『死ね』




「グレミオ、僕の本知らない?」
 ヒョイ、と厨房に顔を覗かせて、スイは困ったような顔で首を傾げる。
 白い湯気を巻き上げる寸胴鍋の前に立っていたグレミオが、不思議そうな顔で肩越しに振り返りながら、眉を顰める。
「ご本ですか? また書斎に置きっぱなしにされてるんじゃないんですか?」
「ベッドサイドにも風呂場にもリビングにもないんだ。
 グレミオ、掃除したときにどこかで見かけなかった?」
 言いながら、スイは食器棚を開けて見たり、水壺の中を覗いたりしてから、ないなぁ、と首を傾げる。
「こんなところにはありませんよ、ぼっちゃん。
 クレオさんやパーンさんにも聞いて見たらどうですか?」
「……うん、そうする。」
 おかしいな、と、少し不満そうな表情を浮かべながら、素直に踵を返すスイに、やれやれとグレミオは肩を竦めて見せた。




『殺す』





「……は? ぼっちゃんの本ですか?」
 リビングで雑誌を読んでいたクレオは、問いかけられた言葉に、考え込むように視線を天井に飛ばす。
 そのまま沈黙が降りて──けれど彼女は、すぐにすまなそうな表情を浮かべて、スイを見上げた。
「すみません、ぼっちゃん、見かけた覚えはありません。
 後で私の部屋に来ていないか確認してみましょうか?」
「……ぅーん……、そうだね、お願いできる?」
 言いながらも、スイはクレオの部屋にその本があるだなんて、思ってもみないようだった。
 お願いと言いながらも、それがどんな本だったのか、そして最後に読んだのが何時だったのか──いつもなら言うはずの言葉を続けてくれない。
 クレオは一瞬置いてから、
「……それでぼっちゃん、どういうご本なのですか?」
 本を膝の上に置いて、そう問いかければ、スイはあいまいに微笑む。
「──うん、だから、なんていうか……。」
「はい? ──まさかぼっちゃん、またどこからか禁書の類を持ち出してきたんじゃないでしょうね?」
 言いながらも、ジットリと目を細めるクレオは、「どこ」の先が黄金宮殿にしかないと推測していた。
 そういえば、昨日、レパント大統領に呼ばれてブツブツ文句を言いながらも宮殿に上がっていた。
 きっと、その時に手癖の悪さか口癖の悪さを発揮して、禁書を持ち帰ってきたに違いない。
 そう結論を出して、ぼっちゃん、と、クレオが口調を改めて彼の名前を呼ぶよりも先に、
「それは違う。禁書は持ち出してない。」
「それじゃ、一体何の本なんですか?」
 禁書ではなくても、持ち出し禁止の何かを持って来たのではないんですか? ──そんな響きを言外に漂わせて、顔を顰めて見上げてくるクレオに、スイはヒョイと肩を竦めて見せた。
「──……だから、僕の本。」
「ぼっちゃん?」
 言いたくなさそうな顔で──それでも探さないといけないのだと、疲れたように溜息を零して、スイは腰に手を当てると……、うんざりした表情でクレオを見下ろす。




『お前なんて消えてしまえ』




「………………レパントが、僕の伝記を勝手に作ったんだよ。」
 しぶしぶ──と言った風に口を割ったスイは、そのままクレオの隣に座り込んで、はぁ、と重く溜息を零す。
「その見本が出来上がってきたって言うことで、昨日、レパントに呼ばれたってわけ。」
「……ぼっちゃんの伝記……、ですか?」
 軽く目を見張って、クレオはマジマジと目の前に座った少年を見つめた。
 自らの主である少年が、「偉業」を成し遂げたということは、クレオも良く分かっている。
 彼が「トランの英雄」と呼ばれ、一部では神さまのように崇拝されているということも──そして、黄金宮殿の一角に、「英雄の部屋」と呼ばれるものが存在していることも、良く知ってはいる。
「──あぁ、とは言っても、クレオが書いた手記じゃなくってね、正真正銘、レパントがアンテイにいる小説書きに書かせた、『伝記・スイ・マクドール』。」
 クレオの複雑な表情の原因に思い当たったらしい主は、ヒラリと手を振って、頬杖をつく。
──なるほど、確かにソレは「僕の本」だ。
 英雄の部屋で公開されている「クレオの手記(解放軍時代の2年間に渡り、クレオが私日記として書いていたものを、レパントに頼まれて写しを一般公開している)」ものとは違う、完全なる『伝記』というものだろう。
 赤月帝国時代も、継承戦争の後、バルバロッサ・ルーグナーの伝記が発売されていた記憶がある。
 中でも特に、バルバロッサと覇王の紋章の出逢い、そしてクラウディアとの愛を語るシーンなどが大人気で、吟遊詩人がこぞって歌い、劇作家が「クラウディア」の美しさを表現する女優が居ないと嘆いたと──そういう逸話が残されているのだが。
「……ぼっちゃんの、伝記……、ですか。」
 現実味を感じなくて、クレオは秀麗な眉を寄せて呟く。
 グレミオ辺りが聞いたら、狂喜乱舞するかもしれないだろうが──、どうもイマイチ、ピンと来ない。
「そう。それで、とりあえず取上げて──いや、一通り目を通すからって持って帰ってきたんだけど、見つからないんだよね。」
 どこへ行ったんだろう?
 そういって首を傾げるスイの言葉に、クレオはギョッと目を見開く。
「それってぼっちゃん!? 見本の本を、無くしてしまわれたって言うことじゃないんですか!?」
「うん、そう。」
 即答。
 あまりに清清しいほどの即答に、クラリとクレオは頭痛を覚えた。
「そうって──ぼっちゃん! 大変じゃないですか!」
 まさか、ぼっちゃんに限って、そんな初歩的なミスをするとは!
 そんな衝撃に目を見開いて、それこそノンビリと雑誌を読んでいる場合じゃないと、クレオは雑誌をテーブルに戻し、立ち上がる。
 レパントが関わっている「見本」ということは、十中八九確実にそれは、「国家レベル」で動いている「伝記本作成」だ。
 スイの意図が関わっていなくとも、このトラン共和国において「トランの英雄」であり「スイ・マクドール」と言う名は、トランにとっての外交の「顔」なのである。
 特にその英雄が姿をくらまし、再び現れた今は──まさにその渦中とも言える騒動の只中で……本人のスイは、そのことを理解していながらも、理解していないフリを続けてくれているが。
 その、国家レベルの政策物を、「無くした」なんて言葉一つで片付けるわけには行かない。それこそ、マクドール家の沽券に関わることだ。
 ──もっとも、「沽券」という言葉が、今のマクドール家に使っていいのかどうかは微妙なところであったが。
「それでぼっちゃん? 最後にその本を見た記憶は、どこなんですか!?」
