予告
酒場で酒を飲んでいるフリックとアニタ。
そこへフリックにお願いがあるんだと飛び込んできたスイは、仲良く女性と飲んでいるフリックの姿にショックを受け、走り去ってしまう。
慌ててスイの後を追うフリック。
そして、二人がたどり着いた場所は――いつもの場所、石版の前であった。
石版の前にたたずむのは、眉目秀麗なフリックのライバルであった。
彼は、当然の顔で走ってきたスイを自分の下に招き寄せ、フリックに一つ、要求をするのであった。
それは――――…………
1主人公:スイ=マクドール
夕暮れ時の涼しい風が、そこかしこで人々の髪を揺らす時間――ティーカム城の酒場の女主人は、カウンターから出て、表ドアに掲げられた看板近くの明かり取りに下げられた灯篭に火を灯した。
辺りは見事な茜色に染め上げられ、夜のために火を灯すのは早いように感じたが、日が暮れる少し前から酒場は忙しくなるのが通常。
今のうちに火を入れておかないと、忙しさにまぎれて気づけば真っ暗になってしまっているものだ。
そんなことになれば、お客さんの足元が危ない。ただでさえでも酒が入った客の足取りは危なっかしくて見ていられないのだから。
灯篭に灯したマッチの残り火で、加えていたパイプに火を入れたレオナは、そのまま一息吸い込んで、唇から白い煙を吐き出した。
夕暮れに薄暗く見える煙が頭の上で風に掻き消されるのを見やって、彼女は肌寒さすら感じはじめた空気に、肩から駆けていたショールを羽織りなおし、ドアを開ける。
火が灯されている室内は、客の喧騒もあいまって、暖かく心地よい。
――とは言うものの、まだ日暮れ前で、そこはかとなく明るい時間帯のためか、客足はほどほどと言ったところだ。
カウンター席に腰掛けているのはたった二人。
あまり日が高いうちからは酒を飲みに来ることは無く――日が暮れた後には、しょっちゅう相棒と飲み交わしているところを見るのが多い、フリックと、アニタであった。
二人は互いの飲み物をゆっくりと飲みながら、何やら話しているようであった。
話している内容を盗み聞くのは野暮であったが、珍しい組み合わせの二人がともに飲んでいるのに興味をそそられて、レオナはカウンターに入ると、彼ら二人の前まで歩いていった。
「珍しいね、あんたたちが一緒に飲むなんて。」
アニタは良く一人でテーブル席に座って飲んでいるし、フリックは一人で飲むならカウンター、ビクトール達と呑むならテーブル席を好む。
必然的に、二人が一緒に座ることは無かったのだけれども。
「いや、俺の故郷の話でな……。」
少し言葉を濁すように口元に酒を運ぶフリックに、クスクスとアニタが笑う。
「私の昔の知り合いが、トランに居るんでね……ちょっと、話を聞いてみたんだよ。
そしたら、彼、あの戦士の村の出身だって言うから――ね。」
ふふ、と楽しそうにフリックを覗き込むアニタに、フリックは一瞬苦い顔を見せたが、素知らぬ振りで酒の杯を重ねた。
自分の手で入れようとするフリックの手からボトルを奪い、レオナは彼のグラスに酒を注いでやった。
たっぷりと注ぎ込まれたグラスを掲げ、レオナに短く礼を言うと、フリックはそれで舌を湿らし、アニタを横目で見やる。
「戦士の村の風習についてなら、テンガアールに聞けばいいと思うが……? あいつ、ああ見えても村長の娘だから、イヤと思うくらい、アノ話も聞いてるだろうしな。」
苦く呟くフリックに、あの話? とアニタもレオナも不思議そうな顔をする。
戦士の村の村長を訪れた者ならば、誰もがそれを聞いて夜明かししてしまうと言われている、ゾラックの話である。
アレと一日修行とどっちがいいと言われたら、迷わず一日修行を選ぶほどだと、フリックは認識している。
しみじみと――けれどどこか懐かしさすら感じながら、ああ、とフリックが頷いた、その時。
かたん――カランカラン。
小さく扉が音を立てて、城から通じるドアに取り付けられた鐘が鳴った。
そろそろ客が入り始める時間だと、レオナがドアに目を向けて、少し驚いたように目を見張った。
そこに立っていたのは、この時間までここに残っているのは珍しい少年――トランの客人であったからだ。
