その日、朝も早くから準備していたのは、単に誰かに見つかると面倒なことになると、そう思ったからであった。
どうせすぐに帰ってくるつもりだったし(帰ってこれるものなら)、他の誰かならとにかく、自分はテレポートという便利な物が使えるのだから、すぐに行って帰ってこれるのである。
だから、朝日が昇る少し前、持っていかなくてはならないだろう手土産を用意して、いつもの定位置の前に立った。
今から向かう先にいる師匠が、この解放軍に託した石板を見やって、少年は面倒そうに目を眇めた。
帰ってくるまで、これにいたずらをするような人物はいないとは思うが……念には念を込めておいた方がいいのが解放軍というものである。特にここの軍主は油断ならない人物である。
前回師匠に呼ばれた時には、帰ってきたら石板が「ルック風」とかふざけた飾りがされていた。
あの後、ルックによる風の紋章のアラシは、解放軍歴代10位に入る事件であったのだと言う。
その犯人である軍主は、ちゃっかり難を逃れていたようであったが。
ルックは右手を掲げて、そこに神経を集中させる。
とりあえず、あの軍主にだけは避けるような罠を作らなくてはいけない。
入り口には風の罠を張り巡らせて、それから──と、いつも居る室内をぐるりを見回す。
そして、特に石板の回りには風による網を張り巡らそうとしたその刹那、
「ルック〜っ! さぁ、行こうっ!!」
どぉんっ! と、背中に衝撃が走った。
何事かと振り返ったルックは、そこに笑顔で立つ「今一番あいたくない少年」を見つけた。
彼は、見たくないような笑顔を浮かべて、背中に荷物を背負って立っていた。
思いも掛けない衝撃に、身体を前のめりにしかけたルックは、額に青筋を浮かべながら、嫌そうに彼を振り返る。
そして、そこに立つ笑顔の少年に、溜め息を零したくなった。
誰にも会わずに、そっと出て行きたかったのに──しかし、それは遅いことなのである。
うるさく眼にかかる髪を掻き上げて、ルックは面倒そうに彼を見やった。
「……何、その荷物?」
彼が朝早く起きているという事実も驚きだが──確か昨夜は、遅くまで何かしていたはずなのだけど──その彼が、自分の出発を嗅ぎ付けてきているということも、驚きであった。
出来る事なら、穏便に出掛けたかったのだけれども、彼がここでこうして荷物を背負っているという事は、そうはいかないらしい。
「あ、これ? レックナート様への付け届け〜♪」
嬉しそうな声であった。実は昨夜から徹夜しているのではないかと思うくらい、元気なその声に、ルックは頭痛すら覚えた。
「……何で君がそんなものを持っているんだって、聞いてるんだけど?」
「そりゃもう、勿論っ! ルックと一緒に行くからだよ。」
にこにこにこにこ、と、広がる笑顔でスイは答えてくれた。
「……………………何?」
ルックが不機嫌そうに眉をしかめてスイの顔を正面から見詰める。
「だって、ルック、里帰りするんでしょ?」
くり、と首を傾げるその様は愛らしかったが、ルックも伊達にスイと付き合ってはいない。彼が何を考えてそうしているのか分かっていた。だから、しかめた眉はほどかない。
「無理矢理、ね──。それで、スイ? 何で君が荷物を背負ってスタンバイしてるんだい?」
無理矢理レックナートから「お戻り命令」が出るのは、そう珍しい事ではない。今回もくだらない理由で呼び出したに決まっているのだ。
何をしても、どうせ今夜には戻ってこれるのだから──と、ルックは思っていたのだが、スイが付いて来るとなると、話は別である。絶対二日三日は戻ってこれないのである。
「何言ってるのっ!? ルックっ!? ルックの行く所常に僕の姿アリっ! これが真の妻の鑑ってやつだろうっ!?」
恐れおののく、と言いたげに身体をひいたスイに、ルックの鋭い眼差しがきつくなる。
「誰が妻だよ、誰が。その能天気な頭、ちゃんと働いてるのか?」
「もっちろんっ! さぁ、ルックっ!! 新婚旅行としゃれようじゃないかっ!!」
がし、と、スイはルックの細い腕を掴んだ。
しっかりと捕まれては、非力な魔法使いは逃れられない。
ルックは片目だけ眇めてスイを見やる。
「…………で、何やったんだよ、今度は。」
スイが逃亡計画をする理由など、わかりきっている。更に昨夜遅くまで色々やっていたというおまけまであるのだ。
彼が今、この砦にいてはまずいというのは、絶対間違えてはいないのだろう。
冷ややかな視線になるルックを誤魔化すように、スイは彼の腕に手を回すと、すり、と肩口に頬を寄せて、上目遣いに綺麗な顔を見上げた。
「それじゃ、ふつつかものですけど、よろしくね、あ・な・た(はぁとまぁくv)」
ピンク色の声音で、そっと耳元に囁かれた瞬間、ルックの背筋に恐怖の魔王が降りた。
「…………っ!! いっ、いいかげんに……っ!」
眉をこれ以上ないくらいに絞って、スイを怒鳴りかけた瞬間。
グギャァァァァーーーーー!!
