いつもいつも知っているのは、うっすらと浮かべた優しい笑顔。
何時の頃からか、初めて知り合った頃に浮かべていた笑顔を、彼は浮かべなくなった。
「笑顔」。
同じ言葉なのに、なんて違うのだろうか?
叩いたドアの音。
いつものようにノックして、ふと思った。
これは、あの時の彼の心のドアの音。
あの時の、彼が閉じたドアを叩く自分たちの拳の出した音。
彼の涙が作ったドアは、重くて固くて、そしてどうしても崩せない。何度叩いても壊れない、誰も答えないドアの音。
けれど現実の彼は、ドアを開けてくれる。心のドアの鍵はくれないけれど、こうして寝室のドアは開けるのだ。
自分が何を求めているのか知っているくせに。
ひょこ、と覗いた顔が、3年前よりも低い位置にいることに気づく。
この時期の3年と言う月日は早い。そして重い。
なのに彼は変わらない。姿形も、その心も。
未だ閉ざされたドアを叩くしかできない。
「……どうかした?」
尋ねるような眼差しで、彼は見上げる。
部屋にはぽつんと明りが灯り、それに照らされた彼の白い肌が闇に浮き立っている。
彼が着ているのは、この城の城主が用意した簡素な寝巻きである。
巻きつける形のそれは、腰で縛っている紐を解いてしまえば、すぐに脱げてしまう代物だ。
何を考えてこんなものを渡したのかは知らないけれど、好都合ではあった──こういうときは。
黙って細い腰を抱き寄せると、彼は何も言わずに瞳を覗いた。そしてしなやかな手のひらを頬に当てると、その唇に微笑みを刻む。
笑顔。
知っていた頃の……ただの良い所のぼんぼんだと思っていた頃の物とはまるで違う、それ。
今にも儚く消えてしまいそうなそれに、衝撃すら覚える。
そして、力強く彼を抱きしめた。
甘い香りがする。
これは、きっと──麻薬の香り。彼だけが持つ、溺れるための……秘薬。
くすくすと、笑う声が優しい。
耳をくすぐる声に、そのままおぼれてしまいそうになる。
「もう、せっかちだなぁ、シーナは。」
言いながら彼は、間近で微笑む。そしてその手を首に回して、そっと唇を近づけた。
自然と閉じる睫が長い。薄闇に溶けてしまいそうな黒いそれは、やわらかな影をほほに落とす。
そっと重なる唇。軽いキスの後、いつも彼は囁く。
「ねぇ、シーナ? ……抱いて?」
尋ねるように、でも有無を言わさないように。決して自分から言わせることはない。まるで年上の女が、年下の男を遊ぶかのように、彼は主導権を握って放さない。
癪に障るけど、たぶん相手のほうが二枚も三枚も上手だ。
現に彼に囁かれて、しびれるような快感が生まれている。
少し低くてしわがれた声は、彼が緊張している証。
白い肌が火照っているのは、彼が感じているから。
それは、間違えようのない現実。
夢の中で、ドアを叩いた。
それはあの時のドアに似ている。厚い重いドア。
彼が叩いていたドア。
その向こうで、彼は笑顔のもとを失った。
彼は微笑みを置いてくるほど大切な人を失った。
ぐれみお、と呼びかける声が弱くなって、ついに泣き出したとき、シーナは本気で彼を守りたいと思ったのだ。
本気で彼の側にいたいと、思ったのだ。
初めからその瞳に惹かれていたのは本当。
でもそれを自覚したのは、その少し後。
あのドアの下で。
あのドアのもとで。
