ジルルカ シリアス



肉食獣

 

 
 
 
 
 
 






 

食らわねば狂ってしまう
 

ならば、狂えばよろしいんですわ。
 

狂うことをお前が望むか?
 

おかしなことを……あなたは、とうの昔に狂いたがってるじゃありませんか。
 

それは──お前も同じだな、ジル。
 

──────………………わたくしは、狂いはしませんわ。
 

戯言だ。
 

だって、私が狂ってしまえば、誰がお兄様を止めるというのでしょうか?


 
 














 それが生き物であることに気付いた瞬間、吐き気がした。
 それが、自分を見つめる瞳を持ったとき、殺してやろうかと思った。
 生まれたときから穢れた者はいないと、誰かが……そう、城に仕える神父だったかが言っていたが、それは嘘だと、そう思った。
 その命は穢れていた。吐き気を覚えるほどに、穢れていた。
 朝日に照らされた白い肌は、血の色にまみれ、しわくちゃの顔が、奇妙に歪んでいた。
 べたつく体液が体を覆い、耳に障る声が、朝の静寂の中、響いた。
 はぁ、はぁ、と、荒い吐息を付いて、上気した頬をやっと緩めた女は、何とも言いがたい表情を浮かべている。
 歓喜か、苦渋か……見分けがつかない、奇妙な表情だった。
 彼女はそれでも、辛そうに上半身を起こし、そして、血だらけの命を認めた。
 年老いた女が、大事そうに抱いたその小さな命を、産湯につける。
 そのさまを見つめて、彼女は安心したように微笑みを口元に馳せた。
 それは、母の顔であった。
 彼女は、穢れたその命を、「自分の娘」だと、認めたのだ。
 瞬間、自分の中で、何かが音を立てた気がした。
 眼が凶悪につりあがるのを感じた。でも、どうしようもなかった。
 その気配を感じたのか、新たな命を──穢れた命を生んだ女は、ハッとしたようにこちらを見た。そして、表情を凍てつかせる。無事に生まれたことを一瞬でも喜んだ自分を恥じるように、きゅ、と紅の唇を結んで、顔をうつむかせる。
「…………どけ。」
 呟いて。
 驚いたように目を見張る女たちを退けて、叩きどけて、悲鳴すら聞かずに、抜く。
 閃く剣。陽光に光輝く美しい刀身。
 抜いて、それを構えた。
 そして。
 無言で、苛立ちと憎悪、嫌悪のままに、剣を振り下ろす。
 母が産んだ、穢れた子供──父親の違う、妹に向けて。

「やめて……──っ! ルカ──っ!!」

 叫んだ母の、苦痛に彩られた顔が、脳裏に焼き付く。
 それが──母の最期の顔だった。
 
 
 

