「Happy BirthDay」 「──……すっかり遅くなってしまった。」 カチャカチャと鎧の音を響かせながら、クリスは早歩きで廊下を通り抜ける。 歩くたびに響くカチャカチャという音は、もう十数年も前からなじみが深いものだ。 身体の一部とも思える鎧を、どこか引きずるように歩きながら──思っている以上に疲れているなと、クリスは小さく溜息を零した。 手甲のついた右手を挙げて、疲れて火照っている気のする首筋に当てれば、ひんやりとした冷たい感触に、ほぅ、と吐息が零れる。 鋼に覆われていない指先に触れる首筋は熱くて、しっとりと汗ばんでいるようにも感じた。 そう思って指先を滑らせれば、しっかりと結い上げた銀色の髪も、湿気を含んでいるように感じた。 その感触に唇を一文字に結んで、クリスは指先で前髪をいじりながら、自室のある階へ上りはじめる。 薄暗い階段を、いくつかの蝋燭がぼんやりと照らし出している。 その横を通り過ぎるたびに、幾重にも薄く重なった影が、長く階段の下に伸びた。 階段を上りきると、自室の近くの窓から、大きな月の光が入り込んでくるのが見えた。 廊下が明るく見えて、その明かりに惹かれるように、窓の前で足を止めた。 紺碧の空に、目に痛いほど瞬く星々。それよりもずっと少ない数の明かりが、地上でいくつも瞬いている。 クリスはそれに軽く目を眇めると、チラリと視線を一方向に当てた。 ブラス城からはるか東──太陽が昇る方角には、広大な草原がある。 そこは、ブラス城の城下町とは異なり、ただ闇に包まれていた。 「──……今度会えるのは、いつなのだろうな……。」 どこか疲れたように零れた己の声が、ぽつん、と廊下に響いて、クリスはますます苦い色をにじませた。 かちゃん、と篭手が鋼の重なる音を立てる。 クリスはその音を耳に、耳慣れた音を聞きながら、クルリときびすを返した。 そのまま己の自室に向かうと、左右に小さな蝋燭がともされているのが見える。 その明かりを頼りに、自室のドアに手をかけて、かちゃん、とドアを開いた。 とにかく部屋に入ったら、すぐに鎧を脱いで、髪をほどいて、櫛を入れて──そうだ、体を軽く清めるための水とタオルは、用意されているだろうか? できれば、温かい紅茶を飲みたいところだが……夜も更けすぎたこんな時間に、クリス付きの侍女が残っているはずもない。 「紅茶は──明日の朝にするかな。」 部屋のドアを開きながら、片手でドアの横壁に掛けられた燭台を取り上げる。 部屋の中に明かりを差し込むと、ドアの周囲だけ淡く光る。 クリスはそれをそのまま、ドア際の燭台掛けに引っ掛けようとした──……ところで。 「……──誰?」 頬に触れた風の感触に、ス、と目を細めて、蝋燭の明かりを前に突き出す。 そうしながら、空いた左手で素早く剣の柄を探った。 正直、室内での戦闘は苦手だ。 けれど、良く知っている自室ならば──たとえ暗闇の中でも遅れを取らないはず。 目を細めて──明かりに照らし出された一帯だけではなく、逆に光に引き立てられていっそう暗闇を深くした室内に意識を集中させながら、クリスは息を潜めた。 そのまま視線をまっすぐに見据えれば、頬に触れるかすかな風の正体がわかった。 視線の先──この部屋から二間続きの寝室の窓。 そこが、開いていた。 「……誰かいるの?」 厳しい声で問いかけながら、ジリ、と一歩踏み出す。 窓のカーテンが揺れている。 誰かが侵入したのだと判断したが、気配は感じられない──この守りが堅いブラス城に誰か侵入したのだとは思いたくはなかった、が。 先にナッシュに侵入されたという経験がある以上、油断はできない。 単に、侍女が窓を閉め忘れたか、暑い日が続くからと、気を使って窓を薄く開けていった──というのなら、いいのだけれども。 そう思いながら、ジリリ、ともう一歩前に踏み出す。 視界の隅に、蝋燭の明かりに照らし出された白いテーブルが映った。 