吹きぬけの玄関ホールに向けて、二階の廊下から階段を下りてきたところだった。
聞きなれた「音」に気づいて、ふと踊り場からホールを見下ろせば、思った通りの人影を認めた。
「…………クリスさん。」
思わず立ち止まって、その名を小さく呟けば、扉に向けて歩いていたクリスが、ハッとしたように顔を上げた。
本拠地内であるにも関わらず、きっちりと銀色の髪を結わえ、上から下まで鉄の鎧に身を包んでいる。
彼女がココに居る理由は、ヒューゴのそれと同じだろう。
外のオープンレストランに昼食を取りに来たのだ。
基本的に、互いに用事が無い限り顔を会わせることがないクリスとヒューゴであったが、こんな形ですれ違うように互いの顔を認め合うことは良くある。
レストランや酒場、会議室に向かうために玄関ホールに向かったり──また、部屋に戻るために玄関ホールを通り抜けたり。そんな、ごく当たり前の日常内の一コマであり、同じ屋根の下で暮らす以上、避けては通れない接触だ。
特に、今のように食事時間帯には、玄関ホールやレストランに向かう道筋で出会う確率は、グンとアップする。
これが会議室や訓練所に向かうところなら、わざわざ踊り場の上から声をかけたりなんかはしない。
今までもそうやって、互いの顔を認めることはあっても、声をかけることなんて無かった。──ただ、互いに見なかったフリをするように、通り過ぎあうだけだった。
けれど、今日は、少しだけ違う。
クリスが、ヒューゴの呟いた声に反応して、首を捻るようにして顔をあげたからだ。
「────……ヒューゴ。」
踊り場の手すりに片手を置いて、こちらを見下ろすように見ているヒューゴの姿を認め──クリスは、ス、と瞳を細めた。
表情に乏しい印象を与える、整いすぎるほど整った顔が、その仕草だけでキリリと引き締まった。
とたん、辺りに立ち込め始めた奇妙な緊張感に、クリスの後ろに続いていたルイスが、居心地悪そうに身をよじった。
そのまま彼は、クリスが見上げているのと同じ方向へ顎をあげて、ヒューゴの傍にはジョー軍曹が居るだけだと確認して、ホ、と胸をなでおろす。
もし、ルシアやビッチャムが傍に居ようものなら、また小さな揉め事が起こることだろう。
「……──だから、もう少し後にしましょうって言ったのに…………。」
口の中だけに消え入りそうな声で小さく呟いて、ルイスはクリスが見上げて居るのと同じ方向に顔を向けた。
手すりに片手を置くようにして見下ろしているヒューゴの後ろには、ジョー軍曹の姿しか見えない。面倒見のいいダックが、遠目に見ても分かるくらいに、ルイスと同じ表情になっているのが見えた。
──きっと彼もまた、ルイスと同じことを思っているのだろう。
こんなところで、「天敵」と会うことになるかもしれないのだから、昼食は時間をずらしたほうがいいって、言ったのに……、と。
そう、ルイスだって、クリスに言いはしたのだ。
今の時間は、レストランが一番混む時間だから、もう少し後にしたほうがいいと。
けれど、今が一番、仕事のキリがいいんだ、と──クリスが、そう言って聞いてくれなかっただけで。
ルイスの言葉の裏に隠れていた「今レストランに行けば、カラヤクランの人もたくさん居ますし」という言葉を、まったく理解してはくれなかったと言うわけだ。
他のグラスランド人なら、まだいい。──けれど、カラヤクランの人間だけは、ダメだ。
彼らの中には、未だにクリスのことを遠巻きにしたり、面と向かってあれやこれやと口出しをしてくる人間も居る。
その場にルシアやデュパが居てくれればたいした騒ぎにはならないが、カラヤの血の気の多い戦士の琴線に触れてしまうようなことが、何かの拍子に起きれば──、食事どころの騒ぎではなくなる。
そういう、カラヤの人達との微妙な関係を、他の誰よりも苦痛に感じているくせに、クリス様と来たら。
──ルイスでなくても、溜息を付きたくなる事態だ。
チラリ、と怖いもの見たさと、どうしても見なくてはいけない義務感のようなものに後押しされて、ルイスはクリスとヒューゴを見あげた。
2人は、互いの名を呼びあい──静かに視線を噛み合わせていた。
その間に流れる空気は、冷ややかとしか表現が出来ないようなソレ。
辺りの気温が下がったような上がったような、そんな奇妙な感覚に襲われながら、ゾクリとルイスは背筋を震わせた。
ヒューゴの呼びかけにクリスが答えてしまった以上、このまま何も見なかった、聞かなかったことにして立ち去るわけには行かないだろう。
せめて、ぎくしゃくとした会話でも何でもいいから、なんとか場をつなぐしかない。
そして、その会話の発端を、クリスやヒューゴに求めるのは無理だと言うことも、ルイスは良く分かっていた。
クリスとヒューゴの因縁がどういうものなのか、ルイスですら詳しく聞いたことはなかったが──それでも、一朝一夕で取り払えるようなものではないことは、確かなのだ。
だから──ここは、僕が、声をかけるしか、ない。
ルイスはそう決断すると、グ、と肩に力を込め──場に不似合いな明るい声で、ヒューゴを笑顔で見上げた。
「ヒュ、ヒューゴさまも、今からお食事なんですか?」
「──あ、うん、そう。……ルイスたちも?」
答える言葉は、ルイスが一人の時に話しかけた時に答えてくれる声よりも、ずっと平淡で、抑揚がない。
そして、いつもなら満面の笑みとまでは行かなくても、かすかに浮かべた微笑を見せてくれるはずなのに──今は、違う。
──六騎士の他の人達と居る時ですら、ヒューゴは微笑みくらいは見せてくれるのに、なぜか、クリスが一緒の時だけは、いつもこうだ。
ルイスの呼びかけに答えながらも、彼の視線は、ヒタリとクリスを睨み付けたまま──彼女の紫水晶の瞳に映り込む自分の影を見つめたまま、答えてくる。
無意識の仕草であることは、ルイスも今までの経験上良く分かっていた。
そして──同じようにクリスもまた。
チラリと視線を横に当てれば、彼女もただまっすぐにヒューゴを見ていた。
無表情とも言える白皙の美貌から、たとえようも無い圧力のようなものを感じるほどの迫力で、ジ、とヒューゴを睨み付けている。
内心で何を考えているのかは知らないが、階段の上と下とで互いの目を睨みつけあう二人はまさに、犬猿の仲。親しい言葉を交し合うことすら毛嫌いしているような……にらみ合いだけで会話をしているような、そんな薄ら寒い雰囲気が、辺りに充満しているのが、良く分かった。
──こんな2人の姿を、よそ様に見せるわけには行かないって、クリス様もヒューゴ様も、本当に分かってらっしゃるのかなぁ?