彼は、まっすぐにフリックを認めて、かすかに唇をほころばせた。
どこか寂しげで儚げな雰囲気をもつ彼が、そんな風に優しく……そして引き込まれそうな儚さを持つ微笑みを浮かべるのは、解放軍の仲間達の前だけであった。リオの側では、微笑ましいと言ったような顔を見かけるが、基本的に彼は物静かで、表情もあまり変えないという印象がある。
そんな少年が零した微笑に、一瞬レオナは見蕩れてしまった。
片手に棍を持ったまま、彼はカウンターへ向けて歩いてくる。
「いらっしゃいませ」の掛け声すら忘れたレオナに、いぶかしげな視線を向けて――フリックは、誰が入ってきたのか気づく。
いつもなら、養い親が待っているからと、さっさと帰る時間であるはずなのに、珍しく見かけた姿に、あれ、とフリックは体を捻った。
そんなフリックの背中ごしに、アニタも誰が入ってきたのかと、入り口を見た。
「フリック……。」
少年は、フリックに声をかけ――彼の背中ごしに顔を覗かせたアニタを認め、ふいに動きを止めた。
そして、軽く目を見開き、フリックの顔を凝視する。
「なんだ、スイ? 俺に用か?」
手にしていたグラスをカウンターの上に置いて、スイに軽く微笑みかけるが、少年はそんな男の微笑を見て、顔をきつく顰めた。
その顔が、泣き出しそうな表情に似ている。
レオナがいぶかしむように眉を寄せたのと、アニタがフリックの肩に手を置いて、どうしたんだい、と声をかけるのと、ほとんど同時だった。
「信じてたのに…………。」
ぽつん、とスイの唇から零れるのは、弱弱しい言葉だった。
喧騒とはほどとおい時間の酒場に、小さな波紋のように響いた声に、え? とフリックが反芻する。
そんな彼を、キッ、とスイは睨んだ。
その長い睫が、光に反射してキラリを光る。
「涙……?」
それを見咎めたレオナが、思わず小さく零す。
フリックは、彼女の言葉にギョッとして――この少年が、そんなものを人前で見せるはずはないじゃないかと、彼女の目の迷いだと決め付けて、スイを正面から見て……絶句した。
「フリックは、そんなことしないって、信じてたのに……っ!」
ぎゅっ、と体の両脇で拳を握り締めて、スイは叫んだ。
その綺麗な瞳に、涙が溜まっている。
「え? って、俺、何かしたか、スイっ!?」
がたんっ、と音を立てて椅子から立ち上がったフリックに、スイは涙の滲んだ瞳で彼を目一杯睨みつけると、
「フリックの馬鹿っ!! 浮気者っ!!」
そう叫んで、つい今しがた入ってきたばかりのドアから、大きな音を立てて出て行った。
唖然とその行方を見送り――フリックは、ハッと我に返ると、慌てて走り出す。
「ちょっと、フリック!?」
レオナが咄嗟に彼を呼び止めようとすると、彼はドアに手をかけながらレオナを振り返り、顔の前に手を上げると、
「すまん、後で払うっ!」
言い捨てるように叫んで、ドアの向こうへと消えていった。
残されたアニタは、半分以上残っているフリックのグラスと、さきほどまで彼が座っていた椅子と、そしてカランカランと名残の音を立てている鐘とに視線をやったあと、ゆっくりと目を瞬く。それから、レオナに向き直りながら、満面の微笑を浮かべてみせた。どこか底意地の悪い笑みだ。
見やった先で、レオナも似たような笑みを浮かべている――ただしこちらは、苦笑まじりであったが。
二人の女はカウンターごしに目線をあわせ、どちらともなく堪えきれない笑い声を零した。
「そういうことだったわけ……っ。」
「ニナにはかわいそうだけど、確かに、アノ子相手じゃ、かなわないねぇっ。」
――彼女達が今の光景を見て、どう判断したのかは……翌日の女の子たちの噂が物語るのであった。
前を走る少年の、翻る胴着の色を必死で追って、フリックはワケの分からない展開に頭の中に?マークを飛ばしていた。
だが、その展開の答えを見つけるよりも先に、少年は後から追ってくるフリックに、思い切り泣きそうな顔で叫んでくれるので、考えている余裕もなかった。
「追ってこないでよっ! さっきの女の人と、仲良くしてたらいいじゃないかっ!
女の人はオデッサさんだけだって言ってたくせに、なんだよ!