そのテーブルの上におかしなものはないか、チラリと素早く一瞥して確認した直後──……。 「──……っ。」 ヒュッ、と──息が、止まった。 思いもよらないものを見つけて、クリスは一瞥しただけの視線を強引にテーブルに戻し、その上に蝋燭の明かりをかざした。 白い色と、赤い色。 しかも、赤はつやつやと華やかだった。 そして……鼻先に香る、どこか甘い──バニラの香り。 「それ」が何なのか──、クリスはもちろん、知っていた。 「…………けー……、き?」 小さく……喉を引きつらせて、クリスはテーブルの上に載ったソレを──白い箱に赤いリボンが不器用に掛けられた、クリスの顔ほどの大きさの「ケーキ」らしき物体を、マジマジと見つめる。 それが、一体誰のものなのか──、困惑と期待に、クリスは、キュ、と唇をかみ締めた。 まさか、と……そう思いながら、そろり、とケーキらしき物体を確認するために手を伸ばした瞬間。 「──寝る前に紅茶ばっかり飲むと、寝れなくなっちゃうよ、クリスさん。」 「──……っ!!!」 思いがけず間近で聞こえた声に、クリスはバッと足を引いて横手を見据えた。 明かりを目の前に突きつけ、腰の柄に手を当てて──それでもそれを引き抜く必要がないことは、声を聞いた瞬間にわかっていた。 ただ──もしかしたら、誰かが声音を使っているかもしれないから、一応の用心を見せるだけだ。 そして、そのクリスの考えのとおり。 寝室がある方角に体を向けると、こちら側の部屋とをつなぐドアの横から、ひょっこりと顔を覗かせる──暗闇に溶けそうなほど日焼けした、少年。 その中、窓から入り込む月の明かりにキラキラ輝く金の髪が、いやにまぶしく見えた。 月の光に逆光になっていてもわかる。 クリスは、燭台をテーブルに上のおいて、改めて彼の方を向いた。 「久しぶり、クリスさん。」 逆行で表情は見えなかったが、彼がニッコリ笑ったのはわかる。 クリスはそんな彼に、口元に笑みを上らせかけたが──すぐに、キリ、と顔つきを改めると、あきれたように腕を組んで、彼を見据える。 「久しぶり、じゃないでしょう? ヒューゴ、あなた一体、どこから入ってきたの?」 ヒューゴが──カラヤクランの族長である彼が、堂々と城の正門から入ってきたのなら、それは騎士団長であるクリスの耳にすぐに入ってくるはずだ。 けれど、入ってこなかったということは──紛れもなく、ヒューゴがそこの開いている窓から「忍び込んだ」に他ならない。 そんなことをして、夜盗や暴漢と間違えられても知らないわよ、と、表情を厳しくさせるクリスに、ヒューゴは軽く首をかしげると、 「え、俺? 俺は、普通に正面から入ってきたよ?」 「正面から? ──誰にも会わずにか!?」 「うぅん? サロメさんと会ったよ。で、クリスさんに用があるって言ったら、遅くなるから部屋で待ってたらどうかって言われたから待ってたんだけど──。」 不思議そうな声でそういいながら、ヒューゴは軽やかな仕草でクリスの傍に近づいてくる。 それから、まだ鎧を着たままのクリスの顔を、下から覗き込むようにしながら──その、前回にあったときよりも間近に感じる瞳に、ドキリと、クリスは顔を軽く引いた。 「すごく遅かったけど──クリスさん、疲れてる? 俺、すぐに帰ったほうがいいかな?」 鼻先と鼻先が今にも触れそうなほど近いのは、多分、きっと──周りが暗いから。 暗闇の中で浮かび上がる白い肌のクリスは、遠目にもその美貌が映えるけれど、ヒューゴはそんなわけにも行かない。 暗闇に沈む日焼けした肌の主を認めるには、今ほどの距離で見つめるのに限るけれど。 だからと言って、本当にこれほど間近で顔を付き合わせるのは──……。 「……いや、そういうわけじゃ、ない。」 頬に熱が集まるのを感じながら、クリスは手のひらを頬にすり当てた。 そうしながら、首をかしげて、ぱちぱちと幼さを残す目で見上げてくるヒューゴの顔を見下ろして、こほん、と小さく咳払いを一回。 