いつもは外で遊びまわっている子供が、今日は珍しくソファに座り込んで本を呼んでいた。
書庫にあるような厚い本ではなかったから、きっと誰かから貸してもらったのであろう。
随分真剣な表情でそれに魅入っていた。
いたずらと遊びが三度の飯よりも好きだという子供は、今日は家の者の手をわずらわせることはないらしい。真面目な顔で、真剣な表情で、文字を追っていた。
一度様子を見に顔を覗かせた少年の母親代わりの男は、ふ、と笑顔を見せて、室内に足を入れた。
それにも気付かず、彼の愛しい子供は、整った顔を本へと向けていた。
本ばかり呼んでいて家の中にこもっているのは、年頃から考えるとあまり誉められた事ではなかったが、いつもいつもいつも、これでもかと言うくらい遊びまわっているのだから、たまにはこういう日もいいだろう。
金の髪を一つに束ねた男は、右手に掲げたトレイの上にのったカップを手にして、そっとそれをテーブルの上に置いた
空のカップには、まだ何も注がれておらず、綺麗な白磁の色を見せていた。
その隣に注ぎ口から湯気が出ているポットを置いた。
続けて、美味しそうな色をしているケーキをコトン、と置いて、彼は幼い主を見やった。
ふかふかの絨毯にひざをつけたままだと、ちょうどまだまだ小さな少年を見あげる形になる。
そうすると、彼が読んでいる本の表紙が目に映った。
確か少年は、起き抜けからずっとこの本を呼んでいたはずだ。
そんなに面白いのだろうかと、グレミオはふと興味に駆られてそれを覗き込んだ。
綺麗な風景が、そこに描かれていた。
小さな手が、慎重にページを捲った。
と、彼がふと驚いたように眼を見開き、本を通り越えて、自分のすぐ側に跪いているグレミオを捕らえた。
「…………あれ? グレミオ??」
ずっと黙っていたためであろう。その幼く愛らしい声は、少し枯れていた。
ああ、やはり喉が渇いておいでだと、グレミオは苦笑を覚えた。
「お茶とお茶菓子を持ってきたんですよ。少し休憩になさってはどうですか?」
くすくすと笑いながら言うと、少年は驚いたように目を見張って、それから笑った。
「ちょうど何か欲しいと思ってたんだ。グレミオは凄いねっ!」
無邪気なその笑顔は、本当に愛らしい子供のそれで、思わずグレミオはギュ、と抱きしめたくなった。
けれどそんなことをすれば、昔とは違って愛らしいだけではなくなった彼のことである。直後に回し蹴りくらいは跳んで来るのこと間違いなしなのだ。
グレミオが目に入れても痛くはない愛し子であるところのスイは、いそいそと本を横に置いて、目の前にあるケーキとお茶に目を輝かせた。
そして、グレミオが入れるよりも先に、自らポットのお茶を注いだ。
さすがグレミオだ、と言いたくなるようななんとも言えない香が、プゥンと鼻腔を突いた。
「今日はベリーケーキかぁ。えへへ、甘酸っぱくて好きなんだぁ。」
嬉しそうにフォークを手にしたスイの笑顔に、吊られたような笑顔を見せたグレミオは、ちらり、とスイが持っていた本を見やった。
思ったよりも薄いそれは、雑誌のようであった。
「ぼっちゃん、これは誰からお借りしたのですか?」
手にすると、表紙に刷られた鮮やかな色が目についた。そして同時に、そこに描き出された風景が見覚えの無い物だと思った。
外の世界に憧れるスイが、こういう他の国の本を手にする事はわかるのだが──グレミオが見たことのないものだということは、この家にあったものではないはずだ。
となると、懇意にしているマリーのところからか、ソニアのところからか、借りてきたのであろうが。
「ん? んっとね、ミルイヒ将軍が、ここの薔薇は凄いって、貸してくれたの。」
「………………薔薇の本なのですか??」
グレミオにはどう見ても、旅行用のガイドブックにしか見えなかった。
スイが真剣に読むような物なのだろうかと、グレミオはいぶかしみながら本を捲った。
一ページ目から、早速真紅の薔薇の華が乱れていた。
やはり薔薇の本なのだろうかと、スイまでもが薔薇の世界に浸ってしまうのかと、心の中でテオに謝ってみた。
すいません、テオ様……グレミオはこんな所まで育てかたに失敗したようです……。
最も、元々そういう要素があった他の育てかたについては責任など取るつもりはなかったが。
そう考えると、薔薇が好きになるというのも、グレミオのせいではなく、ミルイヒのせいのような気がしてきた。
いや、きっとそうであろう。
「ねぇ、グレミオ? そういえばさ、うちに別荘ってあったよねぇ?」
ぱく、とフォークを咥えながら、スイがグレミオを見下ろす。その行儀の悪い仕草にグレミオは難渋をしめしながら、頷いた。
「ええ、何個所かありますけど、行く暇がないから、貸し出してますよ。行かれるのでしたら、手続きいたしますが?」
それなら、テオの許可をもらわなくてはならないと、グレミオが続けるのに、
「キャロの町にもあったよね?」
「ええ、昔行かれましたでしょう? 覚えておいでですか?」
スイの目がキラキラと光っていた。
きっと、あの町で知り合った兄妹のことを思い出しているのだろう。
顔立ちの整ったあの兄妹……おそらくは、自分たちと同じ様にどこかの国の貴族の兄妹だと思われる、あの二人のことを、スイはとても気に入っていた。あそこにいる間、彼ら二人と遊ばなかった日はないのではないかと、そう思うくらいに。
「うん、よく覚えてるよ。キャロには又行きたいけど……。」
確か、と確認するように視線を送って来るスイに、グレミオは苦笑を張り付かせながら頷く。
「ええ、キャロの別荘は売りに出してしまいましたね。あそこは元々、奥方様の療養のために借りたものでしたから……──。」
無駄は省くというか、いつまでもそれがそこにあることが苦痛に思ったのか──それはわからないけど、スイがあの別荘に遊びに行った時にはもう、あの別荘は売りに出されることが決まっていたはずだった。
