────ねぇ、小さい頃って……どんな子供だった?
────え、僕? 僕は……そうだなぁ。ごくごく普通の、目立たないような子供だったと思うよ。……大人ばかりに囲まれてたから、あまり目立たないように、してた、かな。
「スイ……っ! おい、スイ!? スイ、大丈夫かっ!?」
目の前の暗闇の向こうから、声が聞える。
テノールの、落ち着いた口調で語れば耳に心地よいに違いない声。
こうして聞いてると、「 」って、声も男前に聞える。
ふとそう思って、明瞭な言葉にならない名前に、首を捻る。
──いや、捻ったつもりだった。
けど、体はまるで鉛のように動かない。
「スイ!? 返事しろ!」
「返事が出来なくてもいいから、指でもなんでもいいから動かせ! スイ! 聞えてるんだろう!?」
男の声に重なるように、頭上から降って来る聞きなれた声。
その男の声にも焦りが──いつも飄々としていて、焦らなくちゃいけない場面でも、堂々と開き直るような男が、今はなぜか聞いた事がないくらいに焦ってる。
何を焦ってるんだと、クスリと笑いかけようとして──あぁ、そういや僕、体が動かないんだったっけ、と思った。
「スイ!!」
泣きそうに聞こえる二人の男の声に、ちょっとは落ち着け、と、そう笑いかけようとして。
──あー、だから、動けないんだよねー。
と、自分の体が動かないことを不思議に思うこともなく、遠く……そんなことを思った。
まるで人形のように生気のない表情で眠り続ける少年の手を、ギュ、と握り締めながら、グレミオは泣きそうな顔で滑らかな頬を指先で撫でる。
「ぼっちゃん……。」
グッタリと力を無くした体を医務室に運ばれてきた時には、心臓が止まるかと思うほどに驚き──全身を貫く恐怖に、悲鳴を押し殺すことが出来なかった。
クレオやフリック、ビクトールに押さえつけられるようにして宥められ──ようやく、落ち着いてスイの傍にしゃがみこんだ時にはもう、スイが運び込まれてから2時間もの時間が過ぎていた。
その間も、スイはただコンコンと眠り続けている。
それは、ただの眠りではない。──まったく表情のない、死に顔のような昏睡状態だ。
「あぁ……ぼっちゃん……、やっぱりグレミオが、あの時ぼっちゃんを置いて行かなかったら──……っ。」
喉を震わせて、グレミオはスイの手のひらが白くなるほど強く握り締めた。
そんな彼の背中を辛そうに見つめて、そ、とクレオが吐息を零す。
「グレミオ、落ち着け。」
低く、小さく零したクレオの言葉に、グレミオはフルフルと弱くかぶりを振った。
「だってクレオさん──っ、もし、私がお傍に居たら、ぼっちゃんにこんな怪我を負わせることなんて……っ!」
「なかったと言いきれるのか、本当に?」
バッ、と顔をあげたグレミオを、クレオは上から見下ろすように冷静に呟く。
その、ヒタリ、と喉元に付き付けられた刃のような鋭い言葉に、ヒュッ、とグレミオは息を飲む。
「なかったと、言いきれるか?
──スイ様は、もう子供じゃない。グレッグミンスターの、お屋敷で、イタズラをしていた子供じゃないんだ、グレミオ。」
クレオは目を細めながら、呆然と目を見張るグレミオと──そして、白いシーツに包まって、目を冷ます様子を見せないスイを、悲しげな目で見つめる。
スイの額には、白い包帯が巻かれている。いつも頭を覆っていたバンダナが取り除かれ、黒い髪の中にうずもれた白いソレが、イヤなくらい目に焼きついた。
「……クレオさん………………。」
「いいかい、グレミオ? あんたが傍にいたからと言って、スイ様が怪我を一つもしないわけじゃない。スイ様はもう、マクドール家のぼっちゃんなんかじゃないんだ。
実際、あんたもあたしも、グレッグミンスターを出てから今まで──数え切れないくらい、スイ様が傷を負うのを止めることが出来なかっただろう……っ?」
叱咤にも近い口調で、クレオは強く言い切ると、歯を食いしばり──その間から、悔しげに息を吐ききると、
「だから、グレミオ。
今回のことも、あたしやあんたが付いていても、どうしようもなかったことなんだ。」
指先を、ぐ、と腕に食い込ませて、クレオは堪えきれないように視線をグレミオとスイから逸らした。
荒れたグレミオの手に握られているスイの白く細い手が、か弱く見えて──クレオは、キュ、と目を閉じた。
そんな彼女の言葉に、グレミオは悔しそうに下唇を噛み締めて、スイの顔をジッと見下ろした。
「──たとえそうでも、それでも、……っ。」
