その日のお天気は、ピーカン。
 目に痛いくらいにまばゆく降り注いでくる夏の太陽の真下……川べりのグラウンドでは、活気溢れる声が行き交っていた。
 汗に濡れた皮膚に砂の粒子を貼り付けた「野球小僧」たちが、疲れた表情を引き締めて、叫んでいる。
 その風景を見下ろして、娘は小さく息を吸う。
 草の匂い、太陽の匂い、グラウンドの匂い。
──高校時代に、フラッシュバックしたような気がした。
 そのまま何も言わず、彼女はチラリと自分の横に座る男の頭を見下ろす。
 彼はただ静かな目で、川原のグラウンドで練習試合をしている中学生の群れを見下ろしている。
 自分たちがあれくらいの年齢の時は、隣の「彼」は、こんな表情を浮かべることは滅多になかった。
 静かで、少し真剣で。
──あぁ、でも、違うかな?
 カッちゃんと一緒に野球を見ているときは、こんな目をしていた。
「──南。」
 前を向きながら、ふと名前を呼ばれる。
 彼と同じようにグラウンドに飛ばしていた視線を戻すと、彼は真摯な目をグラウンドに向けたまま続けた。
「結婚しようか。」
「うん、いいよ。」
 かすかな風が吹き、はっきりとしたお互いの声は、そのまま何でもなかったかのように消えていく。
 一拍置いて。
 がたがたっ。
「…………っ。」
 昼間の強い日差しの中、何も引っ掛ける物もないのに、なだらかな堤防の草地に肩から転げた青年が、驚いたように目を見開いて娘の顔を凝視した。
 その視線を感じながら──なんだか笑い出したくなる気持ちを、穏かな微笑みで堪えて、南は眼下の試合を見続ける。
 目を丸くして体勢を崩した彼は、何でもない表情で前を見続ける南に気分を害したのか、照れくささからか、眉をキュと寄せて、体を起こす。
「──って、あのなぁ、南。」
「なに、タッちゃん。」
 ニッコリ笑って振り向いてやれば、「プロポーズ」に答えてやったにも関わらず、何が不満なのか、不機嫌そうな達也の顔。
 南の笑顔を目の前にして、達也は唇を引き結ぶと、仏頂面でパタパタと体についた草を払った。
「いいよ、って、お前、ちょっと考えるとかないのかよ?
 俺が何て言ったのか、分かってんのか?」
 ぶっきらぼうで怒ったような口調に、突きつけられた指先がかすかに震えていた。
──緊張してたんだ、タッちゃん。
 あまりに突然に、あまりに当たり前のようにサラリと言われたから、そんな気はしなかったけど、それでも試合を真剣に見るフリをしながら、いつ切り出そうか悩んでたのだろうか?
 ……どっちにしても、真昼間から中学生の試合を見ながら言う台詞ではないと思うけど。
「考えないよ。だって、南の夢だったんだもん。」
 南のセリフは、完結だった。
 その言葉に、達也はさらに言い募ろうとしていた言葉を失ったかのように、ポカンと口を開けた。
 南は、そんな彼に向かって小さく笑って、
「小さい頃からの南の夢、タッちゃんも知ってるでしょ?」
 甲子園に連れてって。
 お嫁さんになりたい。
 片方は、カッちゃんがかなえてくれるはずだった。
 片方は、タッちゃんが叶えてくれたらいいと思ってた。
「──片方は、もう叶っちゃったから……もう一つも、タッちゃんが叶えてくれるんでしょ?」
 うん、と頷いて、両手の指を重ねて、前へ向けて掌を突き出す。
 ぐ、と伸びた背筋に当たるささやかな川風が、気持ちよかった。
「…………。」
 何も言えず、ただパクパクと口を開け閉めしていた達也は、小さく溜息にも似た吐息を零して、改めて南の隣に腰を落としなおすと、キ、と南の顔を見据える。
「……あのな、お前の人生のことなんだぞ、南? これでお前、決定しちまうんだぞ? 一生に一度の結婚なんだぞ?」
 真剣極まりない言葉で、真摯な目で、達也は南を正面から見つめてくる。
 その視線とその言葉を聴いて、南は正直な話、笑い出したくなった。
 けれどそれを押し殺して、代わりに南は、きゅ、と目じりを挙げて、達也の顔を睨みつける。
「何よ、それじゃ、そういうタッちゃんは、冗談で南と結婚しようって言ったの?」