だから、最後だからと、グレミオとスイは少しの使用人を伴なってあそこに遊びに行ったのだ。
それがもう3年も前の話になる。
あれから、どこにも遊びに行っていないな、とスイは思い返す。
あの時の思い出がとびきり素敵だったからこそ、またどこかに行きたいと思う。勿論、キャロに行く事だって出来る──宿に泊まればすむことなのだから。
でも、あそこは元々別荘地であって、宿で泊まって暮らすような場所ではない。それに、今更行ったからと言って、あの兄妹が来ているとも限らないし──何せ、上の兄は、もうすでに成人していて、爵位を継ぐか、それに似合う地位をもらっていておかしくない年頃だったのだから。
「うーん……やっぱりそうか。他に別荘って、どこにあったっけ?」
「トランの各地にありますよ。さすがに竜洞騎士団やジョウストンにはないですけど。」
「そりゃ、将軍の別荘が敵地とかにあったら笑えるよ。」
グレミオの答えに呆れを含ませながら、スイがぼやく。
キャロの町のように、各国の貴族が別荘を、と望むような立地条件ならとにかく、何故わざわざジョウストンに──長年に渡って戦を繰り返している土地に別荘を持とうと言うのだろう? そんな所に作ったら、破壊されてばかりで、いくら管理費があっても足りやしないではないか。
「そうですか? ジョウストンは食べ物もおいしくて、食い道楽には最適なんですけどねぇ……ほら、グリンヒルの学校なんかも、ぼっちゃんにはいいかと思いますよ。」
「学校っ! そんなの、帝国の学校で十分だよ。……あの級友どもにはむかつくけどね。」
ケーキの最後の一欠けらを口にいれて、スイはふん、と横を向く。
その顔を見て、グレミオはまたスイが級友と喧嘩をしたのだと悟る。
外見は華奢で頼りなさそうで、弱そうに見えるのに、中身はその正反対のスイである。更に内弁慶ではなく、外弁慶であった。そのため、父親の権力を傘にきて、と喧嘩を売って来る奴等の喧嘩は片端から買い、そしてどんな手段を使っても勝利を収めて来るという、素晴らしい才能まであった。
グレミオはこういうとき、育てかた云々よりも、つくづく生まれながらの素質は怖い、と思うのであった。──聞く所によると、テオも昔は相当それで慣らしたらしいから。
「ぼっちゃん、皆が皆そうだと思ってはいけません。きちんと、個人個人を見て、それから判断してくださいね。」
「まぁ、確かに、そんなやつらばかりじゃないけどね。」
スイが喧嘩を買って来る理由には、テオの家の居候のことや、ソニアのこと、スイ自身を可愛がりたいという気持ちを持つ不当な輩──さまざまな理由があるのは、グレミオも知っている。
だからと言って、あまりにも喧嘩早いのも考え物なのである。
「それで、ぼっちゃん? 学校もお休みになったら、別荘に行かれますか? その頃ですと、ちょうどサラディの辺りで流星群が見れるはずですよ。あ、でもトラン湖に泳ぎに行くのもいいですねぇ。」
「グレミオ、32ページ。」
こくこくと、良い香のするお茶を飲みながら、スイが笑顔でグレミオを見る。
グレミオは、一瞬目を瞬かせてから、手元の雑誌を見た。そして、薔薇の群生が写る最初のページから、ぺらぺらと捲っていった。
そこには、大きな見出しが幾つも出ていて、それの対する紹介文が載っている。どうやら本当に観光地のガイドブックのようであった。
まさか、各地の薔薇紹介とかいう本じゃないでしょうね、これ……?
スイがミルイヒの心を尊敬するのはかまわないが、彼の外見まで尊敬するようになるのは、どうにもこうにもテオ様に申し訳がなかった。
「えーっと……何々? 荘厳な雰囲気を醸し出す都、ルルノイエは……………………………………るる、のいえ…………?」
「そう。そこそこ。綺麗でしょー? お城とか。それにね、城下町には……。」
グレミオが凝固したのを綺麗さっぱり見なかった振りをして、スイが笑顔で先を続ける。
32ページ目から始まる、特集ページには、どこもかしこも「ルルノイエ」の文字が光っていた。
そこには、ルルノイエの華とも言われる皇女の写真が載っていたり、国旗が掲げられた白亜の宮殿が載っていたりしている。
グレミオは、それを下から上まで眺めてから、泣きそうな表情でスイを見た。
「ぼっちゃん……ここって、ハイランドの皇都じゃないですか…………。」
「そうだよ? 行くならここがいいな♪」
それはそれは嬉しそうに、グレミオの愛するお子様は言って下さった。
「ぼぼ、ぼっちゃん……?」
不安そうに尋ねるグレミオの視線など、一切無視して、スイは笑顔で続ける。
「別荘じゃなくっても、ここだったら長期滞在用の宿とかに泊まってもいいし〜。いいと思わない、グレミオ?」
必殺、グレミオを落すための笑顔であった。
が、しかし、いつもはスイに甘いグレミオも、こればかりは頷くわけにはいかなかった。
赤月帝国が普段から懇意にしている国への観光ならとにかく──そうでもない国に、この帝国の英雄の一人と言われるテオ=マクドールの息子がやすやすと遊びに行けるはずがないのである。
グレミオは顔を難しくさせて、スイの両肩を掴んだ。そして、彼の顔を覗き込みながら、ゆっくりと、はっきりと教え込む。
「ぼっちゃん。よろしいですか?」
この言葉から始まったグレミオの説教は、いつも長くに渡ると、スイはよく知っていた。
だから、嫌そうな表情を思いっきり浮かべたのであったが、そんなことでグレミオはひいてくれるわけがないのである。
こんこんと、せつせつと、グレミオに自分の立場や、テオの立場、そして周辺の国々の情勢などを説かれてしまう。
そうしながらも、スイの視線は雑誌に載っているルルノイエの──憧れの地の秀麗さ、華やかさ、そして荘厳さにやられていた。
──ちっ、こうなったらどこかの旅芸人の間にまぎれてでも行ってやろうか?