苦しそうに、唇の間から零したグレミオに、クレオは吐息だけで答えて──そうして。
「…………いや、あのな、そこまで深刻ぶることでもねぇと思うぜ?」
その3人の深刻そうな様子を、後ろで見守っていたビクトールが、バリバリと頭を掻きながら、溜息交じりに口を突っ込んだ。
とたん、
「なに言ってるんですか、ビクトールさんっ!」
「そうだよ、ビクトール。だいたいそもそも、誰のせいでスイ様が気を失うハメになったと思ってるんだいっ!?」
──グレミオとクレオ、双方から鋭い殺気が襲ってきた。
医務室を一気に黒く染め上げそうなほどのソレに、ビクトールは肩を跳ねさせると、おいおい、と両手を体の前に突き出す。
「待て待て、誰のせいってそりゃお前、ムササビにバケツをかぶらされて、うっかり前が見えないからって、スイを後ろから突き飛ばしちまったフリックだろーがっ!」
俺が悪いわけじゃない、と、ビクトールはウンザリ顔で、何度目になるか分からない「事実」を口にする。
そのついでに、医務室の扉の前で、小さくなっていたフリックに視線をやれば、
「……う……っ!」
それまでずっと黙って、床を見つめていたフリックが、胸に手を当てて、小さく呻いた。
「わ……わざとじゃないんだ。」
そして、自分でも何度目になるか分からない言葉を小さく口の中で繰り返して──グ、と眉を寄せた。
本人なりに、この展開は非常に不本意なようであった。
何せ、医務室に気絶したスイを運んでくる時だって、この本拠地が出来た時からココにいた面々は、「フリックがまたスイにイヤがらせでもしたのか」という目で見てきた。──し、「いい加減にしろよ」と言われまでした。
だが、正直言って、スイに向かって暴力を振るった事は、カクの村のアレ以来、一度も無い。イヤがらせにしたってそうだ。──いや確かに、何かにつけて「リーダーだと認めない」発言をした記憶はあるが、肉体的なイヤがらせに出た覚えは一度もない。
時々、剣と盾を使う相手と組み手をしたいと言われて、一緒に鍛錬をすることはあるが──スイの腕前がなかなかのものだから、手加減できずに、傷を作ってしまうこともあるが、それはフリックも同じ状態になるのだから、おあいこだろう。
グレミオやクレオにまで、そんな目で見られるのは冗談じゃないと、フリックは溜息をつきたい気持ちで呟く。
「だいたい、あの時だって、後ろにスイが居るなんて思わなかったし。」
「バケツかぶったお前の背中を守ろうと、後陣に入ってたんだよ。」
「ちょっとぶつかっただけなのに、あのスイがスッ転ぶなんて思わなかったし。」
「ちょうど前の敵を攻撃しようとして、片足上げてたところだったんだぜ、確か。」
「しかも、転んだ拍子に頭ぶつけるなんて……っ!」
「いやー、正面から落ちたのに、受身取って背中で落ちるなんて、スイは反射神経いいよな、やっぱ。──ま、ちょうどソコに、先に倒したムササビの石頭があったのは、運がわりぃけどな。」
弁明なんて冗談じゃないと思いながらも、それでも自分のわざとじゃない加減を説明しようとする端から、ビクトールがシミジミとした口調で呟いてくれる。
その言葉は、フリックの弁明をフォローしようとしているどころか、叩きのめしているようにしか思えなくて、フリックは思わずギロリとビクトールを睨み付けた。
そんな彼の視線に、ビクトールはニヤニヤと笑いながら、顎を手のひらで撫で上げて、
「ま、そんな心配することでもねぇだろ。さすがにぜんぜん意識がない時は、俺もフリックも焦ったけどよ。
マッシュの見立てじゃ、ただの脳震盪なんだろ?」
「ただの、じゃありません! こんなに大きいタンコブまで出来てるんですよ!!」
戦場なら、当たり前のようにあることだ、と、したり顔で告げるビクトールに、噛み付くようにグレミオは叫ぶ。
それから、表情を無くしたままのスイの寝顔を見下ろし、心配そうに空いている手のひらで、そ、と額の包帯を撫で上げた。
「あぁ……こんなに辛そうなお顔で……。」
「辛そうか?」
見ているグレミオの方こそ辛そうな顔で眉を寄せるのに、ビクトールは彼の後ろからヒョイとスイを覗きこむと、人形のように表情のない──ただ整っているだけの寝顔に、首を傾げる。
スイの寝顔は、グレッグミンスターを飛び出してから、何度か見ているが、いつも何かしら「表情」というか、生気のようなものを持っている。
深い眠りに入ると、まるでピクリとも動かなくなると言うのは、こういう状態なのかもしれない。
その状態を、「辛い」と表現すれば…………──辛い、の、か?
