1主人公:スイ=マクドール
 
 
 
 
 
 
 

憎しみはなにも生まないのでしょうか?
 
 
 
 
 
 
 

††††††††††††  言霊  ††††††††††††




 静かな風を身に受けて、カスミは一人立ち尽くしていた。
 湖から流れてくる風は、冷ややかさすら伴なっていて、心地好く頬を掠めていく。
 遠くに見える山々を見通して、カスミはそっと溜め息を押し殺した。
 風に嬲られる髪が、首筋をくすぐる。
 彼女は手のひらをあげて、軽く髪を抑えた。
 遠くの山は、荘厳めいて映った。
 そこを見つめる彼女の瞳は、深く静かで──誰もがその目を見て思うだろう。
 彼女は、滅ぼされたあの地を……見つめているのだと。
 思わず零れた溜め息は重く、切なく、吐いた刹那にそれが零れた事を、カスミは後悔した。
「……今更、だわ。」
 呟いて、彼女は軽く首を振った。
 後悔したからと言って、何かが変るわけでもないのだ。
 事実、あのとき自分達は苦しんでいて、どうしようもなくて──選んだ。
 誰もを受け入れてくれ、解放を願う者に、力を貸してくれるという、ここに助けを求める事を。
 相手は百戦百勝将軍と呼ばれた男で。
 自分たちだけでは、根絶やしになるのは眼に見えてわかっていた。
 だから、身を隠すと言うハンゾウの言葉に従って、カスミは逃げ出し、ここへ来たのだ。助けを求めるために──いや、力を貸すために。
「何を……考えているの、私は。」
 自分に叱咤するように呟く。
 何を考えているのかと。
 今更、何を後悔しているのかと。
 知っていたはずではないか。解放軍のリーダーが、自分達の敵の息子だと。
 それでも、見過ごす事ができないからと、自ら解放軍を率いていた子供。自分よりも幼いくせに、その眼は老成した大人の物だった。いや、それ以上に──渇いていた。
 その目を、カスミはよく覚えている。
「後悔するなんて……。」
 それこそ彼に悪いと、そう思うのだけど。
 思わずにはいられない。
 私は、助けを求めに来なければ良かったのではないかと。
 彼が力の限り闘う様を見て、見惚れていた自分は、何と罪深いのかと。
 そうやって後悔してしまう。
「スイ……様………………。」
 切なく、彼の名を呟いてしまう。
 それすらも罪のような気がして、カスミは辛そうに眉を顰めた。
「何?」
 ばささっ!
 唐突に、返ってくるはずのない返事と共に、カスミの背後にあった木から、葉擦れの音がした。
 びくり、とカスミは肩を強ばらせ、今一番耳にしたくなかった人に声に、恐る恐る背後を振り返った。
 そこには、誰か立っているわけではなかった。
 しかし、その木の幹の上……葉擦れのする、枝に──。
「………………………………。」
 絶句した彼女の目の上──頭上に、彼はいた。
「なななな……何をなさっているんですか! スイ様っ!!」
 あせったカスミは、自分が何を言っていたのか思い返す間もなく、叫んだ。
 大きな木の太い枝に、両膝を引っかけるようにして、彼はぶらりとぶら下がっていたのだ。
 頭を地面に向けて、膝だけで枝に捕まるようにして、ぶら下がっている彼は、カスミの大声に軽く眉を顰めた。
「何って……ここで昼寝してたら、カスミが突然独り言言い出すからさ。」
 くい、と顎でしゃくるようにして、彼は自分がぶら下がっている木を示す。
 カスミはそれにつられるようにして大木とも言える、堂々とした木を見あげて、はぁ、と気の無い返事をした。
 その直後、
「って、木の上でお昼寝って……あ、危ないではないですかっ!」
 叫んだ。
 自分の独り言を聞かれていたという恥ずかしさを掻き消すように、スイを見あげる。
 ぶらぶらと枝からぶら下がるスイは、叫んだ彼女を珍しそうに見つめた後、
「慣れると楽だけどね。」
 そう返した。
 カスミはそんな軍主を信じられない眼差しで見つめたが、何も言わずただ木を見あげた。
「でも……──落ちると、危ないですよ。」
 大木は、見事に葉を広げていた。誰だったかが、これを手入れしていたのを見たことがあるから、一応危険はないとは思う。思うが……だからといって、落ちないとは限らないのだ。
 カスミの心配をどう思ったのか、スイは不意に反動を付ける。
「きゃっ!」
 咄嗟に、スイが落ちやしないかと両方を揺らしたカスミが、慌てたように駆けつけようとした。
