「……テッド。」
 小さく、名を呼んだ。
 何かを思い、消えていった幽霊船を甲板の上で見つめている少年。
 とび色の髪と瞳の、まだあどけない幼さを残す少年は、もしかしたら自分よりも年上なのかもしれない──そう思った。
 あの時、あの瞬間。
 決意を滲ませて、唐突に幽霊船の船長に語りかけた後。
 脱いだフードの陰から見えた瞳の光りを認めた瞬間、なぜかそう思った。
 海を切る船の上に吹く風は、ゆるりと生ぬるく、頬を撫でていった。
「──……お前は、強いな。」
 答えが返ってこないのではないかと、そう思った頃……ぽつり、と、少年は海を見据えたまま、呟いた。
 その言葉が、自分に当てられたものだと理解するのに、少しの時間が必要だった。
「──強くなんて、ない。」
 ギリ、と握り締めた拳を見下ろし、呟く。
 グラグラと頭の中が揺れているような気がした。
 どうしてか、なんて分からない。
 でも、今までも、そして今も、一杯一杯で──ただ、目の前のことを見るのが、精一杯だと思っている。
 周りの期待が重いと思うと同時、その期待が全て──左手のコレにあるような気がして……ギリリ、と、左手を握り締めた。
 指なしの手袋に包まれた手を、チラリ、と見下ろして──テッドは、小さく溜め息を零した。
「強いさ──だから、その紋章を従えてる。」
「……………………。」
 ハッ、と、視線を上げた先。
 テッドは、無言で海を──おそらくは自分が囚われていただろう海面を見つめながら、甲板の手すりに両手を乗せていた。
 知らず、視線がテッドの右手に注がれた。
 そこに吸い込まれたまがまがしい光りを放つ紋章。
 「レックナート」と名乗った女性が、厳しい叱咤をした直後、光りはじめ──そして、その紋章に飲み込まれた「導師」。
 自分達には分からないことが、目の前の少年は知っている。
「この紋章が、何なのか、知ってるんだな。」
「俺と、同じようなものだろ?」
 シニカルに笑って、テッドは右手を見下ろす。
 その少年が俯いた拍子に見え隠れした苦悩の色とともに、レイドは幽霊船の船長が言っていた言葉を、心のうちで繰り返す。
「呪われた紋章──そう呼ばれる紋章を制するのは、本当に大変なんだぜ。」
 自嘲じみた笑みを浮かべて、テッドはそこでようやくレイドを見上げた。
 少したれ目がちの目に宿る光りは、レイドが知るどの人間よりも、ずっと疲れた──そして老成した色を宿していた。
「それでも──その紋章を、制する力を持つからこそ、アイツは、あんたに目をつけた。」
「………………。」
 レイドは無言でテッドを見つめた。
 脳裏によみがえるのは、初めてこの紋章と対峙したときだった。
 疲弊しきった目をした──何かに飢えたような、でも疲れたような、そんな男……海賊が、掲げた手の平。
 とどろく悲鳴の色に、一瞬意識が遠くなったのだ──なのに、クラリ、とうずいた芯が、その悲鳴を心地よく感じていた。
──……次…………か。
 呟いたブランドの言葉の意味が、今なら分かる。
 紋章を制する力を持たぬものが、どうなるのかも、理解できた。
 あの砦の自室で、必死に左手と戦い続けていた団長の姿。
 一度の放出で、その命を失った団長──。
「紋章を制する力がないと、生きながらの紋章の受け渡しや封印って、できないみたいでさ……俺も、アイツに渡した後に知った。」
 ヒラヒラと、右手を翻しながら呟いて──なぁ、と、テッドは小さく笑った。
「真の紋章を持つということは、これを失うと同時に命を失うとも言うことだ。
 それでも──それでも、紋章を手放したいと思うほどの苦痛を、あんたも、背負っていくだろう。」
 あんたも。
 噛み締めるように言うテッドを、レイドはただ静かに見つめた。
 その、戸惑いとも確信とも取れる瞳を見返して、テッドは淡く微笑む。
──出会って初めてみた、彼の微笑だった。
「おれは、一度はその誘惑に負けた身だ。
 でも、レイドのおかげで、それを断ち切る覚悟が出来た……また再び、呪いに身を投じても尚──おれは、おれの人生を貫かなくちゃいけない。」
 それは、自分自身に言い聞かせているようでいて、レイドに言い聞かせているようにも思えた。
「……呪われた……人生だと?」
「──さぁ、まだおれ……。」
 ヒョイ、と肩を竦めて、そこでテッドは一度言葉を区切った後──茶目っ気たっぷりに微笑んで見せた。
「まだ、150年くらいしか生きてないから、わからないな。」
「──……っ!」
 思わず目を見開いたレイドに、テッドはコツコツと右手を左手で突付きながら、
「そーゆーことなんだ。
 ……お前の罰の紋章は、俺のと違って持ち主の命を食うから、さすがにソコまでは生きれないだろうけどな。」
 笑った。
 何かを達観したような──そんな笑い方だった。
 諦めと、にじみ出る意思と、決意と、強さ。

 強いのは、おれじゃない。

「──……選ばれたのは、運命のいたずらかもしれない。
 それでも──お前は、その紋章を得て、得るものがあったと思うと、そうおれに答えた。
 俺は………………だから。」
 テッドは、もう一度海面に視線を走らせた後。
「時間の許す限り、ここにいるよ。」
 テッドにとって、最大限の……言葉だった。

「お前の傍で、できる限り、力を貸してやる。」



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