沈黙ばかりが支配する執務室の中に、コンコン、と控えめなノックの音が響いたのは、もう日も傾きかけた夕方近くのことだった。
書類に目を落としながら、ノックの音に応えを返せば、少しの間が空いた後、音も立てずにドアが開く。
「クリス様、お茶を淹れてきました。」
朗らかな声とともに、ニッコリと笑顔を張り付かせて入ってきたルイスは、部屋の中に満ちた、ムッとした空気に、軽く眉を寄せる。
入れてきたばかりの紅茶のポットの口から立つはずの湯気すら見えないくらい──蒸し暑い。
「……クリス様、換気はこまめにしてくださいね、って前にも言ったじゃないですか。」
呆れたように呟きながら、ルイスは慣れた調子で応接用のテーブルの上に持って来たお盆を置くと、そのまま窓辺に近づく。
うららかな日差し──というのは、少しばかり鋭い太陽の視線は、日中に比べたらずいぶん和らいだとは言え、それでもまだ柔らかだと表現できないほどだ。
そんな暑い中、部屋の窓を閉め切っていては、捗るはずの仕事も捗らないではないかと、小言のように言いながら、ルイスは窓を開く。
「クリス様、窓、開けますからね?」
再度確認する仕草を取るのは、以前、前置きもなく開け放った際に、飛び込んできた突風に書類が舞い上がったという経験があるからだ。
──もっとも、あの時は、こことは違う場所で……湖から吹き付ける風が強い地のことであったから、今、窓を開いたからと言って、強い風が必ず吹いてくるとは限らない。
数ヶ月前までしばらく彼らが滞在していた城──湖の上の切り立った崖の上にあったビュッデヒュッケ城は、あらゆる意味で風通しの良い城であったから。
今は、あの戦いの功績もあってか、ずいぶんと修繕されたらしいが──それでも、船はいまだにくっついたままだと、先日トーマスが来た時に、笑って言っていた。……きっと、自分が城主である限り、あの船はずっとくっついたままなのだろう、と。
ふと思い出した懐かしい顔に、そういえば、皆元気にしてるかな、と、ルイスはあの城で出会った友人達の顔を思い出す。
「聖ロア騎士団」の三人には、ビネ・デル・ゼクセに行けばいつでも顔をあわせることができるだろうけど、ロディに至っては、今ごろはどこの旅の空の下やら、さっぱりだ。
自分もずいぶんと背が伸びたから、きっと彼もスラリと背が伸びているに違いない──そしてこれだけは確実なことだが、今日もまた、エステラさんに、騙されていることだろう。
窓の鍵に手をかけたまま、そんなことを思い出しつつ、部屋の主の答えを待ってみるものの──一向にクリスから返事は帰ってこなかった。
仕事に熱中しすぎて、ルイスが何を話しているのか理解していないのだろうと、小さな溜息を覚えながら、彼はクルリと後ろを振り返った。
「クリス様?」
少し声を高くして呼びかければ、執務机に向かっていた銀髪の乙女は、ハッ、としたように目を瞬いた。
そして、そのすみれ色の瞳を二度三度瞬かせて──室内を見渡した後……、
「……あぁ、ルイスか……どうしたんだ?」
呆けたような声で、そんなことをおっしゃってくださった。
やはりルイスの予測どおり、「声」は聞こえていたが、声の中身までは聞こえてはいなかったらしい。
──思わずルイスは、額に手を当ててタップリと溜息を零してしまった。
そんなルイスの仕草に、クリスは怒られるのを待つ子猫のように、書類に向かった体勢のまま首を竦める。
「どうしたんだ、じゃありません、クリス様?
こーんな暑い中で、お仕事がはかどるはずがないじゃないですか!」
両手を広げて、こうして立っているだけでも汗がジンワリと背中に染みてきたと訴えるルイスに、クリスは緩く首を傾げる。
「──暑い? ……そう、か?」
「そうですよ、ものすごく暑いです。──窓、開けますからね?」
コックリと神妙に頷いてくれるルイスの頬は、言われてみれば暑さのためか火照っているようで、赤い色を乗せている。
それを見て取り、クリスは何気なく掌を右頬に当てながら──そうか、と呟いた。
──寒気がとまらないから、てっきり、今日は異常気象で寒いのかと思ってた。
その言葉を頭の中で呟いたのは、そんなことを口にしたら最後、飛び上がって驚いたルイスによって、あっと言う間に自室に返されることが目に見えて分かっていたからである。
「ビュッデヒュッケ城に比べたら、ブラス城はやっぱり暑いですよね〜。」
風が一気に舞い込まないように、そ、と隙間だけ窓を開いて──太陽の香がした気がして、ルイスは小さく口元に笑みを刻む。
舞い込む風は、ほんのそよ風程度。一気に部屋を換気する役割りは持たないけれど、その分だけ、書類をかき乱す邪魔なこともしないだろう。
そう判断して、ルイスは一気に窓を開放してみせた。
「さ、クリス様。キリがついたら、ティータイムにしましょう。
根を詰めても、仕事は全然捗りませんし。」
──ね? と、満面の笑みでそう誘いかければ、なんだかんだとルイスに甘いクリスは、眉間の間にかすかな皺を作りながらも──そうだな、と、頷いてくれた。
そんな彼女の仕草に、満足したように頷いて、ルイスはそうと決まったらと、先ほどお盆を置いたテーブルに向かった。
「今日は、ダージリンなんですよ。もう少ししたら今年のファーストフラッシュが集荷されるらしいので、今のうちに去年のを全部飲んでしまわないとと思いまして。」
そういえば、クリス様付きのメイドが、いつものブレンドが切れてしまったと言ってましたよ、と──そうたわいのない言葉を口にしながら、ルイスはテーブルの上にカップとお茶請けを並べ始める。
応接用のテーブルの中央には、細長い花瓶が一つ。綺麗なレース模様の敷物の上に鎮座している青い花模様が描かれた陶器のソレは、ずいぶん前にルイスが買ってきた物だ。
毎日のように憧れの騎士団長であり、銀の英雄であり、先だってのイザコザで活躍したクリスに憧れる人々からの貢物の一つである「花」を、そこかしこに飾るために購入したものだ。
贈られた張本人であるクリスが目に留めなければ意味がないだろうと──クリスの仕事の邪魔にならない程度に、花を生けて置いておいたものだ。
今日はその花瓶の中で、白い花が可憐に揺れていた。
かすかに吹き込む窓からの風に煽られて、甘い香が広がるのに、ルイスは胸いっぱいにそれを吸い込みながら微笑んだが──朝は生き生きとしていた花弁が、しゅん、としおれているのに気づいて、グ、と眉の間に皺を寄せた。
──たぶん、おそらく、この花瓶の中は、生ぬるいお湯になっていることだろう。
「…………クリス様、僕、ちょっと花瓶の水を替えてきますから──一段落ついたら、お茶にしてくださいね?」
花瓶ごと取上げて、しおれた花びらを指先で撫でながら──暑かったよね? と小さな声で花に語りかけながら、クリスを振り返る。
けれどクリスは、頬杖を付いた体勢で、声にならない応えを返すばかり。
また書類に集中し始めたようだと──珍しく頬杖を付いているのは、やっぱり室内のうだるような暑さに辟易しているからなのだろうなと、小さく溜息を一つ。
早く花瓶の水を張り替えて、ついでに団扇でも持ってくるかと……このまま放っておいては、執務机から張り付いたように剥がれないだろうクリスのためにも、一刻も早く帰ってこようと誓いながら、そ、と部屋を出て行った。
──一方、クリスはと言うと。
窓が開放されたおかげで、少しだけ涼しくなったような気のするムンムンと熱気の篭る執務室の中で。
頬杖をついた掌で、何気なく右頬をさすりながら──小さく、溜息を一つ。
目の前の書類を睨みながらも、その書類の内容は全く頭に入ってこない事実に、困惑を露わにしていた。
仕事に集中できない。
なのに、ルイスが部屋から出て行ったという事実すら気づいていないほど、回りが見えていない。
「………………なんだか、頭痛までしてきたような気がする………………。」
柳眉をかすかに顰めて、そんなことをポツリと呟いた後──、今日こそは早めにあがって、医務室に行こう、と。
……ルイスのいるところで言葉にしてこそ意味があることを、今日も胸の中で誓ってみたりしていた。
結局、書類の内容が頭に入ってこない以上、仕事が捗るはずもなく──その日も仕事が終わったのは、人々が就寝支度を整える頃だったという。
夏のうだるような暑さの中──開け放たれた窓から入り込む微風に涼しげなレースのカーテンが揺れている。
これから日中の暑さが本番になるだろうと思われる中──応接室の中央に置かれた大きめの応接テーブルを囲む革張りのソファに、6人が腰掛けていた。
このブラス城の栄えある六騎士のうち5人と──それから、今日のためにわざわざカラヤから呼び出されたヒューゴである。
少し離れたところでは、ルイスが6つのティーカップに紅茶を注いでいる。