 軽々しく返事をするなと言うなら、こーんなシチュエーションで、こんなお天気の下で、プロポーズするほうがどうかしてる。
 普通の女の子なら、もっと劇的で素敵なプロポーズを期待しているところだ。
 たとえば、プロ野球界で日本一の勝利投手に輝いた上杉達也が、その日の夜に大きな花束を抱えてやってきて、「結婚しよう」と言ってくれるとか。
 そこまで言わなくても、ロマンティックな夕暮れ時に、なんだかいいムードになって、そんな中、指輪を差し出されて、結婚しよう、だとか。
 なのに、今は普通の休日の、デートでもなく、ただの散歩の途中に立ち寄った、何の変哲もないグラウンドの。中学生が練習試合なんてしてるのを、ボンヤリ眺めてる昼下がりで。
 突然その中、「結婚しよう」なんていわれて、即答で「いいよ」と答えた自分を誉めて欲しいくらいだ、全く。
「そういうわけじゃないけどさ、でもお前、返事が早すぎるだろ。もう少し考えたりとかしろよ。」
 自分でプロポーズしておいて、文句をグチグチと口の中で繰り返して、拗ねたように斜めに頬杖をつく。
 だって、と南は両手を広げて体ごと達也に向いて、
「約束どおりだから、そろそろかなって思ってたもん。」
 だから、ためらうことも、迷うこともなかった。
 プロポーズされたらなんて答えようかなんて、最初から決まっていたから。
「……あん? 約束?」
「そう、10年後。」
 チラリと目を向けてくる達也に、南は満面の笑顔を向けて、指先を手元に引いた。
 10年前。
 あの暑い夏の日。
 今と同じように横に並んでいた、あの日。
 あの日から、この10年後の日を、待っていたから。
「10年もずーっと、考えてたんだよ、返事。
 だから、ぜんぜん、早くない。」
「────…………。」
「でもね、タッちゃん? 10年持ち越しのセリフは、言ってくれないの?」
 体を少しかしがせるようにして、コツン、と肩先に頭を乗せて見上げれば、どこか照れた風にそっぽを向く幼馴染の顔。
「──なんだったかな〜……。」
 少し泳ぐ視線に、こら、と軽く叱り付ける。
 そうしながらも、声が笑いの色を滲ませるのを止めることはできなかった。
 そのかすかな小波のような笑いの発作をそのまま流して──さらりと流れる初夏の匂いに目を細めながら。
 南は、少しだけ汗のにおいのする首筋に額を押し付けながら、
「……ね、タッちゃん? もう一回、言って。」
 10年前と同じセリフを、口にした。
「こんなところでか?」
 拗ねたような照れてるような、憮然とした表情に、そ、と頷いて、
「だって、こんなところでプロポーズしたの、タッちゃんじゃない。」
 ほら、と促せば、達也は視線をあげて、グラウンドに転がる白いボールを目で追って。
 それから、ゆっくりと視線を戻し、自分を見上げている南と視線をかち合わせた。
 その唇が、静かに動き始めるのを南はただ静かに見ていた。

10年前。

 にじみ出るような胸の中に灯る火を抱えながら聞いた言葉を、もう一度言って、とねだれば、彼は熱い吐露を感じさせない声で、また10年後な、と答えた。
 その答えを聞いて、それならきっと、次のその言葉を聴けるのは──……「いま」なのだと、思った。

「──ね、タッちゃん?」
「……今度は、また、10年後だからな。」
 くすぐったい気持ちで、微笑みかけて見上げれば、やっぱり10年前のあの時と同じような表情で、達也はそう答えた。
 そんな彼の言葉に、南は小さく笑って、ケチ、と耳元に噛み付くように囁いて。

──10年前、おんなじように言うつもりだった言葉を、続けて呟いた。

「──……っ。」
 驚いたように見返す達也に、南はニッコリ笑ってやって、
「私も次に言うのは、10年後だからね」
 意趣返しのように、つん、と顎を逸らしてやった。

 今度の約束のイミは、「10年後に結婚しよう」じゃなくって。

──10年後も一緒にいよう。



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