この世の物とは思えない、空気を揺るがす音が聞こえた。
それは、まるでこの解放軍の城を破壊するかのような勢いで、びりりっ、と壁を揺るがす。
「──……っ!? 今のは……っ!?」
スイが抱き付いている腕に、鳥肌が立つ。
頭の後ろがぴりぴりと刺激を訴える。
本能が、危険だと叫んでいた。
その声の持つ力に、ルックの身体の奥底から震えが走った。今まで数多くの魔物を見てきたが、あれほどの声を持つ魔物など……見たことなかった。
きりり、と唇を噛み締めるルックの隣で、スイが小さく舌打する。見た目は可憐にすら見える少年とは言えど、スイはこの解放軍のリーダーである。あれにすら動揺はしない。
「まずいな……こっちに向かってきてる──やっぱり、召喚主が分かるのかな……っ。」
低く呟かれた台詞は、入ってほしくないのにルックの耳にも飛び込んできた。
「召喚って……スイっ!?」
聞きたくないのに、聞かなくてはいけない。そんな状況になっているのを感じながら、ルックが尋ねると、スイは真面目きわまりない表情でルックを間近で見あげると、
「さ、ルックっ! 急いでっ!」
腕を揺らして、彼を急かす。
「急いで……って、今の一体……っ!」
解放軍が今、恐ろしい何かによって襲われているのは確かなのである。
それを放っておくことなどしていいのか? それも、軍主自身がっ! ──そしておそらく、間違いなく、それを巻き起こした張本人がっ!
ルックが苛立ちながらスイを見下ろすと、遠くから声が聞こえて来る。
「………………ぼっちゃーーーーーんーーーーっ!!!!」
それは、スイの目付け役の声であった。
切羽詰まっているのは、よぉくわかっていた。
「うわっ、きたきたきたきたきたきたーっ!!」
スイがルックの耳元で叫ぶ。
その声に、ルックは片目を閉じて軽く顔を遠のけた。
スイの言っている「きた」というのは、果たしてどっちのことなのか……聞きたくも無かった。
グギュァァァァァーーーーっ!!
再び震わせるような声が聞こえて、ルックは眉をしかめる。
「何……あれは?」
聞いているだけで、魂が抜かれそうである。
あれが声の通りの怪物なのだとしたら、帝国を相手に戦争するよりも大変なのかもしれない。
「さぁ、ルックっ! 僕たちの愛の巣へ、ほとぼりが冷めるまで駆落ちしようっ!!」
「………………それ、逃げるって言わない?」
きっ、と見あげて来る輝く琥珀色の瞳を見つめながら、ルックは言い返してみたが、「逃げる」ことに異論はなかったため、素直に従うのであった。
懐かしい神秘的な塔は、ルックがいない間に、随分庶民的になっていた。
あれほそ洗濯は外に干せと言ったにも関わらず、下まで降りるのが面倒臭い、という理由でだろう──星見をする部屋にロープをめぐらせて、黒いローブが干してあった。
その下で、広げたまま片づけてない折り畳みテーブルを出してきたレックナートは、やはり同じ様に片づけていなかった椅子を出してきて、座るようにスイに言った。
今ごろ恐ろしいまでの惨劇が繰り広げられているだろう解放軍のことは、綺麗に忘れて、その解放軍軍主は、レックナートの声に甘えた。
かたん、と椅子に座っているスイを横目に、ルックは彼から預かった付け届けと、自分の土産とを棚の中に閉まった。
どうせ今回呼ばれたのも、仕事で忙しいレックナートがたまった家事をやらせるためであろう。
面倒だから紋章を使って掃除はしてしまえと、ルックは埃がうっすらとたまった廊下を見やった。
どれほど家事がたまっているのかチェックするルックの後ろでは、さっさと同じテーブルについたレックナートとスイが、朗らかに会話をしていた。
「いつもルックがお世話になってますわね、ほほほ。」
「いえいえ、こちらこそ、いつもルックにはあそばされてけちょんけちょんにされつつも、たえしのんでます。」
にこにこにこにこ、と答えるスイに、まぁ、とレックナートがおおげさに驚いて見せる。
「うそつくな、そこ。」
思わずルックが振り返って、剣のように冷たい瞳を向けると、スイはやんわりと笑った。
