この世で一番幸せな場所。
そう言われて思い浮かぶのは、いつだって同じ光景。
昼間は窓がすべて開かれて、そよそよと吹き抜ける風にレースのカーテンが揺れていた。
そこからひょっこりと顔を出した女性が、のんびりと歩いていた自分の姿を認めて、アーモンド型の綺麗な目を細めて笑う。
華奢な手を高く上に投げ出すようにして、ぶんぶんと振る彼女が、何事か叫んだ瞬間、そんな娘の後ろから、ひどく見慣れた顔がヒョコリと顔を出す。
揺れるレースのカーテンに、仲良く寄り添う夫婦。
幼馴染の親友と、そんな彼が愛した女性。
二人が待つ場所が、この世で一番幸せな場所。
「お帰り、シリウス!」
声を弾ませて、そう笑う彼の隣で、ミトンを両手にはめた女性が、いたずらな笑顔で手にした天板を差し出してくる。
つん、と刺激臭のする甘いようなすっぱいような匂いに、思わず顔をしかめた見下ろした先。
「はい、ちゃんと残しておいてあげたわよ。
……先日の、私の、手作りクッキー。」
ニッコリ、と、満面の笑顔で微笑むリリィ。
思わずシリウスは、整った鼻の頭に濃い皺を寄せて、親友の妻となった女性を見下ろした。
「コレ……何を混ぜたんだ、ジェームズ?」
料理上手なリリィが、たかがクッキーを作るのに失敗するとは思えず、シリウスはなんとも表現しがたい匂いを放つ物体から顔をそらしつつ、ジトリ、と楽しそうにソファに座っている青年をにらみつけた。
そんなシリウスの視線を受けて、ジェームズはヒョイと肩をすくめてみせる。
「なんにも。」
「うそをつけ。何も混ぜてなくて、なんでこんな匂いがするんだ?」
絶対に、生成するのに失敗した薬品とか、間違えて呪文をかけたものとか、そういうものが混じっているのだろうと言い張るシリウスの問いかけには、
「それはとっても簡単な話よ、シリー。」
甘酸っぱい──言い換えれば、腐っているような匂いのするクッキーを両手に抱えたままのリリィが、答えてくれた。
暖かな微笑を浮かべているが、その目はまったく笑ってはいない。
「先ほど私が言ったでしょう?
ちゃんと残しておいてあげたわよ、って。」
「…………………………………………………………。」
真剣にシリウスの顔がイヤそうにゆがんだのは、別に彼が甘いものが嫌いだからではない。
正確に、リリィの台詞を把握したからだ。
つまり。
「先日って……1年前か?」
今、リリィの手の中にあるクッキーが、一年前に彼女が同じようにシリウスに差し出したものなのか、という──事実を。
まさか、と、そんな思いで指差したクッキーは、言われてみれば1年前と同じもののような気がしないでもない。
そう──1年前、立ち寄った新婚家庭のこの家で、「何が食べたい?」と聞いたリリィに、「クッキー」としれっとした顔でシリウスが答えて、彼女は生地を作りはじめてくれた。
ところがそこで、シリウスにダンブルドアから呼び出しが入り、「焼けたら俺の分を残しておいてくれ」と言って、彼はこの家を出た。
あの時は、すぐに戻ってこれると思ったのだ。
だがしかし、結局「騎士団」関係の職務につくことになり、そのままこの自宅に立ち寄るのは一年ぶりになってしまった。
仕事の関係上、ジェームズやリリィとは顔をあわせることはあわせていたが──この家に来るのは、一年ぶりだ。
リリィに「クッキーを残しておいてくれ」と言ったのは、確かに一年前のことで……まさか、と、顔をゆがめたシリウスを見上げて、
「ええ、そう、一年前のクッキー。」
ニッコリ、と、何の悪気もなく笑うリリィの顔に──なんだか、どす黒い怒りの色を見た気がして、シリウスは、おいおい、と両手を顔の横に上げて見せた。
「確かに、残しておいてくれとは言ったけど、本当に取っておいてくれなくても……。」
「私は約束はたがえたりしませんから。」
だから、シリウス、どうぞ?
そう笑ってリリィはミトンを嵌めた手でつかんだ天板をシリウスの眼前に突きつける。
ぷぅん、とかおる匂いに、ウッ、とシリウスは顔をゆがめてそれを見下ろした。
もしかして、リリィがミトンを嵌めているのは、焼けたばかりの天板が熱いからではなく──単純に、発酵しているに違いないクッキーを乗せた天板を、素手でつかみたくなかったから……なのだろう。
「リリィ……。」
勘弁してくれ、と、パチン、と顔を手のひらで覆ったシリウスの姿に、ケタケタと明るい笑い声が届いた。
思わず手のひらの隙間からギロリと視線を飛ばすと、兄弟のように仲良く育った青年が、新聞紙で顔を覆いながら、最初は遠慮して──しかし、すぐに新聞紙を放り出して腹を抱えて笑い出していた。
「アハハハハ! ハハ! アーッハッハッハッハ! パッドフット、お前の負けだ!」
「ジェームズっ!」
声を荒げたシリウスに、それでも笑い出した声を引っ込めることなく、笑いすぎて目じりに浮かんできて涙をぬぐいながら、ジェームズはヒィヒィと喉を震わせた。
「あの後、ぜんぜん連絡くれなかったから、リリィは怒ってるんだよ、シリウス。」
「あら、誰も怒ってなんかいないわよ。ただ、シリウスが、いつ顔をあわせても、クッキーのことを口にしてくれないから、口にするまでは取っておいてあげようと思っただけよ。」
つん、とわざとらしい仕草で顎を上げてみせるリリィに、シリウスはますます顔をゆがめて──彼女がハイ、と差し出してくる天板を見下ろした。
少しくすんだ色のクッキーは、苔が映えているようなまだら模様の物まであった。
それを見下ろし……勇気を出して手を伸ばしてみたものの、天板に触れるか触れないかのところで、その指は止まった。
フルフルと震えて──シリウスは、にっこり、と笑うリリィを見下ろした。
「──……すまない、リリィ……俺が悪かったから……捨ててください。」
せめてクッキーを摘む……という勇気すら、なかった。
瞬間、
「あーっはっはっはっはっはっ!!!」
ソファーの上で、大爆笑するジェームズ。
その声を受けて、リリィが勝ち誇ったような表情で、シリウスの目の前から天板を下ろした。
「しょうがないわね、捨てろというなら、捨ててあげましょう。」
そのまま、残念そうに肩を落として、彼女は厨房へと去っていった。
それを見送り、シリウスはまだ爆笑してソファを叩きつけているジェームズを見た。
「……だんだんリリィは、お前に似てきたんじゃないのか、ジェームズ?」
苦虫を噛み潰したような顔でそう呟くシリウスに、ヒィヒィと腹を抱えたジェームズは、くしゃくしゃになった髪に手を伸ばしながら、
「けど、シリウスと付き合ってくなら、それくらいでちょうどいい……だろ?」
クシャリ、と笑って──そう言った。
その、心底うれしそうな、楽しそうな顔を見て、シリウスは小さく吐息をこぼすと、
「──────………………かもな。」
イヤそうな顔で、心底同意しているわけではないという顔で、そう愛想程度に呟いてやった。
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