それは、とても明るい日差しの──夏の一日の始まりの日。
「スイさんっ! 僕と勝負しませんかっ!?」
「嫌。」
いつものようにグレッグミンスターから出張お手伝いにやってきたトランの英雄は、元気いっぱい今日も弾けている同盟軍軍主に、即答した。
一瞬の沈黙が降りるが、それはそれ。いつものことと慣れている軍主は、何事もなかったかのように話を進めた。
「僕が勝ったら、スイさんを好きなようにしてもよくってぇ、スイさんが勝ったら、僕がご奉仕しますv で、引き分けだったら、お互いのを……。」
がこっ!!
「聞けよ、人の話。嫌だって言ってるだろ。」
めげない軍主に、いつものように、手にした棍でスイが突っ込んだ。
ここで流されたり曖昧な返事をしてしまうと、後に残るのは後悔だけなのである。
それを経験でしっかり学んできた英雄は、ここでも馬鹿をする気はない。
だから、自分に注意を引き付ける意味もこめて、スイは実力行使に出たのであった。
「だいたい勝負って何だよ、」
頭を抑えて悶絶するリオを見下ろしながら、スイが呆れたように尋ねる。
すると、興味を持ってくれたのだと感じたリオは、痛みすらも吹っ飛ばして笑顔を浮かべて答えてくれた。
「はいっ! 釣り勝負ですっ!!」
「釣り〜?」
あからさまに面倒そうな顔になったスイに、リオは満開の笑顔で続けた。
「はい! 今日は夏至じゃないですかっ!? この時期からお盆に向けてしか釣れない魚っていうのがいるんですっ! それを先に釣った方が勝ちなんですよ。」
いつのまにか勝負の内容まで決まっている。
楽しそうに告げるリオを、やや呆れた眼差しで見たスイだったが、「この時期しか釣れない」という一言に心動かされないでもなかった。しかしいかんせん、内容が内容であった。
「それには心惹かれるけど、後が嫌。」
「えー? そんなぁ。釣りデートで一緒に楽しんで、それが終わった後はラブラブっていうのが、恋人の鉄則でしょうっ!?」
「誰と誰が恋人だよ、誰と誰がっ!」
うにゅーんと、リオのよく伸びる頬を伸ばして、スイが機嫌を損ねたように立ち上った。
慌てたようにリオがそんなスイをひきとめようとする。
「じゃー、せめて釣り大会には参加してくださいよぉっ!」
「だから釣り……大会ぃ?」
言い掛けた言葉を途中で代えて、スイは素っ頓狂な声を上げた。
リオは引き止められたことにほっとしながら、頷いて彼を見あげる。
「そうです。この時期にしか釣れない魚を、誰が一番早く釣れるかっていう大会が、今日あるんですよ。優勝賞品も出るんです。ねね、僕との勝負は二の次で、それには出ましょうよー。」
「二の次じゃなくて、勝負は無しだよ。」
ぴし、と人差し指でリオの額を弾きながらも、スイ自身相当心が揺れているのは本当であった。
この時期に、この湖でしか取れない魚。それも夏至である今日やってくるという。
それを狙った大会に、優勝賞品。負けず嫌いなスイの心を多いにゆすぶる内容ではあった。
「ええー? そんなぁ。」
情けない声をあげるリオを背後に従えて、スイは歩き出す。
慣れた足取りで廊下を歩いて、そのまま階段を降りる。
このまま帰ってしまおうと思ったのである。釣りは大好きだが、余計な観客がいるような所で釣るのは好きではないのである。
だから、いつものように、ビッキーかルックを捕まえようと、城の広いエントランスに出たその時である。
「へぇ、何だ? 釣り大会するのかよ?」
ビクトールの声が響いたのは。
あれ? と思い見下ろすと、ビクトールだけではなく、何人かが石板の前に立っていた。その隣ではルックが仏頂面で立っている。
見ると、ナナミが石板の隣に看板を立てている所であった。どうやら一番目立つ場所ということで、そこに大会の項目を張り出しているようである。
このまま下に降りれば、ビクトールに捕まるのが落ちである。そうなれば問答無用で釣り大会に参加させられる。
違う通りを通って、ビッキーの所に行くか、と踵を返したその瞬間、
「優勝賞品は、スイ=マクドールの所有権一週間?」
フリックの、呆れたような声が聞こえたのは。
ぴたり、とスイの脚が止まった。
「──ええええっ!!?」
スイの後ろから付いてきたリオまでもが驚きに目を見開いていることから察するに、彼も聞いてはいなかったということだろう。
「これって、スイに何してもいいってことか?」
にやにやと笑いながら、ビクトールがナナミに尋ねると、彼女は彼を見あげて、にっこりと笑った。
