面倒そうな表情で、彼は一通の封筒を見つめていた。片目だけ眇めるという、実に器用な表情を浮かべている。
ユラユラとカーテンが揺れて、心地良い風が吹き込む。さらり、と揺れた前髪が、目尻にかかるのを、苛立ちとともに振り払った。
そして、彼は再び目を眇めて、しっかりと蝋で封印されていた封筒を見つめた。
すでに開封されたそれの中身は、文机の上に置かれている。小さな球体の水晶の文鎮に抑えられた、上品な紙には、短い文章が書かれていた。達筆である。貰った方も思わず嬉しくなってしまうような……綺麗な字である。
しかし、中身がいけなかった。
手紙を受け取った主である少年は、重い溜め息をもう一度零して、それを裏返した。
そして、うろんげな眼差しで外を見つめる。
刻限は、こうしている間にも迫ってきている。
この手紙に従えば、あと数刻もしないうちに、住み慣れたこの屋敷を離れて、さくさくと馬車に乗って出発しなければいけないことであろう。
それは、十分によくわかっているのだが。
「……………………行きたくないなぁ……………………。」
澄んだ声音でそう呟いて、彼は再び綺麗な紋章で封印されていた封筒を見やった。浮かしぼりがしてある封筒は、上等の物であったし、中身のビンセンにしても、封印してあった蝋にしても、一目で一級品であると見て取れた。
相手が自分に対してとても気を遣っているのも、しっかり伝わってきている。文面も丁寧で、好感がもてる事この上ない。
もしも自分が、相手が誰なのかもわからない状態で、この手紙を受け取っていたならば、誘いに乗ってもいいと、そう思うくらいに好印象があった。
けれど、問題は……差出人なのであった。
外の温かな日差しとは異なって、これ以上ないくらいの不機嫌さを表に出しながら、スイは裏面に描かれている流暢な差出人のサインを見た。
ここ数年見かけなかった名前──同時に、断れない人の名前でもあった。
「今宵、ささやかながら、主人の冥福を祈る懇親会を開きます……か。」
早い話が、死んだ夫の一周年の日に開く、食事会である。
こういう手合いの話は、自分の所まで持ってこられる事はなかった。本来なら、自分が一通り目を通すのが筋なのであるが──仮にもこの屋敷の主であるのだから──、今の自分の立場が立場であるから、こういう出席を願うような手紙は、全て自分の付き人や姉かわりの人物が処分してくれていた。国外からの物や、大物貴族からの手紙などは、過保護者の一人である大統領自らが始末しているときているし。
それでも、この手紙だけは、彼の元についてしまっていた。
それは、手紙の相手が断れない人であることを──スイ自身だけじゃなくて、もう数年も前の戦争に参加した者全てが、良く知っている事だったからである。
いや、断ろうと思えば断れる。だけど、それをスイ自身の意志も聞かずに行うわけにはいかないと、ただそういうだけで。
そして、こうして自分の元に届いた手紙を、開いた時点で、スイはこの懇親会に行く事が自分の中で決定されていることだと、良くわかっていた。
それでも、こうしてだらだらと手紙を見てしまうのは──ここにあるだろう自分の過去を見たくないからなのかもしれない。
行けば、必ず自分は思い出す事だろう──あの時の苦しさも、悲しみも、なにもかもを。
でも──……行かないわけには、いかない。
「あの時、すべてが終って──僕はもう何もしなくても言いのだと思ったものだけど………………結局、僕の過去は、僕の物でしかないんだよね。」
どうあがいても、それから逃げる事もできなければ、それを見て見ぬふりをし続けることもできない。
あれが、あの非現実的な感覚すら覚える時間が、自分の過去であり、自分そのものだということは──ちゃんと知っているはずなのに。
こうして目の前に突きつけられると痛いくらいの苦痛がよぎるのだ。
『解放軍の皆さんと、一緒にいて──私は、幸せでした。』
苦しんで、苦しんで、板挟みになっていたのだろう──哀しい微笑み。
彼は、人生に疲れきった微笑みを浮かべていた。
悩み、苦しみ──そして、疲れたと、そう言って笑った。
そして、全てが終わった自分達の前に、再び首を差し出して、彼は笑った。
「どうか私を殺して下さい。帝国は無くなりました。私が裏切り者であったと公開しても、かまいはしないでしょう?」
疲れたのだと。人生を終らせてくれと、彼は言った。
「馬鹿なことを言うな。生きていたくても、許されなかったものもいるのだぞ。」
レパントが叫び、
「あなたは、これから新しい人生を探すのですよ。」
アイリーンが諭し。
「その重い罪を、お前はこれから背負って生きていかねばならないのじゃ。」
フッケンが呟き。
「あなたが死んでも、何も戻りはしないわっ!」
アップルが嘆き。
「そんなこと……言うなよ……っ!」
泣きそうな顔で、誰かが…………呟いて。
そして自分は……………………何と、言ったのだった?