綺麗な赤い色が白いカップの中に広がるのを見ながら、ルイスは少し首を傾げて──それから、大きな銀のトレイの上に、角砂糖の入った容器を置いた。
淡く湯気が立つカップが鎮座したトレイを持ち上げれば、ズッシリと両手に重みがかかる。
カチャカチャと耳障りな音を立てるそれに気をつけながら、慎重に足を運んだ先では──シン、と、耳に痛いような沈黙が落ちていた。
ぐるりと回って、三人がけのソファに腰掛けているヒューゴの傍に膝を付くと、ルイスは低いローテーブルの上に重い銀のトレイを置いた。
「……あ、ごめん、ルイス。」
「いいえ、これが僕の仕事ですから。──冷めないうちにどうぞ。」
場の雰囲気を和ませるように微笑みかけて、ルイスは彼の前に銀のスプーンと、角砂糖の入った容器を置いた。
それから、その位置に膝を付いたままの体勢で、テーブル越しにヒューゴの正面に座っているパーシヴァル、ボルス、ロランにカップを差し出し、続けて1人がけ用のソファに腰掛けているレオと、その対面のサロメにもカップを渡した。
そうやって一人一人に渡しながら、ルイスはテーブルを囲んでいる面々を目で見やって──軽く眉を顰めながら、軽くなった銀のトレイを持ち上げる。
──まるで、ヒューゴさんを攻め立ててるような配置だ。
そのつもりはなくとも、三人がけのソファにヒューゴを1人据えて、五人がぐるりと囲むようにテーブルの縁に身を乗り出している。
そう思いながら立ち上がり──いや、と、ルイスは彼らにわからないように軽く首を振った。
多分、五人は──ヒューゴを攻め立てているつもりなのだろう。
何せ、ヒューゴが見て分かるほどに萎縮している──公務では堂々と彼らと渡り合い、胸を張れるようになったヒューゴが、今日ばかりはそうじゃない。
渋い表情を隠そうともしない五人を前に、困ったような顔で……時々、救いを求めるようにルイスに視線をくれてくるのだ。
そんなヒューゴの視線を──すがるように感じる視線を項の辺りに感じながら、ルイスは銀のトレイを片付けるために、小さなカウンターテーブルへと歩きながら──ぜんぜん和まない場に、どうしたものかと溜息を一つ零した。
──シン、と静まり返った応接室の空気は、ただ、薄暗い。
窓の外に流れるアツイ空気よりもずっと重々しく苦しいくらいに、居心地が悪い。
ココにこのまま居るくらいなら、窓から飛び出して灼熱の太陽に焼かれて焼けどしたほうがマシだと思う。
けれど、どれほど空気が重く、居心地が悪くても──ルイスもまた、ここに同席しなくてはいけない理由があった。
「…………まぁ……同席したいって言ったのは僕なんだから、しょうがないと言えばしょうがないんだけど。」
──ヒューゴには、同情を覚えてはいる。
何せ、いそがしいさなかに呼び出された挙句、男だらけのクソ暑い応接室に閉じ込められて、紅茶を入れるためのお湯が沸いて淹れおえるまでの時間、ひたすら延々と無言の圧力を受け続けているのだから。
もし同じようなことをされれば、ルイスは1分としないうちに、根をあげて、彼らに降参の白旗を振っていたに違いない。
けど。
同情と、コレは、別問題。
ルイス自身、ヒューゴがおかれた立場に同情を覚えはしても、決して庇ったり、先を促したりしないのには、理由があった。
──ルイス自身も、五人の騎士と同じくらい、ヒューゴに聞きたくて……でも、恐くて先を促せないからだ。
だから、誰かが……この奇妙な空気の均衡を破るのを待っている。
そう思いながら、緊迫した空間に背を向けて、ことり、と銀のトレイをサイドテーブルの上に置いた瞬間──、
「……ぁ、あの……紅茶、冷めますよ………………?」
自分達よりも先に、ヒューゴの方が、根をあげて均衡を崩しにかかってきた。
おずおずとしたヒューゴの言葉に、ルイスが視線を向ければ、彼は居心地悪そうに座っていたソファの上で、テーブルの上に置かれたままの──儚い白い湯気を立てるカップを目線で示し、に、にこ……と笑って五人の騎士を見回しているところだった。
けれど、そんなヒューゴの「譲歩」にも、
「……………………………………。」
返ってきたのは、ルイス以外の全員の、渋い眉間の皺ばかり。
遠目に見るルイスの目にも、はっきりと、ヒューゴの額に大粒の汗が光るのが見えた。
「…………………………。」
何? 俺、何かしたのか?
ヒューゴは、取り付く島もない──まるで、あのカラヤの焼き討ち事件の尾を引いているときのままのような騎士たちの視線に、困惑ばかりを覚えていた。
こうやって右からも左からも正面からも──10の視線にさらされると、ナニをした覚えもないのに、なんだか自分が悪いような気がしてきて、ヒューゴは首を竦めるようにして彼らの顔をチラリと見上げる。
あの戦争が終ってもうすぐ一年──方々からの協力もあり、カラヤの復興はあらかた終わり、最近はブラス城とカラヤクランを往復する回数もずいぶん減ってきていた。
その分だけ、彼らと顔をあわせる回数もなく……確か、最後にブラス城で彼らと顔をあわせたのは、もう二ヶ月ほど前だっただろうか?
──手紙を貰って、てっきり、今度の会合のことについての打ち合わせか何かだと……この部屋には、二ヶ月前と同じようにクリスが待っているのだとばっかり思って来たのに。
なぜ、この状況?
ただ、じぃ、と睨みつけられるような体勢で、しばらく動きを止めて考えをめぐらせてみたものの、答えは全くでない。
クリスに呼び出されるならとにかく、五人に呼び出された挙句、こうして囲まれて──この体勢、ヤンチャをして母さん達に怒られたときに良く似てるんだよな……。
気心の知れた五人相手に、今更恐縮も何もないのだが──、小さい頃から受け付けられた「この体勢」へのトラウマは、まだヒューゴの中に残っていた。
特に、正面に腰掛けている三人組──パーシヴァルとボルスとロランの存在が、ヒューゴにとっては居心地が悪いことこの上ない。
カラヤでは、眼の前に母さんとビッチャムとルース、左側にジンバ、右側にジョー軍曹が座るのだ。あの時のトラウマ上、一番怖いのは眼の前に座る三人だと言う認識が出来ている。
そのため、ヒューゴはどうしても目の前を見ることが出来ず、いつも左手に座っていたジンバに助けを求めていたように、左手に座っていたサロメへと言葉を向けることにした。
「サロメさん……、あの……俺、何かしましたか?」
名指しで問いかければ、無表情に自分を見つめていたサロメの顔が、ピクリと蠢いた。
その額に、青筋が立ったような気がして、びくぅっ、とヒューゴの肩が跳ねる。
ますます脳裏のトラウマが何かを囁いたような気がして──滅多なことで怒らないジンバが、怒ったときの恐ろしさは、また格別なのだ。
「さ、ささ……サロメさん??」
彼はジンバではない、ちなみに言うと、眼の前に座っているのは、母でもビッチャムでもルースでもないのだと、動揺しながらも心の中で繰り返してみる。
そうすると不思議なことに、少しだけ落ち着いて──そうだ、あの母達に比べたら、目の前の五人から説教されるほうがずっとマシだ──、ヒューゴは、落ち着くように手の平を握り締めて、小さく深呼吸を繰り返した。
そうすれば、すぐに心は落ち着きを取り戻し、
「俺をここへ呼んだには、理由があるんですよね? 何か起きたのでしょうか?」
きりり、と顔つきを改めて、グルリと五人の顔を見やる。
その五人の向こう側──彼らが背中を向け、ヒューゴが正面を向いた方向に、銀のトレイを抱えたまま、複雑な表情を見せるルイスが立っている。
彼は、ヒューゴの言葉に、躊躇うように一瞬視線を伏せた。
そんな彼の仕草に、──ヒューゴはふと、この体勢になってからずっと焦っていた自分の気持ちが、不安に揺れるのを感じた。
このメンバーと、ルイス。──ここには居ないクリス。
最初から……冷静に考えれば、答えは出ているはずだった。
けど、この体勢に……正しくはトラウマにかられて、その真実が失念していたのは自分のほうだ。
「──まさか、クリスさんに何か?」
思い当たったことに、身を乗り出して彼らの顔を凝視するように見つめれば──サロメから返ってきたのは、渋い表情と溜息。
その溜息の重さを認めて、ヒューゴは見て分かるほどに顔色を変えた。
「クリスさん、どうしたんですか?」
彼女の身に何か起きたのだろうかと──いや、もし、事件に巻き込まれたり怪我をしたのであれば、五人とルイスがここに居るはずがない。
何よりも騎士団長であるクリスを大切にしている彼らが──クリスに永遠の忠誠を誓っている騎士である彼らが、何かにさいなまされているクリスを一人でほうっておくはずがない。
そう思うけれど、それでも胸に入り込んできた不安はなくならない。
