最近、ティーカム城はバタバタしている。
 その理由は、いつものような「リオが今日も仕事をしないので、軍師が追いかけている」だとか、「軍主の姉が、今日も元気に朝錬をして、ついうっかり軍師さまを湖に突き落とした」だとか、そういうものではない。
 今回のバタバタは、正真正銘、同盟軍にとって重大なバタバタであった。
 つい最近、敵国であるハイランドの皇王、「ルカ=ブライト」が斃れた――もちろん、倒したのはこの同盟軍の軍主であり、城主でもある少年だ。
 それ自体はおめでたいことであったし、もちろん、誰もが狂皇子の死を喜んだ。
 しかし、問題が一つ――民達の知らない内側で、起きている。
 ルカ=ブライトが斃れてから今まで、一月あまり――ハイランドの動きが、一つもないのである。
 どれほど凶悪な皇王だったのだとしても、一刻の王が倒されたのだ。報復の一つがあってもおかしくはないはず――もしくは、それに対する何らかの対応が。
 しかし、ハイランドは未だに沈黙していて、何も行動を起こさない。
 それを案じたシュウやリオを初めとする幹部連が、ジョウストン各地を走り回り、情報を集めているという状態だ。
 そのおかげで、リオは現在も各地を走りまわり、あまりの忙しさに姉であるナナミは、何度も何度も「少し休憩したらどうだ」と声をかけていたが、今はその時じゃないから、ハイランドが本当に「行動」を一つも起こしてないと分かってからね、とリオは笑って交わしている。
 これはそんな中で起きた、歴史上には示されない、「ハイランドの行動」の一つを示した、出来事である。





人違いの誘拐事件 危険度MAX

1主人公:スイ=マクドール
2主人公:リオ










 その日は朝から、「女難の相」が出ていた。
 しかし、それを見て取った腐れ縁の仲であるところの美少年は、決して彼には教えなかった。なぜなら、彼にそんな相が出ているのは珍しくもなんともなかったし、そのことを親切に注進してしまったが最後、巻き込まれるのが嫌だったからである。
 かくして、ティーカム城一の美少年にして、随一を誇る顔と性格が反比例している少年は、機嫌よく前を通り過ぎていく青年を、涼しい顔をして見送ることになったのであった。
 それが、結果として自分を巻き込む大事件になるなど──この時は、チラリとも思いもせずに。