 肩をガッシリと掴まれて、スイは顔を歪めてみせる。
「リビングで見てて、見てて気分悪くなってきたから、ちょっと置いて、グレミオに飲み物を貰いにいったんだ。」
「……気分が悪くなったって……本を読んでですか?」
 活字中毒と言っても過言ではないスイが、見ていて気分が悪くなる本というのは、一体どういうものなのだと、クレオは心配そうな表情でスイを見下ろす。
「だって、伝記なのに無駄に僕の形容が形容詞なんだもん。」
「──……ぁー……文法的には通じませんが、クレオ的には通じました。」
「そう、そんな感じでね。
 ミルイヒが自費出版してる『解放軍 赤バラの騎士団の活躍』とか、そういう戯言として出版する分には、僕も口は挟まない。
 けど、これをトラン共和国が公式に出すというのだけは、何が起きても阻止しなくてはいけない。
 ──そういう話の内容だったわけだ。
 具体的に言うと、僕の形容詞が。」
 いかにもウンザリしていますと言いたげに顔を歪めるスイの言葉に、クレオはあいまいに微笑むだけにとどめておいた。
 クレオが解放軍時代に書いた手記には、スイの姿形についての記述は一切と言っていいほどない。
 だからこそ、クレオも英雄の部屋への展示を許したわけなのだが──何せスイは、自分の絵姿や描写が他に漏れるのを、この上なく嫌っている。
 だから、ウンザリするスイの気持ちもわかる。
 そして、その形容詞という形容詞を、全て削除してやろうと言うつもりで、見本を持って返って来たのだろうという意図も理解できる。
 しかし。
「──だからってぼっちゃん……、その見本を焼くのは、さすがに……。」
 一応、国家レベルの政策で作られた本なのだから、個人の勝手で破棄するわけにはいかないんですよ、と。
 クレオがほとほと困り果てたように呟けば、
「いや、焼いてないってば。」
 すかさずスイ本人から否定が入った。
「……焼いてないんですか?」
「焼いてないし捨ててもないし破ってもないし飲み込んでもいない!
 そもそも、自分で始末するなら見本じゃなくって原稿を奪ってくるよ。」
 僕をなんだと思ってるんだと憮然と言い返すわりには、自分がいつもしそうなことをスラスラと言える辺り、さすがと言うかなんと言うか。
 クレオは頭痛を覚えたいのか、溜息を零したいのか、自分でも解らないままに緩くかぶりを振った後、
「それなら、大変じゃないですか……。」
「大変だから探してるんじゃないか。
 結果的に本の発行を反対するにしろ、内容を大幅改善するにしろ、大本の本を僕が無くした──なーんてことになったら、弱みを握られたも同然だ。」
 そんなことを弱みに感じるようなタマなのだろうかと、クレオが一瞬首を捻ったのはさておき、スイはリビングをグルリと見回しながら、困ったな、と、一向にリビングから先の行方を思い出せない米神に指先を押し当てて
「それに、あの本を誰かが見てても困るんだ……栞代わりに使ってたメモ用紙、結構重要機密で……。」
「────…………ぼっちゃん?」
 思わず、クレオはグゥルリと首を巡らせて、若き主の顔を見下ろした。
 スイは、ソファの手すりに顎を埋めるように頭を押し付けながら、
「アレ、他の人に見られたら、マズイんだよね〜……、しかも、それがレパントに見つかろうものなら──。」
 困った、と、大きく眉を寄せてソファに懐くスイに、クレオは掌を額に押し当てる。
「………………ぼっちゃん…………、だから昔から、機密事項の書類を栞代わりにする癖を、やめるようにと言っていたじゃないですか──……っ。」
「だって、本の間に挟んでおいたら、忘れないんだもん。」
 ぷく、と、可愛らしく頬を膨らませて拗ねられても、ことがことだ。
 一体、その「スイ・マクドール伝記」に、何の書類を挟んだのだと、そうクレオが問い詰めようとした瞬間──、
 ガチャ。
「……あれ? ぼっちゃん、いつのまに帰ってらしたんですか?」
 首からタオルを提げて、いかにもトレーニング帰りだと行った風貌のパーンが、むさくるしい湯気を体中から、リビングに発散しながら入ってきた。
「出かけてたわけじゃないよ、書斎に篭ってただけだから。」
「なんだ、そうだったんですか、てっきり、部屋にいなかったものですから、出かけられたのだとばっかり。」
 言いながら、ゴシゴシとタオルで頭を拭くパーンの言葉に、スイはソファから顔をあげる。
「部屋にいなかったって……何? 僕を探してたの?」
「あぁ、そうなんすよ。レパント大統領が、ぼっちゃんに貸してた本を返して欲しいって取りに来ましてね。ぼっちゃんが居なかったのですが、今日返してもらう予定だって言ってたものですから。」
「──────………………返したの、か?」
 あっけらかんとした顔と口調で言い切るパーンの言葉に、スイが渋い表情になる。
「はぁ、レパント大統領が、ぼっちゃんによろしくと言ってましたよ。」
 言いながらパーンは、どっかりとクレオの対面のソファに腰を落とす。
 それから、渋いスイの表情に気づいて、ああ、と眉を上げる。
「すみません、ぼっちゃん。ココにその本があったので、レパント大統領にお渡ししちゃいましたけど──良かったんですよね?」
「それを先に聞きなさい、あんたはっ!!」
 すかさずマクドール家の常識人を豪語するところのクレオが、スパーンッ、とパーンの頭を叩いてくれたので、スイは彼を蹴飛ばそうと浮かせた腰を元に戻した。
「……ったたっ、……ってことはなんすか? もしかしてあの本、返してしまったらまずかったんですか?」
 すまなそうに頭を掻くパーンに、スイはヒラヒラと手を揺らして答える。
「いや、まだ読みかけだったけど、最後まで読めるかどうか自信はなかったから、持って行って貰う分には構いはしないんだ。」
「……ぼっちゃんが最後まで読む自信がない?」
 一体それはどんな本なんだ、と、パーンがグシャリと顔をゆがめるのに、クレオはヒョイと肩をすくめるだけで答えず、
「問題はぼっちゃん? レパント大統領に見られて困るようなものをしおりに挟んでいたかどうか、なんですけど。」
 どうなんですか、と。
 クレオが振り返った先で、スイがさりげなさすぎる動作で視線を遠くにやった。
「………………ぼっちゃん?」
 クレオが思わず目を眇めたところで、スイはコリコリと頬を掻いて、
「多分……見たら、ココへすっ飛んでくるような代物なことは確か。」
「……すっ飛んでくる?」
「────それは、一体?」
 困惑したような顔で、パーンとクレオが呟いた瞬間──、