※
人里離れた山の中に、その屋敷はあった。
屋敷と言えるほど大きい家ではない。しかし、十分な大きさのある庭がその家を屋敷に見せていた。
見事に手入れされている庭だけが、この屋敷に人がいることを示している。他はシンとして、静かなものだった。
打ち捨てられた感のある門を開くと、ぎぎ、と音がして、少しだけ傾いだ。
さびついた錠がガランと音を立てて揺れる。
それでも、門の内側から玄関へと続く道は、雑草も刈り取られていて、綺麗に整えられていた。もしかしたら、今日のために張り切ったのかもしれない。
門をくぐり、奥へと進むと、庭の広さから考えるとこじんまりした屋敷が見えてきた。大きめの玄関がやけに大きく感じる様な屋敷であった。
ひいてきた馬をつなぐ場所がないかと視線を走らせたが、見事な庭ばかりが目に付いて、厩舎のような小屋は見当たらない。家人に聞くのが一番だろうと、少年は玄関の呼び鈴を鳴らそうとして──ふと自分たちの頭上に影が走ったのに気付く。
その感覚に懐かしさを感じながら見あげると、そこには、案の定、ここでは見かけないはずの者が飛んでいた。
ばさり、と、風を切る羽音がする。
懐かしい音と、懐かしい匂い。独特のそれは、普通に生活していては慣れないもので──でも、一度知ったら忘れられないそれ。
「あなたも……呼ばれたのですね。」
風が舞い立つ。
広い庭に、まるでそここそが降り立つために用意された場所だといいたげに、大きな獣が空から降り立った。
その背に乗る男が、静かな瞳で少年を見据える。
久しぶりに見かけた男に、彼は微かな笑みをはいた。
「ちょうど帰っていた所に──狙ったかのように舞い込んできたからね……来ないわけには、行かないだろう?」
まさかあなたが来るとは思わなかった、といいたげな彼の台詞に、少年は苦笑して見せた。それはまさに自分の台詞だ。
この場所に、この男が呼ばれていることも驚きだったが、まさか参加しに来るなどとは──思っても見なかったのだ。
彼こそ、「裏切り者」という言葉に、もっとも厳しいだろうと思っていたからこそ。
「帰っていたのですか……。それは珍しいことですね。」
軽く瞳を細めて囁く彼に、
「そうでもないよ。──最近は、一年に一度くらいは顔を出すようにしているし。」
少年は軽く切り替えす。
そして、自分の愛竜をあやすように顎をさすっている竜騎士を見あげて、
「それで、君はどうしてここに? ──ヨシュア?」
同胞として戦いを共に勝ち抜いた相手である彼の名を、久しぶりに口ずさむ。
長い間口に昇る事のなかった名前を呟くと、懐かしさが込み上げて来る。
「……手紙が、届きましたから。」
答えながら、男は自分の懐から封筒を取り出した。
スイに届いたのと同じ様な、白い封筒であった。簡素なそれには、流暢な文字で宛名が書かれている。
「あなたが一人で来るとは、珍しいですね。てっきり、あの過保護な従者がごいっしょだと思いましたけど?」
彼がトランの首都に帰っていたのだと言うのなら、一人でここに来るのは、珍しいと──ヨシュアが笑う。
その厳しい表情ばかりを見ていた当時を思うと、珍しい事この上ない微笑みを前にして、スイは無言でかぶりを振った。
「今回は、レパントが止めてくれた。」
いつもなら、一言返すと二言も三言も──楽しそうに返って来る言葉が、少ない。
ふとそう気付いて、ヨシュアは彼の雰囲気がいつかのそれに似ていることに気付いた。
戦争時代──生まれ育った帝国に反旗を翻し、見事勝利して見せた解放軍のリーダーとして君臨していた、あの時期に彼が持っていた空気に似ていた。ヨシュアが始めて会った時ではない──ヨシュアが同盟を約束した時に見せた方の雰囲気だ。