 城の二階の劇場で、目当ての少女の可憐な歌声を聞いて、ホールの階段を下りた。
 本当なら、レストランを覗いて、ウェイトレスの女の子に声をかけたり、洗濯場のミリーやヨシノと会話を楽しんだりしながら下へ降りるのも考えた。
 その通りを歩くと、一階ではお風呂上りの女性陣と出くわすこともあったし、そのまま通りに出てジーンの店に顔を覗かせることもできる──うまくいけば、誰かと昼食後のおやつを取れたりとか。
 けど、どうしてかその日は、ホールを通って表に出ようと思った。
 旧知の仲であるところのメグは、城の入口からホールへと続く通りでウロウロしているのだろうし、彼女と久しぶりに話すのもいいのではないかと、そう思ったのである。
 ──その途中、いつものように石版の前に立っていたルックに声をかけると、彼は一瞬眉を寄せたが、何も答えてはくれなかった。
 これもいつものことだ。
 別に、ここでルックに絡んで遊んでも良かったのだが、シーナは冷てぇの、と軽口を叩いて、ジュドと何か話しているらしいオウランに一瞥を忘れず……相変わらずいい体してんなぁ、など と思いながら短い階段を下りる。
 大きな鏡が置かれている前には、珍しくビッキーが立っていなかった。
 時間から考えると、メグたちとおやつでも食べているのかもしれない。
 そのままホールを出て薄暗い通路を歩きながら、キョロリとあたりを見回してみるが、やはりメグの姿は見えない。
 ビッキーが居なかった事も照らし合わせて考えると、やはりビッキーたちとティータイムと言った所なのだろう。
 こちらから城の外に出るルートを選ばず、洗濯場に立ち寄りミリーと立ち話していたら、一緒にティータイムを取る事ができていたかもしれない。そこにミリ-が居なかったら、テラスに寄ればいいだけの話だ。そして、何気ない風を装って、一緒の席に座るのだ。
 ヤレヤレと、残念な気持ちになりながらも、シーナはそのまま外に出るために足を進めた。
 まだ今日声を掛けていない少女達は居る。久しぶりに日向でノンビリするのもいい。
 前の戦争の時と違って、父親も母親も居ないこの城でならば、できることはたくさんあるのだ。
 そう思えば、口元がかすかに緩んできた。
 よしよし、と思いながら、辺りをキョロリ、と再び見回したときであった。
 出入口近くの柱の影に、見慣れない小さな人影があった。
 表でいつも遊んでいる子供が、かくれんぼか何かでここに来たのかと、そのまま何気なしに通り抜けようとした。
 けれども、ちょうど柱の隣を通り抜けた拍子に、ころん、とシーナの足元に何かが転がってきたのだ。
 思わず見下ろしたそこには、薄汚れたヌイグルミ──どこかで見たような覚えのある、可愛らしいというよりも、愛嬌のあるクマのヌイグルミだった。
 ひょい、と何の気なしに拾いあげると、慌てたように柱の影にいた少女が駆けてくる。
「………っ。」
 無言で見上げてくる顔は、幼い少女のそれ。
 ──目の前で人を殺されたショックで言葉を失った、リオとナナミが側に置く少女であった。
 シーナは無言で彼女を見下ろし、そして手にしたヌイグルミを見た。
 彼女は、必至の目でシーナを見つめている。
 このヌイグルミが少女のものであることには間違いはないようであった。
 シーナは薄汚れたクマのヌイグルミを見下ろし、ポンポン、と埃を軽くはたいてやった。
 彼女がいつごろから抱えているのか分からないヌイグルミは、しっかりと汚れが染み付いていて、それくらいでは黒ずんだ汚れが取れる事はなかった。
 ひょい、としゃがみこんだシーナを、少女は不安そうな眼差しで見上げてくる。
 シーナは、そんな彼女へ、にっこりと笑いかけると、手にしたクマを軽くおじぎさせるように頭を倒して見せた。
「こんにちは、ピリカちゃん。」
 確かナナミがそう呼んでいたはずだと思って呼びかけると、少女は軽く目を見開いて、薄く唇を開ける。
 どうやら名前は当たったらしい──女の子の記憶に関しては、例え相手が幼い子供であろうとも、しっかりしてるという事実に、ニンマリと笑みを覚えて、シーナは彼女にクマを返してやる。
 ピリカは、両手で思い切りクマを抱きしめて、ニッコリとシーナに笑って見せた。
 その幼子特有の愛らしい微笑みに、シーナもニッコリと笑い返す。
「一人でこんなところに居ても、楽しくないだろう? リオやナナミとは一緒じゃないのか?」
 しゃがみこんだまま尋ねると、彼女は顔を曇らせ、ちらり、と背後を見やった。
 出入り口に近い柱の影には、開きっぱなしの絵本が置かれている。
 それは、最近図書館に入ったばかりの絵本だった。
 確か、ナナミが入れてほしいとエミリアに頼んでいたものだ。
 腰を上げて、シーナはピリカがしゃがんでいた柱の影に移る。
 昼日中だと言うのに、出入り口に入ってすぐのこの場所は、薄暗くて本の字が読み取りにくい。
 けれど、それが何の本かは、きらびやかな装飾のなされた題名で、すぐに分かる。
「とらんのえいゆう、ね。」
 少しばかり苦笑を滲ませて、シーナはそれを拾い上げる。
 ピリカが咄嗟にシーナの服の裾を掴んで、泣きそうに顔を歪めた。
 そんな彼女へ、ぽんぽん、と頭を撫でてやると、
「こんなところで読んでると、目が悪くなるでしょーって、またナナミに怒られるぞ?
 表に行こうぜ。」
 な、と左手を差し出す。
 右手に本を抱えて、ほら、と指先を微かに動かせると、その意図を悟ったピリカは、満面の笑みを見せて、彼の指先を掴んだ。
 小さな手に、きゅ、と指先を握られて、シーナは軽く微笑みを零してみせる。
 まだ誰か一人に捕まるのは御免だって思っているけど、こういうのも、いいかもしれない。
「リオとナナミ、どーこ走り回ってるんだろーなぁ、まったく。」
 わざわざこっちへ来るというスイを放って、重要なアイテムであるところの瞬きの手鏡をビッキーに手渡してまで、どこかへ出かけなくてはいけない用事とは、一体なんだというのだろう?
 考えても思いつかないことに関しては、シーナはそれ以上考えないことにする。
 そういう考えことは、シーナの仕事ではなく、軍師様、副軍師様の仕事だからだ。
 後でアップルのところに行って、適当に聞いてこようと思いながら、ピリカと手を繋ぎながら外へ出た。
 サンサンと日差しが零れる中、適当に明るい木陰を探して、そこへピリカと共に座り込む。
 隣に彼女を座らせて、覗き込むピリカの手から零れたクマを拾うと、胡座をかいた自分の足の間にそれを置いた。
 そして、膝の上で本を開く。
 三年前、当時は赤月帝国と呼ばれていた国で起きた、凛々しくも悲しいお話だ。
 もっとも、子供向けに書かれたこの本は、凛々しいお話にしか過ぎなかったけど――悲しい話は、子供向けの英雄譚には必要ないのだ。
「たくさんの人が、命を落として行きました。」
 その一言で済む言葉じゃなかった。
 親しい人を扉の向こうで失い、愛する父をその手で殺し、最後の要であった親友を、その腕で失った。
 冷徹の仮面を被った中で泣いている子供は、その顔を誰にも見せなかったし、誰にも気づかせなかった。
 死に掛けた軍師を奮い立たせ、多くの人々を喚起し、片手を上げただけで幾千、幾万もの兵士を魅了した。
 あの熱狂は、今もこの手に、身体に――心に焼き付いている。
 あの時の「少年」は、いつも自分とふざけている少年ではない……あの時の自分もまた、一種熱狂的なまでの信者だった。
 「覇王」という名の彼に、魅了され、魂をも食らい尽くされようとした、一人の男だった。
 ページを捲る中には、ドス汚い世界も、荒くれた中で起こった喧嘩騒動も、痛いばかりの陰口も、何も無かった。
 彼のもっとも有名だった「影の通り名」など、一言も触れなかった。父と子の悲しい戦いは、あっさりと父が敗北を認めるところで終わっていた。
 一騎打ちをし、互いに深い傷を追い、致命傷を負わせた事まで――何もかもがアリアリと思い出せるのに、絵本には一言も書いては居ない。
 クレオが泣いていた。必死に声を掻き消して、両手で口元を覆っていた。ガタガタと震える脚が、今にも立って居られなさそうなのに、それでも気丈に彼女は立っていた。目から、滂沱のように涙を流しながら。
 マリーが、悲鳴をあげて倒れていた。これ以上見ているのが辛いと、彼女は途中で意識を失った。
 軍師は静かに全てを見ていた。自分の罪も、自分達が犯した事実も、何もかもをその心に抱え込むように。
 フリックが唇を噛んでいた。
 ビクトールが無表情に見据えていた。
 兵士達がヤジを飛ばしていた。
 アレンとグレンシールが、手に拳を握っていた。
 テオは本気だった。
 そして、スイは――――…………。
「………………っ。」
 不意に、くい、と袖口を引かれて我に返った。
 見下ろした先には、不思議そうな大きな瞳がある。
 つい、物思いにふけって、先を読む手が止まってしまっていたようだった。
 慌ててシーナはピリカに謝ると、再びページを捲ろうとした。
――――そして、初めて気づく。
 本の上に、木陰ではない影が、くっきりと映し出されていることに。
「……っ!?」
 咄嗟にピリカを向こうへ押し倒し、シーナは本を閉ざしてそれを手に上を振り仰いだ。
 ざざぁっ、と木の葉が音を立てる。
「誰だっ。」
 シーナは本を右手で掲げ、腰を立たせようとした。
 けれど、木の上に居る「誰か」を目が捕らえるよりも先に。
 ヒュン――……っ。
 木の後ろから、人影が走り出た。
 はっ、と彼が身構えるよりも早く。
がつっ!
 背後を取られたシーナの頭に、剣の柄が当たった。
 同時に、ばさばさっ、と木の枝から人影が飛び降り、すたん、と草木の上に降り立った。
「…………っっ。」
 芝生の上に転がったピリカは、大きく口をあけるが、声は何も出てこない。
 パクパクと口を何度か開け、それから焦ったように辺りを見回す。
 けれど、午後の気持ち良い時間は、誰もがティータイムに行っているのか、日差しを避けて昼寝でもしているのか、こう言うときに限って誰も見当たらない。
 シーナは、がくん、と地面に膝をつき、朦朧とした目を自分の膝へと向けた。
 そしてそのまま、両肩から力を抜かして、ばたんっ、と倒れてしまう。
「〜〜っ!!」
 必死でピリカは声を出そうとするが、喉はヒューヒューと音を立てるだけであった。
 彼女は唇を震わせ、シーナを取り囲む二人の男を見た。
 一人は背の高い、少し神経質そうな感のある男だ。
 もう一人は、木の上に隠れていたらしい、顔立ちの整った男である。
 どちらもピリカの知らない人であったが、どこかで見たような気がして、彼女は必死で思い出そうとする。
 けれど、霧を掴むような記憶は、スルスルと抜けていき、はっきりとは思い出せない。
 彼らは、芝生で座り込んだままのピリカには目もくれず、倒れたシーナを見下ろしている。
「本当にコイツか? なんか、聞いてた話と違うぜ?」
 つん、とシーナの肩先をブーツで突付く赤毛の男に、止めないか、と静止をしてみせるのは、シーナの頭に剣の柄を落とした男である。
「私もそう思うが、だがしかし、実際にクマのヌイグルミを持っていて、変わった武器を使い、幼い女の子と一緒に居て、ジョウストンの辺りではあんまり見かけない服装をしている。
 該当はしているぞ。」
 冷静に呟き、男は、該当するものを一つ一つ指差し示した。
 膝の上のクマのヌイグルミ。
 変わった武器というのは、先ほど掲げていた本のことである。武器がこれしかなかったため、咄嗟にシーナが掲げたのだが、それがあんまりにも様になっていたためか、男は本を武器にしているのだと疑っていないようであった。
 もっとも、ペディキュアした爪を武器にした女や、ブックエンドを武器にする女がいるくらいなのだから、絵本を武器にする成年男子が居ても不思議はないのかもしれない――この同盟軍というところは。
「まー、そうだけどさ。――別にいっか。多少間違っても、どうせ同盟軍のヤツラなんだし、人質か捕虜にくらいはなるしなー。」
 赤毛の方は、あっけらかんとして適当に大雑把なことを言ってみせる。
 そんな相棒に、軽く眉を顰めた男は、しかしそれ以上は何も言わなかった。
「それにしてもよ、もっとこう、攫うときに何かアクションとかあったほうが良かったんじゃねぇの?」
「バカを言うな。めだってどうする? 今回のコレは、仕方なく引き受けた事なんだぞ? 分かっているのか、お前は?」
「へいへい、分かってるって。ちょっと言って見ただけじゃねぇかよ。
 まー、もう少し待てば、楽しく戦闘できるんだから、いいんだけどさ。」
 軽く肩をすくめる男を睨んで一瞥し、長身の男はシーナを肩から担いだ。
 慌ててピリカが近づこうとするが、赤毛の男がさり気なく彼女の足を払い、こかしてしまう。
「わりぃな、おじょうちゃん? 俺達は、この男にちょっと用事があるんだ。
 もしかしたら、もう二度と会えないかもしれないけど、我慢してくれよ? こっちも仕事なんでな。」
 そして、すまなそうに片手を掲げると、行くぞ、と声を掛ける年上の男の後を追った。
 ヒラリ、と舞う白いコートと黒いコートに、ピリカは大きく瞳を歪めた。
 先ほどまで二人で座っていた木の下には、今の今までの痕跡は一つとして残っていなかった。
「……………………。」
 ピリカはきつく掌を握り、キッと前を睨みつけた。
 誰かに助けを呼ばなくては――そう思った瞬間、思い浮かんだのはリオとナナミの顔であった。
 浮かんだ瞬間、ピリカは走り出していた。
 二人の自室へと向かうために、さきほどシーナと一緒に出てきた城内へ、彼女は再び走り戻っていったのである。










