会議室では、5歳児までオツムが退行してしまったという軍主について、延々と話し合いが行われていた。
 その結果をおとなしく待っていなくてはいけない渦中の人物であるスイは、少し前にお腹が空いたとグレミオに泣きつき、二人で厨房へと消えていった。
 ──本当は、クレオもその二人についていこうと思ったのだが、会議室の話し合いの結果がココへ運ばれてくるために、留守番をすることになったのだ。
 そうやって、ぽつん、と一人になってしまえば、愛らしいスイを前に、考えずに居たことが、次々に思い浮かんできて、クレオは目の前のテーブルにコツンと額を当てた。
 頭を巡るのは、5歳だった頃の、初々しくも愛らしいぼっちゃんの姿である。
 パッチリとしたお目々と、ふっくらと桜色の唇。白い頬をほんのりと桃色に染めて、ニッコリ笑ったその愛らしすぎる顔は、当時、継承戦争の本拠地であったパンヌ・ヤクタの城でも大人気だった。
 1日1ぼっちゃん笑顔と言われるほどに、本当にもう、なんて言っていいのか……側から離れるのが不安でしょうがなかったのだ。
 当時、皇太子であったバルバロッサ陛下の、腹心の部下であるテオが父親でなかったら、どこぞに浚われて監禁されて、人様に言えないようなことをされてしまうかもしれないほど、かわいかったのだ。
 ──実際、一回、誘拐されてるし。
 あの時も、凄い騒ぎだったのを思い出して、クレオはげんなりとした顔で額に手を当てながら、ゆっくりと顔をあげる。
 パンヌ・ヤクタの城を攻め落としたばかりで、新たに仲間になったクワンダ・ロスマンや、合流した旧解放軍の連中との間で、ゴタゴタが治まっていないというのに。
 よりにもよって、そのゴタゴタの原因の一端である、軍主さまが──記憶退行?
「……──なんて先行きが不安なんだ…………。」
 げんなりとした声でそう呟いた瞬間──ガチャ、と、ドアが開いた。
 ハッ、と顔をあげて扉を見やれば、ビクトールが室内に入ってくるところだった。
「ビクトール。」
「よぅ、クレオ。どうした、顔色がずいぶん悪いじゃねぇか。」
 ノックくらいしないか、と、顔を顰めながら名前を呼べば、ビクトールはがりがりと頭を掻きながらヒョイと肩をすくめる。
「顔色も悪くなるに決まってるだろう? よりにもよってスイさまがあんなことになって……。」
 フルリとかぶりを振って、クレオは身をよじるようにしてビクトールの顔を仰ぎ見る。
「それで──ビクトール? スイさまはどうなったんだ?」
 心配そうに問いかけるクレオに、ビクトールは安心させるように笑うと、
「ま、とにかく、こうなったらしょうがねぇから、開き直るしかないだろ?」
 ──安心できないような一言を、自信満々に言ってくれた。
「ビクトールぅ? あんたたち、これからどうするのか話し合ってたんじゃないのかい?」
「やー、初めは、黙ってようと思ったんだけどよ?
