膝の上に置きなおす。
 今度はバスケットの中からパンとハムとゆで卵を手に取り、共に入れてきたパンナイフで、ス、とパンに切れ目を入れた。
 ふっくらとした白いきめ細かなパン生地に、ハムとゆで卵を挟み込む。
 そして、それを右手に、左手に手紙を持ち上げながら、口を大きく開いた瞬間だった。
 ガサガサ……っ。
 すぐ背後から、音が聞こえたのは。
 ハッ、と、彼女は食べる手を止めて、背後を振り返る。
 もし、誰かがココに来ただけならいいが──村を再建して以来、滅多になかったことではあるが、モンスターがたまに襲ってくることが、ないわけじゃない。
 自分は武器がなくても、魔法もあるし、このあたりに出る程度の敵なら素手でも充分勝てる。
 静かに立ち上がり、茂みを──先ほど自分が来た獣道を睨みつけていると、
「……はぁ……っ。」
 小さく──息を吐く声と共に、人影が茂みを掻き分けてきた。
 低い……心地よいテノール。
 その声の主を認めて、娘は大きく目を見開く。
 そんな彼女に、相手は木の枝で出来たらしい擦り傷のついた整った容貌を、ニッコリとほころばせると、
「おいしそうですね。昼食ですか?」
────まるで、つい今朝別れたばかりのような、穏かな挨拶を口にしてくれた。
 ますます娘は目を丸くして、そんな青年を見つめる。
 以前よりも軽装の旅服に、サラサラの紺碧の髪。
 ニッコリと微笑む顔は、慈愛と優しさが充分に含まれたもの。
 その──顔に、唖然と娘は口を大きく開いて、彼の名を叫んだ。
「──…………クリフトぉっ!?」
「はい、お久し振りです、リラさん。」
 茂みから完全に姿を現して、青年は娘に向かって笑いかける。
「ど、どうしてこんなところに現れるのっ!?」
 思わず、右手のパンを握り締めて、パクパクと口を開け閉めしてしまう。
 だって、彼は今、サントハイムで司祭の下で戦後──という表現はおかしいのだが──の復興のために頑張っているのだと、この間来た手紙にも書いてあった。
 とてもではないが、サントハイムを後2、3年は出れそうにないと、アリーナも嘆いていたばかりのはずだ。
 あまりに驚いた様子のリラに、クリフトは申し訳なさそうに苦笑を刻んだ。
「すみません、驚かれました? 村に向かう途中で、茂みに入っていくリラさんを見かけたので、追ってきたんですけど……。」
 その言葉を聞いて、ますますリラは目を大きく見開く。
 そんな彼女へ、クリフトはゆっくりと歩み寄ってきて──少し手前で足を止めた。
「えっ、えっ、えっ……ほ、本物のクリフトっ!? さ、触ってみてもいい!?」
 いくら何でも、こんな山奥の村に、マネマネが現れることはないと思うのだけど──もしかしたら、シンシアのイタズラ、なんていう可能性もある。
 そう、慎重に……何せ時々シンシアは、思い出したかのようにイタズラをしてくれるのだ。もし、本当にこの目の前の「クリフト」が、シンシアが化けたものだったりしたら──絶対、一ヶ月は口を利いてやらない。
 そんな覚悟をしながら、キュ、と唇をゆがめて見上げた先──誰にもまねできないような、甘いような、優しいような……そんな微笑で、クリフトがゆっくりと頷いた。
「どうぞ。」
 掌を差し出してくるクリフトに、リラは手を差し出した。
 そして、しっかりとその手を握り……そのまま、マジマジと彼の顔を見上げる。
 ニコニコと笑うクリフトの顔は、本人そのもののように思えた。
 クリフトの手を離し、そのまま手を彼の頬に当てる。
 少しやつれたのか、頬骨が掌に当たる。シットリと掌に吸い付くような皮膚の感触の中、ザラリと感じるのは、多分寝不足で肌が荒れているか何かなのだろう。よく見ると、目の下にうっすらとクマが出来ていた。
 忙しくて寝不足って言うところが、本物のクリフトみたいだ──いや、旅の最中、モシャスを使うマネマネに非常に困らされた身としては、モシャスで変化した仲間も、本物ソックリだったと言うことは分かっているのだけど──だからこそ、違いが分かることもある。
 少しの表情や、雰囲気だけは、ごまかせないのだ。
「わー……本当に本物だ。」
 間近で微笑むクリフトの、穏かな微笑みに、リラは彼が本物のクリフトであることを認めた。
 それと同時に、少し拗ねたような気持ちが涌いてこないわけでもない。
 思わず、ムッ、と眉を寄せながら、彼の顔から手を離した。
「ビックリした。来るならそう一言連絡をくれればよかったのに!」
 そうすれば、ブランカまで向かえに行ったのに、と。
 そう腰に手を当てながら零すリラに、クリフトはすまなそうに少し目線を落とす。
「すみません──急に決まったことなんですよ。」
「そうなの? それじゃ、ブライさんと一緒? アリーナは?」
 急に決まって急に出発。
 その言葉は、まさにアリーナの得意とするもの。
 きっと今日も、アリーナのお供をしているに違いない。
 そして、ブライもしぶしぶながら、ブランカまでルーラをしてくれたのではないだろうか?
 そう憶測をつけて、リラは、湧き水の傍にクリフトを導きながら、小さく笑った。
 驚いて立ち上がったせいで、アリーナの手紙がヒラヒラとバスケットに引っかかって揺れていた。
 サントハイムからこの山奥の村まで、手紙が着くまでには時間差というものが存在する。手紙の配達人の全てが、「ルーラ」を使えて、それで配達できるわけではない以上、仕方がないと言えば仕方がないのだが──今回のコレも、北の山の物資調達を待っていて、ずっとどこかの倉庫に眠っていた可能性もあるのだ。
 さすがに、一ヶ月前にアリーナが書いた手紙、なんてことはないだろうが、ソレに近いような気がする。
 アリーナの手紙が着いた日に、アリーナが到着……なんて、まさにお話の中の世界の出来事のようだ。
 そう思いながら、リラはアリーナからの手紙を拾い上げる。
 そして、ソレを丁寧に封筒の中に仕舞いこみながら、クリフトを振り返る。
「……クリフト?」
 促すような言葉に、はっ、としたような顔で──クリフトは小さく微笑む。
 どこか、寂しそうな……何かを含んだような微笑に、リラは不安を覚えて、かすかに眉を寄せる。
「姫様は、サントハイムにいらっしゃいます。──今日は、私一人なんですよ。」
「そうなの? クリフトが一人でココに来るなんて珍しいのね?」
 思わずそう口にして──それと同時、クリフトが見せた微笑を思い出し、もしかしたら聞いてはいけないことだったのだろうかと、リラはあわてて先を続ける。
「まだ、宿を取っていないなら、私の家に泊まって行って? ──あ、もしかして、すぐに帰るの?」
 そうだ──その可能性もある。
 何かの用でココへ来て、そのまま帰るだけなのかもしれない。
 もしくは、ブランカまで所用で来たついでに、寄ってくれただけなのかもしれない──そう、前にも一度あったことだ。
 そのときは、ブランカの神父に会いに来て、そのついでに顔を覗かせていってくれた──あの時も一人できてくれて、すぐに帰って行ってしまったのだけど、ブランカにいくこと自体をアリーナに秘密にしていたらしくて、後でこっぴどく「抜け駆けだわ!」と、怒られた、と手紙で教えてくれた。
 今回もそうなのだろうかと、首を傾げるリラに、いいえ、とクリフトがかぶりを振る。
「教会に泊まりますから、大丈夫ですよ。。」
 ということは、とんぼ帰り、ということはないわけだ。
「そうなの? 残念だわ。
 教会ってことは──ブランカよね?
