約束











 春、である。
 城下でも有名な、一際大きな屋敷では、今年も満開とばかりに花が咲き乱れている――まさに疑うことない春であった。
 花将軍と呼ばれるミルイヒ=オッペンハイマーの館がよく見える、大きな窓から外を眺めていると、桜色の大きな木がよく見えた。
 派手でゴージャスな物が好きなミルイヒには珍しい、可憐な花を咲かせる木であった。
 確かそれは、今はなき皇帝妃である人が好きだった花だったとか……。
 そんなことを思いながら、遠くに見えるひらひらと舞う花を見つめて、少年はらしくもなくため息を吐いた。
 憂いに満ちた吐息を感じた瞬間、室内にどよめきが走った。
 冬から春へと変わるこの季節、この少年がおとなしいことなどあるはずがないのである。何せ、みんなが吐息を吐くような季節であろうとも、食欲の秋だの、運動の秋だの、文化芸術に炎はつきものだのと、活発に動き回っているのだから。
 その彼が、らしくもなくため息をついて、窓の桟に頬杖をついている。それだけで、この屋敷は一大事であった。
 テーブルに着いていた屋敷の住民へ、お茶を供していた青年は、らしくもなく、がしゃん、とカップの音を立てた。その直後、
「どどどどど、どーしたんですかっ、ぼっちゃんっ!?」
 持っていたお盆をつかんだまま、窓辺に立ち尽くす少年めがけて走りよった。
 そして、そのままの動きで養い子の肩をグワシッと掴むと、
「何があったんですかっ!? テオさまに仕掛けたいたずらがうまくいかないのですかっ!? それとも、新しい悪戯の方法が思いつかないスランプなのですかっ!?」
「……そんなんじゃないよ。」
 かくかくと頭まで揺さぶられるのに、舌を噛まないように気をつけながら、ぼそり、と呟く。
 答えを聞いた瞬間、室内にいたすべての者が席を立った。
「それじゃないっ!?」
「ってことは、坊ちゃんっ!? まさかお風邪でも召したのですかっ!?」
「――スイは花粉症だったか、グレミオ?」
 大げさに驚いたパーンが、テーブルを大きく揺らす。その拍子に彼が食べていたお茶請がこぼれたが、珍しくそれすらも気にならないようであった。
 クレオも慌てた様子で立ち上がり、風邪薬を取りに行こうとする。が、それをとどめるようにテオが確認の視線をグレミオに送った。
 グレミオは当惑したように、
「そんなことはないと――思いますけど? ねぇ、ぼっちゃん?」
 スイを見下ろした。
 スイが風邪を引いているなら、いつも彼を見ている自分が気づかぬはずはないと、そう言いたいのは山々なのだが、事実スイがこうしてため息を吐いている原因がわからない。
「なんでもないよ……。風邪ひいたわけでもないし、気分が悪いわけじゃない――もちろん、悪戯が思いつかないわけでもないからね。」
 答えて、スイは憂鬱げに背後を振り返った。
 父と居候たちは、それでも不安そうな眼差しを彼に向けている。
 この子がこれほど重いため息をつくのは、絶対何かあるはずだと、そう信じて疑っていない瞳である。
 スイはそんな一同に、あからさまにため息を零すと、もう一度窓から外を見て――、遠くに見える霞むような桜色を見つめた。
「ただ、つまんないだけだよ……せっかく、桜が咲いたら、花見をしようって約束してたのに、さ。」
「あー……そういえば、テッド君――墓参りから戻ってませんでしたっけ。」
 いつもなら、ここですかさず突っ込みが入る人が一人少ない。
 その事実に気づいて、彼がいないことで、さびしいのかと、やっと一同は認識した。
 そして、安心したようにテーブルに着き直す。
「それにしても、テッド君も、墓参りだの、命日だのが多いなぁ。」
 安心ついでに、喉の渇きを覚えたパーンが、ぐぐっ、とお茶をあおった。
「それは私のだよっ! ……ったく、全部飲んじゃって――グレミオ、お代わり。」
 すかさずクレオが彼からカップを取り上げて、それを逆さまにする。しかし、一滴たりとも落ちてくることはなかった。
 無言でそれを見やったクレオは、洗ってきてね、と一言付け加えて、立ったままのグレミオにカップを渡した。
 おとなしく受け取り――グレミオは再びスイを見る。スイはまた窓から外を眺めて、ため息を吐いていた。
「もう桜……終わっちゃうよなぁ――。」
 はぁぁ、とため息を吐いて、スイは桟に頬を当てた。
 赤月帝国以外の場所まで墓参りに行くと、そう言っていた。あそこは、自分以外の者は知らないから、俺が行かなくちゃ誰も手入れしてくれないしと。――スイが見たこともないくらいの、さびしそうでつらそうな顔だった。
 スイは瞳を細めて、散っていく花を見つめる。ひらひらとゆれる桜色の花びらが、風に乗っている光景が遠目にも確認できた。
