それは、遠い昔から見つめてきた瞳。
優しい光を宿す、翠玉の宝石。
覗き込むと、いつもそこには鏡を見ている時と同じ顔が映っている。でも、鏡に映っているそれよりもずっとずっと、嬉しそうに見えた。
「ぐれみおー? 嬉しそうだよー?」
首を傾げて尋ねると、それが自分の事だと思ったのか、綺麗な双眸を持つ青年は、笑顔で少年の頬を大きな手で挟んだ。
「ぼっちゃんが側に居て下さるからですよ。」
にっこり、と笑う笑顔が眩しいくらい綺麗で、嬉しそうに見えるのは、グレミオじゃなくて、グレミオの瞳に映る自分だと──その台詞を飲み込んで、そうなの、と呟く。
グレミオの瞳は、不思議な光を宿す宝石のようで、いくら見ていても飽きない。
彼の膝の上に抱き上げられて、向かい合いながら話をするとき、だからいつも少年は、そうやって彼の瞳を覗き込んでいた。
真っ正面からまっすぐな瞳に見つめられて、少年の養い親でもある青年は、困ったように微笑むんだが、まるでお構いなしである。
何が面白いのか、真剣に自分を見詰めている少年の瞳が痛くないと言ったら嘘である。嘘ではあるけれども──それが心地良いと思うのもまた、本当なのである。
だから、ゆったりと彼の髪を弄ぶように撫でながら、グレミオは口元を緩めて彼が飽きるまで待つ。
いつも、こうやって自分を見つめているうちに、眠さに負けて、うとうとしだすのだ。だから、それまで待ってやれば、彼の痛いほど真摯な瞳から逃れることができる。
最も、それが少し寂しいと感じる自分がいることも本当なのだけれども。
「ねぇ、他の人も、こうやって嬉しそうに見えるのかな?」
グレミオの頬に手を当てて、スイが呟く。
その言葉の真意を測り兼ねながらも、グレミオはそうかもしれないですね、と答える。
「誰でも、愛しい人を見る時は、優しく……嬉しくなるものなんですよ。」
「……………………あ、そっか。」
きょとん、とスイは目を見開いて、グレミオに笑いかける。
だから、グレミオの瞳の中の自分は、愛しそうにみえるのだ。
だから、グレミオを見ている自分は、これほど嬉しそうに、優しそうにみえるのだ。
「じゃ、グレミオは、いっつも僕が嬉しそうに見えてるのかな?」
ね? と、首を傾げて見あげて来る自分の膝の上の少年に──グレミオは軽く目を見張った。
それから、ゆっくりと首を傾けて、しばらく沈黙した後……あ、と、口元に手を当てた。
「………………ぼっちゃん………………。」
「何?」
やっと分かったと言いたげに、スイが嬉しそうに脚を揺らす。その脚が、時々グレミオの腕に当たったが、青年はそんなことに構っている場合ではなかった。
「それって──あ、いえ、……いいんですけどね。」
思わず口に仕掛けたことを、ぐっ、と堪える。
スイが、どういうこと? と顔を近付けるのに、何でもないのだと、笑って見せる。
もしも口に出そうものなら、真っ赤になって恥ずかしがるに違いない。勿論それも可愛いことには違いないのだが、その後、骨が折れるほどに怒られるのは、避けておきたい。
「なんだよぉっ、何かあるって感じじゃないかっ! ねぇ、グレミオっ!」
グレミオの肩に手をかけて、揺するが、彼は笑うだけでそれ以上は答えない。
軽く唇を尖らせて、スイは上目遣いに彼を睨みあげる。しかし、青年はその様子に微笑みを零すばかりで、優しく髪を撫でる。
スイはそれに抗議を口にしようとするが、代わりに出てきたのは、大きなあくびであった。
「ふぁ……あふっ……。」
一度ゆっくりと瞬きすると、瞼が妙に熱く、重く感じた。
頬も微かに火照っているような感じがする。
「……お眠ですか、ぼっちゃん?」
小さい子供にするように、グレミオが膝を揺らして軽く揺すった。
スイは軽く首を傾げて、答える。
「そーかも……。」