ここでない場所を見ている瞳。ただ道を見つめるための瞳。
「──レパント殿は、来られないのですか?」
自分の元に届いた手紙を見やって、ヨシュアは尋ねる。
スイが一人でここに来る事を、あの男が許すとは思えなかった。何よりも、自分の元に来た手紙が、解放軍の幹部であった者達に届いていないとは思わない。──例え将軍に届いていなくとも、レパントにだけは届いているはずだった。
ヨシュアの問いに、スイが答えようと口を開いた瞬間──前触れもなく、二人の前にあったドアが開いた。
どうやらヨシュアの竜が庭に降り立ったのに気付いた家主が、出迎えに来てくれたらしい。
スイは口を閉ざして、玄関を見やった。
そこには、年老いた女が立っていた。簡素な服を身につけて、手には細い杖が握られている。
「ああ……ようこそいらして下さいました。」
彼女の声は、ひび割れて聞き取りにくかった。けれど、彼女が二人の来訪を喜び、安堵しているのは十分に伝わった。
「お招き頂き、有り難うございます。竜洞騎士団の団長を勤めさせていただいております、ヨシュアです……覚えておられますでしょうか?」
竜の手綱を握ったヨシュアが軽く一礼すると、彼女は皺に埋もれかけていた瞳を大きく見開いて、これはこれは、と頭を下げた。
どうやら二人は一度顔を見合わせたことがあるらしい。ヨシュアは老婆に、あれからお加減はいかがですか、などと当たり障りのない言葉をかけていた。
スイはそれを無言で見詰めた後、
「葬儀には参加させていただけず、申し訳ありません。…………スイ=マクドールといいます。」
ゆっくりと一礼して、名を名乗った。
瞬間、老婆の身体が電撃が走ったかのように震え──彼女は、まじまじとスイを見つめた。
無遠慮とも取れるその視線を受けて、スイは彼女を見つめた。
普通の老婆であった。年齢を考えると、やや老けているようであったが、それも苦労のせいだろうと思うと納得できる。
「あなた……が………………反乱軍の……リーダーの………………。」
その言い方をするのは、決まっていた。
帝国側の人間だ。帝国が滅びても、帝国側の人間がいなくなったわけではない。
彼女の瞳に、一瞬憎悪が走ったのを、ヨシュアもスイも気付いた。しかし何も言わない。
解放軍は、自らのために──そして国のために、反旗を翻した。しかし、それを吉としない者だっていた。彼女もそんな一人だと──ただそれだけの話なのだ。
「今回、レパント大統領は、アヴァ国の宰相殿との話し合いが前々から決まっていたため、こちらに赴く事は叶いませんでした。その旨を示した書状を預かってきています。」
スイは何ごとも無かったかのように、馬にくくりつけた荷物の中から、書簡を取り出した。
老婆はその時になって始めて気付いたように、目を瞬いた。
「ああ……すいません、お客さまを玄関口に立たせておくなんて──どうぞおあがりください。そこでお受け取り致します。」
曲がった腰を更に曲げて、彼女はそう言った。
スイは書簡を手にしたまま、困ったようにヨシュアを見あげてから、老婆に目をやった。
そして、とりあえずやらねばならないことを口にする。
「それでは、お言葉に甘えて……といいたい所なのですが、先に馬と、こちらの竜を休ませる場所を──お教え願えますか?」
彼女はそれすらも忘れていた自分を恥じるように、微かに頬を染めると、頷いて先にたって歩き出した。
スイは馬の手綱を引いて、老婆の後に続いて馬を誘導する。
ヨシュアも愛竜の顔に一度手を当ててから、行こう、と手綱を引く。
「アヴァ国というと、ジョウストン都市同盟のあった場所ですね。」