やっぱり青いから、年上にもてるんだからーっ!!!」
「って、さりげに何か言ってるだろっ、お前はーっ!!」
さすがはかの有名な「英雄様」だけあって、足は速い。あの素早さに勝てるとするならば、それは底抜けに明るいエルフか、そのエルフにかけっこで勝ったここの軍主くらいのものかもしれない。
レオナの酒場を出て、そのままスイはホールに向かって走った。
そして、ホールに入るなり、
「フリックなんて、剣フェチで愛剣に愛を語ってるくらいだから、絶対虫がつかないって安心してたのにーっ!!!」
そう叫びながら、最初の階段を駆け上った。
「だーっ!! 何言うんだ、お前はーっ!!!!」
階段の真下で、目の前にヒラリと踊るように見えた胴着の裾を掴もうとするが、それよりも先に彼はホールへと飛び出していってしまう。
ちぃっ、と小さく舌打ちしたフリックを、鏡の前で大あくびしていたビッキーが不思議そうに見つめていた。
彼女に聞かれるくらいならまだいいが、もし今のスイの台詞を他の誰かに聞かれていたらどうするんだっ、と、フリックは焦りながらホールへ――吹き抜けの空間へと足を踏み出した。
スイはその前を、目の前の石版向かって走っていっている。
フリックもその後を追って走る。
石版の目の前に立っていた少年は、こちらに向かってくる二人の姿に心底嫌そうな顔を浮かべたかと思うと、とん、と床を蹴った。
それと同時、彼の体は見えない何かを踏んでいるかのように空中で止まる。
その真下をスイが駆け抜け、クルリと石版の後ろに回ると、
「フリックなんか、一生愛剣以外に愛は語らない剣フェチでいたらいいんだーっ!」
「何言い出すんだ、お前はーっ!!!!!!」
ホール中に聞こえるかと思うような声で叫んだスイが隠れている石版の裏向けて、思い切り良くフリックが叫んだ瞬間。
「言っておくけど、痴話ゲンカするなら、風呂場でしてくれない?」
元のように石版の前に収まったルックが、手にしたロッドの先をフリックの喉元に突きつけた。
ぐっ、と言葉に詰まったフリックの目の前に、石版の後ろに隠れるようにして叫んでいたスイの顔がヒョイ、と現れる。
さきほどレオナの前で見せた涙の滲んだ目も、泣きそうな顔も、幻であったかのようないつもの平然とした顔で、
「何で痴話ケンカで風呂場なのさ、ルック?」
涙で喉が詰まったような声で叫んでいたはずなのに、声すらもいつもと同じである。
石版の端に片手をかけて、ひょい、とフリックの脇をすり抜けるように顔をルックへ向けるスイを、フリックはギョッとしたように見つめる。
「投げるものもあるし、殺したくなったら溺死も落下も滑って頭打って殺すこともできるだろ?
しかも、仲直りしたら双方とも裸だから、後のこともいう事なし――異議は?」
軽く肩をすくめて、淡々と語って見せたルックは、そのままの表情でスイとフリックを見やった。
話を振られたスイは、ははーん、と大きくうなずいて見せると、自分の目の前にあるフリックの腕をガシリと掴み、
「じゃ、風呂場に行って、続きしてみる?」
本気なのかそうではないのか、傍目には分からないような声と顔で聞いてくれた。
なんとなく、フリックのほうが泣きそうになったのは、仕方がないことなのかもしれない。
乱暴にスイの腕を払い、ルックが突きつけてくるロッドを掴み取り、フリックは顔を顰める。
「馬鹿言うなっ。誰が痴話ケンカだ、誰がっ! 俺がまるでお前を二股かけてたみたいな言い方で叫ぶのはやめろ。」
まったく、といさめるようにスイの顔を見下ろすが、フリックに憧れる兵士達には効くこの技も、スイにはさっぱり効かなかった。
それどころかスイは、大きな瞳を瞬かせると、
「あれ? 良く分かったね。今日のフリックをおびき出すためのコンセプトが、フリックの浮気現場発覚にショックを受ける薄幸の少年って言う設定だって。」
「…………………………なんだって?」
「だから、フリックが女の人と浮気しているのを見て、好きになった女はオデッサだけだという台詞を信じていたスイは、深く心に傷を残し、他の男に慰めてもらいに走るっていう設定。」
眉間に皺を寄せて尋ねるフリックに、スイは人差し指を立てて、説明してくれた。
ルックはそんな彼らに気にもとめず、無表情にフリックの足を蹴飛ばすと、無理矢理彼からロッドを取り戻した。
「いてっ――………………っ。そうじゃなくてな、スイ? 俺をおびき出すためってどういうことだって聞いてるんだ。」
軽くルックを睨みつけてから、フリックはジリリと後退して尋ねる。
スイに呼ばれたことで、得をした覚えはほとんど皆無である。
また、呼ばれていなかったとしても、巻き込まれたことはイヤになるほどある。
そんな昔からの事実を思い出し、フリックの腰が逃げだそうとしてしまうのは、無理もないことであった。
