王者刻印  SIDE C 忠誠


 雨。
 すべてを濡らす、すべてを洗い流そうとする、雨。
 それは冷たい刺。それは冷ややかな涙。それは自分を責める……幾多もの罰。
 春先の雨は身体の体温を奪うもの。
 本来なら、まだ幼い子供がこんなところで一人さびしく雨にあたっているなんて、あっていいことではなかった。
 でも、少年は一人、立っていた。
 背丈よりも高い墓標。そこには一人の女の名が刻ませている。
 少年のやわらかな黒い髪は、びっしょりと濡れ、重くしずくを滴らせる。
 白い肌は滝のような水を流す土台になって、服は肌にはりつき、その裾から雨のしずくが滴る。
 雨は前が見とおせないくらいの勢いで降りつづけている。
 少年はそれでも動かない。
 ただ黙って、立ち尽くす。
 墓の前に立ったまま、ピクリとも動かない。
 目は潤み、涙は雨とともに流れて行く。
 身体が冷えていたが、それすら感じなかった。
 指先も足先も感覚が無くなって……打たれる雨の激しさが、肩に痛い。
 それだけが、時間の経過を教えていた。
 少年は、ぼんやりと墓を眺める。
 虚ろな目だった。何もうつさない目だった。あっていいことではない。
 まだ5つか6つの少年が、する目じゃない。
 助けを求めるように、彼は墓を見つめる。
 そこに刻まれているのは、母の名。見たこともない、自分を生んでくれた母親の名前。
 皆が言う、坊ちゃんはお父様似ですね、と。
 でも一度見かけた絵姿では、父の隣に立っていた女性のほうが、自分に似ていた。
 やわらかな面立ち、優しい微笑み。まるで……グレミオのようだと思った。
 金の髪の青年の顔を思い出したとたん、目の前が真っ赤になった気がして、バシャリ、と地面に膝が落ちた。
 耳障りな音を立てる地面に、雨が落ちる。泥が飛ぶ。
 少年の、日の匂いのする服は、泥と雨の匂いにまみれる。
 指先が冷たい水溜りに触れた。しかし、指先は触れた水に反応しない。
 唇は紫色に染まっている。
 どれくらいそうしてここにいたのだろうか?
「…………なん……────て…………。」
 ボソリ、と少年が呟く。
 それは雨に掻き消える。
「僕なんて……──。」
 前髪から滴った雨の雫が額を伝う。それは滝のように流れて行く。
 長いまつげにも重くしずくが乗る。
 暗い瞳が、伏せられる。
「僕なんて、生まれてこなければ良かったんだ……。」
 低く呟く声は、寒さのために震えていた。
 いや、それはもしかしたら哀しみのためだったのかもしれない。
 脳裏に浮かんで消えない光景。白い肌が真っ青になって、頬からあふれた血が、服を濡らして、喉を伝って、そのまま……手のひらに、べっとりとついた。
 きゅ、と手のひらを握る。
 その拍子に、爪先に泥が入りこんだ。
 怖かった。どうしようもなく怖かった。
 血が、頭の中に残ってる。
 青年の、弱弱しいばかりの微笑みが、胸に痛い。
「……生まれてこなかったら、母上も死ななかったのに。
そうしたら、グレミオの…………──僕が生まれたから、僕がいたから、グレミオは死んじゃうんだ。」
 ひっく、と喉がなった。
 もう涙は出尽くしたと思ったのに、それでも涙はあふれてくる。冷え切った体の中、まぶただけが熱い。
 肩が震えた。ただ、悲しくて、悲しくて。
 思い出すのは、グレミオの……悲しい笑顔。
 彼の傷ついた頬。流れる血。
 あの時、グレミオの言うことを聞いていれば、あんなことにならなかったのに。
 グレミオを傷つけることも無かったのに。
 あんな男に捕まることもなかったのに。
 グレミオの言う通り、あの男を信用しなければ。
「僕なんて……いなければ、よかったのに……っっ。」
「そんな悲しいことを言うな。」
 不意に、上から声が降ってきた。
 はっ、と見やった先に、テオが立っていた。
 そのとたん、ばさり、と上着が落される。そして、傘が差し伸べられた。
 雨が届かなくなる。まるで罰のように自分を責め立てていた雨が、なくなる。
 その代わりに、ふわり、と上着ごと、冷えた身体には熱すぎるくらいの体温が少年を包み込む。
「ちち……うえ……──。」
「グレミオが意識を取り戻した。命に別状はないそうだ。」
 低く、響く声。
「もう、大丈夫だから。だから、そんな悲しいことを言うな。」
 抱きしめる腕。
「……──っっ。」
 ひくり、と喉が引き攣る。
 本当? と聞きたいのに、声は言葉にならない。
 そんないとしい息子を抱きしめる腕に力をこめて、テオは目の前の墓石を眺めた。
 もう5年も前に死んだ妻の名前がそこに刻まれている。
 その名前を見るのは、今でも辛い。とても……そう、とても愛した人だったから。
「いらないなんて、いうな……。」
 テオは、雨から息子を守るように、冷えた体の彼を暖めるように、よりいっそう腕に力をこめる。
 小さな小さな身体を腕に包んで、悲しい心を胸に包み込んで、囁く。
「私は、間違っていたのだろうか……? お前が要らない子だとなくのは、私が側にいてやれないからなのだろうな……。
だからお前は、自分がいらない子だなんていうんだな。」
 さびしそうな声だった。
 まるで父上も泣いているようだと、スイは大きな胸にしがみついて泣きながら、そう思った。
 そのスイの濡れた髪の上に、ポトン、としずくが落ちる。
 雨……?
 涙に濡れた目を上げると、父が──無言で涙をこぼしていた。
 悲しい目だと、幼い心に感じた。
 その目は、まっすぐに墓石を見詰めている。
「お前がいらないこだなんてことはない。だが、そんな風に思わせるのは、私がお前を放っておいたからなのか──? スイ?」
「……違うよ、僕、要らない子なんかじゃないよ? そうでしょう? 父上。」
 あまりにも父の顔が悲しくて、スイは手をさしのべる。
 そして、精一杯の言葉をかける。
「母上が生んでくれたんだもんね。グレミオが守ってくれたんだもんね。……僕、いらない子じゃないよね?」
 スイの手に、雨とも涙とも判別のつかないしずくが触れる。
 剣を握る男の手が、小さな手に重ねられた。
「ああ、ああ……そうだ。スイは、要らない子なんかじゃない。大切な──私の息子だ。」
 もう一度強く抱きしめられる。
 暖かな父の腕。暖かな胸。安心できるその中で、スイは雨の音を聞く。
 もうその音は、自分を責めて立ててはいなかった。






