「……眠い………………。」
コシコシ、と無邪気な動作で目をこすり始めたスイに、隣で絵本を広げて呼んでやっていたグレミオが、小首をかしげてその手首をソとさらった。
「ぼっちゃん、おめめはこすったらダメですよー。」
「ん、でも、眠くて痛いの。」
ぱちぱちと目を瞬いたその端に、うっすらと涙が浮かんでいるのを認めて、グレミオはチラリとすがすがしい青空を見上げた。
空は晴天晴れ。
うららかな日差しが柔らかく舞い降りる木陰で、時折吹いてくる涼しい風が、サラリとグレミオの髪を揺らしていく。
その優しい微風に、グレミオは軽く目を細めて、しょぼしょぼする目をぱちぱちと瞬き続けているスイに、そうですねぇ、と困ったように眉を寄せる。
「ちょうど、昼食後ですしねぇ……お昼寝の時間といえば、そうなんですけど。」
小さいころのスイならば、この時間は確かに寝ていた。
けれど──大きい体のスイにまで、そのお昼寝時間が該当するかと言えば、微妙なところだ。
もともと、昼食後のようなお腹がいっぱいになるときは、眠くなるものである。
小さいころなら、そのまま寝かせてやっても、夜には夜でまた眠くなるのだから問題はないのだが──今のスイの体で、果たして、今眠らせてやってもいいものなのかどうか。
きちんとした判断ができない「5歳児」の頭脳のスイが、夜中に眠れないからと、チョコチョコと出て行くのは、想像に難くない。
そして、当時からトラブルメイカーの名前を頂戴していたスイが、夜中にうろうろして、問題を起こさないはずがない。──しかも、小さくて「つぼに手が届かないの」「棚に手が届かないの」といっていた当時と異なり、ツボにも棚にも手が届いてしまう身長なのだ。しかも大きくなってから、一応培った「いけないこと」の判断が、今のスイにはできないのだ。
「今、お昼寝しちゃうと、絶対、夜、起きちゃいますよねぇ……。」
片頬に手を当てて、それはいけませんねぇ、と困ったように眉を寄せるグレミオに、スイは目をショボショボさせながら、膝でズズズと移動してきた。
そして、グレミオの伸ばされた脚を、ポンポンと叩くと、
「あふ。」
小さく欠伸をかみ殺し、悩んでいるグレミオをまったく気にせず、そのままコテンとその場に横になった。──グレミオの膝の上に頭を乗せて。
とたん、あっという間に瞼が重くなって、スイはそのままウツラウツラと夢の世界に旅立とうとした──ところで。
「あっ、ダメですよ、ぼっちゃん! 今、寝ちゃダメです!
お昼寝は厳禁ですよ!」
考えれば考えるほど、お昼寝はマズイ、という結論に達さざるを得なかったグレミオが、慌ててスイの両脇に手を突っ込んで、彼の体を起こした。
「むぅ〜。」
軽く唇を尖らせるスイの顔に──13を越えたころからスイが見せなくなったその無防備な表情に、グレミオは小さく笑いを零しそうになりながら、あえてそれをこらえて、メッ、と眦を吊り上げた。
「ぼっちゃん。今朝も言ったと思いますが、今のぼっちゃんは、ちょっと事情があって大きくなっているんです。
大きくなったこのお体では、お昼寝なんてしちゃったら、夜、眠れなくなっちゃうでしょう? 我慢してください。」
「体がおっきくなってても、僕、5歳だもん、お昼寝しないとおっきくなれないって父上、いつも言ってるもん。」
ぷくう、と頬を膨らませるスイに、グレミオはそれでもダメです、と頭を振って、スイの体をその場に座らせる。
「グレ、眠いの。ひざまくらして。」
スイはそれでも引き下がらず、クイクイ、とグレミオの服のすそを引っ張る。
けれどグレミオはそれにフルリとかぶりを振りながら、片手をかざして、きっぱりと断る。
