それはいつもの昼下がりのことであった。
グレミオがリビングでくつろいでいた所に、屋敷の嫡男であり、グレミオが目下のところ、目に入れても痛くないくらいに可愛がっているスイが飛び込んできたのである。
「グレミオ、見てみて〜。」
それはそれは嬉しそうに左腕をかざすスイに、グレミオは呑気に返事をした。
「はぁい? どうしたんですか、ぼっちゃん?」
にこにこにこにこ、と笑顔を絶やすことなく尋ねたグレミオはしかし、次の刹那には身体の動きを固めた。
「ほらほら、キスマーク♪」
楽しそうにそう告げてくれたスイの言葉は、まさに衝撃であった。
「………………っ!!!!!!!!!!!!」
言葉も発せないくらいに絶句したグレミオは、震える手でスイの腕を取る。
その二の腕の内側には、確かに内出血のような跡が付いていた。
まぎれもない、キスマークである。
「ぼぼぼぼ、ぼっちゃんっ! これはっ!?」
勢い込んで尋ねたグレミオに、スイは愛らしく首を傾げて見せる。
「うん、あのね、テッドがキスマークはこうやって付けるものだって、教えてくれたんだ。」
ほらほら、綺麗についているでしょう? と、スイは微笑む。グレミオがすでに自分のひじを見ていないなどと気付かずに。
「テッド君っ! 私のぼっちゃんになんてことをっ!!」
走り去るグレミオの立てる足音と土煙にも気付かず、スイは楽しそうに続けた。
「それでね、自分でつけてみたんだけど、どう? ……──って、あれ? グレミオ??」
きょとん、と辺りを見回すが、すでにグレミオはいなかった。
スイはしばらく黙った後、無言で厨房の火にかかっていた物を覗き込んだ。そこには、おやつの準備をしていたらしい、グレミオ特製のわらび餅が煮込まれていた。
「今日はわらび餅か。どれどれ。」
指で、半透明に固まりかけたそれを掬うと、口に入れた。
粉っぽさもとれていて、後は冷やすだけなのだろう。生温いそれは、口の中で絶妙に溶ける。
「うん、いい感じ。」
スイはグレミオが走り去っただろう方角を見やって、軽く首を傾げる。
「早く作りおわってくれないかなぁ〜?」
おやつが食べれないと、呟いて。
よく冷えたわらび餅に、きな粉を用意してやったあと、グレミオがエプロンを外して椅子に腰掛ける。
それを待つ事無く、スイとテッドのワルガキコンビは互いの箸の合間をくぐるようにわらび餅取り合戦いを開始し始める。
その意地汚い二人に苦笑を覚えつつ、グレミオは、テッドとスイの腕にそれぞれ焼き付いている跡を見つめる。それはそれぞれが自分でつけたものらしい。
呆れたようにそれを眺めながら、グレミオは跳んできたきな粉を手で払いながらスイに尋ねる。
「ぼっちゃんって、キスマークの付け方、知りませんでしたっけ?」
テッドと、わらび餅の大きな塊を奪い合っていたスイは、え? と呟いて、テッドの箸を攻撃する。
行儀の悪いそれを注意してから、グレミオは同じ質問を繰り返す。
「うん、いつもポーっとしてる間に、いっぱいついてるから、わかんない。」
新たなきな粉を、自分の碗に盛り付けながら、スイが答える。その隙にテッドが、抹茶味のわらび餅を奪った。
馬鹿な攻防戦を見つめながら、そうですか、とグレミオが答える。
「いっぱいねぇ。」
にやにや笑いながら、黒蜜を抹茶わらびにかけて、テッドがスイを覗き込む。
するとスイは、それがどういう意味を持っているのかわからないのか、軽く首を傾げて、指折り数え始める。
「そう、いっぱい。えーっと、首とか、鎖骨とか、耳の裏とか、脚の付け根とか、おへそとか……あとはぁ。」
「いや、言わなくてもいいよ、んなことは。」
ふりふりと手を振ってテッドが答えると、スイはそう? と首を傾げる。
グレミオは苦笑を覚えながら、
