太陽の泉





 戦場は、よどんだ空気にまみれていた。
 どんよりとした、重いそれは、いつも気分を最悪にさせたし、戦場を駆け抜ける風は血なまぐさかった。
 いつまでもそこにいれば、気分が悪くなっても仕方なかった。
 たとえ空の上であろうとも、地上を通ってきた風は血の匂いを運んできたし、いつもなら爽快感すら感じる風の気配も、よどみ、重く、不快感だけが身体を覆っていた。
 無造作に、濡れたタオルで顔をぬぐい、身体をぬぐいはしたものの、それでもジメジメした感触は身体からなくなりはしない。
 それも仕方ないのであろう。
 今、自分の身体を覆っているこの不快感は、血や汗の匂いや、湿気などとは無縁のものなのだ。
 この戦場を包む、数多い死者の瘴気が、自分を不愉快にさせているのだ。
 ここを抜け出さない限り、清浄な空気に触れない限り、身体を癒せることはない。
 戦なんて、どれほど経験しても、慣れてしまったとしても、いいことはない。
 首筋にまとわりつく感じのする髪を払いのけて、彼はタオルをそこに当てた。
 しっとりとした感触に、少し心が軽くなる。その部分だけ、瘴気が和らいだ気がした。
 別に、聖水につけた布なわけでもないのに、不思議なものであった。
 人間の自分でも、これほど参っているのだから、自分の愛竜は、これ以上の苦痛を味わっているはずだった。
 できれば、奇麗な泉で水浴びをしたいところであったのだが、領土から表に出ることはめったにない身であるため、このあたりの地形には詳しくない。
 竜に乗って空に舞い上がれば見つけることもできるだろうが、この周辺に敵の残党が残っていないとも限らない以上、目立つことは避けたかった。
 あとどれくらい辛抱したらいいのだろうと、彼はうんざりした気持ちをため息に変えて、空を見上げた。
 はるか高い空には、澄んだ青色が広がっている。
 でも、それすらもよどんだように見えた。
 だから、どれほど逃れられないとは言えど、戦に出るのは気が進まないのだ。
 もっとも、これに参加すると決意したのは自分であったし、その選択を間違えているとは思わないが。
 頭を振るようにして、身体にまとわりつく瘴気を払おうとするが、それは成功しない。
 振り払う先から、瘴気が湧き出て纏わり付いてくるようであった。
 近くに湖か泉はないか――せめて川はないかと、このあたりの地形に詳しい人間に聞いた方がよさそうだと、彼は汗ばんでネトネトする気のする髪を解き、手櫛で乱暴に梳いた。
 髪に布を当てて、脂っぽさを、気だけとは言えども拭い取ってから、いつものようにきっちりと纏めた。ただそれだけなのだけど、どことなくスッキリした気がした。
 それから、誰か知っている人はいないかと、一時の拠点にしている場所へと向かう。
 森の少し開けた場所に設置されたテントが見えてきて、簡易の仕掛けや、物見台が見えてきた。
 入り口を固めている兵は、大きな闘いが起こっているというのに、緊張感のないことに、相方と楽しげに話していた。
 こんなものが竜洞騎士団にいたら、見かけた瞬間に怒鳴っているところだ――最も、彼らは自分の配下ではないし、今のところ自分は客に過ぎないのだから、余計な事は言わない。
 それに、まだこうした余裕があるのは、「いいこと」であった。
 誰も彼をも信じられなくなるような戦よりもずっと、穏やかだ。
「君たち、少しいいかな?」
 穏やかな雰囲気で、優しい微笑みで、彼は二人の兵に話し掛ける。
 その瞬間、二人の背筋が伸び、びしり、という擬音が聞こえた気がした。
 慌てたように見張り兵は、軍の礼を取り、
「は、はい! 何か御用でしょうか、ヨシュア殿っ!!」
 リン、と響く声は、まさに軍隊で仕込まれたそれで――緊迫したムードが生まれる。
 客とは言えども、彼の持つ位階は伊達ではない。その名は近隣諸国に轟き、知らぬものはいないと言われているほどの有名人でもあるのだ。
 その名の大半は、現在知られている「真の紋章を持つもの」の一人として、でもあったが。
「用というほどではないのだが――この近くに、どこか水浴びができるような場所はないか?」
 実際、ヨシュアにしてみたら、なかなか大変なくらい重要なことであった。