 良かったら、ルーラで送っていくよ?」
 クリフトのことだから、ブランカの教会に所用があって来たに違いないだろう。
 そう予測して──それなら、夕飯まで一緒に過ごして、ブランカまでルーラで送っていく、という手もあるかと、リラは考える。
 せっかくココまで訪ねて来てくれたのだ。少しだけ話をして帰らせてしまうのも申し訳ない。
 久し振りに、誰かを招いての夕食会になるだろうかと、そう微笑を零しながら顔を上げるリラに、クリフトは小首を傾げて小さく笑んだ。
「いえ、ここの教会ですよ。
 ──出来たのでしょう? 教会。」
 やんわりと微笑まれて、リラはつられるように頷き──すぐに、眉をひそめてクリフトを見上げる。
 そう、この村にも教会はできた。
 本当に小さい村なら、別に教会は無くてもいいのだが──ある程度人が集まりはじめると、やはり教会のような施設は必要となってくる。
 それほど大規模の町でない限り、医者や薬剤師なんてものは存在しないから、その分だけ教会が必要となってくる。
 人が増え始めたこの村で──北のトンネル堀りの人たちに万が一のことが合った場合のことも考えて、この村にも教会を置くように考えたのは、リラであった。
 旅の最中、教会の存在にどれほど助けられたか、彼女も良く分かっていたので、それは必要だろうとそう決断したからなのだが──。
「あ……うん、出来ていることは、出来ているんだけど……。」
 困ったことに、教会は本当に、出来たばかり、であった。
 しかもその上、
「──……まだ、なり手になってくれる人も居なくて……神父さんも居ないのよ……閉鎖同然だし。」
 うつむいて、そう小さく呟く。
 発展途中の村に、教会は必要不可欠だ。
 家を作る途中で怪我をする人も居る。
 新しく畑を作ろうと、畑に入った場所で、モンスターに襲われることもある。
 そんなとき、癒し手として走るのは、いつもリラの仕事だった。
 教会が出来れば、その仕事も減るだろうし、薬草の類の調合なども、リラが教えることは無くなるだろうとそう思っていたのだが──教会に新しい神父を依頼してすでにだいぶになるが、まだココに派遣されては来ない。
 どこの地でも、新しい町や村が出来ていて、この山奥の村まで手が回らないのだと、そういわれてしまえば納得するしかない。
 しかも、ほかの町や村とは違って、この地にはリラが居る──癒し手であり、戦士である彼女が居る限り、ほかの町ほど切羽詰まっている状況ではないのだ。
 そのこともあってか、ずいぶん後回しにされているような状況だった。
「でも、怪我をする人も少ないし、何か在ったときは私が駆けつけるようにしているから、大丈夫なのは大丈夫なのよ?」
 愁れいた表情を宿しながらも、クリフトも神につかえる身であることを思い出し、気丈にも笑ってみせる。
 そんな彼女の緑色の癖毛に、くしゃり、とクリフトは手のひらを落とした。
 不思議そうに自分を見上げるリラに、彼はニッコリと微笑んで、穏やかに頷く。
「ええ、分かっています。──ですから来たんですよ。」
 その微笑を見上げて、リラはますます眼を丸くした。
「……? 誰もいないから……って……し、忍び込むの!?」
 確かに誰もいないけど、施設は出来ているのだから、使えると言ったら使えるけど──さすがにソレはどうかと……っ。
 そんな風に困ったように目じりを落とす娘に、クリフトはこらえきれずに小さく噴出した。
「クスクス──そうではなくて……。これからしばらく、お世話になりますね、リラさん。」
 手のひらを口元に当てて──そう、クリフトは笑った。
 とても楽しそうに。
「────────………………ハイ??」
 意味がわからなくて──リラは、呆然とクリフトの顔を見上げる。
「え……って…………それ、どういう……意味?
 クリフトって、今、忙しいん……だよね?」
 そうだ……確か、前にきた手紙にもそう書いてあった。
 アリーナも、忙しいから体を動かす暇もなくて、腕がうずいてしょうがないと、愚痴めいた手紙が来ていたこともある。
 ブライからは、近況報告だと言うどこかいかめしい手紙がきた──彼によると、アリーナが世界中を旅した時に作った人脈を元に、アリーナ自身がサントハイムの外交を担っているのだと言うことだった。
 世界中を股にかけて、引退するつもりだったブライをこき使い、アッチへルーラ、コッチへルーラ、な日々を送っているとかどうとか。
 そしてクリフト自身も、そのアリーナのフォローや彼女が行く先の下調べなどをしているのだという。アリーナ付きのお付きの神官兼相談役に任命されて、神官とアリーナの右腕をと、非常に忙しい日々を送っているはずなのだ。
 おかげで、アリーナは世界各地に散った仲間たちに良く会うらしいが──さすがにその各地の拠点である地点とは程遠い位置にある、この山奥の村に来てくれることはめったになく、ほとんどが手紙でのやり取りになっていた。
 だから、詳しい話はリラもあまり知らないのだけど──三人とも、忙しい、ということだけは頭に焼き付いていた。
 その最中、まさかクリフトがそんなアリーナを──忙しい彼女をほうってくるはずはない。
 だって、クリフトの「アリーナ命」は、当時から見ていて分かるほどだったのだ……そう、仲間たちから鈍い、疎い、と、怒られ続けたリラですら分かるほどに。
 だから、そのクリフトがココの教会を任されるなんて──ありえるはずがないのに。
 オズオズと聞いたリラに、
「ええ……忙しいんですけど────でも、ちょうどよいお話だったので……申し訳ないとは思ったのですが、逃げるのに使わせていただいたんです。」
 しれっとして──クリフトは笑った。
「…………逃げ…………?」
 一瞬、リラの頭がフリーズする。
 目の前のクリフトからは、一番想像に遠い言葉だと、どこか理性を保っている片隅で思った。
 聞き間違い……じゃないのかな、と──そんな期待に戸惑いの眼をクリフト見せたのだけど、クリフトはニッコリ微笑みながら、あっさりとリラに頷いて見せた。
「ええ、逃げてきたんです、サントハイムから。」
 きっぱりはっきりと、そう口にしながら。
 ──その、笑顔が。
「……………………え、え…………えぇぇぇぇぇーっ!!!!???」
 問い詰めることが出来ないくらい、なんだか……すごく、切羽詰って見えて。
 ただリラは、悲鳴を上げることしか、できなかった。

















「────で、あんまりにも驚いたから、どうしてサントハイムから『逃げて』来たのか、聞くのを忘れたの?」
 クッキー生地を練りながら、呆れたように聞いてくるシンシアに、コックリと頷いて、リラはコーヒーを啜った。
 クリフトとの劇的な再会の後、昼食を食べるのも忘れて、クリフトを教会に連れて行ってあげて、そのままの足で自宅に戻ってきたのだ。
 するとすでに朝早くから畑に行っていたシンシアが帰ってきていて、クリフトが教会に来ていることを伝えると、シンシアは自慢のクッキーを彼に持っていこうと、早速クッキーを作り始めたのである。
 その彼女の後姿を見ながら、リラはことの次第を説明し──はぁ、とコーヒーがまだ半分以上残っているマグカップをテーブルの上に置いた。
「クリフトが『逃げる』なんて、よっぽどのことだと思うの……。
 そして、クリフトにとってのよっぽど、って言ったら、十中八九、アリーナのことだと思うのよ。」
 リラはテーブルの上に顔を伏せながら、先ほどのクリフトの様子を思い出す。
 別段、切羽詰っているような様子は無かった。
 旅の最中、クリフトが思いっきり動揺していたときというと──アリーナが重症を負ったときだとか、彼女が絶体絶命のピンチの時だとか、アリーナと洞窟内ではぐれたときだとか…………あぁ、やっぱり全部アリーナ絡みだ。
 冷たいテーブルが、頬に心地よく当たる。
「この間会ったときは、本当に幸せそうで、ラブラブな恋人同士だったじゃない? 痴話喧嘩に巻き込まれると痛い目見るわよ?」
 練り上げたクッキーをラップで包み込みながら、シンシアが振り返る。
 その口元に、軽い微笑みが浮かんでいるのは、リラ同様、彼らがそうたやすく壊れることは無いと──そう思っているに違いないからだった。
 そんな幼馴染の親友を見上げて、リラは細くため息を零した。
「ラブラブって──別に恋人とか、そういうんじゃないよ、2人とも?