ルイスは、焦燥感にも似た感情を抱きながら、強張った笑顔で、ことさら明るくヒューゴに向けて話し掛ける。
2人が出会い、そしてにらみ合ってしまった以上、自分に出来ることは、「和やかそうに会話をしている」と見せかけることと、「一刻も早く、この場を立ち去ること」だ。
「え、ええ……今日のランチは何だろうな〜、って、今、クリス様と話していたところなんですよ。」
ヒューゴを見上げながら、口早に──少しだけ先ほどよりも口調を強めていってみるけれど、ヒューゴの視線はルイスに宛てられることはなく、ただクリスを見たまま。
クリスもまた、その表情の見えない双眸にヒューゴを移しこんだまま、ピクリとも口を動かすことはしない。
そして何よりも、2人は──互いの姿を認めた瞬間から、指先一つ、動かしてはいない。
動かしたら最後……互いに抜刀するかのような、一触即発の雰囲気を保ったまま。
──あぁ、どうしよう、と。
胸の前でルイスが指を組み、微動だにしないヒューゴとクリスを交互に見て……今にも泣きそうな気持ちになった瞬間だった。
「…………あぁ、そうだ、そうだったな、ヒューゴ!」
その、ピン、と張り詰めた雰囲気をなんとかしようと、ジョー軍曹がルイスの言葉に乗ってくれたのである。
彼は、バッサバッサと場を和ませるように……この場に満ちた空気をかき乱そうとするかのように、激しく羽根を動かせた後、バンバンッ、とヒューゴの背中を叩き付ける。
「……っ、軍曹?」
これにはさすがにヒューゴも、驚いたように目を瞬き、クリスから視線を外さずにはいられなかった。
隣を振り返るヒューゴの顔に、先ほどまで見せていた冷徹な雰囲気は一つもなく──ジョー軍曹はそれにホッとしながらも、和やかな雰囲気を保ったまま、ニッと笑いかけた。
「今日の日替わりランチは、お前の嫌いな魚料理ばかりだと言っていたぞっ!」
「……ぇ、魚料理って……。」
驚いたように小さくつむがれようとしたヒューゴの言葉を、さらにバシバシと背中を叩くことで塞いで、ジョー軍曹は、ホールでこちらを見上げているクリスとルイスを見下ろして、ニッカリと笑ってみせた。──もっとも、ダックの引きつった笑顔が、きちんと笑顔として見えたかどうかは疑問であるが。
「すっかり忘れてたが、今日のヒューゴの昼食は、そんなわけでルシアが用意してくれることになってたんだ。
ヒューゴに伝えるのをウッカリ忘れてたんだ、はっはっは。」
ことさら、無駄に明るい口調で笑うジョー軍曹の、らしくない言葉に、ググ、とヒューゴは眉間に皺を寄せる。
「俺の昼食を母さんがって……軍曹、俺、そんなの……。」
聞いてない、と続くはずだったヒューゴの首を、バサバサと揺れる羽根でグイっとつかみ取ると、ジョー軍曹は強引にヒューゴの体を反転させて、
「さぁ、戻ろうか、ヒューゴ!
おぉ、銀の乙女殿もルイスも、レストランは混んでるだろうから、早く行ったほうがいいぞ。」
もう片方の手を振って、バッサバッサと豪快に──そして賑やかに、ヒューゴに口を挟ませないようになにやらまくし立てながら、降りてきたばかりの階段を上がっていった。
なにやら抗議をするヒューゴの声が聞こえたような気がするが、ジョー軍曹の羽の音とわめくような声にかき消されて、全く何を言っているのか分からない。
ルイスは、半ば呆然とそれを見上げながら──彼らの姿が階段の上に消えたところで、ホッ、と胸を撫で下ろした。
そんなルイスの頭の上から、
「……魚料理が苦手……?」
低く……唸るようなクリスの声に、ビクゥッ、とルイスは肩を強張らせた。
確かに、先ほどのジョー軍曹の「気遣い」は、あまりにも目に見えて分かりすぎるほどにあからさまだったが──それを言うなら、公衆の面前で、堂々とにらみ合う2人も、あからさますぎると言えば、あからさますぎる。
以前にも、サロメが、「士気にかかわりますから、公衆の面前でにらみ合うのはやめてください」と遠回しに言ったことがあったが、今見た限りでは──治ってない。
「く、クリス様……。」
おずおずと、──見上げたくないなぁ、と思いながら見上げた先で、クリスは、渋い表情を崩そうともせず、ヒューゴが去って行った方角を睨み据えていた。
その瞳が、ス、と細まっただけで、まるでこの場が戦場か何かに変わったような、そんな空気が満ち溢れた。
思わずルイスは、ビビッと背筋を震え上がらせて、両手をギュッと握りこんだ。
「く、クリス様! ジョー軍曹さんも言ってましたしっ! さ、は、早くレストランに行きましょう! 混んできますよ!!」
声を張り上げるように──先ほどのジョー軍曹以上に良く響く声で、そう誘いをかければ、クリスはゆっくりと目を伏せ……それから、小さな笑みを口元に浮かべた。
苦笑にも似たその笑みは、自分の先ほどのあからさまな感情を、恥じているようにも見えた。
「そうだな、確かに、昼食で時間を取られるわけには行かないな。」
それからクリスは、チラリともう一度ヒューゴが消えた方角を見つめて──溜息を一つ零すと、後はもう後ろを振り返ることなく、颯爽と玄関ホールから外へと出て行った。
その後ろで、ルイスが大きな安堵の吐息を零したことになど、まるで気づきもせずに。
「……軍曹、一体、どういうつもりなんだよ?
