旅をするようになって、どれほどの月日が流れただろうか?
旅の空の下で、襲い来るモンスターや空腹と戦い続けていると、今日が何日で、今が何の祝祭なのかだなんて、どうでもいいことのようになってくる。
寒さをしのぐためにかけた枯葉の粗末な寝床で朝を迎え、ひもじさと寒さに身を震わせる日が一ヶ月も続けば、まるで自分が獣になったかのような錯覚さえ生まれた。
人は皆、神の名のもとに平等な動物であるのだ──なんていうことを説く学者が居たということを、城に居た頃に文献で見たことがあったけれども、なんだかそれが正しいことのような気がしてくる。
けれど、そんな旅の空の下に居ても、身だしなみに気を使うのはレディーとしての勤めであると思ったし、パーティーを組んでいる幼馴染に対するエチケットでもあると思っていた。
そんな気持ちが、キリリ、と引き締まるのは、人の気配が濃厚に残る場所に来た時だった。
今日もそうだ。
ついさっきまで──この町に着く直前まで、今日が何日で、何日水浴びをしていないか、なんてことはまるで気にもならなかったくせに、町の門を潜って、空腹をしのいだ途端、周りの目が気になり始める。
モンスターとの戦いで破れた服の裾だとか、汚れて匂いがしそうな頬だとか、ほつれて邪魔になるからと、乱暴に無理矢理結わえた髪の毛だとか。
一度気になってしまうと、このままでは町を歩けないという羞恥まで思い出してしまう。
「まぁ、それを言えば、あのままの格好で買い物に繰り出そうとする、ユリウスの方がおかしいんだけどね……っ。」
まったく、とブチブチと呟きながら、彼女は久しぶりに着替える綿の服の感触に、口元をほころばせる。
最近の武器や防具は、なかなか考えられていて、一日中装備していても、気にならないような物が多いのだが──特に、ドン・モハメに作ってもらった水の羽衣なんていうものは、軽くてしっかりとしていて、最高としかいいようのない出来なのであるが──、やっぱり、ゆっくりしたいときには、防具なんかで身を飾るのは避けたいところであった。
最後の町を出てから、相当の月日が経っているだろうことは分かっていた。途中、宿場町ともいえる小さな町や村をいくつか素通りしたことはあったが、まともに宿を取ったことはない。
それほど急いでいた時もあったし、宿が満杯で泊まれなかったときもあった。
だから、宿に部屋を取って、荷物を全部預けて、身軽な姿になるのも──宿の女将さんから湯を貰って、ズッシリと層をなしていた垢を殺ぎ落としたのも、随分久しぶりであった。
ぽろぽろと零れ落ちる黒い垢の名残が流されていくのを見ながら、ひそかに体を戦慄で震わせたほどである。
厳しい旅の空の下、仕方がないといえば仕方がないのではあったが──、
「やっぱり、今度からは、せめて水浴びが出来る場所を選んで通りたいわよね……。」
そう、ブチブチと呟いてしまう程度には、先ほどの経験は恐怖と言えた。
毎日毎日、葉や木の幹で、ある程度は磨いていたと思っていたが、それは所詮気休めでしかなかったのだということを、今日、つくづく思い知ったのだ。
気のせいではなく、この町に入る前と今とでは、肌の色も違っている。
これって、ある意味犯罪よね、と、呆れた気持ちで磨き上げられた肌をさすり上げる。
いつもの装備品ではない、動きやすいワンピース姿に着替えたリィンは、洗い上がりの髪を頭上で結わえて、部屋に備え付けの鏡を覗き込む。
そこの映っているのは、旅の最中の、厳しい顔つきをした女魔法使いのものではなかった。
城で、大事に甘やかされて育った、美しい王女の顔でもない。
少し日に焼けた感じのある肌は、当時のものと比べてだいぶ丈夫になったように見える。
キリリと引き締まった眉や、まっすぐな瞳からは、儚さよりも凛々しさすら感じられる。
おそらくは、城で蝶よ花よと育てられたお姫様にとっては、そんな図太いとしか思えない表情や、皮膚など必要がないものなのだろう。
けれど、元王女であり、現英雄の卵の少女にしてみたら、そんな自分の変化は喜ばしく望ましいものであった。
リィンは、内側から輝くような自分の美貌を鏡の中に認めて、ニッコリと笑った。