レパントが来れないのは、そことの同盟のためなのか、とヨシュアが尋ねるのに、スイが小さく頷く。
「そう。ジョウストン都市同盟は、全てがアヴァ国と呼ばれるようになって、強大で領土の大きい国になっただろう? それで、友好関係を進めるためにシュウ殿……宰相殿と改めて会ってるってわけ。」
「あそこの主は確か、あなたと同じ年くらいの少年でしたね。」
世間の情報を思い出しながら尋ねるヨシュアの瞳が、少しいたずらげに光る。
アヴァ軍の軍主と呼ばれていた少年が、この英雄と呼ばれる少年を敬愛しているということは、噂に聞いて知っていた。
遠回しに、その少年があなたに会いに来ているのではないのですか、と尋ねたのだが──、
「ああ、リオのこと? 彼は今、アヴァ国の国王を放り出して、旅の空の下だ。だから、今回来てるのは、元軍師殿だけだよ。」
「………………そういう所まで真似しなくてもいいでしょうにね。」
さらり、と告げたスイに、同じ様にさらり、とヨシュアがぼやく。
スイはその的を得た台詞に、キッと視線をあげて睨み付けた後、
「幼い少年の心には、痛い思い出なんだよ、戦争っていうのはっ!」
そう続けた。
傷心のあまり旅に出るような性格でないことは、両方共によく判っていたが、あえて二人ともそれは口にしない。
「ま、それはどうでもいいとして──そういうヨシュアは、どうして一人で?」
彼は竜洞騎士団の団長。その右手に宿る紋章は、彼を領地から出すことを望まないはずである。現に彼が領地から出る事は、この数年なかったはずだ。……解放戦争当時は、スイのさまざまな策略と乱暴によって、出される事もしばしばあったようだが。
なのに、一人でこんなトランの端に来るなんて珍しいと、スイが瞳を細める。
レパントが死んだとか、そういうことなら、わざわざ足を運んで来ることがあっても不思議はないけれど。
これは、解放戦争当時──仲間を欺き続けた裏切り者の一周忌。あの哀しいスパイの男の、たかが一周忌なのである。彼ほどの男が自ら来るようなことだとは思えない。
「そういうあなたも、珍しいじゃないですか。」
ヨシュアも瞳を細めて、スイを見下ろす。
視線を受けて、スイは無言で前を歩く老婆を見て──呟いた。
「形見分けの中に、僕宛ての物があったって言うから──……さ。」
しかし、それはただの言い訳のようにヨシュアには聞こえた。
なんだかんだいいながらも、彼はあの男が──サンチェスが死んだ事を、この手紙が来るまで知らなかったのだろう。
何せ、去年はまだ旅の空の下だったのだろうから。
「……私は、フッケン殿やハンフリーが行けないと言っていたので、代わりを勤めさせてもらおうと思っただけですよ。」
ハンフリーは遠い空の下。フッケンはそろそろ長旅が辛い年である。
行けない者からたくされては、行かざるを得ない。特にハンフリーは、顔には出さないが、サンチェスにはさまざまな思いを抱いていた事は間違いないのだ。親友とすら呼べる男に頼まれて、無下に断るわけには行かなかったのだ。
「ふぅん……フリックには連絡取れなかったって、ゾラックさんが言ってたし、アップルも今どこにいるのかわかんないし、リュウカンも年寄りにはきついって言ってたし──もしかしてもしかしなくても、僕たちだけとか……言わないよね?」
スイが眉間に皺を寄せて見あげて来るのに、ヨシュアは少し考えた後、
「………………かも、しれませんね。」
付き合いのいい奴が、よりによって自分達だけとは、と──呆れ半分に思いながら頷くのであった。
サンチェスと言う男は、初期解放軍時代から参加していた男で、穏やかな紳士風の男であった。同じく初期解放軍から参加していたフリックがすぐ熱くなるのをたしなめたり、口数の少ないハンフリーに代ってさまざまなことをしたりと──解放軍の幹部までは行かずとも、それに準じる扱いを受けていた。