別に俺、魚料理は苦手じゃない。」
先ほど出たばかりの自室に帰るなり、憮然としてヒューゴはジョー軍曹を振り返った。
後ろ手にドアを閉めたジョー軍曹は、そんなヒューゴに負けず劣らずの憮然とした表情で、彼を見上げる。
「どういうつもりも何もないだろう、ヒューゴ。俺はこの間も言ったはずだぞ。」
言いながら、バサリと片羽を広げて、まったく、と少しだけ尾羽根を膨らませる。
なにやら激昂している様子のジョー軍曹に、ヒューゴはいぶかしげに眉をしかめる。
──ココで怒るのは、ジョー軍曹ではなく、自分のはずだ。
「この間言ったって何のことさ?」
「クリスのことだ。」
部屋の真ん中に敷かれた円座の上に腰を落として、ヒューゴはジョー軍曹を驚いたように見上げる。
「クリスさんのこと?」
何のことだと、寄せられた眉が物語っている気がして、ジョー軍曹はタップリと溜息を漏らした。
やれやれ、とダックの米神辺りに羽根先を突いて、わざとらしく頭を振るところなど、イヤミ以外の何者でもない。
「軍曹?」
促すように、いぶかしげに名を呼べば、ジョー軍曹はハァと肩を落として、
「言ったはずだ、数日前も。
お前とクリスの関係は、そのまま、今の鉄頭と俺たちの関係なのだと。──その象徴なのだと。」
「……またその話?」
さも重要なことのように繰り出されたジョー軍曹の言葉に、ヒューゴは呆れて──いや、もう飽和だと言わんばかりの表情で、うんざり顔を見せる。
それにジョー軍曹が口を開こうとするのを、ヒューゴは片手で押しとどめて、
「その話なら、昨日も母さんから言われたし、今朝だってビッチャムやルースにも言われた。
それに、アップルさんにもシーザーにも、トーマスにも、セシルにもね。」
誰も彼もが、自分とクリスが顔をあわせるたびに、同じようなことを言う。
そう憮然として下唇を尖らせる──今では、ジョー軍曹の前でしか見せないような幼い仕草に、ジョー軍曹は目を小さく寄せた。
「言われているなら、なぜ、同じことをするんだ。」
聞き分けのない子供に言い聞かせているようだと──ヒューゴは、決してそんな子供じゃなかったはずだと、苦いものがこみ上げてくるのを覚えながら、ジョー軍曹は、数日前にも言った言葉を繰り返す。
ヒューゴを小さい頃からルシアに任されてきていたジョー軍曹は、彼が素直で優しい──そして責任感のある子供だということを、良く知っている。
時々、そのカッとなる性格のために──これはルシアから受け継いだ遺伝だろう──、後先を考えずに飛び出していくことがあるけれど、それも、経験と月日が変えていくことは、過去の経験から分かりきっていた。
ヒューゴは賢しい子だから、だから、「炎の英雄」にも選ばれ──そして今、こうして、この場に立っているというのに。
「割り切れない感情を抱えているのは、誰もが同じことだ。
しかし、お前とクリスが──そんなことでは困るんだ。」
厳しい口調で言うつもりはなかった。
けれど、何度同じことを繰り返しただろうかと──そう思う気持ちが、自然とジョー軍曹の口調をきつくさせてしまった。
言いきると同時、憤懣やるかたないと言う表情で、フン、と鼻で息をつくジョー軍曹に、ヒューゴはウンザリしたように溜息を零して、首を落とす。
初めてジョー軍曹がクリスとヒューゴの関係について口を挟んだときには、酷く憔悴して、反省したように真っ青になっていたくせに──何度も何度も繰り返すうちに、図太くなったようだ。
こういうところまで、ルシアにソックリにならなくてもいいのに……とは、ジョー軍曹が大人の階段を上っていくヒューゴを見守る上で、常々思っていることである。
「同じことって言われても──俺は、同じことをしているつもりはない。」
ヒューゴは、座っていた円座から立ち上がって、この問答はゴメンだというように話を打ち切ろうとする。
「クリスさんと一緒にご飯を食べるなって言うなら、俺、今からアンヌの酒場でご飯食べるけど、軍曹はどうする?」
最初の部分を無駄に強調するようにしっかりと発音を乗せて、首を傾げるように見やれば、ジョー軍曹はさっき以上に目つきを険しくさせていた。
「そうじゃない! そういう意味じゃない、ヒューゴっ!」
「……それじゃ、どういう意味だって言うんだよ?」
最近、この話になると、いつもこうだ。
ヒューゴは、白い羽根が真っ赤に染まるのではないかと思うほど、頭から蒸気を噴出し始めたジョー軍曹を見ながら、困ったように首を落とす。
正直な話、ヒューゴは、ジョー軍曹やルシアたちから注意を貰うたびに、その言いつけに従うような態度になるよう、努力をしてきたつもりだった。
──「クリスとヒューゴの関係は、そのままゼクセンとシックスクランの関係になるんだから、顔をあわせたときの対応は慎重に」
親しすぎず、かと言って距離をあけすぎず。
その微妙な距離をなかなかつかめなくて、いつもクリスと一緒に、遠くからお互いの顔をにらみ合ったり、公式の場以外では避けてみたり……それこそ、色々やっては見たのだ。
ヒューゴもクリスも、自分の感情を誤魔化すのが得意な方ではない。
だから、自分たちの感情を表に出さないため──強いては、人々に互いに感じている感情を、感づかれないために、外ではいつも、必要以上の距離を置いた。
そういう感情に聡い人が居る場面では、お互いに逃げるように互いを避けあったことすらある。
そうすればそうしたで、「あの2人は互いの顔を見るのすらいやなくらいに憎みあってる」という噂が流れていると、ジョー軍曹とルシアに雷を落とされ、トーマスからは部屋に招かれて切々と話をされた。
そこで今度は、わざとらしいほどわざとらしい態度で挨拶だけは交わし、そそくさとその場を離れるようにしてみたら、今度はビッチャムとルースから、「わざとらしすぎる。噂を鎮めるために、無理矢理、自分の感情を抑え込んでるように見えるぞ」と注意を受けたし。
「さっきのアレはなんだと聞いてるんだ、ヒューゴ。」
「……俺は、普通に会話ができてたと思うけど?」
顔を見て逃げるのもダメ、会って挨拶だけ交わしてその場を去るのもダメ。
会話をしても、お互いの顔を見ずにそっぽを向いていてもダメ。
相手が気づいてないからって、そのまま声もかけずに見守ってるのもダメ。
──今までに起きるたびに、そうやって言われてたから、今回はその言われた全部をやってみたつもりだ。
上々じゃないか。
クリスの姿を見たから、呼び止めたし。
食事に行くのかと会話もした。ちゃんと相手の顔も見ていた。
そりゃ、ちょっと緊張して、顔は強張ってしまったかもしれないけど、それはそれ、大した進歩だと思う。
なのに、ジョー軍曹は、ヒューゴの答えに益々目つきを険しくさせると、
「どこが普通だったというんだ、アレの!?
話しかけてるルイスの顔も見ないで、ずっとクリスの顔を睨みつけてたじゃないか!」
「睨みつけてなんかない。」
きっぱりと答えるヒューゴの言葉に、ジョー軍曹は渋い顔をしてみせる。
なら、さっきのアレは何なのだと──そうさらに叫ぶのもいいだろう。
しかし、ヒューゴのまっすぐな瞳は、ウソの色など欠片も見当たらなくて……ジョー軍曹は、先ほどのあの場面で、ルイスの問いかけに答えながらも、延々とクリスを睨みつけていたのが、無意識の物だったのだと悟る。
──つまり、何だ?
ヒューゴは、先ほど、クリスの顔を見て、笑顔で軽やかに……とまでは行かないまでも、ごく普通に会話をしたつもりだったと、そういうことか?
