──赤月帝国暦222年、秋。


 現皇帝──バルバロッサ=ルーグナーが即位して5年。
 当時起きた継承戦争と、それに続くジョウストン都市同盟との国境紛争と。
 連続した戦争の痛手から立ち直るには、少しばかり短い年月だ。
 けれど、その5年の間に、バルバロッサは実りを取り戻した。──戦争当時には、幻ように感じた豊かな生活が瞬く間に戻り、人々の表情が穏やかになり……、短いはずの『5年』という月日は、バルバロッサの治世においては、十二分な時間だったと言うことだろう。
 5年前に空を駆けた時には、荒らされた田畑が見えるばかりで、人影はまるで見当たらなかった──兵隊を恐れて、農民達は命よりも大事な田畑を投げ出して、家の中で震えていたのだ。
 けれど、今は、違う。
 駆ける空の空気の、すがすがしいこと。
 どこまでも続く高い空を滑空すれば、穏やかな表情の農民達が、両手に抱えきれないほどの稲を抱えながら、眩しそうに笑ってこちらを指差すのが見下ろせた。
 巨大な影が地面を飛来すると、母親にくっついていた子供が、その影を追って駆け始める。
 ヒラリと揺れる長い尾の影を追うように走る子供が、みるみるうちに増えていき──やがて彼らは、息を切らして立ち止まり、大きく手を振ってこっちに向けて叫ぶのだ。
 空を駆る竜に、決して届くことはないと、知りながらも。

「バイバーイっ!!」

 子供達の満開の笑顔と、無邪気な笑い声は、遠く高く──上空へと再び舞い上がる竜の背にも聞えてくるようだった。
 手綱を握る青年の後ろに跨っていた男は、己の肩越しに振り返るように……ヒラリと優雅に舞う竜の羽根ごしに見える、黄金色の地上を見下ろした。
 太陽を反射して輝く青い川。その左右を覆うように伸びる緑の大地と、広範囲で広がる稲の見事な黄金色。
 背の高い稲の間から見える幾十人もの人影が、空を駆る竜を見上げて、にこりと笑うのが見えた。
 五年前までは、その竜の姿を見れば、大地に火が灯ると恐れていた彼らの姿が嘘のようだ。
──戦争の傷は、決してなくなったわけではない。
 けれど、確実に癒えてきている。
「……バルバロッサ殿は、しっかりとやってくれているようだ。」
 薄い唇に乗せられた笑みと言葉は、耳を打つような激しい風音に掻き消えて、己自身の耳にすら届くことはなかったけれど。
 零した言葉に、心が高揚し──知らず、鞍の端を握る手に力が篭った。
 そう──バルバロッサ=ルーグナーは、各地に広がった戦の疲労が、人々の心の疲弊が、眼に見えて減ったのを、しっかりと把握していた。
 だからこそ、今、竜の背に乗る彼らは……黄金宮殿に向かって駆けているのだから。
 これから先も、この帝国は栄えある進化を遂げていくに違いない。
 竜の背に乗り、同盟国である赤月帝国を見下ろす男──竜洞騎士団団長「ヨシュア」は、確信めいたことを、唇に乗せた笑みとともに、噛み締めていた。














帝国訪問記



















 空が高く澄み渡った、秋のある日のこと。
 各地では稲の収穫が盛んに行われ、収穫祭の準備も整っていた──そんな時期。
 帝国の首都、グレッグミンスターでは、バルバロッサ皇帝が即位して以来の、盛大な「夜会」が開かれようとしていた。
 小さな食事会のような夜会は、この5年の間に、何度も行われてはいる。他国からの重臣を出迎えるときには、戦争で国が疲弊しているようなところを見せてはならないというのが、外交の基本だからだ。
 ──けれど、戦で疲弊している国庫を無駄に使うわけにも行かず、「夜会」の様相を持ってはいるが、盛大なものでは、決してなかった。
 夜会の量自体も、先代の時に比べて、段違いに少なくなっていた。
 そんな、「質実剛健な黄金皇帝」が、即位して初めて──戦で疲弊した国庫が、ようやく潤い、人々に笑顔を取り戻せたことを祝って、各地の領主を一斉に招集した盛大な「夜会」を催すことになった。
 もちろん、さまざまな政治的な要素が背後に蠢いていたことは間違いないだろう。
 それは国外に向けての威嚇でもあり、同時に国内に向いての威嚇でもある。
 そのことを思えば、新しい役職者の顔見せも含めたパーティを行う時期は、あまりにも遅すぎたと言える。
 これに文句をつける重臣がいないわけではなかったが──それでも、内乱とジョウストンとの小競り合いで疲弊しすぎた国庫を思えば、このバルバロッサの決断は、英断と言えると、後に「黄金皇帝」を語る学者達は口をそろえて言うことになる。
 この、バルバロッサ皇帝が即位してから初めての大規模なパーティに参加するために、各地から多くの著名人が集って来ていた。
 それにつられて、首都、グレッグミンスターは皇帝が即位したときのような賑わいを見せ、主街道から副街道に至るまで、数多くの旅芸人や旅の商人たちが店を開き、芸を見せ合っていた。
 それを目当てに遠くからの観光客も集まり──グレッグミンスターは、常になく賑わい、騒々しい様相を見せていた。
 その賑やかな帝都の大通りを、ゆったりと歩く……目立つ風貌の男が一人。異国の情緒が漂う……けれど動きやすく簡素な旅装に身を包み、実用性を重視した大振りの剣を腰に差し──そして何よりも良く眼についたのが、彼の左目を覆う眼帯だった。
 伸びるにまかせた乱雑な黒髪は背中の中ほどまであり、擦り切れかかった皮ひもで一つに結ばれている。
 かすかな苛立ちを宿した瞳は、けれど老成した静かな色を宿し──精悍というよりもやつれた感のある頬の辺りには、皮肉げな笑みが刻まれていた。
 男はそのまま、無表情に左右を見回し、己の肩先で揺れるたくさんの人の髪の先や、髪を彩る生花や造花の髪飾り、グレッグミンスターの民の女性のほとんどがつけている額飾りから落とされるカーテンのような薄い布地を一瞥して、ふん、と短く鼻を鳴らした。
 そのまま、カツン、と磨り減ったブーツの踵を鳴らして、大通りの隅の方まで歩いていく。
 この五年の間にすべて張り替えられた石畳の上を、幾十、幾百もの人間が行き来する音が、ひどく耳障りに感じた。
「──……くだらんな。」
 短く吐き捨て──厚い下唇をペロリと舌先で舐め取る。
 つい半月ほど前に通ってきた砂漠の砂の匂いと味を感じた気がして、ますます男は滅入るように唇を歪めて、ふぅ、と溜息を零す。
 行く当てのない旅の途中で、傭兵じみたことをするのには慣れていた。
 他国を渡り歩くさなか、幾つものキャラバンに同乗することもあれば、昔馴染みのキャラバンから護衛を頼まれることもあった。──今回、この賑やかなグレッグミンスターの祭りに踏み込むハメになったのも、同じようなことだ。
 寒くなってきたから、フラリと南の方にでも言ってみようかと思った頃に、ちょうどキャラバン隊が護衛の傭兵を探していて、それの提示額がなかなか良かったから、引き受けた。冬を越すための資金は、あるに越したことはない。──そう思ったからだ。
 けれど。
「断ればよかったか。」
 思わずげんなりと、溜息交じりに零すほどには……このグレッグミンスターの祭り具合には、うんざりしていた。
 城門を入る前にさっさと報酬を貰って、そのまま南へ──関の向こう側へと旅立ってしまえばよかったのだろうが、ついでに旅の道具を揃えていこうと、キャラバンと共に都の中へ入ったのが間違いだった。
 中に入ると同時に、あまりの華やかさに呆然と見上げる田舎者ではないが……祭りで浮かれた──浮かれすぎた町の様子そのものに、呆れすぎて呆然とは、した。
 ごった返す人、種々入り混じったきらびやかな布地。街角には所狭しと花が咲き誇り、女どもの香水の匂いと花の匂いが、そこかしこに充満していた。
 立ち並ぶ屋台に気を取られていた女の肩が、男の腕にトンと当たり──驚いたように見上げた彼女が、ごめんなさい、とどこかおびえたように謝るのに、鷹揚に頷きながら──鼻先に香ってきたおしろいの匂いにますます渋面を深めて、男はそれらから逃れるように空を見上げた。
 やはり、面倒ごとになる前に、さっさと賑やかな都は出たほうがいいだろう。
 そうして──……また、あてのない旅にでも出よう。
 食料は旅の途中で狩でもして手に入れることに決めて、男は町の正門からぞくぞくと入ってくる商人や他国の重臣たちの「群れ」にさからうように、「外」へ向けて歩きだそうとして。
 ふいに、空の風が動いた気配に、その動きを止めた。
 見上げた空は晴天。
 はるか南の空の方に浮かび上がる白い雲のその一点に、大粒の豆のようなものが見えた。
 眼を細めるまでもなく、それはみるみる大きくなり──耳に、その羽音すら聞えてくるような距離になれば。
「──……あっ!! 竜だ……っ!!!」
 男がその生き物の名前を出すこともなく、周りから声が飛び始めた。
 浮かれてはしゃぐ子供が、近づいてくる竜の影に、眼を大きく見開いて、顎を逸らして空を指さす。
 小さな子供の指を追うように、その場に居た誰もが空を見上げ……頭上に見上げる巨大な竜の姿に、そして地上に落ちる竜の影の大きさに、驚嘆の声をあげはじめる。
 男もまた、そんな観光客に混じって空を──帝都の上空をヒラリと旋回した竜が、迷うこともなく黄金宮殿の方へとその身を舞い降ろしていくのを見上げて。
「──……ヨシュアが来ているのか…………。」
 その竜の背に乗った片割れの名を──口の中で、呟いた。
















