世界で一番憎いヒト

1主人公:スイ=マクドール






 今。
 この世で一番憎いのは誰か、と聞かれたら。
 俺は、少し迷って――こう、答えるのだろう。

「オデッサ=シルバーバーグ。」

 と。




 暗黒に染まった海の表面が、月明かりを反射して、波間を淡く光らせていた。
 大きく映る満月は、ゆっくりと中天から傾き、西へと落ちていこうとしている。
 時間は真夜中を過ぎ、あと少しすれば東の空が明るくなり始めるであろう時間であった。
 本来なら、夜も遅い連中も眠さに倒れ始め、朝が嫌になるくらい早い連中も、目覚め前の夢の中をたゆたっている頃だ。
 昨日の今ごろは、静かな――静かすぎるのが嫌になるくらいの…………この本拠地で、そんな時間が存在しているのかと疑ってしまうくらいの静けさの中、周囲から聞える波の音だけが、世界を染め上げていた。
 明るい月が、紺碧の空を照らし出し、薄い雲が青白く浮かび上がっていた。
 目もくらむような星の瞬きは、満月の灯りに照らされて、霞んで見える。
 この夜空の中で、満月は女王様なのですよと、笑って言っていた「元帝国6将軍の一人」の顔が過ぎった。
 あまり良い感情を覚えている相手ではない。
 彼が正気だった頃の事を知っているわけではなかったから、彼の「狂気」だった頃が、当たり前だと信じて戦っていたからだ。
 卑怯で、残酷で、わがままな相手。
 それが、あの相手に覚えた印象だった。
 けれど、憑き物が落ちたかのような顔になったあの男の顔を見た瞬間、苛立ちを覚えたのは確かだ。
 何も知らない、花と動物を愛する心優しい花将軍――その言葉が真実であると、そう思ってしまったからだ。
 確かに彼は、操られていたのだと、そう、分かってしまったからだ。
 あんな残忍な方法で、あの青年の命を奪った男に、一瞬たりとも殺意以外のものを感じてしまったことに、どうしてか……罪悪感が、無くならなかった。
 それは、今もくすぶり残っている。
 表面上は何でもない振りをして、何も覚えていない男に話し掛ける。
 だって、俺は、この解放軍の副リーダーなんだから。
 意思ある者として、解放軍に参加することを決意した者へ、殺意なんか覚えている場合ではないのだから。
――――でも。
「…………………………。」
 解放軍へ来る者を、拒むことはしないわ。
 ここへ来ることで、心が救われる人が、いるのだもの。
 思い出すのは、口元を柔らかに曲げて微笑む女性の顔。
 目元を寂しげな色に染めて、それでも決意を込めた強い光を宿していた女性。
 彼女は、たとえそれがどのような理由であろうとも、解放軍を求める者を、その腕の中に許容した。
 誰かを疑うことを知らないようなその仕草に、フリックも、ハンフリーも、サンチェスも、ビクトールも――彼女を守るのは、自分達なのだと、そう思っていたはずだ。
 彼女に人を見る目が無いと言いたいわけじゃない。
 ただ、彼女は、その人が何を抱えていても、信じようとするのだ。信じて、その身に抱えて――そして、自分達の気持ちを分かってくれる時を待とうとするのだ。
 そうやって、裏切られて、傷ついても、彼女は気丈に言い切る。
「あなたは間違っていないかもしれない。
 でも、私達も間違っているわけではないの。
 ただ、私たちとあなたの思いの場所が、違うだけなのよ。」
 戦いたいわけじゃない。
 けれど、戦わなくては自分の意思が貫けない。
 だから、戦う。
 だから、武器を取る。
 だから。
 その瞳に力を込めて、彼女は言い切ったのだ。
「私の意志を……いいえ、もうこれほど大きくなった解放運動は、すでに私の意志ではないわね。
 皆の意思を貫くために、私は何だってするわ。
 間違いを、正すために。」
 そんな彼女に引かれた。
 そんな彼女の支えになりたいと思った。
 自分の前でだけは、ただの「女性」として、弱く泣いてもいいのだと、そう思ってくれる存在になりたいと思った。
 結果として、お互いにお互いを支えあい、悪いところを補いあう、そんな恋人どおしになれたと思った。
 心の奥底から、そう、思った。
――でも。
 彼女は、最後に……。
「女であることよりも、解放軍のリーダーであることを選ぶ。
 それって、恋人としては、やっぱり辛いところがあるよなぁ。」
 呟いて、彼は背後を振り返った。
 ベランダへと続く扉は全開に開かれ、そこから漏れる灯りが、彼の足元まで届いていた。
 そのベランダの入り口――涼しい夜風が吹く場所に、光を纏わりつかせた髪を流した男が立っていた。