2人揃って、喉で息が詰まるような緊迫感をかもし出して、ジッと互いを睨みつけておいて?
「……ヒューゴ……。」
バッサリ、と、ジョー軍曹は心を表すような動作で、両羽根を落とした。
肩だけじゃなく、羽根までも落としてしまったジョー軍曹に、ヒューゴは眉を寄せたまま、彼を見返す。
「何、軍曹?」
「……わかった。……お前が、努力しているのは認める。
だがな、ヒューゴ。」
憮然とした面持ちが残ったヒューゴの、少しだけ硬い声に溜息を漏らしたくなりながら、ジョー軍曹はゆっくりと顔をあげて、彼の瞳を正面から見返す。
「お前の努力が空回りしていることは、理解しておけ。
お前とクリスは、どこからどう見ても、にらみ合ってるようにしか見えん。」
ゆっくりと頭を左右に振りながらそう告げれば、ヒューゴは驚いたように軽く目を見張った。
「………………………………にらみ、あって?
──……俺、クリスさんを、睨んでた?」
その瞳に宿る、心からの驚愕に──ジョー軍曹は、溜息にも似た思いを噛み砕いて、こっくり、と頷く。
「あぁ、睨んでいたな。──あんなところを、兵士が見たら最後、おまえとクリスが憎みあっていると言われても仕方が無いくらいだ。」
「──────…………。」
どこからどう見ても、一触即発。
そんな雰囲気に満ちていた、と──そう断言するジョー軍曹に、ヒューゴは戸惑うように目をまたたき……それから、少しだけ視線を落としてみせた。
「──……軍曹、……俺、クリスさんを睨んでたわけじゃないんだ。」
「……分かってる、分かってるが、おまえがそのつもりじゃなくても、周りにそう見えるのが重要なんだ。」
「……………………うん。」
それは分かるから、素直にヒューゴは頷いて──それから、睨んでたように見えたかなぁ、と、指先で目元を伸ばした。
そんなヒューゴの様子に、ジョー軍曹は立てていた目くじらをすっかり消しさり、やれやれ、と肩をすくめた。
「分かってるなら、いいんだ。──あまりに気にするな。」
トン、と羽根で軽くヒューゴの背中を叩いた瞬間……、ぐぅぅぅ〜、と、ジョー軍曹の腹が音を立てた。
とたん、ジョー軍曹はぷっくりと出たふくよかな腹に羽根を当てて、びっくりしたように目を丸くさせる。
そんなジョー軍曹に、ヒューゴは、短く──小さく吹き出した。
「……プッ。──あははっ! 軍曹ったら!」
「ハハハ……、腹が減ったな、ヒューゴ。アンヌのところに行くか。」
同じように笑いながら、ジョー軍曹は腹をさすってヒューゴを再び誘った。
クリスがレストランに行ったのは間違いないから──「ルシアの飯」がウソなのは、おそらく見抜かれているだろうが、だからと言って、堂々とレストランに行くのはマズイ。
だから、やはりアンヌのところに行って、軽く飯を貰おうかと、そう誘いかけるジョー軍曹に、ヒューゴは首を傾げるような仕草をした後──ううん、と緩くかぶりを振った。
「いいよ、俺はアンヌのところでサンドイッチか何か作ってもらうから、軍曹はレストランに行ってきてよ。」
「…………ヒューゴ?」
「俺は『魚料理は苦手』だけど、軍曹は大好きじゃないか。」
ニッコリ笑って、ヒューゴは、うん、と一つ頷いて見せた。
「俺、アンヌのサンドイッチ持って、フーバーと一緒にヤザ高原まで行ってくるよ。」
「ヒューゴ?」
「どうせだから、外の空気吸ってくる。」
パチパチと目を瞬くジョー軍曹に、ヒューゴは微笑を残して、ヒラヒラと手を振りながら部屋を出た。
そのまま、ジョー軍曹を置いて廊下に出て──すぐ廊下の突き当たりの外から聞えてくる、小さなざわめきの声を耳に留めながら……小さく、溜息を、一つ。
「…………睨んでたわけじゃ、ないんだ。」
俺は、それを、知っている。
──でも。
「……クリスさんも、俺が睨んでたと──そう、思ったかな?」
それだけが、少しだけ気がかりだった。
酒場でアンヌに作ってもらったサンドイッチを持って、城の前庭に出れば、豪奢な犬小屋の中で寝そべっていたコロクが、尻尾を振って走り寄ってきた。
「くぅーん、くぅーん。」
情けない顔をしながら、ヒューゴの足元にまとわりついてくるコロクの頭を軽く撫でてやれば、コロクは嬉しそうに鼻を鳴らせる。
「あはははっ、ダメだよ、コロク。これは俺の昼食。」
コロクの鼻先が、ヒューゴの持つサンドイッチに向かったのを見て、慌ててヒューゴはそれを上に持ち上げて、軽やかに笑う。
「くぅーん。」
目の前からいい匂いのするものを取り上げられて、コロクがひどく悲しそうな目でこちらを見上げてくるが、ヒューゴはそんな彼の眉間の間を指先で撫でてから、えさ皿を示してやった。
「コロクの昼食は、あっち。それに、朝だってセシルから御飯貰ったんだろ? 食べすぎだよ、コロク。」
腰に手を当てて、わざとらしい説教をするためにコロクに顔を近づけてると、それを待っていたかのようにコロクは喉を伸ばして、ペロリとヒューゴの鼻先を舐めた。
柔らかで温かい湿った感触に、ヒューゴは驚いたように顔を後ろに下げて──悲しそうな目でこちらを見上げるコロクに、小さく笑い声をあげた。
「それじゃーね、コロク。俺、今から外でお弁当なんだ。」
「くぅーん。」
引き止めるようにヒューゴの足先にまとわりつこうとしてくるコロクを、手のひらで押し留めて、
「コロクと散歩は、また今度な。」
ポンポン、とコロクの頭を軽く叩いてから、まだ伸びてこようとする彼の前足を避けて、ヒューゴはそのまま庭の方へと向かった。
「くぅぅーん…………。」
そのヒューゴの背中に向けて、今まで以上に悲しそうな声と目で──尻尾が尻につくほど垂らして、それはそれは物悲しそうに鳴いてみたが、ヒューゴは肩越しに振り返ってくれただけだった。
コロクは、シュン、と首を落とすと、すごすごと無駄に豪奢な犬小屋の中に戻る。
そしてそのまま、クルンと犬小屋の中で丸くなると、首を突き出してヒューゴの背中が城の前庭に歩いて行くのを見送った。
きっと彼は今から、フーバーと一緒に空の散歩に出かけるのだろう。
ヒューゴとの散歩は大好きだが、空の散歩は苦手だ。
ヒューゴを追っていた視線を空に向けると、どこまでも続く青いキレイな空が広がっていた。
城下にある噴水の傍でも、牧場の草原でも──何なら花が咲き乱れる城門の外でも、気持ちよくお昼御飯を食べることが出来るだろう。