スイがそんな凶悪な考えを持ったその瞬間である。
「いいではないか、旅行くらい。」
入り口から、思いもよらぬ声が返ってきた。
はっ、としたグレミオが身を強ばらせ、慌てて声の主を振り返る。
そこには案の定、グレミオが敬愛して止まない主が立っていた。
「て、テオ様……──っ。」
「ほんとにっ!? 父上っ!?」
困惑を表情に浮かべるグレミオに対して、スイはこれ以上ないくらいに顔を輝かせてテオを見つめる。
キラキラと輝く、珍しくも子供子供した息子の表情に、テオは頬を緩ませた。息子がおねだりするなど、特にこういうまともなおねだりは、本当に久しぶりであった。
いつもは一緒に居てやれない分だけ、こういう些細な願いは叶えてあげたかった。幸いにして、自分は今手すきな状態であったから、日付と場所次第では、共に行ってやれるだろう。
「ああ、もちろんだ。私も一緒に行こう。どうだ、グレミオ?」
「どうって……テオ様、でも、場所が場所なんですよっ!?」
グレミオが、拳を握って力説しようとするが、テオは笑ってそれを躱す。
「多少遠くとも大丈夫だ。しばらく休暇をいただけるからな。どうだ、スイ?」
「うんっ! 父上と旅行なんて、久しぶりだねっ。」
スイは、ここぞとばかりに、テオ陥落の笑顔を満面に浮かべた。
そして、絶対約束だよ、とテオの小指に自分の小指を絡めて、約束、と指を切った。
可愛らしいことをすると、テオも頬を緩ませる。
「て、テオ様っ! ですが、ぼっちゃんが行かれたいと言っているのは……っ!」
グレミオが決定する前にと口を挟むが、スイも伊達にグレミオに育てられているわけではなかった。
「やったーっ! 父上と旅行だっ! グレミオ、グレミオも一緒に行こうねっ!」
それはそれは無邪気に、グレミオの顔を覗き込んだ。
にっこり、と笑うそれに、グレミオは一瞬絶句していると、その間にテオが、
「それでは、手続きは頼むぞ、グレミオ。」
そう言い残して立ち去ってしまった。
あ、と言い掛けたグレミオが振り返った先にあったのは、テオが出ていった後の扉だけであった。
「………………〜〜〜。」
「えっへっへー、グレミオ? ルルノイエでもいい宿取ってね♪」
くいくい、とグレミオのマントを引っ張って、スイが微笑みながらそう告げた。
その綺麗な笑顔を見下ろして、グレミオは────溜め息を零した。
「善処いたします。」
「テオ様っ! ハイランドに……ルルノイエに行かれるなど、本気なのですかっ!? テオ様は有名人なのですよっ!?」
クレオの心配溢れる非難も、
「テオ様……この上は、この俺が命の限りお守りいたしますから、是非一行にお加え下さい。」
パーンの真摯な依頼も、
「テオ様────。」
ソニアの哀しそうな訴えも、
「大丈夫だ。」
テオの、ややひきつった笑顔の前に、一蹴された。
その影にあったのは、テオの愛息子の姿であった。
「男に二言はないんだよねー。」
「…………今回ばかりは、ぼっちゃんの完全勝利ですかね。」
答えたグレミオは、溜め息を零して、今度のための荷造りを進めていくのであった。
道中、スイが遊戯団の群れに混じって脱走しかけたり、グレミオが珍しい調味料に心惹かれて中々立ち去ろうとしなかったりと、さまざまな苦労はあったが、一行は無事にルルノイエの門を叩く事に成功していた。
途中襲い掛かってきた山賊は、テオの剣の前にあっさりと倒されてしまったし、道中の旅も、グレミオがしっかりと交渉した馬車で、悠々とくる事ができた。
出来る事なら、スリルとサスペンスに巻き込まれた旅が良かったよ、とぼやくスイのぼやきすら聞いてる暇のある、平和な旅であった。さまざまな面倒事は発生したが、旅慣れているテオに言わせれば、これくらいは大した事ではないのだそうだ。
「ここがルルノイエからぁ〜v」
嬉しそうに門をくぐったスイが、グレッグミンスターとはまるで違う雰囲気の町並みを眺めて、瞳を細めた。
テオもルルノイエにくるのは初めてらしく、大きく頷いて、荷物を担ぎ直した。
「それでは、先に宿に行こう。観光はそれからだな。」
「ここの名物料理ってなんでしょうねぇ、ぼっちゃん。」
スイのセーブ役──いや、世話役として付いてきたグレミオは、微笑みを広げながら並ぶ店を眺めた。
奥に見える白亜の荘厳な宮殿に見合った、装飾の美しい町並みであった。一つ一つの店店が品を感じさせ、大通り沿いに並ぶ店や宿が、気持ち良く並んでいる。
「僕、お昼食べたら宮殿を見学したいな。できるのかな?」
楽しそうに辺りを見回すスイが、笑顔でテオを見あげる。
テオは宿の場所を確認していた目を落し、苦笑にも似た笑みをはりつけた。
ハイランドは赤月帝国と戦争を交わしていないとはいえ、そう友好的な関係でもない。
帝国の有名な将軍でもあるテオが、堂々と宮殿内に行くわけにはいかない。それどころか、スイにせがまれ、男に二言はないと言い切られ、スイが心配だったこともあり、ここにやってきたのだが。
自分の立場を考えると、あまり目立つ行動はしてはならない。
が、テオは実際その凛々しい風貌と、将軍ならではの雰囲気。それらは、やはり一般に溶け込む事はなかったし、どちらかと言うと目立っていた。事実、すれ違う身なりのいい婦人も、兵になったばかりらしい初々しい少年兵も、すれ違うたび振り返っていたし、遠くから視線が送られていた。
もしもテオ一人であったなら、歴戦の傭兵かもしれないと、皆思っただろう。
しかし、彼にはこれまた奇妙な連れが2人居た。
一人は彼に似通った面差しのある、少年。綺麗で意志の強い瞳が印象的な、綺麗な少年であった。
一人は頼りなさげな雰囲気のある、金髪の美青年。彼は穏やかな微笑みで少年を見下ろしている。
親子だと言われたら、なるほど、と頷いていただろう──金髪の青年が、女性であったなら。
少年も青年も、単体でも目立つ存在であった。それらが三人揃っていて、しかも一緒にいるのが不思議な状態になっているのだから──目立たない方がどうかしていた。
にも関わらず、一同はそれをまるで意識してはいなかった。
「父上は宿でおとなしくしていてよ。僕一人で行って来るからさ♪」
「なな、何言ってるんですか、ぼっちゃんっ! グレミオも行きますよっ! 見知らぬ土地でぼっちゃんを一人にするなんて……そんな危ない事っ!」
「全くだな。お前を一人にするのは危険すぎる。グレミオ、まかせたぞ。」
すぐに叫びかえしたグレミオに、当たり前だと言いたげにテオも頷く。
スイはそんな二人を見あげて、すがめるように瞳を細めた。
「二人とも、今の危ないって言葉──なんか、含みない?」
「気のせいですよ、ぼっちゃん。」
「そうだ、スイ、お前の身を案じているだけだぞ。」
疑うような視線は、彼が普段何をして二人に迷惑をかけているか、しっかり分かっている証拠であった。
しかし、ここで肯定したりしようものなら、スイは本当にその期待に応えてくれる。
そう分かっていたグレミオもテオも、朗らかに笑って優等生な答えを返したのであった。
スイはその答えにやや不満を持っていたようであったが、特に何も言わず、二人を交互に見やって、
「………………一人で回るのも楽しくないから、別にそれはいいけどね。」
本当は、上手く行けば観光ルートから外れて、中まで遊びに行こうと思っていたことを表には出さずに、微笑んだ。
その内に、グレミオなら、何とかなるか、という気持ちがあったのは──スイだけが知る事である。
大きなルルノイエの宮殿を見あげて、グレミオは感嘆の吐息を零した。
「見事なくらい綺麗な宮殿ですねぇ……。」
うっとりとも言えるグレミオのささやきを背後に、スイは通路、と描かれたロープの向うを見やった。
その目がキラキラと輝いているのに、気付かないグレミオではない。すかさずスイの襟首を後ろから掴むと、
「オイタはだめですよ、ぼっちゃん。」
と、ぐい、と自分の方に引き寄せた。
「ぐえっ……っ、グレミオっ、それが主人の息子にすることかっ!」
「ワルガキですらなかったら、敬いますよ、ちゃんと。」
文句を言いながら首を抑えるスイの叫びに、グレミオは何の感心も払わず、そのまま順路沿いにスイを引っ張っていく。
並び立てた綺麗な柱を見あげながら、グレミオは微笑みを零した。
「やっぱり都は違いますねぇ……あ、いえいえ、グレッグミンスターだって立派に都ですけどね、なんていうか、こことはまた違った魅力があるじゃないですか。」
こんなふうな雰囲気もまたいいですよね、とグレミオは囁く。こういう、荘厳な雰囲気というか──、
「ああ、そうですそうです。大聖堂みたいですよね。こういうのって。」
そう呟くと、可愛げのない子供は、すかさず「グレミオ見たことないじゃん。」と返って来るのであるが、珍しく何も言っては来なかった。
おとなしく宮殿に見惚れているのかもしれない、と思いはするが──あのスイが、黙って見惚れているということは、まずない。じっくりと静かにみたいなら、最初からグレミオを一緒に連れては来ないのである。それどころか、最初に別行動しようと言い出すはずであった。
と、いうことはっ!