「……やはり、こうなるのですね。」
 感情を殺した声。それとは矛盾する燃え立つ瞳。
「あなたが彼を裏切れるはずがないと、そう思ってましたよ。」
 自嘲じみた声。それはもう、子供の持つものじゃない。
 星の瞳。
 まっすぐな、力有る覇者の瞳。
「あなたはわかっているはずですよ。」
 静かな声。それはよく響く、王者の持つそれ。
「それでも尚、しがみつくと?」
 糾弾する眼差し。静かな目。
「私が忠誠を誓ったのは、ただ一人だ。」
 腕が重い。今まで愛用してきた剣が、今日ほど重いと思ったことはなかった。
 けれど、不思議と迷いはない。
 目の前の少年の瞳が、自分を射抜くそれが、胸に突き刺さるようだと思うだけで。
「テオ!!」
「テオ様!!」
 かつての同僚の声。かつての──いや、今でも部下だと思っている女の声。
 テオはしかし、そちらを向かない。ただ、数ヶ月振りに再会する少年を見据える。
 やつれたと、思った。
 そして同時に、なんて悲しい色を宿すのだろう、と。
 それでもその全身にみなぎるのは惹かれずに入られない力。
 今自分が主とあがめる男が昔持っていたのと同じ……いやそれ以上の輝き。
「あなたの命をもってしても、彼の者の心は覆せないとしても?」
 そんなの、もうとっくに分かっていたことだ。
 それでもだと、テオは頷く。
 白い肌は病的に夕日に映える。赤い瞳は血に濡れた王者のそれ。
 外見はまるで変わっていない。でも、もうその姿は子供のそれじゃない。
 自分のよく知る息子じゃない。
「それでもだ。」
 答えなんて、一つしかなかった。
 例えそれが息子であろうとも、最愛の妻の忘れ形見であろうとも。
 私は……選ぶだけ。
 彼の者のために命を賭すことを。


「私は、私を信頼してくださる陛下を裏切れない。そういうことだ。」

「結局人情に縛られるんですね、あなたは──…………ッ、──参ります、テオ=マクドール。」



 ほんの少し前まで父と呼んだ唇はその言葉を漏らさない。
 子供の成長は早いというけれど、今はそれが何よりも口惜しく感じる。
 成長しない体。
 でもその心のなんと育ったことか?
 大切な人を失って、彼は一皮も二皮もむけた。
 鮮やかな星の主となっていく。
 それを見ていけないのは残念だが、殺すか殺されるか……ほかの誰かに殺させるくらいなら、この手で葬ってやろうというのが、父としての情け。


 大切な人を失って、もう誰も失いたくないからガムシャラになった。
 その先に立ちふさがる父は、とても大きくて、
 でも──勝てないわけじゃない。
 ほんの少し離れていた間に、まるで別人のようにやつれた父を見る。
 「反逆者」と呼ばれた息子に、彼は何を思うのだろう?
 僕は……あなたに、抱きしめて欲しいだけなのに──。