いつもなら、子供扱いするなと怒る所であったが、温かな彼の体温と、優しい囁きに、心地好さが勝ってしまう。素直に頷いて、うとうとしかけた瞳を閉じる。すると、視界以外の五感が敏感になって、触れ合う肌の優しさや、鼻腔をくすぐる良い香に、口元を緩ませた。
「それじゃ、そろそろベッドに移動しましょうか。」
やれやれ、と言いたげな口調で、グレミオが呟く。
それを聞きながら、スイは何か言い掛けたように口を開いたが、すぐに閉ざして、無言で彼の首に回した手にチカラをこめた。
しっかりと抱き付いて、このまま彼が運んでくれることを期待する。もちろん、自分に甘いグレミオが、その期待を裏切ることはないのだと良く知っていた。
グレミオはしっかりとした足取りで立ち上ると、力の抜けたスイの身体を抱きしめて、柔らかなベッドへ向けて歩き出す。
昼間、日差しの元で温もりを吸ったシーツは、スイに優しい眠りを誘ってくれるはずである。
すでに眠りに入りかけた状態で、スイの身体がシーツに沈む。
その身体の上に、そっと上掛けを掛けてやりながら、グレミオはその白い額にかかった前髪を掻き上げる。そして、あらわになった額に、そっと口付ける。
「おやすみなさい、ぼっちゃん。」
ちゅ、と小さい音が立つと同時に、うっすらとスイの瞳が開いた。
夢うつつになりかけているのだろう、彼は唇に優しい微笑みを浮かべると、おやすみなさい……と、呟いた。
グレミオはそれに頷いて、もう一度愛しげに髪を撫でてから、踵を返した。
スイはうっすらとした瞳のまま、グレミオの背中を見送り、その背中が扉の外に消えるよりも先に、目を閉じた。
耳に、ドアが閉じる音が低く届いた。それを最後に、スイの意識は眠りの中へと消えていった。
思い返して、ふと気付く。
挨拶といえば……、
「そういえばー、最近全然だよねぇ……。」
首を傾げて呟いて、 彼は枕の上でひじをついた。
そのまま頬杖をつき、天井を仰いだ。
きゅ、と目を閉じて思い出してみる。しかし、やはり思い出すのは、全然ないという事実ばかりであった。
ごろん、と仰向きになると、実家などとは比べ物にならないくらい、貧相な天井が見える。
何かの染みが、顔みたいに見える染みが、天井に広がっている。ぼんやりとそれを見あげて、スイは顔をしかめた。
「…………おやすみって、言ってくれるのに。」
なのに、まるでその続きが来ない。
むぅ、と唇を尖らせて、スイは天井を睨み付ける。
「もしかして、僕ってば──そんなに魅力がないのかな?」
さらさらと、洗いざらしの髪をつまみながら、そんなことをぼやいてみる。しかし、答える声はない。当たり前である。この部屋にはスイ一人しかいなくて、一緒に部屋を取っているグレミオは、まだ風呂でゆっくりしていることだろう。どうも年を取る長風呂になるようであった。
さっさと風呂から上がったスイは、暇つぶしのようにベッドの上でゴロゴロと回ってから、うーん、と低く唸った。
「やっぱり、長い間一緒に旅してるから──倦怠期なのかなぁ?」
そして、ひょい、と起き上がって、窓の外を見た。外に広がるのは、綺麗な月であった。大きな月が、美しい夜空に映りだしている。
この月から見るに、旅に出てから……相当な月日が立っていた。二人きりで旅に出た当初は、スイが黙って考え込むことが多かったせいか、グレミオは何かとスイを構ってくれたし、甘やかしてもくれていた。
だが、それだけだった。
そう言えば、最後に一緒に寝たのはいつだっただろう? 確か、数ヶ月前に、寒いからと温めてくれただけのような──そう、ただ一緒に添い寝してくれただけのような………………。
「おおっ、びっくりな事実だよ。」
のほほんとベッドで寝転がっている暇はないようである。
慌てて起き上がったスイは、風呂に入っているグレミオの方向を見た。
