鬱蒼とした森の中は、踏み込んだ瞬間からイヤな雰囲気がしていた。
 野宿するのに適した場所があったならば、森の中で一泊する予定だったが、あまりに不快な気配に、一行は急ぎ通り抜けることを決断した。
 そして一昼夜──二度目になる夜を向かえ、ようやく森の出口が近くなってきたらしいと思ったその夜。
 今まで遠くに感じていたモンスターの気配が、一気に、輪を狭めてきた。
 せっかく懐に入り込んだ獲物を逃すまいとしてのことか──出口が近いと、かすかに綻んだ緊張を付いての、一瞬の出来事だった。
 視界が悪い森の中……伸び放題に延びた枝や草木を掻き分けながら、馬車を庇っていては、防御する一方で技もかけられない。
 アリーナとユーリルが木々の死角から攻撃をしかけ、クリフトが馬車の側から幾度も支援魔法を放つものの、どれもこれも相手に致命傷を与えられない。
 マーニャにしても、馬車の幌のすぐ側を草木が覆いつくすようなこの状況下で、魔法を乱発するわけにもいかず、せいぜい威嚇程度の火炎や閃光を放つのが精一杯。
 ジワリジワリと包囲網が縮んでいくのを、歯噛みするしかなかった。
 このままでは、ラチが開かない。
 そう判断したアリーナが、炎の爪を閃かせながら、後方にいるクリフトに向けて叫ぶ。
「クリフト! ありったけのスカラかけて!!」
「アリーナ様っ!?」
 クリフトの悲鳴に近い呼び声を聞きながら、アリーナはマントをヒラリと翻す。
 夜目にも鮮やかな白い頬に、キュ、と不敵な笑みを刻んで、素早く炎の爪からキラーピアスに装備を交換した彼女は、頬についた返り血を指先で拭い取って。
「私がおとりに出るわ!」
 ヒュッ、と、止める間もなく、夜闇に埋もれたモンスターの元へ、飛び出していく。
 一瞬で闇の中に消え去るアリーナの姿に、
「いけません、アリーナ様っ!!」
 とっさにクリフトはその場を飛び出し、追いかける。
 それと同時に、姿が見えないアリーナの必死に意識を集中して、スクルトの詠唱に入る。
 単体を指定するスカラを唱えるには、アリーナの姿を認知する必要があるからだ。
 走りながら放ったスクルトの影響が、しっかりと姫に届いたかどうかを確認する暇もなく、クリフトは飛び出した姫の後を追って、同じく闇に埋もれる。
「アリーナっ!!」
「ちょっ、クリフト!」
 剣を翻しながら叫ぶユーリルと、詠唱を中断して慌てて叫んだマーニャの制止の声も聞かず、アリーナが進んだ先から、ずがっ、と鈍い音が響く。
 それと同時に、周囲の闇が大きくたわんだ。
 彼らの意識が、自分たちの群れの中に飛び込んできた年若い男女の贄に向かったのだ。
 それを認めて、チッ、とマーニャは鋭く舌打ちすると、御者席に乗り込むと、手綱を手にしながら幌の中を振り返る。
「ミネアっ、ここら一帯にバギマかけてっ!」
 パトリシアや馬車に無理をさせてしまうことになるが──こうなったら強行突破だ。
 それしかない、と手綱を握ったマーニャが、馬車の後方でライアン達と共にモンスターを威嚇していたミネアに向かって叫ぶ。
「えっ?」
 何を突然、と──アリーナとクリフトが飛び出して行ったことに気づいていないミネアが、キョトンと問いかけを寄越すのに焦れながら、マーニャはダンッと戸板を踏むと、
「いいからっ、早くこっちにきて!
