── こ れ は 、 夢 。

 とても幸せで、とても優しい……。
そうして、酷く哀しく切ない気持ちになる、夢。











 明るい日差しが窓から差し込む、柔らかな色合いに染められた室内。
 見慣れた壁紙とカーペット。
 グレッグミンスターのシューレン家の客間の中だ。
 優しい光の中、見上げたその人は、暖かな眼差しをわたしへ注いでいる。


「ソニア。」


 彼が微笑む。
 今までずっと見つめてきたどの顔とも違う表情で、わたしを見つめながら、微笑む。
 その容貌は、窓から差し込む逆光に照らされて、輪郭が白く輝いて見えた。
 まるで後光が差しているかのように見えて、わたしは、そ、と目を細める。
 そんなわたしを、彼は、とても優しい視線で見下ろす。


「明日からまた、北方に行くことになった。」


 優しい……けれど厳かな言葉で語られた内容は、わたしの眉を曇らせる。
 北方といえば、ジョウストン都市同盟との戦いの前線だ。
 おそらくは、赤月帝国の末端が、崩壊し始めているのを知られてしまったのだろう。
 ということは……今度の北方へのテオ様の任期は──とても、長くなると言うことだ。
「テオ様……。」
 わたしの唇から零れたのは、甘く切ない色を宿した声だった。
 近いうちに、そうなるだろうとは思っていた。
 グレッグミンスターに居ても尚、不穏な噂を耳にするようになってから──、そう遠くないうちに、テオ様も、そしてわたしも、この都から出陣していかなくてはいけない日が、来るだろうと。
 けれど、何もこんな日に──と、思わないでもない。
 今日は……スイの皇帝陛下との謁見の日だったのだ。──テオ様の、たった一人のご子息である、スイの門出と言える日だ。
 帝国においては、それは成人と同等の意味を持つとすら言える。
 明日からスイは、テオ様や私と同じように、帝国軍人として──一人前の大人として扱われるのだ。
 とは言っても、一人前、なんて言葉はまだまだ早いのだろうけれど。
 それでも、テオ様にとっては、想いもひとしおのはず。
 なのに、明日のスイの晴れの出立を見ることなく──初出仕を見ることなく、彼はこのグレッグミンスターを後にしなくてはならない。
 それは、酷く名残惜しいのではないだろうか。
 そう思いながら見上げたテオ様の顔には──その双眸には、何の不安の色も見えなかった。
 スイのことを信じているのだと、聞かずとも分かった。
 テオ様が心悩まされていない事実に、ほ、とすると同時に──ちくり、と胸に小さな痛みが走る。
 こんなことで嫉妬を覚えてどうすると想うのだけれど──私は、時々、どうしようもない、胸を焦がすこの思いをもてあますことがあった。
 二人は親子で、テオ様にとったら、スイは大切なたった一人の息子で。
 私とて、スイのことを、実の弟のように可愛いがっている……、はず、なのに。
 そんな感情も──他の人への「好ましい」と思う感情すらも、目の前の、たった一人の人が関われば、容易く吹き飛んでしまう。

 ──それほどに、深く、私の中に根づき、私の感情のすべてを翻弄するひと。



「テオ様。」



 大切な、大切な響きの宿る名前を、万感の思いを込めて呟いて、いとしい人を見上げれば、彼はいつになく優しく……いとしげな目で私を見下ろして。
 あぁ……この先だ。
 胸がジンと痺れるような感覚を覚え、わたしは期待に胸を高鳴らせる。
 テオ様は、わたしの甘えるような期待にこもった視線を受けて、わたしの肩に手を置いて……、そうして、こう言うのだ。




「ソニア。
 ……この戦から、戻った時は──。」




 甘美に胸に響く言葉を、彼の唇が紡ぐ。
 それを、私は、陶然と聞き入り──……。



 そこで、目が、覚める。



 現実で聞いた言葉は、夢の中では再現されない。
 あの、目もくらむような幸せな心地は、夢の中ですら、二度と訪れてはくれない。
 代わりに──あの時に覚えた絶望が、一瞬で私の心を覆い尽くすのだ。









──この世界に、私が愛した人は、もう、いないのだと。









がらす の おり

硝子の檻



















 尊敬と、アコガレと、淡い初恋。
 私と同じ年頃の娘のほとんどは、雲を掴むような高い位置にいる人──テオ・マクドール将軍が初恋だと言う。
 若き獅子のようなあの人に憧れ、あの人に淡い恋心を抱き──そうして、やがてその甘酸っぱい思い出から卒業して、添い遂げる「現実的な男」と愛をつむぐようになる。
 事実、そうやって「テオ将軍」への思いを卒業して行った女達を知っている。
 彼ほど強くはないけれど、優しい恋人。
 彼ほど凛々しくはないけれど、暖かな夫。
 彼ほど惹かれるわけではないけれど、一緒に居て幸せな人。
 そうやって彼女たちは皆、「彼」ではない人を愛していった。
 けれど、ソニアは、そうならなかった。
 年頃になって──成人を迎えるときになってもまだ、彼のことを忘れることができなかった。彼への思いを、思い出に変えることができなかった。
 彼女たちよりも、ソニアのほうが、ずっと彼に近い位置に居たせいかもしれないし、もともと抱いていた気持ちの質が違っていたせいなのかもしれない。
 本当のところは彼女にも分からないけれど、でも、これだけは確か。