呑気にグレミオに甘えていたのでは、まずい。とてもまずい。
こんなことなら、グレミオと一緒にお風呂に入っていれば良かったのだ。このまま倦怠期を放っておいて、気付いたら旅先で美人なおねーさんとか、おにーさんとか、もしかしたらごっつい男とか、可愛らしい少年とかに、グレミオを取られてしまってはたまらない。
よしっ、と、スイは近くに放っておいたままにしていたタオルを手にした。そして、そのしっとりと濡れたタオルをしっかりと握り締めて、
「さっそくグレミオと風呂に入るか!」
と、勢いのままに立ち上った。
──が、それよりも先に、風呂のドアが開いた。
「あー、良いお湯でした〜♪」
ほんのりと湯気が立っているのを見ながら、スイは小さく舌打ちした。
「なんでもう出て来るんだよ……っ。」
「……え、ええっ!? どうしたんですか、ぼっちゃ……って、ぼっちゃんっ! また髪をそんなままにしておいて……っ!」
しっとりと濡れた髪を拭きながら、グレミオが慌てて近寄って来る。
スイはタオルを再び放り出して、むっつりとしたまま彼を見あげた。
宿の人が用意してくれた、顔用のタオルを手にすると、グレミオはそれをスイの髪に被せた。
そして、自分の髪をそっちのけに、スイの髪をやんわりと拭き始める。
優しい手のひらを感じながら、スイは無言でタオルの隙間からグレミオを見あげる。
いつも白い肌が、風呂上がりのせいか、ほんのりと色づいていて、滑らかそうに見えた。触ると暖かく気持ちよさそうである。
しっとりと濡れた髪が、額や頬に張付いている。少し伏せた瞳が、潤んでいるように見えて、それが妙に色香を感じた。
──やっぱり、綺麗……だよなぁ……。
口にはしないで、スイは彼に密かに見惚れる。
グレミオが真剣な表情で、スイの髪を拭き取っている。スイが、グレミオと入れ違いに風呂から出て、大分時間が立っているはずだった。にも関わらず、スイの髪は、乾いたタオルを更にしっとりと濡れさせるのに十分な水分を持っていた。
グレミオは呆れた溜め息を飲み込んで、
「ぼっちゃん、風邪引いたら大変じゃないですか。」
「んー……。」
生返事を返して、スイはグレミオの顔を見続ける。
何度見つめても、決して飽きることのないその顔は、スイにとっては、当たり前にいつも隣に在ったものだった。けれど、そうじゃなかった時もある。
其の時のことを思い出すと、今でも心が重くなって、口が重くなって──心が、冷えるほどの寒さを覚える。
不意に、グレミオが髪を撫でている感覚が無くなって、スイは背筋が凍るような感覚を覚えた。
瞬間、がしっ……と、グレミオの腕を掴んでいた。
手のひらに、グレミオの腕の感覚が伝わる。温もりと、確かな物質の感触。
「……ぼっちゃん? どうしました?」
優しい声が、頭の上から降ってきて、スイはほんの少し安堵する。でも、それは完全に癒されることはない。
あの時の恐怖、あの時の悲しみ、あの時の──例えようもないくらいの絶望は、癒されることだけはない。
ぎゅぅ、とグレミオの腕を掴んでいるだけでは飽き足らず、スイはその腕を彼の背中へと回した。そして、力のままに抱きしめる。
グレミオはとまどいの表情を浮かべたが、彼は黙って抱きしめかえす。
スイが強く目を閉じて、グレミオの胸に頬を当てる。そこから感じ取れる鼓動をしっかりと刻むように、じっとそれに聞きこむ。
「どうも、しない。」
小さく呟く。耳に届く鼓動を消さないように、細心の注意を払うようにして。
グレミオは、そんな彼に何ともいえない表情を向けて──何も言わず、背中を叩いてやる。
彼の小さな身体に負わされた心の傷が、どれほど重いのか──グレミオは、分かっているようで分からなかったから、理解してあげられないから、だから、こうして何も言わず、受け止めてやることしか出来ない。