「――お墓参りならしょうがないでしょう? また来年もありますよ。」
 ね? と、グレミオが肩を叩いた。
 しかし、グレミオを振り返ったスイの視線は、ジト目であった。
「墓参りって、毎年するもんじゃないの、普通?」
「う……。」
「命日って、毎年あるんじゃないの?」
「………………………………。」
 これ以上答える言葉をもたず、グレミオは助けを求めるようにテオを振り返った。
 テオは苦笑を見せながら、カップを傾ける。
「そうだな――満開の桜は見えないだろうが……いや、スイ、間に合うかもしれんぞ。」
 スイの視線を追って、窓の外に目を向けたテオが、不意に口元を緩ませる。
 たずねるような視線が、テオに集中する。
 それを満足げに受け取りながら、テオはにやり、と笑った。










 見えてきた黄金宮殿を、瞳を細めて見つめながら、テッドは被っていたフードを払った。
 ぱさぱさ、と乾いた音を立てて、髪が乱れ、いつのまにか侵入していたらしい砂粒がこぼれた。
 その砂を見ながら、テッドは軽く瞳を細めた。
「……昨日水浴びしたのにな……。」
 今日中には帝都につくだろうから、せめてまともな格好にならなくてはと、そう思って――ちゃんと水を浴びたというのに、まだ髪に砂漠越えの後が残っていたようであった。
 かりかり、と頭を掻くと、更にぱらぱらと砂がこぼれた。
 一瞬息を詰まらせて、担いでいた荷物を地面に置くと、彼は両手で髪をかきむしった。
 ばさばさばさっ、と音が立ち、目の前を砂がこぼれていく。
「…………だーっ!! なんでそんなに……っ!」
 ったく、と身に付けていたマントから砂を払っていたテッドは、ふと気づいた。
 マントそのものに、砂がこびりついていることに。
 しばしの沈黙のあと、テッドはマントを脱いだ。そして、ばさっ、と大きく振る。とたん、ばらばらばらっ、とたくさんの砂が路面にこぼれた。
「――――――あー……そーいや、こっちは洗ってなかったなぁ……。」
 マントを広げると、まだ細かい粒子がついているのが見えた。
 これでは、まともな旅費もなく旅行したように映る。――もっとも、それは正しいことなのだろうけど。
 テッドは、無言で右手袋についた砂を払うと、瞳を細めた。視線は砂が落ちた地面に落とされているが、そこを見ているわけじゃない。
 知らず左手が右手を握る。力が入るのは、きっと墓参りの帰りだからだろう――もう誰もいない、人知れず寂れていく村の。
 テッドは小さく吐息づくと、足で路面に落ちた砂を蹴り払うと、荷物を担ぎなおした。
 そして、今背中に背負ってきた感傷を振り払うかのように、一度かぶりを振る。正面を見やると、遠くに木々に囲まれた黄金の宮殿が見えた。
 もう少しでたどり着く。そうしたら、やさしい「家族」が迎えてくれるだろう。
「…………本当は、帰ってこないほうが良かったんだろうな――。」
 あいつらまで、墓の下に行かせたいわけじゃない。あの人たちまで、自分の犠牲にしたいわけじゃない。
 特に、あのまだ幼い親友は。
 思い出すのは、この小さな旅の間に何度か思い出した親友の顔。出かけるのだと、旅支度していた自分に向かって、「約束だからねっ!」と指を突きつけて叫んだ彼の顔。
 ――失いたくないのだと、強く思うその人の、姿。
「なんで戻ってきたんだろ、俺。」
 ぼやいて、テッドは今来た道を振り返る。長い道を引き返せば、親友との永遠の決別をすることだってできる。それは同時に、「花見をしようね」という彼との約束を破ることになる。でも、今までだって、約束を破って行方をくらませたことはあった。数え切れないくらい――いろんな人との約束を破ってきた。
 やさしくしてくれた人、愛してくれた人――でも、彼らを、彼女たちを失わないために、自ら行方をくらませた。約束も、お願いも、何もかもを振り払って。
 痛い思い出だったけど、いつまでも年を取らない自分を、いつ彼らを食ってしまうかわからない自分を、大切な彼らのそばに置いておくわけには行かなかったのだ。
 そうまでしても、結局は、彼らを食ってしまった……そういうことも、あった。
 テッドは、右手を胸にあてた。それはいつからだったか、癖になったしぐさ。犠牲者たちを思い浮かべるときに、彼がする仕草だった。
 心を示すように、右手で胸元を握る。手の甲が、ちりちりと熱くうずいた気がした。
 長い道が、山へと向かっている。あの山を越えれば、その先はジョウストン都市同盟だ。この赤月帝国とは敵対関係にある場所。あそこに行けば、スイたちとは二度と会わないだろう。後は、彼が生きているだろう年月――そう、ほんの60年くらいの間ここに来なければいいのだ。たったそれだけのことなのだ。
――それだけ? 本当に?