 リオが最近バナーでナンパしてきたトランの英雄は、屈強な戦士でも、凄腕の魔法使いでも、頭の切れるような軍師タイプでもなかった。
 物語で描かれているような、ありきたりの英雄の姿とも、神話に出てくるような自由を求める戦士とも違った。
 その人が、自らの名を名乗った瞬間、誰もが思ったものだ。
 英雄の名を騙る偽物に違いあるまい、と。
 そう、解放軍のメンバーだった者達が、彼が名乗った名で、彼を当たり前のように呼ぶまでは。
 そうして同時に、解放軍に参加していた者は、やっぱり彼がそうなのか、彼に勤まったのか、と酷く驚く戦友達に、苦笑して見せるのだ。
 見た目で判断していると、痛い目を見るぞ、と。
――たとえ、華奢で、おぼっちゃんのような外見で、天然そうに見えて、憂いを持つ優しそうな普通の少年にしか見えなかろうとも。相手は、荒くれ者ばかりの解放軍を束ねた少年なのだ。
 どれほど言っても、本性を見たことのない彼らには、理解できないことなのだろうけど。
「まぁ、あいつの場合、分かってて猫被ってるからね。」
 この間、リオに連れられてきた少年が、「そういえば、見たかったって言ってたよね?」と、控えめな笑顔で差し出してくれた本を捲りながら、ルックは呟いた。
 先ほど目の前を、「女難の相」を凶悪なほどに被ったシーナが通っていってから、とりあえず先ほど見たことを忘れようと思って、出してきた本である。
 前から探していたものの、エミリアが管理する図書館にも無く、取り寄せも出来ないような貴重な本だと言われて、半ば諦めていたところだった。
 そうやってルックに本を貸している姿を見て、誰もが、少年はもしかしてルックの使い走りなのかと思ったらしい。
 そんなにおとなしいような男に見えるのか、あれが? というのが、フリックたちの感想であったが――確かにトランの英雄は、暇があれば図書室か、森の中で読書しているらしいから、他の連中から見れば、おとなしそうな少年に見えているのは確かである。
 良く考えてみれば分かることなのだが、ルックだって、図書室で本を読んだり、森の中で本を読んだりもする。
 静かな場所で本を読むからおとなしいとは、決して限らないのだ。
 外見だけで判断すると痛い目を見るというのは、ルックを知った者のほとんどが口にする台詞であったが、ルックとしては、「彼ほどその言葉が似合うヤツはいない」ということになる。
 そんなことを頭の片隅で思いながら、ページを捲っていく。
 だんだんと熱中し始めたのは、読み始めて数ページもしない頃だった。
 ちょうどそんな時間に、ビッキーがルックの目の前を駆け抜けて行った。
 嬉しそうに顔をほころばせているところと、時間から判断するに、おやつの時間なのであろう。
 今日もまた夕方くらいまで、メグやミリ-やテンガアールたちと、楽しい乙女の話に花を咲かせるのだ。
 ルックはそんな彼女を軽く一瞥して見送り、再び本へと視線を落とした。
 これでうるさいヤツも居なくなったし、十分に本へ意識を注げると、そう思った瞬間である。
 すとん、と小気味良い音を立てて、目の前に誰かが降り立ったのは。
 スラリとした影が、ルックの本の上に落ちる。
 ルックはその影と、「降り立った」という事実に、嫌な予感にかられた。
 そのため、決して頭を上げようとしなかったのだが、もちろん手すりから飛び降りてくれた少年は、そんなことを気にすることもなかった。
「や、ルック。昨日頼まれた本を持ってきたよ。」
「……………………。」
 どうして上から降って来たのだ、という当たり前の疑問は、相手がこの少年に限っては、意味がないものとなる。
 ルックは、ため息を零すと、イヤイヤながら顔をあげた。
 本当なら、目の前の人を相手に時間を潰すつもりはなかったのだが、彼の持ってくる本には魅力を感じる。
 あのレックナートの書物棚にも無いような本を、なぜか彼は当たり前のような顔で調達してくるのだ。
 やはり、世を捨てたような人間関係を送っているレックナートと、未だにさまざまな場所と縁がある家系を継いでいる少年とは、違うのかもしれない。
「そこに置いておいて。」
 短く言い切って、ルックは左手を示した。
 そこには、彼が先ほど取り出した本が数冊積まれていた。
 少年は頼みもしないのに、本を挟んだルックの隣に座り込むと、持ってきた本を隣に置いて、積んである本を手にした。
「グラスランドにおける精霊理念と紋章術の関係。
 紋章球と相性を上げるための学術的価値についての論文。
 精霊観念と魂理論の関係論1。
 ……わっかりやすー。」
 小さく呟いて、彼は手にした本をそのままもとに戻した。
 そして、くるりと身体ごとルックに向き直ると、唐突に言い放った。
「ところでルック、最新情報知ってる?」
「聞きたくない。」
 きっぱりはっきり答えて、ルックは再び本にのめりこむよう努力した。
 しかし、隣に居る少年は、この上もなく自分の神経をかき乱してくれる少年であった。
「まぁそういわないで聞いてよ。
 実はさっきさ、シーナが誘拐されてたんだよ。ハイランドに。」
 ぱふぱふと、片手を振りながら笑いながら言う言葉は、まるで、「ちょっと奥さん、聞いてくださいよー。昨日うちの旦那ったら、お風呂場で石鹸踏んですっころんじゃってねー。」なんて言うのと同レベルのような…………。
「………………あっそ。」
 おそらくは、この城内では大事件だと扱われるに違いない内容は、相手がルックであったため、反応は「お風呂で転んだ……」に対するほかの主婦の言葉よりも冷たかった。
 何事もなく、黙々と本を読みふけるルックに、
「うわぁ、ルックって人非人ー。」
 スイの口から、非難が飛んだ。
 それを言えば、楽しそうに「ハイランドにシーナが誘拐されてたよー。」なんて告げるスイも相当根性が悪いと言えるのだが、残念ながらここで突っ込んでくれるような心の清らかな人間は居なかったのである。
「万年発情男が失敗して誘拐されようと何されようと、僕の知ったことじゃない。」
 サラリと冷たく言い捨てて、ルックは新たにページを捲った。
「えー、ルック、今暇じゃないのー?」
 軽く唇を尖らせて不平に顔を歪ませるスイへ、
「たとえ暇だったとしても、そんな面倒事はごめんだね。」
 きっぱりはっきり、言い切る。
 これで話はおしまいだと、ルックは彼に背を向けた、ちょうどその時である。
 天井が高いホール一杯に響き渡るような足音が聞こえたのは。
 目を向けたくなくても、正面から入ってこられるとどうしても目が行ってしまう――そんな場所から駆けつけてきたのは、幼い少女であった。
 髪を振り乱し、足がもつれるようにして駆け込んできた彼女は、両目一杯に涙を溜めて、頬を真っ赤に染めていた。
 短い階段を駆け上がったところで、石版の前に立つルックとスイを見て、彼女は荒い息を堪えるように唇を真一文字に結んだ。
「あれ、君はナナミと一緒の部屋の――えーっと、ピリカちゃんだっけ?」
 軽く首を傾げて、石版の前に座ったまま微笑みかけてくれる少年の顔には、見覚えがあった。
 リオとナナミが最近つれてきた、何か「凄い人」らしい。
 良くリオとナナミが一緒に居るところを見ている。
 ピリカは、とっさに彼に駆け寄った。
 彼なら、リオかナナミの行方を知っているかもしれない。
「どうかしたの、慌てて。」
 優しく微笑む彼の前に立ち、隣で自分を無視しているルックの存在には極力目を向けないように――何せ、ルックは冷たくて怖い印象しかピリカには無かったので――、スイに口をパクパクする。
 身振り手ぶりを加えて、何とかしてシーナが変な二人組みに攫われたのだと伝えようとするのだが、ふんふん、と頷いているスイに、きちんと通じているかどうかも分からない。
 ただ必死に伝えるけれど、だんだんとそれが不安になってきて、ピリカは真っ赤になった鼻をクスンと鳴らし、ボロボロと泣き出してしまった。
 ひっく、としゃくりあげて、それでも何とか伝えなくてはと思うのだけど、どうしても喉は自由にならないし――と彼女がうつむいてしまったときであった。
 ぽんぽん、と頭を軽く叩く、優しい手が促したのは。
「大丈夫。分かっているから、続けて。」
 見上げた先で、スイが柔らかに微笑んでいる。
 その瞳に勇気付けられて、ピリカは再び必死に口をパクパクさせて――そこから声が出ることはなかったけど――、意思を伝えようとする。
 シーナが示す人影を両手で描き、そこへ何かを振り落とす男の振りをした殴り倒し、シーナの影を連れ去っていく男。
 そこまでを表現して、お願い、助けて、とスイに向かって口を大きく開いた。
 その一連の動作を見ていたスイは、うん、と頷く。
 そんな彼を、今の今まで関与するつもりもなかったルックが、冷たい目で見やる。
「君、本当に分かってるの?」
「もちろん。つまりピリカちゃんは、おなかが空いたから、今から狩りに行きたいと僕達を誘っているわけだね。」
「…………………………っ!!!」
 ピリカが必死で両手をブンブンさせるが、スイはそれを一瞥せずに、うんうん、とルックを促した。
「……それで、本当の所は?」
 このままだと、さぁルック、一緒に狩りに行こう! と面白そうに誘われるに違いないと決断を下したルックは、あっさりとピリカに味方した。
 ピリカは助けを求めるようにルックを見て、微かに顔を喜びに染める。
 そんなルックを嫌そうに一瞥したあと、スイは仕方がない、というように口を開いた。
「シーナとピリカちゃんが、木陰で絵本を読んでいたら、突然木の上からシードさんが、木の後ろからクルガンさんが飛び出てきて、シーナを殴って気を失わせて、攫っちゃったらしいよ。」
「…………だから、本当の所を……っ。」
 いい加減、苛立ったルックがそう声を荒げようとしたが、
「…………っ!!」
 そうだと、ピリカが喜びに顔を上下させるのを見て――彼は、相当胡乱げにスイを見上げた。
 スイはスイで、ヤレヤレといった顔をしている。
「一応、読心術をクレオから習わされてるからさ――っていうか、さっき二階から見てたし。」
 そして、ピリカには聞こえないように、そ、とネタばらしをしてくれた。
 つまりは、先ほど楽しそうにルックに語ってくれた内容は、正真正銘本当のことだったわけだ。
 ルックはそれを聞き終えると、自分には関係ないことだとばかりに本の世界へ再び戻った。
「じゃ、それ、さっさとシュウ殿か小猿にでも報告して、事態を片付けてもらえば?」
 コクコク、とピリカもそれに賛同するが、スイは軽く小首を傾げて困ったような顔をする。
「それが……リオもシュウ殿も、ついさっき、ハイランドの動向を見るためだとかで、グリンヒルへ向かったばかりなんだよ――。
 呼び戻すのは、ちょっと時間がかかるかもね。」
「――……。」
 正直な話、そのハイランドが動いたという紛れも無い事実がココにあるのだから、呼び戻すのは何も問題は無いはずなのだが、スイもルックも、二人は同時に思っていた。
 面倒だなぁ、と。
 けれど、そんなことをピリカに言うわけにも行かず、少年は泣きそうな顔をしているピリカの前にしゃがみこみ、ニッコリと笑ってやる。
「大丈夫。シーナは、ちゃんと僕が責任もって、レパントに教えて、彼に救い出してもらうから、安心して。
 さぁ、君は誘拐の目撃をしているわけだから、もしかしたら君も狙われるかもしれない――今からフリックがビクトールの部屋に行って、彼らのそばにペッタリとついているようにしなさい。そうしないと、リオもナナミも、君のことをとても心配するからね?」
 いいね? とピリカの頭を撫でると、彼女はちょっと戸惑った顔をしたが、すぐに頷いた。
 そして、もう一度スイを見上げると、少年がしっかりと自分に頷いてくれたのを見て、そのまま踵を返した。
 それを快く見送るスイへ、
「レパントさんに話したほうが、やっかいなことにならないかい?」
 面倒そうな顔でルックが尋ねるが、もちろんスイは、ニッコリと笑って答える。
「大丈夫、ちゃんとハイランドの矢文使って、レパントの寝室に突き刺すから。
 ま、飛び道具は苦手だけど、脳天に突き刺さることがないように気をつけるよ。」
 うん、と言い切るスイに、そっちの方が面倒だろうが、と言うことをルックは言わないことにする。
 どうせスイのことだから、わざわざシーナを助けに行くのも面倒だと思っているに違いないのだ。
「後はレパントが何とかしてくれると思うから、さっさとトランへ戻って――――――………………。」
 そこまで言いかけて、スイはニコヤカな笑顔を硬直させた。
 突然黙り込んだスイに、今度は何だと胡乱毛な視線を向けたルックは、少年の歪んだ顔にぶつかった。
 彼は、この上もなく嫌そうな顔で、
「………………ルック。」
 嫌そうな声で、ルックの名を呼んだ。
 正直な話、答えたくないのはヤマヤマであったが、それを許してくれない相手だったからこそ、何、とつっけんどんに答える。
「今すぐミューズに飛ぼう。」
「――――…………シーナは助けないんじゃなかったのかい?」
「まずいことになった。」
「何が。」
「…………グレミオに頼まれた香辛料…………昨日からシーナに預けておいたままだったよ。」
 別名、シーナに荷物持ちさせて、そのままだったよ。
「……………………………………………………………………じゃ、そういうことで。」
 ルックはあっさりと見限って、手にした本と、積んであった本を小脇に抱えて、そのまま石版の目から姿を消そうとした。
 が、もちろんそんなことを、スイが許してくれるはずもなかった。
 しっかりとルックの後ろ襟首を掴むと、
「まぁ、そう言うなよ。一緒にお風呂に入って、一緒の布団で寝た仲じゃーないか。」
「公共の場とザコ寝を、そういう風に語るな。」
 本気で凄みを掛けて、間近から秀麗な顔を突きつけてドスを込めて囁いた瞬間、あっさりと腕の中から本の束を奪われる。
 かと思うや否や、彼はそれを右手を掲げて――滅多なことではお目にかかれないくらい貴重な本を前にして、
「協力してくれないと、吸うよ?」
 笑顔で、ルックを脅迫した。
 ――もちろん、普段ならこんな脅迫に乗ることなどしないルックであったのだが。
「べっつにぃ? これ全部飲んじゃって、レックナート様に怒られるのは、ルックだしねー?」
 わざとらしく、次にこの本を予約している師匠の名前まで出されてしまっては。
「こっの、卑怯者……っ。」
 と、うめくしかなかった。
「おや、その言葉は、久しぶりに聞くね。」
 にんまりと笑うスイは、さ、ミューズミューズ、とルックを急かすのであった。