振り返ったグレミオは、自分が掴んだままの物が何なのか悟った。
スイであったはずのそれは、いつのまにか近くの置物にすりかわっていた。
「…………………………こういうことじゃないかなぁ、とは思ってたんですけどね。」
父親であるテオに、宿にいることを進めた事とか、最初から素直にグレミオと一緒に行く事を反論しなかったりとか、考えてみたらたくさん要因はあったのだ。スイの策略の要因が。
グレミオは、情けなさそうに置物を見つめた後、それを順路の邪魔にならないところに置いて、ロープの向うを見た。
綺麗に磨き込まれた廊下には、子供の足跡なども見えないが──スイがこの向うに嬉々として向かったのは確かである。
ミルイヒの屋敷などでも、いつのまにかいなくなっていたという事が、嫌になるほどあるのだ。今度もそうじゃないとは言い切れない。
全く、まだまだお子様なんですから、とグレミオは、辺りをキョロキョロと見やった後、誰も来ないのを確かめて、ひょいっ、とロープを飛び越えたのであった。
これもまた、お仕えの身の辛い立場なのである。──例えグレミオが嬉々としてやっていようとも。
「たんけんたんけーん♪」
楽しそうに棍を片手に歩くスイは、軽快な足取りで──しかし慣れた様子で足音は立てずに歩いていた。
棍の師匠であるカイから学んだ「いつか使うだろう技」の一つである。
静かな廊下は、白い壁と美しいレリーフに囲まれて、美しい様を見せていた。
赤月帝国の城とはまた違った荘厳さと優美さである。
初めて父について城に上がった時、磨き立てられた廊下の美しさや、きらびやかさに胸高鳴らせたのを思い出しながら、スイは先へと進む。
「なぁんか面白いのないかなぁ♪」
とてとてと歩く様は、一応兵士たちに対して警戒はしているものの、兵に会ったら迷子の振りをして泣こうと決めていた。
角で向うを確認するように、顔だけを出してよし、と呟く。
今ごろグレミオが、変わり身の術に気付いているころである。早く順路から遠ざかって、いれ組んだ所に行かないと、後々大変である。
別に奥の方に行き過ぎても、見た目の幼さを利用して、「道が分からないの〜」と、父親とはぐれた子供の振りをすればいいのである。
そう決めたら後は楽である。どこまで見つからずに行けるか、そのスリルに燃えるだけなのである。
スイはこそこそと歩きながら、途中で飾ってある絵や置き物、花を見学していく。
「やっぱり都って感じ。」
おのぼりさんさながらの感動を口にしてはいるが、かく言う彼も都からやってきた貴族なのである。
貴族然とした雰囲気を醸し出していても、遊びすぎですぐ服を痛めるスイは、いつも庶民と変わりない格好をしている。それを憂いたミルイヒが大量の「素晴らしい服」を贈ってくれたこともあったが、スイがまともな身なりをしても、すぐに服を駄目にしてしまうのだと知ってからは、それもなくなった。ただ、時々、素晴らしいシャツが手に入ったのです、と言って薔薇模様のティーシャツとかを贈って来るのだが。
今日のスイも、いつもと同じような格好をしていた。棍の訓練の時に着ているような、身軽な姿である。デザインしたのがカイで、その通りに作ったグレミオの力作である。グレミオはスイが気に入ったこの服を見るたびに、もう少し作りようが──とぶつぶつ文句を言っていたが、着易いし、動きやすいから、スイはよくそれを着ている。こういう見事な装飾のなされた宮殿を歩くには、場違いな格好であった。
だから、見つかる時は見つかりやすいだろうと、ちゃんとわかっていた。そのためには、一刻も早く兵士に見つからないうちに、奥の奥まで攻略するべきなのである。
足取りも軽やかに、埃一つ落ちていない綺麗な廊下を進んでいく。
ひょこ、と顔を覗かせて、先を確認すると、階段があった。細やかな彫刻のされた手すりが上へと繋がっている。踊り場が見えて、そこには大きな絵が掲げられていた。
すたたた、と泥棒さながらのスピードで素早く手すりに駆け寄ったスイは、足音も立てずに階段を上がっていく。
そして、目の前にある絵画を見あげて、自分の三倍はありそうな巨大なそれに感嘆の溜め息を零した。
「すっごーい……、ミルイヒ将軍の家にある奴みたい。」
油絵であることは見て判った。ただ、その絵柄が、そこらの店で売っているものと質が違う。
小さい頃から、ミルイヒやクワンダ、カシムなど、テオの古き友人達から「素晴らしい物」を見せてもらっていたスイは、自分でそうとは知らないものの、目が相当越えていた。
その彼が、思わず見惚れてしまうくらいの意匠の作品を見る。
「僕の部屋にもこんなの欲しいなぁ……。」
あまり無茶を言ってはいけない。
こんな大きな絵など買ったとしても、置く場所がないはずである。スイの部屋がいくら大きいとは言っても──、これほど大きいのは無理である。
帰りに絵画の店で何か小さい物を買ってもらおうと密かに誓う。
そして、そのまま階段を上って、忍びなれた経歴を生かし、す、と壁の影に隠れた。向うを伺うようにして、視線を細める。
ちょうど見回りの兵士が来た所であった。スイは物陰に姿を隠して、それをやり過ごす。
足音が完全に聞こえなくなるまで待って、スイは兵士が来た方へと走り出した。
兵が居る所、怪しいものがある、と言った所であろうか?
