アリアハンの城下町から西──湾を挟んだ向こう側に広がる森の中に、「魔法使い」が住んでいる。
 様々な呪文を使うことが出来るその魔法使いの名は「シャハール」と言い、彼には孫が1人居るのだと言う。
 シェーヌはあまり噂話をしないので、フィスルが知っている「シャハール」という魔法使いの情報は、本当に少ない。
 シェーヌが小さい頃から魔法を習っている師匠で、頭が良くて、スケベジジイで、ちょっと過保護で口うるさい。
 孫が1人居て、シェーヌよりも二つ年下で、「リィズ」という名前で──この子がまた、アリアハン大陸内では見たこともないくらい可愛らしいのだが、人見知りをする上に虚弱体質なため、森の外に出ることは滅多にないのだと言うこと。
 森の奥深くで、人を避けて暮らす、老練なる魔法使いのおじいさんと、その可愛らしい孫。
 そう表現されて頭の中に思い浮かんだのは、小さい頃、生家である酒場で、酒を飲みに来た戦士たちがフィスルに教えてくれた昔話のストーリーだ。
 まるで絵本のようだと、心浮き立ちながら、彼らに会ってみたいと思ったことは一度や二度じゃない。
 けれど、フィスルにはシェーヌのように、アリアハンから馬で一昼夜はかかる森の中に、出かけるような余裕はなかった。
 魔法の素質が無いフィスルは、アリアハンの優秀な戦士として──オルテガを失ったこの国の、最後の砦の1人になるために、連日辛い訓練をしていたからだ。
 毎日、朝から晩まで血のような汗を流して訓練をして。夜からは、昔よりも人気のなくなった母の店の手伝いをする。
 遊ぶ時間がなかったわけではないけれど、手に入れられるのは1日数時間。とてもではないけれど2日も3日も出かけることなど出来なかった。もしそんな時間が取れたとしても、酒場に必要な材料を取りに、レーベの村や近くの森に叩き込まれるのがいい方だ。
 だから、兄弟のように仲の良い幼馴染が、月に1週間ほど泊り込んでいる先の「魔法使い」には、前々から並々ならぬ興味はあったのだ。
 偏屈な魔法使いと噂に名高い「シャハール」とは、一体どういう人物なのか。
 そして、「とにかくありゃ、傾国の美人になりそう」と、美女にまるで興味のないシェーヌに言わせる「リィズ」の美貌はどんなものなのか。
 シェーヌと共に森に踏み込んだ瞬間から、フィスルは高鳴る期待の鼓動を、どうしても抑えることが出来なかった。
 シャハールが住んでいる庵まで先導するというシェーヌの後ろに従いながら、あまり人の手が入っていない獣道に飛び出た枝葉を剣の鞘で叩き落す。
 目の前を歩いているシェーヌは、懐から小刀を取り出して、それでスパスパと障害物を切り分けているようだ。──その切った物の中に、おばけカラスが何匹が混じっていたような気がするが、シェーヌが1人でサクサク片付けていってくれるなら、何も問題はないから、あえてフィスルは突っ込むことはしなかった。
「しっかし、ここ、本当に誰も入らないんだな。」
 むせ返るような濃厚な緑の匂いに、息が詰まるような気持ちになりながら、フィスルは頭上を見上げる。
 はるか高くまで伸びきった木々の葉は鬱蒼と濃く、森に入る前はサンサンと降り注いでいた太陽の光も、まるで届かなかった。
 薄闇に包まれた森の中は、旅人の服を通しても尚、肌寒く感じる。
「あぁ、そりゃーな。シャハールがこの森に住む前は、死の森とか呼ばれてたってシーズさまが言ってたし。」
「……死の森。」
 不穏な響きの宿る名前に顔を顰めて呟けば、シェーヌが小刀を持った腕で顔の上に覆いかぶさってくる草を掻き分けながら、
「おぅ、なんか、西から吹く湿気を帯びた冷たい風のせいで、作物がまともに育たないくせに、木の生長だけは異様に早くて、開墾もママならない土地って言う意味で付けられたらしいんだけどなー? 何時ゴロからか、入ったら死ぬ場所とか、自殺の名所とかになったとか言ってた。
 ──ま、自殺の名所って言うのなら、今もそう変わらねぇけどな。」
 そう呟いた後、額ににじみ出た汗を服の裾で拭い取って、
「くそっ、シャハールのジジイ、全然森から出てねぇな……っ、草ヌキサボりまくってるじゃねぇか!」
 ザンッ、と、足もとで伸びきっている雑草を蹴りつけて、シェーヌは腰を伸ばして立ち止まる。
 そして、顔を歪めながら、後ろを付いてきていたフィスルを振り返りながら、クイ、としかめっ面で自分たちが立っている場所から右ナナメ前を顎で指し示した。
「……え、なんだ、着いたのか?」
 乱雑なその仕草に、それとも何か前方障害でもあったのかと、フィスルは首を傾げながらシェーヌの視線の先を見やって──……、
「……げっ!?」
「な? なんか匂うと思ったんだよ。」
 思いっきり顔を顰めて、ズザッ、と後方に後ず去ったフィスルを見上げながら、シェーヌは鼻の頭に皺を寄せる。
 フィスルは、シェーヌのそんな平然とした顔を横に見て、イヤそうに顔を歪めた。
「……お前もしかして、ああいうの、慣れてんのか?」
「さっき言ったろ? 自殺の名所だって。
 毎月来てりゃ、年に1、2回は見るぜ。」
 コリコリと頬を掻いて、シェーヌは、後でシャハールに連絡して始末してもらおう、と続けると、何もなかったかのように再び前方に脚を踏み出した。
「──おーい、シェーヌ。あれ、そのままでいいのか?」
 問いかけるフィスルに、シェーヌはヒョイと片眉をあげると、
「いいも何も、どうにも出来ねぇもんは触るなって、昔っからシャハールに言われてんだよ。」