「ダメです。」
それから、そんなに眠いなら、少し運動でもしますか? ──と、グレミオが絵本を蓋しながら、そう笑いかけようとしたその瞬間だった。
「おー、それじゃ、スイ、俺の膝に来いよ。」
ヒラヒラヒラ〜、と、少し離れた場所で、仰向けにひなたぼっこをしていたシーナが、にんまりと満面の微笑を浮かべて、手のひらを振った。
「シーナおにいちゃん?」
振り返ったスイが、きょとん、と目を瞬くのを見て、シーナはますます相好を崩すと、
「おー♪ ほら、こっち来いよ。」
にっこりと笑みを深くしながら、シーナは両手を広げてスイを手招く。
「って、ダメですよ、シーナ君っ!」
慌ててグレミオが引き止める声をあげるよりも早く、スイはキラキラキラっ、と顔を輝かせて、
「行くっ!!」
ぴょんっ、と元気良く飛び上がった。
そしてそのまま、スイはグレミオが止めようと出した手をすり抜けて、シーナの元へと駆けていこうとする。
シーナはそれを見て、よしよし、と笑みを広げた──その瞬間。
「スイ、シーナんとこじゃなくって、こっちに来い。」
通り抜けた道すがら、シーナと同じようにひなたぼっこの最中だったビクトールが、駆けていくスイの体を、ヒョイ、と軽やかに掴みあげた。
「わぁっ!」
「って、ビクトールのおっさんっ!」
驚いたように目を見開いたスイの体が、思った以上にすんなりと自分の腕の中に落ちてきたのに、ビクトールはクックッと楽しげに笑い声を零した。
──15のスイの体をしてはいるけれど、中身は5歳児という言葉が、こういう時に良くわかる。
いつもなら、すかさず回し蹴りくらい飛んで来るだろうに、今日は素直すぎるほどあっけなくスイの細い腰が腕の中に納まるのだ。
すっぷりと胡坐をかいた足の上にスイの体を囲い込んで、ビクトールは彼の頭をクシャクシャと撫で回ってやる。
「シーナのいやらしい誘いなんて乗ったらダメだぜぇ? なーにされるかわかんねぇからな?」
「んなことするか!」
ビクトールの言葉に、シーナが弾けるように叫ぶが、スイはそっちに顔を向けずに、顎を逸らせてビクトールの顔を認めると、不思議そうに首をかしげた。
「くまのおじちゃんがひざまくら、してくれるの?」
「おーおー。いくらでもしてやるから、ゆっくり眠れよ。」
ニヤニヤと笑いながら──素直で可愛いスイって言うのも、今限定でしか楽しめないだろうからな〜、と、ビクトールは彼の柔らかな頭をクシャリと乱しながら、ポンポンと太ももを叩く。
するとスイは、にっこりと満面に微笑み、いそいそとビクトールの膝の上から降りて、その上にコテン、と横になろうとした──ところで、
「ダメですよ、ぼっちゃんっ!!!」
鋭い──悲鳴のようなグレミオの声に、びくんっ、と、動きを止めた。
振り返れば、グレミオが怒ったような表情で、ダメです、と繰り返すところだった。
「今眠ったら、夜、眠れなくなっちゃいますよ!
テオさまもおっしゃっていたでしょう!? 夜、いつまでも寝れないと、悪い子はいねぇか〜って怖いお化けが来るんですよってっ!!」
「う……。」
──正しくは、夜眠れないと、退屈したスイが城の中を徘徊しながらいたずら放題してくれるので、手に負えない……というのが本当のところなのだが。
グレミオが、メッ、です。と繰り返せば、スイは戸惑ったように目を揺らしながら、ビクトールの分厚いふとももに置いた自分の手のひらと、ビクトールの愛嬌のある顔、そしてグレミオの厳しい視線とを交互に見やって、しゅん、と頭を落とす。
「おいおい、グレミオ? んなこと言ってやるなよ。眠いときには寝かせてやりゃー、いいだろうが?