「もっちろんっ! スイさんは優勝賞品ですから、優勝者の好きなようにしてくださいっ!」
「…………なな、ななみぃっ!? 何それ、僕聞いてないよ!!?」
慌てて守護神像の側から下を見下ろして、リオが叫ぶと、彼女は呑気な声で上を見あげた。
「賞品は、ぎりぎりに発表するって言ったじゃない〜っ!」
笑顔で告げるナナミが、早速看板の前に箱と紙を置いて、エントリー受け付けを始めます、と宣言した。
リオが真っ青になるのを見ながら、スイは笑顔で彼の肩を叩いた。
「リオ? あれって、どういうことかなぁ?」
「それは僕の台詞ですよっ! このままじゃ、スイさんと勝負しても、カケは成立しないじゃないですかっ!」
あせったようなリオの口調に、真実彼はこの大会賞品には関わっていないのだと、スイは理解する。
理解したからと言って、どうにかなるような問題でもなかったけれども。
どちらにしても、こんな賞品に飛びつくのはリオくらいのものだろうけど、と、呆れた気持ちで思いながら、スイは階段を降りて行こうとする。
「ナナミ……。」
ナナミに声を掛けようとしたのを遮るように、
「んじゃ、いっちょ俺も参加するか。ほら、参加費50ポッチ♪」
ビクトールが、懐から参加費を出して、箱の中に入れた。
「まいど〜。」
楽しそうにナナミがエントリー表を差し出す。
ビクトールが参加したのを始めとして、そこに居合わせた者が全員我先にと50ポッチを出し始めた。
その騒ぎを見下ろして、スイは静かに顔を戻した。
「リオ──。」
これ以上無く冷めた瞳で、スイはリオを見あげた。
スイを追って、階段を降りていこうとしたリオは、その冷たいまでの眼差しに、身体を凍てつかせた。
それを見た後、スイは冷たい空気を振り払うように踵を返す。
とにかく今は、ビッキーの元まで行って、逃げるだけである。
が、しかし。
「よっ! スイ、待ってろよ〜。一週間たっぷりと可愛がってやるぜv」
「ま、せいぜい覚悟しておくんだね。」
「スイさんっ! 僕、頑張りますっ!!」
「スイっ! 逃げても無駄だからな。」
「スイ……──。」
「あ、スイ殿……──。」
ビッキーの元にたどり着くまでに、いろいろな人に声を掛けられた。どうやら全員、エントリーした者のようである。
ビッキーの前に着いた時には、さすがの英雄もやや疲れていた。
「……もしかして、城中の人間が参加してる?」
ふるふると怒りに震える肩を揺らして、スイはリオを見あげる。彼は彼で、難しい表情でそれを認めた。
「みたい、ですね……なんでこんなことに──。」
そして、この世の終わりみたいに溜め息を吐いた。
これ以上スイを引き止めておいては、スイは今夜にでも誰かの所有物である。
それはさすがに困るので、勝負はまた次回へのお預けだと、リオがおとなしくスイを見送ろうと決心した、瞬間。
「スイ殿っ! 見てくださいっ! これこそわがレパント家家宝の……──っ!!」
城の入り口から、見たくもないスイの熱狂的信者が走ってきたのは。
その手に持っている竿を見た瞬間、スイは棍をしならせて、瞬滅を遂げた。
ばっこーんっ!
見事レパントの顔に直撃した瞬間に、倒れる彼から竿を奪い取った。
そして、スイは深々と溜め息を吐く。
レパントが来たということが示すのはただ一つ──グレッグミンスターも安全圏ではないということである。
「逃げられないとわかったなら──僕も参加するまでだねっ!」
きりり、と顔つきを改めて宣言したスイに、
「やる気になってくれたんですね、スイさんっ! これも僕とのラブラブのためですかっ!!?」
一緒にエントリーしましょうね、と燃えるリオの頭の中では、この大会こそがスイとの勝負でもあるとの認識ができていた。
「──自分の貞操のためだよ。」
呆れたように呟いて、スイは髪を掻き上げた。
美しく澄んだ湖の前で、ナナミがマイクを持ち、おのおのの竿を手にした人込みの前で、元気良く叫んだ。
「第一回、同盟軍 スイ=マクドール杯!!!」
「おおーっ!!!!」
一同、目がぎらぎらと光っていて、やや危ない状態であった。
スイはスイで、いつもなら突っ込みを入れているところなのだが、今日はそんな暇などなかった。
ただ黙って風に髪をなびかせて、水流や風を見ている。
「どきどきしますね。」
にこにこと、リオも気合の入った荷物を横に抱えて、スイを見あげている。いやに太い竿に、右腰にはサバイバルナイフ。片手にトンファーを握っている。これで他の釣り人でも攻撃するのであろうか?