 後でシャハールたちが何とかするだろ、と言外に言って、シェーヌはそのままガサガサと草を掻き分けて歩き出す。
 フィスルもそれに続こうとしたところで、つん、と鼻先に香る腐臭に、クシャリと顔を顰めた。
「──どうにもできないもの、か。」
 口の中で呟いた言葉が、ひどく苦くかんじて、フィスルは無理やりそれから目を引き剥がす。
 フィスルは、王宮戦士だ。──いや、今はシェーヌの旅に付いてきているから、「だった」と言うべきか。
 戦士である以上、彼は幾度か同僚や先輩たちと共に、城下町から出立して、繁殖しすぎたモンスターを退治する仕事を請け負ったことがある。
 そして、油断をした仲間の誰かが、怪我を負い……時にはどうにもならなくて、モンスターに襲われている仲間を見捨てるように撤退する羽目になったことも、ある。
 胸を焼き付けるような苦しみを、戦士である誰もが抱えていることは、フィスルもこの二年の間に知った。──けど、シェーヌは。
 勇者の子として育ったシェーヌは、それでも、そんな苦しみとは縁がないのだと、今までずっとそう思ってきていた。
 疲れた体を引きずって帰ってきたフィスルを出迎えてくれるシェーヌは、いつだって子供のころと同じように笑い、子供のころと同じようにフィスルの背を叩き、元気出せと叱咤してくれたから。
 だから、シェーヌは……未だ、「人の死」に直面したことはないのだと、なぜかそう信じていた。
「………………。」
 でも。
 シェーヌは、「あれ」を見て、自分にはどうにもできないと、そう判断した。
 それはつまり、一目で判断できるほどの「場数」を踏んでいることに他ならない。
 自分の知らない幼馴染の顔を見た気がして、フィスルはキリと唇をかみ締めた。
 それを言うなら、自分だってシェーヌに見せていない顔の一つや二つはもっている。モンスター退治の時や、戦士として国王に仕えているときの顔。抱えた苦しみや悩みなんてものは、弟のように思っているシェーヌには、決して見せられない顔だ。
 けれど、シェーヌにはそういうものはないのだと思っていた。──シェーヌは、なんでも顔に出してくれていると、そう思っていた。
「────…………なんか、複雑だな。」
 小さく呟けば、その言葉がシンと胸に落ちてきた気がして、フィスルは苦笑を深くする。
 そんな彼に、
「何やってんだ、フィル! 日が暮れちまうだろっ!」
 先にザクザクと進んでいたシェーヌが、思ったよりもずいぶん先から彼の名を呼んだ。
 慌てて顔を跳ね上げれば、憮然とした表情のシェーヌが、腰に手を当てて、こちらをにらみつけているのが見えた。
「わりぃっ! ちょっと考え事してた。」
「そりゃ、ずいぶん余裕なことだな。──このままココに置いてくぞ?」
 呆れたような口調で、ス、と剣呑な光を目に宿しながら──ニ、とシェーヌは唇を引いて笑う。
 そんなシェーヌに、フィスルは参ったというように首をすくめてみせる。
「それは勘弁してくれ……一人でココから動けなくなるだろ。」
「だったら余計なことは考えるなよ、フィル?」
 切ったばかりの漆黒の髪を揺らして、シェーヌが笑う。
 笑いながら言う言葉は、少しだけしんみりとしていて、その響きに惹かれるように顔をあげれば、シェーヌはかすかに眉を寄せていた。
「木から下ろしたら、あの男はすぐにこの辺りの飢えた獣の餌食になるのは目に見えてる。──だったら、ちゃんと荼毘に伏してやれるシャハールのメラミと、彼の魂を天に返すことができるリィズのニフラムが来るまで、ああやって吊るしてあったままのほうが……、いいんだ。」
「……………………シェーヌ、……お前…………。」
 いやに大人びた口調の、大人びた光を双眸に宿すシェーヌに、かける言葉が見つからなくて、ただ呆然と幼馴染の名前を口にしたフィスルに、シェーヌはコクリと一つ頷く。
「──俺が、そうしてやれたらいいんだけどな? まだ俺、ニフラム使えないからさ。」
 そういいながらナイフを握りなおす手が、かすかに震えているのに気づいて、フィスルは自分の手のひらを見下ろした。
 フィスルも人の死を目の当たりにした時、拳が震えた。
 いつしかそれも無くなり──それは、自らの心が強くなったためだと思っていたけれど。
 ……フィスルは、無言で見下ろした自身の手のひらを、キュ、と握り締めると、作った拳でトンとシェーヌの肩を叩いた。
「…………お前なら、きっとすぐに使えるようになるさ。」
 そう祈るように、囁くように──人の痛みを覚えたまま、シェーヌが強くなることを願いながら声をかければ、シェーヌはその言葉がかかるのが分かっていたように、弾ける笑顔で笑って見せた。
「おう、努力家だからな!」
「────……そーだな、努力家だな。」
 パッ、と花開くように笑うシェーヌの顔を見下ろしながら、フィスルも小さく笑い返して、拳を更に強く握り締めた。

 これからの旅の中で、自分達はあのような死体も、もっと生々しい死体とも、身近に付き合っていくことになるだろう。
 その中で、己も、シェーヌも、「死」に慣れないようにしなくてはいけない。
──シェーヌの震える拳を見て、ふと、そう思った。

 小さな肩を持つ幼馴染を守るために。
 体だけじゃなく、その心を守るために。
「……もっと俺も、強くならないとな。」
 前を歩くシェーヌに届かないような声で、小さく──小さく、そう誓った。



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