しゃらん、と揺れた明るい色の髪が、彼女の両頬から零れ落ちる。
ふんわりと良い香りがするのは、髪を洗う石鹸に香料が使われていたのだろう。
宿に置いているにしては、なかなか上等の香料だと思うのは、もしかしたら単に、ここ一ヶ月ほど人間の生活から離れた生活をしていたせいかもしれない。
「よしっ。」
鏡の前で、一応点検にと、くるん、と一回転してみせたリィンは、フワリと広がるスカートの裾に満面の微笑を漏らす。
そして、ベッドの上に放り出してあった荷物の中から、だいぶ小汚くなった財布を取り出すと、それをしっかりと懐に収めて、
「それじゃ、ユリウスとカインを探しに行くかな?」
綺麗になった自分とは正反対に、相変わらず小汚い格好で買い物をしているだろう二人の仲間を思い浮かべて、上機嫌で部屋を出るのであった。
国に帰れば、新米兵士に指導できるほどの腕を持つ、とある国の王子様は、したり顔で人の視線の持つ威力について説くくせに、なぜかこういうときの視線の意味にはまったく気づきはしない。
もちろん、国ではノンビリ王子と敬称されている隣国の王子が、人の視線の意味などに気づくはずはなかった。
かくして、こ綺麗にすれば、違う意味での視線を集中させること間違いナシの二人組みは、自分たちが遠巻きに視線を集中させていることに、まったく気づいていなかった。
泥や敵の返り血で汚れたマントや服をそのままに──おそらく、洗濯はしているのだろうが、落ちなかったと見える──、どこかしら異臭の放つ体で、道具屋の店先に立って、なにやら話し込んでいる。
正直な話、時期が時期であるため、道具屋の主人としては、彼らを追い返したくて堪らなかった。
普段なら、良い香りや甘い香ばしい香りにつられて、明日の特別な日のために胸躍らせる少女たちへ、夢を買わせなくてはいけないのだ。
なのに、その香り良く、形良く──胸躍らせる原因の前には、旅の人間らしい少年が二人、立っているだけだ。
特別に店の前に小さなワゴンを設けて、小さな札でセールを示しているそれを囲みながら、彼ら二人はこの店の可愛らしく甘いイメージのする一角を、陣取っている。
これが、良い男で美少年であれば、話は別なのだろうが──赤茶けた肌の、頬や目元を黒く汚した旅人は、お世辞にも綺麗とは言いがたかった。
背の高いほうの男が、可愛らしくラッピングしてあるクッキーを指差せば、小柄なほうの男が、その手を叩く。
先ほどからそんなことを、何度か続けている彼らに、道具屋の主人は、どうしようかと、悩ましげな表情で額を地面に向け続けている。
遠巻きにしている主婦や、若い娘達の眼は、小汚い旅人へとやられ、困ったように互いを突付きあい──そして、去っていってしまう。
「…………商売あがったりだ……っ。」
ちくしょう、と小さく口の中で呟くが、彼は小心者であったため、決してそんな台詞を旅人相手に吐くことは出来なかった。
もっと若く血気盛んな頃なら、立派な体躯の怖そうな戦士相手にでも、「商売の邪魔だっ、どっか行ってくんなっ。」と叫ぶこともしただろうが、今の彼にはそんな気力なんか無かった。
一度、そう言った戦士相手に、こっぴどい目に合わされたのも、古傷として利いているせいもあるだろう。
このままでは、彼らが去るまで品物は売れない──いや、もしかすると、今帰っていった少女たちが、あの店では買えないと口にしていたとすると……女の情報網は信じられないほど強固だから……………………、今年は、ダメかもしれない。
王都の方で流行っているという「ロマンチックな行事」の真似事をしようとして、早数年。
この小さな片田舎でもその風習が根付いてきて、昨年の売上はなかなか上々であった。
だから、今年も少し大目に仕入れてきている。
それが、まるで売れなかったとなると、来月に予定している「お返しの日」も、どん底を見ると考えていいだろう。
せっかく、ココまで波に乗ってきたのに──と、それを考えると、ひたすら在庫の件で頭が煮えたぎる想いだった。
その憂鬱さを知らせるように、店の前で、戦士風の二人の男を指差してなにやら囁いていた少女たちが、やっぱり止めて置こうか、と視線で語り合い、去っていくのが見えた。