自分の夢の中で、ドアの向こうにいる彼を求めて叩いている最中に気づいた。
このドアは、彼の心を隠す扉。
このドアは、何度叩いても永遠に開かれることはない。
そして、ドアを叩いているのは自分だけじゃない。
「スイ……もう少し脚、開けよ。」
「ん──?」
潤んだ瞳が愛しくて、そっとその瞼に口付ける。
敏感になった肌に手を滑らせると、彼はビクンと体を揺らす。
そして自ら積極的にその手を導いていく。
「シーナ──。」
優しい腕。差し伸べられるそれ。
でもオレが望んでいるのは、こういうものじゃない。
本気で欲しいのは、体じゃない。
「もっと……もっと、抱きしめて。僕を──はなさないで。」
切ないくらいの熱情。
悲しいくらいの願い。
ドアを開いて欲しいのに、開くのはそれじゃないものばかり。
彼は変わらない。3年前と何一つとして変わっていない。
抱いてとせがむ時の瞳も、悲しさばかりで情欲一つとして浮いてない。
あの当時、自分の体一つで全ての兵士をつなぎとめた彼。
それが色んなイミを持っていたのを、シーナは身をもって味わっている。
彼がそうやって狂い始めたのは、大切な人がいなくなってから。
「スイ、なぁ? もういい?」
「……せっかちだね。」
くす、と微笑む口元。
掠めるようなキス。
甘いのに、ほろ苦い。
「この城は、刺客が少ないね。いいことだ。」
「? あの城って、湖の中にあっただろ? あっちは刺客なんて来にくかったんだよ、きっと。」
「結構いたよ、今だから言うけどさ。僕と仲良くしていた貴族とかが、自分が疑われちゃたまんないとか言って、僕の口から自分の名前が出る前に、亡き者にしようとしたっていうのが、一番多かったっけ。それは、リオには心配ないことだからかなぁ?」
「……どうやって、刺客の出所なんて調べたんだよ?」
「別に。体使えば、出きるよ。上手くいったらそのまま雇い主を殺してくれた。──便利な子飼いのイヌかな? ……なぁんてね。」
彼は微笑みを失った。
その笑顔を失って初めて俺は気づいた。
こいつの笑顔が、すげぇ好きだったんだって。
だからオレは今もドアを叩く。
叩いて叩いて、彼が笑顔でドアを開けてくれないかと待っている。
でも。
「シーナ……んっ──あ、ちょっとまって……あっ! だから、ダメだって……っ。」
「まてない。」
汗のにじむこめかみにキスして、シーナは囁く。
それはどっちのイミなのか、自分でもわからない。
シーツが乱れる。
彼の細い指先がシーツの端を掴み、彼の乱れた黒髪が散らばる。
頬が紅潮するさまが愛しい。
彼のこの全てが自分のものになればいいのにと願う。
けれど、今この時も彼の中には自分は少ししかいないのだ。
「んもぅっ。──はっ、んっ……、ふぁっ…………ああっ。」
はずむ呼吸。
熱い体。やわらかな鼓動。
動きに合わせて反応してくれるそれは、男に慣れた……自分一人じゃないのだと思い知らされるそれ。
笑顔はない。
けれどその代わりに、コレ以上はないくらいに綺麗な顔がある。
とろけるような幸せを味わう、綺麗なきれいな時間。
彼の心のドアは固く閉ざされている。
それは、あの時のドアと似ている。
スイはあのドアを開けることはできなかった。
ドアは外部からしか開けられなかったから。
ではオレは? オレは今、スイのドアを開けることが出きるのだろうか?