その彼が、帝国皇帝バルバロッサに仕えていたスパイだと言う事が分かったのは──帝都に攻め入るほんの少し前であった。
彼は、水上砦を落した直後、解放軍がここまでやってきた功労者である軍師を……軍主が誰よりも頼りにする片腕を、刺したのだった。
穏やかな男であった。血に濡れたナイフを片手にして、静かな瞳をしていた。
こうするしかないのだと……そういいながら、さみしげな眼差しをしていた。
自分は帝国の人間で、皇帝に逆らうわけには──裏切るわけにはいかないのにと、彼は苦しさをも乗り越えた、諦めたような表情で呟いた。
フリックが叫んだ。お前のせいでオデッサはと。
クレオがやりきれない表情で呟いた。どうして、と。
そしてマッシュが……彼を殺してはいけないと、息も絶え絶えの状態で囁いた。
その瞬間、サンチェスが泣きそうな表情になったのを、スイは覚えていた。サンチェスという男を思い出そうとすると、いつもニコニコ笑った穏やかな表情か、その悔しそうな──哀しそうな表情しか思い出せなかった。
狂うほど胸の痛みを抱え込んだ日に、サンチェスは温かな紅茶を入れてくれた。辛いことも、哀しい事も、いつかは思い出になると、そう言って励ましてくれたこともあった。
サンチェスが苦しんでいた事は、誰の目にも明らかだった。その上で彼を許すか、殺すか──その権利は、スイに委ねられていた。
そうして、スイはサンチェスを生かす事を選んだ。それは何も彼が裏切り者だったという事実を許すためではない。それを利用するためだった。
サンチェスは、苦しんでいた。帝国側と解放軍側とに板挟みにされていた。解放軍に心引かれる自分に、痛みすら感じていた。スイは、それを利用した。
サンチェスに、皇帝に最後の手紙を書けと強いた。
「軍師マッシュは危篤状態にあり。解放軍は未だ責める好機を見出せず」
ただその言葉だけ。
それは真実であった。それを書けというスイに、サンチェスは何を考えているのかと、反論した。これでは、あと数日もしないうちに解放軍に残りの帝国兵が攻めて来るではないか、と。
スイは、それでいいのだと、笑った。
「あなたは……何を考えているのか……っ!」
その時のサンチェスは、確かに解放軍の未来を案じていた。この砦が襲われる事を案じていた。
真実を漏洩させるスイに、苛立ちすら覚えていたのが、その証拠だった。
しかし、情報は真実であり真実でなかった。
マッシュは無理を押して立ち上がり、軍を決起したのだ。
サンチェスが、あの情報は──やはり偽りと思い込ませるための……と、安堵したのを止めるように、
「マッシュはあと数刻持たない。お前はマッシュを支えてやってくれ。」
リュウカンと共に。
そう、告げた。
スイは、サンチェスが解放軍と帝国側と、そのどちらをも選びきれなかったのを知っていた。
帝国を捨て切れなかったから、マッシュを刺した。でも解放軍も捨てられなかったから、マッシュを刺した事を知らせなかった。
どっちつかずでもいいのだ。今となってはもう、なるようにしかならないのだから。
サンチェスは頭のいい男だ。すぐにこれらはスイの作戦であると悟ったであろう。自分が、帝国に下手な情報を送らないために──例えば、マッシュは致命傷であるが、解放軍はこのまま責める兆しあり、だとか──真実を含めた情報を先に送らせた。そして、刑に処す事なかったサンチェスを罰するように、彼が自分で刺した男の面倒を見させる。もしここで、サンチェスがマッシュを殺したとしても、もう帝国に何の動きも起こらない。今ここで、サンチェスが砦を爆破させたとしても、何もかもがもう遅い。
