PARADISE DREAM
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ザアァァァ……。
まるで波立つような音を立てて、頭上の木が揺れた。
ハッ、と、思わず腰に差していた剣の柄に手を当てた男は、そのままの動作で膝を軽く曲げ、脚を開く。
いつでも、どのような状況からでも、攻撃を仕掛けられるように、隙なく辺りを伺う。
けれど、
「ギャァァァッ!」
まるで人の悲鳴のような音を発して飛び立ったのは、雄大な鳥の姿であった。
男は、額に手を当てて、まるでまぶしい光を見つめるようにそれを見上げた。
ゆっくりと目を細め、鳥が舞い散らした木の葉を浴びながら、男は詰めていた息を零す。
その瞬間、ズキリ、と肺が痛んだ気がした。
それが何故なのか、何のために起きたのかわからないまま、彼は凛々しい眉を顰め──遠くへ消えて行った鳥の姿を求めて視線をさ迷わせた。
けれど、木々の合間に見える空には、巨大な鳥の姿はどこにも無かった。
男は、額に当てた手を、ゆっくりと落とした。
そのまま、彼は手をダラリと落とす。
柄にかけて右手には、知らず力が篭っていた。
唇が微かに震えそうになるのを、下唇を噛み締めて堪える。
なぜか、脳裏に浮かんだのは──遠い昔に見たきりになっていた、愛しい息子の顔であった。
「……………………。」
男は、思わずその名を呼びそうになる自分を叱咤する。
それは、今、この時には、決して呼べない名であった。
男は、無言で視線を空から転じた。
歯を深く食いしばるようにして、喉の奥で──空気に触れることすら禁忌だと言うように、彼は呟く。
「──……強くあれ…………。」
──その声が、どれほど強く願おうとも、決してその相手に届かないと…………分かっていたけれども…………。
手の平を握り締めて、男は静かに前を見据えた。
その彼の横に、静かに佇む青年が二人──彼等は、指示を仰ぐように彼を見上げた。
「テオ様──ご命令を。」
テオ、と呼ばれた男は、瞳に宿る光を、剣呑で冷酷な色に染め上げると、キリ、と唇を引き結んだ。
「行け。この先に、ロッカクの隠れ里がある。」
この戦いが、自分が思い浮かべた少年との戦いの幕開けになると、分かっていながら──己の腰に帯刀した剣を、抜刀した。
キラリ、とこもれ日に輝く刀身は、遠い昔、尊敬を抱いて見上げた人が掲げていたそれと、全く同じ物であった。
※※※※※※※
──最期の微笑みは、痛いくらいに綺麗で、深く揺るぎ無い愛情を称えていた。
駆けつけた監獄は、怖いくらいに静かだった。
一騒動を覚悟していたマッシュは、背後に従えた兵士達を手で制し、きつく顔を顰めずにはいられなかった。
門番の居ただろう場所には、中身が空っぽの兜と鎧がガランと打ち捨てられている。
マッシュは、止めようとする兵士を後ろに、無言でそこへ跪いた。
そして、土に汚れただけの──ほかに汚れ一つない兜に手で触れる。
ヒンヤリとした冷たさのほか、何の変哲もない兜にしか見えなかった。
血に濡れた後もなければ、汚れた後もない。
──侵入に失敗して、門番を打ち据えたのだとしても、門番の「身体」が無いのはおかしい。
これはどう言うことだと、マッシュは唇を引き締めて、片方の横に置き捨てられている同じような兜と鎧を見やった。
静かな──静か過ぎる監獄。
呼吸をしていない建物は、人気が──人の気配がまるで感じ取れなかった。
マッシュは、無言で扉へと手をかける。
背後で兵士達が軽く息を飲む音が聞こえたが、それに頓着はしなかった。
けれど、扉にはカギがかかっているらしく、ギシリとも音を立てなかった。
マッシュはすばやく視線を置き捨てられた兜と鎧に当てて、迷うことなくしゃがみ込む。
鎧をガランと転がせると、チャリン、と金の鳴る音がした。
鎧の下には、この鎧の主が着ていたのだろう服が撚れて落ちている。
その腰辺りの場所に、丸い輪に連なられたカギがあった。
無用心だと思うことなく、マッシュはそれを手にした。
──嫌な予感があった。
いや、それはもう予感ではなかった。
「………………。」
マッシュは、兵士達を振り返ると、数人の人間に自分の後を付いてくるように指示をし、別の数人に、この監獄の状態を調べるようにと告げた。
誰の物とも分からぬ鎧から取り上げたカギで、監獄の出入り口を開く。
ギィ──……と、きしむ音を立てたそれは、少しの抵抗もなくマッシュを中へと誘おうとする。
けれど、ぽっかりと開いた口は、まるで死の匂いを漂わせる黄泉の門のようで──マッシュは、知らず顔を歪めずにはいられなかった。
どこか埃臭く、カビ臭い匂いのする中へ、サァァ──と風が吹き込む。
その風に、埃がヒラヒラと舞った……白い埃ではなく、色のついた埃だ。
マッシュは、床をウッスラと染める色褪せたような粉を見下ろし、ジャリ、とそれを踏んだ。
血の匂いがするわけではない。
けれども、ここは、戦場だった──いや、それは正しくない。
この空気は、何かが戦い、何かが消えた跡だった。
鼻につく匂いがあるわけじゃない。
なのに、胸が震えるような戦慄が走るのが、止まらない。
何かが起きていると、そう思わずにはいられない。
様子を見るために、小人数を伴って、監獄の中を歩いていく。
続く一本道と、途中幾つかある扉にも、きっちりとカギがかけられていた。
全てカギを外し、マッシュはそのまま先へと進む。
突き当たりにある場所にも、ガランと打ち捨てられた鎧と兜。
マッシュはそれを一瞥して、背後から続く兵士達の何人かに指示を飛ばした。
「おまえ達は右へ。」
濃厚な死の匂いが左からする。
血の匂いじゃない。
けれど、多くの戦場を見てきたマッシュの感覚を強く刺激する感覚が、訴えてくる。
駆け足になりながら、通路を早足に歩く。
そのマッシュのナナメ前を、緊張した面持ちで兵士が剣を握りながら歩いていく。
カチャカチャと、鎧の音が静かな廊下に響く。
前へ進むごとに、心が重くなる。
突き当たりの扉を開き、もう一つ目の前に開いた扉のカギを開ける。
一つの扉を開くたびに、死臭が濃厚に鼻をついたような気がした。