 つきん、と胸に走った痛みを、無視することもできた。
 でも、どうしてかそれはどんどん痛みを増していって、しまいにはずきずきと音を立て始める。
 痛みがこらえられなくて、テッドは胸を握り締める。痛いくらいに爪を立てても、胸の中から訴える痛みは消えない。
「すぐ……痛くなくなる。いつもと同じだ。このまま帰らないで、どっか遠くに行って――そうしたら、そうしたら………………。」  「忘れるから」
 その一言が、言えない。
 唇がこわばって、震える。
 爪を立てた胸が、痛い。息が詰まるようで、息苦しさを覚えた。
 眩暈まで感じて、テッドは目を閉じた。無言で空を仰ぐ。
 かすかな風――ぬくもりのある風が頬を掠めた。
「……たまんねぇ……いつのまに、俺、こんな……――。」
 息を詰まらせて、テッドはきつく目を閉じる。そうでもしないと、何かがあふれてくるようだった。
「もう……間に合わないのか?」
 もう、手遅れなのか?
 右手を胸から離して、静かに呟く。答える声がないのは、あたりまえだったけど。
「――それも、いつもの、こと……だよな。」
 答える声は、いつも自分のうちにあるから。
 今度こそはと、いつもそう思うのに、いつもそれが叶わない。
 今のうちにと、そう思うのに、いつもそれができない。
 それは、いつものことなのだ。
 そして結局後悔する。あの時、俺がいなくなっていれば、と。
 いつもいつも、そうやって後悔する。成長しないのを不思議がられるまでは、もしくは何かの前兆が現れるまでは、って。
 テッドは路面の真中に立ち尽くして、前方と後方とを振り返る。まるで天秤にかけているかのようであった。
「――――…………俺って、結構わがまま、だよな。」
 何もかもを諦めたつもりだったのに。
 テッドは、苦笑を刻んでくるり、と踵を返した――帝都の方角にと。
「約束くらい守ってやらねぇと、スイのやつ、怒るからな。」
 それは、言い訳にすぎない。そんなこと、ほかの誰でもないテッドが一番良くわかっていた。
 砂のついたマントを翻して、身に付ける。
 ぱさぱさ、と再び落ちた砂に眉をひそめて、グレミオさんに悪いな、とぼやく。
 そうやってぼやけることが、どこかうれしくて、口元が緩んだ。
「ほんっと、自分勝手だよな、俺って♪」
 また今回も、後悔するかもしれない。
 そういつもいつも思うのに、あともう少しと、いつも思うのだ。
 今回も、それといっしょ。
 テッドは街道を歩き出す。あと少し歩けば、スイと良く遊んだ丘に出る。
 そこからは、黄金宮殿が良く見えて、夕日に映える宮殿の美しさもまた一際で。
 ゆったりとした歩みが早足に変わり、気づいたから駆けていた。
 丘の先が見えて、息が弾む。
 マントが後方ではためき、髪が風を切る。
 そうして。
「………………………………。」
 歩みを、止めた。
 丘の上に、木が立っている。
 葉がまばらに生えた木だ。
 出かける前には、つぼみしか宿していなかった木だったのに、今は地面に桜色の絨毯を広げ、頭上では若葉が映える。
 木下へ、歩みより、テッドは無言で手を当てた。そのあと、宮殿を見つめる。
「終わっちゃったか……桜。」
 約束、したのにな。
 呟いて、テッドは葉桜を見上げる。
 向こうはまだつぼみだったから、気づかなかった。
 こっちはもう、その季節は終わってしまったのだと。
 スイの怒ったような、悲しそうな顔が容易に想像できて、テッドは軽く顔をしかめる。
 きっと最低でも一ヶ月はこれをネタにいびられつづけるのだろう。
 こりこり、と額を掻いて、荷物を担ぎなおす。
「それでも、帰りたいって思ってるあたり、重症かも。」
 きっと、心優しいグレミオさんがかばってくれるだろうと、数少ない可能性にかけ、テオが早々に遠征に出かけないことを祈りつつ、テッドは最後の帰路についた。
「今夜の夕飯は、シチューかな♪」
 足取りも……軽く。









 だんっっ! と、久しぶりの門の前に立ちふさがり、テッドは仁王立ちしてみた。