「ぼっちゃーんっ! レパントさんがいらっしゃってますよ〜。」

 軽快なグレミオの声が、玄関から聞えてきた。
「…………もう少し早くパーンが言ってくれれば、今頃無事に逃げ出してたのに……。」
 思わずゲンナリと呟いたスイは、しおり代わりに使っていた紙から始まる騒動を予想して、ドッと溜息を零した。




『呪われろ! スイ・マクドール……!!』









女王様とシモベ















 脅迫状がレパントに見つかってからと言うもの、スイの悠々自適な生活は、一転して変わった。
 マクドール邸からレパントに攫われるようにして、黄金宮殿内の、レパント私有領に連れ去られ、その一番奥まったところにある、「いざと言う時の避難所」に放り込まれた。
 そこから出ることも禁止され、見張り兵が扉の前に置かれ、なおかつ、部屋に出入りが出来るのは、レパントとグレミオとクレオだけと言う、徹底ぶり。
 はっきり言って、軟禁状態だ。
 もちろん、そんな状況をスイがおとなしく受け入れるはずがない。
 放り込まれた瞬間から、見張り兵を昏倒させようとすること十数回、食事を運びに来たグレミオを陥落させて逃げ出そうとすること二回、暇をもてあましているだろうと、クレオが本を持ってきた機会に逃げ出そうとすること1回、レパントが顔を出しに来た時に、レパントをグルグル巻きにして逃げ出そうとすること十数回。
 しかし、さしものスイも、天牙棍を取り上げられ──攫われてきているので、棍は未だに屋敷の中である──、紋章と言えば、普通に使うには危険な「生と死の紋章」だけの身では、完全に逃げ出すことは出来なかった。
 何せ、ドアの前の見張りは、アレンとグレンシールで──その二人を昏倒させても、その先に待ち受けているのはバレリアとカミーユとカイ。
 正直言って、アレンとグレンシールを油断させて昏倒させるのとは、違う意味で疲れる相手だ。
 そこを切り抜けたとしても、階段の下で待ち受けているレパントの仁王立ちと対決しなくてはいけない──それから、スイが脅迫状を受けていると知って、目を回しそうなくらい心配しているグレミオとクレオとパーン達の過保護な手とも。
 その三段階──もしかしたら四段階か五段階はあるだろう「試練」を、丸越し状態で正面から乗り切るのは、適切ではない。
 そのことは、スイだって良く分かっている。
 だから、「この部屋」が「避難所」であるなら、絶対にあるはずの「抜け道」だって、ぬかりなく探しはしたのだ。
──見つけた扉の向こうは、土砂でふさがっていて、通れなかっただけで。
「土砂が命を持ってたら、冥府で吸い込めたのに……。」
 諦め切れず、ジットリとタペストリーの奥を睨み付けながら、スイは先ほどから浮かんでは消えていく計画を、もう一度頭から練り直しはじめる。
 何か武器になるものを探そうにも、ムダにだだっ広い部屋には、何もなかった。
「保護っていうか、完璧に軟禁状態だよね。」
 フカフカのソファに体を深くもたれさせて、スイは思案気に首を傾げる。
 このままおとなしくしているのが、一番いいことなのは分かっている。
 半年もすれば、脅迫状の主が見つかるだろうから、軟禁状態は解かれるだろう。
 それは間違いない。
 間違いは、ないのだけれども。
 正直な話、半年もココで暮らしていられるかと聞かれたら──……。
「…………それは、ムリ、かな。」
 かと言って、スイがこの部屋に飽きるよりも早く、脅迫状の主が分かるかと言ったら、それも難しいだろう。
──何せ、あの脅迫状、差出人が全部違うからね〜……。
 そこまで思って、ふとスイはイヤな予感に駆られて眉を大きく寄せた。
 あの脅迫状の差出人が違うことは、手紙を良く観察したらすぐに気づくことだ。
 偽書作りの達人であるテスラなら、スイが二週間もかけて割り出した、手紙の持つ癖に、数時間ほどで気づくことだろう。そこから「一部の」脅迫状の主を割り出すのには、半月ほどと言ったところか。
 けれど、問題はソコからだ。
 差出人を捕まえるのに、そこから更にどれだけかかるだろうか? あの脅迫状には、数ヶ月前に届いたものまで混じっているから、余計手間がかかるに違いない。
──と、なると、やはり半年は監禁されることは間違いなさそうだ。
「レパントの性格上、最低でも差出人の8割が捕まらないと、ココから出してくれそうにないかな?」
 それは、面倒臭い。そして、何よりも、退屈だ。
「まったく、過保護が多いよねぇ。」
 脅迫されている張本人とは思えないような、能天気な事を呟いて、どうしようと、天井を仰いだ。
 だだっ広く豪奢な室内は、「軟禁」されている状態でさえなかったら、とても暮らしやすくて、ちょっとした豪勢な旅行気分を味わえる代物だっただろう。
 けれど、扉の前には入れ替わり立ち代わり兵士が立ち、食事も部屋の中に運ばれた上に「毒見」付き。暇潰しにと持ってきた本もゲーム盤も何もかもが「検閲」された後があり──正直言って、ひどく、不快だ。
 その原因が、ウッカリ脅迫状を栞代わりに使った自分にあるのだとしても、だ。
「せめて、ばれるのが半月ほど後だったら、裏工作だって終わってたから、悠々自適の軟禁ライフでも送ってあげてたけどね……。」
 指先を口元に押し付けて、ペロリと舌でそれを舐め上げる。
 ス、と目を細めながら、タペストリーを睨むフリをして考えるのは、先日から頭の中で組み立ててきた──「脅迫者一斉処理計画」だ。
 後、半月ほどの時間があれば、その計画は、スイの手から離れ──後は一斉に動き出すのを待つだけの状態になっていたはずだった。
 そうなれば、自動的に「トランの英雄」を憎んでいる面々が、ウソの情報に踊りだされて表に出て来ることになる。
 後はそれをトランの兵士に一網打尽にさせるだけ。
 そう──ほんのたったそれだけで、この脅迫状に絡んでいただろうと思われる人物たちをいぶりだすことが出来るのだ。
 最も、いぶりだされた人間が本当に「脅迫状の主」だとは限らない。
 限らないけれど、トランの英雄を憎む人間はこうなるのだという見せしめが出来たら、それでいいのだ。
 それだけの裏工作をしてきたし、情報だって操作してきた。
 後、ほんの一押しだけで、完成していた計画だった。
 完成さえしていたなら──軟禁状態なんて、あと二週間も続かなかったのに。
「参ったな……、ココからでも実現できる新しい作戦を考えるか、レパント達に任せるか、どっちにしようかなぁ?」
 脅迫状なんてものは、解放軍時代も腐るほど送られて来ていたし、更にさかのぼれば、テオの息子としてマクドール邸で「坊ちゃん坊ちゃん」していた時にも、イヤがらせ紛いのソレを、受け取ったことだってある。
 だから、脅迫状ごときに怯えたり、恐怖したり、心悩ませるような、優しい心はまったく持ち合わせてはいない。
──ただ。
 今、この状況下で、「帰国したトランの英雄」宛てに送られてきた脅迫状を、見過ごすわけには行かなかった……、それだけ。
 脅迫状を送ってきた人間の、半分ほどは差出人のめどをつけてある。その半数ほどが、元赤月帝国の貴族の──責任を取って没落させられた面々の、実力も持たない「元後継者」であることも、分かっている。
 いわば、実害のない、ただのイヤがらせに過ぎない脅迫状だと言うことも、分かっている。
 けれど。──トランと、ジョウストンが、同盟を結び……そして、「トランの英雄」の帰国により、より一層両国の結びつきが強くなろうとしている今。
 元敵国であるジョウストンを毛嫌いする面々が、調子に乗ってこられては困るのだ。
 せめて、新同盟軍が、もう少しハイランドを押すまで──できれば、彼らが、ハイランドを制するまでは。
 そうしないと……その、トラン国内の小さな反乱の芽に目をつけた「ハルモニア」が、こちらにも触手を伸ばしてこないとも限らないのだから。
「せっかく、グレミオやクレオにばれないように、裏工作してたのに──、このまま軟禁されてたら、今までの苦労が水の泡になるなぁ。
 っていうかレパントめ、僕の親心を無駄にするようなことをしてくれて……まったく。」
 かと言って、自分が下準備をした──「反トランの英雄」をおびき出し、表にいぶりだす、という綿密な計画の下準備の全貌を、レパント達に言うわけには行かない。
 「彼」らは、このトランの「顔」だからだ。
 「個人の中傷目的(とも取れる)の脅迫状」相手に、裏工作まで使って乗り出した、なんてことになれば、後々の憂いを招き兼ねない。
 今ですら、トランの大統領は、トランの英雄に首っ丈、──なんていう、笑えない冗談が蔓延していると言うのに。
──まぁ、実際、個人への中傷目的の脅迫状相手に、身を乗り出してしまっているのが、現状なのだけれど。
「僕のことで、レパントが乗り出してくるのを、公式に認めさせるわけには行かない。──そんなことをすれば、僕自身がレパントの弱点だと、そうさらしているようなものだ。」
 けれど、レパントが──ひいては、元解放軍の面々が、「スイ」を特別に思っている事実は、すでにもう消しようがないほど、表だった事実になっているのは……あの「英雄の部屋」を見ても分かることだ。
 なら。
「その、弱点に見えるトランの英雄こそ、懐刀そのものであると──裏業界に、きりつけてでも覚えて貰わないと、ね。」
 そのためには、今回のことを、すべて自分で片付ける必要がある。
 ──今回の事例は楽して最高の結果を得る……「裏業界」への殴りこみ、だった、はず、…………なのだけど。
「──……こうなってしまっては、意味がないな。」
 まさか、あのタイミングで、レパントに見つかった上に──彼を口説く手間も与えられないくらいの勢いで、軟禁されるなんて、思っても見なかったから。
 まったく、と、スイは手のひらで顔の半分ほどを覆うと、
「誰のためにココまで苦心してやってると思ってるんだ、あの赤鬼。」
 唇の動きだけで、脳裏に思い浮かんだ家族でもないくせに過保護なことこの上ない男を罵ると──、視線を油断なく辺りに飛ばしながら、ひどくイヤそうに顔をゆがめて見せた。
 考えても考えても、思考は堂々巡りに、結局「戻ってくる」。
 自分の不始末を付けるには、ココから抜け出すのが、一番なのだ、と。
「──……男を口説くのは、絶体絶命の戦場だけで、十分なのに、ね。」
 はぁぁ──と、重い溜息を手のひらにはき捨てて、スイは覚悟を決めたように、キュ、と唇を一文字に結びつけた。