「ああああああああ……………………。」
声にならない語尾を震わせて、道具屋の主人は、今度こそガックリと肩を落とした。
そんな彼のもとへ、先ほどからずっと同じ問答を繰り返している少年たちの声が聞こえた。
声の感じからすると、16,7歳くらいであったが、だからと言って舐めていてはいけないのは、過去の歴史が物語ることである。
この世界を救った歴代の勇者様は、どちらも20歳ソコソコだったというのだから。
「だからさー、クッキーの方が腹持ちイイだろ? 夜食にも食えるし、夕飯までコレで持つじゃん。
うちの城じゃ、いっつもオヤツはクッキーだったぜ?」
「昔からの分析で言うと、遭難したときは、クッキーよりもチョコレートの方がいいらしいよ。
これから越える山の大きさが大きさだから、やっぱり遭難したときのことを考えて、チョコレートを買いだめしておいたほうがいいと思うな。」
そういう非常食を買う話は、今のイベントに燃える道具屋ではなく、食料店でしてくれと、叫ぶ道具屋の主人の心の奥底からの願いは届かない。
彼らが、ちらっ、とでもワゴンカーにつけられた札を見てくれたらいいのだが、少女たちが見やすい目線に設置されたそれは、ちょうど少年たちにとって死角にあたるらしく、彼らはまるで気づかなかった。
可愛らしい文字で、可愛らしく書かれた、
「バレンタインデー……あなたの愛を運びます。」
なんていう題名も、その下に書かれたバレンタインの話も、何もかもが、少年たちの目には見えていなく、それどころか、彼らにとったらワゴンの上の物体は、「好きな人へのプレゼント」ではなく、「非常食」としか見られてないようであった。
「だからさ、チョコなんて甘いもん食ったら、喉渇くじゃねぇか。あんなもん、砂糖食ってるのと一緒だろ。」
「え? 普通、クッキーの方が喉渇くもんじゃないの?」
「は? クッキーって、噛み砕いているうちに唾出てくるじゃん。」
「────…………えーっと…………ユーリ…………それ、どういうクッキーの話?」
不思議そうに小首を傾げるカインにユリウスの方こそ、何を言っているんだと言いたげに眉を曇らせる。
「だから、クッキーだろ? 岩石みたいにカッタイやつ。ハンマーで叩いて割って食うの。良くうちの城の女どもが焼いてたぜ?
あれ食うの、すんげぇ顎使うんだよな。」
「えっ、それって、失敗作じゃないの!?」
大きく目を見開いて、自分より頭半分は大きいユリウスを見上げると、彼はこびり付いた泥が落ちそうな勢いで頬を掻く。
遠くで店主が、「ああああああーっ」と叫んでいたが、もちろん二人には聞こえなかった。
「失敗作を王子に食わせんのかよ、うちの城は。」
「んー……ユーリだったら、歯も胃も丈夫だし、大丈夫かもって思ったのかも。」
汚れた手袋に包まれた指先を、華奢な顎に突きつけて呟くカインの腕を、おい、とユリウスが突っ込むように突付く。
「んじゃ、普通のクッキーってどんなよ?」
「サマルトリアは、やわらかめかな? ラングドシャとかもあったし。」
「ラング……? なんかの呪文かよ?」
いぶかしげに眉を寄せるユリウスに、カインは呆れたように彼を見上げる。
「違うってば。卵白を使ったクッキーで、口の中でホロリと解けるんだよ。よく、セシルが作ってくれたっけ。」
懐かしむように、一瞬遠い目をして妹の名を口にする幼馴染の少年に──可愛らしい少女の顔を思い出したユリウスは、心底嫌そうに顔をゆがめて見せた。
思い浮かぶのは、目の前で思い出に浸っているだろう少年が、大切に思っている少女の顔であったのだが……ユリウスの脳裏にクッキリとよみがえった少女の顔は、カインが思っているような愛らしい顔ではなく、憎憎しいばかりのあっかんべぇ顔であった。
「あー……あいつ、菓子なんて作れるのかよ?」
「女の子だからかな? 一時期、そういうのに凝っててさ、色々教えて貰ってたみたい。」
「へー……。香辛料間違えたりとかしねぇのかよ?」