見回した五人の表情も、ルイスの表情も思わしくなく……ヒューゴは、小波のように沸き立った不安が、一気に大きくなっていくのを感じた。
ギュ、と拳を握り、母親譲りのきつい眦をますます吊り上げて、ヒューゴはまっすぐにサロメを睨み揚げる。
「何があったんですか? サロメさん?」
詰問口調で──その答え次第では、今すぐにことを起こさねばならないと、表情を一転して問いかけるヒューゴの面差しには、出会った頃のような幼さは見えなかった。
あの戦いの中で、戸惑い、ゆれ──そして、ゼクセンの騎士団を前に、さまざまな葛藤に胸を痛めた少年は、その試練を乗り越え、一人の若者として眼の前に座っている。
サロメ達がどれほどの苦難を口にしようとも、なんとかしてみせようとする、信頼性にあふれる眼差しをしていた。
サロメはそれを認めて──ふぅ、と溜息を一つ零した後、ヒューゴの視線から逃れるように視線を落し、
「…………クリス様の様子が、おかしいのです。」
膝の上で両手を組んで……この応接室に来てから、初めて口をひらいた。
その言葉に、ヒューゴは軽く眉を顰める。
「おかしい? クリスさんが?」
いぶかしげな表情に、コクリと頷いて答えたのは──ヒューゴの正面に座る形になっているボルスだった。
「あぁ、そうだ。数日前から……いや、もう少し前か? 少し、食事の量が少なくなられたようでな。」
彼もまた、ほかの面々と同様、渋い顔を崩さない。
搾り出すような声にも苦味が走っていて、彼がクリスのことを心から心配しているのだということが、見て取れた。
ボルスの言葉に、眉を寄せたまま先を促すヒューゴに、今度はパーシヴァルが前髪をかきあげながら溜息を零して答えてくれる。
「ここ二日ほど、仕事のペースが随分と落ちているようです。」
あの、生真面目なことでは類を見ないクリス様が。
──さも重要なことのように呟いて、パーシヴァルは苦痛を訴えるように手の平を額に押し付ける。
そんな彼らの言葉を頭の中で繰り返して、ヒューゴは緩く首をかしげる。
「……夏バテ、ですか?」
ここ数日の猛暑を思えば、それが妥当な気がして、そう口にしたけれど、彼らは一様に気難しい表情で答えるばかり。
その表情が、まるで──クリスの体に重大な事件が起きていると、言っているような気がして。
「──サロメさん?」
不安に駆られて、声と視線で問いかければ、サロメは渋面を崩さない。
そんなサロメの表情の変化を、少しでも探ろうと目を細めてみるものの──クリスの軍師役であるサロメが表情を見せるのは、彼女関係のことばかり。
とてもではないが、若造に過ぎないヒューゴがどれほど目を凝らしても、サロメの表情の変化は欠片ともつかめなかった。
仕方なく、ヒューゴはサロメから視線をずらすと、眼の前に座る三人に目をやった。
「クリスさんに、何が起きているんですか?」
「……今朝は、寝不足みたいで、目の下にクマがありました。」
ロランが目線を落としながら、自分が組んだ指先を見つめて答えてくれた。
その答えに、ヒューゴは、ほ、と胸を撫で下ろす。
──なんだ、寝不足で調子が悪いのなら、本当に夏バテじゃないか。
もちろん、夏ばてだからと言って、軽く見てはいけないことはヒューゴも知っている。夏ばてという単語と縁のないカラヤクランであっても、その恐ろしさは、毎年ジョー軍曹を見ているから分かるのだ。
真夏の太陽盛りのジョー軍曹は、生きる屍だから。
きっと、暑くて眠れなかったのだろうなと──夏バテの時には、何を差し入れしたらいいだろうと、頭の片隅で考えるヒューゴに、追い討ちをかけるように、今度はレオが重い口を開いた。
「気分転換に訓練に誘ってみたが、激しい運動は控えていると言われるのだ。」
ガックリと肩を落すその姿に、そりゃ、夏バテの最中に動きたいとは思わないだろうと、ヒューゴは苦笑を浮かべる。
とにかく、彼らの話を聞いた限り、クリスは夏バテだと考えてよさそうだ。
──まったく、サロメさんたちって、生真面目な騎士っていう顔してるくせに、クリスさんのことになると、すっごく過保護になるよなぁ……。
過去の経験を思い返しながら、ヒューゴはクスクスと笑みが込み上げてくるのを、必死に押し殺した。
どうせクリスさんのことだから、そんな夏バテなんてことを、彼らに知られたくなくて──過保護にされるのが分かりきっているから、意固地に「大丈夫だ」とか言い張って、サロメさんたちをヤキモキさせてるのだろう。
その結果、自分が呼ばれたのだとしたら──なんだか、申し訳なさと共に、くすぐったい温かさが込み上げてきて、ヒューゴは緩む頬と口元を隠すために、顔を俯けた。
クリスが、意固地を張ってムリをせず、弱音を吐ける相手が、「ヒューゴ」だけだと──そう、六人から思われていることが、くすぐったいくらいに嬉しくて、優越感に胸が一杯になった。
けれど、もちろん、そんなことを口に出来るはずもなくて。
俯いたまま、笑いを堪えるために首を竦めてみせたヒューゴは、なんとか口元を引き締めると、生真面目な表情で彼ら五人の騎士と、心配そうな表情の従卒を見つめて、請け負うように大きく頷いた。
「分かりました。とにかく俺、一度クリスさんの様子を見に行ってみます。
それで、どうしても調子が悪いようなら、お医者さんに見てもらうように言います。」
許してもらえるなら、今すぐにフーバーの上に乗せて、ビュッデヒュッケ城に居るトウタの元まで飛んでもいい。
──精神的にも肉体的にも辛い体には、心地良い風とおいしい空気……そして、あの城の持つ独特の柔らかな雰囲気がいいはずだ。
そう、ニッコリ微笑んで請け負うヒューゴの言葉に、ルイスが、ホ、と安堵の色を見せて大きく頷く。
「ぜひお願いします、ヒューゴさん。クリス様も、ヒューゴさんと一緒なら、きっと……その…………医者に行く勇気も出ると思うんです。」
ぜひ、と。
勢いを込めて大きく頷き、ギュ、と手の平を握るルイスの言葉に、ヒューゴは笑顔で頷こうとして──頷きかけた首を、ピタリと止めた。
──医者に行く勇気……?
イヤ……だから、ナニをカンチガイしてるか知らないけど、どう考えても、今の病状は──夏バテだろう?
そりゃ、クリスさんのことだから、仕事が忙しくって、「そろそろマズイか……」と思っていても、先延ばしにし続けている、ということはあるだろうが。
それは決して、医者に掛かるのが怖いからではなく、医者に掛かる時間が無いのというだけではないのだろうか?
クリスの立場や自尊心を思えば、ココで注釈を入れておいた方がいいだろうかと──いや、でも、ルイスたちのほうこそ、クリスとの付き合いが長いのだから、それくらい分かりそうなものだけどなぁ、と、ヒューゴが小首を傾げたと同時、
「そうだな、やはりこういうことは、二人で医者に行ったほうがいい。」
苦渋の選択の末、無理矢理納得して口に出しました──という雰囲気で、ボルスが、目と眉を苦痛の色に染めて、絞るように呟く。
その、聞いているコッチが痛くなりそうな声音に、ヒューゴはパチパチと目を瞬く。
「二人で……、って……。」
確かに、仕事を放り出して一人で医者に行くような人じゃないから、ヒューゴが付いていって、無理矢理医者に連れて行く……という意味では、「二人で医者に行ったほうがいい」のだろうが。
なんだか、ニュアンスが違うような気がした。
「クリス様も、初めてのことだからきっと、口には出さないまでも、とても悩んでいると思うんだ。
ヒューゴ、お前が支えになってやらなくてはいけない。──頼んだぞ。」
こればかりは、俺が支えたくても、支える類のものではないのだ、と。
ボルスと同じく、苦痛の色で顔を染めて、パーシヴァルが真摯な眼差しでヒューゴを見つめて囁く。
その熱の入った言葉に、はぁ、とヒューゴは頷いて──、何か、とんでもない病の兆候でもクリスに見えたのだろうかと、不安に駆られながら、彼らの顔をふたたび見回した。
そして、悲痛以外形容しがたい表情を浮かべる面々の顔に向かって、ヒューゴは、おずおずと──こう、問いかけた。
「……あの……、クリスさんの病気って──夏バテ、なんですよね………………?」
──その瞬間、
「……何っ!? ヒューゴっ! まさかお前、気付いていなかったとか言うのではないだろうなっ!!!?」
ガタンッ、と、ローテーブルを蹴飛ばすような勢いでボルスが立ち上がり、
「ばか者! お前が気付かなくてどうすると言うのだ……っ!」
「クリス様は、クリス様は……今もお一人で、どうしようかと悩んでいられるのですよ!?」
「今のクリス様は、お一人の体じゃないんだ……っ、ヒューゴ、あなたがクリス様を支えてやらねば、誰が支えるというのですか!」
四方八方から、ステレオの勢いで声が降ってきた。
その勢いに、思わずヒューゴは首を竦め、ビクッ、と肩を震わせる。
「す、すみません!!