 ……まぁ、確かに、ソレに近いとは思うけど。」
 そして、アリーナはどうか分からないが、クリフトは確実に恋愛対象としてアリーナを好きであることは、誰が見ても間違いがないけれど。
「えっ!? そうなのっ!? 私はてっきり、付き合っているとばっかり思っていたわよ!?」
「私も出会ったときそう思ったけど、本人たちから否定されたわよ?」
 何があったんだろう──まさかあのクリフトに限って、身分の差を乗り越えてアリーナに告白して、玉砕したから逃げてきた、なんてことはなさそうだ。
 けれど、クリフトが逃げてくるなんて、絶対に、よほどのことだ。
「────……そうなの? それはビックリね。」
 ラップをかけたクッキー生地を寝かせながら、シンシアは後片付けを始める。
 そんな彼女に、気の無い様子で頷きながら、リラはポツリと呟いた。
「うん──逃げてくるなんて、何があったんだろう?」
 眼を伏せて、腕を抱え込む。
 何が起きているのかわからなかったけど、時間が経てば経つほどに、あの時問いただせなかったことばかりが悔やまれた。
「──リラ?」
 濡れた手を振りながら、シンシアは呆れたような眼差しを、腕に顎を置き当ててため息を零す娘を振り返った。
「今朝、アリーナさんから手紙が届いていたとか言っていたでしょう? アレに何か書いていなかったの?」
「手紙? ────手紙…………あっ! まだ読んでないっ!!」
 おっくうそうに首をかしげて──慌ててリラは立ち上がる。
 そして、クリフトに会ったときそのままに持ち帰ってきたバスケットの元に駆けつけると、パンとハム、卵を取り出し、更に奥から封筒を取り出した。
 封を解いたまま、手紙を入れ直されたソレを取り出し、リラはテーブルに着きながら手紙を開く。
「えーっと……親愛なるリラ様──うん、アリーナの筆跡。」
 先ほどの場所でも確かめた部分をもう一度確かめて、リラは小さく頷く。
 片付けを終えたシンシアも、リラの隣に腰掛けて、頬杖を着くようにして必死なリラが覗く手紙を見つめる。
 それは、二枚の便箋で構成されていたが、1枚には何も書かれてはいない。
 もう一枚には、簡単な言葉が少しだけ書かれているだけだった。
 一目見て、簡単に読み終えてしまう程度のものだ。
「……………………え。」
 そして、一瞬でそれを読み終えたリラが発した一言は、ソレだけだった。
 便箋を握る手をそのままに、リラはもう一度頭から便箋を読み直す。
 すでに書かれた文字である以上、文字が変ることは無かったのだけど。
「…………………………本当に逃げてきたってこと、なのかしらね?」
 頬杖をついたまま、シンシアが呟いた。
 瞬間、ガタンッ、と大きな音を立てて、リラはイスから立ち上がる。
 震える唇を必死に噛み締めながら、ギリリ、と手紙を睨みつける。
「リラ?」
 驚いたように見上げてくるシンシアを気にせず、リラは視線を上げた。
「やっぱり──……ダメだよ…………っ。」
「リラ? どうしたの?」
 小さく呟いたリラに、シンシアが不安そうに眉を寄せる。
 そんな彼女に、リラは決意をしたように視線をあげた。
「やっぱり……こんなの…………こんな簡単にあきらめちゃ、ダメだよ……っ!!
 シンシアっ! 私、行ってくるっ!!」
 かたんっ、とイスを蹴り上げるようにして、リラはその場から飛び出す。
「ちょ、ちょっとリラっ!? 行くって……っ!」
「クリフトのところっ!!」
 ひらり、とテーブルの上に捨て置かれた手紙を一瞥して、驚いたように自分を見るシンシアに、一度だけ振り返ってリラは叫んだ。
 そしてそのまま彼女は、ドアから飛び出していった。
 乱雑な仕草で閉められたドアを見送り、シンシアは呆らめたようにため息を一つ零した。
「────……アリーナさんって、サントハイムのお姫様じゃないの……どうあがいても、どうしようもないと、思うんだけど。」
 ひらり、と摘み上げるのは、サントハイム王家の紋章入りの立派な便箋。
 ただし、そこに書かれているのはいかめしい儀礼式な文章でも何でもない、完結極まりない普通の少女からの手紙だった。
「それにしても、アリーナさんが……婚約、ねぇ。」
 小さい頃から想い続けてきた身であるならば、確かにショックだろう。逃げ出したくなっても仕方がないはずだ。
 シンシアとしては、クリフトに同情したいところだけど──。
「…………簡単にあきらめちゃダメだって…………………………まさかリラ…………クリフトさんを、焚き付ける気じゃ……っ!?」
 ヒラリ、と手紙を振っていた手を止めて、ガタンっ、とシンシアは驚いたように席を立った。
「王家の婚姻に物申して、どうなると思っているのよ、リラったらっ!!」
 そんなことをすれば、クリフトさんもタダじゃすまないのよ!?
 慌ててシンシアは、手紙を握り締めて駆け出した。
 先に出て行ったリラを追いかけるために、シンシアも家から飛び出した。












『親愛なるリラさま


久し振りね、元気にしている?
私はとても元気よ。毎日毎日、アッチやコッチと、いろいろな国を行き来しているわ。
とても大変だけど、楽しいから、毎日が充実してます。

それで今日は、ちょっとした報告があるの。

あのね……実は私、婚約することが決まったの。
大事なことだから、詳しいことは、リラに会ってからきちんと話したいと思っているわ。
でも、婚約のことで、私は今、とても忙しくて──とてもじゃないけれど、リラの村までいけそうにないの。
だから、悪いんだけど、リラの都合がいい日に、こっちまで来てもらえないかしら?