──わたしは、いつからか、「近所に住む年上の初恋の人」に、「一人前の女」として認めてもらいたいと、そう……焦がれていた。

 初恋の甘酸っぱい思い出が、それ以上に熱く強い感情を伴っていると気づいたのは、遠い日のことだった。
──母が亡くなった時に、たった一度だけ抱きしめられたテオのたくましい腕と胸。
 あのぬくもり。あの優しさ、あのたくましさ。
 心に触れたテオの存在に、彼を「男」として初めて見上げた。
 その時に──これは、辛い恋になると、ソニアは思った。
 彼には子供が1人居て、亡くなった妻のことをまだ愛している。
 ソニアの母と一緒に「あの人」のことを話していたのを見たことがあるけれど──その時の彼の目は、見た事がないほど優しくて、愛しげで……。
 その目を見ると、切ないような、痛いような──こらえきれない痛みが胸に走ったのを、良く覚えている。
 ソニアが知る男の目とも違う、戦場で多くの人を畏怖させ、畏敬させた男の目とも違う……たった1人の女性にしか向けられない、彼の視線。
 その目を受け止める「私」を想像したことがあった。
 きっと幸せな気分になるに違いないと、そう思った。
 けれど、その瞬間、胸に去来したのは──言い知れないむなしさ。
 胸が痛いだとか、胸が苦しいだとか、そんな言葉では表現できないほどの、空虚。
 気づいたら、涙がこぼれていて、声もなく泣きつづけた。
 この思いをどうしたいのか、どうすればいいのか──分からなくて、ただソニアは、泣きつづけた。
 この「恋」が、叶う日など来るはずがないのだと──強く、自分に言い聞かせるように。
 そうして、その想いを見ないために、ひたすらソニアは、剣と魔法に打ち込んだ。
 自分の恋心から目をそむけるように──母をもしのぐ戦士になることへと注いだ。
 身近で一番尊敬できる人であり、憧れの人であり、もっとも強いライバルであった人。
 その母の跡を継ぐ娘ではなく、「ソニア・シューレン」その人だと言われるために、日々、剣をふるい、魔法の特訓にと、睡眠時間も削って頑張った。
 指には剣ダコができたし、一つに結わえた金色の髪は、時々端が火の紋章の余波によって焦げてチリチリになり、そのたびに切りそろえた。
 そうやって、毎日を忙しく過ごし、彼のことを考えないようにしていた。
 彼と会うことは幾度もあったし、時には親子絡みでご飯を共にすることもあった。
 そのたびに、脳裏に蘇る強く熱い思いを飲み込むように、修行に没頭した。
 その甲斐もあり、ソニアはみるみるうちに実力を伸ばし──キラウェアの突然の死から三年が経過する頃には、水軍の副頭領と呼ばれるようになっていた。
 それでも、キラウェア・シューレンが就いていた水将軍の地位には程遠く、己の修行不足を思い知るばかりだった。
 ちょうどその日も、数ヶ月ぶりに紋章を暴走させてしまい、背中の中ほどまで届いていた髪を、ばっさりと肩甲骨の辺りまで切り落としてしまっていた。
 慣れてきたと過信してはいけない──母の教えを心の中で繰り返しながら……込み出てくる自己嫌悪を、溜息とともに表に吐き出した。
「──ふぅ……、次の水将軍が決まるのは、来月だと言うのに……この有様とは、情けない。」
 見下ろした掌は、皮が幾重にも剥けていて、立派な戦士の物というよりは、見習いの兵士の手の平のようだ。
 これでも仕官する前から、毎日のように剣を習い、紋章を使っていたはずなのに──副頭領になってからというもの、なかなか訓練をする暇もなく、なんとか時間を作ってみれば、この始末だ。
 己のふがいなさに、涙が滲みそうにすらなる。
「テオ様のような立派な戦士になるには、まだまだ、だな……。」
 苦笑を滲ませながら、ソニアはもう一度重い溜息を零した。
 仕官する前だって、テオ達と自分の距離を、分かりすぎるほどに分かっているつもりだった。
 けれど、実際に士官クラスになって、大将軍に準ずる地位まで来て──テオ様との差を知っている「つもり」にすぎなかったのだと、思い知らされた。
 力が及ばない、力が足りない。
 「あのキラウェア・シューレンの娘は、この程度なのか」
 そう常に影で言われているような気がした。
 赤月帝国は、昔から男女平等の元に成り立っていて、戦士に男も女の区別は全くない──もちろん、キャンプや兵士寮などは別であることは間違いないし、実務内容にしても、性別によって効果が違う場合は、効果的な方を優先されることがある。
 けれど、そうは言っても個人単位で男女差別は存在し──特にキラウェアの娘であると言うだけで、継承戦争終了後に士官クラスになったソニアは、女だからとバカにされることが多かった。
 しょせんは、親の七光りではないか、と。
 だから、そういわれないように──女だからとバカにされないように、ソニアは毎日、必死にがんばってきたはずだった。
 それでも、「あんなに【女】を全面的に押し出してるようじゃ、上司に体を使って取り入る以外、昇進の道はないんじゃないか」──などの陰口を叩かれることも多かった。
 ソニアの容貌が非常に整っているための揶揄だと分かってはいたが──その言葉を耳にするたび、ソニアは自分自身へのふがいなさに、苛立ちを覚えた。
 自分が、もっと強ければ。母の名に負けないほどに強ければ──あんなことを言われなくても済むのに。
 もっと──もっと強く。
 心に強く誓いながら、「女」としての自分も捨てるつもりで、ソニアは血を吐くような努力をしてきた。
 強く──母の名をしのぐために、もっと強く。

 そして。

 あの人の横に並び立つためにも──もっと、強く。
  この思いが叶わないのならば、せめて彼の力になれるように頑張ろうと──彼の傍に立ち、彼に認められるためならば、女である自分を捨ててもいいと。
 そう──、女になる必要なんて無いのだと、ずっと、そう思ってきた。
 なのに
 その最終目的である「大将軍」が間近に見えれば見えるほど、胸の奥に宿る言い知れない感情が、ソニアを悩ませる。
 来月には、キラウェア・シューレンの後継者となる新しい水将軍が決まる。──その候補の一人として、ソニアの名もあがっている。
 今までの功績から考えるに、選ばれる確率は高い。
 何よりも、キラウェアの死後3年の間、頭領代理として任についていた男が、ソニアを時期水将軍にと、推しているのだ。
 ソニアが取り返しのない失態をしない限り、大将軍の地位に就くことは、ほぼ確実だろうと誰もが思っている。
 だからと言って、油断をしていてはいけない。ソニアに水将軍になって欲しくない者も数多く居るからだ。どこで脚を引っ張られるか、ありもしない失態を作られるか、わかったものではない。
 特に今は、来月の昇進式の準備のために、帝都に滞在している最中だ。──ソニアの水将軍に反対している帝国貴族の、格好の的になれる状態なのだ。
 だから、ソニアは今まで以上に気を張り、仕事に訓練にと、隙一つ見せないように頑張っていた。
 目が回るような忙しさの中、胸に秘めた恋心は、重く蓋をして開かないようにしていた。
 なのに──ふ、と頭をよぎるのだ。
 大将軍になって、水軍頭領の座を引き継げば、そうすれば……。