 黄金宮殿の片隅──正門にほど近い兵舎には、当番を交代するために出勤してきたばかりの兵士達で、ごった返していた。
 ムッとむせ返るような男臭い汗のにおいに熱気……休日を返上して出勤するはめになった者も一人や二人ではないはずなのに、機嫌が悪い人間は一人もおらず──彼らは一様にこれから従士する仕事への興奮を隠そうとはしなかった。
 誰も彼もが、ここへ出勤してくる途中に見かけた表の祭の様子に浮かれているようだった。
「今夜の立食会には、あの、竜洞騎士団の団長もくるんだよな?」
 ロッカーを開いて、そこに鎮座するいつもの藍色の制服を取り上げながら、年若い兵士が、くぅぅっ、と首を竦めるようにして首を振った。
 思わず制服をきつく握り締めたとたん、隣で着替えていた少年が手を伸ばし、彼の肩をトンと叩く。
「制服に皺が寄るぞ。」
 チラリと冷静な一瞥を寄越した少年の言葉に、彼は慌てて自分の手を開き、汗で湿った手で作られた皺が、背中部分であることを確認すると、大丈夫だ、と笑った。
「この部分なら、上から鎧を着ちまうからわかんねぇよ。」
 言いながら、早速来ていた私服を脱ぎだす兵士に、淡い栗色の髪の少年は、怪訝そうに眉を寄せる。
「今日はパーティだから、鎧は着ないんじゃなかったのか?」
「──……ぅぉ! しまった! やっべ〜!」
 慌てて彼は、脱ぎかけたシャツをそのままに、手の平で必死に皺を伸ばし始める。
 それを一瞥して少年は小さく笑みを刻みながら、自分のロッカーを開いた。
 そこに吊るされた白い制服を取り上げて、襟元のホックを指先で外す。
 手の平で触れただけでも上等の白い制服は、いつもの物と同じ形の短袍であったが、上に鎧を着ないために、余計な刺繍や飾り紐が取り付けられていた。
──まぁ、近衛兵たちのように、臙脂色の長袍に黄金の刺繍……なんていう、とてもではないが勤めを果たせそうにない制服を着なくてすんだだけ、マシなのだろうが。
 そう思いながら、少年が白い短袍に片腕を通したときだった。
「──って、あれ!? なんだよグレンシール、お前、パーティ担当なのか!?」
 必死で皺を伸ばしていた男──実はグレンシールの同僚であった青年が、驚いたように目を丸く見張って、彼が腕を通している白い短袍を見つめる。
 グレンシールは、深い緑色の双眸を細めて、何も言わずに片腕を袖に通した。その拍子に袖口に縫い付けられた刺繍が見えて、グレンシールは形の良い眉をゆがめる。
「い、いいなぁ〜! なんでお前だけ、んないい配置につくんだよ〜!」
「俺だけじゃない、アレンもそうだ。」
 もう片腕を短袍に通しながら呟くと、グレンシールの隣でロッカーを空けたところだったアレンが、苦虫を噛み潰したような顔で睨みつけてくるのが分かった。
 余計なことを言うなと言っているのは理解できたが、どうせアレンもすぐに白い短袍を着始めるのだから、ばれるのも時間の問題なのだから、気にすることでもない。
「げげっ、アレンもか!?」
 グレンシールの肩越しに顔を覗かせてくる兵士に、アレンは視線を向けた後、ヒョイ、と肩を竦める。
「変われるものなら変わってやるよ、ディクス。
 パーティ会場の警備なんて、肩が凝るばかりでいいことないじゃないか。」
「っか〜! わかってないなぁ、アレン!」
 ダメだダメだ、というように大きくかぶりを振ったディクスに、何がだ、とアレンは見て分かるほどにブッスリと顔を顰める。
 グレンシールはそんな親友を一瞥して、クッ、と笑みを口元に刻むと、白い短袍のホックを止めて、普段はつけたことのない飾り紐に手をかける。
 複雑な紐の組み合わせを一つ一つ丁寧にはめ込みながら、ロッカーの中を見上げれば、まだこれからつけなくてはいけない華美な剣帯だの、肩章だの、見ているだけでウンザリしてくる有様だ。
 グレンシールとしては、白い短袍だけでも十分だと思うのだが、パーティ会場の警備に当たる以上は、主役を食わない程度の「華美」さが必要らしい。
「あのなぁ、アレン! パーティ会場の警備をするってことはだなぁ、あの、キラウェアさまとソニア様の正装姿を見れるってことなんだぜ!? あのお二方の正装姿なんて、夜会でもないと見ることないだろっ!?」
「──……いや……、興味ないな。」
 キュ、と眉を寄せて、それの何がいいんだと言いたげなアレンの呟きに、
「だったら、マジで俺に変われよっ!」
 ギラギラと目を輝かせて、ディクスはグレンシールを押しのける勢いでアレンに迫った。
 飾り紐を持ち上げて、それを面倒そうに短袍につけていたグレンシールは、溜息を堪えながらディクスを見やる。
「近づくな、ディクス……汗くさい。」
 うんざりしたように、自分の肩越しに見える男の肩を強引に戻しながら、グレンシールはアレンに視線をやった。
「それにアレン、お前ももう少し考えて発言したらどうなんだ?
 城外警護ならとにかく、会場警護の人員が俺たちの都合で変更なんて出来るわけがないだろうが。」
 ──会場警備を勤めるということは、誇るべきことだ。
 要人たちが集まる中、彼らに粗相のない程度にマナーを心得、壁の花に徹する鉄壁の理性を有し、なおかつ何かあったときには、真っ先に気付き、動くことが出来るもの。
 自分たちはその選定の基準をクリアした者として、名前を連なることが出来たのだ。
 この警護の仕事はいわば、自分たちの実力を知るいい基準でもあった。
「分かってる……仕事だからやるけど、気乗りはしないんだよな……パーティ警護って、疲れるだけだろ?」
 やる気がでない、と呟きながら、アレンはようやく自分の白い制服へと手を伸ばす。
 そんなアレンに、藍色の上着を羽織ったディクスが、くっそーっ、と悔しげに吐き捨てた。
「贅沢言ってるんじゃねぇぞ、アレン! 俺なんて、パーティ警護を経験したことだってないんだからな!」
 悔し紛れに怒鳴るディクスに、グレンシールはヒョイと肩をすくめながら──だから、そういうミーハーなところがあるから、隊長も選ばないんじゃないか、なんて思ったが、そこは口にしないでおくことにする。
「って言ったって、ディクス? 夜会の警護って大変なんだぞ?
 正装しなきゃいけないし、身だしなみには気を使わなくちゃいけないし、帯刀する剣だって、装飾華美で使いにくいんだぜ。」
 ロッカーの中から、「装飾」を重視した今日の帯刀する剣を取り出して、見ろよ、とうんざり顔でアレン。
 グレンシールはそんなアレンを横目に、自分の腰に彼が掲げたのと同じものを挿した。
 これで後は髪を軽く整えて、準備は完了だ。
──というのに、グレンシールの相棒であるアレンは、未だに白い制服に両腕を通しただけの姿だ。
 あまり器用とは言えない彼が、面倒な飾り紐や肩章を付けるのにどれくらいの時間がかかるのか──正直考えたくもなくて、グレンシールはアレンに早くしろとせかすように、バンッ、とロッカーを叩き閉めた。
「その苦労をしてでも、してみたいから人気が高いんじゃないか、夜会の警護はさ。
 その上今回は、──ほんっと、でかい催しだしなぁ……。」
 ズボンのベルトをキッチリとしめあげながら、ディスクが小さく呟けば、回りから同意を示すような声が返ってきた。
 黄金皇帝が即位した時ですら、こんなに大きな催しではなかった。
 王位継承戦争が終了した直後だったからだ。
 同時に、内乱の起きていた赤月帝国を、付けねらう諸国の眼があったため、必要最低限の「見目」は必要とされたが、それでも5年前の即位式は、バルバロッサの父である先王が即位した時に比べたら、一回りは小さな即位式だったことに代わりはない。
 一国の王の──皇帝の即位式ともなれば、数多の美女が国中から集まり、一ヶ月近くは首都が賑わってもおかしくはないというのに、5年前と言えば、たった3日間の宴が催されただけで、後は滞りなく通常業務が始まっただけ。
 もっとも、そのおかげで──余計なことに国庫を使われなかったおかげで、グレッグミンスターの復興も早かったわけだけど。
 それでも。
──黄金皇帝の「お目見え」には、不満ばかりを感じていた……民の誰もが。
 自分たちの王が、どれほどすばらしい人なのか、他所様に見せびらかしたい気持ちがあるのは、何もバルバロッサの腹心の部下である「ミルイヒ=オッペンハイマー」だけではないのだ。
 あの花将軍の言うところの、「バルバロッサ陛下のすばらしさを、他国にも国内にもお見せするチャンスが必要です」──というのは、ある意味、国民達の気持ちを代弁しているともいえた。
 国が落ち着きを見せ、生活にも実りが出てきた今、国民が望んでいるのは、「これほどすばらしい国王を見る機会」と、「見せびらかす機会」だ。
 そうして今。
 まるでその気持ちが高まってきたことを見抜くように、この盛大な夜会。
 敵対しているジョウストン都市同盟の各国だけではなく、遠くハイランドやハルモニアからも──南からは群島諸国に至るまで。
 これから国庫をさらに豊かにさせるための「商業ルート」を手にするのを前提に、政治と商売の駆け引きをするため。同時に、たった5年でこれだけ復興させる手腕を見せびらかすために。
 国民は、一丸となって、グレッグミンスターを見事なまでの祭り状態にしてみせたのである。
 もちろん、それに一役も二役も活躍せねばならないのは、「五将軍」たちだろう。
 普段から着飾ることのないキラウェアが、宮殿付きのデザイナーの下へ採寸に来ていたという噂は、あっと言う間に宮殿内を駆け巡った。
 それどころか、あの、テオやカシム・ハジル、鎧をその身から離すことがないのではないかと言われていたクワンダまでもが「皇帝命令(という名の、花将軍の助言)」により、デザイナーの手で採寸されている。
──と、言うことは、だ。
「この機会を逃せば、絶対、見れないようなドレス姿とか、タキシード姿とか見れちゃうんだぜ〜!
 俺だって、パーティ警護をしてぇ!
 お前ら、贅沢言ってんじゃねぇぞっ! きっちりその目に、テオ将軍の晴れ姿とか焼き付けてきやがれ!」
 くっそぉぉぉーっ! と、心底悔しそうに怒鳴るディクスに──五将軍に憧れる青少年としては、多分、非常に正しいであろう行動に、回りにいた同じ藍色の制服に身を包む兵士達が、そうだそうだ! とグレンシールとアレンに向けて怒鳴る。
 一介の兵士の身では、自分が巡回&見張りをしている通路や廊下に、彼らが通りがかってくれることを祈る以外に、眼にかかることは出来ない。
 だからこそ、悔しさも倍増。しかも、見張りと巡回中は、決められた場所からは動けないのだから、まさに出会える確率は──推して測るべし。
「そっか……テオ様も正装姿になるんだ……。
 それは、見たことがないから、見たい、かな──。」
 というか、もしかしたらテオ将軍の「鎧姿」以外での正装なんていうものは、もしかしたらこれが最初で最後かもしれない。
 その事実にふと気付いたアレンが、ぼんやりと飾り紐を不器用に嵌めていきながら呟いた言葉には、グレンシールもコクリと頷いた。
 確かに、それだけでも見る価値がある。
「だが、アレンは気をつけたほうがいいと思うがな。」
「──何がだよ、グレン?」
 四苦八苦しながらも、ようやく飾帯と肩章に手をかけたアレンが、いぶかしげにグレンシールを見やる。
 そんな彼に、やっぱり忘れているなと言いたげに、グレンシールは小さく溜息を零しながら、
「これほどの盛大な夜会ということは、ご子息の社交界デビューもありうるんじゃないかと思っただけだ。」
「う……っ、ぼ、ぼっちゃんか……っ。」
 途端、アレンの顔に苦い色が走ったのを認めて、グレンシールの口元も苦い色に染まる。
 その二人の表情の変化に、ディクスが不思議そうに首をかしげた。
「ご子息って……テオ将軍の息子さんだろ?」
「あぁ……──。」
 なぜか二人は揃って暗い表情になる。声も一オクターブくらい低くなった。
「お前ら、会ったことがあるのか?」
「ある。──というか、一度テオ様のお屋敷に届け物をした時に……夕食をご馳走になったというか…………。」
 なぜかアレンの言葉尻は苦く、それを引き継いだグレンシールの言葉は、
「噂どおりのお可愛らしい息子さんであらせられた。」
 キッパリとしているわりには、嘘臭さが混じっているように感じた。
 いうなれば、普段からお世辞なんて口にしないグレンシールが、無理矢理お世辞を言ったかのような──そんな響きだ。
「……俺のことを覚えてなかったらいいんだが…………。」
「お前がぼっちゃんを女の子に間違えたのがいけないんだろうが。」
「グレンだって、最初はそう思っただろ……っ。」
「口に出してはいないからな。」
 ボソボソと呟きながら、アレンは手早く身支度を済ますと、装飾華美な剣を腰に挿し、ロッカーの裏についている鏡で手早く髪の乱れを整えると、よし、と剣の柄を軽く叩いてグレンシールに頷く。
 回りの藍色の警備服を着た青年達と比べて、華美さも豪華さも派手に見える制服に着替えた二人の少年は、そこにいるだけで空間が違ってみえるほど、むさくるしい兵舎の中で別格の雰囲気を放っていた。
 思わず、兵舎内の過半数が、感嘆と羨望の溜息を零したほどだ。
 パーティ会場の警備員は、腕や立ち振る舞いだけではなく、見目も重視して選ばれる──という、昔から続く根も葉もないというには、ありえそうな噂が立つのも、分かるような気がした。
「はぁ……俺はやっぱ、普通に会場の外で警備員でもやってたら、それでいいや。」
 この警備服を着た二人ですら、パーティ会場の華やかさの中では壁の花になってしまうのだ。──壁の花であるような服装なのだ、この派手さでも。
 それを思えば、たとえ自分たちがパーティ会場の警備員になっても、きっと華やかで派手な世界に気後れして、警備どころじゃなくなったことだろう。
 そう、きっと仕事が終った後、先三日くらいは、世界の違いに落ち込むかもしれない──もしかしたら、一ヶ月くらいは自分の顔を見たくなくて、鏡恐怖症になるかもしれない。
 ──そんな、ちょっぴりバカみたいなことをディクスが考えた、その瞬間、
「さっすが、テオ将軍に可愛がられてるヤツラは、違うよなぁ?」
 険の篭った声が、フイに響いた。
 だらしなく語尾を延ばした──そこに粘りつくような醜悪な感情が見えて、ディクスは、ハッ、とそちらを見やる。
 入り口近くのロッカーを開いた藍色の制服の男は、勤務に当たるには不適格な形に着崩して、こちらを見ていた。
 その男は、緩慢な仕草で首を傾げるようにして、アレンとグレンシールの二人を上目遣いに見つめる。その目には、あまりいい感情が浮かんでいないことに──その視線を見た誰もが気付いた。
 男は、怪訝そうな表情の二人をせせら笑うように、ふん、と小さく鼻を鳴らすと、わざとらしいほどわざとらしく顎を逸らして、
「あーあ、……俺もせめて、アレくらいお顔がよけりゃ、パトロンから推薦されてたのかねぇ……?」
 ざわめく兵舎の中に良く響く声で呟いた。
 思わず、アレンが眉を寄せて、顔をゆがめる。
 グレンシールは、表情も変えず、ただ冷ややかな眼差しで男を見る。
「今回のパーティ会場の警備役って、顔、だけで選ばれたって言う話もあるよなぁ? ──なぁ?」
 男が、自分の隣に立つ男に視線を向ければ、その視線を受けた男は、不機嫌そうに口と眉を顰めた。
「まぁな──、パーティの警護とは言うが、五将軍や、お偉方が連れてるボディガードだけで、十分牽制になるしな……。
 顔だけの警備役でも、十分勤めは果たせるんだろうさ。」
 つっけんどんな口調は、彼がアレンとグレンシールを敵視しているのが良く分かるものだった。
 それにムッとしたアレンが、何か言おうと、前へ足を進めたが、そんな彼向けて──、
「いいよなぁ、顔だけでのし上がってきたヤツは。こーゆーとこでも得できてさぁ。」
「俺たちゃ、実力派だから、そーゆーのはまねできねぇけどなぁ?」
 今度は、その二人とは違う方向から、揶揄するような声が飛んできた。
 カッ、と頭に血が上り、アレンはとっさに拳を握り締めて、声がしたほうを睨みつける。
「──……きさまら……っ!」
「よせ、アレン。」
 とっさに飛び掛ろうとしたアレンを、グレンシールは腕を差し出すことで引きとめる。
「だが……グレンシール!」
 当然、アレンはそれで引き下がれるはずもない。
 自分の胸元に差し出されたグレンシールの腕を掴みながら、グレンシールを睨み上げるが、すぐ間近に見える親友の視線は、
「負け犬のたわごとに耳を貸すことほど、おろかなことはない。」
 ──アレンですらハッとするほど冷ややかで、ナイフのようだった。
 思わず、怒りをぶつけるよりも、間近に見上げた彼の視線の冷ややかさと、零れた声の侮蔑の色に息を呑む。
 それはアレンだけではなく、他の者にしても同じようで。
「────……んなっ!」
 気色ばんだ一部の人間達に、グレンシールは突き刺すような冷ややかな──冷たい一瞥をくれて、
「自分で分からないようなヤツラに怒るだけ無駄だと言ってるんだ。
 実力で選ばれる能もないことも分からないなら──ここにいるだけ無駄だろうがな。」
 そのまま彼は、なんでもないことのようにロッカーの鍵をカチャンと掛けて、隣のアレンを見上げた。
 アレンは、目を大きく見開いて、グレンシールをマジマジと見つめている。
 その親友に、グレンシールは口元にだけに浮かぶ笑みを浮かべると、トン、と彼の腕を叩き、なんでもないように前へと足を踏み出した。
「行くぞ、アレン。──時間だ。」
「あ……あぁ…………。」
──まったく、くだらない。
 スゥ、と色の薄い瞳を細めて、グレンシールは眉を寄せたまま、兵舎の扉に手を当てた。
 そのまま、きしむ扉を表に押した瞬間、さぁ──と、砂の乾いた匂いが鼻を突いた。
 頬と髪をなぶるような風が、汗臭さに満ちた兵舎の中と比べて、随分さわやかに感じて、寄せた眉が解けた……その刹那。
「──あ……あぁ……っ!!」
 背後に続いて出てきたアレンが、唖然としたように声をあげた。
 その声に、何事だと口を曲げて視線をあげた先。
 ──ツン、と鼻に染みるような、匂いが、した。