 ゆぅらりと伸びる長い影と、薄暗い中でもはっきりと分かる白い肌。
 痩せた貧弱な、背ばかりが伸びた男――優男だという初対面の印象が、不意にフリックの脳裏によみがえった。
 けど、あの時の彼は、次の刹那にはキッと目元をきつく吊り上げて、「戦士」の顔で背後の少年を庇って立った。
 今は、その面影は見るともなく、ただ穏やかな微笑みが貼り付けられていたけれども。
「そう思わないか、グレミオさんよ?」
 ちょっかいを掛けるように笑いかけてやると、相手は苦笑をしたようだった。
 逆光になってよく分からないものの、彼の雰囲気がそう物語っている。
 何を突然言うのか、この人は。
――きっと彼がそう思っているのは、間違いなかった。
「あんたはそう思わないのか? 自分の恋人が、自分の前でも素の顔で接してくれなくて、悔しい思いをするってことは、ないのか?」
 どうなんだ、とからかうように笑って言うと、彼はそのまま歩み寄ってきて、フリックの隣に並んだ。
 そして、両手に持っていたグラスの内一つを彼に向けて寄越し、おっとりと笑って見せた。
 ……死ぬ前と変わらない微笑。
 最期にスイに見せた笑顔よりもずっと、人間味のある微笑。
 あれほどすさまじく美しい微笑みは、見たことがないと思った。
 死ぬ間際、あんな風に笑う人は、フリックの中には居ない――いや、心当たりは一人居たけれども、フリックはその人の死に目には会えなかった。
「何のことか、わかりかねます。」
 そう言って微かに顎を落とす男の顔は、月明かりの下であるせいか、酷く青ざめて見えた。
 それを見ながら、それもそうかと思う。
 何せ彼は、つい先ほど――――奇跡の力で、生き返ったばかりなのだから。
 そう思えば、心のどこかがチリリと痛んで、フリックは軽く片目を顰めて唇を歪めた。
「誤魔化すことはないぜ。
 皆知ってる。――あんたとスイは、そういう仲なんだろ?」
「……………………。」
「別に珍しいことじゃないさ。
 俺だって、旅の間で何度か見かけたこともあるし、そういうのを商売にしているヤツらだって知ってる。
 解放軍の中には、そういうのを生業にしなきゃ生きてけなかったのも、たくさん居たしな。」
 随分と、自分の心は痛んでいると思った。
 何に対してかは分からない。
 けれども、この感情がどこから来ているのか、フリックは分かっていた。
 それだけは、分かっていた。
 この気持ちは、「宴」から退席した面々と同じ物だ。
 彼がよみがえり、喜ばしい気持ちとともに、なぜ彼なのかと、そう痛む心を覚えた者達と、同じ物なのだ。
 そして、それが分かるからこそ、スイは正面きって喜ぶことはしない。
 還ってきた最愛の人を前に、目を見開き――淡く微笑み、そして、何も無かったかのように、最後の戦いを宣言しただけだ。
「なぁ? あんた、悔しくないのかよ?」
「何が、ですか?」
 柔らかに聞き返してくるグレミオに、イラ、と軽い苛立ちを覚える。
 絶対に返って来ると思った返答が返ってこないことに、そして、ここまで言っても本心を隠そうとする相手に、暴力的な気持ちすら抱き始める。
「誤魔化すなよ――……っ。
 あんたと俺は、同じだろ? 同じような気持ちを感じてるはずだぜ?
 だから、あんたは、死んだんだ。」
 キッ、と、グレミオを睨みつけた。
 目が、痛いくらいに熱を持っている。
 自分が言っている言葉が、自分の胸に刺になって返って来るのも分かっている。
 それでも、言わずにはいられなかった。
――……彼に、嫉妬めいた気持ちを感じていたからだ。
 自分を必要とされなくなった最後の行為として、命を張って愛する人の命を守り、枷となること。
 その人を失ったスイの姿を見ているからこそ、憧れ、羨み――そんな自分に嫌気がさすのだ。
「……フリックさん。」
 静かに、グレミオはフリックを見た。
 かすかに眉を寄せる彼は、死ぬ前よりもずっと、儚く、消えていきそうに見えた。
「勘違い、してるでしょう?」
「勘違い!?」
 まだしらばっくれる気なのかと、フリックは苛立ちを覚える。
 彼なら――グレミオならば、自分の気持ちを理解しているはずだと、そう思ったというのに。
「はい、勘違いです。」
「それじゃ、あんたは、スイを愛してないとでも言うのか? その感情は、ただの親子愛みたいなものだと?」
 はっ、馬鹿馬鹿しいと、どこか裏切られたような痛みを覚えながら、フリックはそれを振り払うように軽く肩をすくめた。