 私は、テオ様の、横に並び立つことが出来る。

「──……。」
 そうなった時、私は、この痛いくらいの想いを、どうしたらいいのだろう?
 ずっと、封印し続けると決めてきた。
 決して叶わない想いだから、誰にも悟られないように、と。
 けれど、テオ様と並び立てる地位を手にし、彼の隣に立って彼の力になれる力を手に入れることができたら。
 そうしたら──……。
 胸の内にこみ上げてきた期待を、ソニアは奥歯を噛み締めて強引に飲み込む。
 本当に、何を考えているのだろうと、自嘲じみた笑みが口元に浮かぶ。
 こんな風に思い悩むから、紋章の制御に失敗してしまうのだ。
「バカなことを考えるな、ソニア・シューレン。」
──この想いは、決して叶うことはないのだから、飲み込むと……そう、決めたじゃないの。
 そう、自分に言い聞かせるように心の内で呟いた刹那。
「──ソニア?」 
 その決意を鈍らせるように、今、心の奥に描いていた人が、ソニアの名を呼んだ。
 ぎくり、と喉から心臓が飛び出しそうな気持ちになりながら、ソニアは努めて冷静さを装って、声がした方向を振り返る。
 いつもの自宅への道のり──風景。
 なのに、石畳の上に立つ鎧姿の……見慣れたその人が、そこに立っているだけで、そこは日常から逸脱したような輝く空間になる。
「テオ、様。……こんにちは。」
 綺麗に微笑むことが出来るようにと祈りながら、ソニアがテオにそう声をかければ──あぁ、と、今気づいたように目を細めて、テオはこう言う。