 散った緑の黒髪が、背中を覆う。
 漆黒の髪に彩られた白い、小さなかんばせは、愛らしく、そして大人びた色香すら漂うもの。
 彼女は、無言で頬にかかった髪を払いのけ、正面に立つ男を見つめた。
 その黒曜石の瞳は、ただ一心に、目の前の男のみに注がれている。
「一体、どういうおつもりですの、お兄様?」
 彼女は、苛立っているようであった。
 けれど、それは表情に表れない。
 いつもいつもそうだ。
 彼女は、自分に対して強気でありながら、唯一自分に意見をしておきながら、それでも心の奥底では遠慮するのだ。
 まるで、自分から何もかもを奪うのを恐れるように。
「どういうつもり、だと?」
 ふん、と鼻でせせら笑うように尋ねると、彼女は母譲りの大きくはっきりとした眼を、軽く見開いた。
「わたくしの……婚姻のことですわ。」
 年頃の乙女らしく恥らうのでもない。
 女戦士のように、闘志を剥き出しにして問いただすのでもない。
 どこかためらいながらも、それでもはっきりと口にして、少女は問う。
 一体、どういうつもりなのだと。
 少女は年を取るごとに母に似てきていた。
 透き通るような白い肌。好んでよく着ている服は、彼女の華奢な肩を強調し、鎖骨にかかるネックレスは、彼女の細く白い首を意識させた。
 噛み付いてやりたいと、無意識に浮かぶ狂暴な感情を押し殺して、ルカは妹をうろんげに見あげる。その視線に何を感じたのか、少女は軽く肩を強ばらせたが、すぐに吐息を零すようにして全身の力を抜いて、再びルカの目を射抜く。
 綺麗な双玉の瞳は、昔見た誰かのものにそっくりで、苛立ちがこみあげてくる。
「お父様にすら何も言わず、許可を与えたというではありませんか。どういう、おつもりなのです?」
 いつか自分は政略の道具になるのだと、彼女は知っていた。自分が父の実の子でないことも、幼い頃からうすうす感じていた。
 だから、例え結婚相手がどれほど酷い相手であろうとも、自分がそれでしか役に立てないのなら、嫁いでいく事しかできないのも分かっていた。
 けれど、よりにもよって、今まで娘と認め、育ててくれた父ではなく、血の繋がった異父兄の方が自分の婚姻相手を決めてしまったのだ。
 それも、相手は、特に特筆する家庭でもない、スパイ容疑のかかった──いや、スパイ行為を起こしていた少年だった男だ。
 一体なにをどうして、それを受け入れる事ができるだろうか
「嫌か、ジル?」
 楽しむように、ルカは尋ねる。
「嫌ですわ。」
 ジルも負けじと答える。
 しばらく二人の姉弟は目線を交わし、お互い引く気も見せずに見詰め合っていた。
 しかしすぐあと、ルカが馬鹿にしたように鼻で笑い、目をそらす。
「そうか、仕方ないな。」
 言って、紅い……血のようなワインを煽る。それ以上は何も言わない。
 ジルは胸元で片手を握り、そんな兄を見つめた。
 ルカは喉を鳴らしてワインを飲み干すと、空になったグラスを掲げた。
「それでは、諦めて下さいますのね?」
「お前がな。」
 ルカは言いながら、ゆっくりとソファから席を立った。
 背の高い兄は、威圧的にジルを見下ろす。その瞳は冷ややかな光を宿し、その仕草は獣のように研ぎ澄まされていた。
 戦ごとなど体験したことのないジルですら、背筋が凍りつくような感覚を覚える。
 彼に倒せぬ者はないのではないか、そう思うほどに、兄は全身から力を協調させている。
「あきらめてあいつの元に嫁げ。……面白い見世物が見れる。」
 くくっ、と笑うルカに、ジルは眉を吊り上げた。
「面白い見世物っ!? わたくしの婚姻が、見世物だとおっしゃるのですか、お兄様っ!?」
 荒げた声を出すジルに、ルカは片眉をあげて答える。
「お前次第だ、ジル。」
 突き放すような言葉だった。
 その言葉に、ジルは痛みすら覚える。
 彼は、自分など見てはいないのだ。
 今、目の前に立ち、抗議している自分など、まるで映っていないのだ。
 そう、戦の件で抗議している時もそうであったように。彼は、決めてしまったことに対して他者の意見を聞こうとはしない。
──────ユニコーン少年隊を、攻めこんだときのように。力づくで、自分の思うままにしようとする。