「愛してますよ。」
 不意に、グレミオが囁くように……答えた。
 顔をあげて見た先で、彼は穏やかに微笑んでいた。
 まるで目の前に、慈しむべき存在があるかのような、慈愛めいた優しい笑みだった。
「誰よりも何よりも、愛していますよ。
 テオ=マクドールの息子であるスイも、解放軍のリーダーであるスイも。
 そして、私の目で当たり前のように存在しているスイ=マクドールも。」
 全てを。
 彼のその存在の全てを愛しているのだと、当たり前の顔で、当たり前のように告げられて、思わずフリックは絶句した。
 同時に、それではまるで、自分がそうではないようじゃないかと、羞恥に近い感情を覚える。
 それではまるで、俺は――「女」としてのオデッサを愛することは出来ても、「リーダー」としてのオデッサを愛し、許容することは出来なかったのだと……まるで、そう告げられているようで。
 俺が初めに惹かれたのは、彼女の中にある「意思」だった。彼女の意思に同意し、思いを寄せることから始まった。
 だから、リーダーとしての彼女を愛していないはずがないのだ。
 そうやって、彼女の少女めいた気持ちや、彼女の女としての心や――仕草に、目が奪われて、心を奪われて。
 恋を、した。
「だから、私は、嬉しかったんですよ。」
「……何がっ。」
 噛み付くように叫ぶと、グレミオはやんわりと笑った。
 それを答えることが、この上もなく嬉しいかのように、楽しそうに、告げる。
「私がよみがえったすぐ後に、ぼっちゃんが、リーダーとして、宣言してくれたのが。」
 嘘だ。
 グレミオの台詞を聞いたと同時、妙な確信でフリックは心の中で否定する。
 嘘だ。
 そんなはずはない。それだけはありえない。
 だって、恋人が生き返ったのだぞ? 自分を庇って死んだ恋人が、目の前に現れたんだぞ?
 どうしてそれを置いて、リーダーとして前を向く恋人を、許容できる? 喜べる?
 どうして、死の瞬間まで、リーダーとして死んだ恋人を――――憎んでいないと、言い切れる?
「……そんなの、おかしいだろうっ!?」
 気づいたら、怒鳴っていた。
 耳にざわめきのように届く人々の笑い声も、遠く耳鳴りのように聞える波の音も、何もかもが遠く……。
「おかしいじゃないかっ! だって、愛してるのに、好きなのに、どうしてそれを忘れて、その想いを閉じ込めて、仮面を被るんだよっ!?
 俺の前でだけは、素直であってほしいと、一人の女性であって欲しいと、そう望むことがいけないというのか?
 俺を思うとき、リーダーとしての顔はやめてくれと、そう望むのは――そんなに、わがままなことなのかっ!?」
「――――これは、自慢なんです。」
 グレミオは不意に視線を遠く、空に浮かぶ満月に飛ばした。
「自慢!? お前は俺とは違うからかっ!?」
 キッと、強い瞳で睨むフリックに、いいえ、とグレミオはかぶりを振った。
「私は、死んでやっと気づいただけです。
 表面に出ている感情がどんなものであろうとも、根本の……根っ子にあるぼっちゃんの心は、いつだって変わらないのだと。
 言葉に出ることだけが、真実ではないのだと――そんな、単純なことに、やっと気づいただけの話なんです。」
 たとえ、表面に出なくても、たとえ、言葉にならなくても。
 それは、彼らがそういう世界に生きているから、出てこないだけで、心の内の――だからこそこの上もなく大切な心の内に、大切に抱えられている感情が、いつも自分へ向けられていると、そう、気づいた。
 ただ、それだけの話。
 だからこそ、よみがえった自分から視線を逸らし、前を向き、凛々しく宣言した愛しい人の、表向き何ら変わりない様子に、苛立ちや悲しみや寂しさを覚えるよりも。
 ただ、ただ――愛しいと、思うだけで。
「そして、私なら何も言わなくても分かってくれるはずだと――そう、ぼっちゃんが思っているということが、私の自慢なんです。
 言葉にしなくても、通じる想いはあるんです。
 …………フリックさんも、本当は、ちゃんと分かっているんでしょう?」
 穏やかな、幸せそうにすら見えるグレミオの微笑みに、チリ、と焦りを覚える。
 分かっている? 誰が? 俺が?
 俺が、何を分かっているというのだろう?
 未だに――理性では分かっているはずだと思い込ませている俺の、どこに、何を分かる余地があるというのだろう?
 俺と違って、再びめぐり合うことを許された恋人達に比べて、確かめるすべなどない俺に?
「オデッサさんは、最期の最期まで、あなたを愛していました。