──けど、フーバーの羽の上では、ゆっくりと気持ちよく昼食を食べることはできない。
コロクは、憎々しいくらいキレイな青空を見上げて、もの悲しげに耳も伏せた。
「くぅーん……。」
今度は一緒に連れてってくれるっていうから、それを楽しみにしよう、と──コロクが思ったかどうかはさておき。
コロクの小屋の前を通り過ぎたヒューゴは、城の正面玄関の前まで回りこんで、フーバーの姿を探していた。
いつもいる場所には見当たらなくて、雲ひとつ浮かんでいない空に向けて叫ぶ。
「フーバー!」
──とたん、
「きゅぃーんっ!!」
すぐ頭の上から声が降ってきて、ばさりと羽根が広がる音が聞こえた。
声のした方角──城の屋根の上へ視線を向けてみれば、フーバーの大きな影が、ヒューゴの上に落ちるところだった。
フーバーは、大きく旋回しながら、ゆっくりと低空飛行に切り替える。
ヒューゴはそれを見上げて破顔してみせると、地面に降り立とうとするフーバーに駆け寄った。
そのまま、フーバーの首を抱き寄せるようにして、フカフカの毛並みに顔を埋めた。
「フーバー! ヤザ高原までピクニックに行こう!」
ギュゥッ、と力の限り抱きしめれば、フーバーが苦しげに身じろぐ。
ヒューゴはそれに軽い笑い声をあげると、フーバーを放して、そのまま身軽に彼の背に飛び乗った。
「フーバー、頼むぞ。」
ポンポン、と首筋を叩けば、フーバーはそれに答えるように鳴いて、バサリと翼を広げる。
翼が放つ風圧で、ヒューゴの耳元で風が鳴った。
不ぞろいに生えた雑草が、フーバーの周囲で激しく揺れ始め──そして、ブワリ、と、フーバーの足先が浮いたところで、ヒューゴはチラリと眼下に視線を落とした。
視界に写るのは、いつもと変わりないビュッデヒュッケ城の前庭──、当然だが、今、レストランで食事をしているはずのクリスの姿があるわけはなく……、
「──……しょうがない、か。」
苦い色を刻んだ笑みを零して、ヒューゴはさらに高く舞い上がるフーバーに合わせて、体を傾けた。
ざざぁーん──……、ざざ…、ん……。
遠く窓越しに聞える、船に打ちつける波の音に耳を傾けながら、クリスは机の上の最後の書類にサインを記す。
ペンが乾くのを待って、朱印を落とし──ふぅ、とそれに息を吹きかけた。
それから生真面目に書類の端をつまみあげ、上から下までじっくりと眺めた後、うん、と納得するように一つ頷く。
そのまま、クリスは書類を「決算済み書類」の上に重ねると、そのタイミングを待っていたかのように、執務机の端に、コトン、と紅茶のカップが置かれた。
「クリス様、お茶が入りました。」
柔らかなトーンで、ルイスがクリスの集中を妨げないように、そ、と囁いてくる。
その言葉に、ふ、と顔を上げれば、鼻腔をくすぐる優しい紅茶の香が漂ってきた。
思わず瞳を細めて見下ろせば、白い湯気をほのかに立ち上らせた紅色の液体が、ツヤツヤと窓から差し込む夕日に映えて映る。
「ありがとう、ルイス。ちょうどいいタイミングだ。」
書類を放した手で、そのまま紅茶のカップとソーサーを引き寄せれば、お盆を両手で抱きしめたルイスが、嬉しそうに頬を染めて笑う。
「いいえ、これが僕の仕事ですから。」
照れた表情で小さく首をすくめて見せたルイスに、クリスは淡く微笑みを零すと、白いカップに口をつけながら──そのかぐわしい香を口内に含み、一口分、コクンと飲み下した。
少しだけ癖がある……けれど心地よく口内に広がる紅茶の味に、クリスは満足げに笑みを零す。
「ふぅ──……ようやく人心地ついた気がするよ。」
両手でカップを包み込むようにしながら、ホゥ、と紅色の液体に向けて息を吹きかければ、ルイスが小さな笑い声をあげた。
「今日はこれでおしまいですから、クリス様。」
失礼、と言いながら、ルイスはクリスが最後の書類を置いた紙の山に手をかけ、その枚数を確認する。
クリスはそれを横目に、ゆっくりと紅茶をすすり──カタン、と椅子から立ち上がって、窓辺に近づいた。
外はすでに夕暮れの茜色に染まっていて、東の空は夜の色が落ちはじめていた。
それを見つめながら、クリスは最後の一滴まで飲み込み、かたん、とカップをソーサーの上に置いた。
「あぁ……ルイス、すまないが、それを片付けておいてくれるか?」
そのまま、部屋の出口に向けて歩き出しながら──途中、椅子に引っ掛けておいた上着を取り上げて、クリスはそれを肩から羽織った。
「お出かけですか、クリス様?」
言われたように、決算済みの書類をブラス城に持っていけるように、封筒の中に入れたルイスの問いかけに、クリスは部屋の入り口で肩越しに振り返り──小さく頷く。
「あぁ、夕食前に、少し運動してくる。──書類仕事をしていると、どうにも肩が凝る。」
言いながら、肩を少し回すような動作をしてみせれば、ルイスはそうでしょうと笑った。
「朝からずっと仕事詰めでしたからね。」
「まったくだ。部屋から出れたのは、昼食の時だけだしな。」
あれじゃ、筋肉の凝りを軽くほぐすのに役に立つくらいだと、ヒョイと肩をすくめて見せれば、ルイスはそれに釣られたように笑う。
「そうですね……気分転換代わりになるくらいですしね。」
誰かに会って会話をして気を紛らわせようにも、昼食時は喧騒がひどくて──と、言いかけたルイスは、そこで、今日の昼に起きた出来事を思い出した。
なかなか書類から離れようともせず、書類にかじりついたままだったクリスを、いい時間帯に御飯を食べないと健康に良くないからと──無理やり立たせたのが、そもそもの始まりというか。
──その結果、あんなところでクリスとヒューゴを会わせてしまったのだから……、気分転換には、ならなかったに違いない。
実際、クリスはレストランに向かう最中もどこか気もそぞろで。
昼食も、あまり進んでいないようだったし。
なんとなく視線を床に落として、苦い色を──後悔の色を口元に浮かべたルイスに向かって、クリスはヒラリと小さく手を振ると、
「いい気分転換になったよ。」
そういい残して、部屋の外に出た。
部屋の外は、すでにもう薄暗く……蝋燭の明かりが一つ二つ灯ったままで、かすかに潮の匂いが鼻についた。
クリスはその匂いに惹かれるように、目の前の階段を上る。
甲板の上に出ると、痛いくらい目にしみる茜色の太陽が、半分ほど山間から姿を見せていた。