バサ──……っ!

 羽ばたく羽根の音が、耳に痛い。
 兵舎の前の広い空間が、上空からの強い風に波打っているように見えた。
 知らず──その音と匂いに誘われるように顎を上げた先。
 見開いた眼が、間違えようもなく、巨大な影を写し取った。
「……ドラゴン────…………っ。」
 今日の主賓の一人──竜洞騎士団団長、ヨシュアの到着であった。


















 舞い降りた竜が、自分に集まる視線にか、当たりに立ち込めるなれない匂いにか、かすかに嫌がるように首をもたげるのに、苦い色が走った。
「どうどう、落ち着け。」
 手綱をしっかりと左手で握り締めながら、トントン、と首筋を叩く男が、竜の目を覗き込むように笑ってみせるが、竜はかすかな興奮を押さえ込むことができないまま、眼をギョロギョロと当たりに向けている。
 そんな様子に──これじゃ、厩舎に行くこともできやしないと、竜騎士は鼻の頭に皺を寄せて、団長を振り返った。
「団長、鎮静剤を咥えさせたほうがいいかもしれません。」
 パートナーの興奮状態は、もうお手上げだ。
 そういうように、ヒョイ、と肩を竦める竜騎士は、遠巻きに──けれど確実に興味津々に注がれる周囲の視線を感じながら、……ね? と、団長に向かって片目を瞑ってみせる。
 その悪意のない茶目っ気に、ヨシュアは口元を綻ばせてから、足踏みをすることはないが、それでもキョロキョロと眼を動かせている竜を一瞥して、顎に手を当てた。
「──……そう、だな……。」
 空を舞いながら、グレッグミンスターの空気になじませれば、もう少し落ち着くかもしれないが──いや、今日の「地上」は、お祭り騒ぎだ。どう考えても、さまざまな匂いや風が運ばれてきているこの空の下で、落ち着くことはないだろう。
 竜洞騎士団や、もう少し慣れた場所──せめて人が少ない場所なら、わざわざ鎮静剤代わりの草を食ませることはないだろうが、仕方あるまい。
 一瞬でそう判断して、ヨシュアは伺いを立てる竜騎士にコクリと頷いてやると、
「軽い程度で食ませて、厩舎の中でしばらく様子を見よう。もし、それでもダメなようなら、量を増やさねばなるまい。」
「はい。」
 首筋を預けてはくれるものの、一向に興奮を落ち着かせようとしない愛竜を見上げて、竜騎士は苦い色を刻まずにはいられない。
 団長が傍にいてくれるから、まだこれだけですんでいるが──これで団長が傍を離れてしまったら、果たして、無事に夜会を乗り切れるかどうか、彼には自信がなかった。
 鎮静剤を食ませた後、紋章で眠らせたほうがいいかもしれないということを頭の片隅に留め置きながら、彼は団長の指示に従うように、腰につけていたポシェットの中に手を突っ込んだ。
 慣れた仕草で鎮静剤代わりの草を一掴み取り出し、それを竜の鼻先でヒラリと回せると、漂う香に、竜が興味を示したように眼をギョロリと止めた。
 それを見計らって、彼はその草を獰猛な牙の間にはめ込み、牙と牙の間に挟んだ。
 とたん、とろん、と野性的な色を宿していた目がとろけるのを認めて、竜騎士はホッと安堵したように笑みを浮かべる。
「よーしよし、おとなしくしててくれよ。
 厩舎に着いたら、水と飯をやるからな。」
 ぽんぽん、と気軽に首筋を叩いてやると、くすん、と竜の鼻が鳴る。
 その愛らしい仕草に、ますます頬が緩む竜騎士の顔を見やって、ヨシュアも口元を緩めてやんわりと笑った。
「休憩なしにココまで来たからな──早く休ませてやったほうがいいだろう。」
 言いながら、ヨシュアは自分たちを遠巻きに見守っている顔をグルリと見回した。
 驚いたようにポカンと口を開けている兵士が十数人に、竜洞騎士団では決して見かけることがないメイド姿の娘が数人、さらに着飾った数人の人間が、門の方からチラチラとこちらを伺っていた。
 自分たちが竜に乗って来ることは、先触れで伝えてあるはずだし、予定していた時間もそれほど前後してはいない。──そのために、一度の休憩も挟まずに駆け抜けてきたのだ。
 なら、もうそろそろ厩舎や宿舎への案内役が来てもいいはずだろうが──……。
 そう思いながら、ヨシュアは、竜の機嫌を取っている送り迎え兼団長の護衛役としてやってきた竜騎士の青年の頭の上から、ふたたびあたりを見回す。今度はゆっくりと、一人一人の表情を確かめるように視線をやりながら──さて、一体誰に託を、なんと頼めばいいものかと、瞳を軽く細めた瞬間だった。
「──…………?」
 視線がふと、宮殿と城下町とを大きく隔てる外壁で、止まった。
 グレッグミンスターの城下へと続く正門から始まり、グルリと宮殿を囲う高い外壁は、威圧感をかもし出さないためにか、ところどころに彫刻が施され、うっとおしくない程度にツタが張り巡らされている。
 そのすぐ近くには、鮮やかな緑の木々が生えそろい、美しい花が咲き乱れる花壇も設置されていて──それは別にかまわない。
 ヨシュアが視線を止めたのは、その可憐な花々ではなく──黄金宮殿の名物、「花将軍による花の遺伝子操作で作られた空中庭園」を思わせる花々ではなく。
 竜が首をもたげた高さよりも高い、外壁の上。
 木々に隠れるような位置に、どん、と乗せられた深い緑色の「何か」にあった。
 遠目に見る限り、ソレは、壁に乗せられた何かの包みのように見える。手にとって見ないことには大きさは確定できないが、おそらく、大きさはヨシュアの顔ほどの物。──風呂敷包みに包まれた何かのようだ。
 チラリと視線をめぐらせて見るものの、宮殿を囲む壁の上に緑色の物体が置かれているのは、ソコだけ。──目立つといえば目立つし、木々に隠れて目立たないといえば目立たない。
「──……まさか、爆弾ということはないと思うのだが……。」
 自分が目を止めたものの正体が分からず、ヨシュアは顔を顰めながら、ますます目を細めてその壁の上を見据えた。
 可能性が無いわけではない。
 火薬は高価である上に、紋章術のほうが身近で使いやすいために、あまり流通はしていないが──要人が集まるこの空間ならば、効果は期待できる。
 あんな辺鄙な場所で爆発させても、意味はないと思うのだが。
 とりあえず、「あの物体」の存在を、近くの兵士に確認したほうがいいかと、ヨシュアがそう判断を下した瞬間だった。
 緑色の物体から少し離れた横手──そこに、チラリ、と、白い何かが現れた。
 ハッ、と、体がかすかにこわばると同時、その白い小さなものが何なのか、直感で閃く。
「──指、か?」
 まさかと思う間もなく、ほんの一本しか見えていなかった指先の本数が増え、すぐにそれは、ガッシリと外壁の上部をつかみ取る掌に姿を変えた。
 しっかりと両手が壁をつかみ取ったかと思うや否や、今度は少し離れた場所に、がつり、と焦げちゃ色のものが引っかかった。──靴だ。
 続けて、指と同じくらい白い脛が壁の上に持ち上がり、膝小僧が姿を見せる。
 どう見ても人の──それも生きた人間の足に、ヨシュアの眉間に刻まれた皺は、随分深くなっていた。
 「侵入者」が壁を掴んだ両手の間から、ゆっくりと丸い緑色の頭が見える。遠目に見てもそれが髪ではなく、布地であることが分かった。
 一瞬、頭に布を巻きつけた泥棒のような姿をしているのかと思ったが、その考えはすぐに払拭される。
 いや、それどころではない。
 とっさに臨戦態勢をとっていた体そのものが、動きを止めずにはいられなかったのだ。
 緑色の頭に──バンダナに包まれた小さな頭に続いて、ヒョッコリと顔を見せたのは、10歳にも満たないような、お子様、だったので、ある。
 思わず唖然とするヨシュアの視線の先で、その小さな子供は、しっかりと壁の上に立ち上がる。
 途端、子供の姿は手前に立ちふさがる大きな木に隠れてしまった。
 けれどヨシュアは、その直前に見た子供の姿を、しっかりと思い浮かべることが出来た。
 子供特有のふくよかな丸い頬は赤く染まり、パッチリとした大きな瞳は琥珀色に輝いていた。
 小さな頭は、大きめの緑のバンダナにうずもれるようで、その下から申し訳程度に黒い髪が見えていた。
 身につけていたのは、この帝国の子供なら誰でも身につけている短袍・──赤色のソレは、なかなか上物のように思えたが、遠目だったためにはっきりとしたことは分からない。
 普通に正門から入ってきたら、貴族の子供だろうかと思うところだが──あんな壁から現れたところからすると、お祭り騒ぎに乗じて、イタズラっ子たちが、城内に忍び込もうとたくさんでいるのかもしれない。
 実際、竜洞騎士団の砦でも、小さな竜騎士見習いがやることがあった。
 だからと言って、自分の背丈の3倍ほどもある壁によじ登るというのは、難易度が高すぎる。
「……無茶をする……。」
 苦い色を刻み込んで、そう小さく呟くと、
「どうかしましたか、団長?」
 いつまで経っても壁を見たきり動こうとしないヨシュアを、不思議そうに見る騎士の視線にぶつかった。
 周囲にも軽い人垣のようなものが出来ていて──見れば、すぐ近くに兵舎があるらしく、そこから兵士らしき人間が何人も顔を覗かせているのも見えた。
「いや、すまん、すぐに行こう。」
 これだけ人が集まっていれば、すぐに忍び込んだあの「坊や」も見つかるに違いない。
 そう思いながら、ヨシュアはもう一度壁の方を振り返った。
 すると、立ち上がって姿を消したはずの少年が、木の枝の切れ目から、こちらを見ているのが見えた。
 どうやら、竜を見て驚いているようだ。
 ──この分だと、竜に気を取られているうちに、あっけなく捕まってお終い……なんてことになりそうだな。
 まぁ、子供のうちは、そんな「ヤンチャ」をするのも、いい。
 そう柔らかに笑みを刻んで、ヨシュアは今度こそ竜と竜騎士と共に、歩き出そうとして──……。
「──…………っ!!」
 壁の上の小さな子供が、グラリ、と体を前に傾がせるのを認めて、とっさに地面を蹴って、駆け出していた。