 それを知ったとき、どれほど自分の無力を感じたのか思いだして、ジルはキリリ、と唇をかんだ。
「お兄様は、私がきらいなんですのね。」
 どうせ聞きはしないのだ。何を言っても、この人は。
 彼にとって、何もかもが見たくない出来事なのだ。何もかもが殺すべき、憎むべき対象なのだ。
 そう、血をわけた自分ですら。
「……そう思うか。」
 答えたルカの顔を見上げることすら出来ず、ジルは手のひらを握り締めた。
 彩り鮮やかに塗られた爪が、手のひらに食いこむ。
「私は、自分が嫌いですわ。」
 唇の端から零れるように告げると、ルカは面白そうに口元を歪める。
 何を言い出すのだろうと、そう思っているに違いなかった。
 ルカがそうやって興味を持つのは、ジルが自分を攻める言葉を吐くときだけなのだ。
「時々、いっそ狂ってしまえばと思います。」
 血を吐くような思いで吐露したその台詞には、嘲笑にも似たルカの声が帰ってくる。
「お前が? ハッ! それは見物だな。」
 この人は、どうしてわかってくれないのだろう?
 涙すらにじむ気持ちで、ジルは眼を閉じる。
 長い睫の陰が、白い頬に落ちる。淫靡な雰囲気すら宿すジルのその仕草に、ルカは吐き気を覚えて顔をそらした。
 妹が、「女」を増すたびに、苛立ちが増す。彼女が、「女」の態度で、「女」の言葉で、自分をなじるのが、無性に苛立つ。
 それは、自分が昔殺そうとした醜い肉塊ではなかった。母に良く似た面差しを持つ、美しい少女であった。
 彼女が母に似た女性に育てば育つほど、吐き気が募る。
 ジルは背中を向けた兄に、つらそうに顔を歪ませる。
 何も出来ないのだ。
 何も、出来ない。私の声はこの人には届かない。
 やめてくれといっても、この人は何も聞きはしない。
 それどころか、自分を煙たがるばかりなのだ。
────何も出来ない自分が、嫌いです。
「……いっそ、狂ってしまって、あなたを殺せたら、救われるかもしれませんね。」
 涙をこらえて、無理に微笑んで、ジルは兄を見た。
 眼をそらしていた彼は、その言葉に、軽く眼をみはって──それから、破顔した。
「ふはははっ! 面白いな、それはっ! やってみせてみろ、ジル?」
 顔を近づけて、これ以上の愉快なことはないと言いたげに、兄は囁く。
 それは、毒の含んだ睦言のように、ジルの心をしびれさせる。
──だれよりもすくわれたがっているのは、あなただわ。
   でも、私はそんな兄を救えない。
「お兄様は、残酷だわ。」
 呟く。
 紅の唇で、受け取った毒を飲み下すように呟く。
 あなたは、あの少年の元へ私をやるのね?
 あの、あなたを殺したがっている、彼の元に、私を送るのね?
「お前は狂わんさ。」
 ルカは囁く。
 彼はそれがよくわかっている。
 だから、そう命じるのだ。
 私が何もわかっていない道具のように扱う──いいえ、そう扱おうとする。
 兄は、残酷だ。
 ジルが何もかもを分かっていると知っていて、それを行おうとする。
「お前はジョウイを婿に取るんだ。」
 断言して、ルカは再びワインを煽った。
 ジルは無言でそれを見つめて、手のひらに食い込んだ爪を解く。
 そして、もう一度告げる。今度は力無い言葉で。
「お兄様は残酷だわ。」
 すると、
「お前ほどではないさ。」
 小さく、応えが返った。
 ジルは無言でそれを聞いたあと、何も言わず、ルカの手からワインを奪った。そして、残るそれを一気に煽る。
 空になったグラスをテーブルの上において、ジルは正面から兄を見た。
 そして、臣下が王に礼を取るように、ゆったりと頭を下げると、
「お兄様の仰せの通りに──……。」
 そう、答えた。





お兄様は残酷です。
どうか自分を大事にしてと言っても、
あなたは何も聞きはしない。





お前は残酷だと、だから言う。
その眼で、その言葉で、その声で。
 どうか無茶はするなと願う。
──その言葉が一番、俺を叩き落すと知らずに。




だから、私はあなたを止められない。




だから、俺はお前の言葉を聞かない。

















「いっそ狂ってしまえたらいいのに。
そうしたら私は、貴方を殺せるのに。」





















THE END