ローレシアの城を抜け出して、サマルトリアの城へ遊びに行くたびに──その時、ローレシアではいつも大騒動になっているようだったけど──、カインの部屋の前に仁王立ちして邪魔をしてくれるは、全然違う場所を教えてくれるはで、角を付き合わせた思い出しかない。
そう考えれば、セシルとリィンが仲が良いというのも、頷ける話であると、ユリウスは思っていた。
「やだなー、いくらセシルが慌て者でも、そんなことは無いよ。──もっとも? セシルにしてみたら、未だに薬草と満月草の区別もつかないユーリには言われたくないってところだろうけど。」
「……っ、い、いやっ、あれはなぁっっ! 別に区別が付かないわけじゃなくって……草の状態なら分かるんだよっ、草の状態ならっ!」
「煎じた物でも、粉にしたものでも、見て分かると思うけど?」
「おんなじ色してるじゃねぇかっ、あれはっ! つぅか、なんで道具屋で葉っぱのまま売ってねぇんだよっ。」
「売ってるってば──ただ、ユーリがビンの置いてある棚しか見てないんだろ。……ほら、そこにも、ザル売りで置いてるじゃない。水に浸かってるのがそうだよ。」
「えっ、あれって、料理に使う何とか言う葉っぱじゃなかったのか?」
「────…………なんでそんなものを道具屋で売ってると思うのさ?」
カインが、太陽の光を受けて青々と輝く、ザルの中に葉のままの状態で詰まれた薬草を示すが、帰ってきたユリウスの答えは立派であった。
呆れて溜息すら出てこないとは、まさにこのことだと、カインは軽く肩を竦める。
「僕、ユーリと万が一はぐれちゃったらどうしようって、心配になりそう……。」
今は、薬草に詳しいカインもリィンも居るし、二人は治癒術も使えるから良いのだけど──、何かではぐれたりしたら、冗談ではない展開になりそうだった。
さすがに、野性味溢れるユリウスのことだから、飢え死にすることは無いだろうが、心配といえば心配である。
「どーゆー意味だよ、それはっ!」
ユリウスは、強引に腕をカインの後ろ首から前に回して、ぐいっ、と自分の方へと顔を引き寄せる。
そして、先ほどから言いたい放題のカインの頬に、自分の顔を近づけると、
「俺は迷子になって困るほど、ガキじゃねぇし、弱くねぇよっ!
どっちかっていうと、お前の方が心配だぜ?」
じろり、と軽く睨みつけるようにしてカインを間近に見た。
何せ、旅をして初めて苦労させられたのが、このカインを見つけることであった。
昔から知っているとはいえ、カインの暢気さとトロさには、思わず保護欲を掻き立てられるほどだ。
それを思えば、ついついそんな心配性な一言が零れるのも分かるのだが──実際、ユリウスのこの意見を、リィンとセシルが聞いていたら、うんうん、と大きく同意してくれたであろう。
だが、当のカインはやっぱり無自覚に、暢気であった。
「大丈夫だってば。僕、ルーラも使えるんだし。」
方向音痴ってワケでもないんだから、平気平気、と、パタパタと手を振るカインに、
「いや、どっちかって言うと、どっかの人間に攫われそうでさ……。」
はぁぁ、とあからさまな溜息を零して、ユリウスはそのままカインの肩に、がっくりと額を落とした。
「……は?」
何を言っているのかと、軽く眉を顰めたカインは、そんなユリウスの頭を横目に首を傾げる。
この町へ来て、すぐにシャワーを浴びたいと宿に向かったリィンと違い、腹を膨らませる方を優先にしたカインとユリウスは、未だに汚れた服装のままである。
首を傾げながらユリウスを見やると、微かな異臭と共に、彼が被ったフードの汚れが目に付いた。
モンスターの返り血を浴びたのだけど、水の洗濯では取れなかった代物だ。
視線を近づければ分かるほどの細かい木屑、葉屑も見て取れた。
無言でそれを見ていたカインは、
「ユーリは──大丈夫そうだね…………。」
「あん?」
何を言うのかと、あげたかユリウスの顔は、間近で見ても十分男前の類ではあったが、いかんせん今は埃や泥で汚れていた。
女は化粧をすれば美しく変身するというが、男は泥や埃で化粧をしても、男前が台無しになるだけだと、思う。
普通に街中を歩いていれば、誰もが振り返るだろうに、今は逆に遠ざかられること間違いなしだ。
サマルトリアの侍女も、ユリウスに憧れる女性は多いというのに──今のこの姿を見たら、百年の恋も冷めちゃうかもしれない。