 で、全員、馬車に乗れっ!!!」
 喉を振り絞って叫びながら、マーニャは周囲から薄れていく殺気に、舌打ちを止められない。
 今の今まで、暗闇の中からこちらをうかがっていた気配が、ほとんど消えかけていた。
 それが意味をすることは──そう思った途端、ギリリと眦が吊りあがった。
「馬車に乗って、強行突破するから!!」
 声を荒げて、マーニャは手綱を引きながら、後ろに向かって叫ぶ。
 幌馬車の中はゴチャゴチャした荷物が広がるだけで、まだ仲間は一人も乗ってはいない。
 その向こう側に見える妹の髪に向けて、切羽詰った声でふたたび言葉を投げる。
「で、ミネア! あんたは、ココでバギマ唱えて道開きなさい!」
 早く! ──と、そう促せば、ナニか起きているのだと判断した一同が、行動に移してくれた。
 バッ、と身を翻して飛び乗ったのは、ミネアだ。
 彼女はそのまま馬車の中をかけぬけて、御者席までやってくると、辺りを見回し──グ、と眉間に皺を寄せる。
 何が起きているのか、だいたい察知したのだろう。
 ドンッ、と、馬車の後方が大きくしなる音がした。
 振り返ることもなく、マーニャは手綱を握る手に力を込めると、前方で敵を威嚇していたユーリルに向かって叫ぶ。
「ほら、ユーリル! あんたもさっさと乗りなさい!!」
 その声に振り返ったユーリルは、しかし。
「マーニャっ、俺も二人を追いかけるから、後、頼むなっ!」
 ひらり、と手を振ったかと思うと──そのまま、アリーナとクリフトが消えた先へと、姿をくらました。
 ──というよりも、モンスターの中に、その身一つで飛び込んで行った。
「……って、ユーリルっ!!?」
 驚いたように、御者席から身を乗り出そうとするミネアを片腕で引きとめ、マーニャは鋭く舌打ちをする。
「勝手ばかり言って……っ、だから、今から馬車で追いかけるって言ってんでしょうがっ!!」
 言いながら、残っていたモンスターたちが、新しく飛び込んできた若い少年に飛びかかって行くのを目で止めて、荒々しく手綱を引き絞った。
「追うわよっ!」
「え、ええ……っ。」
 ピシィッ、とムチをしならせれば、事の重大さを感じているらしいパトリシアが、猛々しく吼える。
 前足を高々と上げて、興奮したように強く鼻息を漏らすパトリシアに、
「……っと、ちょっと待てっ、まだ俺とブライ殿が乗って居ないっ!」
「さっさと乗りなさい!」
 待ってなんかいられるかっ、と言わんばかりのマーニャの言葉に、ふたたびギシリと馬車が揺れる。──ライアンが慌てて飛び乗ったに違いない。
「ブライ殿っ、手をっ!」
 今にも走り出しそうだと感じた彼が、慌てた風に手を伸ばすのに、杖を掲げて呪文を唱えていたブライが、鷹揚に頷きながら、氷を解き放つ!
「ヒャダルコ!!!」
「さぁ、お早く!」
「わかっておるわい!
 少しは足止めをしとかんと、四面楚歌になるやもしれんじゃろうて。」
 後方一面が氷に染まったのを見て止めてから、ブライは差し出したライアンの手を取り、馬車の上にあがる。
 そして、一息つく間もなく──がたんっ、と、馬車の車輪が回った。
「ぅわっ!」
「……ととっ。」
 それは、走り出す、と言う言葉ではおさまりの付かないほど、強引なスタートだった。
 せっかく飛び乗った馬車の中から転げ落ちそうになり、男どもは慌てて馬車の幌を掴む。
「マーニャ殿、もう少し年寄りをいたわらんかい!」
「しゃべってると舌噛むわよっ!!
 しっかりつかまってなさいよーっ!」
 叫んだブライの声など聞いてないのか、ガタガタ揺れる音に聞えて居ないのか。
 マーニャの甲高く響く声を最後に、後はもう……悪夢のような揺れに、身を任せるしかなかった。