 第一の難関、口説き落とす対象を、軟禁状態の部屋の中に招き入れる。
 これは、ひどく簡単に行われた。──行われたというよりも、相手が飛んで火に入る夏の虫のような状態だから、問題はまったく無い。
 その日も、スイがベッドの上にごろりと横になって、暇潰しに本を読んでいる最中に、彼は几帳面なノックと共に、室内にやってきた。
 身を起こして振り返れば、軟禁が始まってから、少しだけ憔悴した顔に、笑みを浮かべてくれる。
 その姿がまるで、「仕事に疲れて帰ってきた夫が、愛する妻の愛らしい様子に、疲れが吹き飛んだように感じる」ように見えて、スイはちょっと──いや、かなりゲンナリした気持ちになった。
 しかし、これからの計画を考えると、それを表に出すわけには行かない。
 スイは、読みかけの本の間に栞を挟み、レパントが声をかける前にベッドから飛び降りると、
「レパント、仕事が大変なのに、僕のことまで気を使わせてごめん。」
 心配そうな表情を貼り付けて、やつれたように感じるレパントの頬に、そ、と手を当てる。
「す、スイ殿っ!?」
「朝も思ってたんだけど、レパント、ムリしてるんじゃないか? 日に日に顔色が悪くなってる──ちゃんと寝てるの?」
 レパントの両頬を包み込んだ手のひらで、しっかりとレパントの顔を固定して、顔色を伺うように覗き込んでやれば──その時、サービスとばかりに、少し首を傾げながら、睫も伏せてやった──、レパントは、最初からそう反応するのが決まりきっていたかのように、慌てて顔をのけぞらせて、パッ、と青ざめた頬に一気に赤い色を走らせた。
──なんて単純なのだろう、と、ココまでだまされやすい大統領に、スイがちょっぴりトランの未来を憂いたのも一瞬。
 すぐに彼は、自分の目的のために、逃れようとするレパントの顔に額を近づけて、
「僕なら大丈夫だから──、アレンもグレンシールもいつも傍に居てくれるし、レパントが心配して、毎日顔を覗かせてくれるのはありがたいけど、おまえがこんなに顔色を悪くしてるのに、申し訳なくて……。」
 そ、と、憔悴したように目線を落として、唇をキュと噛み締めれば、レパントはグレミオやクレオ、マッシュとは違って、たやすくスイの手のひらの上に落ちてきてくれた。
「なっ、何をおっしゃいますか、スイ殿! あなたのためなら、このレパント、いくらでも手を貸しましょうとも!
 スイ殿を狙う不届きな輩は、一刻も早く! この私がこの手で、捕まえてみせますとも!!」
 レパントの頬を包み込んでいたスイの両手を掴み、自分の手に比べて幾分も華奢な手を、己のソレで包み込み、レパントは燃え滾る瞳でスイを見つめる。
 視線の先で、スイは戸惑うような、申し訳なさそうな色を浮かべて、それでもはにかむような微笑を浮かべてくれる。
「レパント──ありがとう。そう言ってくれると、すごく心強くて、嬉しい。」
「スイ殿……っ!」
「でも、本当にムリはしないでくれよ? おまえは、このトランにとって、とても大切な人なのだから。
 ……もちろん、僕にとっても、大事な仲間なんだから。」
 最後の一言は、そ、と囁くように──淡く浮かんだ微笑を目の前にさらして。
 その、絶妙なる騙しのテクニックに──普段からスイとの深いお付き合いをしている面々なら、「レパント、騙されてる! 騙しのテクニックとか、それ以前の問題で騙されてるぞ!」と、言ってくれたに違いないが、残念ながらココにいるのは、スイとレパントのただ二人だけ。
 濃厚な垂れ流しオーラでレパントを包み込むスイを、止める人間も、突っ込む人間も、誰もいはしなかった。
──かくして。
「スイ殿……っ!!!」
 感極まったレパントは、その目を潤ませながら、スイの手のひらを包んだ自分の両手を、グ、と顔の前に持ち上げると、それに額を押し付け、感動の嵐に必死に耐えた。
 そして、喉でつっかえているような熱い感情を必死で飲み下しながら、
「スイ殿──っ、このような部屋で不自由をおかけしますが、どうか……、どうか、後しばらく、我慢をお願いします! 一刻も早い解決を、あなたにお約束しますから!
 何か、入用でしたら、このレパントに遠慮なく申し付けてください!!」
 頼りになる男。──自分はまだまだ、あなたのために力になれる。
 そんなオーラをかもし出し、一気に一回りも二回りも大きく見せるレパントの姿に、スイは心配そうな表情を浮かべながら──こっそりと、ほくそ笑む。
 けれど、そんな裏の顔は微塵たりとも見せずに、スイは申し訳なさそうな、それでいて、レパントの些細な心配りが嬉しいと、柔らかな笑みを浮かべながら、
「それじゃ……一つだけ、わがままを言ってもいいかな?」
「はい! なんなりと!!」
「実は──、僕、ほとんど一日、一人きりだから、ちょっと、寂しくて。」
 そう告白するのが恥ずかしいと言うように、スイはほんのりと白い頬を赤く染めながら、
「誰か話相手が欲しいんだ。
 …………できれば、一緒に居ても気を配らなくていいような──ルックや、シーナとか。」
 これが、グレミオやクレオ、フリックやビクトール相手なら、ココまであからさまに二人を呼びつけるような台詞は吐かない。
 しかし、いくつもの修羅場を潜り抜けてきた割には、純朴でまっすぐな──言い換えれば、スイの事に関しては、まっすぐすぎてまぶしいほどのレパント相手に、騙しの台詞をこれ以上重ねる必要なんてなかった。
 この二人なら、気の置けない仲間だし、一緒に居て信頼できるし、楽しいと思うんだ。
 ──そう、切なげに呟くだけで、レパントは、あっけないほどあっけなく、落ちてくれるからである。