この先に待ち構えているのが何なのか──せめて、最低の出来事にならないようにと、そう祈りながら……同時に、その場合の展開を脳裏で考えはじめる自分に、吐き気を覚えた。
兵士が曲がり角の手前で、マッシュに足を止めるように声無き声で伝え、一人、ソロリ、と奥の部屋を見る。
妙な緊張した空気が、当たりを染め上げていた。
この空気が────似ていた。
「……誰も居ないようです。」
じゃり、と兵士の足元で粉が音を立てた。
マッシュはそれに頷き、慎重に剣を前に突き出しながら進む兵士の後に続いた。
そこにも、誰も居ない。
居ないのだけど──……何か違和感があった。
辺りを不思議そうに見回す兵士に続いて、右手の扉を見やった。
今までと同じようの取っ手に手をかけると、やはりソコにもカギがかかっていた。
──やはり、侵入に失敗したか、感づかれたのか……。
どちらにしても、自分達が救出にきた相手は、この先のどこかに閉じ込められていることには間違いなさそうだった。
それが、最悪の形にならないことを祈るだけだ。
マッシュは、カギを取り出し、今まで潜り抜けてきた扉に使ってきたカギと良く似た形のカギを、扉に差し込む。
それは、アッサリと回った。
「マッシュ様。」
そのままノブを回そうとするマッシュを止めて、兵士が剣を構えなおし、変わりに扉に手をかけた。
マッシュはそれを見上げ、無言で一歩後に下がる。
そのマッシュの前に、別に兵士が立った。
マッシュは、兵士がソロリと伺いながら扉を開けるのを、細めた目で見つめる。
扉が薄く開くたびに、ズクンと心臓が鳴る。
それは、痛いだけの──鼓動。
「…………っ。」
ゆっくりと途中まで開き──兵士は、目を見開く。
そのまま、警戒を怠らず、兵士は扉を全開にした。
同時に、何人かの兵士が飛び込む。
ジャリリ、と、辺りで埃が踏まれる音がした。
濃厚な埃の匂いに、喉が掠れて音を立てた。
ジクジクとこめかみが痛みを訴えるのを感じながら、マッシュも兵士達に続いて室内に足を踏み込む。
そこは、今まで通ってきたどの部屋よりも広い──何も無い部屋だった。
自分達が入ってきた突き当たりには、重々しい扉がある。
鍵穴も取っ手も見当たらないそれは、別の仕掛けで開くようになっているのだろう。
何も無い部屋に、兵士達が顔つきを厳しくさせて見回す先──扉に入ってすぐ右手に、扉を開くのだろう仕掛けがあった。
「マッシュ様! これは……っ。」
ここに通ってきたときと同様、服だけが床に落ちている。
帯刀したままの剣も、兜も、鎧も──まるで、人間の身体だけが忽然と消えたようなそれらは、入り口でも見かけたし、途中でも見かけた。
けれど、そこにあるのは……違った。
「──……これは……。」
マッシュは、軽く目を見開き、兵士の一人が両手で掴み上げるそれを見つめた。
ゴロリ、と転がるのは、無骨な斧。
一瞥しただけで分かる、柄の部分に刻まれた文字。
それは──……。
「────…………残酷な…………っ。」
マッシュは、口元に手を当てて、何が起きたのか……ここが、どうしてこれほどの静けさを保っているのか、気付いた。
気付かざるをえなかった。
「スイ様方は、ご無事でしょうか?」
頑丈な扉を見上げて、兵士に一人が困惑した面持ちで尋ねる。
マッシュは、跪いたまま、深い緑色のマントを手に取った。
暖かな日の香のするそれからは──今は、濃厚な死の匂いがした。
可能性は、幾つも考えられた。
けれど、「彼」のマントが扉のレバーの近くに落ちていたことや、扉のコチラ側に同じ現象が起きていること──そして、今まで落ちてきた中で、見覚えがある服が、唯一「彼」のものだけだと言う事実。
この事実が、マッシュの考えを裏打ちしすぎていた。
「──……おまえ達……。」
マッシュは、低く、彼等を呼んだ。
途端に、動いていた足を止めて、自分を見やる彼等に、マッシュは手にしていたマントを床の上に下ろし、レバーに手をかけながら、一度強く目を閉じた。
そして、静かに彼等を見回すと、
「──状況はわかりました。
今すぐ、別行動に出た兵士達を収拾して、ここからの退路の確保と、外の包囲を行ってください。」
そう、告げた。
言われた兵士達は、マッシュの意図を掴みかねたように眉を寄せたが、彼の静かな目に見つめられて、姿勢を正した。
「はっ。」
数人が、すかさず行動に移し、もと来た道を辿って行く。
残された二名が、重い扉の前と、入ってきた扉の前に立つ。
マッシュはそんな彼等に──おそらくは、この先に進もうとするマッシュに付いて行くつもりなのであろう。
「……扉の外で、待機してくださいますか?」
マッシュは、そんな二人に、自分が入ってきた扉の向こうを示した。
「危険です……っ。」
「状況が理解できたと言ったでしょう? 何も危険はありません。」
当たり前のように反論した兵士達に、マッシュは揺るぎ無い瞳でそう告げる。
ぎゅ、と、右手でレバーの上を掴んだ。
兵士達は、引かないと言いたげにマッシュを見上げたが──、
「危険は……すでに過ぎた後ですから…………。」
どこか苦痛を堪えたような表情で言い切られて──その語尾に込められた強い口調に、兵士二人は、ゴクリと喉を上下させた。
そして、どちらともなく互いに視線を合わせ──こくり、と頷いた。
二人が静かに部屋を退出していき、扉が閉まるのを見届けて、マッシュは無理矢理視線をマントから引き剥がした。
「スイ殿! 聞こえますか!? 今、開けますから……っ。」
そこに居るに違いない。
それは、推理ではなく確信だった。
マッシュの声に応じるように、扉の向こうで音が聞こえた気がした。
しかし、分厚い扉に阻まれて、それは聞こえたか聞こえないかの音にしか感じなかった。
マッシュは、迷うことなく手をかけていたレバーを押した。
ガコン、と音を立てて、レバーが完全に下に落ちる。
それと同時、重い扉が、大きな音を立てて左右に開いた。
「…………っ。」
湿った空気が、飛び込んできた気がした。
マッシュが立つ部屋から入り込んだ光に、眩しげに目を細める人影が6人。