ここまで来たら、さすがにグレミオだって来れないよねぇ♪
と、スイは新たな曲がり角で向うを伺う。再び足音が聞こえた。
「…………っ!! ──っ!」
何やら言い争うような声が聞こえた。
一体何事だろうと、スイは耳をそばだてる。こういうのはお行儀が悪いとクレオに怒られるのだが、情報収集には効率的な技でることは確かである。
すでに気分はスパイであった。
気配を消すなどという高等技術は持っていないので、向うをうかがい、耳を大きくするだけにする。
「……おにいさまっ!」
それは、甲高い少女の声であった。
おにいさま、ということは、イイトコロのお嬢さんと言った所だろう。そして、ここが宮殿ということを考えると──やはり、彼女は皇女ということになるのだろうが?
スイはわくわくした気持ちを抱きながら、更に気持ちを高揚させていく。
「うるさい……。」
答える声は、不機嫌な男のもの。いや、声変わりはしきっていないから、少年のものだと言えるであろう。
彼は、幼い少女をうるさがるようであった。
「おにいさま……でも──!」
必死に追いすがるような彼女の声に、スイは思わず顔を覗かせた。どこかで聞いたような声だと、ふと思ったのだ。
向うの廊下から歩いて来る二人の兄妹が見えた。先に立って歩くのが男──スイよりも年上の少年が、凶悪な目つきで前を睨んでいる。白い鎧に包まれた体は、その年にしては強靭な肉体であった。
後ろから駆け足になりながらやってくるのは、肩口で漆黒の髪を切り揃えた美少女。スイよりも少し年下の──将来有望性のある綺麗な顔立ちをしていた。
「さっさと戻れ。」
「……! そういうわけには、いかないから……だからっ!」
彼女は何かを言いかけて、それを唇の中に閉ざした。そして、今にも泣きそうな表情で冷淡な表情をしている兄を見上げる。
彼女の手のひらが少年のマントの裾をつかもうと伸ばされて、その後握り込む。まるで自分は彼に触れてはいけないと言うような仕草であった。
それでも、少女は意を決したように、再び顔を上げた。なんとかして兄に思いとどまってもらおうと、そう考えているように。
「おにいさまっ!」
と、不意に少年は足を止めた。
思いもよらないそれに、少女は背中に顔をぶつけてしまった。
鎧を身につけている兄の背中は、壁にぶつかったように痛くて、彼女は目を歪めて顔を抑えた。
そして、一体何事だと見あげた兄は、まるで父に対する時のような──いや、それ以上の鋭い目で、角を睨んでいた。
「…………おにい、様?」
不思議そうな彼女の声は、未知なる兄のその目に、恐れを抱いていた。
しかし、元々彼女に感心など払うつもりのなかった彼は、そんなものには気も払わず、ただ曲がり角の先を睨む。
そして、左手を横にやって、後ろにいる少女を庇うように立つ。
彼女はその左手に、しがみつくように指先を添えた。
兄がこういう仕草をするときは、そこに刺客がいるか、何らかの危険が迫っている時だ。
彼女は、兄に守ってもらうしかない自分を感じながら、兄と同じ視線の先を追った。
「出てこい──。」
兄の声は、重く響いた。それは廊下に反響して、奇妙に耳に残った。
「……………………………………おにいさま………………。」
兄の手が、腰の剣の柄にやられるのを感じながら、少女は、震える手で唯一頼れる男である兄の手を握った。
最近の兄の考えることが、彼女にはわからなくなっていた。でも、こういうときに庇ってくれる所は、まだ兄のままだと──そう安心すら覚えた。
「今すぐ出てきたら、命は奪わないでやろう。」
冷ややかな声音。一番頼りになるひとの、一番恐ろしい台詞に、彼女は震えすら抱きながら、目の前の角を見つめた。彼女にはそこに誰かいるようには見えなかったが、兄が言うのなら確かなのであろう。
それならば、一刻もハヤク姿を見せて欲しいと思う。兄の言葉が本当ならこのまま見逃すことも出来るはずだから──……。
と、かつん、と音がなって、角に姿を隠していた人が、姿を現わした。
その姿を見た瞬間、思いもよらぬ人の出現に、少女の喉がなった。
「あ……っ!」
さらり、と揺れる短い漆黒の髪。はっきりとした黒曜石の瞳。それは、まだ兄がここまで冷ややかでは無かった頃の、優しい思い出を共有する人物の──……姿。
もしも、彼がその人本人であったのなら。
「お前は……──。」
兄の顔がゆがむのが判った。
少女は彼を見上げながら、とまどうような視線を向うにやった。
昔ほんの少しの間、一緒に遊んだことのある少年がそこにいた。
まさか彼が刺客とか──……っ!? いや、でもそうでも考えないと、彼がここに──この宮殿の奥にまで来ている理由がわからない。
戸惑う少女に答えるように、不法侵入者である少年は、口を開いた。
「…………老けたね、ルカ。」
三年ぶりの再会の台詞は、まずそれであった。
「………………………………………………………………。」
思わず黙ってしまったのは、別に二人の人生経験が豊富ではなかったためではない。
「ジルはますます可愛くなった──僕のこと、覚えてる?」
かつん、と足を進めて──でも一定以上の距離は保ったまま、彼は微笑んだ。
その手に握られている棍を見て、ルカは柄に手を置いたままの手を、握り直す。
ジルはその動きに気付いて、咄嗟に兄を見あげた。しかし、兄はスイを見ても、気難しい表情を変えはしなかった。
懐かしい幼馴染みに会っても、顔色ひとつ変えはしない。
「スイ──おにいちゃん…………。」
三年前、キャロの町にあった別荘で出遭った少年の名を、ジルは口にした。
当時、兄はまだここまで父を怨んではいなかったし、ここまで冷酷ではなかった。
毎年兄と一緒にキャロの町に別荘に行っていたジルが、長い間使われていなかった別荘で出遭ったその少年は、彼女の初恋の少年であった。
彼は、ジルの遊び場にしていた「別荘」の正当な主で、今回はこの別荘を手放す前に遊びにやってきたのだと言っていた。その言葉通り、彼は二度とそこには来なくなって、次の年には新しい買い手がついていたのを、ジルはとても残念な気持ちとともに見ていたのを覚えている。
確か彼は、「スイ」と名乗っていた。一緒にいた金髪の青年は、料理が上手くて、ケーキやマフィンを作ってくれた──「グレミオ」と言う名前の…………。
淡く切ない、幸せな思い出だと、ジルは胸に閉まっていた。だから、よく覚えている。
「……本当に、スイおにいちゃんなの?」
ルカの後ろから、恐る恐る問い掛けると、ルカがすかさずそれを制する。
「ジル、下がれ。こいつがどうしてここにいるのか、分からないお前ではないだろう?」
自分達の昔馴染みを使って、殺そうとするものだとている。
彼がどうして「刺客」ではないと、言い切れるだろう?