「ただ、その──私はヒューゴが来ていることを聞いていなかったから、驚いただけだ。」 「あ、うん、今日は私用で来ただけだから。」 「──……私用。」 「そう。」 ヒューゴは、心からうれしそうにニッコリ微笑んで、クリスから顔を離すと、ほら、と白いテーブルの元に飛びつく。 そして、その上に鎮座している白い箱にリボンをつけた物を取り上げて、彼はそれを差し出す。 ソレは、ケーキなのかと、問いかけようと口を開いた刹那。 そ、と差し出されて。 「Happy Birthday……クリスさん。」 蝋燭の赤い明かりに照らされたヒューゴの目元や頬が、赤く染まっているように、見えた。 「────………………え?」 思わず動きを止めて、クリスは白い箱を差し出すヒューゴの顔を見下ろす。 前回会ったときよりも、目線が高い位置にあるヒューゴの旋毛。 ふわふわとやわらかそうに揺れるそれが、思った以上に近くに見えるのに、クリスは、キュ、と唇を引き結んだ。 ヒューゴは、照れたようにうつむいて、 「いや、あの──と、トーマスがさっ。ゼクセンじゃ、誕生日に、こうやってケーキ作って、お祝いするって言ってたから!」 「……私に、か?」 明るい瞳を瞬かせて、クリスは煙るような銀色のまつげを伏せる。 目を伏せた先で、ヒューゴが肩をこわばらせて床をにらみつけているのが見えた。 唇をキュと寄せて、暗闇でもわかるほどに耳元を赤く染めて。 「──他に、誰がいるんだよ……っ。 だって……今日、クリスさんの誕生日なんだろ……っ!?」 「──……ヒューゴ……。」 だから、会いに来たのに。 そう言外に呟くヒューゴの手の上で、白い箱と赤いリボンが、かすかな風にひらめいていた。 クリスは、かすかに震える唇を、必死で抑え付けながら、ヒューゴが差し出す白い箱に手を伸ばした。 「……これ、は……ケーキ……、なのか?」 「──あ、うん。」 そ、と持ち上げると、軽い重量感があった。 甘い匂いが、ふわん、と鼻先で香った気がする。 思わず笑みを口元に刻み付けると、クリスはそのやさしい重みを感じ取る。 「白いクリームのが、普通だって聞いたから、メイミに作ってもらったんだけど……。」 「そうか。」 「ちゃんと、クリスさんへ、てプレートも作ってもらった。」 「──ぷ、プレートもか?」 「うん。それで、蝋燭に火をともして、吹き消すんだよね?」 「────…………。」 ニコニコと邪気なく微笑むヒューゴの言葉に、さすがにクリスも苦い色を刻まずにはいられなかった。 そんな子供じみたケーキは、正直、少し──恥ずかしいのだけど。 手にしたケーキの箱を見下ろしながら、クリスはあいまいな笑みを刻み付ける。 「日付は変わっちゃったけど──まだ、遅くないよね?」 少し心配そうに、そ、と伺い見るように見上げてくるヒューゴの視線に。 たまらず、クリスはとろけるような──かすかなはにかみを含んだ微笑を口元に浮かべた。 そして、そのままの流れるような動作で、ケーキの箱を元のようにテーブルの上に置くと、 「──クリスさん、ケーキは……。」 明日、食べるの? そう問いかけたヒューゴの背へと、手を伸ばして。 ──キュ、と、抱き寄せた。 「──……っ! く……くく、クリスさんっ!?」 軽く体を折り曲げて、彼の顔を首元に引き寄せながら──クリスは、日向の匂いのする彼の髪に鼻先を押し付ける。 それから、キュゥ、と目を閉じながら、 「──……ありがとう、ヒューゴ。」 耳元にやさしく囁けば。 目を軽く見張ったヒューゴが、ビクリと強張らせた体をそのままに──おずおず、と……。 「……う、うん。 ……おめでとう、クリスさん……。」 照れくささを押し隠すように、クリスの背中に手のひらを回した。 そのまま、冷えた鎧の感触を顎先に感じつつ、ヒューゴはくすぐったいような、やさしいような感触に、甘い微笑みを口元に上らせた。 ──まだ、夜は、長い。 |