「よっこいしょ、っと。」
 自分の背丈の三倍以上はある巨大な壁をクリアして、ぼっちゃんは、火照った頬をペンペンと小さな掌で叩いた。
 それから、ようやく踏破した壁の上に両足をしっかりとつけて、その上に立ち上がった。
 いつもなら、登ってきた背後からはサワサワと柔らかな水のせせらぎが聞こえるところだが、今日は回りがうるさいので、そんなことはない。
 ぼっちゃんはその中、両手を大きく広げて、すぅぅ……はぁぁ、と深呼吸をした。
 近くの宿に良く泊まりに来るサランから来る商人が、山の頂上で思いっきり風を浴びて深呼吸をすると、とても気持ちがいい──というので、ぼっちゃんもそれを真似て、自宅の屋根の頂上だとか、こういう大きな壁の頂上だとか、時々父親の頭のてっぺんだとかで、深呼吸をするようにしているのである。
 父親の頭のてっぺんでする深呼吸は、楽しくはあったが、それほど気持ちいいとは思えない。
 けれど、この大きな壁の上でする深呼吸は、いつも楽しい。
 ちゃんと「正門」とか言うところから入ってくると、砂埃や、兵士達の持つ鉄の匂いばかりしかしなくて、ケホケホと咳き込んでばかりいるけれど、ここは違うのだ。
 顎をあげれば、小さなぼっちゃんの背丈でも、黄金宮殿の二階部分が見て取れる。
 下を見れば、壁の真下近くに植えられた花壇の花の香がほんわりと漂ってくる。
 花将軍ミルイヒ・オッペンハイマーの自宅もすごく花の香がするが、それとはまた違ったいい香だ。
 ぼっちゃんは今日もそれを思いっきり吸い込んで──……アレ、と首をかしげた。
 目の前に広がる木の枝──葉っぱ。
 その緑の匂いに混じって、嗅いだ事のない香がしたのだ。
 この間、パーンの部屋で見つけた卵が腐ったような──そんな匂い。
 ぼっちゃんは、壁の上にチョコンと座り込んで、木の葉っぱの向こう側を透かし見てみることにした。
 この場所は、宮殿側からは木の枝が死角になって見えないという利点もあるのだが、逆を言えば、ぼっちゃんからも向こう側が見えないということなのだ。
 だからいつも、この壁から木を伝って降りる前に、こうして座り込んで視界が見える場所に移動して、こっそりと向こうを伺うのが、ぼっちゃんの日課になっていた。
 ぼっちゃんは、そのまま首を傾けるようにして、木の枝が切れるところから向こう側を見て──……。
「……ぅ──……わぁぁぁっ!!」
 思わず、歓喜の声をあげた。
 あまりに驚いて、その場に立ち上がって、危うくバランスを崩しそうになる。
 慌てて足を踏ん張り、ぼっちゃんはそのままの体勢で、目が零れ落ちるかと思うくらいに大きく目を見開いて、目の前に見える大きな動物を見つめた。
 隣に立つ大人が2人。──その2人が小さく見えるほど、その動物は大きかった。
 太陽の光の下で、てかてかと輝く鱗。緩やかに弧を描いた太い尾。先端が少しだけギザギザになっているのが、なんだか格好よかった。
 コンモリと盛り上がった背中部分には、翼らしいものが折りたたまれていて、獣のような四本足はガッシリとドッシリとしている。
 すらりと長い首に、ぎょろりと大きな瞳。
 頭に生えているアレは角だ。
 この生き物が何なのか、ぼっちゃんは良く知っていた。
「竜だっ!!」
 とっさに叫んで、ぼっちゃんはそのまま身を乗り出す。
 指先でしっかりと壁の端を掴んでいるが、今にも落ちそうな格好だ。
 その格好に、竜の隣に居た男が、驚いたような顔をして、片手を伸ばしてこちらへ駆けてくるのが見えた。
 それを認めても、ぼっちゃんの目は竜に釘付けだった。
 もっと近くで見たくなって、ぼっちゃんは壁から足を勢い良く剥がした。
 とたん、
「あぶないっ!!」
 声、が。
 ──すぐ、真下から聞こえた。
 地面を見つめていた視界に、その声の主が割り込むまで一瞬もない。
 大きく見開いたぼっちゃんの目に、銀色の髪が見えた。
 自分をまっすぐに見つめる目と、差し伸べられた大きな手。
 すぐに見ていた地面が──降り立つつもりだった場所が、その男の体によってさえぎられる。
 彼が自分を受け止めようとしているのすら理解できず、とっさにぼっちゃんは目を瞑った。
──落ちる……っ。
 目を閉じた瞬間、脳裏によみがえったのは、つい先日、オイタをしたバツとして、グレミオから布団でグルグルまきにされて二階の窓から吊るされたときのことだった。
 なんとかしてグルグル巻きから逃れようと、必至に布団の中で身をよじって、抜け出すことに成功したのはいいものの、吊るされた布団から抜け出す=落ちる。という構図のことは、すっかり忘れていた。
 結果、ぼっちゃんは二階にぶらさがった布団から、すぽーん、と下に落ちてしまったのだ。
 あの時は、過保護なグレミオが、万が一落ちたら大変だと敷いておいてくれたマットのおかげで、打ち身だけで済んだが、それでも凄く痛かった。
 今回の高さも、同じくらいだけど、マットよりも痛いに違いない。
 ギュッ、と歯を食いしばって、父と師匠からの教えを頭の中で繰り返してみる。
 『いいか、スイ。殴られた時は、歯を食いしばれ。舌を噛んだりしないようにな。』
 ──多分、ここにそのどちらか1人が居たら、「違うだろう。」と冷静に頭にチョップを飛ばしてくれたに違いないが、残念ながらここには誰も居なかった。
 そのままぼっちゃんは、体に痛みが叩きつけられる時を待ったが──しかし、やってきたのは軽く身を揺さぶる衝撃と……。
 コツン。
 額に、暖かな何かが当たる感触だけだった。
「──……?」
 アレ、と思って目を開くと、目の前に見えたのは、見慣れない生地。それから、先ほど感じた見知らぬ匂いがかすかに鼻先を突く。
「……りゅう…………?」
 竜の匂いだ、と、小さく零してみれば、
「あの高さから飛び降りるのはヤンチャがすぎるぞ、坊や。」
 低い……聞いたことが無い声が、上から降ってきた。
 驚いて顔を上げれば、少しだけ苦い色を刻んだ顔が、笑みを浮かべてぼっちゃんを見下ろしていた。
「……おじさん……だれ?」
 キョトン、と目を見張って問いかけると、「おじさん」は、驚いたように軽く目を見張って──それから、楽しげに肩を揺らした。
 そうすると、ぼっちゃんの体も小刻みに揺れて、先ほど額がぶつかった場所も、上下に揺れていた。
 その時になってようやくぼっちゃんは、自分が目の前の──本当に目と鼻の先に入るおじさんに、抱きかかえられているのに気づいた。
 足先を揺らすと、ぶらん、と空気を蹴るような感触がする。
 腕を動かせば、おじさんの細いけれどしっかりと筋肉のついた腕に指先が当たった。
「気はしっかりしてるようだな。ほら──自分の足で立てるか?」
 おじさんの顔がかがんだかと思うと、ぼっちゃんのブラブラした足先に固いものが当たった。
 それが何なのか考えるよりも先に、ぼっちゃんは地面に両足をつける。
 かと思うと、スルリとぼっちゃんを抱えていた腕が遠のき──先ほどまで間近にあった「おじさん」の全身が、ぼっちゃんにもようやく見上げることが出来た。
 銀色の長い髪と、少しやつれた感のある頬。薄い肌は少しだけ青ざめていて、唇も少しだけ紫色に染まっていた。
 まるで、自分が二階から落ちたときのグレミオの顔のようだと思って──そこでようやくぼっちゃんは、「壁から落ちた」のだと思って、彼は自分を助けてくれようとしたのだということに気づいた。
「はい、あの──助けてくれて、ありがとうございます。」
 ペコリ、と礼儀正しく頭を下げるぼっちゃんに、男は柔らかに笑って、ぼっちゃんの大きなバンダナの上から、大きな手の平を乗せた。
「いや、無事でよかったよ。痛いところはないかな? ちょっと強引に抱えたからな……。」
 ぼっちゃんが落ちたせいで、慌てて駆けつけたのだろう男は、そう言いながら自分の二の腕を軽く擦った。
 その動作に、驚いたように声をかけたのは、見上げていたぼっちゃんではなく──、
「団長──……っ。まさか、腕を痛められたのですか……っ!?」
 一連の出来事を、竜の手綱を手にしたまま見ていた──竜騎士の青年だった。
 団長と呼ばれた男が顔をあげれば、青年は手にした手綱をそのままに、不安と困惑した色を乗せて、こちらを見ているのが見えた。
 男は口元に笑みを浮かべて、すこししびれた感のある手をヒラリと揺らし、
「いや、大丈夫だ。」
 自分の膝よりもすこし高いくらいの背丈の──小さな子供が、不安そうに見上げているのを見下ろして、安心させるようにもう一度ぼっちゃんの頭を撫でた。
 ぼっちゃんはそれに、コクリ、と首を傾げて、それから、もう一度自分を助けてくれた男と、男に声をかけた相手を見て……その小さな背中を、大きく震わせた。
 零れそうに大きな琥珀色の瞳を、本当に落ちてしまうのではないかと思うほど大きく目を見張らせて──小さなぼっちゃんは、白いふっくらした頬を朱色に染めると、唇を小さくわななかせて、
「竜!!」
 すぐ間近に見える巨体の──その大きなうろこ、優美な姿態……フシュゥ、と息を噴出す巨大な口から覗く牙に、畏敬を込めてその名を叫んだ。
 途端、男が止める間もなく、ぼっちゃんは横手を駆け抜けるようにして、竜を少しでも近くで見ようと、地面を蹴った。
「……ぁっ。」
 自分の手の下をすり抜けるようにして走り出したぼっちゃんを、慌てて止めようと振り返るが、小さなからだの俊敏なお子様は、あっと言う間に竜騎士の傍までやってきて、自分の頭ほどもある大きな目を見上げて、ふわぁぁ〜! と、感心したような声をあげて、両手を万歳させた。
「おっきーぃっ! 竜の匂いがする〜っ!! すごいすごい!!」
 ピョンピョンと飛び跳ねて、手綱を握る竜騎士の周りを、アッチへうろうろ、コッチへウロウロ──竜騎士見習いを目指す小さな子供にたかられる経験はあっても、竜の恐ろしさを知らない小さな子供にたかられた経験がない竜騎士は、そんなぼっちゃんに困惑した表情で、左右にステップを踏みながら自分の竜を仕切りに気にして……助けを求めるように、ヨシュアへと視線を流す。
 そんな視線を受けて、ヨシュアは苦い笑みを刻むと、ぼっちゃんの後を追うようにゆったりと脚を踏み出した。
 竜としてはまだ若い固体でしかない騎竜は、それでも「竜洞騎士団」の中にあっては、年寄りの部類に入る竜であった。
 人間との付き合いも長く、分かっているためか、自分の鼻先でちょろちょろと飛び跳ねる子供を見ても、幼い竜達のように興奮して地団太を踏むこともなかったし、鼻息で子供を吹き飛ばそうとすることも──ひどい時には、ファイアブレスやコールドブレスで攻撃をしかけようとする竜もいる──ないので、その点だけは安心だ。
 けれど、あまりに子供が目に余る行動をすれば、竜とて大怪我をさせない程度の報復に及ぶことはある。
 怪我をさせないように──けれど目の前にある小さな頭を、イヤがらせのようにパックリと口の中に含んでみせるいたずらな竜もいるのだ。
 竜洞騎士団でソレを行うならとにかく、このような黄金宮殿で──しかも、竜の前で無邪気に喜び、首を傾げて竜の口の中を覗こうとしている子供は、どう見てもいい身なりの服を着ている。貴族の息子に怖い目を見せたともなれば、それは国交問題に────…………って、口の中を覗こうとしている……!?
「……ディーゼル!!」
 慌ててヨシュアが叱咤するように名を呼ぶまでもなく、竜騎士は、薄く開いた竜の硫黄臭い口の中に顔を突っ込んでいる恐れ知らずのぼっちゃんを、慌てたように自分の脇に抱え込んでいた。
 竜の口を覗き込んでいたはずが、一瞬の間に竜騎士の小脇に抱えられることになったぼっちゃんは、キョトン、と目を瞬き──自分を抱え上げている憮然とした男と、呆れた表情をして駆けつけてきた「命の恩人のおじさん」を交互に見上げて、
「おじさん? どうして竜の口の中は、温泉の匂いがするの??」
 ──今聞くことは、そういうことなのか?
 そう思わずにいられないことを、無邪気に尋ねてきた。
 貴族の子供というのは、世間知らずで無邪気でワガママだとは言うが──こんなに扱いにくい代物なのだろうか。
 小脇に抱えたぼっちゃんを、そろそろと地面に落しながら、竜騎士は唇から溜息が零れそうになるのを必死に押さえた。
 もし、こんなお子様が黄金宮殿にあふれ返っているというなら──とてもじゃないが、自分の愛竜を、一匹でつないでほうっておくわけにはいかない。
 自分の竜にナニをされるか、分からないからである。