けれど、後退しようとしたフリックの腕は、再びスイに捕まった。
それどころか、石版の後ろから姿を現したスイは、ニッコリ笑いながら彼の腕にスルリと自分の腕を巻きつけた。
「そんなの決まってるじゃないか。」
「……何が?」
喉が震えそうになる恐怖心が、スイに絡められた腕の辺りから感じた。
そんな思いを必死に堪えるフリックに、
「頼みごとがあるだけさ。」
この一件にはまったく無関係だと思われた方向から、返答があった。
はっ、と視線を向けると、いつのまにかルックは小さなコビンを片手に持っていた。
女が持つ香水入れのように華奢なつくりをした透明なコビンの中には、紫色の液体が入っている。
それが何なのか、聞くこともなくフリックは悟った。
これは、実験なのだと。
「冗談じゃない。」
だから、両眉を上げてきっぱりと言い切ると、再びスイは泣きそうな顔になって、目元を潤ませた。
「そんな――フリック、そんなに僕よりもアニタさんの方がいいの……?」
形の良い眉を曇らせて、瞳を歪めて、唇を頼りなげに薄く開くさまは、確かに愛しいほどに愛らしかったのだけど。
「い・や・だ。」
その悪乗りに付き合っている暇はないとばかりに、フリックはスイの腕を振り払った。
「大丈夫。効力はほんの数時間。それは動物実験でも分かってることだから。」
しれっとした顔で、ルックが近づいてくる。
フリックは、それはつまり人間実験は俺が初めてってことだろうがっ、と罵ろうとして――気づいた。
自分の喉から出たのは、ただの空気であるということに。
とまどい、同時になれた経験から何が起きたのか悟ったフリックは、とっさにルックを見た。
ルックは、ニッコリと花綻ぶように笑って見せた。
「君は運が悪いから、本当に良く、ステータス異常になるね。」
その声に、慌てて踵を返そうとするが、それも叶わない。
まるで全身が麻痺したように動かないのだ。
これは――と、顔を顰めたフリックの右横で、彼に腕を絡めたままのスイが、してやったりとばかりに笑った。
「大丈夫。ルドンから分けてもらったお茶を粉末にしただけのものだから――すぐに効果はとけると思うよ。」
「…………っ。」
「風を使って、君の鼻まで運んだのは僕だけどね。――さて、それじゃ、おとなしく口を開けてもらおうか?」
くい、と手にしたコビンをかざして、ルックが微笑んで見せた。
間近につきつけられたコビンの中身は、ぼこぼこと小さな泡が立っていた。
ビンの蓋を開けられて、ルックは慎重にそれをフリックの顔に近づける。
必死の思いで顔をそむけるフリックの両頬を、がしり、と掴んで固定させたのはスイである。
「スイ、もうちょっと屈ませなよ。」
「無理矢理しゃがみこませておけばよかったね。」
コビンを掲げてフリックの口元に近づけようとしていたルックは、身長差に顔を大きく顰めて、フリックの顔を固定させているスイに注文をつける。
それを聞いたスイは、しょうがないとばかりにフリックの肩に手を置き、足をふんばっているフリックのバランスを崩させるため、勢いをつけてフリックの肩に体重をかけた。
その瞬間、フリックの自由にならなかった足が、ガクンっ、と落ちた。
すかさずルックは片手でフリックの唇をこじ開け、もう片手でコビンをフリックの口へと近づける。
ぼこぼこと泡立つ液体に、フリックの目が恐怖の色を宿し、それ以上見ていられないとばかりに目をそむけた。
ルックはそんなことに構わず、フリックの口元へ、栓を開けたビンを傾ける。
薄く開いた唇めがけて、紫色の液体を入れようと、そろり、とビンを持つ手を傾けた。
「んぐーっ!」
あまりの恐怖にか、フリックは咄嗟に目を閉じ――歯を食いしばった。
その拍子に閉じられた唇に、コビンの口が当たった。
「――……っ。」
はっ、と、ルックが目を見開く。
スイによって体を傾げられたとは言えど、ルックとフリックの身長差が完全に狭まったわけじゃない。
そのためルックは、背伸びをして、手を頭より上に掲げている形になっていた。
慎重に傾けるために持っていたコビンが、グラリと傾ぐ。
まるでスローモーションのように、コビンが自分の手から離れていくのを目が捕らえていた。
この後、何がどうなるかを――ルックは、脳裏に一瞬で描ききった。
紫色の液体が空中に溶けるように零れて、フリックを見上げていた自分の顔にかかるのだ。
口を閉じなければ……ルックはそう思った。
しかし、頭の中で思い描くコビンの未来の姿は、すでに床に落ちて割れるところまで行っているというのに、体は硬直して動かない。
こう言うとき、戦士であったなら咄嗟に飛びのいているのだろうけど、残念ながら俊敏性のある魔法使いなわけではなかった。
かくして。
かっしゃんっ!