時間はすこししか取れないと思うけれど、手紙じゃなくって、リラ本人にきちんと伝えたいことだから。
我侭でごめんなさい。でも、大事なことだから、お願い。

お返事待ってます。


あなたのアリーナより。』

















 村の外れに、その教会はあった。
 出来たばかりの教会は、時々村の信者が礼拝をしたり、掃除をしに来たりするくらいで、いつもは人気が無かった。
 なのに、今日ばかりはそうではなかった。
 リラの家から走ってほんのすこしの距離にあるソコは、外から見ても分かるくらいに賑わっている。
 それも、若い娘の声が聞こえた。
 この村に居る女たちと言えば、モンスターに殺されて夫や恋人を亡くして行き場所に困っていたり、北の山で夫や息子が働いているという者たちだ。
 前者の女性たちは、確かに良く教会に集まっているが、神父が不在の教会で長居するのはどうかと、いつもなら井戸の近くで井戸端会議になっているはずなのに。
 教会の前に駆けつけると、入り口が大きく開かれていた。
 中に入ると、狭いながらもしっかりとした礼拝堂の中央に、人だかりが出来ていた。
 柔らかな日差しが祭壇に差し込む手前──穏やかに微笑む新しい神父を囲んで、娘たちがなぜか頬を赤らめていた。
「……いたっ、クリフトっ。」
 さっきの今だと言うのに、ちゃっかりと若い神父に、次から次へと悩みを、我さきにと話している娘たちのかしましい声の中──クリフトは、穏やかに微笑み、その一つ一つに頷いていた。
 このような辺境の地で、若く優しく美形の神父など、お目にかかることなどまずありえないからこそ、娘たちもココに集まってきてしまったのだろう。
 しかも、クリフトはフェミニストで女性にとても優しい。
 一人一人話を聞いてくれると分かれば、我さきにと群がっても──分かる気はするのだが、さっきの今で、すごいものである。
「クリフトっ!」
 それでも──自分の方だって、一刻を争うことなのだ。
 彼女たちが、本当に嬉しそうにクリフトの周りに居るのを引き剥がすのは、申しわけないという気持ちがないわけではなかったが、そうも言っては居られない。
 すぐにでも──そうだ、すぐにでもクリフトの首根っこを掴んで、サントハイムまで連れて行かないと!
「──あら、リラじゃないの。」
「リラも神父さんのことを聞いて来たの?」
 クリフトの周りにいた娘たちが、赤らめた頬をそのままに、いつもよりも三割増しに大人しめに微笑みかけてくれるのに一瞥することもなく、リラはまっすぐにクリフトを見つめた。
 目線を落としていたクリフトは、自分を呼ぶリラの声にゆっくりと顔をあげ──ほろり、と解けるように微笑む。
 彼女たちに向けられていた穏やかでやさしい微笑みの中に、どこか甘さが混じったような微笑。
 それを向けられて、つきん、とリラは胸が痛むのを感じた。
────無理して、どうして笑うかな……。
 クリフトが、昔から辛いときも微笑んでいたのは、知っている。
 けれど、どうしても辛いときは、自分たちの前でだけは弱音を吐いてくれと──そう、ちゃんと約束したはずだ。
 怪我を押して歩くことも、具合が悪いのを隠すことも、やめてくれと──そう、みんなでお願いした。
 なのに、旅が終えたら、もう私にも無理をして笑いかける。
 それが──辛くて。
 逃げてきたと、そう吐いたのなら──それなら、もっと、甘えてくれてもいいじゃないか。
「リラさん。様子を見に来てくれたのですか?」
 自分の前に居る女たちを、やんわりとした仕草で退けながら、クリフトが一歩リラの前に進み出る。
 やさしい微笑み。
 でも今のクリフトは、どこか無理をしているように見えないでもない。
 すこしだけ、苦いものが走っているような──そんな微笑み方だ。
 伊達に、朝も昼も夜も一緒に旅をしていたわけじゃない。
──ここにマーニャが居たら、どうするだろう?
「クリフト──……。」
 クリフトの前まで歩きながら、リラは唇を噛み締める。
 このままじゃ、ダメだ。
 だって、クリフトがアリーナを好きなのは、ずっとずっと昔から、分かっていたことなのだ。
 その事実から、逃げてきて──それで、どうして終わりになるのだろう?
 それで、どうして終わりに出来るのだろう?
 キュ、と、右手を握り締めて、リラはキッとクリフトを睨み上げた。
「リラさん?」
 首をかしげるクリフトに向かって──思い切り良く……たぶん、マーニャが居たら、自分よりも真っ先にしてくれるだろうことを、実行した。

パシンッ!!

 手のひらが、じん、と、熱かった。
「キャーッ! り、リラっ! 神父さんになんてことを……っ!」
 驚いたように左頬を抑えるクリフトに、周りの娘たちが非難の眼差しを向け、彼のもとへと走り寄ろうとする。
 それよりも早く──クリフトが、自分を見つめる目を睨みつけて、リラは叫んだ。
「いくじなしっ!!」
 胸が、熱かった。
 たとえようも無く悲しくて、胸が、痛かった。
「なんで……なんで逃げてなんか来たのよっ!? 逃げちゃ……ダメじゃないっ!」
 そして、そのままクリフトの胸倉を掴み取る。
 間近でクリフトの眼を見上げると、彼は困惑したようなそんな眼をしていた。
 けど、その中にどこか痛い色が見えている。
 リラはそれを的確に読み取り、彼に向けて吐きだす。
「リラさ……。」
「今からでも、ぜんぜん、遅くないでしょっ!?」
 じわり、と、瞼裏が熱くなって、視界がゆがむ。
 本当は、マーニャのように最後まで格好良く決めたかった。
 彼女ならきっと、クリフトの胸倉を掴んで、今すぐサントハイムに行くわよ、と叩きつけることだろう。
 けれどリラは、ただ感情ばかりが先走って──そうしたいわけじゃないのに、感情的な涙が盛り上がり始めていた。
 楽しそうに笑うアリーナの顔や、すこし照れたように笑うクリフトの顔が、グルグルと頭の中で回って──何が嫌なのか自分でもわからないくらい、イヤだと、心の中で叫び続けていた。
「リラさん……。」
「サントハイムに、一緒に、行こう……!?」
 指が、震えた。
「ちゃんと、アリーナに、会ってこようよ、クリフトっ!」
 こらえきれず──涙がこぼれて、思わずうつむいた。
 その拍子に、ホロホロと、涙がこぼれていく。
「だっ……て、私…………こんなの…………イヤだよ……………………っっ。」
 我侭だと、口にした瞬間、自覚した。
 自分が望んでいるのは、アリーナとクリフトが一緒に居て、一緒に笑っている光景なのだと──ただソレを望んでいるのだと、気づいてしまった。
 ずっと、2人で居るのが当たり前のような光景を見てきたから、これからもそんな光景が続いていくのだと、そう思っていた。
 アリーナも好きだし、クリフトも好きだ。
 何よりも──2人が一緒に居るのを見るのが、一番、好きだった。
 それだけは、決して変らないと、なぜかそう信じていた。
「ちゃんと──クリフトは、アリーナに向き合わなくちゃ、ダメだよ……っ。」
 コツン、と──クリフトの胸に額を教えてて、嗚咽を堪えながらそう囁く。
 胸倉を掴んでいた手からは力が抜けて、今はもうしがみ付くほどの力しかない。
「逃げるなんて──クリフトらしくない。」
「リラさん…………。」
 声が震えないように、必死に喉を上下させる。
 それでも、沸いて出てくる涙までは自由に出来なくて、キリ、と濡れた唇を噛み締めた。
 そんなリラの肩に、そ、とクリフトが手を置いた。
「確かに──逃げてしまったのは私の弱さです……心配をかけてしまって、すみません。」