そんな自分に嘆息するしかないけれども。
このいとし子の痛みを思えば、そんな自分の痛みすら、「痛み」じゃない──……。
「グレミオ? ちょっといい?」
不意に、スイがそう尋ねるようにして彼を見あげたのは、大分時間が立った後であった。
闇の気配が色濃く落ちる空には、月も見えず、ただ薄明かりを照らす星があるだけになっている。月が出ている時とは異なり、辺りは暗闇に包まれていて、何も見えない。まるで窓の外は奈落の底のように見えた。
窓に近づくと、隙間から冷えた空気が流れ込んでいた。
「どうなさいました?」
優しく話し掛けながら、そっと彼の肩に手を置くと、細く華奢な肩が、ピクンと震えた。
「……あのね……もう、寝ようかなって……思って。」
なぜか、ためらうようにそう言われて、グレミオはそうですか、と答える。
「そうですね……お眠りになりますか?」
優しく、宥めるように背中を撫でられて、スイはコクンと頷く。
そして、じっ、とグレミオを見あげた。
キラキラと輝く瞳を見下ろして、グレミオは息を詰めた。
スイはそんな彼に、ぐぐっ、と顔を寄せる。あまりにも近付きすぎたその綺麗な顔に、グレミオは嫌な予感を覚えた。
「………………ぼぼぼ、ぼっちゃん…………?」
思わずどもって呼びかけたグレミオに、期待がつまった瞳を向けて、スイが頷く。
「うん。おやすみ?」
くり、と首を傾げるスイに、グレミオは彼が何を望んでいるのか、悟った。
何よりも、その見あげて来る瞳が、それを期待している。
確かに、最近おやすみのキスをしたことはなかったけれども。
「えーっと……。」
グレミオの目が空ろになるのに、スイはちょっと視線をあげて、
「ぐれみおー?」
催促するように、彼の襟元を掴んだ。
それを無視できるほど、グレミオはスイに甘くないわけじゃない。
旅に出てから、一度たりとも触れていない、スイの白い肌を見下ろして、密かに眉をしかめた。
風呂上がりのそのままの姿でいるスイは、いつものきっちりした服を着ているわけではなかった。
ゆったりとしたシャツの襟元から、くっきりと鎖骨が見える。白い肌に濃淡を描く影が、危うい感じを醸し出している。
思わず指先がうずくのを感じながら、グレミオは自分の服を掴んでいたスイの手を取る。
「……………………これじゃ……駄目、ですか?」
ちゅ、と──手の甲に、唇の優しさが落ちた。
温かで、優しい、羽根のような感触は、くすぐったくて、心地好い物であった。
グレミオは、触れた手の平の温かさに、胸がジンとうずくのを感じたが、それを無理矢理堪えて──スイを見あげる。
そこでは、愛しい少年が、恥ずかしそうに、嬉しそうに微笑んでいるはずであった。
しかし、見あげた先のスイの双眸は、優しくなかった。
「グレミオ?」
スイが、グレミオの名を低く呼んだ。 その低さは、まるで地獄の底から響いて来るようで──つい数ヶ月前まで彼が就いていた「解放軍リーダー」という存在を思い起こさせた。
びくっ、と肩を竦めたグレミオが、スイを覗き込んで、更に両肩を震わせた。背中がビシリとしなり、心が一気に凍り付いたような感じすらした。
ついでのように、じりじりと後退してしまう。
思わず覗き込んだ顔が、あまりにも「リーダー的」だったのである。
しかしスイは、そんなグレミオの態度を全くもって赦しはしない。
「…………どーして、手にだけなの?」
更にグレミオを追いつめるように、呟く──けれど、その声質が普通ではなかった。
まるで泣いているかのような声だと思い……、グレミオは慌ててスイの肩を掴んだ。
そして、低姿勢で彼を覗き込む。
見あげた綺麗な瞳が、潤み始めている。
きっと怒っているに違いないと──きっと、殺気に満ちた瞳でにらまれるに違いないと、そう思ったのに。
