小さい頃は、大きな壁の向こうの世界に憧れていた。
 この世界の向こうには、大好きな母様が読んでくれた絵本のような世界が広がっているのだと、そう思っていたから。
 カワイイぬいぐるみのようなクマさんと一緒に、手を繋いで、お砂糖菓子で出来た家に住んで、お腹が空いたらケーキで出来た花を食べて、紅茶で出来た皮で喉を潤すの。
 壁の向こうの世界には、そんな世界が広がっているのだと──小さい頃は、無条件に信じていた。


 手が届かない、大きな壁の向こう側。


 今は、当たり前のように越えられるその向こう側の世界よりも、壁のこちら側に広がっていた世界のほうが、ずっと、遠い。










「………………クリフト。」
 二人で並んで窓枠に腕を預けて星空を見上げながら、アリーナは淡く微笑んで、隣に立つ青年を見上げた。
 彼は、旅立つ前も旅立った後も、何一つとして変わらない瞳で、アリーナを見下ろす。
 優しい──愛情が溢れるような、柔らかな眼差し。
 いつも変わらないその瞳に、ジクリ、と棘が刺さるような痛みを覚える。
 けれど、それも綺麗に飲み込んで、アリーナは彼を見上げながら、旅のさなかを思えば、ぬるま湯のように穏かで優しい日々と決別する言葉を口にした。
「私、来月ね──、結婚することになったの。」
「……………………。」
 小さく目を見開き、驚いたように薄く唇を開くクリフトの、夜の闇のせいだけではない青白い顔を見上げて、アリーナは彼が衝撃から返るよりも早く、彼の瞳をヒタリと見据えて先を続ける。
「この間、ブランカ国王が若い人を連れてきていたでしょう? あの人が、ぜひ私を娶りたいとおっしゃったらしくって──ブランカ国王の勧めで、先日、見合いをしたの。」
「娶りたいって……姫様……っ。」
 動揺を露わにするクリフトの声に、アリーナは淡い微笑を深めると、
「そのことは、見合いの時に話したわ。私をと望まれるのは光栄ですが、私はこのサントハイムの王女で、跡継ぎなのですと。」
 ちゃんと私も分かっているの。国の状況も、今、自分たちが置かれている状況も。
 ──そして私の名声の高さも。
 だから、クリフトやブライに教えられたように、きちんと外交交渉の基礎に則って、話を進めたのよ?
 そういって、まるで誉めてくれという子供のように、無邪気な微笑を浮かべる。
 ──けれどそれも一瞬のこと。
 すぐにアリーナはその笑顔を取り払い、静かな視線を窓の外に向けた。
 新月の──夜の闇に冴え冴えと煌く星の明かりが、眼に染みる。
「そうしたら、その方。
 何の権力を持たなくても──その全てを捨ててもいいから、私の元に来たいというの。……私をほしいと、そう、真摯な瞳で。」
「────…………っ。」
 口を開きかけて──でも、何を言えばいいのか分からなくて、苦痛に顔を歪め、喉を震わせるクリフトを見上げながら、アリーナは子供の頃に返ったように、首を傾げた。
「とても、いいお話なの。
 彼はブランカでも古く家柄も正しい貴族の方で、しかもお金持ちなんですって。
 跡取り息子なんだけど、私の元に婿入りしてくれるんですって。その暁には、それこそ……眼が飛び出るくらいの持参金を用意してくれるって言うの。」
 軽く笑い声すらあげながら、それでもアリーナは、瞳だけは静かにクリフトを見つめた。
 そうしていないと、なんだか、涙がぽろぽろと零れていきそうだった。
 目の前で、クリフトの顔がクシャリとゆがむのを見上げながら、アリーナは彼から何の言葉がほしいのだろうと考える。
 けれど、そう思ったすぐ後に、何の言葉もほしくないのだと思う。