「カイン、何が大丈夫だって?」
「んー……今のユーリ、汚いから。」
「──────……そりゃ、お前も同じだって。」
そんな会話をしている二人の少年に、店主は泣きそうな気持ちで、今年のバレンタインの終わりを見たような気がした。
自分たちが汚い格好をしていると分かったら、食べ物の前から去っていってほしいものだ。
くそぉっ、と、密かに握りこぶしを握った店主は、店の前から居なくなった女たちの姿を認めて、泣きたい気分で顔を彼らから背けた。
これで視線を戻したとき、彼ら二人の姿が居なくなっていれば、幸せなのだが──と、店主は泣きそうな気持ちをグッと堪えた。
いや、今月がダメでも、来月がある──そうだ、来月、ラッピングを綺麗にしなおして、ホワイトデー用だと売ればいいのだ。
そうすれば、こんな風に旅の戦士がワゴンの前にたかっても、「どうですかー?」と笑顔で進められる──……はず、だ。
よし、と、後ろ向きなようで前向きな方向で決めた店主は、自分にエールを送るように拳を上下させて、ファイトっ、と小さく呟いてみた。
改めて気を取り直した彼は、何事もないかのような顔で座っていたほうがいいかと、イソイソと椅子に座りなおす。
ちょうど、そんなときであった。
町の入り口の方角──この道具屋から見て、宿の方角から、一人の少女が歩いてきたのは──。
視線の隅に、新しいお客さんがやってきたのかと、少女の存在を目にとめた店主は、何気にその方向を見て……息を、呑んだ。
スタスタと、何の気負いもなしに歩いてくる少女は、この小さな町中では見たこともないような、目を見張るような美少女であった。
先ほどまで店の前に立っていたどの少女とも違う、リンとした雰囲気を持っている。
ウェーブのかかった髪を、頭の頂上近くで結わえ、歩く度にヒラヒラと揺れている。
ピンと伸びた背筋や、堂々と歩む様が、目を奪われるほどに美しく似合っていた。
店主は、迷うことなくこちらへ向けて歩いてくる少女を、凝視する。
握った掌が、ジンワリと汗ばむ。
圧倒的な存在感を持って、彼女はヒタリとこちらを見据えて歩いてくる。
その、軽やかでいながら、しっかりと地面を踏みしめているかのような歩みに、ごくん、と店主は喉を鳴らした。
彼女は、ややキツメの眼差しで、ワゴンのある方角を見て──一瞬眉をひそめた。
それを認めた瞬間、店主は気を取り戻した。
彼女が、ワゴンの上に並べられたバレンタインのお菓子を買いに来たのかもしれないと、職業意識を痛烈に意識したのだ。
だがしかし、同時に現実も思い出さずにはいられなかった。
ワゴンの前には、旅の男達が立っているのである。
「………………。」
せっかく、あれほどの美少女が買い求めに来てくれても、自分は彼らを退ける勇気など、ない。
もし、どうにかしてください、なんて頼まれたら、どうしようかと──まだ起こっても居ないことを、キリキリと胃をいためながら心配した。
あれほど美しい少女に、目を潤ませて頼まれてしまったら、断ることなど出来ないではないか!
──けれど彼女は、優雅な早歩きで、そんな心配をする店主の前を行き過ぎてしまった。
あれ? と、キョトンと目を瞬いた店主の視線が、彼女の姿を追って左から右へと移動する。
その先には、店先に出された愛らしいワゴンと、そのワゴンの前にたかっている少年二人の姿があった。
「そういえば、リィン、昼食まだだったよね? 何か買っていってあげないと。」
「んじゃ、このクッキーでいいんじゃねぇの?」
「いくらなんでも、クッキーじゃダメだよ。」
そんなたわいない話を、まだしている少年達は、美少女が自分たちの隣に立ったのも気づかないようであった。
少女は、無言で彼らを上から下まで眺めると、片手を腰に当てる。
そして、軽く首を傾げたかと思うや否や、無造作に右拳を振り上げた。
「──……っ。」
ひゅっ、と息を呑んだのは、この道具屋の主人であった。
彼女が何をするのか、聞かれなくても、その先を見なくても、たやすく想像がついた。
そうして、それは、間違っていることはなかったのである。
ごいんっ!