 ただ、私達を通してそれを伝えることを、望んでは居なかったから、救われたと、そう表現しただけに過ぎないんですよ?」
「そんなの、お前に言われなくても……っ。」
「分かっているんでしょう?」
 言葉尻を取られて、フリックは喉で言葉を詰まらせた。
 そして、穏やかで優しい、優男でしかないはずの男を、正面から見た。
 彼は、何かを卓越したかのような微笑みを浮かべて、ね、と続ける。
「自分を置いて逝った、自分に無断で逝った、自分に看取らせることもさせなかった、愛しい人。
 だからこそ、この世で一番憎いと思う。
 だからこそ、この世で一番愛しいと思う。
 ――――それは、この身を震わせる、甘美な愛の告白ですよ。」
 静かに舞い落ちる沈黙に、フリックは驚愕と甘いうずきを抱えて、目を歪ませた。
 自分の中に凝り固まっていた、複雑な感情に、名前を付けられてしまった気がした。
 愛していた人。
 自分の前でだけ、恋人の女性になった人。
 自分の前でも、統率者としての顔を崩さない人。
 強い人。憧れた人。
 恋と愛と憧れとを同時に抱いた、唯一の人。
 命に代えても守りたかった人。
 彼女に残され、彼女に死に目に会えず、彼女を一人で逝かせてしまったこと。
 最期の瞬間、「フリックの恋人」の顔をしなかった女。
 あなたの優しさに救われた、なんて言葉は、恋人に最期に渡す言葉じゃないと、リーダーとしての副リーダーへの言葉にしか過ぎないと、「遺言」を受け取った瞬間、そう苛立った心の波。
 けれど、今更、気づくのだ。
 あれこそが、あの言葉こそが……彼女の、最期の愛の告白だったのだと。
「ああ……寒くなってきましたね。」
 ぶるり、と体を震わせて、グレミオが呟く。
 酒に火照った体には、良く分からなかったが、冷たい空気が頬をなぶり――フリックは、ゆっくりと顔を上げた。
 天上の月が、大きく西に傾いていた。
 遠くまで広がる湖面に、淡い月光が歪んで映っている。
 幻想的で美しい光景を眺めて、ふと思う。
――――彼女達は、まるで、この光景のようだと。
 凛々しく美しく、儚く――手を伸ばしても届きそうにない大きな月。
 暗闇をやんわりと照らしながら、その下でゆがみ映る。言葉も何もかもを、本心ではなく、リーダーとして映し出すために、姿や言葉が、本来よりも歪んで映る。
 けど、誰もがその姿は美しい象徴のように映し出すのだ。
…………一人の人である前に、多くの者の希望であるために。
「グレミオ。」
 中に入りましょうか、と誘おうとした男の言葉をさえぎって、彼の名を呼んだ。
 軽く首を傾げる彼へと、フリックは月を見上げたまま、呟く。
「それでも俺はやっぱり、世界で一番憎いのは――オデッサだと、そう答えると思うよ。」
 俺を置いて逝った人。
 俺を最期に呼んでくれなかった人。
 俺にも何も言わず、逝ってしまった人。
 そのくせ、こんなにも、今も俺の心を占めて離さない、ただ一人の恋人。
「――――…………そして、一番愛しているのも、オデッサさん、なんですね…………。」
 苦笑を滲ませて、グレミオは低く答える。
 だからこそ、きっと、彼女の影は――永遠にフリックを捕らえ続けるのだろう。
 そんな未来がはっきりと見えた気がした。
 先に宴の最中の室内に戻ろうとしたグレミオへ、もう一度フリックは呼びかける。
 明るい室内へと脚を踏み出そうとしていたグレミオは、彼が何を問いかけようとしているのか悟ったような顔で、ゆっくりと振り向く。
 かすかな微笑を貼り付けた彼へ、
「お前は、スイを憎いと思ったことは、ないのか?」
「ありません。――私が世界で一番憎いのは、今も昔もただ一つですから。」
「…………………………。」
「………………ぼっちゃんを傷つける――何よりも深く傷つけることのできる存在ですよ。」
 黙ったまま見守るフリックへ、グレミオは自嘲めいた微笑を見せると、そのまま中へと入っていく。
 その、変わらないように見える背中を見送り、フリックはベランダの手すりに背中を預け、反り返るように空を見上げた。
 西の空へと月が傾くほどに、東の空で瞬く星の数が増えていっている。
 けれども、それもすぐそこまでだ。
 もうすぐ、夜が明け始める。そうしたら、星の光は、ひとつひとつ消えていく。
 星の光を侵食する満月ですら、太陽が昇れば、その存在を薄くせざるを得ないのだ。
「――――――ああ…………そうだな…………。
 結局俺も、そうなのかも、しれないな……。」