 帝都の門をくぐった瞬間に、ダッシュで自宅に向かい、荷物を置いてくる時間ももったいないとばかりに、テオ=マクドールの屋敷にやってきたのである。
 閉ざされた門はいつもと同じ様子で、静寂に満ちていた。しかし、ひとたび門を開ければ、中は悪戯の倉庫であり、すざまじいばかりの轟音のごときうるささがあたりを覆っているのである。
 墓参りに向かう前は、この門をくぐるのが楽しみで楽しみでしょうがなかった。朝ご飯を食べた後は、親友と一緒に遊びに出かけ――時折クレオに勉強を学んだり、グレミオの手伝いをしたりするのである。
 そして昼ご飯を食べに戻り、おやつ、夕飯――一日のほとんどはこの屋敷で過ごした。テオに用意してもらった自宅に帰るのは、寝に帰るだけに等しい。
 その懐かしい……もうひとつの自宅であるかのような立派な屋敷を見上げて、テッドは瞳を細める。
 そして、ゆっくりと門を開く。
 きしむ音ひとつ立てずに、ゆっくりと開く。
 懐かしむように、手入れのされた庭を見ながら中へ踏み入れる。
 また戻ってきたことに喜びを浮かべながら、テッドはゆっくりと玄関へ向かった。そして、いつものように叩いた。
 が、しかし、そういつもと違ったのは、そう待たずしてもやってくるグレミオの存在がいなかったことである。
 誰かいないときは、門の扉もしっかり閉めてあるはずである。ということは、誰かいるはずなのだが――と、テッドは再び扉を叩く。けれど、どれほど待っても応答はなかった。
「……?? グレミオさーん、テッドだけどー。」
 おーい、と呼びかけてみる。もしかしたら、何かあったのかもしれないと考えてみたのだが、それでも答える声はなかった。
 どうしたんだろうと、テッドが首をひねったその瞬間である。
「遅いお帰りで。」
 不意に、背後から声がかかったのは。
 びっくぅっ! と肩が震えてしまったのは、声の主が主であったからに他ならない。
 慌てて振り返ったその先には、案の定スイがたっていた。肩から荷物を下げて、腕を組んでいる。
 先ほどテッドが開け放した門をきっちりと閉めて、彼は整った顔に微笑を浮かべていた。
 その笑みは、グレミオ言わせるところの天使の微笑みであり、テッド思うところの、悪魔の微笑みであった。
 とっさにそんなスイを見つけた瞬間、
「すいません、スイさま。」
 テッドは深々とお辞儀をした。
 とっさに出た言葉であったが、きっとそれは正しい選択であったのだろう。
 スイは無言でそのつむじを見つめると、あからさまなため息を零した。
「ミルイヒさまの屋敷の桜、もう落ちちゃったよ。」
 呟かれた一言に、頭を下げながら、あちゃぁ、とテッドは顔をゆがめる。
 桜を見に行こうと約束した丘の桜が、きれいに落ちていたから、おそらくそうだろうとは思ったし、スイにもそのことで責められるとはわかっていたけど――口にして言われると、参った。
「丘の上の桜も、葉桜だったよ。」
 続けて、スイは呟く。
 うっ、とテッドは言葉に詰まった。
 そして、慌てて顔をあげる。きっとスイは、不機嫌極まりない表情をしているに違いないのだから。
 が、しかし、正面から見たスイの口元は、微笑んでいた。
「……れ?」
 想像では、怒っているはずであった。けれど、この表情はどう見ても笑顔である。悪魔の微笑というよりは、本物の笑顔である。
「……? なんだよ、怒ってんじゃねぇのか?」
 絶対に怒ってるに違いないって――そう思ったからこそ、急いできたというのに。
 不思議そうに眉を寄せるテッドに、スイは軽く肩をすくめて見せる。
「怒ってるけど、しょうがないだろ、こういうことはさ。」
 まるで、帰ってきただけで十分だと――そう言われているようで、ぎくり、とテッドは肩をこわばらせる。
 まさか先ほどのことを見られていたわけではないと思うのだが……。
 どぎまぎする心臓に言い聞かせながらも、なんにしても、許してもらえてよかったよと、笑う。
 そんなテッドに笑いかけながら、スイが荷物を担ぎなおして意味深に呟いた。