 果たして、この数時間後、スイの軟禁されている部屋に、二人の少年がやってきたと言うことは、名言する必要もないことだろうと思われる。




「……で? 君、一体、今度は何をやったんだい?」
 テレポートを使ってやってきたかと思うなり、苛立ちを隠せずにそう問いかける昔馴染みの悪友に、スイはとりあえずヒョイと肩をすくめて、こう答えることにした。
「まだ仕掛けてる最中で、やってはいない。」
 ──と。
 そんなスイの言葉に、父親からの緊急の伝言一つで、無理矢理引きずられてきたシーナが、心底いやそうに顔を歪める。
 手近な椅子を引き寄せて、どっかりと座り込みながら、彼はスイを軽く睨みつけると、
「まさか、それに俺らを巻き込むつもりじゃないだろうな?」
「ヤだなー。」
 にっこり笑顔で、スイは壁際にあつらえられたお茶セットのある棚に近づくと、なれた手つきで茶を淹れ始める。
 それをチラリと見て取ったルックは、無言でテーブルのある椅子に腰掛けた。
 スイに呼びつけられたこの場に長居するつもりはなかったが、彼が茶を淹れてくれるというなら話は別だ。
 グレミオの料理に慣れた──舌が奢りすぎたスイの淹れたお茶は、茶葉も最高級なら(特に、今回のようにレパントが用意してくれたものは、まさにスイのための特上品ばかりだ)、飲む価値はある。
 というか、それを遠慮するのは馬鹿である。
「シーナったら、そんな心配しなくても──呼びつけた以上、巻き込む気は満々に決まってるじゃないか。」
 ポットを温めるためにお湯を注ぎ込みながら、肩越しに振り返ってニコリと愛らしく笑う。
 小首を傾げて微笑むスイの言葉に、シーナは、げ、と引きつった。
「冗談だろ? 俺、今は同盟軍で一生懸命働いてるんだぜ? 二束わらじはゴメンだぜ。」
「大丈夫だよ。シーナにそんな無茶は言わないから。」
 ポットのお湯を人数分のティーカップに移し入れて、今度は茶の葉の缶を開けた。
 商業の流通の地であるグレッグミンスターでも、滅多に手に入らないほどの超高給茶葉は、蓋を開けた瞬間、なんとも表現しがたい強い香が鼻先を擽った。
 この軟禁生活に入ってからずっと飲み続けているお茶は、あまりに上質すぎて──ここから出た後の、自分の舌が、普通の飲み物で満足できるかどうか、心配だ。
「ちょっと、スイ? 君、人をこき使うためにココに呼んだのかい?」
「うん。」
「……君、人を何だと思ってるんだよ?」
「魔法使いのルックさまかなー。」
 ジロリ、と険のある眼差しで睨みつけてきたルックに、あっさりとスイは頷く。
 一気に不機嫌そうな顔になったルックを横目で見やりながら、シーナはクワバラクワバラ、と肩を竦める。
「本当は、全部自分で片をつけようと思ったんだけどね──さすがに今回は、そうも言ってられないみたいなんだよ。」
 言いながら、スイはポットに茶葉を入れて、お湯を高い位置からたっぷりと注ぎ込む。
 芳醇に香る匂いに蓋をするように、ポットの蓋を嵌めて、その上からティーコジーをかぶせる。
「……珍しいね、君が悪巧みをするのに、他人の手を借りるなんて。」
 少し興味が涌いたのか、砂時計をひっくり返すスイの背中を見ながら、ルックが両目を眇める。
「悪巧みじゃないんだけどね。」
 シーナたちを振り返りながら、スイは棚に軽くもたれながら腕を組む。
「何にしろ、ここから出れないからね──ルックの能力を借りたいと思ってるんだ。」
「……出れない?」
 ヒラリと手の平を返して説明するスイに、シーナが目を瞬き──ルックが軽く眉宇を顰める。
 そう言えば、と、改めて部屋の中を見回したシーナは、そこかしこに小難しいタイトルの本が置かれているのに気づく。
 ここは、シーナ自身も入ったことがない「避難場所」だ。
 言うなれば、有事の際以外は使わない部屋だ。
 そんな部屋に、雑多に本が転がっている事実はおかしかった。
 この部屋に案内されたときは、ナイショ話をするためだけに、わざわざココを借りたのか──程度にしか思って居なかったけれど。
「ってことは──お前、まさか、とうとう親父に囲われたのかっ!?」
 両目を見開き、愕然と叫ぶシーナに向けて、すかさずスイは隣に置いてあった茶缶を投げ飛ばす。
 ビュンッ、と音を立てて飛んでいった缶は、あやまたず、シーナの額に命中した。
「あだっ! てめっ、何すんだよっ!」
「それはこっちのセリフだよ。サムツボたったから、そういうことを言うのはやめてくれるかな。」
 呆れたように、スイは溜息を一つ零す。
 額を押さえてうずくまるシーナに当たった茶缶は、床の上に落ちて、ルックの足元まで転がってくる。
 チラリとそれを見下ろしたルックは、それが上等の茶葉だということに気づいて、ふぅ、と溜息を一つ零す。
「スイ、君、ちょっと乱暴なんじゃないの? こんないい茶葉を投げるんじゃなくて、その右手の紋章を放ちなよ。」
「ってこらー、ルック! お前、何、そら恐ろしいことをスイに進めやがるんだっ!」
 コトン、と茶缶をテーブルの上に置いたルックに、シーナが歯をむき出して叫ぶ。
 スイはそんな二人に、小さく笑いながら──あぁ、と、背後を振り返り、ティーコジーを外した。
 そのまま、 ティーカップのお湯を湯冷まし入れに流しいれて──これは後から、洗顔だとか手洗いだとかに使うのだ──、カップの中に紅茶を流しいれる。
 こぽこぽと流れ出る、美しい琥珀色の液体は、ふわりと優しい香がした。
 部屋の中に満ちるそれに、ルックは薄く笑みを乗せながら、
「それで、スイ? 君は一体、何をして、ここに軟禁されてるんだい?」
 このまま茶を楽しんだら、問答無用でシーナをおいてテレポートしてしまおう──と思いながらも、「あのスイ」が、わざわざレパントに軟禁されている理由が分からなくて、ルックはとりあえずそう問いかけてみた。
 もしかしたら、面白い暇つぶしになるかもしれない。
 そして、あまりに面倒なことだったら、聞くだけ聞いてトンズラしたらいい。──それだけの話だ。
 そう思って尋ねたルックに、シーナは、「それを聞いたら、俺、絶対に巻き込まれるだろうが」、と愚痴を零してくれたが、一切ルックは聞かないことにした。
 どうせ、話の先を聞こうが聞くまいが、シーナは何があっても絶対に巻き込まれるに違いないからだ。
「あー、うん、そうだね。話さないと、話にならないよね。」
 紅茶の入ったカップを、ルックとシーナにそれぞれ差し出しながら、スイはルックの対面に腰を落とす。
 そうして、端的に現状をまとめて語ってくれた。
「実はね、──かくかくしかじか、というわけで。」
「かくかくしかじか……って、おま、ものすごい省略したな。」
 ひくり、と引きつったシーナの言葉に反して、ルックは品良く差し出された紅茶をたしなみつつ、
「なるほど、つまり脅迫状がうっかり見つかって、レパントさんに事件解決まで静かにしてろと、閉じ込められたというわけか。」
 サラリと納得してみせた。
 そんな、ある意味、様々な事件を一緒に乗り越えてきた(っていうかやらかしてきた)コンビであるが故の、以心伝心というヤツなのだろうか?
 思わずシーナは、裏手で激しくルックに突っ込む。
「って、わかんのかよ!!」
 ルックは、チラリと冷ややかな視線をシーナに向けると、怪訝そうな表情で、
「わからない君の脳みそが足りないんじゃないの?」
 冷たく言い放ってくれた。
「んなわけあるかっ! 今の説明で分かるのは、お前とグレミオさんくらいのもんだよっ!」
 バンッ、とソファを叩いて叫べば、ルックとスイから、心外だと言いたげな視線を同時に貰った。
「失礼だな、僕とスイ馬鹿のグレミオさんを一緒にしないでくれるかい?」
「失礼だなー、グレはルックと比べられないくらい僕馬鹿だよ。」
 異口同音。──のようで、微妙に違う。
 ルックは心の奥底からイヤそうだし、スイはグレミオを自慢しているようにも聞こえる。
「あぁ……そーですか。」
 シーナはこれ以上突っ込むのをあきらめて、自分の分のカップを取り上げ、紅茶を啜った。
「──んで、スイ? お前、どうするつもりなんだよ?
 このままオヤジに囲われてるつもりはないってことだろ?」
 っていうか、俺らに何をさせようとしてるんだ? ──と。