世界で一番憎いと思うのは、少し悩んで、
「オデッサ=シルバーバーグ」
だったけど。
たぶん、彼女が今も生きていて、隣に立っていてくれるなら。
俺は迷わずこう答えるだろう。
一番憎いと思うのは。
彼女の気持ちを考えることもできずにいた。
「フリック」
という男だと。











 未だベランダで一人夜風を浴びているだろう男を置いて、宴の中に戻ったグレミオは、夜明け近くのこの時間の騒ぎに、呆れた気持ちで辺りを見回した。
 自然、視線が見慣れた人間の所を何度か行き来する。
 すでに酔いつぶれた様子で壁際でグッタリしているパーン。
 その隣で、微かに酔っ払った顔で酒をのんびり傾けているクレオ。
 更に彼女の隣にしゃがみこんでいるのは、ビクトールである。周りに転がっている酒ビンの数が尋常じゃない辺り、クレオ辺りと酒豪合戦でもしたのかもしれない。
 カミーユはすでに酔いつぶれて、何か意味不明な言葉を発しているシルビナと、意味不明な会話を繰り返している。
 そんな二人に苦笑しつつ水を持ってこようとしているキルキスの足取りも、なんだか危うい。
 いくら最後の合戦前の気合を入れるための宴だとしても、これはあんまりにも酷いのじゃないかと、苦笑を覚え――グレミオは、微かに顔をゆがめる。
 この宴の本当の意味を、グレミオはクレオたちから知らされていた。
 最後の合戦で、重要な役割を負っている――兵士達の士気を煽るという意味で――軍師の具合が悪いというのだ。
 このままでは、最後の合戦には付いていけないだろうと予測されているらしい。
 そして、スイはそれを知っていて、それでも尚、軍師にせめて見送りの場には立て、と告げたのだと言う。
 そうしなければ、士気が下がることもありうるとの理由から。
 この宴は、軍師が体を休め、見送りの場に立てるくらいの体力を回復するための時間稼ぎのようなものなのだという。
 ――同時に、あまりに時間を掛けすぎるのは、軍師の死期が近づくということも意味するのだと、クレオが苦く、言った。
 その意味がわかるからこそ、グレミオは急いで視線を飛ばし、室内に居るはずの愛しい主の存在を探した。
 けれど、その人の姿は見つからず、先に部屋に戻ったのかもしれないと、グレミオはクレオやパーンに一声掛けて、部屋から出た。
 扉を開けて、そのまま階段へ向かおうとした、その瞬間であった。
「フリックを口説いて、どうする気だよ?」
 少し拗ねたような声が、右隣から聞えたのは。
 視線を向けると、案の定、他の誰にも見せないような表情で、こちらを見返している少年が居た。
 最後に見た瞬間には、大勢の幹部達に囲まれて、大分酒を過ごしているように見えたが、今の彼にはその名残すら見受けられない。
 ただ、アルコールが回って、ほんのりと瞳が潤んでいるらしい、と言った程度だ。
「ああ、もう……ぼっちゃんは。」
 グレミオは、壁に背を凭れさせて立っている彼へと近づくと、しゅるり、と自分のマントを外した。
 そして、ためらう間もなく、スイの頭の上からそれをかぶせた。
「ちょっとお酒臭いですけど、我慢してくださいね。
 お風邪を召されるよりはマシだと思いますから。」
 華奢な肩を抱いて、さぁ、と部屋へと促そうとするグレミオの仕草に、ビクリとも動かず、スイは彼を見あげた。
 マントの裾から見上げる瞳の、冷ややかなまでの美しい光が、暗闇の中で目を引いた。
「これくらいで風邪なんて引かないよ。
 先に風邪引きそうなのは、長々と誰かさんとベランダで話しこんでいた、グレミオの方じゃないの?」
 しゅる、と頭からかぶせられたマントを払いながら、スイはそれをグレミオに付き返した。
 ヤレヤレと言った顔でそれを受け取ったグレミオは、軽く眉を寄せる。
「そんなに長くは話してませんよ? フリックさんは、ずっとベランダに居ましたけど。」
「……………………。」
 何か言いたげな眼差しでグレミオを見上げたが、特に何かを口にすることなく、そのまま壁から背を離した。
「戻る」
 一言だけ零し、少年はそのまま廊下を歩み始める。
 宴の騒ぎを背にして、一際静かな一角へと、向かう。
 その先には、ただ一人以外進みこむことが許されない区域があるのだ。
 他の幹部達よりも、ずっと奥手に位置する、首領のための部屋だ。
 グレミオは何も言わず、当たり前のようにそんなスイの後をついてきた。
 そうしながら、目新しい物であるかのように、辺りをゆっくりと眺めて歩く。
 そんなグレミオに気づいていたから、スイはスイで、ゆっくりと歩んでいく。
 幾度目かの窓を通り過ぎ、喧騒が大分遠くなった頃、不意にスイは脚を止めた。
 窓から見えるのは、微かな明かりを灯し始める空だった。
「日が昇り、日が沈み――夜が来れば、出発の準備が始まる。」
「そうですね。」
 特に何でもないことのように、グレミオが答える。
「そうしたら、きっと渡せないと思った。」
「?」
 何を、と問いかけようとしたグレミオの前で、スイは顔を軽く傾けると、指先で耳元に触れる。
 普段は髪で隠している左の耳に――イヤリングがついていた。
 雫型の、赤いガラス玉のイヤリングだ。
 それは、男がつけるには華奢な細工で、女が洒落て付けるには、無骨なデザインだった。