ビンが割れ、残っていた液体が床に染み入り。
「あ。」
フリックの肩にいまだしがみつくようにしてぶら下がっていたスイは、頭から液体をかぶってしまったルックに、しまった、と言う顔をしてみせた。
濡れた前髪が滴る額の下――白皙の肌を際立たせる桜色の唇から、ツゥ……と液が零れる。
「――オデッサさんの呪いかも。」
ここまで見事にルックが失態を見せるのも珍しいと、一瞬感心してしまったスイに、フリックは強張っていた筋肉がほぐされかけているのに気づき、声を荒げてスイを軽く睨んだ。
どうやら、すぐに麻痺が解けるとスイが言ったように、体が解きほぐれてきているようであった。
「何、呑気に言ってるんだっ!? おい、ルック、大丈夫かっ!?」
自分がついさっきまで、その「液体」を飲まされようとされていた、という事実を一時棚に上げ、正体不明のクスリを飲み込んだルックを、フリックは心配そうに覗き込む。
ぎこちなく手を伸ばし、ルックの肩を掴もうとする。
「……――っ! ダメっ、フリック! ルックと目を合わせたら……っ!!」
慌てて、スイがフリックの肩を強引に引っ張ろうとするが、
「は?」
何のことだと、視線をあげた拍子に、前髪と睫から雫を滴らせるルックと、目があった。
「………………………………。」
「…………………………る、ルック?」
静かな眼差しに見つめられ、フリックは何が起きるのかと、引きつった笑顔を浮かべる。
しかし、ルックは無言でフリックを見返すだけである。その無表情は、ある意味怖かった。
「おい、スイ、これは一体どういう……?」
スルリとフリックの肩から降り立ったスイは、ルックの様子を見ようと歩を進める。
「ルック、効いてる?」
顔を覗き込もうとした瞬間、ルックは静かに右手で前髪を掻きあげた。
どうやら動くことはできるらしいと、フリックが安堵にも似た感情を抱いた、その目の前で。
前髪を掻きあげたルックの右手の甲が――光を発した。
「……――っ!!」
カッ!
石版の頭上に、風の紋章が刻まれる。
とっさにスイが顔を腕で庇った瞬間、ルックは自分の目の前に生まれた風の塊を、問答無用でフリックめがけてぶつけた。
「……っ!!? なに……!!!??」
突然のことに、何が起きたのかわからないフリックは、そのまま急所殴打にも近い一撃を受け、背中から倒れる。
自分に攻撃が仕掛けられると思っていたスイは、あれ? と腕を下ろし、倒れたフリックを見た。
もしかして、やっぱり「アレ」、効いてなくって、液体をかぶる原因になったフリックに、怒っていたりするんだろうか?
フリックは、無防備に仰向けになって倒れ、目を閉じていた。
完全に気を失っているようである。
そのフリックへ、ルックは無表情のまま近づくと、黙って彼の側にしゃがみこんだ。
このまま、とどめでも刺すんだろうかと、思わず見守ってしまったスイを、ルックは緩慢な動作で見上げた。
滴り落ちる雫が、彼をなまめかしく見せていた。
「じゃ、そゆことで。」
感情を映さない瞳で、ルックはそうスイに告げると。
ひゅんっ!
一瞬のためらいもなく、姿を消した。
テレポートというヤツであったが――一人で姿を消したわけじゃなかった。
ぽつん、と一人残されたスイは、ついさっきまでフリックが倒れていた場所を見て、未だに壊れたコビンが倒れている場所を見て、最後に石版の前を見た。
どこを見ても自分しかいない空間に、参ったと顔をゆがめる。
「――しまったな。ルックに普通の恋の仕方を求めた僕が馬鹿だったよ――……。」
そうして、ルックと共同開発した「飲んで初めに見た人に惚れるクスリ」の入っていた割れたビンを手に取ると、複雑な表情で自分の前髪を掻きあげた。
いつもなら、「面白いことになったもんだ。」と、フリックの貞操に両手を合わせておくだけなのだけど、今度ばかりは勝手が違う。
何せ、フリックを連れ去った相手は、ルックである。
普通に考えたら、フリックの貞操を狙うなんて、十中八九ありえない相手である。
「――……今ごろ、フリックに迫ってるのかな?」
ぽつり、と呟いて、スイはさらに眉間に皺を寄せた。
「んー……それはさすがに、面白くないかなぁー…………ちっ、しょーがない、探すか。」
そうして、渋々ルックが「人を押し倒すのに好みそうなシチュエーション」を探して、石版の前から離れるのであった。
ひゅぉぉぉぉぉー…………。
耳元でうるさいほど風が鳴る中で、フリックは喉に軽い痛みを感じて目を覚ました。
なぜか鳩尾の辺りが痛く、体の節々がきしんだような音を立てている。
どこかで打ったのか、後頭部もズキンと痛みを訴えている。
今度はスイに何をされたのだっただろうかと――酒場から彼を追いかけたことを思い出して、フリックはため息を零した。
そのため息が、さらりと揺れる髪に触れた。
零れ落ちる髪の毛が――目の下あたりで揺れている金の髪が、フリックの顎先をくすぐっていた。
「――……んん?」
眉を顰めたフリックは、頭の上に広がる晴天の空が、いつもよりも近いような気がした。
吹き荒れる風の音がすざまじく、バタバタと大きな音を立てて揺れる旗の音も聞こえ――……。
「旗っ!? ってここ、屋上か!!?」
屋外に出た覚えはないぞっ!?