もう少しすれば沈むだろう日の光を照らして、湖が沈んだ色を宿している。
なびく風に後れ毛を揺らしながら、クリスは船縁に近づくと、手すりに手のひらを押し付けて、背中と喉をそらして、風を頬に受けた。
少しだけ目を細めて見つめる空は綺麗な夕焼けの色で──昼前に見た澄んだ青色と同じ空だとは、思えないほどだ。
「綺麗な夕焼けね……、昼間とはまるで色が違う。」
山の頂上付近が赤く染め上がり、裾野には闇色が広がる。
その絶妙なコントラストを、感嘆の吐息と共に見つめながら、クリスは昼間のことを思い出した。
ビュッデヒュッケ城の一階の玄関ホール。
聞き覚えのある声に、は、と顔をあげた先──吹き抜けの二階へと続く緩やかな階段の踊り場で、こちらを見下ろしていた、碧い瞳。
「……久し振り、だったな。」
ポツリ、と呟いて、クリスは頬杖を付いて、ぼんやりと夕闇色に染まっていく空を見つめる。
クリスもヒューゴも真の紋章を持っている身だから、遠征を一緒にすることは滅多にない。
ゼクセンの騎士とグラスランドの民は、訓練も別々にすることが多かったし、もともと敵同士ということもあって、行動を共にすることも少ない。
──だから。
この城で、昼食の時間にバッタリ出くわすのなんて──本当に、久し振りだったのだ。
「一緒に、食事くらいは出来るかと思ったのだが──。」
のんびりと頬を片手に押し当てながら、クリスはソと長い睫を伏せる。
脳裏に思い描くのは、ほんの一瞬とも言える、昼間の邂逅のこと。
その前に会ったのは、一体いつのことだっただろうかと──ずいぶん会って居ないような記憶を掘り返してみて、クリスは苦笑を覚えたように口元に笑みを刻んだ。
ずいぶん会って居ないわけはない。
だって、その前に会ったのは、つい今朝のことだ。
お互いに、挨拶をして、そのままそそくさとその場を去って──そうしたら、サロメに渋い顔で、「あの態度は良くありません」と注意をされたばかりだ。
──だから。
昼食に会ったら、一緒に食事を食べるように誘ってみようと、そう思った。
ルイスから、時間をずらすように提言されたけれど──、一番込み合う時間に行けば、示し合わせずともヒューゴと会うこともできるし、そのどさくさにまぎれるように同じテーブルについても、なんら不思議はないと、そう思ったのに。
「……しかし、ヒューゴが魚がダメだったとはな。」
計算外だ、と、小さく呟いた言葉は、唇の端を震わせるように空気の中に溶けて行く。
そして、ふ、と──クリスは、切なげに瞳を細めた。
そういえば、私は、ヒューゴのことを知りたいと、そう思っているのに……、何も知らないのかもしれない。
「──────…………親しくしすぎず、避けあいすぎず、──そんな微妙な付きあいすら、私もヒューゴも、ぜんぜん上手くできていない。」
毎日、ヒューゴと顔を合わせるたびに繰り返すことに──自分では上手く出来たと思っているのに、その場に居た他のモノから、いつも後で注意されるのだ。
ヒューゴを避けすぎだとか、わざとらしすぎるだとか、もっと親しげに、だとか。
「まったく、難しい……。」
むむ、と眉を寄せて、クリスは悩ましげな──けれど、どこか幸せそうな色を含んだ溜息を零して、軽く背中を反らせた。
真上の空を見上げるようにして、大きく顎をそらしながら、東の空にひときわ大きく輝く星を見つけた。
ゆっくりと顔を戻しながら、その星を見つめて──あの星の名前を、カラヤでは何と呼んでいると、言っていたのだろう?
……ふと、そう思った刹那。
────…………っ……
耳に聞え慣れない、風を切る音を聞いた気がした。
ハ、と目を向ければ、東の空に浮かぶ点が一つ。
緩やかに蛇行しながら、船の甲板の方へと近づいて来ているのが見えた。
夜空の闇よりも少しだけ濃いそれが、空を飛ぶ獣の影なのだと気づくのに時間は必要なかった。
このビュッデヒュッケ城には、人を背に乗せて飛ぶ獣が、3種類も居るからだ。
まだ遠く見えるそれが、誰の騎獣なのかと、目を軽く眇めながら見つめる。
小さな点のような影が見る見るうちに大きくなり──ばさり、と羽ばたく羽根の音が間近で聞こえたような気がした。
掌を額に上に当てて見上げれば──グリフォンの羽根が風を受けているのが見て取れた。……その上に乗る人影も。
「──……ヒューゴ。」
思わず──その小さな姿を認めた途端、意識しないまま、ホロリと彼の名前が零れた。
その声は、甲板の上に吹く風に消されてしまうような、そんな小さな囁き声だったのに……まるでその声が届いたかのように、フーバーが大きく旋回する。
いつものように城の中庭に降りるはずだったグリフォンのくちばしの先が、間違いなくこちらを向いたのに気づいて、クリスは大きく目を見張った。
「まさか、ココに来るつもりか──?」
小さく呟いた疑問の声が消えるよりも早く、フーバーの姿が拳大ほどの大きさになる。
この近さで方向転換をしないということは、そういうことなのだろう。
クリスは、すばやく当たりを見回して──甲板の上に誰も居ないのを確認する。
そして再び視線を戻したときには、船の舳先にフーバーが、舞い降りようとしていたところだった。
ばさ──……と、広がる羽根の上で、顔を見せたヒューゴが、クリスに向けて手を閃かせる。
「クリスさん!」
高らかに呼びかける声に、クリスは思わず口元を緩めて笑みを零す。
フーバーが降り立つだろう地点に向けて駆け寄れば、ゆっくりと、フーバーが甲板の上に足をつけた。
その数歩手前で足を止めて──顔をあげれば、フーバーがクリスに向けて頭を折るような仕草をしたところだった。
「ヒューゴ……、おかえり。」
柔らかな微笑を浮かべてそう声をかければ、なぜか不満そうにフーバーが短く鳴く。
小さく目を見張ったクリスの白い頬に、フーバーはくちばしの先を軽く押し当てるようにして、催促するように小さく鳴いた。
「……ふふ、フーバーも、おかえりなさい。」
くすぐるように当たるくちばしがくすぐったくて、首をすくめるように笑んだクリスの言葉に、フーバーは、きゅぅん、と満足そうな声を零した。
「フーバー。」
そんなフーバーに、あきれ半分に呼びかけて、ヒューゴはフーバーの頭を抱き寄せる。
「ほら、クリスさんが困ってるだろ。」
言いながら、頭の後ろを掻いてやると、フーバーはますます上機嫌そうに鳴いて、今度はヒューゴの顔に己の顔を摺り寄せる。