 眼を伏せて、クリフトは苦い笑みを刻み込んだ。
「だったら──そう思うなら、アリーナのところに、一緒に行こう!? クリフト! サントハイムに、帰ろう!?」
 リラは、顔を上げてクリフトの顔を真下から見上げた。
 彼女の眼から流れる涙を認めて、クリフトは戸惑うような表情になった。
 けれど、そこで頷くようなら──クリフトはクリフトじゃない。
 そう、頭の片隅でチラリとリラが思ったとおり、クリフトはきっぱりとかぶりを振った。
「リラさん──私は、一度この村の神父の任を受けた以上は、サントハイムに戻るつもりはありません。」
「……っクリフト……っ。」
 見る見るうちに、再びリラの眼に新しい涙が盛り上がるのを見て、クリフトはますます眉を寄せ、困ったように指先で彼女の涙を拭い取る。
 ほろり、と零れる涙は、それでも次から次へとリラの頬を流れていった。
 旅の最中でも──どれほど辛くても、決して涙を見せなかった彼女の涙に、一体何があったのかと、クリフトは彼女の肩をそっと押しやるようにして、自分の胸元からはがしとる。
 そうして、涙を流す彼女に視線を合わせて、クリフトは眉を寄せてリラの顔を覗き込んだ。
「一体どうしたんですか、リラさん? 何をそんなに──。」
「心配だってするよっ!? だって、アリーナとクリフトのことじゃない! 私は、2人に、ちゃんと、幸せになって欲しいんだもの!」
「──リラ、さん。」
 キッ、と、間髪おかずに睨み上げられて、クリフトは一瞬息を詰まらせた。
 胸の奥から湧き上がるような喜びを、熱いソレを噛み締めながら、思わず口元が緩むのを抑えられない。
 目の前の彼女の、やさしい……嬉しい思いに、胸がジンと熱くなった。
 リラは、そのクリフトの変化を認めて、ますます眼を釣りあがらせる。
「何を笑っているの!?」
「いえ──私は、幸せですよ……リラさん。」
「嘘っ!」
 すかさず返すリラに、クリフトはきっぱりと言い切る。
「嘘じゃありません。」
 けれど、リラは当たり前のように──彼に食らいついて、思い切り怒鳴った。
「クリフトが、アリーナと離れて──別れて、幸せになれるはずがないじゃない!」
 そうだ──そう。
 2人が、一緒に居ないで、どうして幸せであると……あなたはそう言うの?
 だって、あなたはアリーナを見つめているときが、一番幸せそうだったじゃないの。
 その眼から、アリーナの姿を見失って……幸せだと、どうして言い切れるの?
「このまま一生アリーナと別れたままでもいいの!?」
 ──そんなこと、あっていいはずがない。
 それだけは、絶対、許されない。
 それだけは──絶対、イヤだ。
 だって、2人が当たり前のように微笑みあい、2人が当たり前のようにそばに居た。
 それを、私はずっと、見てきていた。
 いまさら──どうしていまさら、そんなことになるというのだろう?
 どうして……。
「──────………………リラ、さん……?」
「そんなの絶対、おかしいわ……っ!」
 ドンッ、と──思い切り良くコブシをクリフトの胸に叩きつけて、グイ、と、乱暴に自分の涙を拭い取った。
 涙に濡れた目元が、ヒリ、と痛みにひりついた。
 そのリラを、ただ戸惑うように見下ろして──クリフトは、強く眉を顰めた。
「──あの、リラさん、ちょっと待ってください。」
「言い訳なら、聞きたくないっ!」
 ギッ、と──睨み上げて、リラがそう叩きつけるように彼に向かって叫んだ。
 その刹那だった。
「……ちょっとリラっ! 何をやっているの!?」
 悲鳴をあげて、シンシアが教会に飛び込んできたのは。
 はっ、と、教会の中で突然の成り行きを見守っていた娘たちが、助けを求めるようにシンシアを見やった。
 リラの同居者であり、親友である彼女を見るいくつもの視線──シンシアは、その只中を駆け足でリラに近づき、クリフトの傍から彼女を引き剥がした。
「リラっ、落ち着きなさいっ!」
「だって、シンシアっ!」
 慌ててリラは、自分の肩を掴んだ彼女を振り返る。
 その鋭い眼差しに、一瞬シンシアは息を呑み──それから、小さく息を吐いた。
「だって、じゃないでしょ!? アリーナさんとクリフトさんのことに、リラが口出ししてどうするの?」
 妹に言い聞かせるように、リラの顔を後ろから覗き込んで、シンシアは真摯な眼で彼女を見つめる。
 そのシンシアの眼を見返して、きり、と、リラは唇を噛み締めた。
「だって──だって…………私は……アリーナからも、クリフトからも、何も……聞いてないんだもん。」
「…………リラ…………。」
「おかしいじゃない──っ、なんで、なんでアリーナ……っ。」
 ギリ、と──手のひらに爪を食い込ませて、リラはシンシアから眼をそらす。
 頭と胸の中がグチャグチャになっている自覚はあった。
 それでも──それでも、納得できないのだ。
 どうして彼が自分の目の前に居て、アリーナが婚約など選んだのか。
 どうして彼が、逃げてきたのか……いや、確かにクリフトなら、自分の思いを隠して、アリーナを祝福することくらいはするだろうけど。
 でも、だからって──、手をこまねいて見ているのが、仲間である自分に出来ることだと、思いたくはない。
「リラさん……。」
 クリフトが、かすかに眼を細めてリラの元へと近づいていこうとするのに、シンシアがリラをしっかりと掴んだまま、小さく頭を下げる。
 そうすることで、クリフトがリラの傍に来ることを止める……今は、混乱しているリラに近づかせるわけには行かなかった。
「お久し振りです、クリフトさん──あの、ごめんなさい、リラ、ちょっと興奮しているのよ。
 今、連れて帰るから……そうね、今夜辺り、夕飯でもご一緒しましょ?」
 小さく笑いかけて、シンシアは彼を威嚇するようにその場で足を止めさせると、自分の手の中で静かにうつむいている娘を見下ろした。
 さ、リラ──と、シンシアは小さく強く、リラに声をかける。
 そして、すばやく……クリフトに聞こえないように、彼女の耳元に囁いた。
「一番辛いのはクリフトさんなんだから、リラ、今は無理を言わないのよ……すこし、頭を冷やしなさい。」
 有無を言わせぬ……口調だった。
 はっ、と、リラは背中を撓らせた後──クリフトを見上げた。
 クリフトは、心配そうな眼差しを自分に向けていた。当時と変わりない、やさしい目だ。
 けど、リラは確かにその中に、何か悩むような痛みを訴えるような光を宿していた。
──分かっていたのに、気づいていたのに……私は結局、彼を困らせているだけだ。
 どうにかしたいと、そう思う気持ちは、本当なのに。
 かすかに瞳を揺らして──リラはクリフトの顔を見つめる。
「────……ごめん、なさい……私、クリフトを責めてばかりだね…………。」
 自己満足のためばかりに、クリフトを追い詰めた。
 自分が望む形に、クリフトを動かせようとした。
 目の前のこの人が、そう努力をしなかったわけがないのに、苦しんでいないはずが、ないのに。
 彼がどれほどアリーナを大切に思っていたかなて、きちんとわかっているはずだったのに。
 シュン、と肩を落とすリラに、シンシアは小さく笑みを零した。
 そして、大丈夫だと言うように彼女の肩をポンポンと叩いてやると、キュ、と腕の中で一度強く抱きしめてやる。
 リラは何も言わず、シンシアに背を預けて、その手に己の手を重ねた。
「リラさんが、私のことを心から気にかけてくださっているのは分かりますから、気にすることはないんですよ?」
 クリフトは、そんな仲の良い2人に、ホッ、と安心したような微笑を浮かべて──それから、すこし困惑したような表情で、2人を交互に見た。