……で、その──差し支えなかったら、クリスさんがどういう病気なのか……病名が分かっているなら、教えてほしいんですけど……?」
勢いにつられて、思いっきり謝った後──、ヒューゴは、われながら情けないと眉を落としながら、おずおずと視線をあげて問いかける。
──そりゃ、彼らが言うように、クリスの不調を、誰よりも早く気づきたいと思う心はある。
けど、二人の間に隔たる距離は、とても大きくて。
地図の上では、ほんの10センチほどだけれど、実際の距離は、駆け抜けることが出来る距離よりも長いから、会うのは、なかなか難しいのだ。
そんな自分の心の落胆を飲み込みながら──クリスの体調の悪いことが、夏バテ以外の理由から来ていて、それを回復させるのに自分の協力が必要だと言うのなら、ナニをしてでも協力しようと。
そんな意気込みを決意しながら、ヒューゴが問いかけた矢先から、
「見て分からないわけがないだろう!!」
バンッ、と、ボルスがテーブルを叩いて、激昂する。
そんなボルスに、まぁまぁ、落ち着いて、と、ロランが宥めているものの──そのロランの目つきもどこか険しく……ヒューゴは、四面楚歌の気分で、ますます身をちぢこめた。
「す……すみません…………。」
そんなこと言われても、最後にクリスさんと会ったのって、多分──クリスさんが体調悪くなる前だもん。
言い訳めいたことは、過保護集団の前で口にしてはいけない。
ヒューゴはショボンと肩を落しながら、彼女がかかりそうな病名を必死に脳裏で攫ってみる。
見てわかるような病……? 風邪?
しかし、もともとカラヤクランで病気知らずで育ったヒューゴの知識では、「ジョー軍曹のノミによる虫食い被害」だとか、「フーバーのおたふく風邪」だとかそんな類の病名しか思い浮かぶことはなかった。
──そっか、文化の違いを勉強するのも大事だけど、地区で流行っている流行病だとかも調べないとダメなのか……国際交流って。
なぜかこんなことから学習するハメになる。
考えても分からなくて、首をかしげる様子のヒューゴに、ふぅ、とパーシヴァルが溜息を零して、
「ヒューゴ。心当たりはあるのだろう?」
まるで、知っていて当たり前だというように、こめかみに指先を当てる。
そんな彼の言葉に、益々ヒューゴは当惑を深めるばかりだ。
「……こ、こころ、…………あたり???」
ハテナマークを顔に貼り付けて、一体何のことですかと、口を開いて問いかけようとするヒューゴの前に、ビシィッ、と、立ち上がったままのボルスの手の平が突きつけられる。
驚いて目を見張るヒューゴが視線をあげれば、なぜか真っ赤に顔を染めたボルスが、
「みなまで言うな! それほど俺たちも野暮じゃない。
──だがその……、じ、じじじじ、時期的に言うと…………、予定日は、……いつくらいになるんだ…………?」
ますます意味が分からないことを、口篭って聞いてくる。
言葉が後ろになればなるほど、顔から耳、さらに首筋にと赤い色は広がっていく。
まるでボルスさんこそが病気のようだと、ヒューゴは暢気に思った。
──っていうか、…………予定日??
「……予定日って……?」
何の、と、そう続けようと口を開いたヒューゴの言葉尻は、ボルスの左となりに座っていたロランによって攫われる。
「それは計算してみないとわかりませんね。ルイスが言うには、最後に来たのが二ヶ月ほど前だと言うことですが……。」
そうでしたよね? と、ロランが問いかけの視線を背後に飛ばせば、なぜかルイスは顔を真っ赤に染めて、それは今はちょっと……! と、両手を振り回す。
「…………………………ぇ? いや、俺が最後に来たのは、先々週ですけど?」
素で答えたヒューゴは、ロランの問いかけの「二ヶ月前」がナニを示しているのか、全く理解していないようだった。
というか、はっきり言って、話の流れ自体を理解していない。
回りからしてみれば、そらっとぼけたようにしか思えないセリフを吐いて、ヒューゴは傾けていた首を、もう片側に傾ける。
眉に寄せられた皺が、彼らが何を言っているのか分からない、と語っていた。
「ルイス?」
君だって、知ってるじゃないか、と──言外に呼びかけられて、ルイスはとっさに、真っ赤に染まった頬を隠すために銀のお盆で顔を隠す。
「……///……そそそそ、そうじゃなくってですね、ヒューゴさんっ!!」
ほら、あれですよ、あれ……っ!
──なんて口に出して言えるほど、ルイスはまだすれてはいない。
いや、それで言うならそもそも、こんなことを堂々と話している騎士たちにしたって、本当はそんな「乙女の事情」を公衆の面前で話すような人間ではない。
ただ──そう、皆揃って、混乱の極みにあるというだけなのだ、本当は。
そんな、常軌を逸する中、1人展開を理解できていないヒューゴは、ルイスの言う「あれ」の意味も分からず、ますますいぶかしげに顔を顰めるばかりだ。
「え? 何がだよ、ルイス?」
そんなヒューゴに、テーブルの上に足を乗り上げたままだったボルスが、ずいっ、と顔を近づける。
「ええーいっ、しらばっくれるなよ、ヒューゴ!
だから貴様、心当たりはあるのだろう!!!?」
ガタガタッ、と、ボルスがテーブルの上に足を乗り上げて、そのままの動作でヒューゴの襟首を引っつかむ。
引寄せられて、体が中途半端に浮いたヒューゴの間近に迫ったボルスの目は、血走り──そして、なぜか目元が潤んでいた。
「ぼ、ボルスさんっ!?」
なんで……泣きそうな顔をしてるんだ!?
意味が分からない。
一体、何がどうなって、こういう状況になっているんだと、目を白黒させるヒューゴを手助けするように、ボルスの隣からパーシヴァルが彼の腕を掴む。
「ボルス、落ち着け。」
強引に腕を引っ張り寄せ、唸るように歯の間から息を荒く吐き出すボルスをソファに座らせなおすと、パーシヴァルはそのまま視線をヒューゴに当てて、
「とにかくヒューゴ。心を落ち着かせてくれ。」
真摯な目で語ってくれるけれど──落ちついてないのは、俺じゃなくって、みなさんじゃ……と思ったが、あえてヒューゴはそれを口にせず、コクリと頷いた。
そんなヒューゴの態度に満足したのか、パーシヴァルはゆっくりと一つ頷くと、コホン、とわざとらしく咳払いをした後、
「君もまだ若いから、その──ビックリしているとは思うが、われわれは、それよりも何よりも、授かった命は、大切にしたいと考えている。」
──生真面目に、かつ、頬をかすかに赤らめたりなんぞして、真摯に告げてくれた。
そんなパーシヴァルのまっすぐな視線を受けて、ヒューゴは戸惑いがちに目を瞬きながらも、一つ頷く。
「そう……、ですね。命は……大切、ですよね?」
何のことなのか分からないまま──それとも、クリスの「病気」は、命が関わってくるほどにひどいものなのだろうかと、内心焦りを覚えながら、呟いたヒューゴの言葉に、なぜか回りの騎士たちが、コクコクと忙しなく同意のために頷いてくれた。
やっぱり、まったく、意味が分からない。
「そうです、ヒューゴ殿。」
コホン、と咳払いを一つ零して、サロメが体を前に乗り出してくる。
「サロメさん?」
慌てて、パーシヴァルに向けていた視線をサロメに向ければ、サロメはそのヒューゴの目をまっすぐに見返して、ゆったりとした動作で──いや、緊張と焦りをそのゆっくりとした仕草で隠そうとしながら、喉を上下させた後、
「あなたも父親になるのですから、責任はきちんと取っていただかないと困ります。」
ジンワリとにじみ出た脂汗をそのままに、ヒタリ、と──獲物を狙うヘビのような視線で、ヒューゴを睨みすえた。
「…………………………………………は?」
怖いくらいの爬虫類系の視線を受け──けれどヒューゴは、リザートクランの人たちで、爬虫類のどこを見ているか分からない眼差しには慣れていたので、サロメのそんな視線にへこたれることもない。
ただ──彼が口にした言葉が、耳に入ってきても、脳みそには入ってこなくて、ただ、マジマジと彼を見つめるしかできない。
──いま、なんて言った?