 しかし、スイはそれをものともせずにクルリ、と回って、再び枝の上に戻った。
 ほう、と安心したように胸を撫で下ろしたカスミが、溜め息を零しきるよりも先に、ひょいっ、と飛び降りた。
 唖然とするカスミの前に、とん、と足を付けたスイは、そのままの動作でカスミを振り返った。
 少し目線が下にある彼女に、やんわりと微笑みかける。
「ここは、景色がいいからね。」
 日に輝くような笑顔を向けられて、カスミは瞬間、脳みそが沸騰するかと思った。
 顔が真っ赤になっているのを感じ取りながら、こくこくを言葉もなく頷いた。
「そ、そうですね……ここからだと、山も良く見えますしっ!」
 そして、頭が沸騰するあまり、言ってはならない事までもを口にしてしまった。
 これでは自分が何を見ていたのか、誰にでも分かってしまうではないかっ!
 特に、ただのお飾り群主ではない、この優秀な青年には。
 現に、少年はカスミにすら分からないくらいの瞬間だけ、眉をしかめた。
 その後、すぐに表情を改めて、カスミが見ていた方向を見た。
 遥か北──赤月帝国の天敵である、ジョウストン都市同盟へと続く方角……カスミがあの日、命からがら逃げてきた方向。
 カスミは一人前の忍びとは言えど、一般的にはまだ幼いとすら言える、少女にすぎない。
 大人であることを強要されたのは、自分と変わりない。
 だから、何を言うでもなく、そう、と頷くだけにした。
 カスミはそんなスイをちらり、と伺うように見た後、無言で唇を噛み締める。
 スイ様に──この方に気を使わせるなんて、なんてことをしているのだろう、自分は。
 後悔に胸が潰されるような気分すら味わいながら、カスミは共に山を見やった。
 霞むような雲が湧きたつ山は、綺麗に太陽に映えて映っている。緑の際立つ様が、眩しいくらいであった。
 目を細めて、スイと共に立つ。
 隣に彼がいることを、極力意識しないようにして、遠く故郷の山を見つめた。
 そこには、荘厳に佇む山がある。あの凄惨な光景も、あの身が引き千切られるような感覚も、今はもう幻のようであった。
 けれど、あれは現実で、そしてその悔しさを胸に、自分はここに来たのに。
 なのに。
「……………………。」
 私は、後悔している。
 この身体を引き千切られるような苦痛を抱えて、ここに来た事を、彼らに助けを求め、手助けしに来た事を。
──ここの軍主である、彼に出会ってしまった事を。
「カスミ──憎しみは、何も生み出さないって言葉、知ってる?」
 不意にスイが尋ねる。
 カスミは自分の胸に抱えていた苦痛を読み取られたかのように、驚いて彼を見あげる。
 少年は、遠くの山を見たまま、動きはしなかった。
「知って……います。」
 それどころか、自分はその憎しみを後悔しているのだと言ったら、彼はなんと思うのだろうか?
 そうだ、自分は後悔しているのだ。憎しみ、悔しいと思った気持ちは本物なのに。目の前で殺されていった同胞を見て、涙を拭う暇もなく、憤ったのは事実なのに。
 そんな自分を後悔しているのだ。
 ──何よりも、後悔している自分を、憎んですらいるけれど。
「僕も昔、それを父から教えられた。」
 「父」
 禁句だと思っていた名が、スイの口から零れて、いや、はっきりと発音されて、カスミは驚愕を必死で押し殺した。
 彼が何を考えているのかわからない。カスミの思っている全てを見通されているような、そんな気すら覚えながら、彼女はスイを見つめた。
「戦争は何も生み出さない。憎しみは何も生まない。──僕はそれを信じていたし、素晴らしい言葉だと思ったよ。」
 過去形のその言い方に、カスミは不思議そうな眼差しを彼に向けた。
 琥珀色の眼差しが、微かな苦痛を閉じ込めて遠くを見ていた。
「スイ……様?」
 尋ねた声は、彼にとっては不本意なものであっただろう。
 けれど、カスミは彼の名を口にしてしまった。
 スイは、淡く微笑んでカスミの声に答えた。
「ほんと、素晴らしい言葉だったよ。父さんは、それを経験してきたからこそ、そう言えた。
 そして今、僕も同じ様に戦争を経験している。百戦百勝と呼ばれた父にはかなわないけれど、それなりのことを知ったつもりだよ。」
 マッシュもまた、戦争に嫌気がさした人間であった。彼に同じ事を言ったとき、彼は苦く笑って答えた。
 それなのに、どうして人は争わずにはいられないのでしょうか、と。