「それよりも気になるのですが──。」
 そう──先ほどから、何かすれ違いを感じているのだけど、と、クリフトは軽く首を傾げて、自分の前で抱き合う娘2人に問い掛けた。
「私と姫様が、一生別れたまま、って、なんですか?」
「だって、この教会の神父になるって、クリフト、言ったじゃない……。」
 キュ、と、背中から抱きしめてくれるシンシアの腕を握りながら、リラが辛そうに眉を寄せながら答える。
 答えた先から、その言葉の意味がジクリと自分の胸をも抉り取って、痛みに軽く眉を寄せた。
 クリフトがこの村の教会の神父になってくれて──嬉しくない、わけじゃない。
 このままココに居てくれるのは、本当に嬉しい。嬉しいけれど──でも、こういう形はやっぱり、イヤだ。
 キュ、と唇を噛み締めて──クリフトを睨み上げるリラに、だからぁ、とシンシアはため息を零す。
 やはり、ダメだ。リラはまだ、頭がグルグル回っている状態に違いない。
 この子、こうなると復活までが長いから──いや、きっとクリフトもそのことは分かっているに違いないから、無理矢理リラを引きずっていっても、文句は言われないだろう。
 うん、やっぱり、無理矢理リラは連れて帰ろう。そうして、後で頭をたっぷり冷やしてから、クリフトさんとじっくり話し合わせたほうがいい。
 シンシアがそう決断し、リラを抱く手に力を込めた瞬間だった。
 クリフトが、本当に困ったような声と顔で、リラとシンシアに向かって──告げたのは。
「言いましたけど──ええ、確かに自分で志願しましたけど………………私がここに居るのは、ほんの2ヶ月ほどですよ?」
「──────え?」
 リラとシンシアの声が、はもった。
「に、二ヶ月って…………え?」
 リラは、パチクリ、と眼を瞬く。
 そんな彼女たちに、やはり勘違いしていたのかと、クリフトは細くため息を零して苦い笑みを口元に刻み込む。
 かすかに首を傾げながら、苦い笑みを刻みつつ、クリフトは自分がココに来た理由を、簡潔に話した。
 すなわち、
「正式な神父が決まるまでの、暫定的なものなんですよ。ですから──婚約パーティの発表までの、二ヶ月ほどです。」
 自分が、ただの仮の神父にすぎない期間限定のものだと、言うことを。
「…………………………………………………………え?」
 シンシアの腕を掴んだまま、リラはせわしなく眼をクルクルと揺らし──首を傾げた。
 そんな彼女に、ですから、と、クリフとはやさしく微笑んでみせた。
「ちょうど任務期間を終えて、ここへ派遣される予定だった神父様が、私用で休暇を頂きたいと言っていたんですよ──ですから、私もすこしサントハイムを離れたかったので、二ヶ月ほどなら、っていう条件で受けたんですけど…………。」
 それから──すこし、甘い色を含んだ微笑で、リラに笑いかける。
「──さすがに私も、幸せの絶頂の最中で、アリーナ様と一生別れる、なんていう選択はしたくないですよ? …………二ヶ月ほどは、離れることになりますけれど。」
 どこか茶目っ気を含んだ甘いソレに、リラは更に目を白黒させる。
「────────…………幸せの、絶頂? …………え、だって、アリーナ、婚約しちゃうのに…………?」
 どうして、幸せの絶頂なんて表現になるのだ?
 クリフトはもしかしたら、当の昔に卓越してしまっていて、「好きな人の幸せが自分の幸せ」だとか言っているのだろうか?
 ありえそうだが──それなら一体、彼は何から「逃げて」来たのだというのだろう?
 ワケが分からなくて──恋愛経験に関しては、人並み以下のリラでは、どうにも判断はできなかった。
 助けを求めるようにシンシアを見上げるけど、シンシアも話の展開についていけないようで、必死に眉を寄せて考え込んでいるようだった。
「──あ、はい、リラさんも、ぜひご出席してくださいね。」
「くださいね、って……クリフトっ! クリフトは、どうするのよ!?」
 にっこり、と、全開の微笑を見せてくれるクリフトに、リラは悲鳴に近い声を上げる。
 それに、クリフトは不思議そうに目を瞬く。
「どうするって…………………………………………。」
 軽く首を傾げて──ふと彼は、シンシアが握り締めている紙に気づいた。
 白い上質の封筒……そこには、見慣れた紋章が刻まれている。
「………………そういえばリラさん、姫様から、婚約のご報告の手紙って、届き……ましたよね?」
 まさか、と──そう問いかけた。
 もしかしたら、報せが届いていないのだろうか、と。
 いや、だがそれにしては、先ほどリラは確かに、「アリーナが婚約を」と言った。
「え、ええ──今朝届いて、今見てきたわ。だから、ココに来たんじゃない!」
 頷くリラの台詞に、あぁ、とクリフトは眉を寄せた。
「…………………………………………今朝? ……………………あぁ……届くのが遅いのが難点ですね……。」
 これなら、ルーラを使える人間にでも、手紙を託したほうが良かったか、と、顎に手を当てて呟くクリフトに、何をのんきなことを、とリラは目を落とす。
「姫様が手紙をお出しになったのは、もう一月半ほど前なんですよ、リラさん。」
 しかし、気難しそうな顔でそう言われてしまい、リラは思わず驚いたように目を見開いた。
「──そ、そうなの?」
 問い返したリラに、クリフトがため息を零しながら頷く。
「ええ──姫様もずっと、リラさんから返事がないのは、忙しいからなのかと、すごく残念がっていましたけど。
 手紙が届いたということは……その…………知って、いらっしゃるんですよね?」
 上目遣いに、伺うように尋ねるクリフトに──その目をまともに見返すことが出来なくて、リラはツイ、と視線を逸らしながら頷く。
「アリーナの婚約のことは……、だから、書いてあったし。」
 そしてそのまま、キュ、と下唇を噛み締め、彼女はシンシアの腕をきつく握り締めた。
 何か言おうと口を開きかけたけど、零れるのは吐息ばかりだった。
 口を開いては閉じ、口を閉じては開こうとして──ため息を零す。
 そんなリラを見つめて、クリフトは口元に浮かんでいた微笑を、ふとこわばらせた。
 そして、そのままの微笑みで──リラをしっかりと抱きとめたままのシンシアへと視線を移す。
「……………………………………シンシアさん。」
 静かに呼ぶ声に、シンシアは一瞬ビクリと肩を震わせた。
「はい?」
 声がひっくり返りそうになるのは、もしかしたら、リラの態度がクリフトの心の痛みを思い出させたのではないかと、ふと不安に思ったからだ。
 けれど、クリフトが口にしたのは、シンシアやリラが想像していることとは、まったく違うことだった。
「その手紙、見せていただけますか?」
 どこか疲れたような、微笑みだった。
 その、と、示された先を見下ろして──シンシアは自分が手紙を握り締めていることに気づいた。
 それは先ほどリラが握り締め、放り出して走り去った原因であるもの……アリーナからの手紙だ。
「え、ええ……、どうぞ?」
 チラリ、と、フワフワクルクルのリラの髪の毛を見下ろした後、シンシアは上質の封筒をクリフトに向けて差し出した。
 主君でもあるサントハイムの王家の紋章が入ったそれを、クリフトは恭しく受け取った後──すばやくその中身に目を走らせる。
「……………………………………………………………………。
 ……………………………………リラさん。」
 じっくりと、固まるようにして手紙の内容を読むのを、リラとシンシアは固唾を飲んで見つめていた。
 一体、どうなるのだろう?