軽く目を見開いて、ぽかんとサロメを見つめるヒューゴを、サロメは重厚な思いで眉間に皺を寄せるようにして目を閉じると、
「クリス様も騎士団長である以上、いろいろ悩んでいるようです。
私たちの前では、何もなかったかのように振舞ってはいますが、子供が出来たとなっては、隠しとおすのも時間の問題……。」
重い……重い口調で、そう続ける。
そのサロメの言葉に、そうだっ、と、ガンっ、とテーブルに拳をたたきつけて、ボルスが何か叫ぼうとするのを、これ以上事態がややこしくなっては困ると、無言でロランが彼の口をふさぐと、
「確かに、今の現状で騎士団長に子供が出来たなどとあっては、醜聞は必須、あなたも動きにくいことになるのは確かでしょう。」
「だが、このままでは、クリス様の体はもとより、おなかの中の子供にも悪い。」
「だからヒューゴ……あなたから、クリス様には、一刻も早く医者に見てもらって、みなに子供のことを公表してもらい……いや、その前に結婚の公約が先か……。」
先走った騎士たちが、一斉に身を乗り出して、口々にいい始める。
そこまで言われて、ようやく、彼らが何を言いたいのか理解したヒューゴは、慌ててガタンッと立ち上がると、
「って、いやいやいやいやいや……ちょ、ちょっと待ってよ、みんなっ!!?」
目に見えて分かるほどに真っ赤になりながら、彼らの顔を一巡した。
「い、今してるのは、クリスさんの病気の話だろっ!?」
「「「「「クリス様の妊娠の話だっ!!!」」」」」
悲鳴にも近い声で叫んだヒューゴに、ドンッ、とテーブルが跳ね上がるほどの勢いで拳をたたきつけて、五人が一斉に叫ぶ。
血走った目を向けられて、ヒューゴはビビッと肩を大きく震わせて、
「に……妊娠っ!!!? クリスさんがっ!? ……だ、誰の子供っ!!!?」
バンッ、と。
彼らに負けないくらいの勢いでテーブルをたたきつけて、叫んだ。
そのヒューゴの声に負けじと、ボルスが拳を握り締めて
「誰の子供ってそんなのはだな…………っ!!」
叫ぼうと、大きく口を開いて──、
「………………誰の子供………………?」
その先を口に出来ずに、ほかの5人と一緒になって、ヒューゴの赤い顔を見上げた。
眦に涙を滲ませて、唇をへの字に曲げるヒューゴの──傷ついているような、怒っているような……悔しそうな。
「──クリス様の恋人は、ヒューゴ、君だろう? ほかに誰が居るというんだ?」
何を言うのだと、呆れたような顔でパーシヴァルが大げさに眉を顰めた後──、彼は、あぁ、と、突然合点が言ったような顔で軽く目を見張ると、
「もしかして……まだなのか?」
「…………っ!!!!!」
「何」が、とは、パーシヴァルは決して言いはしなかった。
しかし、ヒューゴは彼がナニを言いたいのか悟って、これ以上赤くなりようがないと思っていた頬を、火がつきそうなほど真っ赤に染めて、バッ、と顔を俯かせた。
初々しい少年の反応に、向けられたつむじを見て、
「…………まだなのか。」
「そうか……まだだったのか。」
「クリス様は、銀の乙女のままだということですね──……。」
「付き合って半年になるのに、奥手だな……ヒューゴは……。」
思い思いに口の中で呟きながら──緩む口元を押さえきれず、さりげない仕草で口を手の平で覆った。
──なんだ、そうか、そうだったのか。
五人の騎士と、一人の従者は、今まで「聞きたくても聞けなかったこと」を、こんな形ではあったものの、ようやく答えとして突きつけられて、ホ、と安堵の吐息を零したくなった。
クリスとヒューゴが付き合い始めたと聞いて──しかも、ヒューゴはちょくちょくとクリスに私用で会いにきていたし、公私共に二人っきりになる時間が長かったから……てっきり、すでにもう、そういう仲なのだと思っていた。
自分たちの憧れの乙女であるクリスが、たった一人の男の物に──心身ともに染まってしまったのだと思って、五人と一人で酒を飲み交わして慰めあった記憶も、一度や二度じゃない。
クリスだって大人の女であるし、ましてやヒューゴなど、やりたい盛りの思春期の若者だ。
付き合って半年ともなれば──婚前交渉は、あってしかるべきだと、……ひどく悲しく、悔しく思っていたが、それでもクリスが許したのならばと、痛む胸を無視して、そう自分に思い込ませてきていた。
けれど、
「そうか……それじゃ、クリス様は、妊娠はしてないと……そういうことか。」
なんだ、そうだったのか。
安堵の意味を込めて、小さく零せば、居心地悪そうにこちらをチラリと見上げて、
「し、してたら……俺が困る…………。」
ヒューゴが、ぽつり、と呟いてくれた。
──完璧だ。
クリス様は、まだ純潔の乙女だ。
──そう、たとえ心はヒューゴにささげられていると分かっていても、そしていつかは、そのすべてが彼にささげられてしまうと分かっていても。
それでも、まだ、「クリス・ライトフェロー」が、心身ともに眼の前の少年の物になっていないという事実は、五人と一人の心を、ひどく軽くさせた。
そっか、そうなのか。
一転して──そう、「この応接室にヒューゴを呼んで、とにかく子供の責任を取らせよう」と、そう(クリスを除く)会議で決めてからずっと、心を覆っていた暗雲が、一気に晴れた気がした。
サロメは、俯くヒューゴの項を、上機嫌に見つめて──ス、と表情に笑みを上らせると、
「…………………………………………では、ヒューゴ殿。」
何事も無かったかのように、紅茶まみれになったローテーブルに片手を付いて立ち上がると、すがすがしい笑みでもって、ヒューゴに託した。
「クリス様から、最近のご不調の原因を聞いてきてください。頼みますよ。」
「…………へ?」
弾けるように顔をあげたヒューゴの前で、サロメに続いて、騎士たちも暗雲の張れたようなさわやかな笑みを刻みながら、
「ヒューゴ、よろしく頼む。」
「俺からも頼む。」
「頼みました。」
「クリス様は執務室にいらっしゃるぞ。」
それぞれ、勝手気ままに笑いかけ、肩をドンと叩き、ヒューゴの髪をクシャリを撫でて──、一瞬前が嘘のように朗らかな笑顔で、
「ヒューゴが来てくれて助かったよ。」
「頼むぞ、炎の英雄。」
「俺たちは食堂にいるから、結果が分かったら、教えに来てくれ。」
この話はコレで終わりだとばかりに、中身がすべてぶちまけられた後の──転がったままの紅茶のカップを、何事も無かったかのようにソーサラーの上に戻して、颯爽と背を向けてしまう。
「……──って、いや、ちょっと………………。」
突然の一方的な展開に、何が何だかついていけなくて──思わず、片手を前に伸ばすけれど、なぜか浮かれた調子の騎士たちは、背を向けたまま、さっさと扉の外に出て行ってしまうではないか。
「ちょっと、サロメさん!? ボルスさん、パーシヴァルさん、ロランさん、レオさんっ!!?」
慌てて呼び止めるべく、ソファを大きく回って駆け足で追いかけようとするが、それよりも早く、はっはっはー、と明るい笑い声をあげる彼らは、部屋から出て行き、パタンとドアを閉めてしまう。
残されたヒューゴは、
「…………ぃや──て…………何なわけ……、だから………………?」
あげたままの手の平の先を、小さく動かせてみたが、答える声はなく。
代わりに、銀のトレイを持ち上げたルイスが、紅茶まみれのテーブルを見下ろしながら、
「あーあ……もう……誰が掃除すると思ってるんだか……。」
呆れたように腰に手を当てながら、しょうがないなぁ、なんて疲れたように呟いてみせる。
そのルイスですら、どこか浮かれた様子が口調から見え隠れしていて、ヒューゴはそれにますます不信感を募らせながら、──俺、何かまずいこと言ったかな? と首を傾げるが、
「さ、ヒューゴさん。ここの片付けは僕にまかせて! ヒューゴさんは、早くクリス様の執務室に行ってあげてくださいね〜♪」
さぁさぁ!