サンチェスは、罪と居たたまれなさでがんじがらめになった。
──────帝国が滅び、サンチェスがスパイであったことなど、何もなかったようになって……それでも、その鎖はほどける事はなかった。
だから、帝都に残っていた妻と一緒に、トランの端であるこの辺境にやってきたのだ。
静かに…………罪を償うように。
かちゃかちゃと、食器が立てる音が響いた。
用意された食事は、簡素ではあったが、心温まる料理であった。
最初、用心も込めて、ヨシュアが先に一口食べたが、おかしな物は入っておらず、スイもすぐに口を付け始めた。
二人とも普段おいしい物を食べなれているせいか、素朴な味わいのそれに、何とも感想がなかったが、それでもこのような辺境で食べるには、十分な豪勢さだと理解していた。
「いつもは一人寂しく食べていますから……このように誰かと取るのは、本当に久しぶりなんですよ。」
彼女は、少し口元を綻ばせて笑った。
サンチェスが病に倒れてからは、ずっと一人で食事を食べてきたのだというから、確かに久しぶりなのであろう。緊張しているのか、少し指が震えていた。
「ずっとここに?」
かちゃん、とフォークを置いて尋ねたヨシュアに、老婆は苦く笑った。
「身寄りもおりませんので……それに、ここはあの人が生涯最後の場所と決めた所……私も同じ様に、ここに骨を埋めるつもりですから。」
彼女は、瞳を細めるようにして、自分の隣に立てかけてある写真を見た。
古びたその写真は、スイ達が知っているよりも若いサンチェスの姿が写し出されていた。
写真の中の彼は、誇らしげに笑っていた。それは、見た事のない、活発な笑顔であった。
「後で、墓参りさせて頂いてもいいですか?」
尋ねながら、スイはナプキンで口元を拭った。いつのまにか目の前の皿は綺麗になっていた。
老婆は綺麗に食べられた食器を嬉しげに見つめながら、頷く。
「きっとあの人も喜びます。──最後まで、あなたのことを呼んでおられましたから。」
そして、言われた一言に──スイは驚愕する。瞳を軽く見開いて、呟やいた老婆を凝視した。
「呼んで……?」
いぶかしむように目を細める。
今際の際に呼ばれてもおかしくないような、苦しい目にあわせたとは思うけれど──このような言い方をされると、まるでサンチェスがスイに会いたかったように聞こえる。
彼のことだから、スイにだけは会いたくないと……フリックに会いたくないと想っている以上に会いたくないはずなのに。
老婆はそんな彼に寂しげに笑いかけた後、
「お見せしたいものがあるんです……あの人が残した、あなた宛ての………………。」
そう言って、立ち上った。
老婆の前の食器には、まだ食事が残っていた。
今じゃなくても、と止めるスイに、彼女は軽くかぶりを振って、自分の食器を片づけ始める。
まるで手をつけていない食事に、ヨシュアが整った眉をしかめると、彼女はそれを感じ取ったように、力なく笑った。
「年を取ると、食が細くなるんです。誰かと食べれば食が進むかと思ったのですが……そうにもいかないようです。」
彼女はそのまま食器を手にして、部屋から出ていく。
ヨシュアは厳しい表情で彼女を見送ったあと、
「どう思われます?」
と、スイに意見を求めた。
スイは一度右手に目をやった後、ヨシュアの言及の瞳を受けて、溜め息をつく。
そして、左手で自分の左胸を指差すと、
「多分、彼女──長くないよ。」
と、こたえた。
ヨシュアはその言葉に、軽く目をすがめてから、
「そうか……死臭がするんだ……。」
と、先程から感じていた違和感の正体を口にする。
どこか影の薄い感じのする彼女は、生から遠ざかっていく人の匂いがするのだ。