同盟軍にある、客室に泊まった麗人は、肌に直接シーツを巻きつけて、窓を見ていた。
そこには三日月の月が浮いていて、紺碧の空を彩っている。
心地よい運動の後、静かな沈黙を楽しんでいたシーナを振りかえって、ふと彼は尋ねた。
「ねぇ、シーナ? 月ってさ、いつも顔が違うよね。」
明りに照らされた顔が今だ紅潮している。
それが先程までの情事を思わせて、どこか甘い気分になる。
「そりゃそうだろ。自然なんてのは、そういうもんだ。」
あっさりと言いきったシーナを、スイは驚いたように見た。
そして窓から体をずらして、上半身を起こしている彼を覗きこむ。
肩から羽織ったシーツがずれて、紅い痕のついた鎖骨が見えた。
「シーナでもそういうこと、言うんだね。」
感心したような口調でそう言ってから、彼ははぁ、と溜息をついた。
その態度に引っ掛かりを覚えたシーナは、彼の頬を軽くつまんだ。
「どういうイミだよ、そりゃ。」
「シーナのことだから、そんなロマンティックなこと言うなよとか、女と同じでそこがいいとか、そういうこと言うのかと思った。」
伸びてきたシーナの手を掴んで、スイはそれを自分の唇に近づける。そして彼の指先を口に含むように口付ける。
「……そういう答えを期待してたんだ?」
体をスイの方へと寄せて、シーナがくすりと笑う。
近づいてきた彼の体に身を寄せて、スイは戯れるように口元にキスを落す。
「ん? そうじゃないけどね。ただなんとなく。顔が変わるのって、さびしいなって思っただけ。」
彼が言いたいのが何のことなのか、わかるようなわからないような──いつもそんなあいまいな感情を抱く。
だから皆彼を知りたくて、彼を追うのだ。
だから皆彼の側にいたくて、彼を求めるのだ。
そうして結局彼から与えられる「わずかなもの」で満足できなくて、こうやってみっともなく「ドアを叩きつづける」。
──お願い、オレに気づいて。
「変わって当たり前なんだよ。そうやって、変わってくから、オレたちは今を大切にしようって思うんじゃん? ──ってこれは、お袋の受け売りだけど。」
手のひらをスイの頬に当てる。
スイはそれに重ねるように自分の手を当てた。そしてそのままシーナの手を自分の口元に導いて、手のひらにやわらかなキスを送る。そのままそれは唇での愛撫に変化する。
もう片手で再びスイの体を抱き寄せると、彼は自然に腕を回す。
間近でもう一度瞳を交し合う。
暗闇の中、不穏に宿す光は紅。昔惹きつけられたよりもずっと、悲しくて綺麗なひとみ。
「今……ね。」
微笑みながらスイは、再び唇を合わせる。
「大切にしようか? 今夜のこの時を。」
からかうような口調は、甘く響く睦言。
それにのってやりながらも、感じるのは彼の心のうつろさ。
叩くドアは開かない。
未だ彼は厚いドアの向こうで笑顔の仮面をかぶっている。
それは、あの時……彼自身大切にしていた多くの者を失った時から、続いているもの。
ドアを叩いていたのは彼だった。それは決して開きはしなかったけど。
「ん…………シーナ──。」
「…………………………。」
「なに、かんがえてるの──? こんなときに。」
汗ばんだ手のひらがそっと髪を掻き上げる。
額に当たって、彼は愛撫するように指先を頬に滑らせる。
「ドア……。」
「え?」
「ドアが、どうやったら開くかなって。」
キスをすると、とろけるように目を細めて、もっととねだる。
その仕草が本気なのかそうじゃないのか、オレにすら分からない。
「ドアって、何それ? なにかの例え?」
降らせた口付けの嵐に、くすくす身をよじらせながら、彼は笑う。
それから、ああ、と目をあげた。
「外から開かないなら、中から開ければいいってこと? それとも、押しても引いてもダメなら、横に開けろってこと?」
ドアを開けない張本人にそう言われて、冗談なんかじゃないんだぞ、と囁く。
「結構切羽詰ってんだぜ? おれは。」
真摯な眼差しで言うと、彼は少し目を見張って、それから笑った。
やはりあの頃とは違う微笑み。どこか儚いそれは、それでも3年前よりもずっと柔らかくて優しくなっている。
確実に彼は明るさを取り戻していた。
リーダーとしての重鎮から解き放たれて、彼は元通りとはいかなくても、柔らかくなっていっている。
それはつまり、彼がドアを開きかけてるということ。
確実にわかるのは、そのドアを開いたのが自分じゃないということなのが、悔しいけれど。
「ふぅん? よくわからないけど、鍵はないの、そのドア?」
何を最中にこんな話をしているのだろうと思いはするが、愛撫の手を止めないまま、スイが尋ねてくるので、求めるままに答える。
「あったら苦労してない。鍵で開くんだったら、マジでオレはどんな手を使っても鍵を手に入れるぜ?」
シーナがそこまで固執するなんて珍しいねと、スイは柳眉を上げて口角を吊り上げる。
それから、紅く染まった頬をシーナの胸にすりつけながら、ああ、と呟く。
「中から開けてもらえば? 鍵がなくても、中からなら開くんでしょ? それとも誰もいないの? 留守?」
どうやら彼は、どこかの家のドアの話をしていると思っているらしい。
もしくはシーナのことだから、女の子の家に訪ねる気なのかと思っているくらいだろう。
本気で開けたいのは、そう言う君の心のドアなのだと言ったら、どういう反応を示すだろう?