「それに――まだ約束が破られたわけじゃないし、ね。」
「は?」
 何のことだと、いぶかしむテッドに笑いかけて、スイはこっちだよ、と中庭を指差す。
「中には誰もいないよ。だから、ドアを叩いても無駄だよ。」
 そして、先に立って歩き出す。
 テッドはきょとんと目を見張ったが、すぐに視線を転じてスイの後をついていく。
 先ほどスイはどこかに出かけるような姿だった。ということは、家族そろってお出かけの帰りだということも考えられる。
 中庭を通って裏に回ると、そこには厨があるはずだし――ということは、テオさまもクレオさんもパーンさんもグレミオさんも……そこにいるということか。
 スイがすたすたと先に歩いていくのを追いかけると、いつも洗濯物がはためいている中庭が静かなのに気づく。今日は何も干していないので、はためく音もしないのである。
 きれいに整えられた植木の隣を駆け抜け、中庭を駆け抜け、スイは厨向けて走る。
 どうやら帰ってきたのにちょうどぶつかったってとこか、とテッドは推測した。
 ということは、角を曲がったところにある厨に、馬をつないだり、馬車を片付けたりしているはずだ。スイだけが先に戻ってきたと推測するのが一番だ。
「ってことは、どーせ、俺との約束反故にされてすねてるスイの機嫌取りのための、お出かけってとこか?」
 後でテオさまやグレミオさんたちに、謝っておかないとな――と、手土産のひとつも買って帰ってこなかったことを後悔したその瞬間である。
「戻ったか、テッド。」
 静かな声が、上から降ってきたのは。
 はた、と我に返り見上げた先に、長い馬面があった。
 歩いていた足を止めて、じりり、と後退したテッドは、すぐに視界に映ったスイとテオの姿を認めた。
 厨の前に、馬車が一台止まっていたのだ。ちょうどテッドは、その馬車の馬とご対面していたということである。
 スイは馬の隣に立って、御者席についているテオを見上げていた。スイの視線を追うようにして、テオの姿を認めたテッドは、慌てて顔をあげた。
「あ、え、あ、はい……た、ただいま戻りました。」
 はるか頭上に見える御者席に座るテオに、軽く頭をさげる。
 テオは瞳を細めるようにして、無事でよかったと笑う。
「あまりにも遅いから、何かあったのではないかと思ったぞ。」
 言いながら、彼はヒラリ、と御者席から降りた。
 トン、と軽やかに地面に足をつける様子は、近所のお姉さんであるところのソニアさまがごらんになったら、きっと見とれること間違いなしである。
「雪がひどかったので、途中で街道封鎖に遭ってしまいまして。」
 かりかり、と頭を掻きながら答えると、テオが頷く。
「北の方は、雪がひどいからな。だが、無事に帰って来れて何よりだ。」
 にこやかに旅の無事を喜んでくれるテオに、テッドは照れたように笑った。
 テオは、馬車につながれたままの馬の背を撫でると、手綱の具合を確認するように軽くしならせた。
「はい。思ったよりも長くなりましたけど――テオさまにもご迷惑をかけちゃったみたいで。」
 まさか本人を目の前にして、スイのご機嫌取りをありがとうございます、などと言えるはずがない。テッドは言葉を濁すようにしてスイを一瞥する。
 テオはその彼の意図を汲んで、優しい笑みを見せた。
「そうでもない。ミルイヒが気を利かせてくれて、いろいろ調べてくれたことだしな。」
 あたりまえのように呟いたテオの言葉の意味を図りかねて、テッドが眉を寄せる。その彼の肩を叩いて、スイが馬車本体を指差す。
「さ、テッドも手伝ってよ。急いでるんだから。」
 ほら、早くっ。と、せかし始める。
「あん? っだよ、俺、自分の荷物すら片付けてないんだぜ?」
 言いながらも、どうせついでだと、テッドはスイの後に続いた。
 スイは開け放たれた馬車のドアを乱暴に閉めて、裏まで回った。そして、荷物入れを開けた。
 スイの背後から覗いたテッドは、荷物入れを見た瞬間――動きを止めた。
 たっぷり入る荷物入れの中は、空っぽだったのである。
「……おい?」
 いったい何を手伝えというのだ?