「多分、だから一周忌なんて物を開いて──残しておきたいんだろうね。」
こういうのに当たってしまう自分達って、やはり普通じゃないのかな、と、同意を求めるようにスイは目をやる。
ヨシュアは用心深くそれに頷きながら、
「────私たちには、縁遠い物ですのにね──。」
少しだけ、寂しげに──そう呟いた。
「これを……──。」
そう言って老婆が差し出したのは、一冊の本であった。
分厚いわけでもない、古いわけでもない──薄い、一冊の本であった。
ただ、何度も読み返したのだろう。ページの部分に手垢がくっきりとついている。
表紙には題名もなく、裏表紙を捲ってみたが、そこにも何もない。
「本というよりは……ノートのようですね?」
横から覗き込んだヨシュアの言葉に、ああ、とスイは呟く。
そうだ、これはノートだ。
確認するように老婆を見ると、彼女は夫の写真を両手に持って、静かな瞳をしていた。
スイは再びノートに目を落し、そっと表紙を捲った。
一ページ目に、懐かしい字で──「スイ=マクドール様」と、書かれていた。
そのままページを捲ると、そこには、ノート一面に、びっしりと文字が書かれていた。どこまで続いているのかと捲っていくと、そのまま最後まで──埋まっていた。
これがノートでもなく、本でもなく──スイに当てた手紙だということは、容易にしれた。
ヨシュアはノートを覗き込むのを止めて、出してもらった紅茶を口にする。
スイは無言で最初の一行に目を走らせた。
このような物を残す私を、あなたは愚かだと思いますか……?
彼は、そう語っていた。
ここには、生前のサンチェスが見せなかった、彼の葛藤と苦痛、そしてざんげと──喜びが描かれていた。
今更何を、と思いはするものの──彼が自分に当てたものだと言う事に、そのまま目が走る。
しばらく、スイが無言でページを捲る音が響いた。
ノートが半分程をすぎた頃、不意に彼女が口を開けた。
「あの人は──あなたを、とても尊敬していました。」
スイもヨシュアも、驚いたように目をあげる。
老婆はしかし、二人を見ずに、写真だけを見つめて、言葉を紡ぐ。
「始めは、こんな小さな子供が治める解放軍なんて恐るるに足りないと、そう言っていたのが、だんだんと──報告書の量が厚くなっていったと、言っていました。あなたの所業を事細かに書くようになったと。」
それは、別におかしいことではない。スパイが目的の軍主の行動を細かに書くのは、悪いことじゃないのだから。
一体何がいいたいのかと、いぶかしむスイをよそに、彼女は話を続ける。
「まるでそれは、成長する子供を報告する親のようなそれだったと、言っていました。解放軍がこういうことをして、こういう功績を上げた。そのため、次はこういう作戦を練っている。ただその報告だけなのに、気分は子供の自慢をするようだったと……。」
そんな自分に気付いた時、サンチェスは恐怖におののいたと、彼女は言った。
「……帝国を欺くように、帝国に情報が流されて上で勝ち残っていく解放軍に、いつしか心踊っている自分が怖いと、あの人はいいました。そして、その中心に立つあなたが──成長していくのを、いつまでも見ていたい気持ちになっている自分が、許せないと。」
彼が、苦しんでいるのは、スイも知っていた。
しかし、彼がどのように苦しみ、どのような思いを抱いていたかなど、考えた事もなかった。──考えている余裕など、あの時点ではなかった。
「あの人は、あなたが最後に告げた言葉を聞いて、生きようと思ったんです。私の元に、帰る決心をしてくれたのです。」
老婆の言葉に、スイは眉をひそめる。
最後の言葉? 僕が、サンチェスに?