「中から開けてくれるようなら、苦労しねぇよ。……もっとも、他のヤツには開けてるようだけどな。」
言いながらどうしても苦味が走る口調になる。
嫉妬が混じっているのだと自覚はしている。
悔しいけれど、彼がそのドアを開くのは、今はグレッグミンスターにいる「家族同然の者たち」なのである。
自分には指一つ分も開けてくれないくせに、彼らには当たり前のように開けている。
たぶんそれは、あの青年の影響なのだろうと思うと、嫉妬が煮え繰り返りそうになる。
他の誰でもない、彼を置いて行ったくせに、と。
「ふぅん? じゃ、開いてるじゃない? 他の人に開けてるときに、ばぁんっ、って進入しちゃえば?」
「……………………──────────────。」
「不法侵入だけどさ、それくらい入りたいなら、ま、一回くらいいいんじゃないの? それでこっぴどく振られたらそのときのことだろ?」
何の話をしているかもわからないで、よく言ってくれるよと、シーナはやや呆れも交えて、すぐ下にある顔を眺めた。
悩んで悩んで3年前と同じ瞳に捕まったことに、また不毛さを感じていた自分を、こうもたやすく拘束しなおしてくれて。
全く、かなわない。
そう思ったとたん、笑いがこみ上げてきて、シーナは肩を震わせた。
「??? なんなんだよ、シーナ?」
不思議そうなスイが、そんな彼を見上げて尋ねるが、答えられるはずもなかった。
ただ思うのは……
「たぁっく、かなわねぇなぁっ!」
「僕のほうこそ、わけわかんないよ。」
彼を愛しいと思うのは、今始まったことじゃないということ。
「いや、まじで思うよ。男の本命はお前だな。」
「あー、そりゃどうも。」
気の抜けた返事をしてくれる彼にかまわず、シーナは笑いがこみあげる気持ちのままに再び肌におぼれ始める。
スイはしばらく不審げにそんなシーナを眺めていたが、時間がもったいないとでも思ったのか、すぐにシーナの背中に腕をまわすのであった。
未だドアは開かない。
でも、ドアを開かせる方法はなくても、入る方法はある。
求めているのはドアを開ける方法じゃない。
求めているのは、笑顔。
彼の見せる笑顔でもあり、そして彼の心でもある。
ドアを開けるのは、誰かがしている。
だから、彼の笑顔を見ようと思うなら、他の人が開けてる所にいけばいい。確かにその通りだ。
自分に向ける笑顔を求めるには、ドアを叩いてもしかたない。
彼は決して開けてくれないから。
ではどうしたらいいのか?
「つまり、消しちゃえばいいんだよな♪」
頬を上気させて、鮮やかに色づく唇を軽くかみ締めた少年の体に沈めながら、彼は陽気に呟いた。
それを聞きとがめた少年が問い掛けるような、潤んだ目を向けたが、何も言わずにシーナは角度を変える。
「はんっ。」
思わず白い喉をさらせだす彼に、シーナは密かに誓った。
いつか、見てろよ──絶対、ドアを叩くことがない状態にしてやる、と。
そしてその誓いを裏付けるように、その夜彼はとても熱心にスイを愛したのであった。
で、その結果……。
「う……もう、シーナの馬鹿。」
「悪いってば。」
「考えごとなんかして、やってるからだよ。もう〜。今日には帰るってグレミオに言ったのにっ! 立てないじゃないかっ!」
「悪かったってば。もう機嫌直せよ。」
「直るわけないだろ!? ──シーナとはしばらくしないからねっ!」
「え、ええーっっ!?」
「しーらないっ!」
「スイ〜〜。」
「玄人さんのとこでもどこでも行って来ればぁ?」
「だから悪かったってば〜〜。」
「知らないってば!」
幸せなのかわからないエンド。
うーん。
シーナ君は両思いになれないもようすです。
片思いなのに……なんでこんな…………(T_T)
こんな品ですが、よかったら貰ってやってください。