「ずいぶんと上機嫌そうだな、フーバーは。」
楽しそうにヒューゴに擦り寄るフーバーに、クリスは小さな笑みを零しながら、ヒューゴが撫でている場所とは違う部分を指先で掻く。
「うん、久しぶりに追いかけっこして──いろいろ遊んできたから。」
フーバーの首筋に抱きつくようにして、鼻で息を吸い込めば──かすかに草の香りと花の香りが羽根の中から流れてきた。
それに含まれる、たっぷりの──太陽の香も。
「……なんだ、見回りに行っていたのではないのか?」
驚いて軽く目を見張るクリスの言葉に、ヒューゴはペロリと舌を出す。
「誰かに聞かれたら、そういうことにしておいてくれる?」
「そうだな……、もしも、誰かが、ヒューゴのことで私に、聞いてきたら、だけどね。」
クリスはわざわざ一言一言を区切って、それぞれを強調するように告げた後、悪戯気に笑って見せる。
──誰かが、ゼクセンの騎士である自分に、ヒューゴのことを聞くはずがない。
クリスが暗に言うことは、まったくもって、正しいことだ。
「それで、どこに行っていたの、ヒューゴ? いつもは庭に直接下りるのに、今日はこっちに来て……どうしたんだ?」
何かあったのか、と、穏やかに問いかけるクリスのまなざしに、かすかな不安が宿っているのを見て取り、ヒューゴはフルリと軽く頭を振って、柔らかな笑みを口元に上らせる。
「ちょっとヤザ高原までピクニックに行ってたんだ。
──で、こっちに来たのは、クリスさんが一人なのが見えたから。」
「ヤザ高原? ピクニック? ──一人でか?」
パチパチと目を瞬いてから、クリスは最後の一言で、なぜかムッとしたように鼻の頭に皺を寄せた。
今日、ヒューゴと最後に会ったのは、昼間のあの一件だ。
ピクニックに行ったということは、あの後出かけたということだろうけど──、
「ピクニックに行くつもりなら、あの時、ちょっと声をかけてくれてもいいだろう?」
眉をひそめてそう零せば、今度はヒューゴが大きく目を瞬く。
「あの時……って、昼間?」
「そうだ。ヒューゴだけ、外でピクニックなんてずるい。」
憮然とした面持ちを隠そうともせずに、クリスがこっくりと頷きながら零す言葉に、ヒューゴはますます目を丸くさせて──それから、プッ、と短く噴出す。
「ヒューゴっ?」
「いや、ごめん、クリスさん。──だって、ほら……、いい大人なのに、クリスさん、すねてるから──……っ。」
クスクスクス……と、そのまま笑われて、カッ、とクリスは目元を赤く染める。
「す、すねてるわけじゃ……っ!」
「──……ははっ……うん、分かってる。」
ムッとしたように眉をひそめるクリスに、ヒューゴは大きく深呼吸して、息を整えると、クリスの顔をヒョイと覗いた。
そして、間近に見える──昼間、距離を隔てて覗いた時よりもずっと目の前に見える、穏やかな紫色の瞳を覗き込んで……そこに映り込む自分が、柔らかに笑っているのを認めて、ホ、としたように笑った。
「俺も本当は、今日こそは一緒に御飯が食べれるかな〜……、って思ったんだ。」
でも、軍曹に止められちゃった──その言葉の先は口の中に閉じ込めて、呟けば、クリスもヒューゴに同意するようにこっくりと頷く。
「それは私の台詞だ。」
クリスも柔らかな笑みを口元に貼り付けて、そ、と首を傾げるようにして、近づいたヒューゴの額に、こつん、と自分の額をぶつけた。
とたん、目を大きく見開いて、髪の毛を逆立てるようにして驚くヒューゴが面白くて──クスクスと、クリスは額を合わせたまま笑った。
額を通して響いてくるクリスの笑い声に、ヒューゴはクシャリと顔をゆがめる。
そのヒューゴの目が、当惑と困惑一色に染まっているのを間近に認めて、ますますクリスは楽しげに目元を緩めた。
「ふふ、ヒューゴ? ──何を動転しているの?」
「──……っ! そ、んなの……っ。」
透き通るような白皙の肌に、同じく透き通るような笑みを浮かべて微笑むクリスに、ヒューゴはたじろぐように顔を少し引いて、キュ、と唇をゆがめる。
「クリスさん、意地悪だ。」
「そりゃ、意地悪にもなるさ。」
唇から零れる吐息が絡み合うほどの間近でニヤリと笑うクリスの、凶悪なくらいの綺麗な微笑みに、ヒューゴは憮然とした表情でプイと横を向く。
──けれどその頬がほのかに赤く染まっているのを見逃さず、クリスは彼の頬に指先を当てる。
「ピクニックに行くつもりだったら、最初からそう言ってくれたら良かったんだ。
──そうしたら、一緒にお昼になったのに。」
責めるような、すねるような響きの宿るその声に、ヒューゴはハッと目をあげて──そして、自分を見つめる紫水晶の瞳の中に、切ない色が宿っているのを認めた。
──同じ屋根の下で暮らしているのだから、顔を合わせることは時々ある。
でも、そういう時は、大抵人目があるときだから──「ゼクセンの乙女とグラスランドの炎の英雄は、親しすぎず遠すぎず──絶妙な距離」を保つために、そ知らぬ顔で互いの存在を認めるだけ。
顔をあわせて、瞳を会わせれば、互いの目に互いの姿が映っているのが嬉しくて、つい緩む頬を押さえるのに必死になって。
ヒューゴは表情を隠すのが苦手だから、クリスを見たとたんに想いがばれないように、顔を引き締めるのに必死になって。
クリスはクリスで、演技が苦手だから、ヒューゴと居る時は必要以上に話さないようになって。
そうやって。
人目があるところでは、必要以上に近づかないようにしてきたのだけれど。
「たまには──、一緒に昼食を取るくらい、いいと思うのだが……。
……ヒューゴは、それも、イヤか?」
そろり、と。
問いかけるように──伺うような眼差しで、クリスは上目遣いにヒューゴを見上げる。
「そんな! イヤなんて! 俺だって、クリスさんと一緒に──、人の目がないところで、ゆっくり御飯食べたいって思うよ。」
慌ててヒューゴは、大きく顔を振った。
「なら、どうしてピクニックに誘ってくれなかったの?」
ム、としたように柳眉を顰めて顔を覗きこまれて──ヒューゴは、また近づいたクリスの顔に、半歩後ず去る。
「なんでって──それは。」
「それは?」
ジロリ、と綺麗な瞳で見上げられて、ヒューゴはその先をなんと続けようと視線を空に転じた。
それから、ゆっくりと視線を戻しても、クリスはジットリとヒューゴを睨み上げていたままだった。