「ぼぼ、ぼっちゃんっ、なっ、泣かないで下さいっ!」
掴んだ拍子に、彼の瞳から涙が零れた。
「…………っ。」
スイの滑らかな頬に、透明な雫が流れる。
一度零れたそれは、そのまま止まることなく流れていく。
「や、やっぱりこれじゃいけないんですかっ!?」
オロオロと覗き込んで来るグレミオを、まともに見ることも出来ず、スイは瞳を歪めた。
「ぐ、ぐれみおは……ぐれみおは、僕のことが嫌いなんだ……っ。」
ポロポロと、涙が零れる。
スイの喉が、ヒクリと鳴った。
「そんなことあるわけないじゃないですかっ!!」
叫んで、グレミオは彼を抱きしめる。
温かな身体からは、石鹸の良い香がする。自分と同じ香だと言うのに、それはひどく優しく甘く、鼻腔をくすぐる。
──だから、抱きしめたくないのに。抱きしめたくなかったのに……彼を、この子を傷つけると、分かっていたのに。
なのに、それが余計に傷つけている。彼を、とても傷つけている。
グレミオは、小さな彼の身体を抱きしめて、その不安も、その涙も、何もかもを抱え込むように腕に力を込める。
けれども、スイはふるふるとかぶりを振る。
「だって、おやすみって……いつも、おやすみって言ってるのに──。」
ひくっ、と、スイの喉が鳴る。グレミオは、そんな彼の髪を撫でてやりながら、何と言っていいのかと、天井を仰いだ。
そんなグレミオの胸元に、スイは頬を摺り寄せた。
「でも、グレミオ……してくれないもん。」
瞬間、グレミオの動きが止まった。
頭の中で、ぐるぐると回るのは、やはり、あれ、であった。
涙声で呟くスイのしゃくりあげる小さな身体を、小さい頃のように抱きしめて、軽く揺るってやりながら、あやしてやって──どうしようと、密かに心の片隅で思う。
一緒に旅に出てから、ずっと避けていることは、グレミオ自身よく分かっていた。
それをスイが気にしているのは良く分かっていたが──、まさか、ここまで切羽詰っていたとは。
「ぼっちゃん……。」
どうしようと、密かに思いながら、グレミオはスイの背中を撫でる。
頭の中では、理性と本能と、言い訳と自分に都合の良い言葉が、ぐるぐる回っていた。
しかし、そんなグレミオの大人の考えをまるで感じ取れないまま、
「おやすみって、言ってるのに、おやすみのキス、してくれないんだもん。」
涙をそのままに、スイが彼の胸元に、頬を摺り寄せた。
昔のように甘やかしてくれるグレミオの、思いっきり甘えるように、呟く。
その呟きを聞いて、グレミオは軽く目を見張った。それから、ゆっくりと細めて──低く、呟く。
「お、おやすみのキスの方ですか……。」
途端、グレミオの頭の中から、先走っていた妄想が飛んでいった。それも、空高く。
スイは、片手で涙を拭いながら、グレミオを見あげる。
どこか虚ろに天井を見あげているグレミオの襟首を握り締め、無理矢理自分に視線をあわせた。
そして、まだ赤いままの瞳を開けて、彼の青い瞳を覗き込むと、
「……だって、ずっとしてくれてない……。」
少し恨みがましそうな表情で、そう呟いた。
「あ、いや、その──それには、ふかぁい……そう、海よりも深いわけが……っ。」
「おやすみのキスをしてくれないのに、深い理由なんてあるの?」
無かったら無かったで怒るくせに、スイは眉を絞ってグレミオに顔を近付けた。
「ありますよ。でも、今は内緒ですから。」
近付いたスイの顔を見て、グレミオは心の声を必至で隠しながら、スイの前髪を掻き上げる。現われた額に、優しく唇をおろす。
そのあと、ゆっくりとした動作で、スイの瞳を見つめた。
スイの潤んだ瞳が、少し不服そうであった。
「これだけ?」
思い返してみても、額におやすみのキスなど、遠い昔にされたきりである。それも、父やクレオ、ソニアにも同じ様なおやすみのキスをされていた時である。