「彼」以外の全員と、救い出した老医師が揃っていることを、マッシュが確認するよりも先に。
扉の目の前にしゃがみ込んでいた人影が、バッ、と顔を上げた。
差し込む光に、白い容貌が青白く──倒れそうに見えた。
その、まるで捨てられた子犬のような目が、赤く滲んでいる。
──初めて見る表情だと、マッシュは瞼が熱く滲むような感覚を覚えた。
「……っ、グレミオ……っ。」
ひび割れた唇から、悲鳴のような声が零れたかと思うや否や、少年は両手で床を叩きつけて、飛び出す。
ふらついた脚が揺れ──それでも彼は、迷うことなくマッシュの傍へ……崩れ落ちているマントのもとへ、辿りつく。
マッシュは、無言でレバーの前から退き、扉の向こうで佇み、座り──憔悴している仲間達を見やった。
開いた扉に肩を押し付け、唇をわななかせて立ちすくむ女の瞼が、うっすらと赤く腫れていた。
怖い表情で、のっそりと動いた男が、座り込んだ老医師に肩を貸す。
それに気付いて、青いマントを身につけた青年も、片方の肩を支える。
「マッシュ……わりぃな……。」
暗い声だと、自分でも思いながら、ビクトールが謝罪を口に乗せる。
ビクトールとフリックの後から、辛そうに唇をかみ締めながら、キルキスがゆっくりと起きあがるのが見えた。
彼は、ふらつく体を扉に手を当てて支えようとして──ギクリ、と肩を強張らせる。
そこには、べっとりと、血の跡がついていた。
「……スイ様……っ。」
とっさに、キルキスは、この扉にずっと拳を叩きつづけていた少年の名を呼んだ。
光の届かない通路、蝋燭の光も途絶えた中で、生臭い血の匂いがしても、誰もそれを気にすることはなかった。
まさかそれが、帝国兵と戦った時の傷の跡や服の染みではなく、彼が扉を叩きつづけていたときの傷だとは、思っても居なかったのだ。
何せ彼は、手に皮手袋を身につけているのだ。誰が、その頑丈な手袋の下からでも──これほどの出血をするほどの傷を負っているなどと、思うだろうか?
慌てて見やった先──、スイは、マントの前にしゃがみ込み……震える手を伸ばしていた。
表情は見えない。
前髪に隠された顔は、影が落ちていて──見えるのは、血が滲んだ唇だけ。
「……………………。」
スイは、ワナワナと唇を震わせ、何度かそれを開きかけたが──結局、喉を滑り出たのは、空気だけだった。
喉が、渇いていた。
目が、渇いていた。
皮膚が、渇く。
唇が、渇く。
──全てが、渇いていた。
「……スイ様…………。」
扉から出たところで、ビクトールも、フリックも、キルキスも、足を止めた。
クレオは、それを見ていられないとばかりに、キリリと唇をかみ締めて視線を横へと逸らす。
カリ、と、爪で掻いた扉に、渇き切れていない血が濡れていた。
そのクレオの手にも、スイの手ほどではないものの、べっとりと血がにじみ出ていた。
扉が閉まり、この重い運命の扉が閉じて──手が壊れるばかりに叩きつづけたのは、スイだけではないのだ。
クレオが諦めて、血が滲んだ手の側面をなで上げている間も、スイは諦めることなく叩きつづけていた。
声が聞こえなくなっても。
「重い何か」が倒れるような音がしても。
それでも、諦め切れず──かすれた声で、かの人の名前を呼びつづけていた。
もう、答える声がなくて……それがより一層、焦りと諦め切れない気持を生んでいた。
渇きかけた血が、彼女の手でパリと音を立てる。
けれど、その彼女の手とは違って──スイの手には、まだ血がにじみ出ていた。
「──……っ。」
震える手で、スイがかの人が残した品へと手を伸ばす。
その手袋の、頑丈な布地が裂け、ベットリと重く血に濡れているのを見て──ヒュッ、と、キルキスが息を呑んだ。
見て分かるほどの色が変色した──濃く塗れた手袋からは、まだ、血が滴っている。
手袋の下で、手がどれほど傷ついているのか……皮が捲れて、肉が割れてしまっている可能性がある。
いくら、出血がそれほど多くはないとは言っても、彼の体力が消耗していることを考えると、楽観視できる状態でないのは確かだった。
すぐにでも、治療をと──そう思うのだが、スイの持つ雰囲気に、一歩を踏み出せない。
スイの、震える手から──血が、滴る。
────ぽとん……。
「──…………。」
床に広がるマントに、スイの手から滴った血が、滲む。
スイは、ゆっくりと──ゆっくりと、そこへ視線を落とした。
「……………………っっっ。」
喉が、震えた。
あれほど泣き叫び、あれほど叫び──それでもまだ、ここまで震える心が、痛む心がある。
何も跡が残っていない……苦痛を感じるほど、何の跡も残っていないマントに、血の染みが、落ちる。
ぽとん、と、二滴目が零れ落ち、スイはマントへと伸ばしかけていた手を、引いた。
そのまま、両手を自分の身体へと回す。
ギュ、と──亡くした人がしてくれたように、自分の身体を強く抱きしめる。
それでも、心の奥底から湧きあがるような寒さが消えず、小刻みに揺れる。
誰もが動きを止め、言葉を失った。
静寂ばかりが、肩にのしかかる。
スイが、強く力を込めて、しっかりと服を握り締めた。
皺の寄った服に、血が滲んで行くのを、マッシュは無言で見下ろし──やがて、その傍らに膝をついた。
息を詰めるばかりの静寂の中、スイの身体に触れることなく、そ、と、空気を震わせるような囁きで告げる。
「スイ殿……表に、兵士を待たせております。」
ピク、と、小さくスイの肩が揺れた。
虚ろな目が、目の前の緑のマントを見つめ──それが、少しずつ上にあがっていく。
目の前に居るのは、小さな子供ではない。
家族を目の前で残酷に喪い、泣き叫ぶだけの子供ではない。
──そうあっては、ならないのだ。
「今は、帝国兵は居ないようですが、いつまでもこのままとは限りません──……。」
「………………。」
フリックが、リュウカンを支えながら、堪え切れないように視線を逸らすのが分かった。
彼の手に、力が篭る。
その爪先が、再び手の平に食い込むのを見ながら、ビクトールは強く目を閉じる。
「虫の知らせがすると……そうビクトールさんは言いましたよね?