「あーっ!!!」
思わず店主は、少女が振り上げた右拳が、背の高い方の男の頭を殴った瞬間、両頬を手ではさみ、叫んでいた。
「〜〜〜っ!?」
突然頭に走った衝撃に、目から星が出るかと思ったユリウスは、瞬時に全身に緊張を走らせ、そのまま片腕で自分の体を庇うようにしながら、背後へと体を向ける。
それと同時、カインもとっさにユリウスから一歩退き、両手を腹の前で組み合わせるようにして、呪文の詠唱が出来るように体勢を整える。
しかし、そうしながらも二人は、自分たちに向けられる殺気を感じては居なかった。
それどころか、ヒシヒシと皮膚に感じる危機感は、どこか見知ったようなソレである。
いつでも戦闘に入れるように身構えた二人は、その見知った感覚に──あれ? と、密かに小首を傾げる。
そして、二人が鋭い視線を走らせた先に居たのは、手ごわい魔物でも、獰猛な野生の獣でもなかった。
鄙には稀な、華奢な美少女であった。
「────…………リィン?」
顔を顰めて、ユリウスが旅の相棒でもある少女の名を呼ぶ。
その、低くしゃがれた声に、彼の頭を思い切りよく殴った少女は、右掌をヒラヒラと回せながら、片目だけを眇めて応える。
「石頭。」
瞬間、ユリウスは、自分たちに向けられた怒りの波動が誰のものであるのか、知った。
「──……ってっめぇ、リン! 俺に何の恨みがあるんだっ!? いくら鍛えてても、痛いもんは痛いんだぞっ!?」
「あら? カインの頭と違って、あんたの頭なら、今更壊れる知識もないから、憂いもなく殴れると思っただけよ?」
ふん、と軽く鼻で息をついて、リィンは彼ら二人を見上げる。
「んっだとぉっ!?」
ぎりりっ、と眉を吊り上げたユリウスに、リィンもリィンで、
「なぁによ?」
顎をそらすようにして、彼の顔を覗き込む。
彼の頭を殴った衝撃の残る右手は、素早く胸の手前で印を組んでいた。
いつでも呪文を唱えられるぞ、というその仕草に、ユリウスは忌々しげに舌打ちする。
彼が拳を上げるよりも早く、彼女は初歩の術であるバギを放つことであろう。
たとえ、どんなモンスターの攻撃にも打たれづよくなっているユリウスとは言え、鎧も何もなしに、そんな風の刃を受けてしまえば、たいそう切れることは間違いなかった。
「リィン、ご飯まだでしょ? 何か買ってこうかな、って思ってたんだ。」
そんな彼ら二人の、一触即発なムードに、のほほーんと割り入ったのは、カインの声であった。
彼は、日常茶飯事である二人の軽いコミュニケーションを、まったく気にせず、ニコニコと笑いかける。
毒気を抜かれるようなカインの台詞に、ユリウスは拗ねたように唇を尖らせる。
「再会するなり、挨拶よりも拳が飛んでくる女には、んなもんいらねぇよ。」
「人間の言葉を解する動物になら、ちゃんと挨拶を先にするわよ。」
「────…………ははーん? じゃ、何か? 俺は、ペットの犬以下だってか?」
「馬鹿ね。──比べられないじゃないの……犬の方が賢いから。」
わざとらしく「犬」を話題にしてくれるユリウスに、リィンはせせら笑うように応える。
そんな二人に、
「ほんと、二人とも、仲がいいねー。」
のほほん、とカインが、わざとなのかそうじゃないのか分からない感想をくれた。
「────…………。」
「……………………で、二人はここで、何をしていたの?」
このままこうしていても、何も始まらないと理解したリィンは、二人の顔を見た。
無言でリィンを見るだけのユリウスと異なり、カインは満面の笑顔でリィンにワゴンを指し示してみせる。
「このワゴンの中ね、チョコレートがイッパイ入ってるんだよ。だから、非常食に買ってこうかって話してたんだ。」
「非常食?」
リィンはいぶかしげに店の看板を見上げる。
そこには、どう見ても道具屋のマークが描かれている。
別に、道具屋で食料を売っている店もあるから、その辺りを突っ込むことはないけれども。
「そうそう。宿で夕飯が出るまでの、口慰めに。」
「──それは、オヤツって言うのよ……。」
にこやかな笑顔で、ぱふ、と両手を合わせて笑うカインに、どこか疲れた気持ちで、ゲンナリとリィンが突っ込む。