 この戦場のジメジメした空気も、居ても立ってもいられないくらい嫌であったし、体中に何かが纏わり付いているような感じは、悪寒すらした。
 けれども、それを奇麗に隠して、ヨシュアは微笑む。
「あ、え……はい、――……え……と。」
 慌ててうなずいた兵は、隣の相棒を見やる。しかし、相棒は相棒で、困ったように顎に手を当てて空を見上げたくらいであった。
「この近くと言うと――。」
「飲み水を補給する、湧き水と、小さい川くらいなら……。」
 困ったように呟く二人に、そうか、とヨシュアはうなずく。そして、一言礼を呟くと、その場所を確認すると、踵を返した。
 そして、おとなしく待っている愛竜の元に赴くと、甘えるように擦り寄ってくる竜を一撫ですると、行こう、と手綱をひいた。





 陣を張っている場所から少し離れた森の中――緑が深くなったそこに、清冽な水の音が流れていた。
 求めていたのは、身体を沈めることのできるくらいの大きさの泉であったけど、水音は、岩の裂け目から細く流れ出し、小さな小川を作っているだけに過ぎなかった。
 確かにこれでは、飲み水や汚れを拭くなどの使い方しかできないであろう。
 せめて、もっと水源豊かな場所にテントを張ればいいものを、と思いはすれども、今の場所が、陣を張る場所としては最適な場所であることも分かっていたから、それくらいは我慢するべきだと、ちゃんと分かっていた。
 分かってはいるけれども、それとこの不快感とは、また別の問題なのだ。
「……まぁ、お前の身体を拭くことくらいは出来るだろう、な?」
 顔をあげて、きゅぅぅ、と喉を鳴らせる竜の顎を撫でてやってから、ヨシュアは近くの丈夫そうな木に手綱を結わえて、自分は懐から手ぬぐいを出して小川にしゃがみこむ。
 透明感あふれる川は、サラサラと心安らぐ音が流れてくる。
 まるで、清められた聖水のようだと、ヨシュアは川に手を入れた。
 ひやり、と爪先からしびれるような清らかさが突き抜けてくる。それは、心地よい冷たさであった。
 両手を付けて、ぱしゃん、と顔にかけると、一気に頭も顔も、引き締まるような気がした。
 二、三度顔に水をかけた後、滴る水を顎から落とし、軽く顔を振った。
 ひんやりとした顔に、風が心地いい。
 気分がすっきりしたのを感じながら、ヨシュアは手ぬぐいで顔をぬぐった。
 水滴をぬぐうのがもったいないくらい、水が気持ちよかった。
 体中を覆っていた湿った空気が払拭されていくのを感じながら、手ぬぐいを水に浸ける。
 白い布が、じんわりと――そして一気に水に濡れて染まっていった。
 たっぷりと、清涼な水を含ませるように布を泳がせてから、川から手を出す。
 冷たい水にぬれた手が、赤く染まっている。
 少しかじかむ感じのする手で、しっかりと布を絞り、立ち上がる。
 ぴしょん、と水音がして、再び川のせせらぎがあたりを覆った。
 振り返った先で、竜がのんびりと首を伸ばし、木々の合間に首を突っ込んでいた。
 このあたりは、戦場とは異なって自然の気が溢れているらしく、久しぶりにのんびりとしていた。
 いつも暮らしている領地から離れて――あそこは、竜が暮らしやすいように整えてあるから、いわばこの子の故郷のようなものなのだけれども――、ずいぶんストレスもたまっているはずだった。
 けれども、今までそれをチラリとも見せない。
 それが、愛しくて、悲しくて、ヨシュアは優しく手の平を這わせて、自分へと注意を促した。竜がゆっくりを首をこちらへ向けてくるのに、大丈夫だと、手ぬぐいを示すと、安心したように身体の動きを止めた。
 ヨシュアが何をしようとしているのか、分かっていてくれているのだろう。
 そっと濡れた布を押し当てると、大きな眼を少しすがめて、その手の行方を追っていたが、やがて瞼を閉じて、ヨシュアに身をまかせる。
 ヨシュアはそんな竜に、優しく優しく、拭き取ってやる。
 布が乾いてきた気がして、もう一度ぬらそうと川に足を向けた彼は、ふと、他の気配を感じて動きを止めた。
 テントとは逆方向で、がさり、と茂みが音を立てた。
 眉を顰め、いつでも対応できるように片足を後方にずらして身構える。