私も、したんです。
虫の、知らせ。
──いかなくちゃ、いけない、と。」
ぎりり、と、ビクトールは強く唇をかみ締める。
リュウカンが、細い息を零しながら、自分を支えてくれる男二人に、小さく──小さく呟く。
「自分を傷つけても、何も帰ってはこんよ……残されたわし達は、今できることを、しなくてはならん。
だから、自分を傷つけてはならん。」
「…………。」
「剣を取り、クスリを使い、守ってやれ──。」
リュウカンの声に、二人は何とも言えない顔を浮かべ──フリックは手の平に突き刺していた自らの爪を緩め、ビクトールは唇をかみ締めていた歯を解放した。
そんな彼等を見て、クレオは小さく深呼吸を繰り返し、キュ、と強く眉を寄せた。
そして、ハァ、と強く吐息を零すと、グ、と背筋を正す。
見やった先に、震える子供が居る。
「スイ様……。」
クレオは、彼のもとへ駆け付け、その身体を支え起こしてやらねばと、一歩踏み出したのだけれども。
それよりも先に、スイは、顎を逸らして──顔をあげる。
長い睫を震わせ、頬に短く影を落とし、
「マッシュ。」
静かに──まだ、微かに涙の色が残る声で、信頼する軍師の名を呼ぶ。
青白い顔の中、ゆっくりと瞼が上がり、スイの眼がマッシュを見上げる。
その目には、もう、涙の色も、虚ろな光も宿ってはいなかった。
強固な意志。閃く意思。
──でも、前とは違う……何かが違う、光。
「おまえの言うとおり、今は一刻も早く、ここから遠ざかることを優先としよう──リュウカン先生も、衰弱していらっしゃる。あまり無茶はできない。」
するり、と、傷ついた手を投げ出すように、自分の身体を抱きしめていた手を解く。
「──スイ様……っ。」
思わず零れたクレオの呼びかけに、スイは視線を揺らし──クレオを見た。
そして、迷うことなく、彼女の傷ついた手を認めると、微かに眉を寄せる。
「キルキス、後でクレオを癒してやってくれ。」
「……スイ様の方が、酷いじゃないですか!」
咄嗟に、そう叫んだキルキスに、スイは自分の手を見下ろし、無感動に頷く。
「見た目ほど酷くはない。それよりも、今はココから立ち去ることが優先だ。」
「…………っ。」
嘘だ。
嘘だ、嘘だ……っ。
誰もがそう叫びたいのを、必死で堪える。
痛いのは、身体か、傷か、心か。
何でもないことのように、無理矢理押し隠し、今あったことを閉じ込めて目を上げるスイに、吐き気を伴うほどの激情が荒れ狂った。
あの微笑みを。
あの言葉を。
あの叫びを。
あの嘆きを。
────どうして、他の誰でもない貴方が、無かったことに出来るというのですか!?
スイは、そのままの動作で立ちあがり、マッシュを苦い笑みで見上げる。
その一瞬、唇が強張った気がして、スイは一度だけ泣きそうに目を歪めたが、それすらもすぐに消え去った。
見事なほどの──見ているこちらが痛いほどの、仮面だった。
「マッシュ、状況は?」
「──……現在、スカーレティシア攻防戦は、硬直状態のまま、あちらから打って出てくることもありません。
また、このソニエール監獄の周囲にも、兵士は見当たりません。」
「だろうね──多分、人食い胞子があたりの人間を食らったんだろう。」
サラリ、とスイが口にした言葉に、ビクトール達の方が身体を揺らした。
その事実は、──多分、自分達がマッシュや幹部達に説明しなくてはいけないだろうと、そう思っていたというのに、スイは、何でもないことのように口にする。
「…………────っ。」
その、当たり前のように立ちあがる背が、言葉が、あまりにも痛くて──クレオは、堪え切れずに大きく目を逸らせた。
泣いていられるのは、扉のアチラ側だけであったというのか?
大切な、幼い頃からずっと傍に居た家族が、自分を守るために……それも、全ての一部始終を、扉を隔てたアチラ側で感じていたというのに。
この、多感な年頃の少年には、耐えがたいほどの拷問でしかなかっただろうに。
その、残酷な事実に、打ちひしがれ、嘆くこともできないというのか?