 さて、一方、ミューズの執権室から少し離れた場所――客室らしい部屋で、椅子にグルグル巻きにされて座らされているのは、武器に「子供の絵本19 とらんのえいゆう」を持ち、トレードマークとして愛嬌のあるクマのヌイグルミを持ち、デュナンの辺りでは見かけない服装を着た、「ジョウイの気になる人」であった。
「だーかーらーぁぁぁっ、俺はジョウイなんてしらねぇっつってんだろーっ!!」
 たとえ本人が、強固にそういい募っていようとも、攫えと命じた張本人がそう信じている限り、無駄である。
「誰でもそう言うものですのよ。――勘違いしないでくださいね? 私は別に、あなたの命を取ろうとか、脅そうとか思っているから、あなたを招いたわけではありませんのよ。」
 凛とした表情で――そこか寂しげな顔で、彼女は微笑む。
 白皙の美貌と、サラサラの漆黒の髪。いいところの貴族の姫君であることが容易に知れる身なりのいいドレス。
 どれを取っても、普段のシーナの食指が動いてしまうような美少女であった。
 特にその瞳の、凛としながらも寂しい……悲しそうな光が、目を引く。
 ソファに浅く腰掛けた彼女の両脇に立つのは、シーナを攫ってきた張本人たちだ。
 彼らは無言でシーナを見つめている。
「いや、招いたっつぅか、攫われたっつぅか。」
 相手が美少女であることと、彼女が寂しそうな表情を宿していることが、徐々にシーナから反抗する気力を失わせて行く。
 しかし、そうは言っていられない。
 戦場で幾度となく見かけた青年二人が彼女の背後に立っていることから、この女性がまぎれも無くハイランドの人間であることはわかりきっている。
 そして、聞いた名が同姓同名の間違いでさえなかったら――アップルが口にしていた、「ジョウイ」という名の新しいルカの配下であるということが簡単に予測がつくのだ。
 どれほど戦術の勉強を怠っていようとも、これほどの情報を貰えば、現状を把握することは簡単だ。
 つまり、ルカが死んだ今、ジョウイが何らかの行動に出ていて、それを探るために自分が攫われた――多分、リオかナナミかピリカ辺りと間違われて。
 ――つぅか、どうやったら俺になるわけだよ、ええ?
「年の頃はジョウイと同じ年か少し下。ピリカと言う少女を連れていて、変わった武器を持っている。」
 少女が語る内容に、いや、あのね、とシーナは突っ込みたくてしょうがなかった。
 変わった武器って、今のシーナはキリンジを持っていないが、いくらなんでも絵本を武器にすることはないです。
 ていうか、これで戦うのは、あんまりにも無謀でしょうが?
「そして、クマのヌイグルミを大事にしていて、髪は短い。」
 それは、リオの情報ではなく、ピリカの情報では?
「さぁ、一体どこが違うというのかしら? いい加減、言い逃れは止めましょう。
 ――私は、ジル。……ハイランドの第一皇女、ジル=ブライトと申します。」
 だから、言い逃れとかじゃなくって、と叫ぼうとしたシーナは、唐突に名乗った少女の名前に、呆然と言葉を止めた。
 彼女はそんなシーナが、悪あがきを止めたのだと見てとり、静かに瞳を伏せた。
 少しだけ何かを悩むような仕草をした後、少女はゆっくりと瞳をあげ、シーナをヒタ、と見据える。
「わたくしは、ジョウイを王と認める前に、確かめなくてはなりません。
 ジョウイが今も心囚われている人が、あの人を――しいては、国を揺さぶるような存在であるのかどうかを。」
 そうして――――――彼女が口にしたのは、ハイランドが沈黙を守っている現状を、思い切り揺さぶるような事実であったのである。