「なんだ、ソニア。髪を切ったのか。
 ようやく伸びてきたのに、勿体無いことをしたな。」



 いつもいかめしく顰められた顔を、ほろりと解けるように笑って、テオはソニアの肩で揺れる髪をまぶしそうに見つめる。
 その途端、どくん、と胸が一つ跳ね上がるのを覚えた。
 ソニアの透けるような白い頬が、パッ、と羞恥に染まる。
「あ、こ、これは──その、訓練中に、少し。」
 口もごるように答えながら、ソニアは手の平で短くなった髪を手の平で押さえた。
 サラサラと流れる髪が、指先をスルリと抜けて風に揺れる。
「あぁ、もしかして邪魔だから切ったのか?」
 火の紋章を使う際、制御に失敗した、なんて恥ずかしくて言えなくて、ソニアは曖昧に微笑んで、そ、と目線を落とした。
 他の誰に、「制御に失敗したのか」とあざ笑われても平気なのに──この人にだけは認めてもらいたい。
 その思いが、自分の失敗を口に出せなくさせる。
 そんな自分の女々しさに、苦々しい気持ちを噛み殺し、ソニアは無理矢理口元に笑みを浮かべてテオを見上げる。
「そういうわけでは、ないのですが……。」
 なんと説明していいのかと、ソニアが長い睫を伏せれば、テオは双眸を細めて穏やかな笑みを口元に刻みながら、
「長い髪も似合っていたがな。」
 とくん、と、恋する乙女心を刺激するようなことを言ってくれるから。
 ──あぁ、私は、「女」なんて捨てようと、ずっとそう思って頑張って来ているのに。
 そのために頑張っている目標であるその人に──あなた自身が、そうして、私の「乙女心」を擽る。
 一瞬、クシャリと顔を歪ませた後、ソニアはそれを振り払うように顔を跳ね上げて、テオの顔を正面から見つめた。
 しゃらん、と耳元で髪が音を立てて、白い頬を擽る。
「あの……私、また、伸ばしますから。」
 気づいたら、頬を赤く染めて、そんなことを口走っていた。
 何を、言っているのだろう。
 我ながら痛いくらいにそう思う。
 けど、口から飛び出した言葉は、戻らない。
 ハッとしたように口元に指先を押し当てて──カァ、と目元を赤く染める。
 しまった、と拳を握り締めると同時、唇を軽く震わせる──そんなソニアを見下ろして、テオは困ったように眉を寄せた。
「いや、すまん。今の髪形が似合っていないというわけではないんだぞ?」
 コリコリ、と頬を掻いて、テオは零れるような笑顔で続ける。
「ソニアはキラに似て美人だから、どんな髪形でも、良く似合うぞ。」
 ──天然のタラシだ。
 ソニアは、顔を真っ赤に染めて、そう思った。
「て……テオ様、からかわないで下さいっ。」
 焦りながら、口早にそう責めれば、テオは軽く目を見開いて、そんなつもりはなかったのだが、と困ったように呟く。
「私が美人だとか、そういうことを言われたら、困ります。」
 羞恥に頬を染めて、そ、と目を伏せるソニアの姿は、どこからどう見ても儚げな雰囲気を宿す、女の色を漂わせ始めた女以外になかったが、彼女の寄せられた柳眉は、心底その事実を困っているように見えた。
 だからテオは、不思議そうに目を瞬いて、ソニアに問いかける。
「ソニア?」
 もしかしてこれも、セクハラになるのだろうかと、テオは眉を寄せる。
 テオの部下にも女性は居るが──例えば今、同じ屋敷に暮らしているクレオなどがそうだ。
 しかし彼女は、美人だとか褒めれば「なんですか、テオ様、褒めても何も出ませんよ」と、心なし恥ずかしそうに笑って、それでも有り難うと言って受け止めてくれるが、セクハラだと困った顔をすることは決してなかった。
 しかし、クレオとソニアでは、立場が違うのかもしれない。
 クレオとテオはどちらかというと、「気心の知れた仲」だ。
 そのことは、ソニアに対しても同じだとそう思っていたが、彼女の場合は年齢も違う。
 ──……ということは、さすがにセクハラになるかもしれないと思い、テオは苦笑を刻み込んだ。
「すまないな。……困らせてしまったか。」
 困ったような顔にしか見えないソレに、ソニアはフルリと緩くかぶりを振った。
「いえ、私のほうこそ──すみません、テオ様。」
 そう……コレは、私が悪いのだ。
 ソニアは、苦い気持ちを噛み締めて、漏れ出そうになる溜息を堪えた。
 そして、気分を改めるようにテオに気づかれないよう、小さく深呼吸をすると、ニコリと微笑みながらテオを見上げる。
「それよりもテオ様、今からお屋敷に戻られるのですか?」
 突然の話題転換だったが、テオはソニアに何か思うところがあると思ったのだろう。
 融通が利かなくて頑固な所のあるテオだが、人への気配りも出来る男だ。
 ソニアの急な問いかけにも、すぐに破顔して頷いてくれた。
「ああ、今日の報告も終わったところなのでな。
 ソニアも今から屋敷に戻るのか?」
「はい。」
 コクリと頷くソニアに、そうか、とテオは呟いた後──少し視線を空に漂わせて、こり、と頬を掻く。
 それから、少し照れたような表情で、髪の毛を手の平で押さえたままのソニアを見下ろし、
「それなら──一緒に夕飯でもどうだ? 久しぶりに、スイもお前に会いたがってたからな。」
 自分の屋敷がある方向を視線で示した。
 ソニアはそれに釣られるように、マクドール邸を見上げて──今年10歳になる幼い……いたずら盛りの子供の顔を思い出した。
 スイは、ソニアにとっても幼馴染とも言える関係であるせいか、彼女にとてもよく懐いていた。
 面差しはテオにと言うよりも、彼の亡くなった妻に良く似ていたため、ソニアは少し複雑な気持ちを抱かずにはいられなかったが、それはそれ──ソニア自身も、スイのことを可愛がってはいる。
 だから、会いたがっていた、と言われたら──くすぐったい気持ちで、嬉しいと思う。
 微かな笑みを浮かべながら、ソニアは困ったように眉を落とす。
「ですが──突然お邪魔をしては……。」
「何、心配することはない。グレミオはどうせ、いつも料理を多めに作っているしな。
 それに……。」
 言いかけて、テオはそこで渋るような顔で、顎を手の平で撫でた。
 ソニアはそんな彼を不思議そうに見上げて、緩く首を傾げる。
「それに?」
「もうすぐ、水軍頭領昇進式があるだろう? そうなれば、ソニアも忙しくなる。
 こうして帝都に居ることも少なくなるだろう。」
 その前に、少しでも時間を一緒にすごすのも、悪くはないだろう?
 そう言って穏やかに笑うテオの顔を見上げて──ソニアは、自分の頬が再び赤くなるのを、止められなかった。
 分かっている、分かっているのだ、本当に。
 テオの言葉には、悪気もなければ深い意味もない。
 彼にとって自分は、あくまでも「昔の戦友」の娘にしか過ぎないのだと。
 そして──近い将来、同じく肩を並べるかもしれない同僚になるかもしれない娘だと。
 その程度にしか思われていないに違いない。
 そう、分かっているのに。
 彼が、自分を──自分と少しでも一緒にいたいと、そう思ってくれているような気がして、胸が切なく高鳴る。
「──まだ、私が選ばれると決まったわけではありませんよ、テオ様。」
 ほぼ確実だとは言われているが、確定しているわけではない。それに、紋章の制御に失敗しているようなこの状況では、選ばれない可能性のが高いような気がする──そう心の中で呟いて、ソニアは苦笑を浮かべて、フルリと頭を振る。
 そうすれば、テオは、そんなことはないさ、と笑ってソニアの肩をポンと叩いた。
 たくましい手の平の感触に、ドクンと胸が大きく鳴った。
「自信を持て、ソニア。きっと大丈夫だ。
 私もミルイヒもクワンダもカシムも──君が同僚として肩を並べる日が来ることを、願っているんだぞ。」
 同僚。
 その言葉に、ときめきと同時に、言いがたい切ない感情が浮かんできて、ソニアは唇を歪めるように微笑みながら、きゅ、と手の平を握り締めた。
「ソニアが頑張っているのは、私たちも良く知っている。」
 彼女が小さな頃から、シューレン家の娘であることに恥じないよう、毎日訓練に励んでいたのを、見てきているのだ。
 だから、何も心配することなんてない。──と、テオはそう笑う。
 そんな優しい笑顔を見て、ソニアはギュ、と胸が締め付けられる感覚を覚えて、胸元で拳を握り締めた。
 テオ様が、私のことを、見てくれていた。
 その事実に、胸が震えるように喜びを訴える。
 それと同じくらい、自分の胸に潜めていた彼への気持ちを──己が、敬愛するテオの隣に対等な存在として立ちたいと、そう願って頑張ってきたことを、見抜かれたかと、不安を覚えた。
「特に、キラが亡くなってからのお前は──本当に頑張っていたな。」
 しんみりとした口調で、テオがそう呟くのに、
 頑張って、母をもしのぐ戦士になったら──そうしたら、もしかしたら。
 もっとテオに近づけるかもしれない。
 テオに……子供ではないのだと、もう自分は立派な一人前の大人の「女」なのだと、そう見てもらえるかもしれない。
 彼への恋に気づいた時から、ひそかに想い続けてきた、ソニアがずっと押し殺し続けてきた「願い」。
 彼への想いは叶わないと知っているのに、それでも浅ましく願ってしまう、想いの成就への期待。
 それは決して、願ってはいけないと、自分で戒めてきたのに──なんて、浅ましい、薄汚い自分。
 一瞬、チラリとよぎった考えに、ソニアは言葉を詰まらせるような表情で、唇を引き結んだ。

 「女」として彼の隣に立つことを拒み、同僚として立ちたいと願っているのに──どうして私はそれでも、彼に「女」と見て欲しいと思っているのだろう?

