「心が焼きつくほど、誰かを愛したこともないくせに。
 毒を吐く資格が……お前にあるというのか?
 ──なぁ、スイ?」



 あなたの瞳に映る狂気の名を、僕は、知らない。



「──……ねぇ、グレミオ?」
 頬杖をついて、かぐわしい香の広がる厨房で、首を傾げるようにして背中を見つめた。
 一度喪った背中。
 もう二度と見ることかなわないと思っていた背中。
 きっと僕は、生まれ育ったこの屋敷の、見慣れた厨房を見るたびに、痛みに心を裂けさせるのだと、そう信じていた。
 ────優しい思い出と同じくらい、この家は痛いほど哀しい。
 だから、時々、うなされるように飛び起きる。
 そんな中、唯一この手に戻ってきた男は、今のように暖かなミルクを作ってくれる。
 たたき起こしたことにも、何も文句はいわずに。
「はい、ぼっちゃん?」
 優しい微笑みは、昔と何も代わらない。
 ──いや、少しだけ、何か覚悟めいたものが見えるようになった。
 その名前を、僕は知っている。
 けど、あえて口に出そうとは思わない。
────だってそれは、僕の罪の証を示すものだから。
「家族を愛してるって気持ちと、恋愛の愛してるって気持ちは、やっぱり、ぜんぜん、違うものなのかなー?」
「………………そうですねぇ……初恋と、愛が違うように、違うんでしょうねぇ。」
 ノンビリと答えながら、グレミオが温めたカップの中からお湯を捨てる。
 その中に、白い優しい色が注ぎ込まれていくのを見ながら、
「シナモンはいらない。」
 いつもと違うホットミルクを要求して、はぁ、と溜息を一つ零した。
 彼の前では、気取った自分は要らない。
 母親代わりの彼ではあるけれど、でも彼は本当の母親ではないから──ある意味、父であり、兄であり、相談相手であるから、こういうとき、くじけそうになった自分の心をさらけ出すことが出来る。
「でも、ぼっちゃん。」
 片手で、ことん、とミルクを置きながら、もう片手でグレミオはスイの髪を撫で付けた。
 優しく頭頂を撫でるその手は、安堵を誘う。
「愛情の差はあるかもしれませんが──その重さに優劣はないと思いますよ?」
「………………ぅん。」
 分かっているとばかりに、一度頷いた。
 両手でカップを包み、グレミオの撫で付ける手の平に心を寄せながら──スイは、誰にも決して口にすることはない呟きを、零す。
「……でも。」
 鮮烈な記憶。
 手を染める赤い血。
 頭の芯が痺れる感覚。
 勝った、と思った瞬間、湧き出た喜びと悲しみと絶望と。
 自分が討った者が誰であるのか、認識した瞬間に訪れる、あまたもの感情。
 一度に多くのことを理解し、処理し、その中で「軍主」としての決定を選んだ。
「死をもってしても、家族は分かつことはできないよね。」
「………………ぼっちゃん。」
「──僕のこの中には、父上の血が……流れているから。」
 そ、と手を当てて──スイは眼を伏せた。
 そして。
 血が流れているからこそ、誰よりもその死は重く、彼の上にのしかかっている。
 それが分かるからこそ、グレミオは悲痛な表情を浮かべ──その悲しみが手のひらに宿らないように、必死にスイの頭を優しく撫で続けた。
「だから……きっと、ソニアは僕のことが許せないんだ。
 ──父が選んだ最期の道を、糾弾した僕を。
 そのほかでもない、父を殺した僕が、死してからも父と分かつことがないことが。」
 彼女の元には、何も…………残されなかったから。
 残されたのは、「父殺しの名を持つ息子」だけ。
──それこそ、必要がないに違いないもの。
「ソニア様もまた……苦しんでいらっしゃるんですね…………。」
 苦い表情を刻ませたグレミオに、うん、とスイは一つ頷いて笑った。
「──僕も、ずいぶんと意地が悪い。」
 暖かなミルクを口に含み、その甘さにジンと舌が痺れる。
 いっそ、苦い……泣きそうなくらい苦い物だったら、今この瞬間に、僕は泣けたのだろうか?
 ──父のために、ソニアのために。
 ……あの戦で命を落としていった、名も知らぬ兵士たちのために。
「ソニアがそうして苦しんでいることを──彼女がまだ父を愛してくれていることを…………うれしいと……そう………………思うのだから………………。」
 後悔などしていない。
 いや──後悔はしている。
 でも、それでも自分は、何度岐路に立たされても、何度でも同じ答えを選ぶことを知っている。
 父のことは、最期の最期まで尊敬していた。
 愛していた。
 この手で喪うことが、どれほど苦痛だったのか……気が狂うほど苦痛だったのか、彼女は知っているはずだ。
 それでも。
 彼女は、父を愛し、父が残した最後の遺産である僕を憎み、それでも父の忘れ形見である僕を殺せず──苦しみ続けている。
「…………ぼっちゃん……。」
「……僕のこれは、ソニアの言う愛じゃないのかな?」
 心が焼きつくほど、愛したわけじゃない。
 それでも、僕は父を愛していた。
 ──愛していたのだ、本当に。
 だから。
 この手で。
──殺したのかもしれない。
「僕のこれは………………。」
 キュ、と、唇を噛み締めて──スイは、シャラリと前髪を額に落としてうつむく。
 揺れる眼差しが、カップの中のミルクに映っていた。
 ……ソニアの前では、絶対に見せられない……弱い顔。
「…………歪んだ、愛情だったのかな…………。」


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