 そして、自分たちは、どういう風に対応したらいいのだろう?
 相手はクリフトだから、それほどまずいことにはならないとは思うのだけど──……それでも、不安でないと言えば、嘘になる。
「……クリフト……あの、あのね……。」
 眉をきつく寄せながら、リラはゆるくなったシンシアの腕から抜け出た。
 そろり、と前に足を踏み出しながら、彼女はクリフトの元に一歩近づく。
 クリフトは、はぁ、と大きくため息を零したかと思うと、苦い……苦い笑みを顔満面に貼り付ける。
「すみません──帰ったら、姫様に言っておきます。」
「──! クリフト、それじゃぁ……っ!」
 丁寧に折りたたみ、封筒の中に便箋を仕舞いこむクリフトに、リラが顔を上げると──クリフトは、困ったように笑った。
 その目元がすこし赤く腫れていた。
「ちゃんと、婚約の相手を書くようにって。」
 はい、と──照れたように笑うクリフトから、手紙を手渡されて、リラは大きく眉を寄せた。
「────………………え?」
 それが一体どういう意味なのか、イマイチ図りかねたリラの後ろから、
「! あ……もしかして……っ!?」
 シンシアが、口を大きく開いて、慌ててその口を手のひらで防いだ。
 そんな彼女に、ニッコリと、クリフトは微笑み──、
「………………二ヵ月後の婚約式の主役は──私と、アリーナですから。」
 幸せそうに……そう、告げた。
 本当なら、アリーナ本人が、リラに直接言いたかっただろうことを──彼女の代わりに。
「……………………………………え?」
 キョトン、と目を見開いて、リラは目の前のクリフトのかすかに赤らんだ頬と目元を見ていた。
 その瞳には、照れた色と幸せそうな色が見えた。
 それは、分かった。
「きゃーっ! やっぱりっ!? おめでとうっ、クリフトさんっ!」
 ぱんっ、と、嬉しそうに手のひらを叩き合わせて、シンシアが笑った。
 周りで、意味がわからずに立ち去れずに居た娘たちも、パチパチと──やがて大きな拍手が巻き起こる。
 クリフトは、その中でどこか気恥ずかしそうに身じろぎして……まだ目を丸くして顔を顰めているリラに気づいた。
「え、……え、え…………?」
 混乱しているようなのは、本気で自分たちを心配してくれていて──そして、本気で案じてくれていたからだろう。
「すみません、リラさん。これでは確かに、誤解、してしまいますよね。」
 苦笑を刻みながら、まったく姫様は、と──そう、どこか幸せそうな微笑を浮かべてみせるクリフトを見て、自分が手にした手紙を見る。
 アリーナの手紙の内容と、先ほどクリフトが言った内容とを頭の中で噛み締めて……リラはゆっくりと首を傾げた。
「……………………えぇー……………………。
 …………って…………クリフトと、アリーナが…………婚約?」
「──はい、連絡が遅くなってしまって、すみません。」
 微笑みながら、そうやさしく笑ってくれるクリフトを、目を見開いてマジマジと見つめた後──リラは、小さく笑った。
「ううん、それはいいの。──それなら、いいんだけど……。」
 かぶりを振って、リラはクリフトをまっすぐに見つめ返す。
 そうだ──それなら、いい。
 確かに自分に報せてくれなかったことに関しては、すこし怒ってもいいとは思うけれど、一ヶ月半前に手紙を出してくれていたのだというのが本当なら、仕方がないことだ。
 この辺境の地になかなか手紙が届かないのは、これから何とか解決していかなくてはいけないことの一つなのだし。
「──そっか……アリーナ、クリフトを選んだんだ。」
 口にしたら、ホンワリと胸の中が温かくなった。
「それじゃ、何か婚約祝いをしないとね……。」
 嬉しくて、ニコリと笑ったリラに、クリフトもニコリと微笑み返してくれた。
 その微笑みは、確かに幸せそうな人のソレそのもので、リラは良かったと、安堵に胸を撫で下ろした。
──が、、その手をふと止めて…………、
「…………え、じゃ──クリフト、何から逃げてきたのっ!?」
 慌ててクリフトの顔を見上げた。
 そうだ、その問題が残っていたじゃないか。
 目を見開いて詰め寄るリラに、クリフトは一瞬息を詰まらせた。
 その瞬間に、チラリと走る影──確かにクリフトは、その目に痛みを抱いている。l
「クリフト……?」
 リラは、そ、と手を伸ばして、彼の手の平に己のそれを重ねた。
 クリフトとアリーナは婚約したと、そう言った。
 話はそれで終わった。
 けど──そうではないのかもしれない。
 本当は、いろいろと大変で、クリフトがサントハイムに居てはいけないようなことがあったのかもしれない。
 2人が誰よりも傍に居ながらも、その手を取り合うことが出来なかったのは、身分の差という言葉だけで収まるものでは、なかったのかもしれない──本当は。
 結局、リラは、サントハイムの城を出ていた間の二人しか知らないのだ。
 城に帰ってからの問題は、リラには分からないことだし、そのことをアリーナやクリフトがリラに相談してくることはありえなかった。
 哀しいことだけど、それが、辺境の村を再建することに力を尽くすリラと、国の復興を心がける王女たちとでは、相談してもお互いに理解できない。
 その自分に出来ることは。
「──何かあったのなら、私も協力するよ?