と、雑巾を取るために身を翻したルイスに背中を押さえて、あっと言う間に応接室の外へと追い出されてしまった。
気付けば、パタン、と背後でドアが閉まる音がして、見渡した左右の廊下の先──階段のある方角辺りから、
「いやーっ! そっかそっか! クリス様がアイドルじゃなくなるのは、まだ先ってことだなーっ!!」
「……まぁ、短い寿命なのでしょうけど……。」
「おいおい、そんな先行きの暗いことを言うなよ、ロラン。」
なんていう、浮かれた騎士の声が響き渡ってきていた。
ヒューゴはそれを目線で見やって……ふ、と短く息を吐くと、
「……クリスさんが騎士団長を辞めるかもしれないって──そう思ったってことかな……?」
とりあえず、自分が考えつく最高の理由で、無理矢理納得してみるのだった。 ──少年は、まだまだ恋愛初心者であったため、彼らの複雑な男心を理解することは無かったのである。
クリスは、右頬に手を当てて──小さく溜息を一つ零す。
その拍子に、ずきん、と脳の中にまで訴えるような痛みを感じて、クリスは顔を顰めて見せた。
ずきん、ずきん、と鼓動が鳴るたびに、頭の先から爪先まで痛みが走るような気がする。
一日眠れば少しは楽になるかと思ってみたが、痛みは日々ひどくなるばかり。
クリスは指先で痛みを訴える場所を皮膚の上から押さえつけながら、目をギュと閉じた。
「参ったな……。」
痛みに意識が散って、まるで仕事が進まない。
そのおかげで、「早く仕事を済ませて、医務室に行こう」と思っているにも関わらず、仕事が終るのはいつも日付が変わる前──なんていう事態になってしまっている。
しかもその上、疲れているにも関わらず、痛みのあまりまともに寝ることすら出来ない。
無理矢理我慢していたが、だいたいは明け方くらいに堪えきれず──少しでも眠らなくてはいけないからと、部屋に取り置きしてあった「鎮痛剤」を飲んで眠った。
それでも浅い眠りしか取れなくて。
その薬すらも、あと2回分で切れてしまう。
鎮痛剤を取ってくるようにルイスに言うわけにも行かないし──本当にいい加減、医者にかからないといけないと、クリスは唇を噛んだ。
頬に当てた手の平を緩く撫でさすって、クリスはココまでが限界かと──見栄など張らずに、最初から仕事を途中で止めて医務室に行けばよかったのだと、彼女は席を立った。
シン、と静まり返った執務室に乱雑に積み重ねられている書類を一所にまとめて……そこでふと、ちょうど指先に当たった書類に目が止まった。
「ん……マズイ、これは今日の夕方までだったか。」
コレだけは済ませなくてはいけないと、クリスは慌てて椅子に座りなおし、ペンを取り上げる。
乾いたペン先をインクの中につけて、それから改めてペンを持ったところで。
コンコン。
執務室のノックが、控えめに鳴った。
そのノックの音に、もうルイスがお茶を持ってくる時間かと──、先ほどから激しくなっていく痛みを思えば、お茶を飲むのも辛いな、と……そんなことを暢気に思いながら、クリスは書類に目を走らせながら、いつものように上の空で返事をする。
少し間をおいて、キィ……と、なぜか躊躇うような静けさで扉が開く。
クリスは書類の五行目に視線を走らせながら、
「ルイス、すまないが、窓を開けてくれないか?」
数日前に怒られてから、なるべく換気するように心がけていたつもりだが──今日もウッカリ忘れていたのだと言うことを、ルイスに悟られないように、さりげない口調でそう先に口に出してみた。
きっとルイスにはバレバレなのだろうが。
部屋の中に入ってきたルイスは、すぐに呆れたようにクリスに向かってこういうに違いない。
クリスは、ここ数日毎日のように聞いてきたお小言を思い出しながら、七行目の文面に視線を走らせる──それと同時、
「クリスさん……こんな暑い中で仕事してると、脱水症状になるよ?」
先ほどから扉の位置に立ったまま動かないと思っていた「ルイス」が、苦笑交じりにそう呟くのを耳にして。
「──ヒューゴっ!!?」
驚いて……持っていた書類を机の上に叩きつけるようにして、クリスは顔をあげた。
自分の正面に当たる位置──てっきりいつものようにルイスがやってきたのだと思って、目線すらあげなかったそこには……困ったような顔をした少年が一人、ぽつんと立っている。
健康的な赤銅色の肌に、バランスの良いしなやかな筋肉──あどけない容貌の中にも、精悍な面差しが見え隠れし始めている年頃の……、
「な……っ、なぜヒューゴがココに居るんだっ!? 確か、今度は一ヵ月後じゃないとコッチには来れないと……っ。」
慌てて椅子から立ち上がろうとして──クリスは、フイにクラリと眩暈を覚えて、グ、と机に付いた両手に体重をかけて堪える。
はぁ、と息をつくと、熱い吐息が唇から零れ、同時にズキンとこめかみを突き抜けるような痛みが走った。
思わず眉を寄せて、痛みを散らそうとするクリスに、ヒューゴは困ったような──心配したような表情を浮かべて、扉を開いたまま、窓辺に向かった。
キツイ日差しを和らげるように掛かったレースのカーテンの合間から手を伸ばし、カチンと窓の鍵を外すと、そのまま窓を開く。
空の上のような飛び交う風は流れ込んではこないけれど──太陽の熱に熱された風は、温かくて……とても気持ちがいいとはいえなかったけれど、それでも、部屋の中に篭っていた湿気が少しだけ散らされた気がして、ホ、と息が漏れる。
「そういうクリスさんこそ、この二週間──ちゃんと体調管理してたの?」
「……い、今はそういう話をしているわけじゃないだろう?」
開いた窓を背に、ジロリ、と視線で睨みつければ──逆光になって表情が見えないはずのヒューゴが、どんな顔をして自分を見ているのか簡単に想像がついて、クリスは苦虫を噛み潰したような顔になる。
──多分、最近の自分が「不摂生」だと、ルイスか騎士たちに聞いたのだろう。
この分だと、ルシア殿辺りにもその「噂」が流れていて……、きっと次に会ったら、「銀の乙女殿は、体調管理も出来ないらしいな? そんなヤワだと、うちの息子はまだまだやれないねぇ」なんて高笑いしながら、からかってくるに違いない。
クソッ、と──自分の体調管理が原因なのは確かだが、それでも……カラヤまで噂話が流れていったことには、つくづく悔やまれる。
──乙女心としては、その噂を聞いて、自分のためにやってきてくれたヒューゴのことは、とても……嬉しいのだけど。
「今はそういう問題なんだよ。そんな顔色して、何言ってるのさ? すごく真っ青だよ、クリスさん?」
分かってるの? と、キュ、と眦をきつくして睨まれて、クリスは先ほどまで撫でていた自分の右頬に手を当てた。
かすかに熱を持っているような気のする頬は、「真っ青」だとは分からない。
てっきり、顔は赤くなっているものだとばかり思っていたが──あぁ、そうか、悪寒を覚えているのだから、顔が青くなってもおかしくはないか。
額の髪の生え際辺りに、脂汗が滲んでいる感触は分かっていたのだが、顔色までは分からなかった。
かすかに眉を寄せて、
「いや……ちょっと、その──体調が悪いだけなんだ。」
大丈夫だと、──心配しないでくれと、そう血の気を無くしたように見える唇に笑みを刻んで、クリスはドッサリと背中から椅子に倒れこむ。
常のクリスならば、決してすることがない仕草に、ヒューゴは益々目元を厳しくさせて──クリスさんが「おかしい」とか、そういう次元の話じゃないじゃないか! と、怒りの対象を五騎士とルイスにぶつけながら、執務机に腰掛けるクリスの元へと足音も荒く近づく。
「体調が悪いって自覚してるんだったら、どうして仕事を途中で止めて、医務室にいったりとか、早めに寝たりとかしないんだよ!?」
クリスの間近にまで近づいて、ギッ、と睨みあげれば、クリスは青白い顔で──頼りない笑みを口元に浮かべて、フルリと緩く首を振る。
「いや、そこまでする物じゃないんだ。──理由は分かっている。だから、何も心配することはない。」
大丈夫だ、と、意固地になったように繰り返すクリスに、ヒューゴは眉間の皺を益々濃くする。
「なんだよ、ソレ。」
「……ヒューゴ?」
悔しげに、唇を噛み締める端から零せば、クリスが少し潤んだ瞳でヒューゴの顔を見上げてくる。
「……心配することないって──心配するに決まってるじゃないか……っ。」
「いや、だからこれは……その……私の自己管理不足で。」
苦く笑って──その笑みすらも、青白く儚げな様子を見せるクリスに、ヒューゴはカッとなって目元を怒りの色に赤く染めた。
「体調崩したのが誰のせいとか、そういう問題じゃなくって!」
あふれ出しそうな激情を無理矢理堪えて──グッ、と拳を握り締めて叫びながら……そうしないと、体調の悪そうなクリスの襟元を掴んで、揺さぶってしまいそうで。
「クリスさんが──好きな人が眼の前で苦しそうにしてるのに、なんで俺が平気だって思うわけっ!?