「本当は、あの場にフリックが居たら、フリックに渡したかったんだと思ってさ……。」
 前を見据えたままのスイの表情は、後ろに立つグレミオには見えない。
 けれど、愛しい少年がどのような顔をしているのか、たやすく想像できた。
 たとえどれほど離れていようとも。
 たとえ離れている間に、どれほど変化する出来事があったとしても。
 あなたのことなら、手に取るように分かる。
――そう在るために、自分は存在してきて、これからも存在していくのだから。
「オデッサさんは、ぼっちゃんだから、それを渡したんです。
 だって、オデッサさんは、その場に居たビクトールさんやクレオさんじゃなくて、ぼっちゃんを選んだでしょう?
 答えは、簡単なことだと思いますよ。」
 もし、あの場にフリックが居たとしても、彼女は迷わずスイへこれを託しただろう。
 彼女は的確に、スイの中に眠っていた覇王の素質を感じ取って居たようだから。
 そのことでフリックがどれほど傷つこうとも、どれほど嘆くことになろうとも――憎むことになろうとも。
 そうして、最良の選択を、未来を見つめていくのもまた、彼女が彼女である所以であり、歴史の礎として選ばれた――自らが選んだ結末なのだ。
「その紅いガラス玉は、ぼっちゃんが持たないと、意味をなさないんですよ。
 もしあの場にぼっちゃんが居なかったら、オデッサさんはきっと、自分と一緒に川に流してましたよ。」
 何の確信ももたず言い切ってくれる青年に、スイは半ば呆れた目を向けて――それから、破顔してみせた。
「やっぱり、グレミオは凄いや。」
「??」
 体ごと振り返って、スイは愛する男の背中に、自分の腕を回した。
 思い切り彼の体を抱きしめて、その体に頬を摺り寄せて、クスクスと笑う。
「……だから、これはもう僕に必要ないものなんだ。
 もう必要の無いコレが、唯一の形見の品だということも分かっているから――フリックにあげようと思ってさ。
 たぶん、これが最後のチャンスになると思ったから。」
 強く抱きしめてくる彼の顔に滲んだ決意の色を、――例え顔を見られるのを嫌がるように、無理矢理体に顔を押し付けていようとも――グレミオは見逃すことはなかった。
 だから、やんわりと彼の頭を撫で、その背に片手を回す。
 オデッサのイヤリングの意味もわからず、それをマッシュに届けたのは、もう随分前のことだ。
 1から解放軍を建て直し、最終決戦まで持ち込むのは、酷く時間のかかることであった。
 その間、オデッサのイヤリングは、意味無く持ち続けられたわけじゃない。
 これが解放軍リーダーの証であったのは、初代解放軍の頃の話で――砦を暴かれ、それらが帝国軍に襲われる前の話だ。
 新しく本拠地を据え直した解放軍には、無用の長物であったことは確かである。
 オデッサのイヤリングは、「スイ」を「彼が解放軍リーダーの後継者」なのだということを示させた。
 事後承諾にも近い形ではあったが、オデッサはスイにそれを望んだのだ。
 そして、スイはそれを受け取り、今こうして身につけている。
 名実ともに「リーダー」として名を馳せるようになったスイには、「解放軍の初代リーダーから託された」という証は、もう必要がないのだ。──だから、フリックに……誰よりもオデッサを愛しているだろう男に、上げたほうがいいのだろうけど。
「でも、やめた。」
 ちゃり、と耳元で揺れるそれを外して、スイはイヤリングを大切そうに懐に閉まった。
「グレミオが死んでからさ、たまにコレ見て、オデッサさんの遺志を継がなくちゃ、だとか、リーダーなんだから、だとか色々慰めてきた小道具だからさ――やっぱり、自分で持ってることにしたよ。」
 そう言って、ニッコリと笑うスイの微笑みに、ニッコリと笑顔を返して。
「意地悪ですねぇ、ぼっちゃんは。」
 そう、耳元に囁いてやる。
「フリックにあげようと思ってたけど……絶対、やらない。」
 スイもスイで、断固とした口調で言い切る。
 昨夜、ビクトールは「グレミオの形見だ」と言って、斧やマントを持ってきてくれた。
 それを見て、自分もそろそろコレを手放して、フリックにあげようかと、そう思ったけれども。
「言っておくけど、グレミオも同罪だからね?」
「え、ええええーっ!?」
 抱きかかえたまま叫ぶグレミオの声が、触れた肌から直接響いてきて、スイは軽く眉を顰めながら、きっぱり言い切る。
「当たり前だろ。
 今、こんなときに渡したりなんかしたら、嫌味だって思われるじゃないか。
 ――――しかも、お前、よりにもよってコレを渡したら、火に油を注ぎかねないような展開にしてくれたんだからさ!」
 びしり、と、グレミオに背中に回していた指先を突きつけて言い切ると、彼は何を言うのかと言った顔になったが、すぐに思い当たること――自分の蘇生事件と、さきほどのバルコニーでの語りらい――に突き当たり、力なく納得の声をあげる。
「あー…………そーですよねぇ……。」
 フリックだけでなく、ソニアも、他の帝国5将軍も、パーンも、クレオも……誰もが、グレミオの復活を喜び、そして同時に悲しんでいる。
 自分の中の葛藤と戦っている。
 そんな中で、あんな会話をした後で、ニッコリ笑って、「はい、これ、オデッサさんの形見のイヤリング! あげるー。」なんて言ってはいけない。
