左手の紋章を解放した後は、いつも世界が暗転する。
 黒と赤の渦巻く奇妙な世界。
 ただ前にしか進むことのできない悪夢の──おそらくは、紋章が見せる夢の中。
 いつものように、足を前へ踏み出した。
 初めて見たときは、悲鳴のような痛みが、じくじくと胸に響いてきたけれど、今は違う。
 慣れてきた──のだろうか?
 これで五回目。
 大人、子供、ブランド、グレン。
 今度は、誰を切り……解放してやればいいのだろう?
 解放してやるほどに、何かが変わっていくような気がした。
 でも、同じくらい、何も変わっていないような気がした。
 それでも、紋章の夢を見るたびに、ジュエルやポーラが不安そうな目をしていたのを思い出すと……何か、自分では分からないところが変わってしまっているのかもしれない。
 けど、もう、いい。
 だって──終わったのだから。

『紋章の意思……確かに受け取りました。』

 また目の前に赤い光りが見えてきた瞬間、ふ、と、レイドの脳裏に響く声があった。
 現実の声ではない、ましてやいつも紋章の中で聞いてきた、頭に直接訴える声でもない。
 それが誰のものだったのか思い出そうとすると同時、すぐに答えは出た。
 レックナート、と名乗った女性のものだ。
「…………。」
 彼女は、この紋章が意味を変えたと、そういっていた。
 知らず赤い光りの前で足を止め、右手を見下ろす。
 多くの人の命を一瞬で奪い、跡も残すことはない。
 強大であるが故に、その代償もまた大きく……持ち主を苦しめることが生きがいのような紋章。
 制することが出来なければ、周囲の人間を巻き込んで全てを灰に変え、制することができたなら……。

『それは、今のわたしには……わかりません。』

 どうなるのだろうと、思いながら、手を、伸ばした。
 赤い光。
 明るいわけでもないその光が、なぜか目に染みた。
 そして、見開く視界の前で。
 穏かに微笑む──女性が、笑って、
「……おかえりなさい。」
 手を、差し伸べてきた。
 呆然と目を見開いて、レイドはその人を凝視した。
 ──知っている人のような、気が、した。
 それも、良く知っている人のような気がした。

 罰の紋章が持つ意味は、罰と──…………

 目の前で微笑む女性は、ただ穏かに笑っていた。
 その顔を、ただ、じ、と見つめた。
 どうしたらいいのか、分からなくて。
 ただ、ジ、と──見つめていた。


 ふ、と──意識が戻った瞬間、レイドはまっすぐに正面を見つめていた。
 先ほどまで自分達が居たエルイールの砦は、いつものように、何もかもが跡形もなく消えうせていた。
 恐ろしいほどの効力を前にして──それでもなぜかレイドは、いつものように胸の痛みを覚えることはなかった。
 ただ静かに……それを見据えていた。
「レイド……大丈夫?」
 心配そうに尋ねてくるジュエルたちの声も耳にはいらず、ただレイドは、ジ、と、海を見つめた。
 紋章の夢の中で、穏かに微笑む女性を、ただ見つめることしかできなかったように。
 ゆっくりと、目を瞬いた。
 その拍子に、左目から──ほろり、と、涙がこぼれた。
「………………レイド……………………。」
 つぅ、と、伝った涙をぬぐうこともせず、ただレイドは静かに前を見つめ続けた。

 不思議と胸の中は、ひどく……穏かだった。


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