幻水1 ヴァレンタイン
簡素な白と水色のエプロンを身につけて、右手に泡だて器、左手に玉子を二つ掴んだ女は、決意を滲ませた表情で、朗々と宣言した。
「今年のバレンタインこそは……っ!!」
台所に仁王立ちしてそう誓う娘のしなやかな後姿を認めて、リビングからこっそりとそれを覗いていた面々……白いコック服に身を包む人々は、こっそりと溜息を零した。
「……よりにもよって、なぜ年末から……。」
「今年のおせち料理は、張り切るつもりだったのに。」
それぞれに頬や額に手を当てて、諦めの溜息をドップリと零す。
真夜中を過ぎた後、冷え冷えとした台所に、深鍋一杯のお湯を沸かして、そこらに飛び散ったメレンゲや生クリーム、チョコレートの後始末をする自分たちの姿が、今からアリアリと思い浮かぶようだった。
──というか、絶対、そうなる。
それは確信であった。──何せ、毎年同じことが繰り返されているから。
「去年は、1月の中旬から始めてましたよね。」
メイド服に身を包んだ品のいい初老の婦人──このシューレン家に仕えて、早40年を迎えるベテランのメイド頭が、ほとほと参ったような表情で眉を寄せる。
花や刺繍よりも、剣を手にしている「お嬢様」が、こうして台所で泡だて器とボウルを片手に、必死で生クリームをあわ立てる姿を始めてみたときは、「ソニアお嬢様……っ!」と感動したものだったが、この光景が10年も続けば、「いい加減今年は諦めて既製品を買ってくれ」と言いたくなる。
10年も続けているのに、一向にチョコレートを溶かして固めることが出来ないお嬢様の不器用さ加減には、お嬢様本人ではなく使用人のほうが先に参っているのが現状だ。
「その前は、1月の最終週からでしたね。」
「さきおととしは、2月に入ってからチャレンジしてました。」
月日を経るごとに、ソニアお嬢様が「かの決戦の日」目掛けて頑張る日付が、長くなる。
今年は、年末年始の忙しいシューレン家の台所事情を忘れて、年末から始める気なのは、一目で分かった。
──そう、クリスマスが終ろうかと言う時期に、チョコレートや生クリームを大量に注文しているお嬢様の姿を見たときから。
「去年、トリュフが上手に出来たと喜んでいましたから……今年は、ワンランク上のを目指すつもりではないでしょうか。」
コック帽を脱いで、今日はもう仕事にならないと溜息を零す男に、そうですねぇ、とメイド頭は溜息を零して、ボウルの中に液体の生クリームを注ぎこんでいるお嬢様の背中を見つめた。
泡だて器を不器用にかき回すお嬢様の背中は、四苦八苦していて──肩甲骨が、奇妙なリズムで揺れている。
あんな不器用なリズムでかき混ぜていたら、生クリームがきちんとあわ立つのは一体いつの日になるのやら……、というか。
「トリュフ? 去年のアレは、トリュフだったのですか? だって、板チョコを丸く切り抜いただけ…………。」
驚いたように目を見開く若いコックの言葉に、コック帽を外したコック長は苦い表情で唇を引き締める。
「そうだ……、材料はトリュフだった。」
「一応、形もトリュフにするつもりだったようです。」
微妙な答えに、若いコックはなんとも言えない顔で天井を見上げ──それから、台所を占領している自分たちの年若い主である娘の背を見た。
「ん……このっ! なんでこんなに固いんだ……っ!!」
──質問、どうして生クリームが固いんですか……っ!!?
思わず片手を挙げて質問したくなるようなことを呟きながら、肩に力を込めて、ガキョガキョとソニアは泡だて器をかき回してるらしい。
「…………………………で、ソニアお嬢様は、今年は一体ナニをおつくりに…………?」
なってるんですか、と、疲れたような……呆然とした顔でコックが上司とメイド頭に問いかけようとした瞬間。
ごぐっ! どぽぽっ!
「……ぁっ。」
小さくあがったソニアの声とともに、何かがつきぬけ──そして突き抜けた場所から液体が零れる音が聞えた。
とっさに三人揃って視線をやれば、ソニアが慌てて退いたそこに、真っ白い液体が床を濡らす姿が…………。
「………………またボウルを突き抜けさせたんですね……ソニア様…………。」
「──はぁ……本当に今年は、チョコババロアなんて……作れるのかしら…………。」
無謀だ。
シューレン家のコックさんとメイド頭は、台所で固まっているソニア様のために、雑巾とモップを取りに、その場から散った。
──大掃除は、バレンタイン明けに延長だと……それぞれ、心に固く誓いながら。