喉が熱く鳴り、瞼が染み入るように火照る。
鼻がツンと痛んだ。
けれども、スイ様が嘆くことが出来ないのに、私が涙を流すことなど出来ない。
マッシュが先に立って扉を開く。
外には、マッシュに部屋から出るように指示された兵士が二人、待っていた。
彼等は、驚いたように振りかえり──そして、そこに立つスイ達を認めた。
フリックとビクトールが肩を貸している、老人の姿もすぐに目に止め、彼等の表情に安堵の色が浮かぶ。
「スイさま、マッシュさま。」
呼びかける二人に、マッシュは軽く頷くと、
「退路は確保してあるな? なら、すぐにココから脱出し、本拠地まで戻るぞ。」
一刻も早く、この残酷な地から彼等を運び出そうと、厳しい顔つきで命じる。
クレオは、一瞬視線を床に落とされたままのグレミオのマントと斧に視線をやったが、辛そうに眉を寄せ、目を細めるだけで精一杯だった。
多くの同僚の死を見てきた。
10年前の継承戦争の時も、前線で活躍していたから、死んでいく人間の姿は、何度も見てきた。致命傷を負った同僚や部下を、この手で楽にしてやったこともある。
けれど──彼だけは、別だと……そう、どこか心の隅でそう信じていた自分に気付いて、泣きたくなった。
戦に心身ともに疲れて帰ってきた時、お疲れ様でしたと出迎える青年の顔。
彼は、決して──こういう形で、私よりも先に死ぬことなんてないと、どこかで信じていた。
バカみたいだと、クレオは片手で顔を覆った。
そんなこと、在るはずが無いと言うのに。
「クレオさん──癒しを。」
そのクレオが、手が痛んで苦しんでいるのだと思ったのか、キルキスが駆け寄ってくる。
クレオは、それを片手で制して、ゆるくかぶりを振る。
少しだけ笑おうとしたのだけど──でも、顔の筋肉は強張って動くことはなかった。
ほんの少しだけ努力しようとしたクレオは、すぐに笑うことを断念した。
こんなときに笑えるはずがないのだ。
「いや、もう傷は塞がりかけているから──。」
言いながら、手の側面をさする。
ジリ、と染み入る痛みに──なぜかそれが、救いのように感じた。
キルキスが、辛そうに顔を歪め、了承のように頷いた。
先に立って歩くスイとマッシュ、その後に続くビクトールとフリックに続いて、キルキスとクレオも部屋から出る。
足元で、ジャリ、と、粉のような物が音を立てた。
ふ、と下を見下ろしたクレオは、目には分からないその粒子に──ギリ、と唇をかみ締める。
そして、思い切り良くブーツを上げ……ガツンっ、と、それを踏みしめた。
ジャリリ、と、踏みにじり、クレオは怒りの滲んだ顔をそのままに、部屋から出て行く。
一瞬、キルキスがレバーの近くに残ったマントに意識をやったが、
「キルキス……。」
いいんだと、そう言いたげにかぶりを振るクレオに、小さく息を飲み──何も言わず、その後に従う。
早くここから立ち去りたいと思う反面、後ろ髪を引かれるような思いに急きたてられた。
けれど……断ち切るように、──長い苦痛の刻を過ごした部屋を、出て行く。
扉の外に出ると、身体に走っていた緊張がほぐれて行くのを感じる。
それとともに、あの部屋に何かを置き捨ててきたような、妙な穴が心の中に出来た。
先に立って歩くマッシュが、急ぎ足に進んで行く。
その後に続くスイは、まっすぐに視線を上げ、マッシュの後に続いていた。
フリックは、無言でその華奢な背を見詰め──ゆっくりと、リュウカンの身体を気遣いながら歩く。
歩くにしたがって、自分達が目にしなかった──けれど、耳にしてきた状況がどういうものなのか、理解した。
忽然と身体だけ消えたように、残っている鎧、兜、剣。
そんなものが、廊下の端に落ちていた。
「…………あいつは……あの男は、誰も逃がすこともしなかったというのか……っ。」
忌々しげに、口の中で呟いたフリックに、リュウカンは無言でその主無き鎧に黙祷を捧げる。
ビクトールも、いたたまれないと言いたげに唇を噛み締めた。
クレオはその後を、ゆっくりと物も言わず進み、キルキスはどこか気鬱した気持ちで──まだ実感の湧かない感情をもてあましていた。
マッシュが開けた扉を三つ潜り抜け、監獄の入り口から一本道に続く突き当たりに出る。
反対側の兵士達の待機所を調べていたらしい兵士達が、スイとマッシュに気付いて、姿勢を正した。
「スイ様、マッシュ様、こちらにも、数個の鎧と兜が脱ぎ捨てられている以外、異常はありませんでした!」
キリリ、とした表情で報告する男達に、マッシュは彼等に分からないように眉を寄せた。
それが、「脱ぎ捨てられた物」ではないことを、しっかりと理解しているからだ。
コレ以上の調査を行う必要はないだろうと、マッシュは彼等に、このまま引き上げるように──そう続けようとしたときだった。
「マッシュ。」
スイが、短くマッシュを呼びとめた。
「時間は、どれくらい残っている?」
「今の所は、この監獄に帝国兵が来る気配もありませんが──。」
まさか、ココに残って、まだ胞子が残っているかどうかの調査をするとか言うのではないだろうなと、マッシュがいぶかしげにスイを見下ろす。
スイは、そんな彼を一瞥すると、
「丁重に葬ってやってほしい。──彼等もまた、犠牲者なのだから。」
「………………………………。」
マッシュは、無言でそんなスイを見下ろした。
自分を見上げてくる彼の目は、真摯で、強く鋭い光りを宿していた。
「……分かりました。そのように処理致しましょう。」
吐息にも似た言葉で、マッシュはそう答えるしかなかった。
「頼む。」
スイはマッシュに短く頷くと、自分達の会話を聞いていた兵士に、小さく微笑んで見せた。
「──……すまないが、よろしく頼むよ。」
少し寂しさを含んだその笑顔は、ぎこちない物でもなければ、微笑に失敗したものでもなかった。
その微笑みを見た瞬間、兵士たちは小さく息を呑み、直接頼まれた感動に、ビシリと背筋を正して敬礼した。
マッシュは、唇を強く結び、彼等に手短に指示を下すと、
「スイ殿、私達は一刻も早く、リュウカン先生を連れて本拠地に戻りましょう。」
さぁ、と、促すマッシュに、スイも足を踏み出した。
その後ろから、続こうとしたフリックが、リュウカンを支え直して、前に進もうとする。
けれど、ビクトールの脚が動かない。
「……おい、ビクトール。」
怪訝な目を向けたフリックは、少し考え込むようなビクトールに気付いて、眉を吊り上げる。
しかし、すぐにビクトールは、背後を振向くと、少しうつむいて床を睨みつけているキルキスの名を呼ぶと、
「わりぃ、ちょっと変わってくれ。財布を落としてきたみたいだ。」
リュウカンを支えるのを交代してくれと、指で指し示す。
キルキスは、すぐに意を介して、ビクトールの変わりにリュウカンの脇に滑り込んだ。