 スイはそう囁いて、再び遠くに目を馳せる。今度は山ではなく、その上に横たわる、大海のような空を。
「人を憎むのは、とても哀しい事だと……私も思います。」
 知らず、カスミは両手を握っていた。
 その手が冷たく感じて、彼女は哀しげに瞳を揺らす。
 そう、人を憎むのは、とても哀しい事。
 それが故に、今もこうして……後悔している。
 どれほど残酷な所業であろうとも、どれほど憎くても。
 結局私は、その思いを抱いたがために、こうして戦いに身を投じ、こうして……この人を苦しめているのだと、知ってしまったのだから。
 けれど、苦しみ、あがいている人であるはずの彼は、飄々とした表情で、山を見て、空を見て──そして、この城が一番馴染んでいる湖を見た。
 優しいとすら言える微笑みを浮かべて、彼は岸辺に跪く。
「憎む事は、何も生まないわけじゃない。戦争は、何も生まないわけじゃない。」
 噛み締めるように呟かれたその言葉の意味を、カスミは測り兼ねた。
 何も生まないと言いきってしまえば、闘う理由は無くなるだろう。
 それを何よりも恐れるのは、戦いの先陣を切っている軍主だ。
 だからこそ彼はそう言うのか、それとも────本気で、そう思っているのか、カスミには分からなかった。
 ただ、背中を見つめる。
 まだ小さいように見える少年の背中。そこには、多くの者の運命が宿っている。──勿論、カスミの運命も。
「マッシュも、戦は無意味な時があると言った。僕も……そう思う。」
 黙って言葉の先を待つ。
「でも、意味が無ければ、誰もついては来ない。
 僕は、意味のない戦などする気はないし、しているつもりもない。」
 言い切る眼差しは、いつしか覇王のものへと変化していた。
 それは、カスミが魅入られた瞳。カスミが憧れずにはいられなかった眼。
 輝く、琥珀の──紅混じりの、琥珀の瞳。
 まっすぐに正面を見つめる瞳が見ているのは、湖ではない。ここの景色ではない。
 カスミにも見える……騒がしい戦場の、血なまぐさい光景が。
 耳に怒号すら蘇ってくる気がして、カスミはつい、と視線をずらした。
 当たり前のように豹変する彼が──どこか怖かった。
「憎しみは──意味無き物ではないよ。」
 滅多に見せる事のないその眼差しで、彼が囁く。彼が呟く。
 綺麗な瞳で、鮮やかな表情で、彼が振り返る。
 水面に輝き、反射した光が彼の白い肌を透けるように称えた。漆黒の髪をまとめていたバンダナの端が、風に軽くなびいている。
 奇妙に止まった時を感じた。
 そんな時間の中で、その瞳が、カスミを射抜く。
 遠く故郷の山を見つめ、後悔に身を焦がしていた乙女を──静かに射抜く。
「憎しみは、力を呼ぶ、後悔を呼ぶ。──憎しみは、時に優しい癒しになる。」
 どうしてそう囁くのか、分からないけれど。
 その呟きは、カスミの耳に酷く優しく響いた。
 胸が悲しみにしめつけられるように、ぎゅ、と痛んだ。
 どうしてなのか……分からない事が多すぎて、泣きたくなった。
「どうして……──そう、思うのですか?」
 すがるような響きにならないように、必死でカスミは尋ねた。
 スイはその問いに、透き通るような微笑みを浮かべた。
「だから、カスミ。憎みたいなら、憎めばいい。
 憎む事で、癒される心もあるから。」
 ふ、と。
 その微笑みに包み込まれているかのような感覚を覚えた。
「後悔することも大切だけど、憎む事で逃げる事が出来るのなら、それをしなければいけない時もある。
 ただね、憎むことに溺れてはいけないよ。そうなったら後は、狂気が待っているだけだから。」
 優しい微笑みだった。
 けれど、カスミはそれに寒気すら覚えた。
 ぞくり、と背筋を這うそれは、彼の覇王としての資質に溺れたためだろうか? それとも、その笑顔の奥に虚ろさが見えたためだろうか?
 わからず、カスミは強ばった表情を無理に笑顔に変えた。
 スイは、それに何も言わず、微笑みを広げた。
「カスミ。僕は、君に感謝しているよ。
 君がああして来なかったら、僕はいつまでたっても、あの大きな壁を突き抜ける事はなかったから。」
 微笑みは、虚ろにも、真摯にも受け取れた。
 大きな壁と言う言葉が何を指すのか、分からないはずはなかった。
 彼は、追いつめられて、背中を押されて、そうして決断したと、自ら認めた。