 そう問いかけるシーナに、スイは香良い紅茶を口に含みながら、うん、と一つ頷いて、
「とりあえず、僕の計画をとっとと済ませて、周辺諸国にこの脅迫状事件が知られるよりも早く、ことを治めたいんだよ。
 そのために、半月かかる裏工作を、3日で済ませたいと思ってる。
 それで、その手伝いをルックにお願いしたいのと。」
「…………。」
 一つ指を折って告げるスイの顔を、物凄くイヤそうにルックは見つめる。
 裏工作。その言葉は、非常に面倒くさそうな響きが宿っている。
 そして、自分の手元のカップを見下ろすと──このカップを持ったまま、同盟軍にテレポートしてしまおうかと思ったところで、
「報酬は、そこらにある本を勝手に持ってっていいから。」
 パタパタと手を振りながら、スイは「小難しそうなタイトルの本」を手の平で指し示す。
 それをチラリと見たルックの目が──キラリン、と光る。
 シーナはその光を見て、「あぁ……雑多に置かれた本は、スイの罠か」と納得する。
 無造作に一冊を取り上げたルックが、
「これは……トランで禁術本指定されている……。」
 感心したように呻くのを聞いて、「それ」が、相当ヤバいものだと、シーナは知った。
 っていうか、なんでそんな物が、無造作にこんなところに置かれているのかと、頭痛を覚えたシーナに、スイがニッコリ笑って教えてくれた。
「あぁ、そう。あまりに暇だから、持ってきてvv ってお願いしたら、持ってきてくれたんだよ。」
 「誰に」とは言わなかったけれど、誰になのかはっきりわかってしまって、シーナは椅子の上で頭を抱えてうずくまった。
 っていうか、なんで危ないヤツに、禁術なんてものを渡すんだ……親父。
 そう思うと同時に、答えははっきりと分かった。
 どうせスイが、必殺の上目遣いで「おねだり」したのだろう。
 あの人は、ほんと……息子の俺が言うのもなんだけど、スイの下僕だから。
「へぇ……で、報酬にコレを貰ってもいいって?」
「好きなだけどうぞ? ──僕はもう読んだしね。」
「ってこらこら、スイっ!」
 さすがにコレはまずいだろうっ、と叫ぶシーナを肩越しに振り返って、スイはあでやかに微笑むと、
「シーナには、シーナで、報酬を用意するから──僕のお願い、聞いてくれるよね?」
 ね? ──と、駄目押しをするように、小首を傾げて上目遣いに見上げてくる。
 そ、と照れたように微笑む様は、まさに、レパントが弱い表情と仕草だ。
 そして──誰にも言ったことはなかったが、実はシーナも、この目線とこの角度の「おねだり」に、物凄く弱かった。
「──く……っ。」
 思わず呻いたシーナに、スイは、彼の元に歩み寄ると、その腕に自分の手を添えて。
「大丈夫──シーナのやる役目は、全然難しいことじゃないんだ。危険も何もない。
 何せ、僕の裏工作は、もうあとほんの少しで終わるんだ。
 それまでの間……本当に少しの、それまでの間だけ、ね?」
 ね? ──の部分で、スイはシーナの歪んだ顔を覗き込む。
 小さく笑みを見せるその表情は、甘く優しげ……に、見えた。
 まるで、甘え上手の彼女が、彼氏に甘えているかのような仕草だ。
 それがまた、シーナのツボをうまく付くのだ。
「──……くっ……てめ、わかっててやってんな……っ。」
 苦々しげに毒づいてみるものの、目の前の魅惑的なスイの笑顔がなくなるわけではない。
 それどころかスイは、シーナのそのセリフを聞いて、ますます微笑みを深くしてくれるのだ。──それはもう、108人+αを虜にした極上の微笑みを。
 それに、がっくり、と心折られるような気持ちを味わいながら、く──……っ、とシーナは臍を噛む。
「シーナ……お願いだから。」
 そ、と囁くように零すスイの言葉に、なんだよ、と返したくなる気持ちを抑えて、シーナは奥歯を噛み締める。
 そんなシーナの頬に手を当てて、スイは俯きそうになるシーナの顔を、自分の方に固定すると、
「僕の身代わりに、三日間、ここでレパントを足止めして、くれる?」
 優しく甘い言葉で、そんな──無茶を口にしてくれた。
 思わず、その甘い雰囲気に、あぁ、と返事をしかけたシーナは──さすがに父と違い、スイとの付き合いに重みがあったため、それが思った以上にこの場では功を為した。
 シーナは、頷く代わりにゴクリと喉を上下させると、
「ちょ、と待て、スイ。
 それ……つまり……俺に、オヤジの相手しろ、ってこと、だよな?」
 脳裏に浮かんだイヤな予感に、顔を大きく歪めた。
 シーナの双眸を覗き込んでいた……逃がすまいと、ヒタリと彼を真っ直ぐに見つめていたスイは、彼の目に「理性」という名の正気が宿ったのを見て取り、チッ、と舌打ちしかける。
 しかし、すぐに、逃げようと腰を浮かしかけるシーナに気づいて、今の今まであたりを支配していた甘ったるい空気を無理矢理引き戻りながら、シーナの両頬を、がっちりと両手で固定する。
 決して逃がさない──あぁ、ここまで僕にやらせたんだ。こんなところで逃がしてなるものか。
 そんな心の中の不敵な笑みはチラリとも面に出さずに、スイは頬を包み込むようにしながら、薬指を微かに動かせて、シーナの眦の下をなぞる。
 誘惑めいた繊細で柔らかな仕草に──けれどシーナは、緊張に顔を強張らせるばかり……、スイは、そんな彼の目を覗き込みながら、薄く微笑むと、
「うん、別に夜の世話はしなくていいよ。」
 唇が触れ合いそうなほど間近で、そ、と甘い吐息と共にささやいてみた……ところ。
「あったりまえだっつぅのっ!!」
 セリフが悪かったらしい。
 ぞぞぞっ、と寒気が走ったらしいシーナが、勢い良くスイの手を払いのけたのである。
──残念、シーナの陥落、失敗。
 これがレパントだったら、すでにもう、何を言われているのか分からないままに、あっさりと落ちてきてくれたのになぁ。
 スイは、払われた手を見下ろしながら、チッ、と……今度こそ舌打ちを零して見せた。
 両腕をさするシーナを横目に、ルックは空になったカップを置いて、怪訝そうにスイを見上げる。
「スイ、君……いつの間に、この馬鹿親子と親子丼なんてしてたの?」
「してないから。」
 ルックを見ることもなく、すかさずスイが突っ込む。
 スイは、すっかり正気に戻ってしまったシーナを見上げて、やれやれと腕を組んだ。
「僕が居なくなると、レパントがうるさいだろ? だから、シーナ、適当に誤魔化しといてよ。」
 すでにもう、その口調にも表情にも、先ほどまでの甘ったるい色は欠片もなかった。
 その変わり身の早さには、さすがのルックも、拍手を送りたくなるくらいだ。
「誤魔化せるか!! つぅか、そういうのは俺じゃなくって、なんでフリックさんに頼まないんだよっ!」
 あの人こそまさに、そういう損な役柄に向いているではないか!
 そうキッパリ言い切るシーナに、ルックもスイも決して否定はしなかった。
「確かにそうだね。この頭の中がサルよりも、フリックさんの方が、ずっとうまくレパントさんをなんとかできるんじゃないの?」
「てめっ、そりゃ、どういう意味だよ、こらっ!」
「君が先に言い出したことだろ?」
 噛み付くように立ち上がるシーナを、フン、と鼻でせせら笑って、ルックはスイに向かって優雅な仕草で、空のカップを差し出す。
 さっさと茶を淹れろ、という態度に、スイは無言でポットを顎でしゃくると、
「今、シーナを陥落中なんだよ。自分で淹れて?」
「君、これから僕をこき使おうって言うのに、その態度なのかい?」
 ふぅん──と、怜悧な美貌に微笑を貼り付けて問いかけるルックに、ぞくぞく、とシーナは背筋に震えが走った。
 なんだかイヤな予感がして、チラリ、と見れば──ルックの右手が、仄かに光っているではないか!
「って、こら待て、ルック! なんかその標的に、俺も入ってないかっ!?」
「うるさいよ、シーナ。だいたい、君がさっさと快諾しないから問題があるんじゃないか。
 さっさとあきらめて、レパントさんに迫るなり押し倒すなり誘うなりするって、スイに誓ったらどうだい?」
「誓えるかーっ!!!!!!」
 涙が滲み出してきそうな気持ちで、シーナは目の前にあったサイドテーブルをひっくり返す。
 ガッシャンッ、と勢い良く転がったテーブルに、ルックが眉宇を顰める。