それから彼女は、軽く首を傾げるようにして、ジロリとユリウスの体をねめつけた。
上から下まで──この町についたときからまったく変わっていない彼の姿をジックリと見やった後で、溜息を零しながら両腕を組み合わせる。
「二人とも、そんな汚い格好で食事するつもりだったの?」
「食べるのに格好なんて関係ねぇじゃないか。」
何を言ってるんだか、と、逆に呆れたような顔でユリウスが答えるのに──これで本当に、つい数ヶ月前まで城の中で王子様をやっていた男なのかと、思わず額に手を当てて頭を左右に振りたくなるのも、仕方がないことであった。
「一人で食べる分にはそうでしょうけど、食堂とか店とかだと、お店の人にも迷惑かかるじゃないの!」
「あ、そっか。」
この小さな町には、屋台のようなものが日常のように出ていないことに気づいたカインは、今更なことに気づいて、隣のユリウスを仰ぎ見た。
「それじゃ、ユーリ? 僕らも、着替えと顔を洗ってからじゃないとダメだね。」
──随分ボケてはいるが、さすがはこちらは行儀良く王子様をしていただけがある。
リィンの言いたいことを、きちんと理解してくれて、きちんと行動に移ろうと考えてくれているようであった。
「私がさっきお湯を貰ったばかりだから、宿のお風呂がまだ使えるはずよ。二人ともお風呂から上がったら、一緒に軽くご飯を食べに行きましょうよ。」
ね? と、リィンはカインに笑顔を向ける。
ユリウスに話を通すより、彼に話をしておいたほうが何十倍も楽であると気がついたのである。
カインは、リィンのその笑顔に、同じようにほころぶような笑顔を向けると、
「そうしよう、ユーリ?」
すでに決定事項として、自分の幼馴染にして親友の少年を見上げた。
ユリウスは、先ほどから何か言いたげに口をパクパクさせていたが──あきらめたように口を閉ざすと、
「リィン。お前、俺らが風呂から出るまでに、飯屋物色しろよな──美味くて安いとこ。」
ワゴンの中に山のように積まれたチョコに未練を残しつつ、ユリウスは踵を返した。
カインは、身軽に地面を蹴ると、
「リン! ゆっくりしておいでよ!」
そういい置いて、笑顔でユリウスの後を追う。
少し前を歩いていたユリウスは、カインが彼女に置き捨てた言葉に、軽く眉を寄せた。
追いついてきたカインの腕を肘で突付いて、
「カイン、ゆっくりしてたら、俺らが飯食う時間が遅くなるじゃねぇか。」
軽く噛み付くようにそう叫ぶと、カインはキョトンと目を瞬く。
「って、二人がそれぞれお風呂で汚れ落としてたら、それくらいになると思うよ? だって、僕ら、もう一ヶ月もまともに体洗ってないんだから。──あっ、ユーリ、もしかして、適当に洗い流そうとか思ってる!? ダメだよっ、きちんと垢を落とさないと、病気になるんだから。」
びしっ、と指先でユリウスの胸元を示すカインに、彼は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「あぁ? どうせ一緒に入るんだから、お前が俺の分もこすってくれりゃすむだろーが。」
「………………えーっと………………さすがの僕も、それはちょっと、なんていうか……いきすぎかなぁ、って思うんだけど?」
「そっか? でも、一般庶民は、父親の体を洗うとか聞いたぞ? なら、別にお前が俺の体洗ってもイイワケだろ?」
「えっ!? そっ、そうなの!? そりゃ確かに、お城では、お風呂に風呂番の人が居て、洗ってくれたりするけど──、城下の人とかは、その世話役を息子がしなくちゃいけないんだ…………知らなかった…………。」
「そうそう。だから、カインが俺の体の垢も落としてくれれば、それで由。俺、ちゃんとおとなしく座ってるからさ。」
「……う、うん、わかった…………────って。あれ? ユーリ?」
「ん?」
「……僕、別にユーリの息子ってワケじゃ、ないよ?」
ノンビリと宿屋に向かって歩いていく少年二人の会話に、リィンはあやうく地面と挨拶をしそうになった。
それをかろうじて踏み堪え、フルフルと震える拳を何とか握りつぶす。