ビクトールは、そのまま来た道を引き返そうとする。
そこを、クレオが低く呼びとめた。
「……ビクトール。」
無言でビクトールが足を止めると、クレオはその背へ眉を寄せて呟く。
「すまない……。」
「……………………なんのことだか、わかんねぇな。」
ビクトールが、唇を歪めて答えた。
クレオは、再び歩き出す彼の背を、見送ることなく──無言で、目を伏せた。
誰もが自分に気遣う中、スイは微笑みながら仲間たちに告げた。
それは、少しの悲しさを含んだ──けれど、慈愛あふれる、涙にくれた者達を癒そうとする、優しい微笑だった。
「グレミオが死んだ事を、誰もが心から嘆き、誰もが心から惜しんでいることだと思う。
そして、僕の事を心から案じてくれている。
僕はそれを、彼の身内として嬉しく思い、また同時に、彼という大切な礎を無くしたことを、心より悲しく思おう。
弔いのためにも、また、彼の想いに答えるためにも──僕達は、この戦いを、良い方向で終わらせるために、尽力をつくそうじゃないか。」
一人の男の死を悼み、その男の遺志を受け継ぎ、一回りも二回りも成長した軍主の姿がソコにあった。
哀しみを一つ越えて、彼はその想いを糧に、立ちあがる。
立ちあがり、自分達を導いていく────それは、確かに、揺るぎ無い覇王の姿だった。
その姿は、目の前に一度敗戦した戦いを控えた兵士達に、仲間たちに、感動と奮起を導いて行った。
誰もが、彼の言葉を疑うことなく、決意に瞳を染めた少年の名を歓呼した。
サァァァ……と、湖から吹き込む風に、短い髪をなびかせて、女は窓枠に肘をついていた。
暗闇に落ちた湖の向こうに、湖岸に建つ家々の明かりが見える。
それも、一つ消え、二つ消え──もう間もなく、闇に包まれてしまうことだろう。
天上には、控え目な明かりが空を彩っていた。
星を見上げながら、たわいのないことばかりが心に浮かんでは消えた。
感情ばかりが空滑りをしていっていた。
何か、どこかに──ああ、きっと、あの監獄の中に、感情というものを置き捨ててきたに違いないのだ。
開けろと、頼むからここを開けてくれと、そう喉が裂けるほどに叫んだあの激情が──夢のように感じる。
あれは、何時のことだったのだろう?
あれは、明け方に見た夢だろうか?
幻のように綺麗に微笑んだ男の、最期の壮絶なまでの笑顔は──……いつ見たものだっただろうか?
コトン、と、壁に頬を預けて、彼女は窓から目を逸らせた。
人は死んだら、どこへ行くのかな?
人は、星になるの?
鳥は、死んだ人の魂を連れて行く使いって、本当?
ねぇ、どうして人は、生きて、死んで行くの?
「────……後味……悪いったら、ありゃしないよ…………。」
ガリ、と、掻いた爪先が、窓枠に小さな傷を作った。
その手の平には、両方ともに白い包帯が巻かれていた。
窓から見下ろした湖面には、ユラユラと揺れる炎の照り返しが映っている。
きっと、今もリュウカンの指示のもと、解毒薬が作る準備が進められているに違いなかった。
そう思えば──またアリアリと思い浮かぶ、あの悲劇の一日。
女は、それ以上考えることが辛いかのように、堪えられないかのように、唇をかみ締めて、ブルリ、と頭を振った。
ファサ、と頬にかかる髪が、どこか痛く感じる。
悪夢の監獄から出て、そのままの脚でこの本拠地に戻ってきた。
結果を尋ねるまでもなく、リュウカンを連れていることから、誰もが今回の作戦の成功をしった。
そして同時に──帰りを待っていた人間たちは、スイが誰よりも大事に想っていただろう人を喪ったことも……知った。
腫れ物に触れるかのように、なんとかその心に出来ただろう傷を癒そうというかのように、誰もがスイに語りかけ、誰もが哀しみを抱えていた。
スイは、そんな彼等に、哀しみを滲ませた微笑みで──……。
「ありがとう……グレミオの死を、悼んでくれて……。」
自分の前を歩いている少年が、そう微笑んで言った瞬間を思い出して、クレオはギュ、と自分の左胸を握り締めた。
バクバクと、自分の鼓動が跳ねあがっていた。
それは、良い意味の緊張ではない。
痛くて痛くてどうしようもないからこそ、心臓が跳ねあがるのだ。
クレオは、堪え切れない痛みを抱えて、グ、と背を丸めて、窓枠に額を押し付ける。
遠く、耳に届く水音が、酷く虚ろに胸に響いた。
その水音に重なるように──けれどもっと身近に、パタパタと近づいてくる足音が聞こえた。
クレオはゆっくりと顔を上げて、両手を窓枠にかけたまま、足音の主を見やった。
そこに立つのは、一人の男──今、ここの城主であるスイの自室に近づくことを許された人間のうちの一人、パーンであった。
「……クレオ。」
彼は、気まずそうな表情で、クレオの整った顔を見つめた。
蝋燭の明かりに照らされる彼女の顔は、いつになく青白く見えた。
「パーン──明日、出陣が決定したって?」
「あ、ああ。一足先に第一陣が向い、偵察をするらしいな。」
「………………そう……………………。」
唇から零れる吐息は細く、憂鬱だった。
クレオが再び窓の外へと視線を向けるのに、パーンは居心地悪げに身をよじる。
その目が、一瞬、扉の手前を左右し──絶望にも似た光を宿した。
いつもここに来れば、朗らかに笑って迎えてくれた人が居ない。
これは戦争なのだから、そういうこともあるのだと……分かっていたはずなのに──。
「スイさまは──……もう眠られたのか?」
クレオの横顔を見ながら、パーンが低く尋ねる。
少し前まで、マッシュと次の戦の──つまりは、スカーレティシア城への攻撃の打ち合わせをしていた。
そのスイが、明日に備えて休むと席を外し、ここへ来たのは知っていた。
クレオが何時からソコに居るのかは分からないが、スイのために、ずっとここに居たのだけは確かだった。
「──私には、もう休むとおっしゃったけど……まだ起きているだろうね。」
苦い……苦過ぎる笑みを口元に刻んで、クレオは片手を額に当てた。
その手に見える白い包帯が嫌に痛々しくて、パーンは眉を引き絞る。
「クレオ、手……そのままにしているのか?」
少しの非難をこめて呟かれた言葉に、クレオはチラリとパーンを見やる。
そして、頬に当たる包帯の感触を感じながら、同じように包帯が巻かれた左手で、右手をなぞった。
サラリと心地よい感触──手の側面の辺りだけ、ガーゼが当てられているためか、少し厚みがあった。
「手当てはしたよ──。」
「戦いの前だ。……きちんと癒してもらったほうがいいんじゃないのか?」
手元が少しでも狂えば、それは命に関わることだと──どうせ明日も、スイについて前線に行くつもりのくせに、と、パーンが声を硬くして忠告するのに、クレオは珍しく迷うような目で、視線をさまよわせた。