 言葉に出来ない自分の心の矛盾に、ソニアは苦しげな表情を浮かべるしかなかった。
「それで、どうだ、ソニア?」
 何もかもを包み込むような微笑を浮かべたテオは、黙ってしまったソニアを見下ろし、首を傾げる。
 突然、自分にかけられた言葉に、ソニアはハッと我に返るように彼を見上げる。
「他に用事があるのなら、また次の機会にするが?」
 そんな彼女に、自分からの誘いを断れずに困ってるのだろうかと、優しい色を滲ませて、問いかけてくる彼に、ソニアは彼が言っている意味に気づき──食事への誘いの返事を、未だに自分がしていなかったことに気づき、慌てて激しく顔を左右に振った。
 なんて失態だろうか。己の恋心に悩むあげく、 テオに気遣わせてしまったなんて!
「いえっ! 用などはありません! ただ、その……、私は今、訓練の帰りですから……その、後で──おうちにお伺いするのでも、いいでしょうか?」
 チラリ、と、自分の薄汚れた腕や肌を見下ろして、おずおずと問いかけるソニアに、ああ、とテオは破顔してみせる。
「そうか! それは気づかなかったな……すまない、ソニア。
 ──……そうだな、ソニアは、もう子供ではなかったんだな。」
 すまなそうに首筋に手を当てて笑いながら──少しだけ撓む目が、酷く優しい色を映し出す。
 その……スイには良く見せる、優しいその色に、胸が、キュ、と締め付けられる。
 親しい者にしか見せないテオのその表情を見せられる喜び。
 けれど、それと同じくらいに──彼が自分に寄せている好意の種類が、自分のソレとは違うことを見せ付けられているような、切なさ。
「そうですよ、テオ様。
 ──私はもう20歳を過ぎているのですから。」
 ふふ、と──ことさら大人っぽく見えるように微笑みながら、ソニアは思わずにはいられないのだ。


 私が胸に抱くこの──燃え盛る炎のような愛は、目の前の男に、永遠に届くはずはないのだと。


「では、また後でな。」
 ヒラリと手の平を振って、見送るソニアを振り返ることなく、テオは堂々たる足取りでマクドール邸へと歩いていく。
 その引き締まった背中を見送りながら、あぁ、とソニアは甘い吐息を唇から零す。
 会えた喜び。
 共にすごせる喜び。
 湧き出る切なさと、いとしさと。
 そうして……チクリと胸にささる、痛み。
「……テオ様は……、やはり、私を……いつまでも子供のように思っていらっしゃる。」
 それならそうで、いっそ一貫して子供扱いしてくれたらいい。
 そうしたら、こんなに胸がかき鳴らされるような切なさや喜びに、一喜一憂せずに済むのに。
「──テオ様。」
 ちいさく──ちいさく、ソニアは、特別な響きの宿るその名を紡ぐ。
 そ、と零れた吐息が、熱く溶けていくような感覚を覚えて、ブルリと身を震わせた。
 たった一人の名前を呟くだけで、心はこれほどに恋焦がれる。体中が、彼の名残を欲して、震える。
 それを、ソニアは必死で押し殺して、いつもと変わりない表情でテオの遠ざかる背中を見送った。
 そのままイツまでも見送っていたい心に逆らうように、無理矢理ソニアは視線をそこから引き剥がす。
 そうしないと、今にもあふれ出そうとしているこの気持ちを、他の誰かに知られてしまうだろう。
 そうなってしまえば、困るのはテオだ。
 おそらくは、クレオ以外のほかの女性の誰よりも、自分は彼の傍にいるのだろう。
 だからこそ、王宮の侍女たちは、自分とテオの関係について、はしたない噂をしているのだ。
 それが分かっているから、ソニアは彼に迷惑をかけないように、勤めて何でもないような顔をしなくてはいけないのだ。
──近い将来、自分が水将軍の地位を継ぐのであれば、なおさら。
 噂は、噂でしかない。
 誰もにそう思わせなくてはいけない。
 たとえ、心の奥底では、ソニアは「そう」なることを願っているのだとしても、だ。
 ──……そう、はしたない噂を耳にするたびに、そうあれば、とソニアは願ってしまっていた。
 けれど、決して──……永遠に、そうなることはないのだと、ソニアは諦めにも似た気持ちで確信してもいる。
 ならいっそ、諦めさせてくれたらいいのに──なのに、あの人は。
 今日のように、自分の女心をかき乱すようなことを言って、笑って──私の恋心を擽るのだ。
 いつも、いつも。
「ああ……。」
 その手に引き寄せられ、その腕に抱きしめられたら──どれほど幸せであろうか。
 ……でも、それは叶わない。
 きっと叶わない。
 だから、この想いは────────いつか自然と消えてしまうその日まで、ずっと抱え続けて行かなくてはいけないのだと、そう、信じていた。

