グレミオとは、いつも唇であった。頬とか、瞼とか──恋人のキスとしての、「おやすみのキス」。
何を今更、親子のキスなんて、と、スイは軽く唇を尖らせてグレミオを見あげる。
「親愛のキスです。」
「駄目、やり直し。」
くい、とグレミオの襟を掴み直して、スイは軽く顎をあげた。そして、睫毛を伏せるようにして瞳を閉じた。
「……………………。」
グレミオは、無言で視線をずらした。
しかし、どうしても視界の端に映ってしまう──その綺麗な素肌も、ゆったりとしたシャツの裾から抜き出る素足も、準備万全と言いたげに待っている。
「…………私の気持ちも考えて下さいよ。」
「僕の気持ちも考えてよ。」
ぱちり、と瞳を開けて、スイがグレミオを見あげる。その綺麗な瞳は、睫毛だけがほのかに濡れていて、涙を流した後はそこにしかない。
「──おやすみのキスはね、大切な儀式だって教えてくれたのは、グレミオじゃないか。なのに、最後にしてくれたのは、いつだったっけ?」
指を突きつけて尋ねるスイの詰問口調に、グレミオは少し視線を泳がせた。
「え、えーっと……いつでしたっけ?」
「夜逃げの前の日。突入前日の夜。──なかなか寝付けない僕に、良く眠れますようにって、おまじない……。」
淡々と紡がれる言葉に、グレミオの視線が遠くにやられる。
「それから、一回も、一度も、全然、まるで、してくれない──それどころか、僕からしようとしても、なんだかんだと誤魔化してるよね……。」
よいしょ、と小さく掛け声を漏らして、スイはベッドに腰かけているグレミオの横に移動した。そして、昔のように彼の膝の上に脚をかけると、ちょこん、とそこに座った。
「ぼっちゃん……──。」
するり、とグレミオの首に腕を回して、スイは彼の鎖骨に唇を寄せる。
「ね、どうして? ──僕のこと、嫌になったの?」
グレミオの白い肌を、指先でなぞりながら、スイは囁く。
どこか暗いその口調を聞きながら、グレミオはスイの頬に手を当てた。
柔らかな頬を撫でながら、その感触を味わいながら、目元に唇を寄せる。
涙は浮かんでないのに、舌先には、しょっぱい味が残る。
「嫌いになんて、なるわけないじゃないですか──ぼっちゃんは、私の宝です、命ですよ。」
「じゃ、恋愛じゃないの?」
大切な大切な子供なのだと、グレミオはスイに囁きながら口付ける。けれどそれは、唇を避けるようにして、頬や額に落ちて来る。
それを受けながら、スイは不安そうに見あげる。
グレミオは、そんなスイに微笑みかけて、両手でスイの頬を挟んだ。
そして、優しく──羽根のような口付けを、落す。少年の、柔らかな唇へと。
「────恋愛なんて、とっくに超えてますよ。」
甘い囁きだと……理解した瞬間、優しい口付けが──途切れる。
目を見張ったスイの唇に、噛み付くように口付ける。
「ん……ん……っ、んん……っ!? グレッ……っ、ミオ……っ。」
突然のそれに、驚いたようにスイが顔を反らそうとしたが、グレミオの手のひらがそれを許さない。しっかりと固定された頬に、指先が食い込み、歯がこじ開けられる。
吐息が零れるのももったいないと言いたげに、グレミオが唇を離さない。
スイは指先に力が入らないまま、グレミオに必死でしがみつく。
膝の上に乗ったスイの力が、だんだんと抜けていくのを感じながら、グレミオは細い腰を抱きしめた。
うっすらと瞳をあけると、紅潮した頬と、細く開かれた潤んだ瞳が見えた。
切なそうに寄せられた眉を見てから、グレミオはそっと唇を離す。
とろけるような感覚に、離れた瞬間、スイの肩がカクンと落ちる。そして、そのまま全身をグレミオに預けた。
はぁ、はぁ──……と、吐息が切なく響く。
「ああ……すいません。あんまりにもぼっちゃんが可愛らしいことを言うから……。」