──まったく、怖いもの知らずにもほどがある!
「坊や、竜の口の中から変なにおいがするのは、竜が火を噴くからだ。
 だから、口の中を気軽に覗き込んじゃいけない──時々竜は、げっぷをするように小さな火の塊を吐くからな。」
「へー……それじゃ、竜の口の中の皮は、耐熱仕様なんだー。」
「………………………………。」
「………………──そうだな……そういうことだな。」
 クツクツクツ、と思わず黙り込んだ竜騎士の代わりに、楽しげにのどを鳴らして、ヨシュアがぼっちゃんの疑問に笑って答えてやった。
 そんなヨシュアに、竜騎士はなんとも言えない顔を向けて、
「……ヨシュアさま…………。」
 何かを訴えるように呟いて見せたが、ヨシュアはそれに苦い色を刻んだ笑みを見せて答えるしかなかった。
 どちらにしても、この「ちょっぴり変わったお子様」を、いつまでも竜の周りをうろうろさせるのは危険なような気がした。
 ヨシュアは、腰を折ってぼっちゃんに視線を合わせると、
「ぼうや、この竜は長く空を旅してきたから、少し休ませてやらなくてはいけないんだ。だから、また今度遊んでやってくれないかな?」
 子供を落ち着かせるような和やかな微笑みを浮かべてみせた。
 間近に見えた瞳と、サラサラと風に揺れる珍しい銀色の髪を、ぼー、と見ていたぼっちゃんは、その言葉に軽く首を傾けると、
「──……僕も一緒に、お昼寝しちゃダメ?」
 上目遣いで、じー、とヨシュアを見上げた。
 そのキラキラ光った目に見つめられて、ヨシュアは変わった子供だと、ますます笑いが零れそうになるのを堪えながら、ココで話しは終わりだと言うように立ち上がり、ぽん、とぼっちゃんのバンダナに包まれた小さな頭の上に手を置いた。
「休む竜の傍にいることが許されるのは、その竜の騎手だけだ。」
 憮然とした顔で竜騎士が、自分の竜の手綱を軽く引きながら、呟く。
 その言葉に、ぼっちゃんは不思議そうな顔で、緩く首をかしげた後、問いかけるようにヨシュアを見上げる。
 つぶらな大きな瞳に見上げられて、ヨシュアはかすかな笑みを口元に馳せると、竜騎士に小さく頷いて、厩舎の方へ向かうように指示を出してから、ふたたびぼっちゃんに視線を落す。
「そうだな──……、疲れている竜は、とても怒りやすくなっているから、家族以外は近づいちゃいけないんだ……。……わかるね?」
 噛み砕くように言いながら──これで意味は通じるかなと、そうぼっちゃんに首を傾げて見せれば、ぼっちゃんは大人がするように顎に手を当てて、くい、と首をかしげると、
「………………ぅーん……それってつまり、寝起きのクレオに近づくのは危険なのと一緒?」
 くるん、と瞳を揺らして、逆に問いかけてくる。
「────……ぃや、そのクレオさんがどうなのかは知らないが──まぁ、そうだな。攻撃される可能性がある。」
 面白い子だ。
 そう思いながら、さぁ、と最終勧告のように、ヨシュアはぼっちゃんの肩を軽く押し出す。
「だから、竜と昼寝をするだとか、危険なことは考えないようにしてくれ。坊やに何かあったら、おじさんが坊やのご両親に向ける顔がない。」
「それじゃぁ、家族がいるときなら、竜さんと一緒にいてもいいの? ね、いつだったら竜さんとおじさんは、一緒にいるの?」
 これで簡単に退いてくれるお子様なら、堂々と黄金宮殿に侵入を果たしたりしない。
 ぼっちゃんは、ココで離れては、二度と竜を見れないかもしれないと、歩き始めた竜と竜騎士を横目に見ながら、急くようにヨシュアの服の裾を引っ張る。
 歩き出そうとしていたヨシュアの動きを止めて、──いや、歩き出しても、おじさんの後をちょこまかとつける気満々で、ぼっちゃんは彼の服の裾を掴んだのである、が……しかし。
「………………スイぼっちゃん……………………?」
 困ったヨシュアの助け舟は、思いもよらず間近からやってきた。
 小さな子供を乱暴に扱うわけにも行かない……というか、先ほどの壁の上からのダイブを見るに、随分と冒険心の強いお子様らしいことが分かる。こんな子供を、納得させないままに放置したら──竜が厩舎にいることに慣れてない黄金宮殿内で、「大事件」がおきる前触れになるかもしれない。
 そんな風に、ぼっちゃんの扱いに困っていたヨシュアは、自分のすぐ背後から──兵舎の方から聞えてきた声に、肩越しに振り返った。
 竜の巨体でさえぎられて見えなかった形になっていた兵舎の前には、いつの間にか人垣が出来ていた。
 先の継承戦争でも活躍した竜の姿を、一目でも見ようと、兵舎の中にいた人間が出てきたのだろう。
 その十数人ほどの人垣の最前列に、人目を引くきらびやかな制服に身を包んだ──とてもではないが、昼日中の日差しの下で警備につくような服装ではない制服を着こなした少年が二人、整った容貌を唖然とした色に染めて立っていた。
 特に右側の黒髪の少年は、顎が落ちるかと思うほど、呆然と口を開いて、ヨシュアの服の裾を引っ張るぼっちゃんを見ている。
 銀髪の少年はというと、何かを堪えるように目を瞑り──はぁ、と溜息を一つ零していた。
 その仕草に、ヨシュアは再びぼっちゃんに視線を落すと、
「知り合いかい?」
 ぼっちゃんはと言うと、小さな肩をピョコンと跳ねさせて、
「……アレン! グレン……っ!」
 まずい、見られた、──と小さく呟いて、苦々しい色を顔に刻み込む。
 そんなぼっちゃんを真正面から認めた黒髪の少年が、キリリ、と眉を吊り上げるのに、ぼっちゃんは未練タラタラだったのが嘘のように、パッ、とヨシュアの服から手を離す。
「ぼっちゃんっ! お一人なんですか……っ!?」
 黒髪の少年は、そうぼっちゃんに向かって問いかけながら──ズイ、と足を一歩踏み出してくる。そうしながら、上半身を屈めて両手を前に突き出すのは……一瞬の隙を見せた途端に、ぼっちゃんがトピューと走り去ってしまうのを警戒しているからだろう。──そんな風に、妙に緊迫した雰囲気の原因が分かるのは、その少年の隣に立っている銀髪の少年くらいのものだろうが。
「ぼっちゃん……そのまま、ジ、としててくださいね……。」
 低く、凄むような声でアレンに言われて──ジリリ、と近づかれたぼっちゃんは、このままだとあっと言う間に間合いを詰められて、その腕に捕まってしまうと、自らもジリ、と後退する。
 そんなぼっちゃんと、黒髪の少年とを、交互に見交わしていたヨシュアは、一体どうしたのかと、口を開こうとしたのだが──それよりも一瞬早く、
「竜のおじさん! いろいろとありがとうございますーっ!!」
 突然ぼっちゃんが、ペコリと素早くお辞儀をしたかと思うと、そのままの動作でクルリと踵を返し、ダッ、とばかりに走り出した。
 向かう方角には──先ほど竜と竜騎士が立ち去った、黄金宮殿の正門がある。
 ヨシュアが視線を向ければ、正門へと続く辺りに、竜を一目見ようと集まってきたらしい人々が垣根のように連なっているのが見えた。
 幾重にも重なる人垣に向けて突進していくぼっちゃんに、黒髪の少年が慌てて叫ぶ。
「スイぼっちゃん!? ちょ……っ、そっちに行ったら、迷子になる……っ。」
 ぼっちゃんが入り口に向けて走り始めたのを追って、彼も地面を蹴って駆け出す。
「あんたたち! そこの子供を止めてくれっ!!」
 右腕を伸ばしながら叫ぶ少年──アレンの声に、そこに集まっていた人々は、ナニが起きたのか全く理解していないようにキョトンと目を瞬いた。
 その中には、兵士らしい姿の人間もチラホラと見えるというのに……どうして、一瞬で体が動かないんだと、アレンはじれったい気持ちを込めて、人垣の中にスルリと入り込んだスイを手で指し示す。
「その子だっ! 早くっ!!」
 怒鳴るように叫べば、何が起きているのか分からないまでも──いくら正門近くとはいえ、黄金宮殿内にお子ちゃまがいるはずがないと気づいた面々が、慌てたように足元を駆け抜ける子供を捕まえようと腰を屈め始める。
 ──けれど、そんな遅い認識で、小さな体を駆使して駆け抜けるぼっちゃんの体が、引っ掛かるはずもなく。
 タタタタタタ……っ!
 ぼっちゃんの体は、まるですり抜けるようにして、あっさりと人垣の向こうに排出されてしまった。
「……すごいな、脱走の名人だ。」
 思わず感心して、感嘆の吐息を零して見せたヨシュアの視線の先では、唖然として後ろを振り返る人垣の中に、不器用にも正面から突っ込んでいく黒髪の白い制服の少年の姿があった。
 ぼっちゃんと違い、体の大きな彼は、後ろを振り返っているために自分の存在に気付いてくれない人垣に、ゴツンゴツンとぶつかりながら──それでも必死に人垣を掻き分けているようだが。
──あれだと、逃げられるのは確定だだろう。
 逃げた後に、厩舎に向かった竜に会いに行かないといいのだが──と、懸念を顔に表しながらヨシュアは呟く。
 そんな彼の言葉に、
「お褒め頂き、光栄のいたりです──と、申すべきなのでしょうか?」
 苦い色を含んだ声が、横手から聞えた。
 ふと視線を向ければ、そこに立っていたのは、人に揉まれている最中の黒髪の少年の隣に立っていた──銀色の髪の少年。
 冷ややかな印象を与える翠玉の瞳を緊張に染めて、彼はペコリと頭を下げる。
「スイさまがご迷惑をおかけしました。──主に代わり、わたくしから謝罪を。」
「……あの坊やは、スイと言うのか?」
 身なりのいい子供だとは思っていたが──白い短袍に身を包んだ、一目見て軍人と分かる少年に「さま」付けをされるということは、貴族か将軍クラスの人間の子息と言ったところだろう。
 バルバロッサ皇帝には子供はいないと聞いているし、現在の王族には小さな子供は居なかったはずだから、王族に連なる者ではないことは確かだ。
「はい。テオ・マクドール将軍の嫡男で、スイ・マクドールさまです。」
 少し硬い色を滲ませた少年……グレンシールの言葉に、ヨシュアは軽く目を見開いて──それから、そうか、と短く応えた。
 テオ・マクドールと言えば、今や赤月帝国内のみならず、近隣諸国でも名声高い「六将軍」の一人だ。
 先の継承戦争において、バルバロッサ皇帝の下、誰よりも力になった六本柱の一本──そして、ヨシュアも何度か顔をあわせたことがあるが、一本気の通った、とても気持ちの良い、すばらしい男性だった。
 彼の息子と言うことは……もしかしたら、バルバロッサが本拠地にしていたあの城の中で、何度か顔を見合わせたことくらいはあるのかもしれないが、もともと打ち合わせ程度のことでしかあの地に顔を出すことがなかったヨシュアの記憶には全く残ってはいなかった。
「……なかなか、将来有望そうな子で、マクドール将軍が羨ましい限りだ。」
 数年前に、あの城の中で出会っていたら──きっと、今とは違う邂逅になったに違いない。
 そう考えると、少しだけ愉快で……軽く喉を鳴らして笑いながら、ヨシュアは小さな坊やをそう表現した。
 グレンシールは、その言葉に、なんとも言えない表情を噛み砕いて……それから、緊張に強張る肩を、しっかりと張りなおしながら、
「ヨシュア殿がそうおっしゃっていたと、将軍にお伝えしておきます。」
 ペコリと頭を下げる。
 その頭の上から、
「いや……、ここに来ているということは、スイ君もパーティに出るのだろう?」
 この時間にココにいるということは──そう、言外に考えながらのヨシュアが問いかける。
 パーティ会場で、彼の父に直接会えたなら──そうだ、明日の朝、少しだけスイを借りれるかどうか聞いてみるのもいいだろう。
 あの子は、竜に興味津々で……あのまま放っておけば、竜の口の中に頭を突っ込んで、「べろの上でお昼寝〜」とかしてくれそうで怖い。
 そうなる前に、少しだけ──明日の朝一番で竜洞騎士団に帰る前に、ほんの少しだけなら、竜の上に乗せてやることができる。竜の上に乗って、黄金宮殿の上を一回りもすれば、小さな子供は満足してくれるだろうか。
 穏やかな微笑を口元に貼り付けながら、ヨシュアはグレンシールを見返したのだが、返ってきた答えは、しごく鈍いものだった。
「…………いえ……、俺……わたしもそうだと思ったのですが………………。」
 この大規模なパーティで、ぼっちゃんもきっと、社交界デビューだろうと、そう思っていた。
 けれど。
 ──この時間になってもまだいつもの服装で、しかもなおかつ、アレンとグレンシールを見かけた途端に逃げるということは。
 ……………………眼の前にいる重鎮相手に軽々しく言えることではないのだが、おそらく、たぶん………………。