 背後で瞼を閉じていた竜も、その眼を開け、ゆっくりと首を上げるのが分かった。
 テントの方向から北野なら、それはほぼ確実に味方であると言えたのだろうけど、正面から――川向こうから来たとなれば、それが誰なのかは予測すら出来ない。
 もしかしたら、ただの森の動物なのかもしれないけれども。
 じりり、と足をずらしたヨシュアは、茂みを掻き分けて現れた人物に、拍子抜けしたような表情を浮かべた。
「ハンフリー……?」
 そこに立っていたのは、今現在テントの中に居るはずの人物だったのである。
 彼は、肩からタオルを下げて、額に滴る汗をタオルの端でぬぐった。
 それから、いつもの無表情のまま、よく見て分かる程度に目を細めて、ああ、と呟く。
「水を飲みに来たのか?」
 そして、そのままガサガサと茂みを掻き分けて、彼もまた湧き水の側に腰をかがめた。
 口を直接湧き水に近づけると、そのままゴクゴクと喉を鳴らす。
 陣に居るはずの男が、反対側から現れたことを疑問に思いながらも、ヨシュアは彼が水を飲みおわるのを待って、その後布を浸す。
 ハンフリーは口元をタオルで拭きながら、いぶかしげに眉を顰めた。
「……何をしたい?」
「身体が気持ち悪いから、身体を拭こうと思ったんだが――そういうお前は、剣の訓練か何かか?」
 それなら、言ってくれれば相手をしたのに、と続けるヨシュアに、ハンフリーは無言で背後を振り返ると、そちらを指差した。
「奥に、泉があるのだが?」
「……先ほど兵に聞いたが、ここしかないと、そう言っていたが?」
 つまり、ハンフリーの額に出ている汗は、汗ではなく、「水」であったわけである。
 ハンフリーは無言で竜を見やると、考えるように顎に手を当てて、
「知らなかったのだろうな………………。」
 そう、呟いた。
 本当にそれが真実なのかどうか、問い掛けるつもりもなかったし、問うても仕方のないことであったけれども、隊長のハンフリーに詰め寄っても仕方ないことは良くわかっていたから、そうか、とだけ答える。
 真実は、それだけではなかったのだろうが。
 もしかしたら彼らは、ハンフリーが水浴びをしているのを知っていて、だからこそ自分には教えなかったのかもしれない。
 あの兵達は、ヨシュアのことも、ヨシュアの竜のことも、よく思ってはいないようであったから。
 もっとも、ヨシュアだとて、突然竜を引き連れた真の紋章餅の男が、しばらく自分達と行動するのだと紹介されて、信頼できるかと問われても、答えられないのは間違いない。
 彼らの気持ちは良く分かったし、それを知った上でハンフリーを困らせるようなことを言うつもりもなかった。
 この相手が、つまらない相手だったら、少しは困らせるようなことや考えさせるようなことを、一言二言言うのであろうけれども、そういうわけでもない。
 それどころか、そんなつまらないことで、彼を困らせるつもりも悩ませるつもりもなかった。
 だから、水辺に腰を落としたまま、口の端をつり上げて微笑んだ。
「森の奥に行くのは、キケンだからな。」
 ヨシュアの言葉に、ハンフリーは少し考え込むように眉を顰めたが、何も言わず、髪から滴る水を拭った。
「まぁ、ハンフリーがいけるのなら、私にも行けるだろうが?」
 にやり、と笑うと、ハンフリーは少し目を見開いてから、もっともだと言いたげに、重々しくうなずいた。
 その重々しさに、思わずヨシュアは顔を綻ばせる。
「それなら、足を伸ばしてみるか。……行くぞ。」
 笑いながら、ヨシュアは立ち上がり、後ろにいる竜を振り返った。
 近づいて手綱をつかむと、竜は顔を俯けるようにして小さく鳴いた。
「ああ、すぐにさっぱりするさ。」
 愛しげに顔を撫でると、手の平に擦り寄るように頬を寄せてくる。そして、まだ纏わり付いてくる感のある瘴気を払うように首を振ると、早く行こうと言いたげに手綱を引っ張る。
 急く様子の愛竜に、くすくすと笑いを零しながら、そうせっつくなと、木に結んだ手綱をはずしてやる。
 それを見ていたハンフリーは、自分が手にしてるタオルを見て、ヨシュアが片手に持っている手ぬぐいを見やった。
「…………後から、持って行こう。」
 そして、そう呟いた後、ハンフリーはテントのある方向にと歩いていった。