ルカの台詞は確かに真実であったけれど、ジルには痛くて──彼女は哀しそうに目を歪めた。
「おにいさま……っ。でも……っ。」
「なんか親密な会話をしているところ、悪いんだけどさ、そこの窓から表に逃げれる?」
見あげたジルのためらうような言葉に重なるように、スイが無遠慮に話し掛ける。
彼は、棍を肩に置いて、くい、と顎で目の前の窓を示した。
「物分かりがいいな……勝手に逃げればいいだろう。」
さすがのルカも、ジルが慕っていた少年を殺す事は忍びないのか、鋭い視線をそのままにスイを睨む。
「ったく、昔からだけど、人の話聞かないなぁ、ルカは。だから、そこの窓から逃げれるかって聞いてるんだよ。」
全く、とスイが片眉を上げるのに、ルカはひきつった笑みを浮かべた。
もう三年も会っていないというのに、この少年はまるで変わっていなかった。当時よりもずっと少年じみて来たところがあるものの、まだまだ少女じみた整った顔立ちが、愛らしい。中身は可愛らしくないことこの上ないと判ってはいたが、思わず見惚れてしまうくらいのそれである。
「ならば俺も聞くが、なぜお前がここにいるのだ?」
「観光。」
きっぱりはっきりと、嘘偽りなく答えるスイの台詞に、ルカが顔を顰める。
「そんなはずはないだろう!」
「おにいさまっ!」
剣をぬこうとするルカの腕に、咄嗟にジルはしがみついた。
そして、駄目だと言うように、首を振った。
スイが──自分達にとって、唯一心許せた幼馴染である彼がそういうのだから、今は信じてあげようではないかと、彼女は言いたかった。
「…………っ! スイ、嘘偽りはお前のためにならんぞ。」
ぎ、と、視線だけで射殺せると有名なそれを向けて、ルカが威圧する。
すると、スイは驚いたように目を見張って、
「ああ、わかったっ! ハイランドの狂皇子って、君の事かっ!」
叫んだ。
そして、まじまじと黒髪の皇子を上から下まで見て、
「あっはっはっはっ! モロはまりっ!」
爆笑した。
「……………………。」
無言でジルも兄を見あげた。
兄は突然現われた昔なじみの少年を見つめて、恐ろしいまでの暗雲を背負っていた。どうやら怒っているらしい。
それが判ってはいたものの──その呼び名を聞くたび、哀しい思いをしてきたジルは、今再び狂皇子と呼ばれる兄を見あげて、
「…………ぷっ。」
思わず、噴き出してしまった。
狂皇子ルカ=ブライト。その響きは恐ろしく、恐れられているもののはずであるのに、何故かスイが口にして笑った後は、兄に良く似合った面白い渾名のように感じてしまう。
「………………ジル………………。」
低く、ルカが妹の名を呼ぶ。
それが判っているのに、ジルはこたえられなかった。堪えよう堪えようとするたびに、笑いが込み上げて来るのだ。
「あっはっは、もう、ルカって相変わらず地で面白いよねーっ!」
そして、それを後押しするように、それはそれは楽しそうにスイが笑ってくれた。
昔──ほんの三年前、ジルが感情を堪えようとするたびに、スイが見せた微笑みに似ていた。彼は、ジルが泣くのを我慢していると、涙を流してくれ、笑うのを我慢していると、笑ってくれた。そうやって、ジルの感情を引き出そうとしてくれた。
果たして、ジルは今回もスイの楽しそうな笑い声に、つられてしまった。
「ふふっ……おにいさま、まさにそのまんまって感じですわねっ!」
一人疎外感と共に怒りに身を震わせるルカを放って、二人が笑いの渦から戻ったのは、それから少し後だった。
ジルは目尻に浮かんだ涙を拭いとって、まじまじとスイを見た。
「ねぇ、スイおにいちゃん? 真面目に聞きますけど、おにいちゃん、誰の刺客ですの?」
彼は、自分にとっても大事な人だから、きっと応えてくれるに違いない。
そう思ったからこそ、ジルは訪ねた。
スイが刺客だったとしても疑いはしないが、それでも彼は、自分達に隠し事をしてまで、騙してまで殺そうとはしない──なぜかジルは確信を抱いていた。
ルカが馬鹿にしたように鼻を鳴らすのにも構わず、正面切って彼を見つめる。
スイは、腹がよじれたと両腕で腹を抱えながら、二人を見つめて、
「んー、そうだね、とりあえず、君たちの遠縁の貴族ってことで。」
場に乗って、遊び半分で答えてみた。
すると、冗談で言ってみたのに、どうやら二人には思い当たる節があったらしい。ジルは顔色を変え、ルカは眉をしかめた。
「……やはり、あいつか……──。」
「おにいさま……っ!」
今にも殺しに行きそうな兄に、ジルがかぶりを振って、再び彼を止めようとでも言うかのように、腕をつかんだ。
その二人の意味深な仕草を見て取ったスイは、とりあえず、何の警戒心も持たないまま、二人に近づく。ばっ、と身構えるルカよりも先に、ジルがしがみついている腕とは反対側の腕にしがみつくと、笑顔でルカを見あげた。
「立ち話もなんだから、そこの部屋に行こう。いやぁ、僕もまさか依頼相手の皇子と皇女が二人だったとは思いもしなくってさー。」
確かに、このハイランドの皇子と皇女が彼女達であったことは、スイは思いもしなかった。
キャロで出遭った時は、どこかの貴族の兄妹だと想っていたのだ。
それが、貴族ではなく、王族だったとはね、と驚くばかりである。
そんなスイの口からでまかせが、ルカにもジルにも判るはずがない。彼ら二人は、顔つきを厳しくさせて、スイを見つめる。そして、ルカはぐい、とスイの腕をつかむと、
「とりあえず、来い。ここで話す話ではないだろう。」
と、スイが示した部屋の中へと連れ去った。
「そうだね、つもる話もあるし?」
「…………いろいろと、な。」
にやり、と笑って見あげると、ルカが意味深に目を眇める。
ジルは不安そうな眼差しをしながら、ルカの後に続いて部屋に入った。
「ぼっちゃーん……ぼっちゃん? ああ、ぼっちゃんは一体どの辺りまで行かれたのでしょうか?」
先程から何度もすれ違いかける兵をやり過ごして、グレミオは小さく呼びかける。
しかし、外見は可愛くても中身は可愛らしさだけで作られていないスイは、そうやすやすと答えてはくれない。
こうしている間にも、スイが兵士に捕まって、身分がばれでもしたら──と、内心ひやひやしているのだが、そういう彼は自分の立場というものに気付いてはいなかった。一応自分だって、赤月帝国の兵の一人として数えられる立場である。捕まったら、スパイ容疑をかけられるのはまず間違いない。待っているのは、拷問と拷問と拷問の日々である。そして、してもいないことを告白させられるのだ。
が、今のグレミオには、我が身の危険よりも、スイの身の心配しかなかった。
あの優秀なお子様のことだから、上手くやっているとは思うのだけど、と、グレミオは向こう側を伺いながら、そっと溜め息を零す。
こんなこと、テオ様に知られよう物なら、「やっぱりまかれたか」と溜め息を吐かれる事だろう。更にクレオさんに知られたりなどしたら、「あんたは、まともに仕事もできないのかいっ!」と叫ばれるに違いあるまい。
今から思うだけで、胃が痛くなりそうである。
こんなときでなかったら、スイが行方不明などでなかったら、忍び込んだこの城の美しさをのんびりと堪能しているだろうに。
はぁ、と吐息づいて、グレミオは再び呟く。
「ああ、ぼっちゃん……どうしてグレミオの呼びかけに答えて下さらないのですか? ぼっちゃん、一体どこに……。」
ぶつぶつ、と呟く彼の肩に、ふと何かが触れた。
とんとん、と叩くようなそれに、グレミオは顔を輝かせる。
「ぼっちゃんっ!?」
ぼっちゃんが探検に飽きて、帰ってきてくれたのではっ!?