 ソニアは、次の昇進式で、テオの言葉どおりに水将軍と呼ばれる地位に就いた。
 皇帝陛下から頂いた水将軍の名に恥じぬよう、尽力をつくすことを愛剣に誓い、継承式を無事に終えたソニアを待っていたのは、これから同僚として過ごすことになる4人の男たちであった。
 母の同僚でもあった4人は、ソニアを幼い頃から知っており──6年前の継承戦争時には、カシムから戦術を習い、ミルイヒから紋章の扱い方を学んだこともあった。
 そんな、ある意味同僚の娘と言う以上に、愛弟子のようにすら思っているソニアの──帝国内部で最高の地位とも言える昇進に、彼らは誰もが喜び、祝いの言葉をくれた。
 彼らがソニアの元から離れた後は、多くの人に囲まれ、たくさんの祝いの言葉を貰った。
 帝国五将軍の一人となったソニアに取り入ろうとする者、心から喜び、崇拝する者、やったねと喜んでくれる元同僚や友人たち。
 めまぐるしいほどに立ち代り入れ替わりやってくる人たちに笑顔を見せて、ありがとうと繰り返して──継承式の後の宴も、そろそろ終盤にさしかかろうかと思う頃。
 ようやくソニアは、人ゴミの中から逃げ出して、夜風が心地よく流れるバルコニーへと出ることが出来た。
 少しよろめきながら、ふぅ、と人の熱に浮かされたような眩暈を振り払うように、ソニアはゆっくりと呼吸を繰り返す。
 そうして、星の輝く夜空を見上げて、火照った頬を掠めていく風に目を閉じたところで、
「なんだ、ソニア。主役がここで油を売っている最中か?」
「──……テオ様。」
 まるで、物語のようなタイミングで、テオが姿を見せた。
 いつもの鎧姿ではない、このような堅苦しい公式の場でしか、決して見せない正装姿だ。
 穏やかな微笑を浮かべているテオの姿からは、いつになく貴賓を感じて、ソニアは無意識に高鳴る胸の上に、そ、と手を当てる。
 顔が赤らんでいるのが見えないだろうかと、気にしつつもテオを見上げると、彼は片手に銀杯を二つ、持っていた。
「ちょっと、人の熱にあてられてしまったみたいで……。」
 涼もうと思って、と続けるソニアに、テオはなるほど、と頷いてワインの入った銀杯を彼女に手渡す。
「なら、喉が渇いただろう?」
「ありがとうございます。」
 そ、とまるで宝物でも受け取るような仕草でそれを受け取りながら、ソニアは漏れ出る微笑を堪えることが出来なかった。
 まるでバルコニーに逢ったのが偶然だというような言葉であったが、実際はソニアを気にかけてくれていたのだろう。
 いつも見ていてくれている、というのを言葉にならずに知らされた気がして、ソニアは面映い気持ちでワインの表面を見下ろす。
 飲むのが勿体無いような気がするのだけれど、テオはそんなソニアの乙女心に気づかず、銀杯を掲げる。
「ソニアの水軍頭領昇進に。」
 自らの昇進を喜ぶように、顔をほころばせたテオに、ソニアは泣きそうなくらい嬉しい気持ちになりながら、その杯に己の杯をカツンと合わせた。
「ありがとうございます、テオ様。」
 恥ずかしげに睫を伏せて、ソニアは揺れる水面に微笑を零し、そ、とそれに口をつけた。
 向かい合い立つバルコニー──含んだワインは、ジンと舌先が痺れるように甘く感じた。
 夢の世界に居るようだと、ワインのせいだけではなく、ほんのりと頬を赤く染めたソニアに、テオは、本当に嬉しそうに笑って──その中に、かすかな切なさを込めて、彼女を見下ろした。
「そのドレスも、とてもよく似合っている。
 ソニアは、武に知に、──そして女性としても、どんどんと立派になっていくな。」
 さすがに継承式の場であるから、普段はしない化粧もして、綺麗に飾ったドレスを着ていた。──それが女性としての正装だからだ。
 母も良く、正装の時にはドレスを着ていたが……彼女は、ドレスを着て女の姿をしていても、一目見て武人と分かる立ち姿をしていた。
 けれど、今日、鏡をのぞいた自分は──確かに綺麗で、嬉しく思ったけれど……武人というよりは、ただの貴族の娘のようにしか見えなかった。
 そのことが、酷くむなしく、寂しく思ったのを覚えている。
 私は──水将軍となったというのに、母のようにはなれないのだろうか、と。
「そんな……、私なんて、まだまだです。
 母と比べれば……。」
 本当に、まだまだなのだと、知らず視線を落としてしまったソニアの肩に、テオは、そ、と手を置こうとして──見下ろした彼女のむき出しの白い肩が、酷く華奢で細いことに気づいて、は、とその手を強張らせた。
 うつむいたソニアの──アップにした髪のほつれ毛が落ちる項が、指先でつまみあげただけで折れそうに細い。
「……。」
 ぎゅ、と、テオはあげかけた掌を握り締めて、その腕を己に引き寄せると、
「キラと比べることは何もないだろう? おまえはおまえ、キラはキラだ。親子だからと言って、同じ素質があるとは限らないだろう?」
 ──ソニアは、キラと比べると紋章との相性がいいようだしな。武器が同じだというだけで、戦い方も大分違う。
 そう続けて、テオは自分を見上げるソニアの視線に気づいて、目を落とす。
 月明かりに照らされた金色の髪が、柔らかな白い輪郭を覆い、透明感のある双眸が、深い色を宿していた。
 自分を真っ直ぐに見上げる視線に、テオは背中がむずかゆくなるような感覚を覚えて、軽く身じろぎする。
「テオ様……。」
「……そうして綺麗に着飾り、どんどん綺麗になっていくソニアを見ていると──なぜか、ソニアが、遠くなっていくような気がするな。」
 苦い色を刻んで、テオは握り締めた拳を更に強く握りこむ。
 どこか苦悩すら抱いたテオの表情に、ソニアは焦るように目を見開く。
「そんな! 私は……、私は、離れてなんかいきません。」
 ふるり、とかぶりを振って──むしろ、遠くなっていくと思っていたのは自分のほうだと、ソニアは続ける。
「遠くなるように感じているのは、いつも、私のほうです。
 ……武人になろうと、母のようになろうと思えば思うほど……私は、力不足を痛感します。
 テオ様の傍に行こうと思っても──テオ様が、どんどん遠ざかるような気がして……。」
 言いながら、ソニアは眉を寄せて顔を歪める。
 鎧姿ではないテオが目の前にいる。──いつもとは違うテオ。
 そして、今、私は──そのテオ様と並び立てる地位を手に入れた。
 ずっと、そうなったら、テオの隣に立つ自信が手に入れられるのだと思っていた。
 その頃にはきっと、自分の胸を巣食うこの「想い」はなくなって、浄化されて、彼の同僚として……彼が頼もしく思う同僚として、笑っていられるのだと思っていた。
 そう──今は亡き母のように。
 なのに。
 現実は、全然違う。
 いつもと違う服を着て、いつもと違う表情を見せるテオを前にしたら、心が掻き乱れるのだ。
 まるで──テオ様が、鎧を脱ぐことで自分のすぐ間近に立ってくれているような、そんな錯覚が起きるのだ。
 忘れるつもりで蓋をし続けてきたのに──、その蓋が、そ、と開いていくようだった。
 ダメだ、と思うのに、こみ上げてくる甘い気持ちが、どうしても抑えられない。
 ただ、鎧を脱いで、目の前に立っているだけなのに。
──忘れるはずの想いに、胸が、ジクリと痛む。
 湧き上がる気持ちに、蓋が出来ない。……制御なんて、できない。
 まるで、目の前の人が、燃え盛る心の炎に、油を投げ入れたようだった。
 目の前がくらむような熱い想いに浮かされるように、ソニアは胸の前で手を組み、熱に潤んだ双眸で彼を見上げる。
 日に焼けた精悍な面差し。真っ直ぐに自分を見下ろす強靭な瞳。