自分にもたれかかるスイに、優しく声をかけながら、彼を抱え直す。
しっかりと自分の膝の上に乗せて、間近にあるスイの顔を覗き込む。
赤い頬に口付けると、
「おやすみのキス……?」
と、スイが潤んだ瞳で見あげて来る。
うっすらと汗ばんだ項に、漆黒の髪が張り付いている。それを剥がしてやりながら、グレミオは微笑む。
「おやすみのキスって言うのはね、ぼっちゃん?」
「ん……?」
ちゅ、と、鎖骨に唇を落し、軽く肌を噛んでから、グレミオが意味深に笑った。
「眠る前にするもの……でしょう?」
その笑みを見て──スイは、彼が何を言いたいのか瞬時に悟り、火照った頬を更に真っ赤に染めた。
そして、グレミオの肩に置いた手に力を込めて、ぎゅ、と握った後──目を伏せて、もう一度視線をあげて……なんとも言えない表情で、囁いた。
「もしかして……ずっと、我慢──してた?」
上目遣いに見あげると、グレミオが、昼間は決して見せない綺麗で魅惑的な微笑みを浮かべていた。
「それは──今から、身を持って分かること、ですよ?」
「………………………………………………………。」
目の前で囁かれて──スイは、瞳を細めて彼を見つめる。
そして、答えの代わりに、自分の鎖骨に顔を埋めている彼の前髪を掻き上げると、むき出しになった額に、唇を落した。
「──あんまり、我慢しなくていいよ……僕の方が、辛いからさ。」
恥ずかしそうに、小さく小さく呟いて、そのままグレミオの頭を抱え込むように、抱き付く。
グレミオは少し驚いたように目を見張って、それから、くすくすと笑いながら頷いた。
「二人きりだと、歯止めが利かなくて、怖いですよ?」
「いいよ……どうせ、ずっと二人だけなんだからさ。めちゃめちゃに壊れても──グレミオが、介抱してくれるんだろ?」
「勿論? アフターケアは万全ですから。」
白い素肌に、月の光が落ちて来る。
静かな空気が流れる中で、広がるシーツの上に、怠惰に横になる。
ぐったりとした少年の身体を撫でながら、グレミオは苦笑を浮かべる。
窓の外から見える月の光を感じつつ、気を失ったままの彼を見下ろす。
涙の跡がくっきりと残っているのは、事に至る前の物ではなく、最中にさんざん泣かせてしまったためのものである。
その跡を拭い取るように指先を伝わせるが、すでに乾いたそれは、掠れた跡を残したままである。
苦笑を見せながら、グレミオはスイの涙の乾いた跡に唇を寄せた。
そして、柔らかな髪を撫で上げると、足下につんだままにしてあった掛け布団を引き寄せると、スイの身体に掛けた。
「………………ずっと二人きりって言うのが、辛いんですよねぇ……。歯止め利かないんですから、ほんと。」
傷つけたくないのに。
「無理──させちゃいましたね。」
愛しむように、スイの髪を掻き上げて、安らかな寝息を零す彼の寝顔を見つめる。
でも、結局、黙っていた方が、傷つけてしまったようで。
「身体を傷つけてしまうのと、心を傷付けてしまうのだったら──どっちのほうが、マシなのでしょうね?」
尋ねてみるけど、答える声はない。
グレミオはそんな彼をしばらく見つめていたが、やがてそっと屈み込み、スイの唇にちょん、と唇を落した。
──そうして、囁く。
「おやすみなさい──良い夢を。」
水原夏叶様
3535リクエストありがとうございました。
どうしてもグレ坊は甘くて最高のじゃないと嫌だと思いつづけ(迷惑な……)、こんなに遅くなってしまいました(^_^;)。
しかも、出来あがりはこんなのだし……さらに、実は更なる裏などがあったりとかして────たぶん近日公開。
良かったら、そっちの方もセットで持っていってくださると、ゆりかは泣いて喜びます。……もっとも、人様にあげるような品物ではないのですけど…………。
なにはともあれ、リクエストありがとうございましたv