「みんなっ! 湖の主を釣りたいかぁっ!?」
「おおーっ!!」
ナナミが一同に声を掛ける。それに答える声も気力万全であった。
「スイ=マクドールが欲しいかぁっ!?」
「おおおおおーーーーっ!!!!!!」
割れんばかりの歓声に、スイが頭痛を覚える。
リオはリオで、ライバル意識を刺激されて、いたく御満悦のようであった。
「スイさんっ! スイさんの貞操は僕が守りますからねっ!」
スイの視線は、そういう君が一番危ないんだよ、と語っていたが、それくらいのことでめげるようなリオではなかった。
「ルールはなしっ! 時間無制限っ! この時期にのみ現われる湖の主を一番先に釣ったものが優勝ですっ! さぁ、スタートと同時に釣り場所を決めて下さいっ!」
ナナミがゴングの用意をして叫ぶ。一同は、スタートラインに並んで、やる気満々であったが。
「ちょっと待って。その魚がどういうののかという説明を、まるで受けてないんだけど?」
この城の人間ではないスイにとって、これは不利極まりないのである。
何としても勝たなければならないのだから、少しでも不利なのはお断りである。
「え? だから、湖の主ですよ。」
きょとんとして、ナナミは本日の景品である少年を見かえす。
「だから、その湖の主ってなんなの? 巨大タコか何か? ティントの鉱山に住んでるとかいう……。」
「ちがいますよぉ。湖の主は……あ、ほら、ちょうど今──。」
笑いながら、ナナミは湖を見て、その中央あたりで波立っている場所を指差した。
そこには、
ザパーンッ! ザザーン ばっしゃーんっ!
跳ねるように姿を現した魚がいた。
およそ150センチくらいの大きさの黒い細身の……。
「今のって……──。」
その凶悪な姿に、どよどよ、と辺りからざわめきを零した。
しかも一匹や二匹ではなかった。ゆうに十数匹はいる。
それらが、まるで己を誇示するかのように、飛んでは湖に戻る。
「──────────………………サメ────?」
スイは無言でナナミを振り返った。
彼女は大きく頷く。
「はい、そうです。この時期になると、湖に出没して、人を二、三人食べて帰っていくんですよ。だから、早いうちに退治するためにこうして大会を催すんですよ〜。」
無言でスイは湖を見やった。
ざっぱーんと、波を起こして、やる気満々でサメが泳いでいる。
「今年もすごい群れだなー。」
「おっほーっ! 久々に腕がなるな、おいっ!!」
ビクトールが嬉しそうに腕まくりをした。
やる気満々な一同と、ややしり込みしている一同もいた。
だからと言って、大会がなくなるわけでもないし、棄権者が出るわけでもなかった。
それを眺めた後、スイは無言で辺りを見回した。そして、
「──通りで最近この辺りに浮いてると思ったよ。」
ぽつり、と呟く。
その声を聞きとがめて、尋ねるような視線をリオが向けたが、それには答えないでスイは微笑んで見せる。
「さ、釣ろうか。──あれがターゲットとなると、とりあえず餌は……。」
きょろ、と辺りを見回したスイは、それぞれ沿岸で太い竿と剣を手にしている戦士達を見て、軽く首を傾げる。
その視線の先には、レパントがいた。
彼は懲りずに竿を新調して、先に肉を付けてやる気満々であった。
「さぁて、釣るぞっ! これでスイ殿をゲット…………ん?」
他の面々と一緒になって岸に並んだレパントであったが、何か違和感を感じてふと身体を止めた。
自分の腰の辺りが妙に窮屈であったのだ。
「んん? なんだこれは? ロープ?」
いつのまにか、レパントの腰には太いロープが巻かれていた。それもたやすくほどけないように、しっかりと巻き込まれている。
ロープの先はどこに繋がっているのだろうと、レパントがそれを手繰り寄せようとしたその時である。
「そーれっ!!」
声も高らかに、スイが竿を振り上げたのは。
それと同時、ぐいっ、と乱暴な力でレパントが引き寄せられる。
「ぬおっ!?」
見苦しい中年親父の身体が、宙に舞った。
「親父っ!?」
シーナが驚いたように目をあげた時にはもう、高い水飛沫があがっていた。
ばっしゃーんっ!!!