 不法侵入かと。

「ぼっちゃんは、まだ……お小さくあられますから。」
 下げた頭を上にあげたときには、少し引きつってはいたが、笑顔を浮かべることができた。
 その笑顔を見て、何事か察したらしいヨシュアは、楽しげに目元を緩めて、
「そうか……、そうだな。」
 これは、内緒なんだな、と──目で語ってから、手を口元に当てて、声にならない笑いをかみ殺したのは……眼の前にいたグレンシールにしか、分からないことであった。












 人垣の足の間をすり抜けて、ばふっ、と人垣の中から飛び出た後は、すぐさま踵で90度回転。
 右に走れば黄金宮殿の入り口だ。
 今日の目的は、黄金宮殿に集まるたくさんの人の見物でもあったから、本当ならそのまま何食わぬ顔で宮殿の中に入って行きたいのだが、残念ながら今は後ろに追っ手がいた。
「今日のラッキーは、竜に会って全部なくなっちゃったみたい。」
 まさか、あんなところでアレンとグレンシールに会うなんて思っても見なかった。
 父上にぞっこんな二人はきっと、スイを捕獲したあとは、首根っこをぶら下げた状態で父のところまで連れて行ってくれるに違いない。
 そうすると、漏れなくクレオやパーンがやってきて、首根っこを掴まれたまま、マクドール邸に連れて行かれ、さらにそこでグレミオに手渡され、後はお決まりのお説教とデートコースだ。
 今日は特に、グレミオが父の元へ持っていくお弁当を持ち出してきてしまったから、そのことで二倍も怒られるに違いない。
 全く、今日は本当についてない。
 そんなことを思いながら、宮殿の中へ逃げるのは諦めて、スイは左手に進行方向を取った。
 後ろでたくさんの人が、何か叫んでいたが、気にせずスイは慣れた足取りで黄金宮殿の入り口へと走る。
 とにかく一度外に出て、頃合を見計らって再侵入すればいいのだ。
 パーティが始まるまでにはまだ時間がある。
 「ぼっちゃんはまだ小さいから、パーティには参加できないんですよ。」
 残念ですけどね、と笑って言ったグレミオの言葉は、ちゃんと守る。
 だから、パーティが始まるまでにはおうちに帰らなくてはいけないのだ。何せぼっちゃんは、パーティに参加できるほど、「大きくない」のだから。
 ──でも、これだけ賑やかなんだから、やっぱり、ちょっとは見てみたいよね?
 パーティが始まるまで、その雰囲気や見たこともない服装を見るのは、自由なはずだ。
 スイはそう考えたのである。
「とにかくー、いちじてったいー!」
 おーっ、と片手を振り上げて、スイは隣から伸びてきた腕をスルリと交わし、一直線に走るはずだった道を少しだけ蛇行して、それでも正門目掛けて駆け抜ける。
 昔──数年前に、ココとは違う大きなお城で覚えた言葉の意味は、スイにはまだ良く分からなかったけど、とにかく敵にお尻を見せて逃げて、後でもう一度やってくるという意味だと言うのだけは理解している。
 いちじてったい、いちじてったい、と自分に言い聞かせるように呟きながら、スイは最後の関門──正門の左右に槍を持って立っている兵士二人の間をすり抜けようと、さらに加速させる。
 背後からは、ようやく人垣から抜け出たらしいアレンの声が響き渡った。
「警備兵! ぼっちゃんを外に出すなっ!!」
 その声に、慌てて兵士2人が槍を放り出し、スイに向けて腰をかがめてくるのが見えた。
 右と左から2人。四つの腕。──なかなか強敵だ。
 けれど、ココで捕まったら、漏れなく父に差し入れされてしまう。それだけは避けねばならない。
 どうせ同じお説教をされるなら、さんざん楽しんだ後のほうがいいに決まっているのだ。そのためには、ココで捕まるわけにはいかない。
 宮殿の敷地外に出さえすれば、グレッグミンスターは現在無法地帯──小さな子供は、どこへなりとも身を隠せる。
 だから、本当に……ここが最後の関門だと、スイは気合いを入れて、伸びてくる腕を睨みつけた。
 すり抜けようとするスイを捕まえようと伸びてくる手の平を一つ交わして、続けて二つ目を潜り抜けて、三つ目に腕を取られかけたけど、それでも危機一髪抜けて────……。
 そのままコロリと地面の上を前転して、四つ目の腕も多分通り抜けた。
 よしっ、と、身軽な動作で起き上がって、スイは後ろも見ずに、そのまま走り抜けようと正門を一歩飛び出た──!
 ──とたん。
「……この子か?」
 ヒョイ、と。
 足が空を蹴った。
「……………………!!?」
 はっ、と驚いて上を見上げれば、何時の間にか目の前に現れていたらしい男が、いぶかしげな表情でスイを見下ろしていた。
 少しやつれた感じがする、精悍──というよりも、老成した雰囲気。片目には眼帯が付けられていて、それがまるでゲオルグおじさんのようだと、ぼんやりとスイは頭の片隅で思った。
 ──戦士。
 そう、彼は、戦士だ。
「──不法侵入者か?」
 何でも無いことのように、スイの両脇に手を入れて、ヒョイと抱えあげた男は、そのままスイの体を荷物のように小脇に抱えなおすと、こちらへ向けて走ってくる少年へと視線をやった。
 幼い面差しを宿す黒髪の少年──アレンは、人垣を強引に抜けてきたせいか、髪はグシャグシャ、せっかく綺麗に着こなしていた制服も、よれよれになっていて、肩章は外れかけていた。
「あぁ……っ、すみません、ありがとうございます。」
 慌てたように近づいてくるアレンを見て、スイは自分を見下ろす男を見上げて、じー、と視線で訴えてみた。
 けれど彼は、軽く眉を寄せるばかり。その静かな瞳は何を言うでもなく、ただ無言でスイを見下ろすばかりだ。
「おじさん……僕を、ひきわたしちゃうの……?」
 悲しそうに呟けば、彼は小さく吐息を零し、
「面倒ごとはご免だ。悪いことをしたなら、その罪は償え。」
「悪いことなんてしてないもん。」
 たとえ相手がかわいい子供にしか見えなくても、見たままの年齢であるとは限らない──というのが、男の持論のようだ。
 スイは、ぷく、と頬を膨らませて、唇を尖らせる。
「僕はただ、父上にお弁当を届けに来ただけだもん! そしたら竜のおじさんと竜が居て、アレンが追いかけてきたんだもん!」
 見知らぬおじさんに小脇に抱えられている状況にも関わらず、ぼっちゃんは一切ジタバタしない。突然放り出されてしまっては痛いからである。
 これがアレンやグレンシールの腕の中から、暴れるし噛み付くしで手に負えない状態になることは確かだ。
「追いかけてって……そもそも逃げたのはぼっちゃんじゃないですか……。」
 ようやくの体で男の前までやってきたアレンは、ぼっちゃんを捕まえようとしてくれた門番2人に礼を言い……それから改めて、スイを捕獲している男に向かって、頭を下げる。
「すみません、旅の方。お手を貸していただいて、ありがとうございます。」
 言いながら、クシャクシャになった頭を軽く撫で付ける間もなく、スイを受け取ろうと手を差し伸べる。
 しかし男は、その手に荷物を押し付けるどころか、顔を顰めて、
「弁当を届けに来たのに、なぜ追いかけられるんだ?」
 意味がわからん、とスイとアレンを交互に見交わす。
 そんな男の言葉に、アレンはいぶかしげに首を傾げる。
「お弁当……?」
「うん、そー。父上のお弁当届けに来たの。おつかい、おつかい。」
「………………だったら、どうして逃げるんですか?」
 てっきり、自分とグレンシールの顔を見た途端に逃げるから、また、不法侵入したのだとばっかり。
 先日のように皇帝に目通りを願い出た商人の後ろにこっそり付いて入ってきたりとか、馬車の中に入って、これまたこっそり侵入してきたのだとばっかり……。
 アレンは、はぁ、と呆れたように溜息を零して掌に額を埋める。
 ……じゃぁ、どうして俺は、勤務前にこんなによれよれになってるんだ…………。
 見下ろした服は、とてもではないがこのまま表に出れるような物ではなく、髪はセットしなおせばいいが、服は……皺だらけのヨレヨレで。
 時間がギリギリになることは間違いないが、忙しなく走り回ってるだろうメイドの1人に平謝りでお願いして、アイロンをかけて貰わなくてはいけない状態なのは確実だった。
「だって、アレンとグレンが追いかけてくるからー。」
「違います、ぼっちゃんが逃げたのが先です……っ!」
 ぷくぅぅ、と柔らかな頬を膨らませていじけるように呟くスイに、すかさず突っ込みながら、まったく、とアレンは、背の高い男を仰ぎ見ながら、
「とにかく、ぼっちゃん、テオ様にはもうお弁当をお渡ししたのでしょう? なら、早く帰らないと、グレミオさんが心配してココに乗り込んできますよ。」
 さぁ、帰りましょう、と──両手を差し出し、出来る限り……スイを抱えている男に不審をもたれないように、ニッコリ笑って見せる。
 そんなアレンに、男は無表情で小脇に抱えたぽってりした温もりを見下ろすと、
「…………。」
 無言のまま、スイを片手で差し出した。
 アレンはそれにホッと胸を撫で下ろしつつ──実を言うと、マクドール将軍の息子だと知られた途端に、誘拐魔に変化しないかと、ドキマギしていた──、男に礼を言いながらスイを受け取ろうとした。
 ──が、しかし。
「ヤ。」
 差し出された荷物のようなスイは、あっさりとアレンの手を払いのけ、男の腕に小さな両手でしがみつくではないか。
「ヤ……って、イヤじゃないだろ、いやじゃ……っ。」
 思わず拳を握り、米神の辺りにタコマークが浮かび上がるのを、アレンは自覚しながら──それでも、こんな公衆の面前で怒鳴るわけには行かないと、グッと堪えて、
「ぼっちゃん、ここでぼっちゃんがわがままを言うと、テオ様にご迷惑が……っ。」
「まだ帰れないもん。
 だって僕、まだ父上にお弁当渡してない。」
 キッパリはっきり。
 抱えあげられていなかったら、胸を張っていただろうと思われる堂々ぶりで、スイは男の腕にしがみついたまま宣言してくれた。
「………………………………………………。」
「……………………お弁当はどこに持ってるんだ?」
 思わず動きを固めて──おつかいの途中で、なんであんなところに居たんだとか……それ以前に、お弁当はどこだとか、頭の中でグルグル思っているアレンの言葉を代弁するように、冷静に男がスイを見下ろす。
 自分が抱えている小さな生き物は、どう見ても何か「父のお弁当」らしきものを持っているようには見えなかった。
 上着のポケットの中になら、飴やキャラメルのようなお菓子は入っているかもしれないが、「父」の弁当が入っていないことは間違いない。
 スイは、男の言葉にキョトンと目を見開き、彼にしがみついていた自分の手を見て、首をかしげ──、
「……ぁっ! 壁の上っ!!」
 ポンッ、と、軽快に掌を叩いた。
「壁?」
「……かべ?」
 当然ながら、アレンも男も、「壁の上」の言葉の意味を、理解できるわけがなかった。
 いぶかしげに顔を顰めあう二人を前に、スイは思い出したら善は急げとばかりに、ジタバタと暴れ始める。
「おじさんっ、壁! 早くしないと、誰かに食べられちゃう! 僕も父上のおにぎり握ったのーっ!!」
 男の腕の中で身をよじり、なんとかして地面に降り様と──そして、そのまま弁当の場所まで走りだそうと、スイは叫んだ。
 ジタバタと暴れるスイの身体がズリ落ちそうになって、男は無言で抱えなおしながら、うんざりした表情で、グルリと当たりを見回すと、