「誰も、僕が、とは言ってないだろ?」
確かにそれはそうであったので、ルックは軽く肩をすくめる。
「人のこと言えない分際で、よく言うよ。お互い様だろ。」
すると、レックナートもそれはわかるのか、なるほど、と頷いた。
「そう言えば、先程解放軍の方で、凄い事が起きているようでしたね。ルック、一体何をしたのですか?」
レックナートは、さりげに涼しい顔でそんなことを聞いてくれた。
「僕じゃありません。──スイ、召喚したって言ってたけど?」
ここに居た時と同じと思っているのか、師は今でもルックが何かをしでかすと思っているらしい。
うんざりした気持ちを抱きながら、ルックはスイを見ると、彼はいけしゃぁしゃぁと、当たり前のようにルックを見た。
「ルックの真似しただけだよーん。」
「…………………………………………あ?」
「ほらみなさい、ルック。あなたが元凶ではありませんか。」
「ちょっと待って下さいよ、レックナート様。これは僕がうんぬんというよりも、スイの性格が問題なのでしょう?」
ルックが言葉を返すが、そんなことで落ち込んだりめげるようなスイではない。
「そんなことないよ。元々ルックがさ、僕がここに来た時に召喚したゴーレム? あれが原因なんだから、一番始めにそういうことをやらしかしたルックが一番性格悪いと思うんだよね……あ、これは皆知ってる事かぁ。」
「…………………………君ほどじゃないと思うよ。ほら、君は根性もひねくれてるし、ね?」
にこり、と天使の笑顔満開で微笑みかけてやると、負けじとスイも笑いかえしてくれる。
これが本拠地での出来事なら、共に席についている人間は、恐怖と至福との合間に挟まれるのであろうが、幸いなことにここにいるのはレックナートのみであった。
彼女は伊達に長い間生きていない。弟子とスイとの間に挟まれても、平気で新しいお茶を煎れていた。
「それで、スイ? 一体何を召喚したのですか?」
そして、簡単に話題展開をした。
「クロウリーと一緒に、紋章を使って色々試してたんだよ。ソウルイーターと、彼が持つ100以上の紋章を使ってね〜。」
「ちょっと待て。」
呼びかけて、ルックはスイを睨み付ける。
「君ね、自分が軍主だっていう自覚あるの? そういう危ないことはするなって、マッシュ殿に言われなかった?」
きりり、と眉を吊り上げて、ルックが綺麗な顔を近づける。
スイはその怒った顔も秀麗な容貌を見つめて、軽く首を傾げた。
「もしかして、心配してるの?」
くす、という笑いを浮かべて、スイはルックを覗きこむ。
ルックはそれを睨みつけて、綺麗な顎をそらす。
「そうなると、後始末が僕に来るからだろ。」
冷たい瞳を鋭く一瞥されて、
「しょうがないよー、あはははは。」
スイは笑顔で明るく言ってのけた。
その二人の姿に、レックナートが口元を優雅に覆って立ちあがる。
「それでは、後は若いものに任せましょうか。」
楚々と立ちあがって、レックナートはその神出鬼没を訴えるがごとく、姿を消した。
ぽつーんと残されたルックは、ちら、と隣のスイを見やった。
スイはにんまりと笑って、ルックを上目遣いで見上げる。
「ルック?」
語尾がうれしそうに跳ねている。
ルックはそれを聞いて、溜息をこぼしそうになるのを感じながら、右手で顎を支えた。
「…………………これからは、するなよ。」
ぼそり、と口の中だけで呟くと、しっかりそれを聞いたスイが、とろけるように微笑んで、ルックを見つめる。
「今度は、ルックも一緒にやろうねv」
「……………………人の話し聞けよな。」
笑顔のスイに、言っても無駄だと思いつつ、ルックは呟く。
そして、用意されたお茶をすすると、解放軍本拠地とは異なる、のほほーんとしたティータイムにふけるのであった。
……のどかな、午後であった。
朔也様
3300ヒットありがとうございました。
ルック坊というよりも………………? と言う感じがしますが、これでも隠れルック坊小説なのですっ!!(力説)
こんなものでよかったら、受け取って下さいませ。