 その全てが──あぁ、今だけは、わたしのもの。

「私からテオ様のお傍を離れようとなんて──しません。できるはずがありません。」
 ……私の心はいつだって、あなたを求めている。
 忘れたいのに、この想いを捨てたいのに、そのたびに彼は、私の前で、
「……俺も、お前から遠ざかることはない。」
 つらそうな──まるで私を一人の女としてみているかのような目で、甘く聞こえる囁きを零してくれるのだ。
 胸が震えて、ますます恋の炎が沸き上がる。
 けれど、期待してはいけない。
 だって。
「むしろ俺のような中年男は、これからお前たちのような若者に、追い抜かされていく立場だ。」
 ──ほら、そうでしょう? 続く言葉は、決して甘くはない。
 一人の上司が、部下に向かって告げるのとおんなじセリフ。おんなじ温度。
 思わず期待に高鳴った胸が、急速にしぼんで行くのが分かった。
 自分ひとりで期待して、自分ひとりで落胆する。
 ──この想いが、彼に届くことなどないと、一体何度私は、心の中で反芻すれば気がすむのだろうか?
 そう思うのに、なぜかソニアは、激情に近い感情を、今日ばかりはセーブできなかった。
「だから、お前が遠く感じるというのなら、それはお前が俺を追い抜くために……。」
「違います、テオ様……っ、違うんです──……っ。
 私は──っ、あなたを、追い抜きたいんじゃなくて……っ! あなたの傍に……っ!!」
 気づいたら──叫んでいた。
 泣きそうに顔を歪めて、テオにすがりつくようにして……叫んでしまっていた。
 そして、切なさと苦しさが混じった表情で見上げた先。
 思った以上に間近で自分を見下ろす、驚いた精悍な顔を見た瞬間────ザッ、と、血の気が引いた。
「………………っ。」
 わたしは、いま、なにと、言った?
 今の言葉は──何に続けられる言葉だった?
 気づいた瞬間、ソニアは恐怖と羞恥に、唇をわななかせ、目元を赤らめずにはいられなかった。
「す……すみません、テオ様。……今のは……聞かなかったことに…………。」
 バッ、と顔をさげ、前髪に己の目元を隠す。
「──ソニア……。」
 呆然と呟かれた自分の名前に、ソニアは彼が、己の言葉の奥に秘めた想いに気づいたのだと知った。
 ──失態だ。
 なんて失態だろう!
 いくら人に酔い、彼が持ってきてくれたワインに酔い、久しぶりの二人きりの──まるで恋人のような逢瀬に酔っていたからと言って。
 なんてことを口にしてしまったのだろう!
 ソニアは、口元に手を当てて、テオの前から身を翻す。
「………………………………失礼します……っ。」
「待て、ソニアっ! ──ソニアっ!!」
 テオ様らしくない、慌てたような声音を背に、ソニアは赤く染まる自分の頬を……熱さを訴えるソレを振り払うように頭を振って、唇を噛み締めた。
 この想いは、決して叶うことなどないのだから──だから、悟られぬように心の奥底に封印し続けようと、そう、想っていたのに。
 なのに、こんなあからさまに──……っ!
「ぜったい……テオ様に、気づかれてしまった……っ!」
 あぁ、これから私は、どうやって顔をあわせたらいいのだろうと──泣きたい気持ちで、ソニアは熱気溢れる室内に駆け戻った。
 そして、再び人ゴミに埋もれながら、あぁ、と、泣きそうな気持ちで己を責める。

 気づかなかった、私が悪い。制御できなかった、私が未熟だった。
 ずっと、気づかなかった……いや、気づかないフリをしていた。
 あまりに可能性がなく、あまりにおこがましいからと、胸の奥の、ずっと奥に仕舞いこみ続けていた、小さな「願い」。





──もしも、わたしが、テオ様に並び立てる日が来たのなら。
 この、想いを……彼に伝えても、いいのではないだろうか?





 そんな、小さな小さな願いごと。
 女なら、誰もが抱くような、かすかな期待。
 テオ様の横に並んでも遜色のない物を手に入れたなら、あの人に「告白」をして──もしかしたら、受け入れてくれるのではないだろうか、と。

「──……そんな、こと……っ。」

 望んだからと言って、決して叶うはずがないことを。
 他の誰でもない私が──一番良く、知っているではないか。
 今すぐに、その場にうずくまって泣きたくなった。
 ずっと守ってきた淡い初恋が、恋になったあの日から、この想いは口にせずに消していくものだと──もしくはずっと抱えていくものだと、そう思っていたのに。
 伝えたら、テオ様が辛い想いをするに違いないから、決して言ってはいけないことだと、分かっているのに。
 なのに──どうして。
 どうして私は、こんなにもおろかなのだろう?
 ソニアは、キュ、と唇を噛み締めて、瞳が揺れそうになるのを堪える。
 話しかけてくる人々に、それでも微笑を作って、祝いの言葉にありがとうと返しながら。
 もう二度と私は、テオ様と会えないかもしれないと、そう、思った。















でも。









 永遠に届くはずがないと諦めていたその人の手は、私のすぐ傍に差し出されていた。

 テオ様の鎧姿には、まるで似合わない、両手に溢れるばかりの赤いバラの花。
 愛の告白をするには、バラが一番なのだと、ミルイヒが言っていたと、そう赤い顔で──はじめて見る、はにかむような、そんな顔で。