 たとえ、本性が魔王であると言われているスイだとて、ソレくらいの区別はつくのだ。
 もちろん――そんな「慈悲深い理由」だけではないのも確かなのだけど。
「あと、さ。」
 こつん、とグレミオの腹辺りに額を押し付けて、スイは微かに目元を赤らめて、続ける。
「せっかく還ってきたのに、今の今まで二人きりになれなかったこと――結構、怒ってるって、気づいてる?」
「――――もしかして、それって……ぼっちゃんが宴から出たのに気づかないで、フリックさんの居るバルコニーに行って、話してたことに関して――だったり、します?」
 少し上ずった声で尋ねてくる彼に、当たり前だろ、とぶっきらぼうに返してやる。
「分かってるんだろ? ちゃんと。
 ――ほんとは、グレミオがココに居ること……すごく、すごく……嬉しいってこと。」
 きゅ、と強く抱きつかれて、グレミオは唇に広がる微笑を止めることが出来なかった。
 今もまだ、冷たい空気に身をさらしているだろうフリックや、暗い湖を見ているだろうソニアたちのことを思うと、胸の端が痛むけれども。
 腕の中に居る人が、自分にとって最優先であることは、今も昔も変わらない――それだけは真実で。
 今の自分には、その愛しい人が、傷ついた、傷だらけの子供にしか見えないから。
 誰が、ここまでこの人を追い詰めたのかと、そういいたくて、でも、彼が言わせてくれなくて。
 それどころか、誰も、この心の傷の深さに――膿腐れているほどの心の傷に気づいていない事実がわかるからこそ、彼の全てを抱いてやりたいと思う。
「わかってますよ、もちろん。
 私はもう、あなたが私を必要としていないなんてこと――考えたりなどしませんから。」
「分かってなかったくせに。」
「はい……すみませんでした。」
「分かってなくて、離れていったくせに。」
「……………………。」
 小さくて華奢な身体を抱き返して、グレミオはその酒の匂いのする髪に頬を寄せた。
 思った以上に強いアルコールの香に、酔いそうだと苦笑しながら、腕を彼の腰に当てると、そのまま巻き込むようにして、ひょい、と抱き上げる。
「……グレミオっ!?」
 驚いたような顔が、間近にあるのを確認してから、彼は優しく優しく――包み込むように優しく、微笑んで見せた。
「ここでも何ですから、お部屋に行きましょう、ぼっちゃん。
 時間は、少ないのですから。」
 ちゅ、と音を立てて、宥めるようなキスをされて、スイは微かに頬を赤らめて、上目遣いに彼を睨みつける。
「誰のせいで時間がないと思ってんだよっ!」
「それは光栄ですね。」
 クスクスと、抱き上げたスイに負担がかからないように歩き出したグレミオに、何が、と噛み付くように怒鳴ると、
「だって、ぼっちゃんは、私との時間が無くなってしまったのを、とても悔しく思ってくださってるわけでしょう?」
「――……っ!」
 思い切り見開かれたスイの目が、ゆっくりと瞬き――そして、諦めたように閉ざされたかと思うと、彼は体をグレミオに預けてくれた。
 グレミオの腕に座るような形で、彼の肩口に顎を乗せ、両手を背中に回した。
 しっかりと抱きつくようにそうすると、グレミオの吐息が時々首筋を掠めた。
 そのたびに、ぴくん、と動くスイの体に、グレミオは漏れ出る微笑を堪えることもせず、ゆっくりと歩いた。
 最後の戦の前の、宴の喧騒は遠く――細波が打ち寄せる音が、間近に聞える。
 西に沈み行く満月の光は鈍く湖面を照らし出し、東の白み始めた空が、紺碧の夜空を侵食していく。
 明けぬ夜がないように、傷ついた心を癒す太陽が――誰の元にも訪れればいい。
 スイは、グレミオの暖かな体にしがみつきながら、そ、と懐にしまったイヤリングを服の上から握り締めた。
 形見という名のものが、決して人の心を癒してくれるわけではないということを、スイは嫌になるほど良く分かっていた。
 オデッサの形見のイヤリングは、自分の心の支えになりはしたけれども、グレミオの形見だった斧とマントは、ビクトールの言うとおり、あの瞬間に渡されていたとしても、自分の心に強い傷を作るだけとなっただろう。
 そして、今のフリックは、そんな状態なのだと思う。
 そんな彼にオデッサの形見を渡して、傷ついた葛藤を持ってもらうわけにはいかないと――今しか渡すときがないと分かっているくせに、そのことでフリックが、副リーダーが戦以外のことに心囚われては困ると、そう想い、コレを渡さないことを。
 そういう、策略めいたことを、グレミオはきっと、気づいてるのだろうけど、何も言わない。
――――――許してくれとは、言わない。
 二度と亡くした恋人の形見を手に出来なくなるかもしれないだろうけど――コレは、もともと僕がオデッサさんから受け取ったものだから、あげる筋合いはないと、そういいきることもできる。実際、グレミオはそう形容したのだから。
 でも。
「………………。」
 無言で、グレミオが背中をポンポン、とあやすように叩いた。
 その優しい仕草に、スイは下唇を強くかみ締め、今まで以上にしっかりとグレミオに抱きついた。
 このぬくもりが、二度と喪われないようにと――――強く、強く願いながら…………。










