「アリーナさまっ!」
 目の前の敵を切り伏せた先──崖際に追いつめられたアリーナの姿を見た瞬間、クリフトは、一気に血の気が引いた気がした。
 もうあと数歩後ろに下がれば、崖の下にまっさかさまの場所に居るにもかかわらず、アリーナは後方を気にする様子すら見せていない。
 おそらくは、夜の闇も手伝って、自分の立ち位置に気づいてはいないのだろう。
 モンスターに体当たりでもされたら、どうするつもりなのだろう。
 その先の展開を考えただけで、ゾッ、と背筋が凍りつくような恐怖を覚えて、クリフトは、とっさに辺りに素早く視線を走らせた。
 さきほど、スクルトを唱えたときに、アリーナの元へ──一所に固まるべきだと叫んだ相手……ユーリルは、周囲をモンスターに囲まれながら、苦戦しつつも、ジリジリとアリーナに近づいていっている。
 それでも、彼女との距離はまだ大きい。
 何よりもユーリルは、「崖」の存在をきちんと認識しているため、あまり崖縁に近づかないように気をつけて距離を詰めている分だけ、まだ時間がかかりそうだった。
 距離で言うと、ユーリルとアリーナとの距離よりも、クリフトと彼女との距離の方が、ずっと短い。
 目の前の敵を切り伏せて、塊になっているモンスターを飛び越えさえすれば、アリーナに手が届く距離に入れる。
 ギュ、と握力がなくなりかけていた右手に力を込めて柄を握りなおすと、クリフトは飛び掛ってくるモンスターをスルリと避けて、ついでに目の前に居た雑魚を押し付けるように前へ進むことにした。
 アリーナの側に行った時に、モンスターが少しでも減っているようにと、襲い掛かってくる敵は全て切り伏せてきたが、今はもう、そんなことを言っている場合ではない。
 アリーナが体勢を立て直すために後方に飛び退ってしまえば──もうそこに、地面はないのだ。
 一瞬でも油断は許されない。
 とにかく、一刻も早く、アリーナの元へ──と。
 敵の攻撃を出来うる限り避け、剣で掻き分けるように前へジリジリと──焦りが募るほどジリジリと前へと進み出た、ところで。
「キャっ!」
 遠く離れていたココからでも、良く聞き取れる──アリーナの声が、した。
 ハッ、と顔をあげれば、ちょうどアリーナが後方へとバランスを崩すところだった。
「アリーナ様っ!」
「アリーナっ!?」
 顔をあげた瞬間に、目の前を横切るモンスターの爪に、とっさに顔をのけぞらせる。
 ピッ、と鋭い痛みが走り、赤い色が視界を横切った気がしたが、それを気にしている暇はない。
 肘鉄を顔面にぶち込んで、そのまま剣で相手を叩き伏せて──そうして、必死に顔をあげたときには。

 先ほどまでそこで踊っていたはずの亜麻色の髪は、見当たらなかった。

「──……っ!!!」
 あと、ほんの数メートル。
 手を伸ばしあえば、届いたかもしれない距離。
 なのに。
 目の前にいるモンスターたちのせいで、ほんの数歩で飛び込める距離が、あまりにも遠い。
 ……まだ、間に合うかもしれないのに。
 アリーナのことだから、崖のどこかにぶら下がっている可能性だってある。
 だから、今ならまだ、間に合うかもしれないのに。
 ──そう思うと同時、無意識に印を切っていた。
 習得したときに、よほどのことがない限り使いはすまいと、そう誓った呪文──術の発動に失敗すれば、その言霊はそのまま術者に返って来る、危険な術。
 サントハイムでは、禁術の一つに指定されていた──習得する者を選ぶと言われた、その術を。
 一瞬で、意識が途切れるかと思うほどの集中力を解き放ち、クリフトは周囲にいる敵めがけて、その術を放つ。

『ザラキ!』

 目には見えない黒い霧のようなものが、クリフトを中心に、ザァァッ、と広がっていく。
 それに包まれたモンスターの動きが止まったのを、最後まで見届けることなく、クリフトは目の前の敵を踏み台にして、崖へと飛び出す。
 見回した崖付近に、アリーナの指先は見えない。
 ならば、と、己の身にスカラを掛けてから、ためらうこともなく崖下へと飛び込んだ。
「クリフトっ!!!?」
 思ったよりもすぐ後方で、ユーリルの声が聞こえた。
 それに続いて──ビュゥッ、と崖下から吹き込む風に乗って、
「……クリフト!?」
 すみれ色の瞳を大きく見開いた──何よりも大事で、何よりも愛しい少女の声も。
「アリーナさまっ! 手を……っ!」
 空中に体を横たえるようにして──おそらくは、少しでも空気抵抗を作って、落下速度を緩め、落下の衝撃を和らげようと考えているものだと思われる──落ちていくアリーナに向かって、クリフトはまっすぐに手を伸ばす。
 落下速度は、クリフトのほうが早い。
 それをさらにあげるように、体を地面と垂直にして、アリーナの元へと落ちていく。
 バタバタとはためくアリーナのマントと髪が、クリフトの手目掛けて助けを求めているように見えた。
「どうして貴方……っ!」
「アリーナ様、はやく、手を……っ!」
 呆然と目を見張るアリーナのすぐ後方に、崖下に流れる川が見て取れる。
 まだ距離はあるけれど、それがすぐ間近で彼女を飲み込もうとしているように見えた。
 早く手を取って。
 そうすれば、その全身に、限界までの防御呪文をかけるから。
 そうして、アリーナのマントを広げて、少しでも抵抗を和らげて──それから、自分の体を盾にしてでも、水に飛び込むときの衝撃を、全て受け入れて、彼女の傷も全て癒してみせるから。