「ミューズって、黄金の狼が居たとかリオが言ってたっけ?」
 ねぇ? と小首を傾げるようにして見てくる救出劇の相棒に、軽く肩をすくめて答えるのはルックだった。
「さぁね? それよりも僕は、適当にこの辺の木陰で休ませてもらうから、君はさっさともぐりこんで、さっさとあのバカを連れてくれば?」
 彼は、そう言うと、さっさと近くの木の根元を自分の座る位置だと決めてしまった。
「ルックって薄情ーっ! 親友を見捨てるつもりなのーっ!?」
「誰が親友で、誰が薄情だって? そういう君こそ、ついさっきまで、思い切りシーナを見捨てるつもりだったじゃないか。」
 呆れたように言い切ったルックが、早々に開いた本を膝の上に置きながら、スイを見上げる。
 スイは腰をかがめるようにしてルックを覗き込むと、ニッコリと笑って見せた。
「やだなぁ、誰がいつそんなこと言った? 僕は、しかるべき親元へこの吉報……じゃなかった、凶報を届けて、ちゃんとしかるべき手段で、彼を救ってもらおうとしただけじゃないか。」
「それを総じて、面倒だからまとめてレパントさんに引き渡そうとした、って言うんだよ。」
「そうとも言うね。」
 うんうん、と胸の前で両腕を組んで言った後、さて、とスイは手にした棍を回した。
 見上げる先にあるのは、強固なミューズの外壁である。
 そして、しばしの無言の後、くるん、とルックを振り返って、遥かに高い外壁を指先で示して見せた。
「ということで、よろしく。」
 すちゃ、と片手を上げて笑うスイを見て、ルックは嫌そうに眉を寄せる。
 寄せてはみるが、早く、と首根っ子を捕まえて強引に立ち上がらせる。
 ささ、先生、と恭しくお辞儀をされて――ルックは、忌々しげにスイを睨んだ。
 けれど、ニコニコ笑うスイの顔に、渋々右手を上げて見せた。
「ったく……あのバカ女好き――後で覚えてろよ。」
 ぼそり、と憎憎しげに呟く言葉は、どうしてか攫われた人、シーナへと向けられるのであった。
 それを見て、
「あははは、好きにしてやってよ。僕も好きにするからー。」
 あっさりと、ルックに同意してみせるスイであった。