 ヨシュアは驚いたように彼の背中を見送る。
 竜が、ヨシュアを急かすようにヨシュアの髪飾りを食む。それを片手でいなしながら、ハンフリーが口にした言葉の意味を考える。
 「持っていく」ということは、何かを持ってくるつもりなのは確かであろう。そして、「持って来る」ではなく、「持っていく」と言うからには――、
「この先の泉に、行っていろということだろうな。」
 よしよしと、竜の頭を撫でながら、ヨシュアは小川の向こう――ハンフリーが現れた方向を見やった。
 そこには、木々が群生している様が見えるだけで、その奥に泉があるようには見えなかった。
 森の中を歩いていて、突然視界が開けることなんていうのは、良くあることなのだから、ハンフリーの来た方向へと歩んでいけば、水の色が見えてくるだろう。
 ゆっくりと竜の手綱を引いて、チョロチョロと流れ出る小川を横断する。竜は奇麗な湧き水に気を取られたように、一度顔を俯けたが、ヨシュアのひく手綱に引かれて、おとなしく小川を渡った。
 そして、木々の合間を縫うように、気を付けて竜をくぐらせる。
 伸び放題の雑草を避けるようにして、何度か目の前に飛んでくる草をなぎ払い、先へと進む。
 後ろでバキバキと音がするのは、木がなぎ倒されている音か、折れてしまった音であろうことは、容易に知れた。
 竜がうっとおしそうに尾を振るえば、それに答えるように木が悲鳴をあげた。
 ヨシュアは、背後を振り返りたくなる自分を、グッとこらえて、正面を見つめ続けた。
 細い木の幹が群生している他は、木漏れ日のようなものが見えるだけで、視界が開ける様子はまるでなかった。
 けれども、先が、森の中よりも明るいようであった。
 バキバキと激しい音を背後にしながら、ヨシュアは苦笑を浮かべた。
 こんな状況で泉に向かったら、水浴びしているハンフリーは驚くだろうし、敵の奇襲かと思うところであろう。
 見張り兵の判断も、案外正しかったのかもしれない。
 歩みを進めて、顔に飛んできた葉を片手で退けた。
 その瞬間、光が瞳を射抜いた。
「………………っっ。」
 それは、光の洪水のようであった。
 空からは溢れるばかりの光。地上からは、きらめくばかりの光。
 降り注ぐ暖かな日差しが、大き目の泉に降り注ぎ、キラキラと輝いていた。
 開けた視界いっぱいに、美しい光が差込み、心地よい水の香が鼻孔をくすぐった。
 涼やかな気配、胸いっぱいに広がる清涼感――体中を虫食んでいた瘴気が、一瞬で消え去るようであった。
 ああ……と、心から吐息が零れる。
 後ろで、早くと急かすように竜が尾を振った。
 再び背後で激し音がして、思わずヨシュアは後ろを振り返った。
 そして同時に、それを後悔した。
「………………………………すまん。」
 思わず誰にともなく呟いてしまったのは、仕方のないことなのかもしれない。
 ただでさえでも、戦続きで、このあたりの森が縮小化しているというのに、これ以上つぶしてしまうのは、あまりと言えばあまりであった。
 竜が動きやすいように、そろそろと促すと、ずしり、と重い一歩を踏み出す。けれど、キラキラ輝くその目が、泉に一身に注がれていた。
 透明度の高い泉の側に近づいて、水深もほどほどにあるのを確認して、手の平を湖に浸けた。
「よし、それじゃ、入るか?」
 振り向いて、手綱を外そうとすると、竜は忙しなげに羽根と動かせ、しっぽを揺らした。
 よほどストレスがたまっていたのだろうその姿を見ると、あの小川で手ぬぐいで拭ってやるだけにしなくて良かったと、そう思えた。
 派手に暴れないようにと、しっかりと言い含めてから、手綱を外す。
 邪魔にならないように紐を纏めているヨシュアの隣で、竜は今か今かとこちらを見ている。
「わかったわかった。」
 まったく、いくつになっても――と、まるで親のようなことを思いながら、先に泉に入っているようにと促す。
 喜んで泉に入っていく竜を見ながら、ヨシュアも手ごろな場所に、紐を置いた。
 それと同時、バッシャーンッと大きな水音と共に、水しぶきがあがった。
 飛んできた水滴が、ヨシュアの肌に冷たく当たった。
 それを手の平で拭ってから、気持ちよさそうに水浴びしている竜を振り返った。