「……むごい……。」
隣で一部始終を眺めていたリオが、ぼそり、と呟く。
スイはそれを気にも止めず、レパントが先に繋がっている竿を垂らしてその場に座った。
後は餌に食いつくのを待つだけである。
「さすがトランの英雄……っ。」
今日の景品がやるえげつない釣り方に、どよめきが辺りから漏れる。
「親父……くらげには気をつけろよ。」
シーナが瞑目して、囁く。
助ける気は毛頭ないようであった。そんな暇があったら、さっさとサメを釣らねばならないのである。
「シー……っ! がぼっ、がぼぼぼっ!!」
何やら叫びかけたレパントであったが、それは水の音に掻き消される。
どうやら身体に巻き付いているロープが邪魔で、泳げないようであった。
彼はバシャバシャと、派手み水音を巻き散らかして、ちょうどいい獲物と化していた。
「レパントっ! ちゃーんとサメを倒してねっ!」
明るくスイが溺れかけているレパントに声をかける。その声は異様に明るく響いた。
しかし、ふとスイは思い出したようにナナミを振り返った。
「ナナミ、そういえば、レパントって、エントリーしてるの?」
「え? あ、してますよ、しっかり。」
なんといっても、レパントはスイファンクラブの会長を勤め上げる人である。参加していないはずがないのである。
その可能性を考えてはいたものの、本当に参加しているとなると、呆れるばかりであった。
「そうだよな……。ってことは、レパントが倒すと、あいつが優勝したことになっちゃうんだな。──エントリーしていない人に代えるか。」
がぼがぼと溺れているレパントに関係なしに、スイは唐突にキュルキュルと糸を巻き始めた。
「親父キリンジ持ってないから、どっちにしても倒せないと思うぜ?」
笑いながらシーナが自分が持っている剣を見せる。
スイはそれもそうかと、無駄な時間を潰した事に嘆息する。
ここにグレミオがいてくれたら、エントリーしていようとしていなかろうと、問答無用で彼が餌に決定するのであったが、残念ながら今日は来ていなかった。
きっと、レパントあたりが、グレミオに耳に入らないように細心の注意を払ったに違いあるまい。
ったく、こなくてもいいときは来るくせに、こういう時は来ないんだから、と、スイは悪たれながら糸を巻いて──ふと気付いた。
巻き取られて、どんどん近付いてくるレパントを追うようにして、サメ達が近付いてきているのだ。それも群れをなして。
「あ……ちょうど囮になったみたいだね。」
ぼんやりとスイが呟くと、それを狙っていたかのように、そこら中から餌や網、槍が投げ込まれる。
しかしそれは上手くサメを捕らえはしない。バシャバシャと暴れるレパントが、ちょうど邪魔になっているのだ。
これはこれで役に立つと、スイがほくそ笑んだ時である。
「よしっ! 今だ、行けっ! 時限君っ!」
リオが叫んで、何か投げたのは。
ひゅーんと、音を立てて青い空を横切っていくのは、どう見てもからくり丸であった。
「あっ! からくり丸っ!?」
今までボンボンを振って観戦していたメグがあせったように叫んだが、後の祭りである。
からくり丸は、そのままサメの群れの中にどぼん、と落ちた。
「ぶぶぶ……おぼれる沈ム……ぶぶ……ぶぶぶ……ぶ?」
そのまま水面から消えていくからくり丸の姿が、完全に湖に浸かった時。
カッと、水面が光った。かと思うや否や。
どっきゅーーーーーーんっ!!!!!!!