フリックは焦って身を起こそうとして、自分の体の上に重しが乗っていることに気づいた。
目の下に見えた髪の存在を思い出し――……いやぁな予感にかられた彼は、決して視線を下へずらそうとはしない。
けれども、さらりと揺れる他人の髪の毛が、肌に触れ、そしてカリ、と首筋に噛み付くような痛みを残されては、とっさに視線を下にずらさずにはいられなかった。
「……………………〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!!!!」
果たして、声なき絶叫をあげる光景がそこにはあった。
つややかな唇をしどけなく濡らし、情熱に潤む瞳でフリックを見上げる、非常に整った顔は、どう見ても根性悪の魔法使いであった。
風のせいか乱れた髪が、彼の頬に張り付く様は、凄く目の保養になったし、かすかに上気した頬は、彼の美貌を淫靡なまでに仕立て上げていた。
だがしかし、フリックはそんなものに感動を覚えている暇はなかった。
なにせ、華奢で細いルックの体が、しっかりとフリックの体に馬乗りになっていたのだ。
さらに彼の手の平は、しっかりとフリックの服の襟元をくつろげ、腹の辺りまで捲っていた。
首筋に当たっていた生暖かい感触は、言うがもな――いや、フリックの精神安定上、決して口に出してはいけないのだろう。
「るるるるるるるる、るるるるる、ルック…………っ!!!? おまっ、何っ、ななな、なにをっ!!」
あまりに現実味の薄い光景に、フリックは非常に気が動転していた。
目がグルグル回り、舌が空すべりをした。
ルックはそんなフリックを冷ややかな眼差しで見下ろし、しれっとして言ってのける。
「何って? 決まってるじゃないか。
愛するもの同士がすることっていったら、一つだろう?」
「あああああああ、あああああああ、あい、あいあいあいあいあいあっ!!?」
フリックの頭はパンクしかけていた。
とてもじゃないが、現状を把握できそうにはなかった。
一人焦るフリックを見下ろして、ルックは指先を彼の唇に当てた。
ツゥゥ……と、フリックの肉厚の唇をなぞると、うっとりと見とれるような優しい微笑を浮かべる。
とてもではないが、普段のフリックには見せてもらえない笑顔である。
その、常人離れした笑顔に、ぞくり――と、フリックの背筋に走る悪寒。それは、気持ちが悪いことばかりではない、どこか背徳にも似た甘美な味をも伴っていた。
そんなものを覚えた自分に、恐怖すら感じて、フリックは必死にかぶりを振った。
唇からルックの指先が離れる。
フリックは、ルックが自分に触れている部分が一つでも減ったことに、感謝すら覚えながら、上に乗っている彼を引き摺り下ろそうとした。
けれど、それよりも早く、フリックの唇をなぞった指先を、ルックは彼に見せ付けるように自分の唇に当て――紅い舌先で、指先をねっとりと舐め上げた。
睫を伏せた瞳を、ヒタとフリックに向けたままで。
「――――…………っ!!!」
ダメだ、とフリックは思った。
何がダメなのかわからないが、このルックは非常に怖いと思った。
本能的な恐怖で、やられる――……と、心の奥底から思った。
――――そして、こういうヒロインがピンチの時にやってくるのが、ヒーローというものなのである。
「はーい、そっこまっでねっ!」
頭上から声が降って来たかと思うや否や、フリックの頭の上で、影が走った。
手に細長い棒を持つ人影は、そのままフリックとルックの上を飛んだかと思うと、ストン、と軽快な音を立ててフリックの真横に着地した。
「――……っ!」
とっさにフリックが見上げた目の前を、一振りの紅い軌跡が飛んだ。
それが何なのか理解するよりも早く、
「今日もまた、くだらないものを切ってしまった……。」
悲しげに呟く少年が、耳に残った。
それがどういう意味なのかと疑問に思う暇もなく、ルックの体がグラリと傾いで――落ちた。
軽く当身を食らわせて気を失わせたルックを、フリックのマントの上に寝かせて、間一髪間に合ったヒーローことスイは、笑顔でパタパタと手を振ってくれた。
「あはははは、ごめんごめん。あんまりにもルックがキチク男っぷりを見せ付けてくれそうだったから、ついつい最後まで見ちゃうところだったよ。」
「…………………………………………お前な…………………………。」
どっぷりと疲れたフリックは、両肩を落として床に向けてため息を零す。