気にするな、スイ。ほら、眠いんだろう?」
優しくポンポンと頭を叩きながら、ビクトールが微笑んでやれば、にっぱりとスイは笑って、コクコクと頷いて彼の膝に頭を預けようとする。
そこへグレミオが、
「ダメです! ビクトールさん、あなたはぼっちゃんが、寝れない夜に、どれっっくらいのいたずらをするのか知らないからそう言えるんですよ! 明日の朝、起きた時に眉毛が全部なくなってても知りませんよっ!!!」
「────……って、5歳児だろーが?」
ビシッ、と言い張った内容に、5歳児が落書きならとにかく、そんないたずらができるのかと呆れてみせるビクトールに、グレミオはきっぱりと頷く。
「5歳児だからその程度で済むんですっ!」
「…………んなすごいのか?」
ビクトールは、クイ、と顎でスイをしゃくって尋ねる。
グレミオはそれに頷いて、「当時」のことを話し始めた。
スイはもう、眠さが限界に来たのか、うつらうつらと半ば瞼を落としている。
今にもコックリコックリと船を漕ぎそうな雰囲気に、シーナが苦笑いをしながら、こっち来い、と手招けば、眠さのピークでそろそろまともな判断力が失われてきたらしいスイは、四つんばいになりながらシーナの元へのそのそと歩き始め──けれどその途中で、力尽きたようにぺったりとその場にしゃがみこむ。
もぞもぞと目元をこすったスイは、はっ、としたように手のひらを離して、それからキョロリと辺りを見回し──すぐそこに青いマントが広がっているのを見て、うん、とこっくり頷いた。
「スイ?」
少し離れたところで、スイが近づいてくるのを待っていたシーナは、どうしたんだといぶかしげに眉を寄せる、──が。
スイはそんな呼びかけに答えることなく、もそもそと青いマントのそばまで行くと、ぺしぺしとそこから伸びる足を叩いて、
「青いおじちゃん、おひざ借りるね〜。」
──起きていたら、「俺は青くもおじちゃんでもねぇっ!!」と怒鳴りそうなことを呟いて、ころり、と横になった。
とたん。
「ってコラコラ、スイっ! お前、なんでよりにもよってフリックさんの所に寝るんだっ!!」
慌ててシーナが、ダッ、と地面を蹴ってスイの元に駆け寄る。
そして、すやすやとお昼寝中のフリックの膝の上で定位置を決めたスイを持ち上げようとしたところで、ペシ、とスイの手のひらに払われる。
「スイ〜っ、俺の膝の上に来るって言っただろーっ!?」
「だめ、僕もう眠いの。青いおじちゃんで我慢する。」
フルフルと力なく頭を振りながら、フリックの硬い太ももに頬を摺り寄せるようにして、スイはフゥと安堵の吐息を漏らした。
そしてそのまま、きゅぅ、と目を閉じる、が。
「ったく、しょうがねぇなぁ。」
ため息を漏らしたシーナは、こりこりと頭を掻いた後、フリックの隣に腰を落とし、スイの頭をソッと持ち上げると、その頭を自分の膝の上におきなおす。
ずっしりと重くのしかかる感触に、シーナは笑みを広げて──、よしよし、可愛い可愛い、と笑いながら、その柔らかな髪を梳いてやる。
スイは、突然頭の下を差し替えられた感触に、ムゥ、としたようにショボショボする目を開いてシーナを軽くにらみつけたが、頭を柔らかに梳かれて──気持ちよさそうに目を細めて、にこぉ、と笑った。
──そのときであった。
「………………何やってんの、バカじゃないの、君たち?」
本拠地の入り口の方角から、呆れたような声が乱入した。
シーナは聞きなれたその声に、んー? と肩越しに振り返ると──想像通りの人影が、そこに立っていた。
日差しを背に背負っているため、表情は逆光で良く見えない。
けれど、彼がひどく不審そうに──そして不機嫌そうな表情をしているのは、目で認めなくてもわかった。
「おー。ルック? どうだ、お前も俺の膝枕で寝てみる〜?」
片方空いてるぜ、と。