 だって、どんな言葉を貰っても、私がするべきことは決まっているのだもの。

 子供の頃よりも自由で、でも、子供の頃のように自由じゃないこの身の上。
 旅を出ている時は自由で、でも自由なんかじゃなかった。
 ──あの時よりも、今の自由は、もっとずっと広くて……狭い。
「私、見合いをすることになった時ね。
 ──……外交交渉も上手くなったんだから、1人でも大丈夫だと思って、貴方にもブライにも話さなかったの。
 ブライにはばれちゃってたみたいだけど、クリフトは……いなかったから、気づかなかったでしょ?」
 イタズラめいた声で笑いながら──笑うように見せかけながら、アリーナは首をすくめて彼に微笑みかける。
 その視線を受けて、クリフトは苦痛に耐えるように一度、強く眼を閉じたかと思うと──スゥ、と、唇から細く吐息を吐いて。
 それから、かすかに睫を震わせて、双眸を開く。
 夜の闇のように深い双眸が、ゆっくりと瞼の奥から現れたときにはもう、先ほどまでの動揺や驚愕や痛みは、一つとして浮いていなかった。
「ええ、まるで気づきませんでした。
 大切な主君である姫様の、おめでたい話だと言うのに、本当に……まるで………………。」
 噛み締めるように、何かを言聞かせるように呟かれる言葉に、うん、とアリーナは一つ頷いた。
「……大丈夫だと思ったのよ、本当に。」
 少しだけ語尾が震えたと、アリーナは自分に舌打ちしたい気持ちになりながら、それでも穏かな微笑を貼り付けてクリフトを見上げる。
 こんな程度のことで、心をココまで揺らしていては、来月からどうすると言うのだろう。
 来月、私は、この人の前で、愛してもいない人と愛を誓い、この手をゆだねるというのに。
「────後悔しておいでなのですか?」
 震えていたのは、クリフトも同じだった。
 彼は、動揺を露わにしないように、必死に指先を強く握り締めながら、問いかけてくる。
 ──バカな人。
 もしココで、「後悔してる。本当に好きな人が誰なのか、他ならない私が一番良く知っているの」──そう言えばきっと、あなたは、困ったように笑うんだわ。
 もし、私の好きな人が、他の誰かであったなら、後悔しないように行動をしなさいと、背を押してくれるだろう。
 でもきっと、……私が好きな人が誰なのか気づいている貴方は、そうは言わない。
 後悔しないように、努力をしましょうと、そういうだけ。
 この手を取って、飛び出していこうという誘いに、決して乗ってはくれないだろう。
──そして私も、他の誰かであったなら別だけれど、他ならない貴方だから、誘うことはない。
 だって。

 私もあなたも、この国を愛しているんですもの。
 命をかけて、この手に戻そうと──そう思ったくらいに。
 
「分からないわ。
 でも、後悔してはいけないと思うの。」
 だって、この婚姻を飲んだのは、他ならない私だもの。
 「彼」は、最後の最後まで私の気持ちが第一だといってくれた。優しい人なのだと思う。
 でもその思いを聞いて、それなら、やっぱり止めるなんて口にすることは出来なかった。
 あの時、あの瞬間、私は【サントハイムの王女】だっただから。
「…………………………、ひめ、さま。」
 掠れた声で名前を呼ばれて、王女然とした表情で彼を見上げる。
 空白の時の間、ずっと空っぽだったサントハイム。
 その長いときの中で、廃れ、荒れてしまった王国。
 過去の時の中に閉じ込められたサントハイム城内の人々に、当時とは違う現在の新たな知識を与え、情報を集め、そして荒れた領地を均すために、随分と借金をしてきた。
 世界を救った8勇士が3人もいる国だからこそ、それだけの借金が出来た。
 ──けれど、未だ返す当てもなく、国内の人々は、荒れた土地から潤うほどの作物を手に取ることも出来ず。
 まだ、飢えて泣き叫ぶ子供の多いこと。
「私は、この国を救いたい。
 力だけでけでは救えないことがあることを、今の私は知っているわ。
 そして、希望や奇跡なんかじゃ、補えないものがあることも。」
「……………………。」
 りん、として告げながら、アリーナは目頭が熱くなるのを感じた。
 そんなことを言いたいわけじゃない。
 でも。
 ──でも。
 今、これ以外のことを言ったら、私はきっと、子供のように泣き叫んでしまうだろう。
 1人で見合いの席に臨み、ブランカ国王たちを前にしたときに思った──あの、痛切なまでの敗北感を噛み締めたときに、二度とそれが出来ない領域に踏み込んでしまったのだと、思い知ったというのに。
 なのに、彼の、労わるような切ない微笑に見つめられると、唇と掌が震えた。
 睫が揺れるのを、グ、と眼を閉じることで堪えると、
「愛がない結婚だとか、政略結婚だなんていわせない。
 私は──わたしなりにあの人を愛せると思う。
 そう思ったから、手を取ったの。
 ……だから…………、だから。」
 くりふと、と。
 呼びかけにならない声が、唇の中に消えるのを感じながら、アリーナがその先を、涙を必死に堪えて言おうとしたその瞬間。
「…………はい、アリーナ様。」
「──────…………っ。」
 静かに、クリフトが、微笑んだ。
 いつものように、ただ、優しく。
「……おめでとうございます。
 ──どうぞ、その御手で、幸せを掴んでください。」



 だから、どうか。

 他の誰でもない貴方から、私に、祝福を。





────────この私の決断に、祝福を。



この後、仲間が皆で協力して、石油とか掘り当てたりとかして、アリーナを助けるといいと思うなー、という妄想の上に成り立つ悲恋っぽいお話です。(フォロー)