 椅子の拘束から解放されて、シーナは三人掛けのソファの真ん中に、チョコン、と座っていた。
 目の前には、ガラスのテーブルが置かれ、白い陶器のティーカップにはいい香のする紅茶。
 ハイランドではこう淹れますのよ、と彼女手ずから淹れてくれたお茶からは、甘い香がした。
 同じ器から淹れた紅茶を飲みながら、ジルは優雅な手つきで真ん中に置かれた焼き菓子を摘む。
 シーナはそれを見て、のんびりと紅茶を手にした。
 鼻先に近づけると、心地よい香。恐る恐る熱い紅茶に舌先を伸ばすが、特に刺激臭もなければ刺激する味もしない。
 わざわざ確認しているらしいシーナに、クスリとジルが笑った。
「何も入ってはいませんわ。今回のことが人間違いだとわかった以上、あなたに危害を加えても何もなりませんから。」
「……人違いじゃなくって、ココに攫ってきたのがリオとかナナミとかピリカだった場合は、何かする気だったんですかね?」
 紅茶のカップの中に消えた言葉は、ジルに聞こえることはなかったが、シーナの背後に付いていたシードには聞こえていたらしい。
「する気だったんじゃねぇの? 女って怖いしなー。」
 ぼそり、と答えてくれた。
 そりゃ、攫われたのが俺でよかったというか、フリックの女運の悪さが移ったのかなぁ、というのか。
 思わず零れるのはため息であった。
 たとえ人妻であろうとも、敵国の女でろうとも、可愛くて綺麗な女性には目がないのがシーナである。
 一応目の前の人も、敵国の美姫で、人妻で――そして、シーナの好みの範囲内だ。
 思い切り良くこの場を楽しみたいところであったが、背後のシードさんとか、微妙な位置に立っているクルガンさんとかが、シーナの邪魔をしてくれるのである。
 いっそ、「ジョウイ君が気にしているらしい人物」について、もっと詳しい情報をくれてやる」といって、二人きりになってやろうかと、シーナが画策したときである。
「…………失礼。」
 唐突にクルガンが踵を返し、上着の裾を翻して窓へと歩み寄る。
 見るとシードもいつのまにか剣の柄に手をやっていて、素早くジルの前へと移動していた。
 ジルは微かに眉を潜めて、クルガンとシードの顔を見つめる。
 その彼女の手にも、いつのまにか宝石のついた短刀が握られていた。
 いつの間に、と思いながら、シーナは自分の手元を見た。
 横に置かれているのは、クマのヌイグルミと本だけだ。
 無言の沈黙の後、シーナは絵本を手にしてみた。
 ちょっとかざしてみる――っていうか、こんなもん、武器になるわけじゃねぇかよ、おい。
 一人で突っ込んでみるものの、他に武器がないので、仕方なく本を構えてみる。
 そこへ、クルガンが窓際に身を隠し……唐突に、ばんっ、と窓を開いた。
 びくん、とジルの身が強張り、シードが腕に力を込める。
 シーナも絵本を構えてみる。表紙の黄金宮殿の絵が、どことなく寂しかった。
 けれど、窓の外には何も無かった。
 ただ、そよぐ風と木の葉が見えるだけだ。
「…………。」
「…………。」
 けれど、クルガンもシードも何も言わず、ただ無言で前を見据え続ける。
 窓は、相変わらず風がそよぎ、木の陰が見えるだけだ。
「……クルガン、シード……?」
 静かに、ジルが尋ねる。
 シードが、ぐ、と身体を反らせる様にして、ジルを窓から隠そうとする。
 けれども。
 ばぁんっ!!
 勢い良く開いたのは、クルガンが立つ窓ではなかった。
 一同が背を向けている、扉であったのである。
「やっぱり、突入は正面からだよねっ!!!」
 ぐっ、と拳を握って宣言するのは、意気揚揚としている少年であった。
 咄嗟にクルガンが窓の外を見やったが、ガサガサ……と音を立てる木には、何も見えない。ただ、風が当たるだけである。
 そのすぐ近くを、ゆぅらりと――赤い風船が上っていく。
 まさかこんなものに……? と、クルガンは自分がだまされたことへ舌打ちを覚えながら、再び入り口を見やった。
 入ってきた少年の白い肌が紅潮しているのは、緊張しているためでもなく、怒りに紅潮しているからでもない。
 純粋に、楽しく運動したからであろう。
 その証拠に、すぐ後ろをついてきていた少年は、グッタリと疲れたように青ざめていた。
「普通は、密かにもぐりこむものじゃないかい?」
「あっはっはっはっは。そういうのは、やる気が無いときっ!」
 きっぱり言い切ると、魔力の使いすぎではなく、純粋にここまで駆けてきたことで疲れ果てた魔法使いは、ドアに凭れると、背後を振り返った。
「スイ、また来たんだけど?」
「んー? 冥府、まだ一回も使ってないし、ここらで一発使っておく?」
 ヒラヒラと右手を振り回して尋ねるスイへ、
「やめとけ。」
 すかさずシーナが、絵本をかざしながら止めてやった。
 ルックが面倒そうに、ひらりと右手を振って、風の紋章を解放したあと、残虐な音が何度か起き……少しの間をおいて、兵士達が倒れ伏す音が聞こえた。
 それらを確認してから、スイとルックは堂々と正面から室内に侵入を果たし、かちゃん、と鍵を掛けた。
 シードがジルの身体を押し倒すように自分の方へ引き寄せ、身体を入れ替えて、スイとルックと対面する。
 クルガンは密かに右手の紋章に力を溜めているのが分かった。
 シーナはそれらを見ながら、唇を真一文字に結ぶ。
「………………っ。」
 まさかこいつら、二人で侵入してきたってわけねぇよなぁ?
 そう思うが、ルックが前線にいるという事実が、思い切りよくそれを裏付けているような気がした。
「あ、ちょっと待ってね、僕ら、別に戦いに来たわけじゃないから。」
 あっさりと片手をあげて、スイが宣告する。
 けれど、もちろんそんな言葉にシードとクルガンが剣を収めるわけもない。
 ルックは、無言でシーナの様子を認めると、
「なんだ、いい待遇してもらってるじゃないか。ここの方が、同盟軍よりもよっぽどマシなんじゃないの、君?」
 ふん、と鼻で笑う。
「あのなー……っ。」
 苦い顔をしてみせるものの、正直、助かったと思うのも確かである。
 このままココに居て、「人違い」だと理解してもらったのはいいとして、無事に帰れることは保証されていないのだ。
 もっとも、もともと同盟軍に参加したのもレパントの強引な一言から始まったのだからして、別に同盟軍に帰らなくてもいいのだろうけど――かと言って、ハイランド側でのうのうと暮らすわけにも行かないし、無事に解放してくれるわけもない。
 となると、やはり助けを待つのが一番なんだろうか、それとも、このツワモノ二人の目を盗んで逃げるかと、色々考えてはいたのだ。
 その前に、ちょーっとジルとお近づきになろうかな、と思ったのも、真実であるが。
「貰うもの貰ったら、さっさと帰るからさ。」
 ほらほら、と両手を挙げて、自分は何もしません、という振りをするスイに、ルックは無言で目を向ける。
 もちろん、そんなことを示したみたところで、正面から傷一つなくここにたどり着いた、という事実が曲がるわけでもなく――そんな状況でココまで来た二人組みを睨む将の目つきが緩むわけでもなかったが。
 スイは、まったくそんなことを気にせず。
「というわけで、シーナ。」
 ひらりん、と右手の平を上に、手を差し出すと、
「昨日預けた、香辛料、ちょーだい。」
 きっぱりと、言い切った。
「………………………………………………………………君………………シーナを助けに来たとか、言わなかった………………?」
 沈黙の後、ルックが低い声で尋ねると、スイは堂々と正面を向いたまま答えた。
「一言も言った覚えはない。」
「………………………………えー…………あのー…………スイ様、スイ様? 俺を助けにきたんじゃ……ねぇの?」
「シーナが持ってる香辛料がないと、今日の夕飯は味気ないスープになってしまうんだよ。
 これは重大事件だと思うだろう?」
 きりり、と顔つきを改めて答えるスイへ、コイツは本気だと、シーナは肩から脱力した。
 脱力したが、そんなことをしていたら、本気で自分はここへ置き去りにされてしまうのも分かっていた。
 そして多分、外からの救出で、ここまで穏便に事が進むのは、これが最初で最後なのだと、わかっていた。
 だから、香辛料を手渡す振りをして、スイとルックにしがみつき、そのままルックにテレポートをさせるとか、皆で扉の外に飛び出し、ルックの暴走魔力とスイの凶悪魔力に任せて、サクサクとミューズの外まで出ればいいだけだ。
 よし、とシーナが決める少し前に。
「何をごまかしを口にしているのかは分からないが――こちらも、彼を早く帰すわけにはいかないのでね。」
 いつのまにかクルガンが、シーナのすぐ隣に立っていた。
 はっ、と見上げた彼の手には、煌く刀身が光っている。
 そして、ジルをソファから立たせたシードもまた、抜き身の剣を持っている。
 このような室内で、しかもシーナを人質に取られている状態で、接近戦が出来るのはスイだけという状況で――勝てる可能性など、まるで無い。
「……っ、スイ、ルック! 逃げろっ!」
 咄嗟にシーナは叫んだ。
 目の前にクルガンの剣が突き出されて、ぐっ、と言葉に詰まるが、それでも二人が負けると分かっている戦いに巻き込むのは、まずいと分かっていた。
 けれども、状況が完全に不利だと分かっているだろうに、スイもルックもふてぶてしい態度は変わらず。
「だから、シーナはそのまま永久に貰っていってもいいから、シーナの持ってる香辛料が欲しいんだけど?」
 呆れたようにそう言う始末。
「そう言って、香辛料を渡す瞬間に彼を連れて行くつもりだろう? それは、少々ご遠慮願いたいからな。」
「そうそ。ジル様はまだコイツに聞くことがあるみたいだし、それに、今帰ってもらったら、うちとしてはヤバイ情報も混じってるんでね。」
「シードっ!」
 すかさずクルガンが叱咤する。
 シードは答えた様子もなく、はいはい、と軽く肩をすくめて見せた。
 それを聞きながら、シーナは自分が貰った情報? と頭を捻った。
 貰った情報といえば、ルカ=ブライトの妹が、ジョウイと言う男の親しい人――同盟軍に居る、大切な人が誰なのか知りたがっているということだけだ。そして、その親しい大事な人を攫い、ジョウイの胸の中から同盟軍には大事な人が居る、という思いを無くそうとしているのだということだ。
 話から察するに、その大事な人というのは、先ほどシーナが口にしたとおり、どう考えても「リオ」と「ナナミ」と「ピリカ」のことで、その情報が混じって変な人物像ができ、それが自分へと白羽の矢が立った理由になったわけだけど――……。
 同盟軍に遠慮なく攻撃するために、ジョウイの大事な人を同盟軍から攫おうとした? 彼の大事なものが何なのか調べる必要があった?
 それは、どうして?
――――答えは、ジルが告げた。「王と認めるために……」その一言だけだ。
「………………まさか…………な………………。」
 小さくシーナが呟いた瞬間、ルックとスイは目で語り合っていた。
 それを認めた瞬間、シーナは頭に思い浮かんだすべてが吹き飛ぶ。
 悟ったのは、ほんの一瞬。
 けれども、身体は悟るよりも早く行動していた。
 右手の大地の紋章を、考えることもなく解き放つ。
 それと同時。
「火炎陣。」
「焦土。」
 思い切り良く、しかも一番攻撃力の高い合体技を選んで、二人は揃って紋章を解放した。