 私の……勇者としての私の名が必要なら、いくらでも使って?」
 ──本当は、「勇者」の名を使うのは嫌いだけど、そんなことを顔には出さずに微笑んで告げる。
 ただの村娘の「リラ」ではなく、「勇者リラ」の名前が、クリフトの後見としてこの上もない力になるのなら──惜しみなく与えよう。
 出し渋る理由なんて、ない。
 クリフトは、そんなリラに、苦い笑みを広げた。
「……リラさん…………いえ──そんな、たいしたことじゃないんですよ…………。」
「でも、クリフトが逃げ出すなんて、よほどのことじゃない。」
 対モンスターでの戦闘においては、戦略的撤退のタイミングが一番上手く測れたのはクリフトだった。
 けれど、日常生活において──精神面的に、クリフトが「逃げる」ことは、無かった。
 平穏を保つために一歩退いたりすることはよくあったけれど、それでも──彼が背を向けて逃げ出すことは、無かった。
 もしそれがあるとするなら、それはよほどのことだ。
「──……あなたがアリーナと離れて、ココに逃げてくるなんて、よっぽどだわ。」
「言い方が、悪かったですね──リラさん。」
 心配をかけてすみません、と、クリフトは続けた。
「その──私もすこし、動揺していたようです。」
 眉を寄せたクリフトを、リラはジッと見上げた。
──クリフトが、動揺?
 見上げるリラの視線に、白い頬を赤らめてながら、クリフトは自嘲じみた笑みを唇に刻み込んだ。
「いえ──だって、その……アリーナ様と婚約して、初めてリラさんに会うわけじゃないですか?
 ……何言われるかとか、すごく──これでも、緊張してたんですよ?」
 リラは、クリフトの台詞に目を瞬いて、それからゆっくりと首を傾げた。
「だから……困った目をしていたの?」
 目線を上げて、リラが尋ねると、クリフトは小さく笑った。
「えぇ……そうですね。それも、確かにありました。」
「私は反対なんかしないわよ? 大賛成で、両手を挙げて喜ぶことはするけど。」
 信用してほしい、と──眉を寄せたそう囁いたリラに、クリフトは、もちろん信用していますよと、笑った。
「今回の婚約を反対する人はいませんでしたよ──というよりも、城中の人が、『やっとか……っ』と胸を撫で降ろしていたのが、気になりましたけど……。」
 すこしだけ憮然とした色を宿すくリフトに、リラは小さく噴出した。
「ふふ……みんな考えてることはおんなじなんだ……っ。」
 そんな彼女に、クリフトも釣られたように微笑み──それから、どちらかというと、と前置きをおいて、背をかがめながらリラの耳元に唇を寄せる。
 そしてすばやく──リラと視線を交わしながら囁く。
「今回、逃げてきたと言ったのは──サントハイムの貴族や外交の使者の方々から、なんですよ。」
 耳に囁かれた言葉に、驚いたリラは、目を丸くして間近で苦笑を刻んでいるクリフトの目を見返した。
「戦略的撤退のつもりでしたけど──逃げたことには変わりないので。」
「貴族の人から逃げるって……クリフト、まさか命を狙われているとか……っ!?」
 クリフトが自分の耳にだけに囁いた理由を──表だって言えることではないと言う事実を理解して、リラはクリフトの襟元を掴んで彼にだけ聞こえるように小さく叫んだ。
 よくある話だと、マーニャたちから聞いたことを思い出した。
 王族というのは、時には親兄弟で血肉を削るような戦いをすることがあるのだ、と。
 もしかしたら、アリーナの──次期女王の夫になる男の命を狙っているのかもしれない。そうではないとは、言い切れない。
 キリ、と──まるで旅をしていた当時のような剣呑な光を目に宿すリラの髪を、苦笑を浮かべながらクシャリと乱して、クリフトは笑った。
「リラさん、それは考えすぎですよ。」
「それじゃ──何?」
 聞いてもいいこと? と──小さく続けて、リラは瞳を揺らした。
 そんな彼女に、クリフトは軽く肩をすくめると、やはりリラにしか聞こえないような声音で、そ、と真相を語ってくれた。
「彼らが、あまりにも──その、自分を売り込みにいらっしゃるものですから、まともに仕事が出来なくて、困っていただけなんです。」
「…………え。」
 目を見開いて、軽く首を傾げたリラに、クリフトは小さく笑んだ。
「それだけの、こと──なんですけどね。
 結構、それが毎日続くと……あぁ、婚約発表まで、続くのかな、と…………結構、疲れちゃいまして。」
「だから、目の下に隈が出来ているのね。」
 そういうことか、と──理解した。
 手の平を伸ばして、クリフトの目の下に触れる。
 白い肌の中、くっきりと映る隈に、ホイミは利かないだろうなと、リラは小さくため息を零した。
 婚約パーティが二ヵ月後だと言っていたけれど、その二ヵ月後までに、この隈は消えるだろうか?
「あぁ、安心してください、サントハイムでの仕事は全てこちらに回してくるように言ってありますから、仕事が滞ることはありませんし、こちらの仕事も、精一杯努めさせていただきます。」
 そんなリラのため息を、どう理解したのか分からないクリフトの生真面目な返事に──リラは、キョトン、と目を瞬いた。
 そして、リラを安心させるようにニッコリと微笑むクリフトをマジマジと凝視して──不意に、かくん、と膝を落とした。
 冷たい感触に、なんだかむしょうに笑いたくなった。
「リラさんっ!? だ、大丈夫ですかっ!?」
 驚いて、慌てて目の前にひざまずいてくるクリフトが手を差し伸べてくる。
 その彼の手に、自分の手をかけながら、リラは笑った。
 目の前の──大切な友人に、うん、と一つ頷いた。
「…………はは…………うん……安心したら、なんか、腰、抜けちゃって……。」
 けど、大丈夫だから、と──クリフトの手の助けを借りながら立ち上がる。
 そして、彼の目をまっすぐに見つめながら、リラはニッコリと笑った。
「──おめでとう、クリフト。」
 口にした瞬間、胸の中がホワリと温かくなった。
 クリフトの目が軽く見開かれ、直後──その瞳に柔らかな光が宿る。
 それを目前に見つめて、リラは彼の目の中から痛みや罪悪感めいたものが消えているのに気づいた。
 ──少しは私も、彼の幸せを手伝うことが出来たのかな?
「はい──ありがとうございます……リラさん。」
 やさしく笑うクリフトに、つられたように微笑んだ。
「……なんだか分からないけど、納得したの、リラ?」
 呆れたように声をかけてくるシンシアに、リラはゆっくりと振り向いて、うん、と頷いて見せた。
 シンシアには、クリフトが「逃げて」来た理由は聞こえてなかったはずだから、後でコッソリ教えてやればいい。
「うん──幸せそうだから、すごく納得した!」
 満面の笑顔で振り返って、当たり前のようにそう告げたら──シンシアは、軽く目を見張って……それから、小さく笑った。
「そ。──それは良かった。」
 そう言って笑うリラも、同じくらい幸せそうだと……そう、微笑みながら。














幸せが伝染するって……なんて幸せなこと。



ただ単に、慌てふためくリラが書きたかっただけ……(笑)。
というか、素直にクリアリを書いておけばいいものを、ただ長いだけの話になっちゃいましたv
この後、多分──いや絶対に、アリーナ乱入は確定だろう。
静かな北の山奥の村は、こうして騒ぎに巻き込まれるのだった(大笑)。

将来、山奥の村の奥の山脈に長いトンネルを掘り始めるって言うのは、なんだか書いてみたかったのです。バトランドとほかの地区を通すなら、あそこからかなー、とか。