彼女は、綺麗な金色の髪を一つに結わえて、彼に背中を向けていた。
そうすると、いつもは髪に隠れている白い項がチラリと見えて、いつになく視線が惹きつけられた。
小刻みに、リズミカルに肩が揺れているのは、彼女が今何かを切っているから。
同じリズムで、トントントン、と包丁とまな板が音を奏でている。
ほっそりとした体を包むのは、すっきりとしたシャツとパンツスタイル。見た目はいつも以上に色気のない服装だけれど、いつもの姿よりも体のまろみを帯びたラインが感じ取れて──どこへ視線を逸らしても、つい目がそこに戻る。
そんな自分に苦笑を覚えながら、彼は口元に節ばった指先を押し当てた。
かすかな苦味が含まれた汗の匂い──指先から香るそれに、男は眉を寄せて、手の平を軽く握りこむ。
──過酷な戦闘の時ならイザ知れず、こんな平和な……愛する女がまな板に向かって包丁を落としているという、ただその場面を見ているだけだというのに。
……手の平が、じんわりと、汗を掻いている。
それが、戦闘時の緊張感と高揚から来るものではなく──ただ、緊張しているためだと分かっているからこそ、彼はその手を見下ろして、ぐ、と指先を握りこむように手を包むしかなかった。
そのまま視線を移せば、ここから数歩歩いた先にあるキッチンの前に、こちらに背を向けて立つ女の背中。
薄いシャツに浮き出る肩甲骨の影に、そこから続く女独特に柔らかなライン。
シャツの長い袖は捲りあげられ、女性ながらにしなやかな筋肉がついた腕が見て取れた。
その腕が、リズミカルに上下に動くの見ながら、なぜか視線はそこではなくて、半分ほどまで捲りあげられた彼女の二の腕で止まる。
柔らかな腕のライン、筋肉もしっかりと付いているのに、触れると暖かく壊してしまいそうに頼りない感触を与える──女の、腕。
そのまま視線をあげれば、肩先から首筋へと続く甘いラインで、ふたたび視線が止まる。
髪の毛を結んだだけで、いつも金色の髪がサラサラと零れ落ちるそこが、それほど甘いラインを見せるとは思わなかった。
いつも見ている彼女の姿でも、少し髪型を変えただけで、見知らぬところが出て来ることもあるなんてこと──、知らなかった。
「──……。」
口元に浮かぶ笑みをそのままに、男は手の平を頬に当てて、柔らかな表情のまま、彼女の背中を見つめる。
強く抱き寄せたら、折れてしまいそうに細いと思っていた腰は、白いエプロンの紐を結んでいるだけで、もっと細く見える。
リボン結びにされたその紐が、ヒラリと揺れて、細い脚とヒップラインを強調するパンツが、いつも以上に甘く誘惑しているようで。
思わずその背中へ近づいて、彼女の体を引寄せてこの腕に閉じ込めたい衝動に駆られる。
けれど彼は、その衝動のままに動くほど、若い男ではない。
ただ、かすかに汗を掻いた手の平を、軽く握り締めて──幸せを噛み砕くように、穏やかに女の背中を見つめた。
シャラリと揺れる金色の髪。
トントントンとリズミカルに叩かれていた包丁の音が止まり、彼女は首を傾げるようにして少し離れたコンロで湯気を立てる鍋を覗き込む。
そして、包丁に野菜を乗せて、それを鍋の中に放り込む。
その拍子に横を向いた整った顔に、少し甘い色が滲んだ優しい──少しだけ照れたような色。
彼女は野菜を入れ終えた後、ふたたびまな板に向かおうとして、ふと視線に気付いたように男を振り返った。
チラリとこちらを振り返った深い青の瞳が、自分を見つめている男の視線とぶつかった途端、驚いたように見開かれて。
それから、キュ、と艶やかな唇を結んで、目元を赤く染めた。
「……テオさま……っ。」
小さくなじるような声に、男は、ふ、と眉を緩めて、
「どうした、ソニア?」
目元を意地悪気に歪めて、そう問いかける。
赤く染まった目元が、彼女の少し冷たく見える容貌を、可愛らしく見せていた。
そんな顔を彼女が見せるのは、どれくらいぶりだろうと──昔はもっと、自分の前でも素直な表情を見せていたのに、「将軍」の地位を継いでからは、ひどく大人びた表情しか見せなくなった。
だから、そんな彼女の照れたような、恥らったような表情が嬉しくて、男は自分の口元がやに下がるのを止めることはできなかった。
幸せそうな──嬉しそうなテオの顔に、ソニアは言いかけた言葉を飲み込み──包丁を、両手で握り締めて、
「──なんでもありません。」
そう呟いて、フイ、とふたたびまな板に向かう。
その唇が、甘い色を宿して一文字に結ばれているのを、男は気付いているだろう。
そう思うと、なんだか背中がムズムズしてきて──ソニアは、小さく身じろぎしながら、口の中だけで呟く。
「……リビングで待っててくださいって、言ったのに……。」
ぎこちなく、まな板の上に残っていた野菜に包丁を落として、ソニアは男の視線を背中に痛いほどに感じながら、目元の赤らみが頬、耳元まで広がっていくのを自覚せずにはいられなかった。
そしてテオは、そんなソニアの後姿を見ながら、柔らかな微笑を口元に乗せて──久しぶりに見るソニアの無防備な表情に、幸せな気分で、このときが少しでも長く続けばいいと──そう、思っていた。
***
扉を開けた瞬間、淡々と読み進める子供の声が一つ。
「──……そしてテオは、そんな彼女の髪から覗く白い首筋を甘く噛み、そのまま耳から頬へとキスを降らせ、彼女の華奢な体を……。」
聞えてきた内容に、思わずテオは床に突っ伏した。
ごんっ!!