その視線は、確かにヒューゴを睨み付けてはいるけれど──宿っているのは憎しみや怒りではなく、拗ねたような色。
それを認めて、ヒューゴは小さく吐息を零した。
「…………俺、またやっちゃったみたいなんだ。」
「……何を?」
片目を軽く見開くように問いかけるクリスに、うん、とヒューゴは頷くと、
「昼間──俺、クリスさんのことを睨んでたみたい。」
それで、ジョー軍曹が、ヒューゴとクリスが一触即発に見えるから、引き離したのだ、と。
「それで、軍曹が俺とクリスさんを一緒にさせちゃいけないからって……。」
肩を落として──クリスさんもそう見えてた? と、不安そうに瞳を揺らして問いかけてくるヒューゴに、クリスは、パチパチと目を瞬いた。
そして、少し考えるように小首を傾げて──マジマジとヒューゴの顔を見下ろしながら、
「…………────それは、つまり、何だ?」
彼女は、気難しげに眉を寄せて、
「ヒューゴが魚を嫌いだと言うのは────……、ウソ?」
「……うん、そう。」
こっくり、と。
そうヒューゴが頷いたとたん、クリスは、なんだ、と──満面の微笑を浮かべた。
なんだ、そうか。
ヒューゴは、魚が嫌いなわけじゃないのか。
「──そうか、そういうこと、か……。」
「? クリスさん?」
嬉しそうに、はにかむように微笑むクリスに、戸惑うように声をかければ、彼女はますます嬉しそうに顔を緩ませて、うん、と一つ頷く。
「分かった。──ヒューゴは、魚が嫌いなわけじゃないんだな?」
「うん、俺、好き嫌いはないから。」
「よし、覚えておく。」
そこはかとなく嬉しさを残した表情のまま、生真面目にこっくりと頷くクリスに、なんだかくすぐったさを覚えて、首をすくめるようにして笑う。
そんなヒューゴを優しげな眼差しで見つめていたクリスだったが、ふと気づいたように、顔を曇らせる。
「それじゃ、私とルイスに気を使って、レストランに来なかったのね。
──悪いことをしたわね。」
今までにも何度かあったことだから、鈍いクリスでも事の次第は理解できた。
つまり、今までと同じように──クリスもヒューゴも、「お互いの立場」を認識してない、下手な演技と態度で、周りを誤解させてしまいそうな雰囲気を漂わせていた、と、言うことだ。
そんな状況で公共の場に出てはいけないと、慌ててジョー軍曹が、2人を引き放すためのウソをついたということだろう。
「ううん、それはいいんだけど──それよりもクリスさん、クリスさんも……俺が睨んでたように見えた?」
瞳を伏せてすまなそうに言うクリスに、ヒューゴはフルリとかぶりを振ってから、心配そうに彼女を見上げた。
もし、自分が睨んでいたように見えたなら──それこそ、クリスに申し訳ない。
そんな表情の彼に、クリスはキョトンと目を見張る。
「睨む? ヒューゴが?」
「……そう、見えなかった?」
「いや、私はそう感じなかったが?」
フルフルと頭を振るクリスは、本当にそう思って居ないようだった。
何よりもウソをつくのが苦手な彼女が、ウソでこんな顔を出来るとは思えない。
ヒューゴは、ホ、と胸をなでおろして、安堵の吐息を一つ零す。
「──そう、……うん、それなら良かった。」
「…………しかし……、睨んでいたように見えたのなら……問題だな。」
クリスは、困ったように顎に手をあてて、さて、どうしようかと首を傾げる。
問題を提議したクリスの言葉に、ヒューゴも困ったような表情で同意を示す。
「そうなんだよ。クリスさんを見て、顔が緩まないようにするだけで睨んでるのと勘違いされるなんて……。」
「それなら、私もヒューゴを睨んでいたように見えたのだろうか?」
ルイスは何も言わなかったけど、と続けかけて、クリスはあの時のルイスの様子がおかしかったのを思い出し──もしかしたら、言わなかっただけで、そうでもなかったのかもしれないと思う。
「俺はそう思わなかったけど。──クリスさんの目、まっすぐに俺を見てて、……その、嬉しかったし。」
ちょっと気恥ずかしそうにうつむくヒューゴの首筋が、ほんのりと赤い色に染まる。
夜の色に染まり始めた辺りは、すでに明かりも心もとないほど暗くなっていたが、その赤い色だけは目に鮮明に飛び込んできて──それを見たクリスも、気恥ずかしい気持ちで目を伏せずにはいられなかった。
「そ、れは……私も同じよ。
──……でも、目が合うだけでそうなってしまうのなら……、やはり、公共の場では、目を合わせないようにするしかないのだろうな。」
はぁ、と──悩める吐息を零すクリスを見上げて、ヒューゴも同じように溜息を零す。
悩みは、本当に尽きなくて。
「俺の好きな人はあなただって──そう、堂々と言えたらいいのに。」
思わずと言ったように、小さく零れた言葉は、船の上を駆け巡る風に攫われて、掻き消えていく。
視線で風を追っても、その言葉が見えるわけじゃないけれど。
それでも、2人は同時に、自分たちの間を駆け抜けた風の行方を追いながら──暗闇に閉ざされた西の空を見上げて。
「………………まだまだ先の話かなぁ………………。」
2人は、またこれから始まるだろう、「公共の場」でのお互いの距離を思い、とっぷりと溜息を零しあうのであった。
かな様に捧げさせて頂きます。
ヒュークリ話ということで、今回は「ゲーム中にくっついちゃった2人」なお話です。
2人はすでに恋人同士で、その気も満々(でも手をつないで照れあったりする程度)なのですが、周りは2人がまだ「チシャクランイベント」の時のような犬猿の仲に近い仲だと思っていて、二人を接触させないようにしている──っていう感じです。
そして鈍感な2人は、周りのそんな思惑に気づかず、「昼食くらいは一緒に食べたいので、さりげなく食べれるように!」を狙ってたりするんです。
そして無駄に、「近すぎない」関係を回りに見せようとして、「にらみ合ってるようにしか見えないから!」みたいな不器用さを発揮し、2人っきりになるとそれを相談しあったり……(笑)。
そんな感じを狙って見たつもりですが──上手く表現できませんでした。
ガックリ……。
せっかくヒュクリで二本、とリクを頂いたのに、どっちもなんだか微妙にイチャイチャしてなくてすみません〜(><)
ずいぶんお待たせいたしましたが、この2人の裏とかをご想像して、ニンマリとしてやってくださいませ〜。