 疑問の視線を向けたテッドがスイを見下ろすと、さっさっ、と荷物入れに積もっていた埃を払うと、よし、と腰に手を当てる。そして、キリリ、と顔を引き締めると、
「父上っ! 荷物はオッケーだよっ!」
 いつのまにか馬車の車輪の具合を確認していたテオ向けて、叫ぶ。
 テオはゆっくりと顔を上げると、大きく頷く。
「クレオとパーンが用意してくれてあるはずだ。運んでもらってくれ。」
「はーいっ!」
 テオの言葉に頷き、スイはテッドの手を取って、早く、と促す。
 テッドは何が何だか――という表情のまま、スイに連れられていく。
 屋敷の裏口に回ると、そこでは大きな木箱を三つくらい担いだパーンがいた。
「おっ、テッド君、今帰ったのか?」
 重そうな木箱を、軽々と抱えたパーンに軽く頭を下げると、彼はスイに向かった。
「ぼっちゃん、もう運んでいいんですか?」
「うん、テッドが戻ってきたしね。」
 スイが明るく笑うのを合図に、パーンも足取りも軽く木箱を馬車の方角向けて運んでいく。
 テッドはそれを視線で見送って――スイを改めて見た。
「もしかして……帰ってきたとこじゃなくて、今から出かけるとこか?」
 すると、スイはマジマジとテッドを見つめると、首をかしげる。
「……言ってなかったっけ?」
「聞いてねぇよ。」
 即答すると、しばらくスイの視線が中をさまよって、あ、と思い当たるものがあったかのように視線をとめた。
「そういえば、言ってないや。テッドを待ってたんだよ、僕たち。」
「――良くわかったな、俺が今日帰ってくるって。」
 確か、手紙と自分と、どっちが先につくか分からない状況だったから、手紙すら出していなかったのだ。
 にもかかわらず、自分を待ってたって――?
「あー、だってほら、テッドの服に発信機つけてるしv」
 瞳を細めて笑うスイに、
「えっ!?」
 あせったようにテッドが服を探り始めるのを背に、
「うそに決まってるじゃん、そんなの。」
 と、さっさとスイは厨房のドアを開けた。
 中を覗き込むと、そこはまだ戦場の真っ只中であった。
「グレミオっ! パンはこれとこれの籠だねっ!? こっちは持ってかなくていいのかいっ!?」
 クレオが怒鳴ると、弁当を詰め込んでいたグレミオが叫ぶ。
「それは今夜の夕飯の分と、明日の朝の分の種ですっ! 今夜中には帰ってくるのでしょう? あっ、クレオさん! それも夕飯の下ごしらえ用ですから――っ!」
「はいはい。……とと、食器は何を運べばいいんだい?」
「そうですねぇ……ワイングラスなんていりますかね? 向こうに小川が流れてたら、水はいらないんでしょうけど――。」
 開け放した裏口のドアからその光景を見たスイは、おお、と小さく呟く。
 そして、エプロンをはずすことないまま歩き回っているグレミオの髪を掴むと、
「グレミオ、テッド帰ってきたよ。」
 ぐいっ、とひっぱった。
「あひゃっ!? たたたっ……ぼっちゃん〜……って、あれ、テッド君? もうついたんですか? 関所通ったのが昨日だったでしょう?」
 笑顔で語りかけてくれるグレミオに、テッドは自分が今日着くだろうという正体を知った。
 つまり、わざわざ、関所の人間に自分が通ったら知らせてくれと頼んでおいたということだ。
 この分だと、わざわざ砂漠越えしたことも筒抜けだろうなと、テッドはひそかに眉をしかめる。
 関所を通る通行証もあるし、いらないと言ったのに、テオは往復の旅費を用意してくれた。それを使わず、単身砂漠越えをしたせいで、予定よりも時間がかかってしまった。それでも、砂漠を越えて墓参りに行くことに意味があったから、慣行したのだけど。
 このマクドール家の人のことだから、何も聞かないでおいてくれるだろうけど、ばれてしまったのはあまりうれしいことじゃない。
「テッド君?」
 考えことをしていて、目が遠くを見つめていたせいだろう。グレミオが心配そうに顔を覗き込んで来た。突然目の前に整った彼の顔が現れて、テッドはびっくりしたように目を見開く。
「あ、いや、途中まで乗合馬車に乗ったから――。」