 ──憎む事で、逃げる事が出来ると、癒される事ができると、彼は言った。
 ならば。
 あなたが、その理不尽なまでの戦いに……父との戦いの傷から救われるために、憎むのは────────誰?
「…………………………私を、憎んではいないのですか?」
 思った刹那、カスミは尋ねていた。
 自分でも思いも寄らなかった瞬間に、怖くて聞けなかった言葉が、するりと唇から零れた。
 一番恐怖していたこと。
 一番恐れていた言葉。
 それが、何故か口から零れた。
 言った瞬間、喉が締め付けられるように痛くて、カスミは拳にチカラを込める。
 スイは、その言葉に驚いたように目をみはった。
「僕が? 君を? ──何故?」
 本当に不思議そうな口調であった。
 それを見た瞬間、カスミは自分がみっともなくも安堵するのを感じた。
「だって……私が────。」
 私が、戦を招いたのですよ、スイ様?
 あなたが誰よりも戦いたくなかったであろう、あなたの父君との戦を、私が招いたのですよ?
 私は、知っていたんです。
 あなたの父が、私の里を強襲したのだと。あの男の息子に、助けを求めているのだと。
「君が招いたわけじゃないだろう? あの時、あの状況で、あの人は解放軍を責めるのが得策だと見ぬいた。それだけの話しだ。」
 そして、それを見抜けず、あの無敵の隊に向かうには心元過ぎる力しか持てなかった自分たち。
 あれは、戦場だったのだ。
「僕は戦場で父を失った。偉大なる敵として────────………………誇るべき父として。」
 渇いた言葉。でも同時に、優しい言葉。
 誰かを憎む事はないのだと、まるで自分に言い聞かせているかのような、そんな言葉。
 耐えられず、カスミはしゃがみこむ彼の隣に座った。
「あなたの言葉は……痛いです。」
 彼は、不思議な人であった。
 それと同時に、可哀相なのに、強くて、儚いのに、確固としていて。
 自分には遠いのに、とても近くにいてくれて。
 不思議な、主君であった。
「でも………………とても、優しいんです。」
 視界がゆがんだ。
 不意に、何の予告も無く、スイの顔が歪んで映った。
 滲む景色が、何も見えないくらいの白い世界に変わって、カスミは目を閉じる。
 頬を伝う生暖かな物が、自分の心から流れる血のようであった。
 しゃがみこんでただ涙する彼女に、スイはほんの少し、微笑んで、そっと指先で涙を拭った。
 ひんやりと指先に乗った涙の雫が、つぅ、と指を伝う。
 それを静かに目で追ってから、カスミをもう一度見つめた。
「ありがとう。」
 目を閉じて、涙する少女に、彼は優しく囁く。
 そして、その華奢な肩をそっと抱き寄せた。
 鳴咽を堪えて微かに震える背中を、何度も撫でてやりながら、スイは無言で顔を上げた。
 青く澄んだ空の元、湖の遥か向うにそびえる山。その奥深くからやってきた少女を腕の中に、青青とした木々を茂らせるその山を眺めた。
 何も変わらないように見える山だけど、あそこには、父が犯した罪の後が、今も色濃く残っているのだろう。
 父がその行いをしているのだと、初めて知ったのが、この戦場だった。
 それが、衝撃であり、また、悲しみでもあった。父もまた、多くの罪なき命を奪っているのだと、眼前に突きつけられたのだから。
 これもまた戦争なのだと……知ってはいたけれど、それでも、哀しかったのだ。
 スイは、黙って目を伏せて、未だ涙の止まらない彼女を抱きしめる腕にチカラを込めた。
 そうやって涙する彼女を見つめながら──震える肩を必死で強ばらせる少女を、宥めるように抱き留めながら。
 思いを馳せるのは──いつか行く、遠い空の下………………。
 
 










戦が終ったら、その罪を見に行こうと思うのは……


 
 




皐月様

 カスミバージョン、完成いたしました〜……のですが、こ、こんなので良かったのでしょうかっ!?
 なんかギャグにするはずが、いつのまにかシリアスになってて、しかもカスミがなんか違う……。
 何故か途中で、「ぼっちゃん繊細化計画っ!」とかほざいて書いてるし……うう。
 とりあえず、合い言葉は「湖でデートv」ですけど……それだけは間違ってませんよね? ね!?
 こんな物になってしまいましたが、10000ありがとうございましたっ!
 マッシュと坊の話とまとめて、進呈させてい頂きます〜。
 
 

2000 9 29 庵百合華