なんで俺が心配しないって……そう思うんだよっ!?」
ギュッ、と目を閉じて──なんで分かってくれないんだと、そんな思いを込めて叫ぶ。
やるせなさと、自分にすら甘えてはくれないのかと──ルイスは騎士たちが、ヒューゴにならクリスは甘えるのではないかと、そう思って託してくれたはずなのに。
なのに、クリスは結局、彼らにするように、「大丈夫だ」と繰り返すことしかしてくれない。
ふがいなさと、──やっぱり自分は、彼女にとって、頼りがいがない子供に過ぎないのかと。
そんな苛立ちを、眼の前の彼女にすべて叩き付けそうになるのを、これでも必死に堪えて叫んだというのに──なのに、眼の前の乙女ときたら
「…………す………………すすすす……っっ、好きな人って……ヒューゴ…………っ。」
青白かった顔を、一瞬で赤く染めて──、困ったように、はにかむように、視線をあからさまに辺りに漂わせてくれた。
「……反応するところが違うっ。」
あぁ……まったくもう──……っ!
ヒューゴは、苦虫を噛み潰したような顔で、グシャリと髪をかきあげると、そのままの動作でズイとクリスの顔に自分の顔を近づけた。
驚いて、椅子の上で顔を遠ざけようとするクリスの──羞恥に真っ赤に染まった整った容貌に、コツン、と額を当てる。
「熱、は……ないかな?」
「なな……ないっ! ない、けど……っ。」
突然のヒューゴの行動に、辺りにさまよわせていた視線をとっさに引き戻したクリスは、すぐに自分のその行動を後悔した。
眼の前には、伏せられたヒューゴの金色の睫毛──時々、キスの合間にこっそりと開いた目で見下ろした時の光景を思わせるソレに、クリスは自分の心臓がドクンと大きく脈打つのを感じた。
バクバクと激しく訴えはじめる心臓と、頬に集まる血液──特に、ヒューゴの額とくっついた自分の額が、早くも汗ばみ始めた気がして、
「ないけど……なに?」
伏せた睫毛がゆっくりとあがり──焦点が合わないほど間近から、ヒューゴの瞳が覗く。
その──初めて見る間近な距離に、ボンッ、と頭の中が飛び上がりそうになって、クリスは彼の視線から逃れるように、ギュ、と目を閉じて、フルリと緩くかぶりを振った。
その拍子に、ヒューゴとくっついた額が外れそうになって──その怖いくらいに熱い熱の元を取り払うのがイヤで、首を竦めるようにして顔を振るのをとめる。
「……けど──なんだか……熱が出てきそうだ…………。」
口の中に消えてしまうような声で──小さく、小さく呟けば。
その言葉に、ヒュ、と──ヒューゴが息を呑んだような気配がした。
何か言われると……馬鹿じゃないの、クリスさん、と、呆れたように言われるのだろうかと、微かなおびえを抱きながら、ソロリ、と閉じた目を開けば。
彼は、柔らかに破顔して笑っていた。
「……………………っ。」
その──無邪気というよりも、穏やかで、優しい……そんな微笑みに、息が詰まった。
ソロリと開いたはずの目が、大きく見開いた。
ヒューゴがそんなクリスに気付いて、はにかむように笑って──その目元が、かすかに赤く染まっていた。
「──クリスさん……かわいい。」
嬉しい、と。
好きだよ、と。
そう目と口調が語っているような気がして、クリスは軽く睨むようにしてヒューゴのその目を見上げた。
「かわいいなんて言われても、嬉しくないぞ。」
何せ私は、騎士団長なんだから。
そう、呟いた声はけれど、自分でも分かるほどに甘く拗ねた色を伴っていて。
額をくっつけたままの恋人は、そんなクリスに、嬉しそうに頷く。
「それに、すごく──綺麗。」
フ、とヒューゴの睫毛が伏せられた瞬間、同じように口元に小さな笑みを浮かべながら、瞳を伏せようとして────、
「……だっ……ダメだっ、ヒューゴっ!!!」
フイに、ズキン、と走った痛みに、クリスは現実を思い出して、慌ててヒューゴの肩を押しやる。
温もりを分け与えていた額が離され、ヒューゴは不満そうに顔をゆがめてクリスを見下ろす。
「クリスさん?」
──いや、不満、じゃない。
不安と、悲しみと……まるで捨てられた子犬のような眼差しに、うっ、とクリスの胸が大きな音を立ててきしむ。
けれど、今はそのヒューゴに流されてはいけない。
そう──これは、ヒューゴのためなのだ。
でも、クリスはそう分かっていても、ヒューゴまで分かっているわけではない。
現にヒューゴは、ひどく不安そうな眼差しで、クリスを見下ろしてきている。
慌ててクリスは、そんなヒューゴに向けて手を伸ばそうとして──けど、その手をキュと握り締めて、彼を見上げた。
「違う……っ、そうじゃなくて──イヤなわけじゃないんだ、ヒューゴ。
ただ、その──き、キス……したら、移る、から…………。」
「移る?」
不思議そうに目を瞬いて、首を傾げるヒューゴに、そうだ、と赤い色が灯った白い頬をキリリと引き締め、クリスは生真面目に頷く。
「ヒューゴに移ったら、どうやって責任を取ったらいいのか、分からなくなる……。」
キュ、と絞られた眉を見つめて、ヒューゴは益々不思議そうな顔になった。
移る、という言い方をするということは──、
「それじゃ、クリスさん。今から一緒に、医務室に行って薬を貰ってこようよ。」
クリスが体調の不良を訴える原因は、ただの、「夏風邪」か。
そう見当をつけて、ヒューゴはクリスから顔を離して、破顔して笑いかけた。
間近に見えるクリスの瞳を覗き込むのも好きだけど、少し離れて、彼女の整った美貌を見るのも好きだ。
今はその綺麗な白い肌がホンノリと赤く染まっていて──少しだけ艶っぽい。
「こんな締め切ったところで仕事なんかしてるから、夏風邪なんて引くんだよ、クリスさん。ちゃんと換気はして、それから水分も取らないと。」
ほら、汗が出てる。
そういいながら、指先でクリスの額ににじみ出ていた脂汗を拭うヒューゴに、今度はクリスがキョトンとして彼を見返す。
「夏風邪? ……いや、違うぞ、私はいたって健康だ。」
「その顔色で、まだそういうことを言うの、クリスさん?」
クリスの肩においていた左手で、彼女の蒼白な頬を撫でる。
その途端、クリスはビクリと肩を震わせて、ギュ、と秀麗な眉を寄せた。
思わず漏れそうになる声を堪えるように、グ、と奥歯を噛み締めたような気配がして、ヒューゴは顔を軽く顰めた。
「クリスさん?」
どうしたの? 頭痛がしたの? と、心配そうに伺うヒューゴに、クリスはヒューゴの手が触れていた頬に、そ、と自分の手を重ねた。
「……すまない……大丈夫だ。」
「でも──、涙目になってる。」
クリスの右頬に当てられた彼女の手の上から、左手を重ねようとして──ヒューゴは、先ほどのクリスの反応を思い出してその手を止めた。
代わりに、親指で彼女の目元に触れると、
「いや、本当に大丈夫なんだ。風邪でもない。」
クリスは手の平を頬に押し付けたまま、緩やかに首を振った。
「でも──今、移るって……?」
心配そうにクリスの目を覗き込むヒューゴに、クリスはなんとも言えない表情になって──それから、視線をさまよわせた後、
「…………が…………。」
「え? なに?」
「いや、だから──む……ば、ウィルス……、がな。」
「風邪ウィルスだろ?」
なぜか、話すたびに頬の辺りに赤みが増していく。
チラリとヒューゴの目を見る瞳が、潤んでいる。
クリスは、さまよわせていた視線をチラリとクリスに向けた後、視線を落す。
「……いや、その──、最近、ちょっと仕事が忙しくて、食事時間が不規則だったんだ……。」
ぼそぼそ、と早口に呟くのは、多分、そのことでルイスやサロメたちに毎日のように何かを言われ続けていた負い目があるのだろう。
このことで更にヒューゴに何かを言われたらたまらないとでも思っているのだろうか?