「あー、そうだったんですか。それじゃ、そんなにお疲れじゃないですね?」
 にこ、とグレミオは笑った。
 テッドはその意味を図りかねて、軽く首を傾げてから――お疲れじゃない? と、口の中で繰り返す。
 そのテッドの肩を、ぽん、と叩いたのは、クレオであった。
「それじゃ、テッド君? 昼までに向こうに着きたいから、早く手伝ってね。」
 クレオが笑顔で、くい、と背後を指差した。
 そこには、山のように積まれた弁当があった。
 ついでに、お茶をたっぷりと詰めたボトルも。
「テッド君がお疲れだったら、これ全部無駄になるところでしたよ。」
 グレミオが幸せそうに笑って、エプロンを取り外した。
 テッドは無言でテーブルの上に置かれた弁当と、早く、と促すクレオとを見比べ、最後にスイを見た。
 スイは軽く肩をすくめると、
「じゃ、さくさく仕事を済ませようかっ!」
 明るく笑った。
 テッドは不可解な表情を浮かべたが、このコンビに囲まれて素直に言うことを聞かないわけにはいかなかった。
 だから、無言で歩み寄ると、大量の弁当をスイとともに担いだ。
「ったく……どこ行くんだよ……。」
 思わずこぼれたぼやきを聞きとがめて、スイが少し目を見張った。
 そして、軽く首を傾げてから、
「行けば分かるよ。」
 にやり、と笑った。










 にぎやかな馬車の中で、スイやグレミオ、パーンに囲まれて、テッドは笑った。
 時々御者席から、クレオとテオが声をかける。
 それに二言三言交わし、また笑い声が漏れる。
 戻ってきたんだと、そんな実感が湧いてくる。
「それにしても、テッド君があと一週間遅かったら、間に合いませんでしたね。」
 こぽこぽと、お茶を入れながら、グレミオが朗らかに笑う。
「間に合わないって……だから、いったいなんなんだよ、目的地はさ。」
 あれよこれよと言う間に馬車に乗せられて、テオが手綱を振るっている。
 いったい何が起こっているのかと、疑問を抱く間もなく、気づいたら馬上の人であった。
「もうすぐ見えてきますよ。」
 パーンが軽く言って、窓を開ける。
 窓の外には、一面の草原が広がっていた。遠くに山も見える。
 その山が……、
「あ……っ。」
「うわぁっ!」
 思わずスイが、パーンを押しのけるようにして窓に飛びつく。
 息を呑んだテッドに、グレミオが笑いかける。
「もうすぐのようですよ。」
 言いながら彼も、窓の外を見やった。
 それと同時、御者席からクレオが振り返る。彼女は乱れる髪を抑えて、優しく微笑む。
「ほら、向こうに見えるのが目的地の山ですよ――ちょうど、満開みたいですね。」










 目に映るすべてが桜色の視界の中、ばさりっ、とシートが広げられる。
 いそいそと弁当を並べ始めるのは、グレミオであった。
 テオとクレオは近くの木に馬をつなぎ、水の準備をしている。
 スイとテッドは、二人揃って呆然と頭上から降ってくる花びらを見ていた。
「すごい……きれい……。」
「ほんと……圧巻だよなぁ。」
「テッド、何か言い方が親父くさい。」
「なんだとっ!? おまえがお子ちゃますぎるだけだよ。」
「こういうとこに来ても、お子様に帰れないのって、寂しいよねぇ♪」
 今年は見れないと思っていた桜が、満開に咲いている。
 喜ぶ二人の背後では、テオが早速酒を開けて、パーンを酌み交わしていた。
 あきれたような表情のクレオとグレミオが、酒のつまみ代わりに皿に料理を小分けする。
「それにしても、この辺は桜が遅いのか?」
 頭上から降り注ぐ幾十もの花びらを仰いで、テッドがくるりと一回転する。そうしてもなお、世界は桜色であった。
「んー、なんかね、桜の種類が違うんだってさ。」
 スイも同じようにクルリと回って、くすくすと笑った。
「ふぅん……そんなの知らなかったな。――俺もまだまだってことか。」
 そんなの気にしたことなかったしなぁ、とテッドはぐるん、ともう一度回る。ついでにスイも回ろうとしたが、足元が傾いで、どんっ、とテッドにぶつかってしまう。
「ひゃっ!?」
「だっ! おいっ、スイっ!!」
 どったーんっ!