 これが記憶喪失ってんなら、もう少しばかり話は早いんだが、オツムが5歳児だからな……どう繕っても、今のスイとは性格や行動が違う。すぐにばれるのがオチだ。
 だから、とりあえず主要メンツにだけはスイが記憶を退行させたことを話しておこうってことになってな。」
「──……あぁ、そうだねぇ。ぼっちゃんのあの性格は、生まれつきだけど──あそこまで表に出たのは、継承戦争のゴタゴタのせいだからね。」
 5歳児なら、まだその真ん中くらいだろうから、性格がちょっと表だってきた……程度でしかないだろう。
 はぁぁ、と溜息を零しながら、クレオは前髪を掻き揚げて、柳眉を顰めた。
「なんつぅか──ありゃ、凶器だな。」
 そんな疲れたクレオを見下ろして、ビクトールは苦い笑みを刻みながらそう呟く。
 脳裏に思い描いているのが何の光景なのか、聞く気にもなれなくて、クレオはフルリとかぶりを振る。
「ぼっちゃんの笑顔だろう? 今と違って、無邪気な分だけ──性質が悪いんだろうね。」
 ビクトールの言いたいことを寸分違わず口にしながら、クレオは少し想像をしてみることにした。
 解放軍に入る前のスイが浮かべる無邪気な笑みも、なかなかに純粋無垢のように見えて、グレミオに対しては問答無用の凶器であったが──、小さい頃のスイの微笑は、本当に天使のようだった。
 あの天使のような微笑を、端正に整った今のスイの顔で浮かべられたら………………、
「……………………………………物陰に連れ込まれなきゃいいんだけど。」
 大きいぼっちゃんが相手なら、そんな心配なんてしなくてもいいのに、と思うようなことが頭を掠めて、はぁ、とクレオは再び溜息を零す。
「それで、ビクトール? そのぼっちゃんの記憶退行だけど、どんな感じなんだい? 完全に今の記憶はないの?」
 ちらりと欠片でも、思い出した気配はないの、と。
 そう不安そうに問いかけるクレオに、ビクトールは両手のひらをポンと合わせた。
「おう、それなんだけどな? とりあえず、マッシュと相談した結果、スイにはこう説明しておくことにしたんだ。」
 うんうん、とうなずく男を、クレオは不審げに見上げる。
「説明?」
「おう。パンヌ・ヤクタの城が攻め込まれるって情報が入ったから、城内に居た人間は、バラバラになって疎開することになったってぇな!」
「……………………ハ?」
 自信満々に胸を張って言い切るビクトールに、クレオは驚いたように目を見張る。
「そか、い?」
「そうだ。
 いいか、クレオ? お前とグレミオは、スイを連れてこのシュタイン城に疎開してきたことになってんだ。
 ココに居るのは、パンヌ・ヤクタとは違う場所にいた同士って言う設定になってる。」
「…………設定。」
「だから、お前もそれを頭に入れて行動してくれ。」
 ニヤリ、と、これ以上ないくらいの完璧な背景の完成だと、そう笑ってみせるビクトールの無骨な顔に、クレオはマジマジと魅入ってしまった。
 その、大雑把な顔だちをシゲシゲと無駄なくらい見つめると、ビクトールが照れたように、へへ、と笑った──ところで。
 無精ひげが生えた顎辺りの肉を、思いっきり、ギニュゥ……と抓ってやった。
「おわたっ!! あたたっ、いたっ、クレオ、何すんだっ!!!?」
「何するんじゃないだろ、バカビクトールっ! あんた、何バカ言ってるんだいっ!!?
 っていうか、ぼっちゃんが記憶退行して真っ先に考えたのがソレなのかいっ!? まずはじめに、ぼっちゃんがどうして退行しちゃって、治る見込みがあるかどうかを考えるのが先決だろーがっ!!!!!!」
 何考えると聞きたいのはコッチの方だ、と。
 ギリリと目元を吊り上げて──あまりの情けなさに、クレオは涙すら滲んできて、ついでとばかりにビクトールの耳タブも引っ張っておいた。
 そしてそのまま、ガンッ、と左側にビクトールの頭を投げ捨て、おまけとばかりに弁慶の泣き所も蹴っておいて、ドッカリと椅子に座りなおす。
「だいたいねっ! ぼっちゃんは5歳の時だって、そりゃもうお利巧さんだったんだよ!? 教えてもないのに、照明弾は持ち出すわ、地図の見方は知ってたわ、挙句の果てに、1人で野宿なんてものを一体何回しでかしたことか……っ!!
 そんなぼっちゃんだからこそ、そんな隠すなんてことをせずに、もう少しだねぇ……っ!!」
 そりゃ、テオ様のこととか、バルバロッサ陛下の乱心のことなどは、とてもじゃないけれど口には出せないが。
 それでも、「本当はぼっちゃんは今15歳で……」と、それくらいは説明するべきだろう!?