だが、そうしていてスイが説明してくれるわけでもなかったので、このまましばらく床を眺めていたい目を、無理矢理隣に撃移す。
「…………で?」
「ん?」
スイは、軽く首を傾げてフリックを見返す。
「ん、じゃなくって――あのクスリは一体何なんだ?」
嫌そうに目を歪めて、フリックが先を促すと、ああ、とスイはお気楽に手を叩いてくれた。
「ただの惚れクスリだよ。
――ちょっと強烈だったみたいだけどね。」
あっさりとクスリの名前を教えられて、フリックは軽く目を剥く。
「惚れクスリだぁっ!? アレがかっ!? サドのクスリだとか、キチクのクスリだとかじゃなくってっ!?」
「だから、強力だったみたいって言ったじゃないか。
本当は、その人の持つフェロモンを、特定の相手に対してよく効く程度の効き目にするつもりだったんだけど――随分強力になったもんだ。」
スイとルックのことだから、アレは絶対に、その人の悪の心を増幅させるクスリだとかそういう系統を想像していたばっかりに、あまりにもあっけないと言えばあっけない結末であった。
アレが、惚れクスリ?
頭痛を覚えたように額に手を当てて、フリックは小さくうめいた。
確かに、いつものルックをあそこまで豹変させるのは、ある意味凄い効き目だ。
凄すぎて怖いくらいであるが。
「お前ら……俺を、あんな強烈なモノの第一被験者にするつもりだったのかよ?」
ジト目で睨んだくらいでは、安いくらいの恐怖である。
まったく、と本気で迷惑そうに言うのだが、スイは、まさか、とすぐさまフリックの言い分を否定した。
「一応人体実験は済ませてあるよ。動物実験ではそんなに凄いことにならなかったからさ――僕とルックで、それぞれ試してみたんだよ。
だから、正しくはフリックが第3被験者。」
平然と語られて、フリックは頭の中で、ルックがアアで、スイもアレに近くなって――――そんなヤツラが二人閉じこもって実験してる実験って、どんなだ、と、あまりの恐ろしさに考えを放棄した。
しかしスイは、そんなフリックの考えに気づいたのか、苦笑を見せて首を振ってみせる。
「それがね、僕もルックも全然効かなくって、人間には薄いのかな、って濃くしてみたりもしたんだけど、それでも全然ダメでさ。
だから、ほかの人――フリックに飲んでもらおうと思ったんだよ。」
あっさりと言い切ってくれる内容に、フリックは思い切り顔をゆがめた。
そこでどうして、「だからフリックに」になるのか、非常に突っ込みたいところであったが、突っ込んだら突っ込んだらで怖い結果が返ってくる以外ないことを良く知っていたため、フリックは何も言わず口をつぐんだ。
けれど、すぐにスイの説明では納得いかない事実を思い出して、目を彼へとめぐらせる。
そろそろルックを起こしても大丈夫だと思ったらしいスイは、少年の体を起こし、その背中に喝を入れる準備をしていた。
「なぁ……スイ? お前ら二人とも効かなかったっていうけど――今、ルックには効いてなかったか?」
だから、フリックは彼に攫われ、あやうく嫌な意味の天国を見るはめになったのだ。
さっきのことを思い出して、悪寒が全身に走り、ブルリと身を震わせる。
ルックの背中側から、華奢な両肩を掴んだスイは、ああ、と軽く頷いて。
「多分だけど、両思い同士には、効かないんじゃないかな。」
あっさりと言い捨てて、彼は思い切り良くルックの背中に膝を入れた。
「……っ!!」
くん、とルックの喉が反り返り、髪が乱れる。
そうかと思うや否や、スイの手から解放されたルックは、すぐさま前のめりになって咳き込み始めた。
「どう? 抜けた、クスリ?」
ひょい、とルックの顔を覗き込んで尋ねると、ルックはべたつきが残る頬を片手で拭って、忌々しげに舌打ちしてみせる。
どうやらクスリは残っていないようである。
「…………人生の汚点だ……。」
ぼそり、とルックが呟く一言に、それは俺の台詞だっ! とフリックは突っ込みたかったが、そんなことはすぐに頭の片隅に消えていった。
代わりに首をもたげてくる問題は、さきほどのスイの台詞であった。
堂々とフリックの頭の中に自己主張してくれる台詞は、グゥルグルと彼の頭の中を回り始める。
「まーまー、面白い経験したと思えばいいじゃないか。」
「そう思うなら、君も経験してみるかい……?」