 彼は、こう詠った。


「ソニア。私と共に、歩いて行ってくれるか?」


 それは、彼の、精一杯の、愛の言葉。






 そうして、私は。

 彼の腕の中で、──彼の腕の中でだけ、「おんな」に、なった。




















 ……繰り返し、夢を、見る。














 私の心も体も、何もかも。
 貴方の腕の中でだけ──女になる夢。
 まるで恋を知ったばかりの少年のようにはにかみ、笑う──その目元の赤い火照りが、いとしいと思った。
 自分の肩に、そ、と触れるかすかに震えた手の平が、涙がこぼれそうなほど優しく感じた。
 幸せな──眩暈を覚えるほどに幸せな感情に支配されながら、彼の手に手を重ねて、互いの体温が交じり合うほど間近で抱き合って。
 吐息が触れるほど傍で、微笑みあった時の、言葉に出来ない蕩けるように甘い時。
 この幸せは、永遠に続くのだと……不安も感じずに信じていた、あの頃。

「ソニア──俺が北方から帰ってきたときには。」

 約束の、幸せの言葉の先は、やはり聞こえない。
 あの言葉は、まるで掻き消されたかのように、耳には届かない。
 けれど、夢の中の私は、その言葉の続きを耳にしたかのように、陶然と頷く。
 ソニアを見下ろすテオの優しい視線に、否を言うはずがなかった。
 このときをソニアは、ずっと待っていたのだから。
 ──北方から、テオ様が帰ってきたときには。
 ソニアはテオを出迎えて、二人はいつか死ぬ日まで、ずっと共に生きていくことが出来るのだ。
 その約束を、交わすことが出来るのだ。
 だから、ソニアは幸せな気持ちで、テオを見送った。
 彼が、ジョウストンやロッカクの里の忍者たちごときに遅れを取るはずはないと分かっていたから。
 彼が、解放軍と名乗る反乱軍ごときに負けるはずはないと思っていたから。
 どうか気をつけて、と言いながらも、不安は微かで、残りは彼が帰ってきた時の期待で、胸が張り裂けそうになっていた。
 帰ってくると、疑わなかった。
 テオには、それだけの技量もあれば、力もあった。
 彼なら、皇帝陛下の厳命に従って──無傷とまでは行かないかもしれないが、それでも元気に屋敷に顔を見せに来てくれるに違いないと、そう、信じていた。
 ……疑う余地など、欠片もなかったのに。




「──……テオ様……どうか、ご無事で……。」




 夢の中、「私」は囁く。
 思いを込めて、不安に一杯の表情で、そう呟く。
 どうかご無事で。
 そう口にしながらも、彼が帰って来ないことを、「私」は知っている。




 はるか北方まで続く空を見上げながら、幸せな夢が、一転して変わってしまったのを悟らずにはいられなかった。
──「彼」は帰って来ない。
 耳に飛び込んでくる噂は、不穏なものばかりで、握り締めた両手が血の気を失うほどに強く力を込めながら、ただ、祈ることしか出来なかった。






 テオ様。
 ……テオ様。
 ………………テオ、様……………………。







「どうか──……、あなたが、無事で居てくれたら、それだけで、私は──……。」








 祈りが、まるで届いていなかったのだと知るのは──最悪の結末が待ち受けていたのだと気づくのは、いつも、夢が覚めた後。










 テオ様は居ない。
 もう、どこにも居ない。
 それどころか──最期まで「道をたがえた皇帝」に忠誠を誓い、息子に殺された男として、テオ様は、その存在すら語られることはなくなった。







 夢の中で、私はとても幸せ。
 一番幸せだと想った時を繰り返し過ごす、優しくて──切ない夢。
 けれど、その夢から覚めた朝は、いつも。


 いつも。








「──……テオ、…………さま…………っ。」









 この世界には、もう、あなたは、いない。
 なのに、私は、今も。
 こんなにも、あなたを。








「──あいして、……います…………、テオ、さま…………。」






 両手に顔をうずめて、ソニアは堪えきれない涙を、ほろほろと指先からこぼれさせた。
 伝える相手がもう居ない言葉を──ただ、切なく、零す。
 また、グレッグミンスターに帰らなくてはいけない時期が来ていた。
 その時期には、毎日こうして、夜の夢の中で幸せな夢を見るのだ。
 あの都で、彼の存在そのものがなかったかのような──そんな錯覚に陥られるのを畏れて、この身に、心に、あの人の存在を刻み付けるように。
 たとえ、目覚めた後──言い知れない苦しみと悲しみに襲われようとも。




 彼を決して忘れないために。

 もう、そうすることしか、できなかったから。












「テオ、様……っ! …………わたし、は………………。
 …………どうして、ひとり、……生きているのでしょうか………………。」











 決して答えのかえることない暗い呟きを──夢のなかで、いとしい男の胸に向かって、ひっそりと囁き続ける。















いっそ、あの時に殺してくれたらよかったのに


天魁星さま


随分、おまたせしてすみません。
リクエストありがとうございました。


そして……、すみません……テオソニに……な、なりませんでした……っ(号泣)

どうもこの二人は、悲恋なので、悲恋っぽくなるというか、ソニアさんが可哀想になってしまいます。

頑張って、……頑張って足掻いてみたんですけど! テオソニというよりも、「ソニア→テオさん話」になってしまいました。

ちょっと頑張ってみたんですけど──やっぱり、幸せ色は難しかったです。うぅ。


でも、最初に書こうと思った部分はかけたので、良かったです(^^)
 →テオ様が、北方に行く前に、ソニアさんに「これでスイも一人前の仕官兵だし、これを機会に、私たちも一緒になるか」みたいなことを言っていたら、更にソニアさんは可哀想だなぁ、って思った妄想。

 この場合、テオ様は逝かれる直前くらいに、「ソニアに一目逢いたかった」とか思うのですが、周りに居る面子が解放軍な上に、スイにそんなことを言うのも厳しいので、その思いは胸に閉まって、そのまま逝っちゃうんですよ!!! ──っていう感じのシーンが見たいと思いました(←そういうのを書けばロマンスになったかもしれませんネ!)