「ぼっちゃん。キスマークの付け方を教えてもらったのなら、どうしてそこに付いているのかくらいは分かるでしょう?」
親切に教えてやった。同じ事をテオやクレオの前で言われてはたまらないからである。
するとスイは、キョトンとした後、すぐにゆでだこのように真っ赤になって、俯いた。
「う……あ、そっか、そういうことか////。」
恥ずかしそうにわらび餅をほぐし始めるスイに、意地悪くテッドが囁く。
「脚の付け根にいっぱいねぇ♪」
「あーっ!!! 口にしないでよっ、すけべっ!!」
「今更だよなー。」
慌ててきな粉を飛ばしつつ、テッドの口を塞ごうとしたスイに、行儀が悪いと、グレミオが彼の手の甲を叩いた。
「ぼっちゃん。」
「……////何、グレミオ?」
赤くなった頬を戻せないまま、スイは箸を口に咥える。これでも本当に貴族の息子かと思うくらいに行儀の悪い事である。もう一度教育し直しだろうかと思いながら、グレミオはにっこりと微笑んだ。
「それでは、今夜、グレミオにもつけてくださいね──ぼっちゃんの印。」
「え? ……ここ、今夜?」
あせったスイの台詞に、グレミオはこっくりと頷く。
テッドがきな粉を口元に付けながら、ヒューヒューと口笛を吹いた。
「昨夜もおとついもしたばっかりじゃないかっ!」
咄嗟にスイが叫ぶと、にんまりとテッドが笑う。
「お熱いねぇ、うりうり。」
そして、立ち上ったスイの腕をついついと突付いた。
スイは真っ赤になって、テッドを睨み付ける。
グレミオは頬杖をついた状態で、二人をやや冷めた目で見つめた。
「誰もしようとは言っていないんですけど……印付けて下さればいいんですけどね、でもまぁ、ぼっちゃんがそこまで言うなら。」
軽く首を傾げると、スイを覗き込むようにグレミオは微笑んだ。
「誰も言ってない、言ってないっ!!」
慌ててスイが首を振るが、グレミオもテッドも聞いてはいなかった。
「いや、若いですよね、ぼっちゃん。三日連続で五回……。」
「わーーーっ!!!」
「ほんと、おじいさんはついていけないぞ、と。」
テッドもにこにこと続けて、スイが照れ隠しにテッドを睨み付ける。
「何言ってんだよ、もうっ!」
わらび餅を食べている状態ではなくなって、グレミオは苦笑しながら、残ったそれらを片づけ始める。
パーンが戻ってきて食べるぶんと、後でスイとテッドが食べるぶんとを分けて、冷や水に付け直す。
その間も、後ろで二人は騒いでいた。
「いやぁ、俺って結構貢献してるじゃん? キューピッド?」
「絶対尻尾生えてるよね、それ。」
「その尻尾は猫又の証〜♪」
テッドが楽しそうに箸を振り回すと、にやり、と笑った。
スイはキラン、と目を輝かせると、
「ええいっ! この妖怪猫又めっ!!」
そして、そのままテッドに襲い掛かる。
「うわっ! ってぇなっ! スイっ! 危ねーだろっ! このっ!」
「やったなぁっ!」
じゃれあい始める二人に、グレミオが青筋を額に立てて怒鳴った。
「二人ともっ! 暴れるなら外に行きなさーいっ!!」
恐ろしい魔王の一声が降ってきて、二人は慌てて箸を放り出した。
「うわっ!」
「はーいっ!!」
答えて、二人は慌てて厨房から飛び出した。
そして、そのまま笑い合って廊下を走っていく。
テッドが顔を近付けて、ぼそり、と囁く。その声がとても楽しそうだ。
「お前、今夜、グレミオさんの機嫌直しとけよ? 後ですっげぇの教えてやるからよ。」
「え? 何々?? すっごいの?」
「そう、グレミオさん、喜ぶぜ♪」
テッドはやはり、尻尾のついたキューピッドなようであった。
それを知っていて、テッドから教えを請うスイもスイなのであったが。
廊下に飛び出して、仲良く駆けていく二人を見送って、グレミオは重い溜め息を零した。
「性教育も私が一からした方が良かったでしょうかね。」
そう、呟きながら。