どっごぉぉぉーんっ!!!!!!!

 城すべてが崩壊しなかったのが不思議なくらいの大爆発だったと、後にシーナはシミジミと語ったのだという。
「っていうか……そーだよな……こいつらが、部屋の中だとか、建物の中だってことを考えて、強烈な紋章を使わないように心がけるようなヤツじゃないってことは、俺だってよぉっく知ってたはずなんだけどなぁっ!」
 間一髪間に合った、全体魔法を防ぐ術を全力で使い切ったおかげで、なんとか術の波動は受けなくてすんだものの、部屋のそこら中から飛んできた破片までは避けれない。
 砕けたガラスだの、崩れ落ちてくる天井だのから、腕の中の少女を庇いきって、ふぅ――とシーナが顔をあげたとき、二階だったはずのその階は、見事に地上のテラスになっていた。
 上を見上げると、見事な青空が澄み渡り、左手には驚いた顔の兵士達が硬直している。
 そして、思い切り良く「魔力値高」コンビの放った合体魔法を受けたクルガンとシードは、ソファの下敷きになって、ピクピクともだえていた。
「…………おっ、まえらなぁぁぁっ!!!」
 こういうヤツだと分かってはいたが――あのタイミングで、それでもジルを庇って見せた自分は立派な紳士だと、シーナは心の奥底から思う――、キッと睨みつけた先で、ルックは涼しい顔をしている。
「ああ、風通しが良くなったね。」
「うーん、ちょっと手加減したから、残骸が綺麗に消滅しなかったね、ルック? やっぱり、もう一丁焦土かましとく?」
「やめんかっ!! てめっ、俺が大地の紋章宿してたから良かったようなものの、もしそうじゃなかったらどうするつもりだったんだっ!!」
 シーナの腕の中で、少女はグッタリと気を失っていた。
 さしもの気丈な姫君も、あの衝撃からは意識を手放さずにはいられなかったらしい。
 というか、普通の人間は、これらの惨状を見て平然としてはいられない。
 こうしてシーナが迅速に行動できるのは、解放軍時代2年間、という過去があってのことなのだ。
「だからちゃんと手加減したじゃないか。香辛料が焼けちゃったら、たまんないしね。
 それに、その女の子には、ちゃんとルックが守りの天蓋かけてただろ? シーナが掛ける前に。」
「………………だったら俺にも掛けろよ、お前らなーっ!!」
「あっさり攫われて、僕に迷惑を掛けた君が、言える身分なのかい、それは?」
 冷ややかな目でルックがシーナを一瞥する。
 思わずその台詞に、ぐっ、と詰まったシーナであるが――良く考えてみなくても、そこでそういい切るルックの性格は、最悪としか例えようが無かった。
「つぅか、手加減したのも、香辛料のためっすか。――てめぇら、最悪。」
 ゆっくりと、比較的まともな場所に少女を横にして、シーナは乱雑に詰まれた瓦礫の上にスックと立った。
 そんな彼に近づき、スイはさっさとシーナの道具袋を奪い取ると、下から彼をニヤリと見上げた。
「そんなこと言うんだ?」
 そして、くい、と辺りを顎で示してみせる。
 瓦礫の山と、倒れたシードとクルガンと、気を失ったジルと。
 山のように集まった、遠巻きに集まる兵士達と。
「…………………………………………。」
「さっさと帰るよ。」
 ルックが面倒そうな顔で、自分の足元から光を発しはじめる。
 はいはい、と軽い足取りで瓦礫を越えたスイが、その光の中に入る。
 そこになって初めて、シーナは慌てて二人に向かって叫んだ。
「待てっ! 俺が悪かったっ! 悪かったから、待ってください、ルック様、スイ様っ!!?」
 ここまで状況を悪くさせたのは、どう考えてもこの二人であったが――この現場に置き去りにされることほど、困ることはない。
 絶対、五体満足で帰れることはなく……いや、もしかしたら帰ることすら無理かもしれないのだから。
 スイとルックの二人は、意地悪げな微笑で顔を見合わせた後、
「じゃ、明日の昼ごはんは、シーナのおごりね♪」
 す、と手を差し出した。
 シーナは慌てて辺りを見回した後、テーブルの下で被害を逃れていたクマのヌイグルミを手にして、二人の下へ駆け寄った。
 そして、差し出されたスイの手をがっしりと掴むと、苦りきった笑みを見せる。
「わぁーったよ……っ。」
 ルックはその回答を確認して、瞬間移動先を思い描いた。
 アリアリと、いつもの石版の前の光景が浮かんだ瞬間、そうそう――と、スイがシーナに顔を近づける。
「あとで、ピリカちゃんに会いに行ってあげなよ。
 とても心配してたからさ。」
 まるで、楽しくてしょうがない、と言った様に笑うスイへ、シーナはさらに苦く顔をゆがめると、さんきゅ、と短く告げた。
 そうして――呪文が発動し、世界が一転する。
 目の前の光景が揺らいだ刹那、兵士達が飛び掛ってくる様が目に見えたが……次の刹那には、微かな賑わいの声がする、いつものティーカム城のホールが、広がっていたのであった。