マッシュが言うには、「たんに寝てるだけです」ということらしいのだが。
っていうか、つい2時間前、スイが医務室に運ばれた時に、グレミオはこう言っていたような記憶がある。
「ぼっちゃん! だから昨日、あれほど、明け方まで本を読んでたら、倒れますよって言ったのに!」
──と。
どう考えても、スイのコレは、「最初は気絶だったけど、今はただ寝てるだけ」のような気がしないでもない……というか、十中八九そうだろう。
そのスイを、心配そうに見守るグレミオとクレオは、少々を通り越して過保護過ぎると言えた。
「ぼっちゃん、早く起きてくださいね。今日は、グレミオの特製シチューをお作りしますから。」
「またシチューかい? あんた、今朝もシチューだったじゃないか。」
クレオのウンザリした苦情を右から左に聞き流して、グレミオは優しい口調で呟きながら、そ、スイの前髪を掻きあげる。
そしてそのまま、髪をなでようとしたところで──。
「…………ん。」
小さな呟きが、唇を震わせた。
「──! ぼっちゃんっ!?」
慌ててベッドサイドに両手をついたグレミオが、ググッ、と体を乗り出してスイの顔を覗きこむ。
先ほどまでは、色を失ったかのように表情を無くしていた顔が、今は眠そうにゆがめられている。
その見て分かるほど愛らしい表情の変化に、パァッ、とグレミオは表情をほころばせた。
「ぼっちゃん、起きたんですかっ!? グレミオが分かりますかっ!?」
「スイ!?」
「起きたのか、スイがっ!?」
「スイ様っ。」
グレミオの叫び声に、途端に医務室が騒然となった。
クレオがグレミオの肩から覗きこみ、ビクトールがスイの足元に駆け寄る。
扉近くにいたフリックですらも、あっと言う間に距離を縮め、スイの様子を覗きこんだ所で──ふ、と、スイの長い睫が揺れた。
ゴクリ、と息を飲みながら見守る一同の目の前で、フルフルと震えたソレが、ゆっくりと開き始め……、おっくうそうな動作で、睫の下から、焦点の合わない琥珀色の双眸が現れる。
薄く開かれた唇が、小さく揺れて、グレミオはスイの手を強く握り締めると、
「ぼっちゃん、どうしましたっ? あ、お水ですか!? それとも、グレミオの愛ですかっ!?」
「意味わかんないよ、あんたはちょっとだまってなっ!」
スパンッ、と素早い動作でグレミオの頭を叩いたクレオは、ベッドサイドに置かれていた水差しに手を伸ばしながら、
「スイ様、お加減はどうです? 水をお飲みになりますか?」
いつもよりもせわしない口調で問いかけると、ぼんやりと目を開いて、天井を見つめたままのスイに、優しく問いかける。
スイは、ことさらゆっくりと瞳を瞬くと、コクリ、と首を傾げて、クレオの顔を不思議そうに見上げた。
「……くれお?」
少しだけ舌たらずに聞えるその口調に、まだ寝ぼけているのだろうかと、小さく微笑みながら、クレオは小さく頷く。
そして、手元の水差しを彼に見えるように持ち上げると、
「お水、どうされますか?」
「飲んでおいたほうがいいですよ、ぼっちゃん。もう3時間ほど何も口にされてませんから。」
心配そうな口調で、グレミオもそう呟きながら、パチパチと目を瞬くスイの、惹きこまれそうにきれいな瞳に向かって、安堵の微笑を見せる。
スイはそんなグレミオを見つめて、パチパチと目を瞬くと、反対側にコクリと首を傾けて、
「ぐれ?」
「はい。」
まだ夢を見ているように、どこか茫洋とした問いかけだった。
その、幼い頃を思いださせるような柔らかで甘い呼びかけに、グレミオは頬が緩むのを感じながら、大丈夫ですかと、スイの頬を撫でる。
スイはソレを受け入れながら、むぅ、と不満そうに眉を寄せると、プクッ、と頬を膨らました。
目覚めたばかりだと言うには、あまりにも幼いその仕草に、思わずグレミオとクレオが目を見張った瞬間、
「…………なんでグレ、お顔に傷があるの?
また、僕に内緒で、でんかの遠征についてったの?」
スイは、拗ねたような顔で、グレミオとクレオの両名の頭を、真っ白にするような事を言ってくれた。
「──え? は? でんか? って……何の話だ?」
「おい、スイ、お前、まだ寝ぼけてるのか?」
唯一、スイが言う言葉の意味を「知らない」ビクトールとフリックが、いぶかしげに問いかけてきたが、もちろん、二人に答えられる術はなく──。
絶句して答えてくれないグレミオとクレオに、業を切らしたスイが、ツンツン、とグレミオの服を引っ張るに当たって、ようやく二人は我に返り……、そうして。
「……ぼっちゃん、つかぬことをお伺いしますけど…………。
………………殿下というのは、どなたのこと、……でしょうか?」
泣きそうに顔が引きつるのを覚えながら、スイの小さな手のひらを、キュ、と握り締め──コレがスイのイタズラや、夢から覚めたばかりで現実と混同されているだけでありますように、と祈りながらのグレミオの問いかけは、
「グレ、もしかして忘れちゃったの? ダメだよ、ちゃんと『しゅくん』のことは覚えてないと。
あのね、でんかはね、ばるばろっさ・るーぐなーっていうんだよ。」
えへん、と、大人ぶって教えてくれるスイの言葉と、そしてその彼の双眸に宿る「真剣」な光によって…………、危惧は、肯定されてしまった。
つまり。
目の前にいるスイ・マクドールは、今から10年ほど前の。
──よりにもよって、継承戦争の只中に居る、「スイ・マクドール」ぼっちゃんの記憶しか、持って居ない、と……いうことなのである。