目元に走った赤い色が、ますます派手に赤くなるのを見て取り、ヒューゴは、おそるおそるクリスの手に自分の手を重ねる。
「クリスさん? 気分が悪いなら、医務室に行く?」
「いや、大丈夫。──本当に大丈夫なんだ。」
大丈夫だといいながら、目元の赤みは頬にまで染め広がってしまった。
「クリスさん……?」
「その──気分が悪いんじゃなくって……………………。」
チラリ、と伺うようにヒューゴを見上げて、クリスは赤くなった頬をさすりながら、
「は……がな。」
「はがな?」
「……痛いだけなんだ。」
この上もなく情けなさそうに──なおかつ、切なげに見上げてくるクリスに、
「…………………………………………クリスさん?」
眉を大きく顰めて、ジ、と見つめてくるヒューゴの視線に、堪えきれずクリスはギュと目を閉じた。
それから、ヒュゥ、と小さく深呼吸をして、息を整えたかと思うと、そろりと睫毛を震わせて瞳を開き、
「……呆れてるか?」
おずおずと問いかけるクリスの言葉に、ヒューゴはパチパチと目を瞬いてから、少し考えるように首をかしげる。
はがな、痛いだけなんだ。
はがな……、はが…………は………………歯???
「…………もしかしてクリスさん──虫歯…………、なの……?」
「うっ。」
呆然と目を見開いたヒューゴの言葉に、クリスは小さく詰まって、椅子の背もたれに身をすり寄せるようにしながら手の平で頬を押さえる。
「……情けないでしょう?」
目線を落として、クリスは苦い笑みを口元に刻み込む。
「情けないって言うか……、ビックリしてる。」
ヒューゴは、マジマジとクリスの顔を見つめて──それから、クリスの柔らかな唇に指先を当てた。
「痛い?」
「……すごく。」
コックリ、と頷くクリスに、込み上げてきた呆れの感情を堪えきれず、ヒューゴは小さく溜息を零す。
「なんでココまで我慢するんだよ、クリスさん…………。」
「いや、だってその──歯痛なら、我慢できるじゃないか。」
さすがに、頭痛や高熱なら、ココまで我慢せずに、仕事を切り上げて医者にかかった、と言外に告げるクリスに、どうだか、とヒューゴは怒ったような視線を向ける。
「できてないじゃないか。」
「う……いや、まさか……虫歯がココまで痛いなんて思わなかったんだ……。」
しかも、怪我の痛みなら我慢できるのに、なぜかこの痛みは我慢できなくて、集中もまるで出来ない。
「虫歯がどれくらい痛いかなんて、俺はなったことないから分からないけど──放っておいていいものじゃないって言うのは分かるよ。」
分かってしまえば、単純きわまりないどころか、逆に「な〜んだ……」と思うことだからこそ、クリスが口に出して言えなかったのだろうと推測することが出来た。
……と、推測は、できるけど。
「分かってる。」
「今日の仕事はソレでおしまいにして、医務室にいこう、クリスさん?」
コックリ、と神妙に頷くクリスに小さく笑いかけて、ヒューゴは彼女が頬を押さえている手の甲に、軽くキスをした。
ピクリッ、と肩が跳ねるクリスに、小さく笑いながら、
「それでクリスさん? どうしてキスはしちゃダメなの? 何が移るのさ?」
小首を傾げるようにして、ニッコリ笑って問いかければ、クリスは気分を害したように憮然としながら、
「いや、ウィルスが……キスしたら移るというだろう?」
「ウィルス?」
「ヒューゴは、虫歯になったことがないから、移したら大変だ。」
真顔で教えてくれる。
ヒューゴはその言葉に、──虫歯って、ウィルスで、移るものなのか? と、疑問を抱きはしたが、クリスのあまりに真剣な顔に、小さな笑みが込み上げてきた。
それでも、ココで笑ってしまえば、クリスの機嫌を損ねるのは分かっていたから、軽く首を傾けるようにしながら、
「それじゃ、クリスさん? 今日、俺が帰るときにサヨナラのキスをするから、それまでに治してよね?」
彼女が痛みを感じているだろう頬の反対側──左頬に素早く唇を寄せた。
触れた頬は柔らかくて、少しだけ熱を持っていて……名残惜しげに口を離せば、ヒューゴが口付けた左頬を撫でながら、クリスが複雑な表情で重々しくコクリと頷いてくれた。
「……分かってる。」
神妙な態度はやはり、自分が無理矢理我慢したおかげで、こういう状況になっているのは分かっているからだ。
そんなクリスに、ヒューゴはコックリと頷いて、目を細めて笑った。
無邪気な満開の笑みに、クリスもつられたように口元に笑みを乗せると──、すぐにその笑みをイタズラ気な色に染めて、
「それにね、ヒューゴ?」
間近にあるヒューゴの顔を覗きこんで──唇が触れそうなほど間近で、あでやかに微笑む。
思わず小さく息を呑んだヒューゴの、少しだけシャープになった気のする頬に手を当てて、
「私だって──、キス、したい。」
すみれ色の瞳を、ス、と細めて──それから、照れたように頬を赤く染める。
それから、フイに、キュ、と眉を寄せて、唇をヘの字に曲げる。
少しだけ伏せられた睫毛がかすかに震えていて、痛みを必死で堪えているように見えた。
「クリスさん……大丈夫? 歯、痛いの?」
おずおずと、クリスの右頬に指先を触れさせれば、クリスはそれを甘んじて受け入れながら、コクリと頷いて──少しの逡巡の後、かすかに触れるヒューゴの指に心持ち頬を預けるようにしながら、彼の頬に素早く唇を寄せた。
途端、ずきん、と頬の奥が痛むのに、奥歯を噛み締めて。
「だい、じょうぶ。」
少しだけ強張った笑みを浮かべて見せれば、ヒューゴは眉を絞ったまま、クリスの頬を指先で撫でた後、
「早く治しに行こう、クリスさん。
ちゃんと痛いの堪えたら──キスしてあげるから。」
目元を緩めて笑って言えば、憮然とした表情でクリスが痛みに潤んだ瞳でジロリと睨みつけてくる。
「……そんなご褒美を貰わないと、治さないような子供に見えるのか?」
「だってクリスさん、時々、俺よりも子供みたいだ。」
「……………………今度からは、ちゃんと──仕事の調整をする。」
クスクスとひそやかに笑っているつもりでも、これほど近ければその声は良く聞える。
クリスは、ムッとしながらも──「仕事が忙しい」という理由で、虫歯ごときほうっておいてもいいかと、思ってしまっていたのは自分の失態だ。
まさか、だって──ココまで痛くなって、気が散るものだとは思っても見なかったんだもの。少しの怪我くらいなら、痛みを散らすことだって「慣れてる」から、多少は大丈夫だと、そう思っていたのだけど。
熱い吐息を零して、先ほど手にした書類を一瞥するクリスに、ヒューゴはクリスの前から離れると、
「それじゃ、クリスさん。
俺、部屋で待ってるから、早く治療してきてよね?」
名残惜しげにクリスの頬をもう一度撫でてから、柔らかに笑う。
クリスはそんなヒューゴに、大きく頷こうとして──歯の痛みを思い出して、ぎこちなく小さく頷いて見せた。
「分かってるわ。」
それから、机の上の書類に素早くサインを済ますと、ツキツキと痛む頬に手の平を当てた。
ヒューゴが窓を閉めるのを横目にしながら、奥歯をかみ合わせながら顔を顰めて──、後少しの辛抱だと、そう自分に言い聞かせる。
虫歯がどれほど痛くても、ずっと我慢していたというのに──今は、一刻も早くこの痛みから解放されなくてはいけないと、強迫観念にも似た思いを抱いた。
だって──医務室に行って、治療をしてもらった後は。
あまい「ご褒美」を、用意してくれているから。
「……それこそ、虫歯がたくさん出来そうな気がするわね…………。」
そんなこと、ありえないと分かっていながら──甘い痛みに、幸せな気持ちが込み上げてくるのを止められなくて、クスクスと笑みを零して笑えば、
「クリスさん? 何やってるのさ?」
さっさと執務室の扉に向かっていたヒューゴが、不思議そうに問いかけてきた。
クリスはそんな彼を見返して、
「いや──なんでもない。
ただ、ようやくこの痛みから解放されると、そう思っただけだ。」
呆れたようなヒューゴの眼差しに向けて、涼やかな表情で、笑ってそう言った。
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かな様へささげる、バカップルなヒュークリ話
どれくらい経過したのか覚えてないのですが(涙)、キリリクありがとうございました!
じれったくて、アマアマで、なんだか進んでるような進んでいないようなヒュークリですが、まとめてドンと受け取ってくださいませ!
……っていうか、オチがアレか…………と。
どちらかというと、中ごろを書いてるときが一番楽しかったです。カンチガイ騎士たち万歳。
いつかそういう日が来たら、朝方まで皆で飲んで騒いでヤケになって噴水の中に飛び込んでくれたりとかしてくれると最高です(大笑)。
そんなわけで、いつものように、つたない作品となってしまいましたが、少しでも幸せな気持ちになってくださると幸いです。