 さんさんと降り注ぐ太陽の光を、目いっぱいあびて、心地良い水の流れを感じて。
「………………。」
 あの戦場とそう離れていないのに、こうも清涼とした空気があるのが、不思議だった。
 眩しげに瞳を細めて、先ほどよりも元気を取り戻した気のする竜を見ていると、早く来いと言いたげに、一声鳴かれた。
「今行くよ。」
 答えながら、ヨシュアも瘴気を吸ってべっとりとした気のする服を脱ぎ捨てる。
 いつも付けていた額飾りを外して、邪魔にならないように結んでいた髪も解く。
 それでも、身体に染みた重い気配は消えず、残っている。
 けれど、この泉に降り注ぐ太陽を浴びているだけで、身体から倦怠感がぬけていく。まるで浄化されているようだった。
 岸辺に腰をおろし、静かに水へ足をつける。しびれるような冷たさが足先を駆け抜け、少し遅れるようにして清涼感が漂った。
 まるで太陽の恵みが集ったかのような、優しい流れが足に寄せられる。
 もっとも、流れなどないはずの泉が波立っているのは、中央ではしゃいでいる竜のおかげなのだが。
 同心円を描くように寄せてくる波は、肌に触れるたびに鳥肌が立つほど冷たく感じた。けれど、水に触れていない素肌に触れる太陽の光が暖かく、冷たさと温もりとが心地よく緩和された。
 ここは、戦場にある聖地のようであった。
 恵みの太陽、穏やかで清涼な水。
「……ハンフリーが水浴びに来るわけだ。」
 ぴしゃん、と跳ねた水が草を濡らした。
 するり、と泉に身体を浸けると、ピンと切り立ったような冷たさが全身にめぐる。一所に居てもたってもいられないような冷たさであった。
 このまま静かに浸っていたいのも山々だったのだが、手足が冷たさに凍えてしまう。
 両手で水を掻き、竜の元へ――尻尾で水を撥ねさせて遊んでいる竜へと近づいていく。
 透き通る泉に、小さな魚が数匹見えた。深い緑色の泉のさらに奥底には、いくつもの岩や地面が見える。
 ここの泉は、とても奇麗なようだ。
 ただし、竜についた埃や泥で、中央付近は濁り、魚たちもそこから逃げ出していた。
 泳ぐヨシュアのすぐ間近を、大き目の魚が一匹通り抜けていく。
 それを目で追いながら、竜のすぐ側までやってくる。
 ヨシュアに気付いた竜が、動きを止めて自分に触れるのを待つ。
 手を伸ばして、固い鱗に触れると、くぅぅ、と甘えるような唸り声が聞こえた。
 ヨシュアは竜に捕まるようにしてバランスを取りながら、その大きな姿の周りを一周した。
 特に目立つ場所に汚れがないか確認してから、竜の助けを借りて、背に飛び乗る。
 冷えた体に、暖かな太陽の光を浴びながら、ぬれた手ぬぐいで竜の頭や背中を拭いていく。時々竜が、いたずらげに尻尾で水面を叩き、大きな水飛沫が、竜の背中に乗ったヨシュアの上に落ちる。
「こらっ!」
 軽くしかりながらも、声が笑っているのが分かっているのだろう。竜は楽しげに、さらに尻尾を叩き付ける。そのたびに、キラキラ輝きながら水が滝のように落ちてきた。
 どれくらいそうしていたか、ふと日が陰った気がして、ヨシュアは顔をあげた。
 眩しいばかりの太陽の光が、薄い雲に遮られていた。
 ヨシュアは額の上で手を翳しながら、空を睨む。
 熱いばかりの太陽の視線の下でならとにかく、陰ってしまった中で、この冷ややかな水の中にいては、身体を壊してしまう。
 ただでさえでも領地から離れていて、体調が万全とは言い難いのだ。ここで自分が身体を壊しては、別の場所で待機させている竜騎士達にも心配をかけてしまうことになる――。
 ふとそう思って、ヨシュアは瞳をすがめた。
 きゅぅ? と尋ねるように声をあげる竜の首筋を軽く叩いて、ヨシュアは水辺まで行くように指示を出す。
 竜がそれに応じて、首を返した。
 その時になって初めて、荷物を置いてある場所に座っている男に気付いた。
 彼は、ヨシュアが自分に気付いたのを悟ると、タオルを持った手を軽くあげた。
 どうやらハンフリーは、ヨシュアのためにタオルを取りに行ってくれたらしい。
 竜に乗ったまま近づいてくるヨシュアに、無言のままタオルを差し出す。