 暗い暗い部屋の中、開け放された窓からは、雨の匂いがした。
 その窓際のベッドにうずくまるのは、この城の主だ。
 華奢な身体を丸めて、額をシーツに押し付けている。
 右手のひらが、仄かに光りを放っていた。それを見たくないと言いたげに、彼は握り締める。
 そして、きりり、と唇をかんだ。
 歯の上で、血の味がする。
「…………っっ。」
 シーツの上に、ぽたりと血の染みが出来る。
 しかしそれにもかまわず、少年はただ何かをこらえるように目を閉じた。
 身体が小刻みに震えている。
 奥底から何かが湧き出してきそうな恐怖に、息苦しくなる。
 右手のひらには光り。シーツには血。
 そして、その瞳には虚ろな光り。
「──……っ、テッド……──。」
 思い出すのは甘い日々。昔の優しい記憶。
 その中で彼はいつも微笑んでいた。その隣りには、小さい頃から一緒だった青年や、父が微笑んでいる。
 昔の優しい記憶。昔の愛した記憶。
 でもそれは2度と戻ってこない……いや、先ほど自分で消してしまった過去。
 グレミオの死体は残らず。
 テオの死体は打ち棄てた。
 テッドの死体は燃やして灰に還し。
 残った物は何もない。自分に残されたのは、彼らの代りの魂食らいの紋章だけ。
 始まりはいつだったのか、もうわからない。思い出すのはただ、自分の懐かしい記憶だけ。
 それが胸をさいなむ。右手の呪われし紋章の力を喚起する。
「こんな……こんな世界、いらない──……っ。」
 どうして、と。
 どうして自分が選ぶのはこういうものしか待っていないの?
 なぜ僕がこんなことをしなくてはいけないの?
 こんなことをしなくてはいけないの?
 こんな世界いらない。何もいらない。
 嘆きは慟哭。自分を助ける者は何もない空間で、助けを求めるようにシーツを握り締める。
 冷たいシーツ。雨が吹きこんでくる、しけった空気。
「僕はいらない子じゃない。僕はいらない子じゃない。そう……皆必要としてくれてる。
 でも……でも。ただのスイ=マクドールを必要といってくれるのは、いない。」
 呟いて、それが思った以上に心に突き刺さるのに、眉を顰める。
「僕はいらない子じゃない──。」
 昔父に囁いたものと同じ言葉を囁く。
 けれどそれは、昔と違って、むなしく響くだけ。
 スイはもう一度同じ言葉を繰り返した。
「僕はいらない子じゃない……………………でも、僕は──こんな世界、いらない。」

 あつい右手。広い部屋が寒い。雨の音が……うるさい。

「僕は、世界なんていらない。」
 ああ、誰だったっけ? 王様は孤高の人だと言っていたのは。
 孤独な人。
 孤独で有らねばいけない、僕の世界。
 そんな世界、いらないのに。

 僕はいらない子供じゃない。
 そう言ってくれる人はもういない。
 言って欲しい人はもうどこにもいない。一人もいない。
 だから、
 孤独な王様でいなけらばならない世界なんて、いらない──。
 

 昔の思いでは優しすぎて、今の自分がとても惨めに思える。
 それでもこれは自分の選んだ道だから。
 今はただ、望むままに前に進むだけ……。

 雨の音がする。シーツは肌触り良くスイを包み込む。
 テッドのぬくもり、赤い血。そして父の顔。父の血。
 熱くなる紋章と、魂の悲鳴と──。
 額を押し付けたシーツが濡れる。
 しけこんだ雨が、スイの身体を冷やして行く。
「……──ぼくは、いらない子じゃない。
 ぼくは──孤独な王でもない。」

 その声はそれでも、ただ一人きりの闇に響くだけ……。

END


坊ちゃんの父親との思い出をつづってみようとして失敗。
こんなもので良かったら貰ってやってください……うう。
SIDEA とBは、坊ちゃんの思いでの中のつもりだったのにそうならないあたりがもぉ……だめかも。
なんだか終わってないようですが、終わらせてください(T_T)。

とりあえず悪あがきの説明……ご、ごめんなさい! なんか間違ってました!
今見て驚いたぜ、ははははは!! (爆爆)
継承戦争って、10年前です…………(^_^;;;
あたし、坊ちゃんが生まれるあたりだと思ってましたぁ!! 訂正訂正。書き直しです!
おかげでなんか時間軸が分かりにくいけど、まぁ、気にするな!(おまえが言うなぁぁ!!)
ごめんなさい、えまりさん…………──────。

時間軸説明→
 主に想い出は5才のとき中心で語られています。
 まず最初のサイドAは、3歳の誕生日のとき。ここでは単に、テオ様が誕生日まえに北へ行くということを言いたかったのです。
 サイドBは、テオ様が北へ行った時にテッドを拾ってきた話。11歳か12歳くらいの時デス。
 そしてサイドCは、やっと時間軸戻って、5歳。坊ちゃん誘拐事件のときです。
継承戦争が終わってすぐ位の頃。テオを逆恨みするやつらに……という設定です。ああ、短くしなくちゃとそればっかり考えて、 上手く書けなかった。未熟ですぅぅぅ〜〜。
 言いたいのはつまり、坊ちゃんにとっての、テオ様と、テオ様にとっての坊ちゃんが「シリアス」で書きたかったの〜!!
 でも無理だったみたい、えへ。この親子は難しいなぁ。やっぱり。
 そのうちサイチャレンジしてみます。