そう想って振り返ったグレミオの期待は、ものの見事に崩れ去った。
そこには、見慣れない鎧を着込んだ男が立っていたのである。しかも、怪しい侵入者に向ける剣を片手に握っていた。
──どう考えても、彼は、怪しい侵入者を捕まえに来た、兵士であった。
さて、一方、グレミオが痩身の思いで探している主の息子はというと。
「あっはっはっはっ! それ、ドボン。」
ルカが出したカードを指差して、爆笑していた。
「うっ。」
言葉に詰ったルカに、
「ほぉーんと、皇子様ってば、カードゲームに弱い事v」
嬉しそうに瞳を細めて笑った後、失礼、とルカが投げ捨てたカードを恭しく受け取った。
ジルが自分の顔をカードで隠しながら、くすくす笑う。
「おにいさまってば、ポーカーフェイスはお得意ですのにねぇ。」
かく言うジルの手札も、ルカのそれよりも揃っている。
「こういう庶民の遊びは、俺様がするものではないっ!」
ばしっ、とカードを払いのけて、ルカがスイを睨み付ける。
「えー? やりたいって言ったのルカじゃないかー。ったく、わがままちーだなぁ。」
「お前に言われたくはない。観光したいと言う理由でここまで入り込んでいるお前にはな。」
結局、連れ込まれた部屋でルカが尋問したことに、スイは平気で答えをさらしていった。──勿論、冗談のまま、刺客その一としての答えを。
ルカはそれに対して、ならばお前には死あるのみだと言ったのだが──スイはスイで、今回は観光ついでに下見に来たんだから、殺されるのは割りに合わないとこたえた。
そして、それなら、ゲームで決めるのはどうだ? と、旅の間、テオやグレミオと一緒に遊んだカードゲームを提示したのである。
実はこれ、カイ師匠直伝の技で、イカサマなどと言う技も出来る。
最初は命を取られてはたまらないと、真面目にイカサマしていたのだが、だんだんとルカの負けがつんで来るにつれて、ついにはジルまで巻き込んでのただのゲーム大会になりさがったのであった。
「それは言わないお約束〜♪ っていうかさ、知らない所に来たら、やっぱどうせなら見れるとこまでみたいじゃない。あ、ルカ! 親は僕だよ、僕。」
「そういうお前の方こそわがままだと言うのだ。こらっ! たまには俺にも親をさせろっ!」
「何言ってんだよ、さっき負けたじゃないか。」
「弱者救世制度が今発令したのだ。」
「は? 弱者急逝制度? そりゃまた凄い。まさにルカそのものっ!」
「………………お前、今わーざーと、間違えたろう?」
軽口を叩きながら、額を付き合わせてカードを混ぜ合う二人に、ジルは目頭が熱くなる思いであった。
それは、笑いを堪えるために涙が出てきたためではない(それもあったが)。兄が、急激に身近に降りてきたような──そんな感覚があったのだ。
「やだねぇ、負け犬の遠吠えは。さ、ジル。これ、君の分ね♪」
「うふふ。次は負けなくってよ、スイ。おにいさまの奴隷権はわたくしの物ですからね!」
「ふふ、受けて立とう。」
「おいこら、ちょっと待てお前ら。なんだ、その奴隷権というのはっ!」
楽しそうに顔を突き合わせる妹と少年とを睨み付けるが、二人はどこ吹く風と言いたげに、カードを見つめる。
「ルカ、君も早く見た方がいいよ。……はい、一枚め♪」
「そこで私がにーまいめ♪」
まるで気の合う兄妹さながらに連続して出されて、慌ててルカは自分の目の前にある裏向きのカードを手にしようとした。しかし、慌てるあまり、それをばらまいてしまう。
果たして、二人の強敵相手に自分のカードはばれることとなった。
「……っ! くそっ、やりなおしだっ!」
「え? なんでー?」
「そうですわよ、おにいさま。早く拾ってくださいまし、私たち、待ってますから。」
しれっとして二人がルカを促す。
敵の手の内が見れたというのに、わざわざやり直すなんて優しい事をしてくれるような性格をしてはいないのである。
ルカがギッと睨むが、それに肩を揺らしておびえるほど、スイは可愛らしくできていなかったし、ジルもしたたかであった。
「ほらほら、おにいさまの番ですわよってば。」
「そうそう、ルカ、早くしないとペナルティーつけるよ。奴隷権三日追加。」
「きーさーまーらーっ!!」
早く、と急かす二人に、ついに短気を起こしたルカが、がったーんっ、と椅子を蹴った、まさにその時である。
とんとん、と控えめなノックが響いたのは。
それを聞いてもおさまらないルカが剣を抜く。
控えめなノックに、スイが顔を顰めながら、とりあえず身近にあったカードで(しかも角を鉄で補強したもの)、ルカの手首をぶす、と刺した。
思いもよらない痛みに、ルカが身を震わせている間に、
「誰かしら?」
ジルが席を立って、ドアへと歩み寄った。
ここはスイを連れ込むために適当に選んだ部屋だ。実は普段何に使われているかなど、ジルは知らない。
だから、この部屋の主かもしれないと、彼女はドアに向かった。
「いつものパターンから行くと、これ、グレミオだったりするんだよねー……。」
手首に突き刺さったカードに悶絶するルカが、血が滲み出ている自分の手を睨みながら、スイの言葉に反応した。
「グレミオ──というと、あののほほんとしたお前の兄か?」
「あー……そういえば、そういうことにしてあったっけ……うん、そう。一緒に来てるの。で、ついでに撒いてきてるんだ。」
古い記憶を掘り返して思う所は、確かあの時は、異母兄弟だとか名乗っていたような気がする。その時、面白半分で、グレミオの母の名前はソニアと言って、彼女は自分の父の正妻の座を狙っているとかどうとか、そういう説明をしたような────────。ま、過去の忘れてもいい、どうでもいいことなのは確かである。
「…………ふむ、ならばいなりずしでも作ってもらおうか。」
「…………………………シチューと一緒に?」