からかうようにウィンクをしてみせれば、ルックはこれ以上ないくらいの冷たく冷ややかな眼差しを見せ付けてきた。
それに、あははは、とシーナが軽く笑った瞬間──……、
「えっ、ルックおねえちゃんっ!!?」
ガバッ、と。
シーナの膝の上で寝転んでいたスイが、起き上がった。
そして、キラキラキラ、と輝く双眸で、シーナの背後に立つルックを認めたかと思うや否や、ルックの嫌悪と恐怖の眼差しにもまったくひるまず、ヒラリと身を翻して、
「ルックおねえちゃん、一緒にお昼寝しよーっ!!」
とぅっ!!! ──と。
子供の勢いそのままに、ルックに向かって、ダイブした。
当然、非力な魔法使いであるルックが、正真正銘の5歳児ならとにかく、立派な15歳男児──しかもルックより上背があるスイの体を、受け止められるわけもなく。
「──おい、スイっ!?」
慌てるシーナの制止もまったく間に合わず、ドタンッ、と。
勢い良く、地面に仰向けに倒れることとなった。
とっさに、ルックが風の紋章を発動させたらしく、勢いは多少殺されていたようだが、のしかかるスイの体重分だけ、痛みはあったようである。
ルックは顔を怒りに引きつらせ、自分の腰に腕を巻きつけているスイを、ギッ、と睨みつけると、
「──君っ、……何考えて……っ!!」
自分の胸元に頭を乗せているスイの首根っこを掴んで、そう叫びかけるのだが。
「あのね、僕ね、膝枕が好きなの〜。」
キラキラキラ、と、子供の純粋さで見上げてくるスイの顔に、ゾワッ、と背筋が粟だった瞬間……ルックの喉は、凍りついたように動かなくなった。
そのルックの嫌悪の表情を認めた瞬間、スイはニパァ、と純粋無垢な微笑を浮かべて、彼の表情を「自分にいいように理解」した後、もぞもぞと起き上がると、ぺこん、と三つ指ついてお辞儀をした。
その動作に、ナニが起きているのかわからないまま、ルックが引きつる前で。
「ふつつかものですが、どーぞよろしくおねがいします。」
──誰が教えたんだ、この挨拶。
そう思うようなことを宣言した後、スイはこれで一安心とばかりに、ころん、と、ルックの膝の上に頭を乗せた。
瞬間……、
「────……っ!!!!!!」
ルックの肩がビクリと跳ね上がり、ぞわぞわぞわぞわっ、と走った悪寒と恐怖に、背筋が震え上がったが、その動作で膝の上に乗ったスイの存在がなくなるわけでもない。
慌ててそれを退けようと手を伸ばしたルックは、すでに目を閉じ、スヤスヤと無邪気な笑顔で昼寝に着くスイのそれに、手が止まった。
そのまま、困惑した表情で見下ろす先で、スイは無邪気に眠り続けている。
それに──いったいどうしたらいいのかと、困惑したルックに。
「おー、すっげぇ、あっと云う間に熟睡してるじゃん。」
呆れたような表情で、シーナが膝を覗き込む。
それに大して、ルックが何か言おうとするよりも早く、シーナの反対側から、
「本当だな。やっぱ、スイは『初恋のルーちゃん似』のルックおねえちゃんの膝がいいってか〜。」
ビクトールが、呆れたように腰に手を当てながらニヤニヤと笑って言ってくる。
更に、ついさっきまでスイのお昼寝に大反対していたグレミオまでもが、
「ぼっちゃん、ぐっすりおねむですね〜、さすがルック君です!!」
──そんなことを言ってくるから。
ルックは、起き上がりかけた上半身を、そのままフラリと揺らがして──パタリ、と、背中から倒れて見せた。
不機嫌に風の紋章を開放するのはとても楽なことだ。
楽しそうに膝の上の「生物」を見つめるビクトールやグレミオ、シーナの目はひどく不愉快で気に食わなかったが──それでも。
──膝の上のぬくもりをどけるのは、なぜか忍びないような気もして。
「…………………………今回だけだからね。」
しぶしぶと言った風に、ルックはイヤイヤ呟いてため息を漏らした。