 ……この命にかえても。

「アリーナ様っ!!」
 叱咤するように叫べば、アリーナは、何が起きるのか分かっていないまま──それでも、伸ばされたクリフトの手を取った。
 少しヒンヤリとした手を、ギュッ、と強く握り締めて、クリフトは彼女の落下していく体を、強引に抱きこんだ。
 こんなときだと言うのに、抱き込んだ瞬間の体の柔らかさに、どくんと胸が鳴った。
 鼻先に漂う亜麻色の髪からは、甘い香りがした。
 それを最後の覚悟で大きく吸い込んで──そして、クリフトは、クルンと回転して、自らの体を下に、アリーナの体をしっかりと抱きこむ。
「クリフトっ!」
 腕の中で、もがくようにアリーナが何かを叫ぶが、その声は無視して、魔力が尽きるかと思うほどの強引さで、彼女の体にスカラをかける。
「クリフト! 私はいいから、自分にもスカラをかけなさい!!」
 腕の中でもがいて、ドンッ、と胸を叩かれた気がした。
「大丈夫です、飛び込む前に、掛けてますから。」
 限界まで──ではないけれど。
 それでも、川に叩きつけられる衝撃は和らぐはずだ。
 その衝撃で意識を失うわけには行かないから……川に飛び込んだ後は、回復呪文を唱えなくてはいけないのだから。
 傷一つない状態で、アリーナをどこかの岸辺にあげるまでは──決して、気を失うわけにはいかない。
 キリリと唇を噛み締めて、クリフトは、さらに懐深くにアリーナを抱き締める。
 自分の体で彼女を包み込み、できうる限り、外にその体が露出することがないように、と。
「クリフトっ!!」
 悲鳴に近いアリーナの声にも耳を貸さず。
 その願いのままに、アリーナの体を、しっかりと、抱き寄せた──ところで。
「クリフトっ! アリーナっ!!!」
 崖の上から、ユーリルの声が聞こえた。
 その声に、大丈夫だと──すぐに川下に移動して、川下を探してくれと、そう最後に叫ぼうと、目を開けた……瞬間。
 ユーリルが。

「イオラッ!!!!」

 空中に爆発呪文をぶっぱなして、その勢いのまま──ものすごい速度で、落下してきた。
「……ユーリルっ!!!?」
 何を考えてるんだっ、と。
 目を剥いたクリフトの腕の中で、アリーナがジタバタともがく。
「えっ? 何、何っ!?」
 ユーリルに何が起きたの、と。
 アリーナが最後まで口にするよりも早く。
 イオラの勢いを借りたユーリルの体が、いともアッサリと、アリーナとクリフトの位置まで追いついた。
「追いついた、っと!」
 ニ、と笑うユーリルの顔には、満面の笑みが浮かべられている。
「追いついたって……ユーリル! どうして貴方まで!」
「え? 何、ユーリルまで落ちたの!?」
 川まで後どのくらいの距離があるかは分からないけれど──それでも。
 なぜ、被害者を増やすようなまねをするのだと、慌ててクリフトはユーリルにもスカラを唱えはじめる。
 肩ごしにチラリと見た川面まで、ほんの十数メートルまで迫っていた。
 しかも、ユーリルは加速がついている。
 ほんの一回や二回程度のスカラでは、衝撃を殺しきれない。
 ──キリ、と、クリフトが奥歯を噛み締めたところで。
「クリフト、手、手っ!」
 ビュンビュンと耳元を過ぎ去る風に髪を揺らしながら、ユーリルが手を伸ばしてくる。
 クリフトがいぶかしむ間もなく、彼に抱えられたままだったアリーナが、とっさにユーリルの手を取る。
 何が起きるか分からないけれど、落ちるならば一蓮托生だとでも思ったのだろうか?
「アリーナ様、ユーリルっ!?」
 何を、と。
 言いかけたクリフトは、すぐに、アリーナの手をしっかりと握ったユーリルの双眸に宿る光に……ニヤリと笑った自信に満ちた笑みに、勝利を確信した。
 ──あぁ、そうか。
 その手があったか、と。
 そう思った瞬間。
 ユーリルは、一瞬、キツク目を閉じて。
 湧き上がる魔力の赴くままに、起死回生の呪文を一つ、飛ばした。


「ルーラっ!!!!!」