「レイド……どうか、この紋章はもう…………使わないで。」
触れてくる手の平が、心地よく温かい。
見上げてくる娘の双眸が、かすかに濡れていた。
どうして彼女は、僕のことを、こんな眼で見つめるのだろう?
キュ、と手を握られて、無言で見下ろした先、明るい笑顔がよく似合う顔を少し暗い色に染めて、彼女は唇をキリと噛み締める。
「あなたが倒れたと聞いて、私……本当に、驚いて──ビックリして……。」
握られた手に、さらに力がこもった。
その手は、物心ついたときから共に育ってきた同僚たちの手とは違い、ふっくらと柔らかかった。
普通の王女は武器など手にはしないものだと聞いたが、彼女は違う。
だから、本当の「王女の手」とは違うけれど、今まで触れたどの女性の手よりも、彼女の手は柔らかく、暖かかった。
「ごめんなさい──そして、ありがとう……レイド。」
彼女が伏せた睫は、長く、綺麗だった。
苦悩にも似た少女の顔を見下ろして、何を言ったらいいのか分からなくて、唇が、揺れた。
「──謝らないでください。」
零れた声は、平淡で、困ったと思う気持ちは、まるで滲み出なかった。
手を握ったまま、彼女が戸惑うようにレイドを見上げる。
そんなフレアに、レイドはただ見下ろすしか出来なかった。
本当は、ここで小さくてもいいから笑いかけて、そうして優しい言葉でもかけるのが本当なのだろう。
でも、笑うことは、出来なかった。
顔の筋肉が引き攣って、笑おうとしても、顔が笑い方を思い出してくれないのだ。
──あの国を出たときから、いや、それよりももう少し前……運命の始まった、あの瞬間から。
僕は、「笑うこと」が、出来なくなった。
「あれは、僕が……望んでしたことだから。」
だから、そんな風に自分を責めないで。
そう口に出せたら、良かったのだろうか。
でも、レイドはそんな慰めの言葉すら頭に浮かんでこなくて、ただジ、と、自分を見上げる少女の目を見つめ返すしか出来なかった。
彼女は、ゆっくりと目を瞬いて──小さく、笑った。
ほろり、とほころびるように笑う少女の顔に、ハッ、と息を呑んだ瞬間、
「あなたは、優しいひとね、レイド。
そして、とても強い人だわ。」
ごく自然な口調で、彼女はそう言った。
そして、レイドの手を掴んでいた手を離して、そ、とソレを自らの胸元に握りこんだ。
「みんなが、そんなあなたに惹かれていった……そんな理由が、私にも、わかる気がする。」
キュ、と、胸元に引き寄せた拳を強く握り締めて目を閉じた後、フレアは活発な印象を与える瞳を開いて、ニッコリとレイドに笑いかけた。
「さぁ、レイドっ! 急いで私たちも、洞窟に戻りましょう。そろそろ出発準備が整う頃だわ。」
何かを吹っ切ったように微笑むフレアを、レイドは戸惑いがちに見つめ……それでも、頷くことしか出来なかった。
ヒラリ、と身を翻して、一足先に港から出て行く少女の背を、慌ててレイドも追いかけ……ふ、とその視線を一度だけ背後に飛ばした。
眼前に広がる海の、穏やかな青い色が、なぜか無性に焦燥感を駆り立てた。
あの海を、なぎ払うような、凶悪な悲鳴が……耳にこびりついている。
左手にコレがある限り──使わないと、そう誓ったとしても、決して逃れることのできない、悲鳴。
キュ、と、知らず左手を握り締めたレイドを、先に歩き出したフレアが振り返り、呼びかける。
「レイドーっ! 早く行きましょう。」
片手を上げて呼びかける少女に、うん、と一つ頷いて、レイドは駆け出した。
そして、自分の下へと走ってくるレイドを見ながら、フレアもまた──手の平を、握り締めていた。
その眼差しに、強い光を宿しながら。
「……そのあなたの強さを、私にも分けてね──レイド…………。」
決断の時は、きっと、すぐそこ。
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