「せっかく人がいい提案をしてやってるのに……。」
 そう呟くルックに、どこがいい提案だっ、──と叫びそうになったシーナの前で。
「あぁ、それはいいね、シーナ。どうせなら、アイリーンのコスプレでもして、レパントを口説き落としてよ。そうしたら、この先の僕の未来も平穏だ。」
 ぽむ、と、スイが手を叩いた。
 かと思うや否や、スイはシーナの両手をギュ、と掴むと、
「シーナ……それじゃ、頼むよ。」
 キラキラキラ、と、両目を美しく光らせて、そんなことを頼んでくれた。
「ば──……っ。」
 か言うな、と、シーナが叫ぶよりも早く、スイはさっさと彼の手を離すと、さて、と立ち上がって、ルックを振り返る。
「で、ルックは僕と一緒にテレポートね。レナンカンプによろしく頼むよ。」
「レナンカンプ?」
「うん、そこで情報屋やってる男にね、情報を売らないといけないんだ。」
 問うルックに、あっさりと目的を告げて、それだけでルックはスイのシナリオを読んだようだった。
 なるほどね、と呟く。
 レナンカンプまでは、普通に行って、片道一週間ほどかかる。
 「半月は必要」と見た時間は、おそらくその往復の時間がほとんどだということだろう。それがルック一人居れば、あっけなくことは済む。
「その後、2、3日滞在して、情報の流れ具合による修正を加えたら、もうそれで用はないんだ。──後は勝手に、彼らが僕のウソ情報に騙されて、自爆するのを待つだけ。」
 に、と笑うスイの言葉に、シーナは彼が何をしようとしているのか──そして、どんな爆弾を落としたのか、想像もつかなくて、はぁ、と溜息を零すしかなかった。
 もちろん、往復している間にも、なにらかの手を打つのだろうが─、一体、「それだけ」で済むような状態になるまで、何をしたと言うのだろうか?
「だからルックは、送り迎え以外に、何もしなくてもいいし──楽だろ?」
 ね? と首を傾げるスイに、ルックは新しく注いだ紅茶を啜りながら──冷めてる、と顔を顰めることを忘れず──、ヒョイと片眉をあげた。
「──そうだね、それくらいでいいなら、協力してあげてもいいよ。」
 答えながら、ルックは手近にあった本を手に取る。
 ペラペラと分厚い本のページを捲れば、古めかしい文章がページを埋め尽くしていた。
 それを斜めに読んで、ルックは薄く笑みを口元に浮かべた。
 なかなか気に入ったようである。
「それじゃ、早速行く? ルック?」
「いいよ、とりあえず君をレナンカンプに送って行って、三日後に迎えに行けばいいんだろ?」
「えー、僕の暇つぶし役として、一緒にレナンカンプに泊まろうよー。」
「お断りだね。」
 ばっさり切り捨てるように答えて、ルックは椅子から立ち上がる。
 バカな話をしている余裕があるなら、さっさと行って、用事を済ませるよ、と。
 そう言い張るルックに、スイもそうしようか、と微笑を浮かべた……ところで。
「ちょっと待てーっ!! 俺を置いて話を勝手に進めんなよっ!?
 俺は、まだ引き受けるとか言ってないだろっ!」
 シーナが、ばんばんっ、と自分が座っていた椅子を叩いて訴える。
 無言でルックとスイの二人が視線を向ければ、シーナは拳を突き上げて、断固とした態度で叫ぶ。
「だって、父親の不始末は、息子がつけるものだろ?」
「これは、オヤジの不始末じゃなくって、お前の不始末だろーがっ!」
 シーナの言葉に、えー、とスイは不満そうに頬を膨らませる。
「いいじゃん、シーナはいつも、そういう役どころなんだから。」
「いつ、誰がそんなことを決めたんだよっ! っていうか、だいたいそれは、フリックさんの役どころだろっ!」
 なんで俺なんだよっ! と叫ぶシーナに、ルックが何を言っているのか分からない、と言いたげにこう答えた。
「フリックさんが居ない時は、君の役どころだろ?」
「………………もしもーし? ちょっと、ルックさーん?」
「さ、話はおさまったね。スイ、さっさとテレポートするよ。
 僕は、君が脅迫されようと何されようと構わないけど、この本は早く読みたいんだ。」
 そうキッパリ言い切るルックに、シーナは、がーん、とショックを受けたように両頬を手の平で挟み込む。
 俺って……そういう役どころだったのか──ある意味で、フリックさんの一番弟子みたいな扱いされてたり? いやいや、そんな役どころなんてイヤだ……。
 と、ショックを受けているらしいシーナを横目で見て、ふむ、とスイは一つ頷いた。
 そして、シーナの傍へ近づくと、
「シーナ。」
 再び、甘く優しい声音で、彼の名を呼ぶ。
 その響きに、思わず、「はい」と答えそうになったシーナは、グ、と両目を閉じて、頑なにかぶりを振った。
「──なんだよ、もう俺は、お前の魅力に陥落したりなんかしねぇからな! そんなものより、オヤジを誘惑する事実のほうが、恐ろしいんだよ!」
 絶対、誘惑になんて乗ってやるものかっ! ──と、どっかりと椅子に深く腰掛けて微動だにしないシーナの隣に近づいて、スイは、肘掛けに腰を落とす。
 右手は椅子の背もたれに。
 左手はシーナの右肩に触れて──触れた瞬間、びくっ、とシーナの体が震えて振り払おうとしたが、スイはそれをやんわりと片手でとどめながら、彼の耳元に唇を近づける。
「シーナ……、ね、お願いだから。」
 ふ、と触れそうで触れない唇から零れた吐息が、耳朶を擽る。
 ぞくぞく、と、甘い感覚が皮膚の内側で揺れて、ピクン、とシーナの頬が引きつる。
「もう、シーナにしか頼めないんだ。──このままだと、僕は毎日不安で不安で……。」
 右肩に触れていた手の平が、シーナの腕を撫で下ろし、肘の辺りで止まる。
 心細そうな声に比例するように、その指先が、シーナの袖を摘むように動いて──きゅ、と、彼の腕を掴んだ。
 はかない雰囲気を前面に押し出すスイを、ルックが薄気味悪そうなものを見る目つきで見やる。
「君、脅迫状ごときで不安になるようなタマじゃないだろ?」
 何せ、解放軍時代には、送られて来た脅迫状は中味を点検された後、「勿体無いから裏紙として使おう」と使われ──同封されていたカミソリや爆弾などは、丁寧に解体されたりなどして、再利用されていた。
 あの時のスイは、むしろ、脅迫状が来るのを心待ちにしていたところはあれども、怯えることなど、1度もなかった。
 ルックのそんな突込みを、スイは思いっきりスルーして、シーナの耳元に唇を近づける。
 ふ、と息を零せば、シーナの体がビクリと震えた。
 薄く笑みを口元に広げながら、スイはことさら甘く言葉を紡ぐ。
「レパントを3日間、ここで引きとめてくれるだけでいいんだよ。
 僕がレナンカンプに居るってことを、言わないで居てくれるだけで、それだけで。」
 スイが唇を動かせば、耳朶に触れる空気が動く。
 それがくすぐったくて、シーナは首をすくめた。
 逃げようと顔を後方に下げるのを追うように、スイの唇が頬を掠める。
 ぅわっ、と声に出さずに震えれば、シーナの瞼を絹糸のようなスイの髪の毛が擽り、甘い匂いが鼻腔を擽る。
 スイが、自分の方に顔を近づけたのだと分かった。
 彼の柔らかな髪がシーナの頬に触れて、そ、と吐いたスイの吐息がシーナの唇に触れる。
「シーナのことを信頼してるから……お願いしてるんだよ?」
 ね? ──と。
 目を前に見据えれば、視界がぼやけるほど間近に飛び込んでくる……端正な面差し。
 間近で見ても綺麗な白い肌に、漆黒の髪。
 ゆぅらりと揺れる琥珀色の双眸は、ヒタリ、と彼の目を映し込んだ。
「スイ……スイ、顔、顔が近い……っ。」
 零れたシーナの声は、上ずっていて、スイはそれに的を得たというように、ひっそりとほくそえんだ。
 よし、陥落まであと十数秒もかからない。
 とにかく、「わかった」だとか、「はい」だとか言う類の言葉を一つ零させて、言質さえ取ったら、後はルックと共に早々にトンズラしたらいいのだ。
 そんな凶悪なことをチラリとも出さずに、スイはシーナの頬を指先でなぞりあげると、
「これは、シーナ? 君にしか、できないことなんだ。」
 とどめとばかりに、ね? と──小首を傾げながら、シーナの唇に触れあうほど近くで、そ、と吐息を絡める。
 その、あまりに近い距離と、鼻先に香る甘い花の香に、クラ、と頭の芯が痺れるような感覚を覚えた──まさにその瞬間。