「壁というのはどこの壁だ。」
「しんにゅうけいろ。」
 ジタバタしながらカタコトで答えてくれるのは結構だが、
「その侵入経路はどこだ?」
「言うとばれちゃうからいえないの。」
「………………………………。」
「………………………………。」
 一体どうしろというのだと、男が無言で瞑目するのに、アレンも何を言ったらいいのかと、重い溜息を零しながらその場にしゃがみこむ。
 とにかく、今はスイを落ち着けさせるのが先決かと──というか、壁から侵入って、どこかに穴でも開いてるんだろうかと、頭の片隅でおもいながら、アレンが改めて男に向かって、スイを自分の腕に寄越すように言おうとしたところで。
「──そうか、あれは弁当箱だったのか。」
 楽しげに喉を震わせて、笑う声が聞こえた。
 その聞きなれない低い響きに、ハッ、とアレンが振り返れば、ちょうど人垣を通り抜けてきたらしい人影が二つ、こちらに向けて歩いてきていた。
 片方は、自分の相棒とも言える銀髪の少年──グレンシール。
 そしてもう一人は、つい先ほどまでスイが嬉しそうに話していた相手──竜洞騎士団の団長であるヨシュアだ。
 目を見開いてその二人を見るアレンに、どこか緊張した面持ちのグレンシールが、アレンにだけに分かるように苦い色で目を細めたのが分かった。
 かすかな狼狽がアレンに走ったのに気付いてか気付かずか、スイが男の小脇に抱えられたままの体勢で、
「あ、竜のおじさん!」
 ニッパリと満面の笑顔を浮かべて、ブンブンと手を振ってくれた。
 そんな小さな子供に、ヨシュアはますます楽しげに笑みを浮かべながら、憮然とした表情を浮かべる男とスイに近づく。
「元気なのはいいことだが、きちんとお使いは済ませてからじゃないと、遊んじゃダメだぞ?」
 ヨシュアの姿が見えた途端に、ピタリとおとなしくなったスイの頭をポンポンと叩くと、スイは首をすくめるようにしてそれを受け止める。
 アレンは親しげな様子でスイに声をかけるヨシュアを、なんとも言えない顔で見つめた後、ヨシュアの後ろからやってきたグレンシールに視線を飛ばした。
 少年達はお互いの心を読みあうように無言で視線を酌み交し──結局、いつものようにアレンがかすかにうな垂れて、グレンシールから「対象」へと視線を向けることになった。
「ヨシュア殿、あの……そのお弁当というのは、どこで見かけられたのでしょうか?」
 先ほど聞えた発言がヨシュアのものであるというなら、眼の前の竜洞騎士団の団長は、スイが持って来た「お弁当」の行方を知っているということになる。
 そう思って問いかけたアレンに、ヨシュアに頭を撫でられて嬉しそうに笑っていたスイが、ハッとしたように顔をあげた。
 ダメっ、と、スイが叫ぶよりも早く、ヨシュアは至極あっさりと、
「あちらの壁の上に、乗っていたようだが?」
 指先で自分たちが来た方角──まさに、最初にヨシュアがスイを見つけた壁の当たりを示してくれた。
 示された先にある、高い壁の上に目を凝らせば──緑の木々に混じって、ぽつん、と立つ物が、見えるような……見えないような。
「……グレンシール……。」
 困ったように眉を寄せるアレンの呼びかけに、グレンシールは一つ溜息を零して頷くと、
「……ハシゴを借りてくる……。」
 げんなりした声でそう呟いて、今歩いてきた道を戻っていった。
 それを見送ったアレンは、やっぱりそうなるんだろうなと、自分の皺塗れになった服を、無駄な抵抗と知りつつも指先で伸ばしながら、男の腕にぶら下がったままのスイを見やった。
「ぼっちゃん……さぁ、俺と行きましょう。」
 今度こそ観念しろとばかりに両腕を差し出す。
 そのアレンの手を見て、イヤそうに顔を歪めたスイであったが、今度は「イヤ」と拒否する暇もなかった。
 自分を抱えていた男が、アレンの言葉にすぐにスイを差し出してしまったからである。
 気付いたら、たくましい男の腕の中から、アレンの細い腕の中に放り込まれてしまう。
「うっ……何時の間に……っ!」
 一瞬の出来事に、抵抗する暇もなかったスイは、その事実に愕然とせざるを得なかった。
 ぜんぜん抵抗できなかった……と、ひそやかにガーンとショックを受けるスイを、アレンはしっかりと抱えなおす。
 そんなスイの上から、
「父君にお弁当を届けるのだろう?」
 あまりヤンチャが過ぎると、怒られるぞ、と──これまた楽しげに喉を震わせながら、ヨシュアが声を掛けてくれる。
 スイは喉をそらせるようにして彼を仰ぎ見ると、少し首を傾げて──、自分がすでに「負け」てしまったのだという事実を、しみじみと噛み締めた。
 それから、ヨシュアの肩の向こうに見える男を見上げて、また考えるように反対側に首を傾げた後、
「おじさんとおじさんには、ご迷惑をおかけしました。」
 アレンの腕の中に収まったまま、ペコリ、と頭を下げた。
「……────。」
 しぃん……と、微妙な沈黙が落ちる中、アレンは苦渋に満ちた表情で俯き、男は呆れたような表情を見せ──そして、ヨシュアは、堪えきれないように噴出した。
「はは……っ! いや、こちらも面白かったよ、スイ君。
 またあした、君が早起きできたら、ぜひ会おう。」
 笑いながら、約束だ、と言うようにスイの手と握手をして、軽く上下に振ってくれた。
 イヤにフレンドリーな団長に、アレンはスイを抱えたまま、奇妙な緊張に肩を強張らせるばかりだが──スイはというと、何を言われているのか理解できない様子で、パチパチと目を瞬いた。
「????」
 緩く首をかしげるスイに向かって、ヨシュアはなんでもないと言うように微笑んでみせたところで、先ほど兵舎の方に姿を消したグレンシールが、肩に木製のハシゴを担いでやってきた。
「アレン、ぼっちゃん、テオ様のお弁当を救出に行くぞ。」
 酷く真面目な顔で言う台詞ではなかったが、アレンの肩をガックリと落とす効果と、スイの目にやる気を灯らせる効果はあったらしい。
 アレンの言葉に、スイは見る見るうちに楽しげな色を瞳に宿すと、うんうん、と大きく頭を上下させ、
「おーっ!!」
 元気良く応答した。
 拳を振り上げた瞬間、がこっ、とアレンの顎先に当たったが、スイは気にしない。
 肩を落とした拍子に、スイの拳にアッパーされたアレンとしては、そのまましゃがみこんでスイの体を放り出したい気持ちになっただろうが、恩あるマクドール将軍の1人息子を投げるようなことはしなかった。
「父上のお弁当救出作戦〜♪ アレン、早く早く!」
 自分を抱え込んでいるアレンの腕をバシバシと遠慮なく叩くスイに、「誰のせいで弁当を救出するハメになってるんだ……」と、思わずぼやいてしまったのも、仕方がないことだろう。
「はいはい……ぼっちゃん、頼むから暴れないで下さい……。」
 あきらめた様子で一つ溜息を零して──アレンは、改めてヨシュアと名前も知らない男を振り返った。
「それではお二方、貴重なお時間に手間取らせてしまい、申し訳ありませんでした。この後は、どうぞごゆっくりとお楽しみ下さい。」
 さすがに「竜洞騎士団」の団長を前にして、スムーズに言葉は零れてこない。
 失礼にならない程度に必死に言ったあと、ペコリと頭を下げて──後は逃げるように、グレンシールがハシゴを持って待つ場所に、駆け足で向かうことにした。
 そんなアレンの腕に抱えられた状態のスイは、上下に激しく揺さぶられながら、グルリと首をめぐらせてヨシュアと男に向けて、小さな手を振った。
 そんな彼に、ヨシュアは口元を緩ませて──同じように彼に向けて手を振り返す。
「…………先の思いやられる小僧だな。」
 小さく──ポツリ、とひとり言のような低い囁きが聞こえてきて、ふと顔をあげれば、眉間に濃い皺を寄せた渋面顔の男が、人垣の中に消えていく三人の人影から、視線をこちらへと向けたところだった。
 少し痩せたような感じがするが、老成した中に見え隠れする牙の気配も、健在──まだまだ彼は、「解放」を願っていないようだと、他人事のように思いながら、そうだな、とヨシュアは同意を放つ。
「見ていたかのように良いタイミングだったな、ゲド?」
 久し振りだ──なんていう言葉を交わしあうことはない。
 そんな言葉は、お互いにとって意味がないからだ。
 楽しげに笑いながら顔を見れば、彼はヒョイと小さく肩を竦めて、
「俺の運が悪いだけの話だろう。」
 あの瞬間に、ちょうど正門をくぐろうとしていた自分のことを、「運が悪い」と言い切る男に、ヨシュアは堪えきれない笑みを口の端に刻みながら──そうか、と呟いた。
「それで、ゲド? あんたはいつまで居るつもりだ? あしたの朝早朝でよかったら、ついでに送っていってやるが?」
「ちょうどあんたが到着する少し前に、俺もここに着いたばかりでな……そのときになるまで、いつ出発するかはわからんよ。」
 正門の前で立ち止まっているわけにも行かないからと、ゆっくり歩き出せば、ゲドも何も言わずにその横を歩き始める。
 当たり前のように揃って歩き出しながら──、あぁ、ちょうどいい「ボディガード」ができたな、なんて……口にすればきっと彼は、面倒だと言いたげに眉をひそめてくれるだろう。
「……そうだな……。」
 少しだけ瞳を細めて、眼の前に聳え立つ黄金宮殿を見上げれば──つい五年前に攻め込んだその宮は、あの時見せたのとはまるで違う色を持って自分を出迎えてくれている。
「過去を知ることはできるが、未来を知ることは誰にも出来ない。」
 五年前には、冷ややかに傲慢に見えた宮殿は、今、眼の前で、温かできらびやかな光を持って自分を出迎えている。
 ──こんな「現在」を、戦いに身を置いた自分たちが、どうして知ることが出来ただろうか?
 想像することが出来ただろうか?
「新しい星は……どこにでもあるものだ。」
 穏やかに笑って口にしたヨシュアの言う「星」の意味が、何を指し示し、その瞳の先がどこへ向けられているか分かったからこそ、ゲドはそれに応えず、ただ小さな嘆息を漏らした。
「──────………………。」
 同じように視線をあげれば、帝都のどこからでも見上げることのできる黄金宮殿が、すぐ眼の前に威圧的に建っている。
 その、二階の奥に佇むのが──今の「新しい星」と言うものなのか……違うものを言うのか。
 ふん、と短く鼻で息を吐き、ゲドはくだらない妄執を振り払うように緩く首を振ると、改めてヨシュアに視線をむけ、
「送り賃は、今日一日のボディーガードで上等か?」
「十分だ──雷殿。」
「……………………………………。」
 いやがらせか、と、苦い表情を刻むゲドをチラリと横目で見て、ヨシュアは再び楽しげに喉を震わせた。
──こんな面白い物にめぐり合えるのならば、たまにはこういう遠征もいいものだ。
 そうひそやかに思って微笑めば、それを見越したような仕草で、古馴染みの男は、片眉をそびやかしただけで、何も言わずヨシュアと同じ方向に向けて歩き出した。
 その気配を背後に感じながら空を見上げれば──まるでその瞬間を狙ったかのように、宮殿の頭上で、ドォン……と、祝砲が一つ、あがる。
 色のついた煙が、青い空にたなびいて消えていく。
 その、どこかはかない姿を思わせる祝砲に、ヨシュアは軽く目を細めると、ゆるりとかぶりを振って──小さく、呟いた。