 思いっきり桜色の花びらがこぼれる地面に倒れこむこととなってしまった。
「てっめぇなぁっ!!」
 がばっ、と起き上がったテッドが怒鳴ると、スイはケタケタと笑い出す。
「あっはっはっはっ! 人生七転び八起きっ! こういうこともあるさっ!」
「活用が違うだろー!!」
 元気良く戯れている二人の少年を見やりながら、マクドール家の大人たちは笑った。
「ぼっちゃーん、テッドくーんっ! お昼にしましょうよっ!」
「早く来ないと、たべちゃいますよー!」
 グレミオが大きく手を振って、パーンがから揚げをつまんで振る。
 花より団子なところがある食欲旺盛な年頃の二人は、あせったように顔を見合わせると、われ先にと駆け出した。
 そして、ほとんど滑り込みでシートに飛び込んで、
「……………………二人とも、先に手を洗ってください。」
 グレミオとクレオから、冷静に小川のある方向を指差されるのであった。











「先行ってるからねっ!」
 小川でも、水掛けをしたりと一通り遊んだ後、スイが今更慌てたように走っていった。
 それを見送って、テッドも慌てて小川に手をつけた。
 ひんやりとした水の感触に、じん、と体が震えた。
 そのままバシャバシャと洗っていると、ふと清流の流れに乗って、桜の花びらが流れてきた。
 見上げると、すぐ近くにも桜が一本立っていた。
「…………………………。」
 テッドはしゃがみこんだ体勢でそれを見上げると、軽く目を細める。
「幸せって……一度掴むと、離せないもんだよな――……。」
 帰ってきた自分を迎えて、さっそく馬車に乗り込んだときの、例えようもない幸福感を思い出して、苦笑を刻む。
 小川に映っている自分の顔は、苦笑というよりも、平和ぼけで幸せぼけしているようにしか見えなかったけれども。
 手袋に包まれたままの右手を水につけて、テッドは一度目を閉じた。
「――もう少しだけ……このままでいても、いいよな? なぁ、ソウルイーター?」
 問い掛けても、「彼」は答えてはくれない。
 そうわかっていながら、テッドは呟かずにはいられなかった。
 長い間生きていて、これほど幸福を感じたことがあっただろうかと。
 日常そのものが幸せなのだと思うことがあっただろうかと。
 問い掛けても、答えはでない。
「……さぁってと、そろそろ行かねぇと、食欲魔人どもに食べられちゃうぞっ、と――グレミオさんの料理久しぶりだしなぁ。」
 老人らしく、よっこいしょ、と声をあげて立ち上がり、テッドはいそいそと立ち上がった。
 しばらくしゃがみこんでいたせいで、足が痛かったけれども、気にならない程度であった。
 一度大きく伸びをして、スイが走り去っていった方向に視線を向ける。
 それから、ぽんぽん、と右手の甲を叩いた後、テッドは小川を後に走り出した。
 みんなが待っている桜の下へ――一刻も早くたどり着くために。









風霞様


た、大変遅れましたが、なんとか……書き始めの予定とは全く異なった感じになりましたが、テッドと坊のお話の完成とあいなりました。
本来なら15000ヒットだったのですが、カウンターが壊れていて、100ヒットでご報告頂きました。
本当にありがとうございます。
感謝しているのに……書くのは遅い……(^_^;)。


長くなりましたが、これからの春に先駆けて、受け取って下さると嬉しいです。

ゆりか