 ざばっ、と豪快に水からあがった竜が、身体にまとわりついた水滴を払うのを見ながら、ヨシュアも地面に足をつけた。
 そして、ハンフリーが差し出すタオルを受け取ると、体を覆う水滴を拭った。
 それだけで、水に入る前よりもずっと、爽快な気分になった。
 竜も、戦場の直中に居るときよりもずっと上機嫌であった。
 ハンフリーは、そんなヨシュアと竜とを、複雑げな表情で見つめた。
 服を着るのを一瞬とは言えどもためらったヨシュアを見て、ハンフリーはため息を零した。
 頭を拭っていたヨシュアが、そんなハンフリーに首をかしげる。
「どうした、ハンフリー?」
 とまどうようにハンフリーは、唇をへの字に曲げて、何か言いよどむような顔になる。
 戦で人の血が流れるほどに、だんだんと無口になっていった彼が、こうして言いよどむのは珍しかった。
「………………ヨシュア、お前は、待機地点へ戻れ。」
 唐突に口にされて、ヨシュアは驚いたように瞳を見開く。
 最後の仕上げとばかりに額飾りをかぶろうとしていた手を止めて、座ったままの彼を見下ろすと、眉を顰めた。
「待機地点?」
「竜騎士達がいる場所だ。お前はここよりも、あそこに居た方が良い。」
 ヨシュアは、今回の旅のために、竜騎士の多くを連れて、この地に来ていた。ただし、竜は目立つため、騎士達は違う待機地点でテントを張っている。
 ただ、その団長であるヨシュアだけが、竜騎士達の居る場所に最も近い地点にテントを張っている帯と合流しているのである。
「何も、お前が直接ここに来ることはなかった。」
 淡々と続けるハンフリーの言葉を受けて、ヨシュアはため息を吐く。
 泉のほとりでは、水からあがった竜が太陽の光を浴びて、のんびりと身体を伸ばしていた。
 まだ水に濡れてしっとりとしている髪から、水滴が滴った。それをタオルで拭き取って、ヨシュアはハンフリーの隣に座る。
 泉を通ってくる風が、涼やかな気配と共に頬を掠めていく。
 ハンフリーは黙って、ひざの上で指を組んだ。
「…………どうして、そう思う?」
 ヨシュアは額に滴ってくる水滴を拭ってから、もう一度額飾りをはめる。それをはめる瞬間のヨシュアの表情を盗み見ながら、ハンフリーは難しい表情を浮かべる。
 ハンフリーの表情を見て、彼が何を思っているのか悟った。
「――――ハンフリー。私は、竜騎士達全てが愛しい。私の大切な子供のようなものなのだ。
 その子達に、こんな思いはさせたくはない。」
「………………すまん……………………。」
 ハンフリーは、気付いていたのだ。ヨシュアがあの中でつらい思いをしているということ。居心地が悪いと思っていたということも。
 特にヨシュアは、真の紋章を持っているから、他の兵士達にも恐れられ、疎まれているのだ。
 だから、せめて他の竜騎士なら、自分もかばってやれると、そう思ったのだけど――……ヨシュアが、それを考えないはずがなかったのである。
 その上で彼は、この道を選択したのだ。
「お前が謝ることではないだろう? それに、私が何年生きていると思っている? これくらいは、なんとも思わないさ。」
「……………………………………。」
 ならなぜ、泉に水を浴びに来たと、聞く事は許されなかった。
 ヨシュアの前を見る瞳の意味が、分からないわけではなかったから。
  黙ってヨシュアが見つめる先を、同じように見つめた。
 そこには、傾きはじめた太陽が見えていた。
 この泉を照らし、泉を清め続ける太陽の光が――。
「……………………お前には、いつも教えられる………………。」
 ハンフリーが不意に呟いた言葉に、ヨシュアは少し瞳を細めて、笑って答えた。
「私の方が、年上だからな……――。」







でも、あなたの笑顔が一番の太陽です(笑)


天魁星様

 25000ヒットありがとうございました〜っ! なぜ先に受けたリクよりもこっちが先にあがるのかと言えば、あっちの方が量が多いからです(笑)。
 何はともあれ、団長のかっこいいとこ……出てますでしょうか? 愛だけは、愛だけは、たっぷりつめたのですけどーっ!!!
 でも、ここだけの話し、一番愛がつまってるのは、竜さんです(笑)
 愛と作品の質は比例しないことを思い知らされつつ、ささげさせていただきます。