リーダーとしての顔と、普通の恋する人との顔が、同居するのは、酷く難しくて。
その違いを、恋人に見咎められるのが怖いと思う心があって。
つい、公私混同しないように、公用の顔ばかりが目立つこともある。
心の中まで知って欲しいと思うけど、公用の心まで知られるのは、大分怖い。
だって、リーダーとしての心は、優しくて温かいものばかりじゃないのだから。

でも、何もかもを包み込んでくれる人にめぐり合えた。
そのヒトが、側に居てくれる。
それを、幸せに思う。


だから、世界で一番憎い人は。
そんな自分をがんじがらめにして、
あなた以外を見えないようにしてしまう――
そんな、怖いあなた自身だと、思う。



「それが、壮絶な愛の告白だって、分かってますか?」

楽しそうに尋ねる男の剥き出しの二の腕に、思い切り良く噛み付いて。

「バッカ。愛の告白じゃなくって。
これは、プロポーズって言うの。」












あなたが世界一だった


森本 きの子様

実は後半、グレ坊なところは、「いりませんでした」(笑)
ただのおまけみたいな締めだったのですが、気づけば久しぶりのグレ坊ということもあって、なんか――いちゃつきはじめるんです、この二人……(笑)

本当は、解放運動の砦お尋ね編で、フリックとグレミオが恋人自慢大会という話を書きたかったんですが、無謀でしたわ。

ということで、こんな作品になってしまいましたが、企画リクエストありがとうございました〜v
またのご来店を、お待ち申し上げております。