息を詰めて見守るパーンに、やがてゆっくりと視線を合わせたクレオは──泣きそうな表情をしていた。
そんな彼女の顔を見るのは……パーンは、初めてだった。
「──……クレオ…………。」
「すまない……今は、私も一人にしてくれ…………。」
彼女は、ゆるく頭を振ると、フイ、と視線を逸らせる。
再び閉ざされた扉に背を向けて、窓枠に肘を預ける。
伏せた睫を憂鬱の色に染めて、彼女は夜の海を見つめる。──正しくは、ただその目に映しているだけだったけれども。
「…………おまえ……飯も食べてないだろう?」
ぎゅ、と、拳を握り締めて、パーンが低く尋ねる。
クレオは、夜の海を見つめたまま、答えない。
パーンは、そんな彼女に、堪らないと──苦しい息を零した。
どれほど辛い戦いでも、どれほど絶望的なときでも、彼女は常に目を開き、前を見てきた戦士だった。
テオの傍らで、前を見つめ、その手から脅威の武器を放すこともなかった。
どんな状況でも、判断力と冷静さを失わない、そんな女戦士だった。
その彼女が──今は、そうではなかった。
パーンの前では決して見せなかった、弱さを、留め切れずに晒している。
そんな彼女を、慰めたいと思うのに、手が動かない。
それ以上に心配でたまらない若き主の事も、気にかかってしょうがない。
けれど。
──同じような心を、結局抱えている自分では、ただの傷の舐め合いにしかならないことを、パーンは良く知っていた。
これは、同じ痛みを知っている自分達が、それぞれ乗り切って行かなくてはいけない──そんなことなのだ。
「クレオ…………おまえが、そんな顔をするな……。」
ギュ、と、更に強く拳を握り締めて、パーンは震える声を漏らした。
零した言葉で、その度に心が涙に揺れる気がして──パーンも自分で気付いた。
「そんな顔してたら、ぼっちゃん、おまえの前でも泣けないじゃないか。
ぼっちゃんは、グレミオと同じくらい、おまえのことを信頼しているんだから──だから、おまえが哀しみに押しつぶされようとしてたら、ぼっちゃんが、泣けないだろう……っ。」
ああ……クレオが、毅然としていないことが、これほど自分の心にも、衝撃を与えているのか。
胸が震えている。
心臓が痛い。
何も出来ない自分が──、痛い。
「──……かってる……分かってるけど…………っ。」
クレオは、窓に両肘を突いて、組み合わせた手の平を額に押し付ける。
掠れた声が、自分の腕に当たり……風に揉まれていくような感覚を覚えた。
「ぼっちゃんにも分かるんだよ…………。
私が、どれほど普通の仮面をつけても、ぼっちゃんには分かってしまうの…………っ。
私はそれを、どうしても消せない……っ。
悔しいけど……情けないけど────私は…………。
………………グレミオの形見を持ちかえることすら、できなかった………………。」
「……………………………………。」
ヒュ、と。
どちらともなく、息を呑んだ。
クレオは、喉に込み上げてきた嗚咽を必死で飲み下し、震える肩をこらえる。
泣いてはダメ。
泣いてはダメ。
ここで、堪えられなかったら、私はぼっちゃんの傍にいることは出来ない。
これから何が起きるのか──グレミオの死を目の当たりにして、心が冷える感覚と共に、刻み込まれた。
これは戦争だ。
これは──戦争だ。
理解していたことだけど、甘い事を考えていた節もある。
笑顔で、グレミオに土産を手渡していたミルイヒの姿は、そう遠くはない昔のことだ。
そして、つい昼間、壮絶な笑顔を浮かべて、恐怖の悪魔を落として行ったミルイヒも、同じ男だ。
「私が、持ちかえっては……いけなかったから。」
「……………………。」
「そうしてしまえば、ぼっちゃんは絶対に、自分の傍にそれを置いておこうとするでしょう?」
「それで……いいじゃないか。ぼっちゃんの慰みになるなら、その方が……。」
なぜ、おまえはそこまで考え、苦しむのだと──パーンが、苦しげに小さく頭を振る。
クレオは、ウッスラと滲んだ目で、泣きそうに顔を歪めてパーンを見上げた。
「──……ぼっちゃん、皆の前では、普通に食事を取ってただろう?」
「? ──ああ……。」
食事は、身体の健康の基本です、と、そう口癖のように言っていた青年の顔を思い出しながら、パーンが頷く。
特に、明日の戦いを備えている今は、少しでも力を付けるために、たっぷりと食事をとり、休養を取れるだけとって置いたほうがいいだろう。
クレオは、そんな彼に瞳を揺らして──続けた。
「でもね……部屋に帰ると、全部戻してしまうの……。」
「──……っ!」
「あんな喪い方をした人間を、強く思い返させるものを──それも、『スイさまを守る』と、誓い刻まれたものを……私は、ぼっちゃんに手渡したりはできないよ……。
そんなことをしたら、ぼっちゃんは…………本当に、壊れてしまいそうで………………怖い。」
最後の一言は、クレオの唇の中で消えたから、パーンに届くことはなかった。
けれど、口の中に消えたその言葉を、パーンは聞いた気がした。
クレオは、ゆっくりと首を巡らせるようにして、閉ざされたままの扉を見やる。
その向こうで、自分達の若い主は、眠りについているはずだった。
──否。
眠りについていてほしいと思った。
夢さえも見ない、深い眠りに──。
そうすれば、幸せな夢を見て……目覚めたときの絶望に心震えることもければ、夢よりも悲惨な現実を思い返させる夢を見ることもないから。
「…………ねぇ、パーン?」
クレオは、それ以上見ていられないと言いたげに、扉から視線を反らせて、包帯の巻かれた自分の手をさすった。
「痛みが、現実に引き戻してくれることを、私は知っている。
無くしたモノを痛む心を、表に出すわけには行かない戦場で、心の痛みを身体に刻む術を、知っている。」
同僚が目の前で死に、痛む心を押さえて、憤りを抑えて戦う経験は、パーンにも幾度もあった。
その中、一度だけ苦い顔をしたきり、後は平常心を保った顔つきで、戦いに挑むクレオの顔も、知っていた。
ただ怒りに目の前が真っ赤になるパーンと違い、クレオは常に冷静に対処してきた。
それは、スタイルの違いだと、そう思っていたけれども。
「スイ様は、グレミオの死を静かに受けとっているように見えるのは、きっと、まだ真実味がないからだと言っていた。
だから、時が経つにつれて、きっと、だんだんと自覚していって、哀しみが染み込んでくるのだと。
今はまだ、何が起きているのか分からないから…………と…………。」
クレオは、フ、と、そこで一度息をついた。
「私は…………きっと、私の悪いところを、あの方に教えてしまったのだろうね………………。」
歪んだ彼女の顔に、かける言葉があっただろうか?