憎憎しげな表情でスイを睨むと、スイは軽く肩をすくめて懐から割れたコビンを取り出した。
大切に布で包んであるそれには、液体は残っていない。
「残念、無理です。」
ほら、と広げるスイに、ふん、とルックは鼻でせせら笑ったかと思うと、不意に自分の顔を覗き込んでいるスイに、つい――と顔を近づけた。
右手で自分の髪を抑えながら、軽く触れるだけの口付けをして、目と鼻の先で柔らかに微笑む。
「僕の唇に残っていた分でも、十分だろう?」
艶然と微笑むルックの美貌に、なるほど、とスイは頷き――それから、クスクスと笑った。
「十分は十分だけど――何度もした実験で分かったことじゃないか。
僕もルックも、お互いの顔を見ても、全然クスリは効きはしないってさ。」
唇を舐めとって、どこかしょっぱい味のするそれを綺麗に舌に治めて、はっきりと瞳を開けてルックの目を覗き見る。
ルックはルックで、そんなスイの目を覗きこんだ。
「……どっちにしろ、薬を薄めることからやり直すか。」
面倒だといいたげに呟いて、ルックはもう一度軽く唇を重ね合わせた。
それから、かすかに痛みの残る胸元をさすって――さきほどスイに当身を食わされた場所だ――、立ち上がる。
スイは、そんな彼を見上げて、ねぇ、と声をかける。
はずんだように明るい声に、ちらりと視線だけを向けるルックに、
「お風呂に入りに行こうよ。
――仲直りするなら、お風呂場なんでしょ?」
悪戯げに、笑ってそう告げる。
ルックは無言でそんなスイを見返したが、液体が半乾きのべたつく髪をそのままにしておくつもりもなかったので、反対をすることなく、ほら、と手を差し出した。
「僕はこの格好で城内をあるくつもりはないからね。」
このまま風呂場まで直行してやる、というルックの動作に、スイは楽しそうに笑って、彼の手に手を重ねた。
そうして、思い出したかのようにフリックを見て、ただひたすら呆然と座っている彼に、ニコヤカに手を振って見せた。
「フリック! いつまでもそんな格好してると風邪引くよ?」
君も、後からお風呂においでよ――と、誘い文句を口にするスイに、ルックは露骨に嫌そうな顔をしたあと、思い出したくもないが自分が脱がしたらしいフリックの姿を見て、苦い色を馳せた。
一瞬後に、スイの姿もルックの姿も屋上から消え、残されたのは、暴風にも近い風の吹く中、慌しいばかりの事件に巻き込まれたフリックただ一人だった。
その彼の頭の中では、やはりおそろしい事実がグルグルと回り続けていた。
悪魔と鬼がくっついたら、何が生まれるのだろうか………………………………。
彼の頭の中で、その答えが出るのは、たぶんきっと――――そう、遠くはない。
密かにラブラブなお二人さんと。
ルックに押し倒されている姿が素敵なフリックさんでした。
ボブ・テイル様
11111きり番申告&リクエスト、ありがとうございました!
裏で、フリック絡みのルック坊、届けさせて頂きました。
途中で何か普通ではありえないカップリングが混じっておりますが……ギャグなので、お許しくださいませ……(苦笑)。
……でも、あのシーン、書いてて楽しかったのですが……………………(汗)。
こんなものでどうでしょうか? ドキドキ……。
ごぢつだん。女の子の噂編。
テンガ「ねぇねぇ、知ってるっ!? フリックさん、少年趣味らしいわよっ。」
メグ「え、私、ショタコンって聞いたよ。」
ミリー「どう違うの〜? 少年趣味と、ショタコンと、剣フェチってー??」
ビッキー「えっとー……どれも、変態ってことかなぁぁぁ?」
テンガ「うまい! ビッキーに座布団一枚っ!」
ビッキー「わーい! ありがとう、テンガちゃんっ!」
メグ「それにしても、剣フェチならまだ庇いようがあるけど、さすがにショタコンとか、浮気性とかはねー。」
ニナ「違うわよ、メグちゃんっ!? フリックさんはね、バイなのよっ!!!」
アップル「えーっと――それは、もともと恋人がオデッサさんなんだから、当たり前というか、なんというか。」
ナナミ「ええええええーっ!!!!??? フリックさんって、パイなのーっ!!? それってやっぱり、アップルパイっ!?」
カスミ「え!? アップルさん、フリックさんと付き合ってるんですかっ!?」
アップル「なんでそうなるんですかっ!」
ナナミ「だって、アップルパイって……。」
ローレライ「くっくっくっくっ……あきないねぇ、ほんとに。」