どごぉっ、と、凄まじい勢いで水面が盛り上がった。
「のわーっ!!?」
レパントが空を飛んだ。サメの群れも一匹残らず空に舞った。その中、爆弾を仕込まれていたからくり丸も何故か無傷で跳んでいた。
「……何ぃっ!?」
軍主がやらかした、あまりのも凄い荒業に、岸にいる一同の視線が点になる。
大きく盛り上がった水柱は、そのまま高く突き上げていく。
「ちっ、やるな、リオっ!」
叫んで、スイはその状況に驚く暇もなく、竿を投げ捨てる。そして、そのままの動作で地面を蹴って、飛び上がった。
それに感づいたリオが悔しそうにスイを視線で追う。
「しまったっ! 出遅れたよっ!」
言うなり、彼も跳んだ。
二人が跳んだ、湖の真上に、サメが浮いている。勿論空中にいるため、彼らは自由が利かない。
これを捕らえればいいのである。
スイが棍を片手に一匹のサメに狙いを定める。
と、ばさぁっ、と、巨大な網が岸から投げかけられる。
「すいませんっ! 私も負けるわけにはいかないんですーっ!!!」
カスミが、申し訳なさそうに叫びつつも、しっかり強化してある網をサメめがけて放ったのである。
すかさずスイが、近くに跳んでいたレパントの首根っこを掴むと、
「あ、手が滑った。」
わざとらしい一言を零しながら、網めがけてレパントを投げた。
見事レパントの身体は網に絡まって、網もろとも湖に堕ちていく。
「あーっ! レパントさん、何てことをっ!」
岸から悔しそうにカスミが叫ぶのに、スイは口元だけで微笑んでみせると、自分が手にしていた棍で狙いを定めた。
そして、棍を投げる。
舞い上がった水を切るようにして突き進む棍が、スイの目当てのサメに一直線に突き進む。と同時、スイは右手の手袋を外していた。
辺りでは、空に飛んだサメを狩ろうと、エントリー者が飛んだり者を投げたりしている。今の所有利なのは弓矢を持つものか。
しかし、スイはそれをサメに当てる機会すら与えるつもりはなかった。
手袋を外し終えた、不吉な黒い紋章を示すと、彼はそっと囁く。甘い、甘美とすら言える囁きで持って。
「冥府。」
──と。
「え?」
「ええ?」
「え?」
「なっ!」
「なにぃぃっ!!?」
飛び散った水すらも飲み込んで、広がる闇が、一瞬で凝固した。
そしてそれが晴れた先には、ただ晴れ渡る空のみが広がっていた。
とん、とスイが優雅に地面に降りた隣に、彼の棍が突き刺さったサメが、どん、と水揚げされる。
打ち上げられたサメ以外、一匹たりともサメはいなかった。
存在全てが、スイによって飲まれてしまったのである。
「そ、そんなのアリーっ!?」
同じく地面に戻ってきたリオが悲鳴を上げるように叫んで、辺りを見回した。しかしサメは一匹たりとも見つからない。
ただ一匹水揚げされたサメの身体に、どん、と自分の脚を付けると、スイは、何事もなかったかのように手袋を付け直した。
そのあと、呆然としている一同に、
「ありです。」
にっこりと、笑って告げたのであった。
グレッグミンスターのマクドール邸には今、新しいお手伝いさんがいる。
その人は、当主が持つ鐘の音に呼ばれて出現するのである。
ちりんちりーん♪
「はい、およびですか、ご主人様。」
しくしくと、哀しげな表情で、マクドール家唯一のメイドさんは、尋ねた。
それに答えるのは、ソファに座って本を読む、このマクドール家の主である。
「お茶持ってきてくれる?」
にこ、と笑って見あげると、メイドさんはとても哀しそうな顔をしてから。
「はい。」
と頷いた。
白いエプロンを翻して去っていくメイドさんを見送り、スイは意地悪な微笑みを浮かべた。
「約束通り、奉仕してよね、リオ?」
くすくすと笑いながら告げると、メイドさんルックなリオは、ドアを開けながら微かに振り返った。
「奉仕の意味が違いますよ〜、うう。」
勝負に勝ったスイは、しっかりリオをこき使う気でいたのである。
「さーって、あと六日の約束だったよね。何させよっかなぁ♪」
「うう………………。」
それはそれは楽しそうな主に、リオは涙を零さずにはいられなかった。
これもまた、惚れた弱みというのか、それとも──惚れた相手が悪かったというのか。
ふらふらしつつ、リオはグレミオの元にお茶を貰いに行くのであった。
こんな扱いを受けても、スイの側にいられるのを喜んでいる自分に、ちょっと自己嫌悪を覚えながら。