何の言葉をかけろと、言うのだろうか?
「あの方は、手の痛みだけを、グレミオへの死の悼みとして残した。
自分のせいだと攻めることも、嘆くことも、何もかもを────…………一人で抱え込んでしまった。」
クレオは、ゆっくりと顎を反りかえらせ──天井を仰いだ。
キュ、と結ばれた唇が、痛々しいくらいに青ざめて見えた。
──その、細く開かれた瞳に、蝋燭の頼りない明かりに輝く雫が見えたけど……それは、決して彼女の頬を伝うことはなかった。
俺達は、軍人だった。
だから。
誰よりも大切な若き主が、心を閉ざして行く様を、悲しいと思うと同時に。
「軍を統べる主は……それでいいのだと…………そう思う自分がいることに、吐き気がする…………っ!」
顔を歪めて、吐き捨てたクレオの言葉は──扉の向こうに届かないように気を遣ったためか、小さく…………毒に満ちていた。
それは、チクリ──……と、パーンの胸を、突き刺す、毒の棘でもあった。
どうか、夢も見ずに眠っていて。
今は、それだけが、貴方の救いになるのだと。
──それ以外、貴方を救うものは…………ないのだと………………。
IN THE DARK DREAM
えまり様
新しいカウンターセット後の123きり番ゲット、ありがとうございました。
リクエスト内容は、ダークだったような気がするのですが──背景の黒っぽさは、ダークちっくだと思います。
当初の予定とは違い、マッシュが前面で大活躍してしまったので、表向きな内容になった上、本当に「死後すぐ」な話になりました。
本当に大切な身近な人を喪った経験が無かったぼっちゃんは、その最初の人が、あんまりにも身近な人であんまりにも残酷な形で喪ってしまい──彼が愛してくれた「坊」としての顔を、置き去りにしてしまうという、そういう話です。
ちなみに、ビクトールは、本当は部屋から出るときに、マントと斧を回収するので、部屋を出た後戻ってくるわけではありません。
ビクトールは、凄く前向きな男だと思います。
彼は、胞子のビンを割られた瞬間、「助かる方法」として、グレミオが選んだ手段に気付いていたのだと思います。
でも、彼は全員で助かる方法を見つけようとした。
その一瞬で、グレミオはすでに決断していた。
同時に二人の頭の中では、言ったほうと言われたほうとして、「虫の知らせ」の意味を、強烈に把握していたのでしょう。
ビクトールは、グレミオを止めることが出来なかったという後悔を、二重の意味で背負っているのです。
監獄に連れてきてしまったこと、気付いていたのにそれを止めることができなかったこと。
できることなら、スイの耳を閉ざして、気絶させてやりたかったと思ったでしょう。
けど、それは出来なかった。
グレミオが、それを望んでいなかったから。
なるべく、そういう感情の面は描かないように──というか、描いても力不足になりそうなので、避けさせていただいたのですが、きちんとダークちっくなシリアスになっているでしょうか?
久しぶりにシリアスを書いたので、なんだか不思議な感じです。
それでは、長々と書いてしまいましたが、えまり様に捧げさせていただきます。
バチンッ!
「現実逃避してるんじゃねぇよっ! もっと、自分の感情と向き合えっ!
じゃねぇとおまえ…………壊れちまうぞっ!?」
打たれた頬に、ゆっくりと手を当てて……彼は、唇の端から血を零しながら、男を見上げた。
「……現実逃避? …………誰が、何のために?」
「──……っ! 巻き込んだのは、俺だ……けどな、おまえは、そうじゃなかっただろう!?
そんなんじゃ……ないだろうが……っ!」
「大切な人が死んで、感情が麻痺してしまうという話は良く聞く。
ただそれだけのことだよ。
実感が無いんだ──そう、まだ、あの屋敷に帰ったら、笑って待ってくれていそうな気がして……。
ただ、それだけなんだ。
きっと、時間が経つとともに、僕もゆっくりと、自覚していくんだと思う。
悲しくなってくると──そう思う。」
「…………っ。」
嘘を、つけ。
なら、なぜおまえは、夜眠れない日が続く?
なら、なぜおまえは、笑顔で食したものを、部屋で吐いている?
なら、なぜおまえは──その右手の手袋を、風呂場でも外そうとしなくなった?
「俺達は──おまえを失いたいわけでもないし、おまえを壊したいわけでもないんだ……。」
泣いてくれ、頼むから。
叫んでくれ、頼むから。
それが恨み言でもいい、憎しみでもいい、ただの純然な悲しみでもいい。
頼むから、嘆いてくれ。
おまえが、最後に泣き叫んだのは────あの扉のコチラ側だけだったじゃないか。
俺たちは、あの日から、おまえが泣くのを……見たことがない。
「やだな──何を言うのかと思ったら。」
クスクスと笑う少年の笑顔は、太陽のような輝きは無くなっていた。
多分、彼自身、それを知っているに違いなかったけれども。
彼は──決して、それを表に出すことはなくなった。
そう、例え相手が……誰であっても。