 ドンドンドンッ!!

 部屋の扉が、今にも破壊されそうな衝撃で激しく揺れた。
 ──いや、揺れたのではない。表から叩かれたのである。
「スイ様っ! スイ様、レパントです、入りますぞっ!!」
 地獄から響くかのような低音が、響き渡った。
 鬼の襲来──もとい、レパントの襲来である。
 声は低く、まるで凄んでいるように聞こえたが、室内の人間には分かった。
「物凄く機嫌がいいようだね。」
 チラリ、と、大きく揺れた扉を見やりながら、ルックはティーカップを、かたん、とテーブルの上に置く。
 スイはシーナから顔を離して、小さく舌打ちをする。
「……ちっ、タイムオーバーだ。」
 その声に、ハッ、と正気に返ったような顔になるシーナを置き去りに、スイは無言で椅子から立ち上がったルックに近づくと、
「──ルック!」
「わかってる。」
 みなまで言わずとも、と、声に出さずに続けて、ルックは、そ、と睫を伏せた。
 その彼の隣にスイが立つのと、ルックが身のうちに膨れ上がらせた力を解放するのとが、ほぼ同時。
 その意図に気づいて、
「あっ、こら、お前ら、俺を置いて逃げる気だなっ!?」
 ガタンッ、と椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がる。
 そんなシーナを振り返り、スイはニッコリと微笑むと、ひらりと手の平を振った。
「それじゃ、シーナ。レパントのことはヨロシクね。」
「って、こらっ、待て、スイ、ルックっ!!!」
 手を伸ばそうとするシーナの目の前で、ルックが薄く微笑み──、しゅん、と。
 その二人の姿が掻き消えた。
「ああああっ!!!」
 思わず叫んだシーナの耳に、
「スイ様っ!!」
 朗らかな響きを宿したレパントの声が、バンッ、と開いた扉と共に飛び込んできた。
 ぅわっちゃー、と、シーナは隠れようにも間に合わなかった自分に気づいて、額を軽く叩いた。
 恐る恐る振り返れば、そこにはやはり──自分の実の父親が、両手一杯の花を抱えて立っていた。
「スイ様っ!? む、スイ様はどうしたっ!??」
「──よ、よーぉ、オヤジ。」
 あきらめてヒラリと手の平を振ってみるものの──顔に引きつった笑顔を浮かべてみたら──、レパントは部屋の中央にポツンと立つシーナには、視線一つくれない。
 キョロキョロと、だだっ広い室内を見回し、レパントは、む、と顔を顰める。
「つぅか、俺は無視かよ……。」
 振った手を所在なさげに落としながら、シーナはヒョイと肩を竦める。
 レパントは、カツカツと室内を横断し、厳しい顔つきでバサリと花束をテーブルの上に投げ捨てた。
「スイ様は──スイ様はどこに行かれたんだっ!」
「えーっと……って、あれ? オヤジ、なんでまた『様』ってつけてるんだよ?」
 バンッ、とルックが座っていた椅子を殴りつけるレパントに、シーナは眉を寄せた。
 解放軍時代は確かに、レパントはスイのことを「スイ様」と呼んでいた。
 しかし、トラン共和国になってからは、レパントは「スイ殿」と呼んでいたはずだ。いくら解放軍のリーダーだったとは言えど、さすがにトランの最高権力者が一介の少年を「様」付けで呼んではいけないと、そういう理由から。
 この間会ったときは、確かに「スイ殿」と呼んでいたはずなんだけどな? と小首を傾げるシーナを無視して、レパントは荒々しい足音でベッドに近づくと、天蓋のカーテンを捲り、ベッドメイキングを済ませたばかりのような綺麗なシーツを見やり、くっ、と短くうめき声をもらした。
 バッと後方を振り返れば、まるで揉めたかのように(一応)見える形で、倒れている椅子。
 それを認めた瞬間、レパントは、両手をグッと握り締め、天井に向けて吠えたけった。
「うぉおおーっ! スイ様、まさか、悪漢に攫われてしまったというのかっ!!!!」
「って、違うだろーがっ!!」
 ここで疑うべきは、スイが逃げ出したのではないかということであり、トランの中枢である場所に悪漢が入り込んだことではないだろう。
 っていうか、ルックをつれてきてくれと頼んだ時点で、疑えよ──スイが逃げようとしてるってことをさ。
 もう少し観察力と推察力を養ってくれ、オヤジ──と。
 溜息を覚えながらも突込み、シーナはやってられないとばかりに頭を軽く振った。
 そして、父が憤っているうちに逃げてしまおうと、後ろ頭を掻きつつ、出入り口に向かい始めた──ところで。
 がしっ、と、後ろ襟首をつかまれた。
「待て、シーナ。」
「ぐぇっ!」
 そのまま容赦ない力で強引に後方に引き寄せられて、シーナは大きくのけぞった。
「げほっ……ちょ、何すんだよ、親父……。」
「貴様、スイ様が攫われるところを、黙って見送ったのか……。」
 喉を押さえながら顔をあげれば、ジロリとレパントの鋭い一瞥が頭の上から降ってきた。
 その冷ややかな視線に──びくりっ、と、肩が大きく震えた。
「ちょ……お、おや、じ?」
 なんだか、物凄くイヤな予感がする。
 冷や汗が背中を伝うのを覚えながら、問いかけたシーナは、この先に待ち構えている展開を、よーく知っているような気がした。
 あぁ、そうだ。
 そういや……、あの魔王さまにたぶらかされたオヤジが、解放軍時代に辿ってきた軌跡も、まったく一緒じゃ……なかった、っけ?
 見上げたレパントからは、久しぶりに見る鬼気がユゥラリと漂っていた。
 赤い──烈火のごとき気迫だ。
「お前も共に来い! ──スイ様を、取り戻すぞっ!!!」
 ぐいっ、と腕を強く引かれて、シーナは目を白黒させる。
「って、ちょっと……え、オヤジっ!?
 取り戻すも何も、スイは攫われてねぇっつぅのっ!」
 ずるずると部屋の出口まで引きずられながら、シーナは悲鳴のように説明してみるものの、頭に血が上ったレパントは、まったくと言っていいほど聞いてはいなかった。
 そのままズルズルと引きずられながら──もう少し、現場検証とかしろよーっ! っていうか、せめて俺の話を聞いてくれっ!
 そしたら、何もかも全部、スイのたくらみも話してやるからさっ!!! ──と。
 レパントの腕を引き剥がそうとしながら叫ぶシーナの声はしかし、ギリリと眦を吊り上げるレパントの耳には、決して届くことは無かった。







 かくして、スイの策略とは全く別の次元で、魔王さまの「裏工作が終わるまで、レパントに見つからないようにする作戦」は、功をなすのである、が。
 その間、馬の耳に念仏状態のレパントが暴走しまくり、アレンやグレンシール、バレリアやシーナたちを巻き込み、大騒動を起こしてしまった、というのは──トラン共和国の裏歴史に、こっそり刻まれる『トランの英雄・誘拐事件その1』に、詳しく載ってしまうことになるのであった。
 これにより、スイの策略の裏にあったもくろみが、いとも軽く崩れ去ったのは、言うまでもなく。
 ことがすべて終わった直後、
「だから、トランの英雄バカなんていわれるんだよ、レパントはっ!」
 これじゃ、骨折り損のくたびれ儲けな気分じゃないか! ──と。
 憤るスイにより、レパントは一ヶ月もの音信不通宣言をされてしまったと言う。
 これに心底参ったレパントが、毎日のようにマクドール邸に贈り物を持って日参し──、ますますレパント大統領の「トランの英雄バカ」が国民に浸透してしまうのであった。












END


くーたろー様

 すみません……長らくお待たせいたしました。
 ぼっちゃんとレパント親子です……、ついでにルック(爆)
 天然+策士な小悪魔のぼっちゃんを書いてみた……つもりなんですけどねぇ。
 うまくそうなっているでしょうか。

 むしろ、スイバカなレパントさんだったような気がします……_| ̄|○i|||i

 シーナ+ルック+坊の悪がきコンビは書いていて楽しかったのですv






「なぁ……スイ? 俺さ、この件に関しては、ほんと、マジで報酬貰ってもいいと思うんだよな?」
「え、何言ってるんだよ、シーナ?
 君、何もしてないじゃないか。むしろ僕が迷惑料が欲しいくらいだよ。」
「したっつぅか、ものすごい勢いで巻き込まれたんだよっ!
 せめて、ちゅーくらいさせろっ!」
「ルックでよかったら、いくらでもどーぞ。」
 ぐい。
「ちょっとスイ。人が読書してるのに、邪魔しないでくれるかい?」
「なんでルックなんだよっ! ありえねぇだろっ!!!」
「何をっ! こう見えてもルックは、ツンデレ一直線で、むしろツンツンツン……デレ? っていう感じがいいと、大人の男性にモッテモテなんだぞっ!
 むしろ、僕としては、ルックにレパントの相手をしてもらうと嬉しいくらいなんだけどっ!」
「レパントさんの好みは、スイみたいなタイプなんだろ? 僕じゃ、とてもじゃないけど、見向きもしてもらえないよ。」
「ものすごい棒読みだな、ルック。」
「だから、早く顔を離してくれるかい、スイ? 僕は本を読みたいんだ。」
「ルック、その右手で光ってる紋章は、凶悪だと思います。」
「そういう君も、右手が光ってるように見えるんだけど、気のせいかい?」
「ううん、今、ちょうどレベル4を発動させようかと思ったところ。」
「そう……なら僕は、葬送の風でも……。」
「やめんかいっ!!!!」
「じゃ、やめてあげるから、シーナもキスをあきらめてね?」
「そうだね、君がそうすれば早いんだよ。」
「なんでソコに繋がるんだよっ! 俺の、ちょっとした可愛い欲望だろーがぁっ!!」



そんな不遇なシーナさんが、けっこう好きです。
 ……ってこれじゃ、フリックさん第二弾っ!

もう少し、裏っぽくすれば、良かったかなぁ;; 反省……_| ̄|○i|||i