激しい音がして、額が床と挨拶してしまったが、そんなことにかまっている暇はない。
いや、かまっている暇を持っていたら、どんどんと少年は先を音読していってしまう。
事実少年は、テオが部屋に入ってきたのに気付いているだろうに、読み進めるのを止める様子はない。
テオが床に手を当てて顔をあげた先で、少年はリビングのソファにお行儀悪く横になって寝転がっていた。
そしてその手には、一冊の本。
文字ばかりが並んでいるソレが、小説の類なのは間違いないのだろうけれど──、音読している内容が内容だった。
「そして、一方でソニアもまた、背中から感じる熱い視線に、自分の胸がジクリとうずくのを感じていた。
いや、うずいたのは胸ではない。もっとそれよりも奥……。」
「スイ! 何を読んでいるのだ、お前はっ!!」
さすが帝国の百戦百勝将軍、一瞬で起き上がり、ダッシュでソファで寝転んでいるスイの元に駆け寄ると、彼は息子の手から「18禁指定」のシールがデカデカと張られた本を奪い取った。
緑の背表紙のその分厚い本は、最近、帝国の裏社会で流行っている「実物をモデルにしたアダルト指定本」である。──最後のページに小さく「なお、本書のモデルは、実在の人物とは関係ありません」といううそ臭い文句が載っているという、「海賊本」とも呼ばれている品々だ。
なんでそんな大衆娯楽小説が、この家に──更に言えば、まだ12歳の息子の手にあるのか、テオはこの家の主婦とも言える男を捕まえて聞きたくてしょうがなかった。
「あっ! 父上ひどいっ! 僕、今読んでるのにっ!!」
「お前はこの文字が見えないのかっ!! 18歳未満は読んではいけないと書いてあるだろう!」
──厳密に言えば、問題はそんなところじゃない。
しかしテオは、あえてそこから突っ込んでみた。
そんなテオを見上げて、スイは唇を軽く尖らせると、
「だってそれ、期間限定発売だったんだもん! 18歳になるまで待ってたら、買えないんだもん!!」
「……まさかスイ……お前、自分で買ってきたのかっ!?」
スイが体にまとわりつきながら、本〜、と本に伸ばしてくる手を払いのけつつ、テオは仰天したように叫ぶ。
そうしながら、どこから見てもお子様なスイに本を売るとは、どういう了見だと、テオはこの後すぐに本屋に向かい、本屋の主人を叱らねばならないと思った。
だがしかし、そんなテオの心の誓いは、あっさりと、
「うぅん〜? ちゃんと予約も父上の名前でしたし、父上のお使いだって言っておいたよ!」
だから本〜、と、伸ばしてくる息子の言葉によって、掻き消えた。
同時にテオは、無言で自分が取り上げた本を見詰めなくてはならなかった。
つまり──何だ?
私は、私とソニアをモデルにしている18禁の本を、息子に予約させて買いに行かせる男だと──……そう……………………。
「──…………スイ………………。」
「父上、ご本返して〜。」
ぴょんぴょんとソファの上で飛び跳ねながら、片手を本に伸ばす息子は、可愛らしかった。
黒い髪が額の上でピョンピョンと景気良く跳ね上がり、愛らしい。
とても愛らしいのだが。
「スイ……、この本は没収だ。」
はぁ、と溜息を零して、テオは頭痛を覚えながら、後でこれを本屋に返しに行かねばと重く呟いた。
「ええええーっ!! だってそれ、父上がモデルだってクレオが言ってたのに〜!!」
「ダメだ。それから、勝手に私の名前を使うのも禁止だ。
……いいな、スイ?」
「はーい。今度はグレかクレオの名前にします。」
素直に片手をあげて誓い、テオの簡潔な言葉に、本を取り戻すことも諦めたらしかった。
しょぼん、とうな垂れながらも相当なことを言う息子に、やれやれとテオは肩を落しながら、
「────……………………本人達の了解を得てからにしなさい。」
溜息交じりにそう呟いて見せた。
それから、これから本屋に返しに行く本をチラリと横目で見やり──まったく、くだらないことを……と、頭痛を覚えた様子で、こめかみを揉むのであった。
──そして数日後、テオが本屋にソレを返しに行った直後に、その息子が本屋にやってきて、「それ、クレオが買うって言ってたーっ!!」と、ピョンピョン飛び跳ねていたというのは、全く別の話である。