確か、あの時、グレミオが二人に作ったものは、シチューといなりずしという、マクドール家ではよくある光景(何せ、スイがシチューが好きで、パーンがいなりずしが好きであったから、同時に作られることがあったのだ)であった。
何も今こんなものを作らなくても、と思ったにも関わらず、この兄妹には馬鹿受けしていたのだった。
三年たった今でも、ルカはあの味が忘れられないものと見た。
そんなことを話している間に、ジルがドアを開けた。
思わずルカの後ろに隠れたスイが、ひょこ、と顔だけ覗かせる。
また何かやらかしたのか、とルカが嘲笑うのを睨みながら、慎重に入り口を見やると、
「あら……兵士長……。」
ジルの、困ったような表情があった。
「これはこれはジル様。あの──私の部屋で、一体……?」
どうやら、一行が適当に選らんだ部屋は、兵士長の部屋であったようである。
彼女はまさか正直に話すわけにも行かず、困ったように兄を振り返った。
兵士長としてあ、自分の部屋からあやしい声が聞こえてきたため(しかもその声に聞き覚えがあったため)、一応ノックをしたというところであろう。
まさか本当に、中に皇女と皇子が揃っているとは思ってもみなかっただろうけど。
一体どんな叱責を受けるのだろうかと、彼は見てわかるほど、びくびくしていた。
何せ、自分の部屋の中は、テーブルにカードが散乱していて、椅子が転がっていて、ルカが……狂皇子が剣を持って立っているのである。
恐ろしい事この上なかった。
「兵士長さんに聞きたい事があって、ここで待たせてもらっていたんだ。ね、ルカ?」
それを和らげるように、うそ八百を言うのは、厚顔なスイであった。
彼は、笑顔でルカを見上げた後、真剣な表情で兵士長を見やった。
「城の中で、怪しい優男がうろついているのを捕獲したという情報はないかな? 美形なんだけど、情けない感じのする、20過ぎの。」
その説明を聞きながら、ジルとルカの頭に浮かんだのは、料理の美味い「スイの兄」であった。
そして、同じ様にその説明を聞いて、浮かんだ男の姿があったのは、兵士長も一緒のようであった。
「ああ、それならば……。」
と、答えようとした刹那、兵士長の姿がドンと前に押された。同時、
「ぼぼぼぼ、ぼっちゃーんっ!!!!!!」
飛び込んできた姿は、今スイが言った言葉通りの風体の男であった。
彼は、スイがどこにいるのか判ってもいないだろうに、スイのことに関しては世界一を誇るレーダーでもって、彼の居場所を突き止めた。
ルカを押しのける勢いで、そのままスイにしがみつくように抱き付いた。
そして、ギュムギュムと力の限り抱きしめると、
「よよよよ、よかったぁぁぁーっ!!! もうもう、どうなってしまったかと思いましたっ! 今ごろ飢えた兵士にでも見つかって、あんなことや、こーんなことをされていたら、どうしようかとぉぉぉぉーっ!!!!」
「あんなことやこんなことって、なんだよ。こら、泣くなよ。鼻水つくだろ。」
一回りは年上のグレミオの頭を撫でてやりながら、スイが溜め息を零す。
グレミオはひとしきり叫んだ後、ふと我に返って、スイを覗き込んだ。
「ぼっちゃんっ! ぼっちゃんが兵士長さんの所にいるということは、ぼっちゃんも捕まったということですか?」
「まっさかぁ、グレミオじゃあるまいし。」
「う……っ。」
言葉に詰ったグレミオが、ふと目線を初めて他にやって、あ、と声をあげた。
グレミオに押された腰を抑えて座り込んでいる兵士長を起こしてあげながら、ジルがグレミオに軽く頭を下げた。
「あーれーぇぇぇ? ジルお嬢さまじゃありませんか。──それに、ああっ! ルカぼっちゃんっ!?」
続けて、グレミオがルカを指さして叫ぶ。スイがそっとその指を握り込んで、グレミオを見あげて微笑む。
「駄目だよ、狂皇子と言えども、人なんだから、指差したりなんてしたら。」
「おいこら。」
ルカが反論するが、それは聞かなかった振りをして、スイがにっこりと笑った。
「ああああ、そうですかぁ、……って、おお、皇子っ!? ええっ!? ルカぼっちゃんって、皇子だったんですかっ!? こんなに、気品のない皇子がいるなどとはっ! これはまた、驚きですねっ!」
「天然そうに見えて、相変わらず言いたい放題だな、お前──っ!」
「あ、すいません、ルカぼっちゃんっ!」
にこりと、さわやかな笑顔を振りまくグレミオに、
「だから、ルカぼっちゃんと呼ぶなーっ!!!」
ルカが、叫びながら剣を振りまわす。
「あの……っ。」
ルカの脅威におびえつつ、兵士長が尋ねる。それには、ジルが困ったように笑いながらこたえた。
「わたくしたちの知り合いなのです。どうか、お気になさらないで?」
その救世主のような言葉に、狂皇子と呼ばれ始めたルカを恐れる男は、こくこくと頷いて、自分の部屋から立ち去るのであった。
今日はこの部屋に近寄るまいと、心に誓いながら。
かくして、滞在中、スイは面白おかしく、三年前の幼馴染とともに遊びほうけたのであった。
その結果、放っておかれたテオが、宿屋の隅で寂しくしていたということは、あえて語る必要はないであろう。
テオは後に語る。──二度と国外への旅行は認めはしない、と。
その真意が、自分が放っておかれたからなのか、スイがさまざまな遊びを覚えてきたからなのかは……推してはかるべし、というやつなのであった。
しい様
祝・108作目リクエストありがとうございました♪
一応、年齢設定は、いつもよりやや下げております。──あまりわかりませんけど(笑)。
テオが変装して、スイの後をつけたりとか、都をうろつく話とかもできたのですが、体力が持ちませんので、今日はこの当たりで……(笑)。
思った以上に長々としてしまいましたが、受け取ってくださると嬉しい次第でございますv
ゆりか拝