「そもそも、いくらなんでも、自分の体が成長してることに疑問を覚えるだろうっ!? そうなったら、なんて説明するつもりなんだい!?」
 まったく、と、ヤツ当たり半分に、ビクトールのケツを蹴り飛ばして、クレオは頭を抱えたくなった。
「……いや、だからそれは、右手にある紋章の影響とかどうとか……。」
 ヒラリ、と床に突っ伏した状態で右手を揺らすビクトールに、クレオはフルフルとかぶりを振る。
「それこそ無理があるだろう? それくらい、考えたら分かることじゃないか。
 一体、あんたたちは何を…………。」
 相談していたんだ、と、クレオは再び声を荒げることはできなかった。
 なぜなら、口を開いたと同時──、
「くっれおーっ!!!」
 バフゥッ! と──音がするほど激しい勢いで、背後からスイが抱きついてきたからである。
「──……っ!!!」
 ガタガタガタッ、と椅子が大きくゆれ、そのままテーブルをひっくり返して倒れこみそうになるのを、慌ててクレオは足と腕を使って堪える。
 そんなクレオの慌て様にまったく気づかない様子で、彼女の首に腕を回して、背中にスリスリと懐いてきたスイは、そのままの動作でコトンとクレオの肩口に顎を置いた。
──クレオが飛び込んでくるスイの体重を受け止められなくなってからはしなくなった仕草だ。
「ぼぼ……ぼっちゃんっ!?」
 驚いて、背中に感じる温もりを振り返れば、目と鼻の先でフワリと漆黒の髪が揺れていた。
「うん、あのねー、クレオー。」
 ニッコリ、と無邪気に──子供特有の、あどけない笑顔でスイは笑うと、くり、と小首を傾げる。
 子供の頃のスイが、そんな風に甘えた仕草をすれば、思わずギュゥと抱き締めたくなるくらいかわいかったが──今の容貌でされると、危険なくらいかわいかった。
「……ぼっちゃん………………。」
 なんと言っていいものか、と、困ったように眉を寄せるクレオに、スイはパタパタと足を揺らしながら、
「一緒にお風呂入ろ〜?」
 キュ、と、クレオの首筋に抱きついた腕に力を込めて笑った。
「…………………………ぼっちゃん…………………………。」
「グレがねー、今、手が離せないから、お風呂はクレオと一緒に入ってもらえって言うのー。
 ほら、アヒルさんもらっちゃったー。」
 フリフリと手にしていた黄色いアヒルを揺らして、スイはクレオの首筋に甘えるように頬を埋める。
 目の前で無邪気に揺らされるアヒルを見つめながら、クレオはちょっと遠い目になってみた。
 ──というか、ならざるを得なかった。
「……グレミオ…………あんた、ぼっちゃんが見た目15歳だって、すっかり忘れてるだろ…………。」
 がくり、と肩を落とすクレオに気づかぬ様子で、スイはニコニコ笑いながら、
「シーナお兄ちゃんがねー、クレオと一緒に入るなら、一緒に入りたいって言ってたけど、みんなで入ってもいーい?」
 たくさんで入ると、楽しいよね? ──と。
 無邪気な子供の道理で笑うスイの言葉に、クレオは厨房に一緒に行かなかったことをとても後悔した。
 いや、後悔すると言うなら、会議に参加しなかったことも悔やまれるのだが──。
「……ぼっちゃん。」
「ぅん?」
「とりあえず、お風呂は後回しにして、グレミオとシーナ君の所に行きますよ?」
「みんなでお風呂ー?」
 笑うスイの顔は、キラキラと輝いていて、とても可愛らしかったので、クレオはサラサラの髪の毛を優しく指で梳いてやりながら、
「そうですね……、皆でお風呂に────沈んでもらわないと………………。」
 柔らかな笑みを一瞬黒い色に変えて、フ、と、天井の辺りを睨みつけた。
 そんなクレオと、喜んでクレオに懐くスイの側では、ビクトールがこれ以上巻き込まれてはたまらないとばかりに、匍匐全身して逃げていく姿が見受けられたという…………。