「なんていうか──男の子って、耳年増じゃないっていうの、本当なのね……っ。」
今から追いすがって説明をしなくてはいけないのかもしれないが、あまりのことに脱力している間に、二人はさっさと角を曲がってしまっていた。
そうなると、わざわざ走って行くのも、なんだかな、と思ったリィンは、溜息を零して額に手を当てると、今のことは見なかった、聞こえなかったと、自分に言い聞かせることにした。
宿屋の女将さんに用意してもらった風呂場は、なかなか広かったから、二人でも十分な広さであったし、何よりもさっさと二人で体を流してくれたほうが、ご飯までの時間が短くなるのも本当である。
そう思えば、自分のおなかが空腹を訴えてきたような気がして、リィンは店先のワゴンに目をとめた。
そこには、可愛らしいラッピングをしたチョコレートの袋が山のように積まれていて、ちょうど彼女の目線の高さの位置に、小さな看板がついていた。
彼らがお風呂から上がって身支度するまでの間の口慰めに、何か買っていくのもいいかもしれないと、チョコを手に取りかけたリィンは、その看板を見て──あ、と小さく声をあげた。
「──すっかり季節なんて、忘れてたわ。」
思わず呟いて、彼女はワゴンの中身を見下ろす。
それから、右手に取った小さな袋を見て──微かに唇をほころばせる。
「飴と鞭は使いようって言うしね。」
そんな憎まれ口を叩きながら、リィンは慎重に袋を手に取った。
それほどラッピングが派手ではなく、甘すぎない物を二つと、小ぶりで可愛らしいものを一つ。
食事までの口慰めになるか、食事後のデザートになるかは、まだ分からなかったけど、たまにはこういうのもいいだろう。
きっちり自分の分も含めて手にして、リィンはそのまま道具屋の主人の下へ向かった。
店の主人の男は、リィンがやってきた方角──先ほどカインとユリウスの二人が消えた方角を見ながら、胸の前で両手を組んでいた。
リィンが前に立つと、満面に喜びを称えている男が、驚いたように彼女を見上げた。
そんな彼の前へ、ぽん、と三つの包みを置く。
「これくださいな。」
にこ、と笑顔で呼びかけると、彼は激しすぎるのではないかと思うくらいに目をしばたいた。
それから、勢いのままリィンの手を両手で握ったかと思うと、憎き商売敵を追い払ってくれた稀なる美少女に、
「ありがとう……ほんっとうに、ありがとうっ!」
ぶんぶんっ、と、痛いくらいに思い切りよく上下に振ってくれた。
今にも泣き出しそうな様相の男に、なんだか寒気に近いものを感じて、ジリリと後に下がってしまったほどであった。
男は、すぐにリィンが引いているのに気づき、照れたように笑うと、イソイソと会計に取り掛かった。
その、不気味とも思えるほどの謝礼と喜び受け取ったリィンは、無言でワゴンの方角へと目を向けると、未だ山のように積まれているチョコを認めて、
「……そんなに売れてないのかしら……?」
少しだけ、店の主人に同情を覚えるのであった。
ほんの少し後。
「うっわーっ、ありがとう、リィンっ!」
ほかほかと、体から湯気を立ち上らせながら、満面の笑顔で礼を言うカインと。
「珍しいこともあるもんだな、リン。」
早速包みを開けて、パクリとチョコに食いつくユリウスとに、リィンは最上級の笑顔を向けて見せた。
「ええ、味わって食べてね。──来月、三倍返しで待ってるから。」
ニッコリ。
笑顔で告げるリィンの前で、パキィン、と──小さくユリウスが立てたチョコの音が響いた。
ハピネスト。
幸せな人。
なぜ今更にバレンタインと思うでしょうが。
単に、唐突にドラクエが書きたかっただけなのですね、これがまた(笑)。
なんだかドンドンドラクエ2ネタが増えてきましたが、ドラクエ7も4も書きたいです。
ただ、日常として短編で書きやすいのが、2なだけなんですね。
ドラクエ3とかになると、全部オリジナルキャラクターになっちゃいますから、キャラ設定から始めないとダメですしね……(苦笑)。
はー……久し振りの更新がこんなのでごめんなさい。
ただ、旅の間は日付の感覚も麻痺してるんだけど、たまに町に立ち寄ったら、イベントには参加してるんだよって、だけの話です。