「…………ジョウイが、同盟軍に残してきた大切な人が居る限り、あの人は…………。」
 そこで短く区切って、ジルは憂いた瞳を伏せた。
 視線の先には、美しい色を称えた紅茶だ。
 つい先日、それを差し出した青年は、迎えに来た仲間と共に逃げてしまった。
 おかげで、ハイランドの新しい皇王が立つこと、その王には同盟軍に親しい者が居るということ――その事実を、ジルが憂いているという情報が、同盟軍に漏れてしまったことになる。
 それは、憂慮すべきことだと、ジルは自分の軽率さを恥、きりり、と唇をかみ締める。
「大丈夫ですよ、ジル様。」
 そこへ、静かに笑って答えたのは、大きな窓から眼下を見下ろしていた、レオン=シルバーバーグであった。
 彼は、たっぷり結えた髭を歪ませて笑うと、
「シーナがもらしてくれたおかげで、ジョウイ殿が大切に思う人の名前はすべて分かったでしょう?
 リオ、ナナミ、ピリカ――その名前には、覚えがあります。」
「…………リオ、というのは、同盟軍の……。」
 なら、なおさらジョウイは、同盟軍と争うのを嫌がるでしょう。
 それならば、休戦条約を結び、すべてのことが無事に済めばいいが――今ここで休戦条約を持ちかければ、ルカを……兄を倒した同盟軍は、どうしてもハイランド側に不利な条約を結ぶことを前提とするだろう。
 それは、好ましいことではないのだ。
「そう……好都合でしょう? ジル様。」
「こうつ、ごう……?」
「ジョウイ様が、私の案に賛成してくだされば、すぐにでもジョウイ様のご即位の準備を進めてください、ジル様。」
「……何、を……何をするというのですか、レオン殿?」
 かたん、と音を立てて椅子が揺れた。
 無言で控えていたクルガンもシードも、眉一つ動かさずに、「第一王位継承者」である皇女を見つめる。
 今、現時点で、他の誰よりも強い権限を持つ少女を――夫を持ち、その夫に「王位」を授けることの出来る、唯一の彼女を、見つめる。
 彼女の決断こそが、このハイランドの未来を決めるのだから。
「何も、ご心配されることはないのです。
 ただ、リオ殿ならきっと、ジョウイ殿の言葉を疑うこともないと言うことです。
――そして、ジョウイどのが大切に思う人が、リオたちであるなら余計に…………同盟軍は、自らハイランドの軍門に下らざるを得なくなるのですよ。」
「………………………………。」
 わからない、とジルは小さく呟き――両手を胸の前で組み合わせた。
「私は……あの人に、辛い思いをさせたいわけでは、ないのです…………。」
 呟いた声はけれど――彼女の手の中に消えていくだけ。
「王になれば、ジョウイどのは嫌でも知ることになるでしょう。
 大切な人が敵方に居るならば、懐に引き込めばいいのだと。」
 不敵に笑うレオンは、勝利を確信しているようであった。
 ジルには、そう思えた。
――――けれども、ジョウイの優しい性格を知っているからこそ、クルガンとシードには、レオンが焦っているようにも見えた。
 彼が、冷徹な気持ちで居られるうちに……ジョウイが、リオ達に少しの躊躇いを見せてしまったら、それこそが最後であると、そう、思っているように。








「なぁーんか、あそこで聞いたような覚えがあるんだけどなぁぁ?」
 首を傾げて、シーナは皿の中のスパゲティをクルクルと回す。
 その前では、人のおごりであるのをいいことに、思い切り前菜からメインから何からと頼みまくった美少年が二人居た。
「君の脳みそは音がするからね、聞いても覚えてられないんだろ。」
「ああ、鳥っていうのは、三歩歩いたら忘れるらしいしね。」
「お前ら……そりゃ、どういう意味だ。」
 ぐさり、とスパゲティにフォークを指しつつ尋ねてやると、ルックはあっさりと答えてくれる。
「だから、忘れたんだろ?」
 そしてスイもスイで、
「鳥頭だしね、シーナ。」
「………………〜〜〜〜っ! ってめぇらなぁぁぁっ!!!」
 誰のせいで、忘れてしまうような衝撃があったと思ってるんだっ、と、テーブルを叩くが、
「ま、しょうがないか。ついうっかり、警戒心もどこかに忘れてきちゃうような、誘拐され男なんだし。」
「ああ、いい名づけだね、スイ。」
 さらり、とスイとルックからそんなことを言われては――一応、命の恩人である(命が危険にさらされそうになったのは、主に目の前の二人が暴れまくったからだが)二人を前にして、それ以上いうことは許されなかった。
 かくして、シーナは浮かした腰を元に戻し、黙々とスパゲティを平らげるのであった。
 目の前では、豪華絢爛な昼食が繰り広げられているのを、嫉みめいた目で睨みつけながら。
「あ、お姉さん、お持ち帰りで、コレとコレとコレ。あとワインも30本くらい。」
「ついでに、肉も10キロほど。」
「……って、こらまてお前らーっ! 単位が違うだろっ、単位がーっ!!!」
 レストランのテラスに響く声は、今日もとっても元気でありましたとさ。











和平会談の話が来るまで、あと数日。










50000ヒットリクエストありがとうございます!
第一作目、幻想2舞台で、坊とシーナとルックのお話、シーナ誘拐され話です。
誘拐される相手とか、誘拐された後とか、レパントさんとか、色々悩んだのですが、結局こういう感じになりました。
ハイランド側の方々は、なんだかシリアスですが、設定がそういう時期なので、シリアスなのです。
ちなみに、たとえ「こう」でも、ぼっちゃんはまだ性格破綻者(笑)であることが、同盟軍側にはばれてません(大笑)。

というわけで、少しでもこの三人の漫才と関係を楽しんでいただけたら、と思います。
二作目も、待ってて下さいね…………(汗)