「星は輝いている。」


──ただ、それがいつまで続くのかは、誰も知りえぬことだと……いうだけで。
 そ、と目を閉じて、ヨシュアはその言葉を、心の中に飲み込み──淡く、小さく、微笑んだ。
「さぁ……ゲド? ボディガードをしてくれると言うなら、貴殿にも着飾ってもらわなくてはいけないな?」
 肩越しに振り返って、おどけるように笑って首を傾けて問いかければ、彼は心底うんざりだというように顔を顰めてみせてくれた。
 そんなゲドに、ヨシュアはしてやったりというように目を細めると、
「いや、予備の正装服を持ってきていて、よかったよ。」
 さぁ、控え室に行くかと、快活に笑ってみせてくれた。
 そんなヨシュアの満面の──裏が隠れているような笑みを前にして、ゲドは苦虫を食いつぶすように顔をクシャリとゆがめた後、
「……まったく、運が悪い。」
 うんざりしたように──そう、呟いた。


















────この数年後、竜洞騎士団は、「解放戦争」に参戦することになる。……が、もちろん、このときのヨシュアに、そんな未来を見通せるはずもなかった。













+++ 黄金は腐敗せぬ金属ではあるが、謡われる黄金は、腐食することもあるのだと +++


天魁星さまへ捧ぐ。


……すみません、お待たせしすぎた挙句、なんか微妙な感じ……。
無駄に美青年コンビが出張ってます……。

さて、気を取り直して!
今回のコンセプトは、「団長に笑ってもらおう!」です(笑)。前半はとにかく、後半は笑みっぱなしなので、これだけは成功だと思います(笑)。
そして、ゲド大将が出てきた意味が分からないのですが(苦笑)、それはそれ、ゲスト出演ということで、サラッと流してやってくださいませ。





──黄金宮殿内、多分二階あたり。
スイ「父上〜、おーべーんーとーうーっ!!!!」
テオ「スイ……お前、どうしてこんなところまで……?」
スイ「見てみてっ! 僕がおにぎり握ったのー!」
テオ「いや、それはいいんだが、ココで広げるな……ホラ、スイ、父上のところに来なさい。」
スイ「…………(む、何か説教されそうなムード)……じゃ、お弁当はココに置いて……。」
グレミオ「って、あーっ!!! ぼぼぼぼ、ぼっちゃぁぁぁーんっ!!!!」
クレオ「おや、ぼっちゃん。」
スイ「はぅっ! やっぱり、グレが居る……っ!!」
テオ「先ほどグレミオが来てな、お前がこっちに来ていないかとスゴイ形相で……。」
クレオ「ぼっちゃん、グレミオにちゃんと断ってからお出かけしないとダメじゃないですか。メ。」
グレミオ「ぼぼぼっちゃんっ! よ、よくぞご無事で……っ!!」
アレン「いや、ご無事って言うか……。」
スイ「苦しい……グレ、僕、死にそう…………っうっ。」
グレミオ「ぼぼっちゃぁぁぁーんっ!!!」
クレオ「はいはい、グレミオ、ソコまでにしておこうな、ぼっちゃん死ぬから。」
テオ「アレン、ココまで付き添ってくれたのか、すまなかったな。」
アレン「い、いえ……っ! これも(ある意味)仕事のうちですから!」
クレオ「……ん、しかし、アレン? あんた、なんでそんなに皺になってるんだい?」
アレン「……あ、いや、これは……その…………。」
スイ「もまれたからー。」
グレミオ「えっ、も、もまれたっ!!? 何にですか!?」
テオ「あぁ……そういえば、お前もグレンシールも、ずいぶん女性陣に人気があるらしいからな……それでか。」
アレン「いや……その………………。」
クレオ「グレミオ、あんた、暇だろ? ぼっちゃんとテオ様がお食事なさってる間に、アレンの服にアイロンかけてやったらどうだい?」
グレミオ「え、それは構いませんけど、アイロンはどうしたら……。」
スイ「はいはーい! あのね、アレンの炎の魔法剣使ってもらって、それでジュゥー。」
グレミオ「ぽんっ! なるほど、ナイスアイデアですね、ぼっちゃん!」
アレン「え……っ、っていやあの、剣は戦士の命なんですけど……っ!」
クレオ「そうだよ、グレミオ、ぼっちゃん。アレンが使ってる剣じゃ、大きすぎて小回りが利かないだろう。あたしの剣にしておきなよ。」
テオ「多分、隣の部屋かそのあたりにキラがいるだろうから、キラに火の紋章を使ってもらうといい。
 さ、スイ、こっちにおいで、父上とご飯を食べよう。」
スイ「は〜い!」
グレミオ「さ、アレンさん、行きましょうか! クレオさん、これお借りしますね〜!」
クレオ「糊とか付けたら、ぶっ飛ばすよ。」
アレン「いや……あの──……えぇぇぇ……っ!?」


────ある意味、こんな面々に囲まれても泰然としているテオ将軍に、尊敬を抱く若きアレン少年であった。合掌。