一体自分は何を言ったのだろうか……?
尋ねるようにヨシュアを見あげるが、勿論そんなことを彼が知っているはずもない。ヨシュアから逆に、尋ねる目を向けられてしまった。
「──────あの人は、あなたに全てを知って欲しいと言っていました。あなたなら、全てを受け止めてくれるだろうと。」
愛しむように、彼女は写真を撫でる。
その仕草は、まるで愛撫のようであった。
スイは無言でノートの先へと目を走らせた。
そのままページを捲り──ふと、手が止まった。
「あなたと会ってみたかった──あの人があなたとこうして食卓を囲む事を夢見た、あなたと──……。」
呟いた彼女の台詞に、スイは無言で目線をあげた。
ノートの最後のページ近くに、たった数行だけ書かれたページが在った。白い中、目立つように書かれたそれが、否応なくスイの頭に入って来る。
──あなたとともに、再び食事が出来たらと、思う。
私は今度こそ、それを至上の幸福と思うだろう。
苦痛でしかなかった、解放軍での食事を、今度こそ、幸福と受け取れるだろう。
「…………………………。」
スイは無言で最後のページを開いた。
びっしりと書かれたそこには、今度スイに会ったらしたい事や、言いたい事が書いてあった。もう二度とかなわない……願い。
「……………………………………お前を、これの糧にする気はないと………………僕は、言った………………。」
ぼそり、と呟いたスイの言葉を老婆は聞いていなかった。
ヨシュアがいぶかしむように尋ねる視線を向けた。
スイは再び呟く。
「サンチェスが殺してくれと言った時、そう言ったんだ──あれが、最後の…………僕の言葉……。」
老婆には、意味が分からないに違いない。
しかし、ヨシュアには分かる。そして、スイの近くにいた人間たちも──……。
リーダーの紋章は呪いの紋章。近しい人の魂を盗み取る紋章。
──最後に掠め取られたのは、マッシュの魂。スイが信頼した軍師。それを殺したのは、サンチェスで……──。
ソウルイーターは、戦争のさなかでも、魂を掠め取っていった。
サンチェスのもそれと同じ意味であると考えられるだろうけど──彼なら、理解したはずだ。たった一言「糧」の意味を。
「近しい人の魂を盗み取り、力を増す」紋章の糧にする気がないと言う言葉の、意味を。
ぽん、と、不意に肩が叩かれて、スイは顔をあげた。
ヨシュアが、静かな表情に微笑みを乗せて──小さく頷く。
「彼は、あなたの痛みを取り除くために……これを残したのでしょうね。」
小さく囁かれて。
「……………………さぁ、どうだろうね。」
スイは、ほんの少し笑った。
痛い棘が、少しだけぬけたのを、感じながら──。
数日後、サンチェスの奥さんである老婆の訃報を聞いた。
彼女は、死ぬ前に遺品を全て整理していたのか、サンチェスの遺品も、彼女自身のそれも──何も残っていなかったのだという。
ちなみに、中に入らなかった一行。書きたいので書きますっ!
「…………グレミオは……サンチェスがスパイだって、知らないから……。」
ってことです、今回グレミオが来なかったわけ。
ちなみにヨシュアが来た本当に理由は(笑)、レパントとグレミオが心配して派遣しただけなのです(爆笑)。
「ぼっちゃんに何かあったらどうしてくれるんかぁぁぁぁぁーっ!!!!」
「頼むっ! このとぉりだっ! あなたしか頼める人がいないっ!!」
「………………ヨシュア様………………(ミリア、飽きれ顔で)、いかがなさいますか?」
ヨシュア様、優しいから(笑)、折れたんですねっ!
そして演技上手。
「…………とりあえず、グレミオ殿がいない件には触れておかないと、怪しまれるな。あとはレパント殿がこれるのか聞いておいて……うむ、私が来た理由については──そうだな、フッケン殿が来れないことでも理由にして……。」
作戦も立てるのです(笑)。